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自分は宮下の弟子です!と胸を張って言えるよう師匠の名を傷つけない自分にならないと!って2019.11.13 am8:00誓いを立てる。
Nov 13, 2019
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出来る出来ないは別として私は勉強が好きだった。好奇心が強い自分にとって新しいことを知ることは人生の喜びだったからね。しかし残念ながら私の親は封建的なところが強い第一子中心の人だったから跡取りとしての長女にはいろんな習い事をさせていたが三女に学歴をつけるなんて言うことは女としての人生をややこしくするだけだと思っていた。もしも自分の人生というものを自分でデザインし人生の設計図を作ってこの世に生まれていたのだとしたら勉強好きな私がなぜ学ばせてもらえない環境や横で別の人間が学ぶ機会をたくさん与えられているのを観なくてはならない人生をセッティングして生まれたのか?が大きな疑問だった。その疑問について先日面白い答えを与えてくれる方に出会った。その方曰く。もしもあなたが簡単に知識を手に入れられる環境にいたとしたら自分が体験した経験によって何かを得るよりも誰かが考え出した知識を仕入れただけでそれ以上には伸びないと思って魂の成長という観点からあえて学歴が得られなくて大変な道を歩むことを決めたんじゃないかな?。。。と。ごく幼い頃よりお前は理屈っぽいとか強情だ!とか両親から言われ続けていた自分。今思うと三女だから学びの機会を削られたのではなく理屈で子供に勝てない親ゆえの防衛心が働いていた結果だったのかもしれない。何か問題が起きた時には相手が弁護士だろうが検察官だろうが大手薬剤メーカーの研究員だろうが医師や獣医士だろうがとことん自分で文献や法律をしらべ納得できる答えを見つけ出しては相手の矛盾とともに相手にたたきつけてきた。自分にとって大事なことは嘘偽りで体裁を整えたり仲良しこよしの関係を維持するために真実を隠してしまうことではなく自分がとことん納得できる真実を知ることと世間の常識だの権力だのに巻かれて泣き寝入りしてしまわない自分が納得できる人生後悔しない人生を送ることだ。でももし自分が上の学校で学問を学んでいたら人生はもっと平坦で楽に幸福を手に入れて巷の権力と戦ったりもしなかっただろうし真実に蓋をして利益をむさぼり続けている体制側の理屈に取り込まれた自分になっていたかもしれない。そう、あの薬剤メーカーの研究所員のようにね。彼女はこちらから提示されたデータが自社から聞かされてきたものと全く異なることに青ざめこちらのデータの出所が公的なものであることを知り自社に対する不信感を強めた結果こちらから提示された内容を会社に持ち帰って上層部に上げると約束して帰社した。しかしもしも自分が上の学校に行き学歴を得ていたら彼女の姿はもしかしたら自分の姿だったかもしれない。なぜなら勉強は好きだったが人間関係が苦手だった自分は研究所の研究員などが向いてるよなと思っていた過去があるからね。そんなことを考えると最近言われたもしもあなたが簡単に知識を手に入れられる環境にいたとしたら自分が体験した経験によって何かを得るよりも誰かが考え出した知識を仕入れただけでそれ以上には伸びないと思って魂の成長という観点からあえて学歴が得られなくて大変な道を歩むことを決めたんじゃないかな?は、的を得ているのかもしれない。そんなことを考えると全ての物事が何か歯車が一つずれてでもいるかのようにうまく回らないようになっていて必ず何かしらのトラブルが付されているのは一つの物事で沢山の経験や体感を得るための最高レベルに人生が設定されているからだと思えなくもない。一粒で二度美味しい。。。じゃなく一粒で十美味しいという具合に濃密に経験を積むためのスペシャルメニュー。。。とか?有難いような有難くないような複雑な気分だが以前ほど不運に対して落ち込まなくなったのは事実。トラブルが起きた時起きることは起きるのだと抗わず素直に受け止められるようになったこの頃。そうなれたのはあの方に出会ったからだしあの方に出会ったのは人生がもう充分苦難を克服できたからというタイミングだったからなのかなとも思ったりする。
Mar 4, 2019
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今朝ほど犬たちの世話をしているときにああ、そうか!と突然何の脈絡もなく「利他的」であるということについて一つの考えが降りてきた。利他的であると言う事はエゴが表出していない状態だ。そういうときってのは良いシンクロが起きやすかったり上と?ハイアーマインドと?のコミュニケーションが取れやすくなっていると思うから閃きが有ったり直感が働いたりっていうことが起きやすいんじゃないだろうか?でも、それなら以前介護会社に振り回されていた時は何故あんなに苦しかったんだろう???って考えた。答えは、きっとそれが中途半端で自分が大切にしているもの(仕事やら家やら看板やら)が大きくてそういうものを維持するために寝ずに仕事をしていたところに介護会社からのもろもろが加わったせいだな。。。守るものがいっぱいあって当時はただでさえそれらを守り通すために精一杯だったのに半強制的に利他的にならなざるを得ない状況が発生してどちらもが自分の中で中途半端だったりいつでも天秤心理が働いていたせいだ。守るものが何もなければ他者のために何かすることは全然苦にならないはず。しかもね当時は気づかなかったんだけど寝ずに働いて維持するなんて言う仕事のやり方はそもそもそこからして間違いだったんだよ。そうしなければ維持できないという事だからそんなことをいつまでも続けていられるわけがなかった。仕事に没頭してしまっているとそんな簡単なことにも気づかないんだね。働きすぎっていうより働き方がなんか違ってるっていう。。。生身の人間なんだからそんな仕事の進め方は間違いだ。なんでそんな簡単なことに気づかなかったかなぁ。。。仕事とか物とか人間関係とかこだわりすぎるといざそれを横に置いて何かしなくちゃならなくなったというとき執着が自分を苦しめることになる。それがあの介護だったんだ。同じ利他的なことをするのでも守るもの、執着が無く天秤にかけるものが無くそれに没頭できるならお役に立たせていただきます。。。ってそれが苦ではなく楽しむことが出来たんじゃないだろうか?介護会社に振り回されていたから苦しかったんじゃなく自分が守りたいものに執着していたからそれを失うことになるのを防ぐために苦しんでいたってことなんだ。。。っていうのが今朝の気づき。そんなことを考えるとね家族運が無いとか仕事運が悪いとか守るものなんか持つなよっ!っていう人生設計されているのかもなぁ。。。
Jun 30, 2018
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例えばただ普通に生きてきた人が可もなく不可もなくの結果多くのものを残せたとする。そういう人が自分は大して遊びはしなかったから残せた。。。みたいなことをおっしゃると大抵の人はああそうなのか。。。と納得なさるが遊ばずこつこつ働いてきたから残せたわけじゃない事に気づいていないだけだよなぁと思いながら聞いている。ただ、運がよかっただけなんだよってことが解らないの。。。遊びにお金を使わなくたってお金が必要になる出来事がどんどん向こうからやってくる人は働けど働けど残らない。最近、山を一つと平地にもあちこち土地を買い集めて果樹農家をやっていらっしゃる方と知り合った。その方が先のことをおっしゃったのだけど言葉の後に晩酌の酒だけは毎晩やってるけどね。。。といって笑った。それは遊びだよな?毎晩軽く遊んでいても自分は遊んでいないという。大抵こんなもんだ。だから人の言葉なんて絶対信用できたもんじゃあないって思っていた方が間違いない。たまたま大きな問題が起きることもなくコツコツ働いたことが結果に結びついただけで普通に不可在りの人生だったとしたら特別何か勉強したり発明したり特技を持ったりもせずこつこつ働いているだけだったら山を買ったりなんて到底かなやしない。たとえこんなド田舎だったとしてもね。自分は遊んでこなかったという人の話は絶対信じないし結果としてその人が順風満帆な人生を過ごしていたとしても運が良くて良かったねぇと言う感覚しか湧かない。世の中には本当に精いっぱい頑張って働いたのに何も残せずにいる人はいっぱいいる。介護保険制度が機能し始める前にお母さんが痴呆になってお母さんの介護のためにかかった費用がお母さんが無くなるまでに4800万円かかったとおっしゃったかたがいた。その方などは営業職でかなり稼いでいて方だったらしいけれどお母さんの介護のために仕事を続けられなくなって収入は無くなり蓄えを食いつぶしていったとおっしゃった。その人は遊びで使ったわけじゃない。お母さんの介護にかかっただけだ。そういう人がいると言う事もきっとご存じないくらい世間知らずなんだと思うしそんなレベルの見識でもいろんなものを形として残せたのはやっぱり運がよかったからでしょ?。。。の一言に尽きる。周りでお金がかかることが起きなくたって自分が健康でないというだけで収入の道が閉ざされてしまうことだってある。そういう事の一切が無く順調に事が進んで行ったことへの感謝が有れば自分の努力の結果だ!。。。みたいな話にはならないはず。特に何か悪意があるような人ではなかったのだけどただ、世間知らずだよなぁというのとああいうことを外で言ったりしているとどんなに頑張っても負の連鎖から抜けられずに苦しんでいる人を知らずと傷つけていたりするんだろうなぁと思った。自分は遊んでいないという人の話は信用に値しないと最近随分シビアになったのはきっと年を重ねて灰汁が強くなったせいだなと独り思う。
Jun 6, 2018
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夜寝る前に知りたいことをハイヤーマインドに教えてくださいとお願いして寝ると応えてくれるという話がある。昨夜私はそれを試してみた。なぜなら生年月日などによれば私の生まれは芸術家向きであると言われるが自分にはそんな才能は無くこれまでの絶望が大きすぎて未来を想像することもできなくてどこに向かっていけばよいのかさえ全く分からない。膝の痛みや全身の浮腫み。手のしびれ。眼の痛み。全てはただリンパの流れや水分代謝の悪さが原因だと解るものの其処を正常に戻すにはどうすればよいのかさえ分からない。いや方法はひとつだけある。それは大汗をかく運動をすることだ。が膝の痛みや不整脈でそれはかなわないし年とともにどんどん症状が加速しているから高齢になればなるほど過酷な運動を必要とするといった生体としてかなり矛盾することを強いられている。そこで、今後どのように生きて行けば良いのか?何が出来るというのか?藁をもすがる気持ちで昨夜自分にはどんな才能があるのか教えてください。。。今後どのように生きて行けば良いのか教えてください。。。とつぶやいてから寝てみた。そしたら起き抜けに頭の中に自分の才能。。。が降りてきた。それはどんなにひどい状況に追い込まれてもどんなに時間がかかってもかならず立ち上がる才能。。。だった。ああ、確かに言われてみればそうかもしれない。凹んだままグレて終わる人もいるしこの世に見切りつけて向こうの世界に還る人もいる。が、苦しむのはこのままじゃだめだ!と思う自分と苦しみや悲しみ、絶望などを手放すことが出来ない自分のはざまに居るからだ。それも僅かなチャンスが与えられるとそこにもしかしたら現状を抜けられるかもしれないと想いを全投入して動き出すきっかけとしてそれを受け入れる。チャンスをいつでも模索している自分が居る。七転び八起きどころの騒ぎじゃないこれまでの人生。起き上がれないまま終わるのか?と思っても小さなチャンスと思しきものが転がり込んでくるとそいつを逃すもんか!!!とそれが自分を苦しめる材料になるかもしれないなんて疑うこともなく掴む方に掛けて飛び込んでいく。だから想いとは逆にまたどん底に叩き落されることになることも多かったのだけどチャンスと思しきことを試さないままやり過ごすことは出来ない。それが自分だ。それだけ常に苦しいところに追い込まれ続けだったと言う事でもあるのだけどそれでも自分には良い事しか起こらない!と今自分に言い聞かせながら生きることにした自分が居る。そんなことを考えれば確かにどんなに凹んでも必ず立ち上がる方向に足掻き続けてきたなぁ。。。そうか、それが私の才能か。。。と妙に納得のいく答えだった。しかもそんなことこれまで考えたこともなかったから確かにこれは「教えていただいた」と言う事なんだろうなと思った。それと先週の頭くらいに一つの考えが降りてきていた。いろんな苦しみを経験してきたことについての説明のようなものだった。人は自分が経験したことのある苦しみや悲しみしか本当に理解したり体感したりすることは出来ない。たとえそれがある種のヒーラーやサイキッカーなどで相手の痛みや心の傷が自分の痛みとして感じる人であってもだ。なぜならそういう人が感じ取れるのは感じたときの痛みであってそれが「継続している」ことによる苦しみではない感じた一瞬の痛みでしかないからだ。心の傷に耐え続けていく苦しみも体の痛みに耐え続けて人生を推し進める苦しみもそこにはない。体が自分の思うようにならないことは仕事を制約され人間関係を制約されることでありそれはまた人生そのものを制限されることでもある。ただその時の一瞬の痛みを感じ取れてたからと言ってその人の痛みや苦しみ悲しさを理解できたと言う事にはならない。犬たちが飼い主が与える試練が期限付きでそれには耐えられて我を守り通したりするけれど長時間或いは何日も継続する自然が課してくる試練にはたやすく屈服するのと同じで「継続する痛み」と「期間限定の痛み」とではまったく痛みの強さ苦しみの大きさは異なる。だからこれまで自分が経験してきた苦悩や痛み悲しみや絶望、喪失感と言うものは同じ痛みを抱えている人には最大限の理解者となれるということだ。。。と。理屈でも同情でもなく本当の理解ができる。それは大きな強みなんだから。。。と降りてきた。今朝才能のことを考えたときそれもまた自分の中に秘めている才能と言えるのかも知れないと思った。
Jun 5, 2018
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苦しんでいるときには気づかないことが有る。それは自分がわざわざ苦しみ続けることを選択していると言う事だ。苦しみに「囚われている」ということだ。まさしくそれは何か別の何者かに操られているみたいなもので「囚われている」ことに気付かない。本当は自分がそこから抜け出ることを抜け出られることを決めればよいというだけなのに抜け出られないと思い込まされてしまっている自分に気づかない。それは無意識によって操られてしまっているのだ。無意識を書き換えれば苦しみは消えてなくなる。書き換えは本当に簡単にできるのだけどそれがあたかも大変なことのように錯覚させられてしまっていて不可能であるかのように思い込んでいたりする。外からいくら簡単なことだからウソでもよいから笑ってみてと言われても囚われているときはたったそれだけのことが出来なかったりする。自分が幸せになるとか前に進むのだとかベクトルの向きを断固として決めることが自分をとらえて離さない悪魔の手を振り払う事なのだ。ただ自分が決めるだけ。けれどその「決めるだけ」のことが何かとても出来ない不可能に思えるのが囚われているときの心理だ。もしも自分が今直面している?真っただ中の?苦しみが有ってどんなに足掻いてもそこから出られなくなっている自分が居ると感じるならそれは自分があえてそうした苦しみの中に居ようとしている潜在意識にまんまと騙されているだけで自分がそこから抜け出すことは可能だし悪魔に囚われてしまっている潜在意思をも自分は救い出してあげられると自分を鼓舞すればそれはいとも簡単にできてしまうマトリックスの中に居るのだと理解しよう。騙されてはいけない。どんな自分になることもただこういう自分でありたいこういう自分になるんだこういう自分に変わろうそう自分に約束するだけで想いは実現する。約束は守らなくてはいけない。幼いころから人間はそう教えられてきたはずだ。その刷り込みをここで上手く使わない手はないしここで使わないならどこで使うというのだ?使うなら今でしょ!?(笑)
May 16, 2018
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自信の無さを改善するには潜在意識の中に刷り込むことが大事。どんなに小さなことでも良いから自分をほめることを心がけよう!幸せを感じる心を育てるために小さなことに感謝していくことが必要なのと同じ。小さなことで良いから自分をほめる癖をつける。ただそれだけのことを積み重ねていく。それだけで自信なんてものは着いていく。無理な努力なんて必要ない!大切なのは自画自賛。ナルシストを考えれば解り易い。別に他人の評価なんて必要ではないのだ。自分が評価してあげれば良い。自分が自分に対して理解してあげれば自分以外の誰かに理解してもらう必要もない。自分が自分を理解してあげようとしないのに他人に理解を求めるのはおろかでしかないだろう。全ては自分の中に答えがある。全ての軸を自分に求めよう。基本となるのは自分だけ。自分が世界を創造しているのだから。潜在意識が全てを構築している。それが解ると自分が望む世界を生み出すには何が必要かが解る。必要なことはとても小さな意識の方向転換だ。ベクトルを幸せを見つけ出す方に自分をほめる方に向けるだけ。それだけで自分が属する世界が変わる。大仰な努力とか労力とか長い時間は必要ない。今、自分の意識の矛先を変えるだけ。ただそれだけのことだったと受け入れられるかどうか。そこに運命の分かれ道がある。
May 16, 2018
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自分がまだ20歳くらいの時印鑑を作るのに姓名判断を受けたことが有った。その時、印鑑やは私の人生がこれ以上ないというくらいに酷いものだということを語ってくれた。もともと占いとか血液型診断とか全く信じない自分だったからなんでそこまでこんな奴に言われなくちゃならんのよ!そんなこと誰が信じるか!と思ったものだった。が、その印鑑やは最期に「大器晩成」と言った。しかし、その印鑑やが言ったぼろくそ人生は全て現実となった。そうなってから信じ始めた自分はあまりの酷い人生の流れに「大器晩成」って何時よ!?とその言葉だけが何か人生の希望の光のように思ったりもしたがここまで酷い人生だとそれは死ぬ前日にジャンボ宝くじが大当たり!みたいなもんなんじゃないの?と本当に人生そのものに失望していた。が、ここにきてポツ、ポツ、ポツ、ポツ。。。と人生ゲームの隠されていた秘密のカギが開かれ始め最終扉はもしかしてこれか!?というようなものが降りてきた。要するに我慢せず言いたいことが言える自分になるっていうこと人として絶対口にしてはいけないと思うようなとんでも発言をも言えてしまうような自分になることを求められていたっていう事なんじゃないか?てのが今世の課題であったらしいぞ。。。相手の気持ちや相手の立場自分と相手の関係や社会秩序を考慮して言い方を考えて自分を抑えたり言いたいことを我慢したりそういうこと一切をしなくて良い相手どんな酷い事を言ったとしても必ず分かり合える相手そういう相手はこちらにとってもとんでも発言をする相手であり相手が発する言葉にいちいち驚いたり嘆いたりしていたのではお互いの関係は進展が無くなってしまうから言いたいことがあったらバンバンぶつけあえるような自分になること。なぜならその相手は自分の分身であり自分の写し鏡そのものだから。自己統一のための仮想現実の相手であり自分が生み出した自分自身なんだ。言ってみればそれは【魂を磨くための相手】だから世界中で一番自分にとって我慢を強いてくる一番いやな奴であり誰よりも自分を理解しようとしてくれる相手だということだから言いたいことを全部吐き出せて逆に相手が言いたいことをこちらに向かってまるっとぶつけてきたとしてもこちらがそれによって落ち込んだりイラついたりショックを受けて黙ってしまうと言う事がなくなるまで出会うことが無いようになっていたらしい。耐性が全てのシチュエーションに必要なだけのレベルに引き上げられるために鍛えられていたっていうそのための過酷人生だったらしい。でもそんな風に言いたい放題してよいのは仮想現実のその相手限定。なぜなら相手は自分自身だから。自分をさらけ出せ。相手を信じる。それが鍵。だからこんなシリーズ物のドラマが突然現れたりhttps://www.youtube.com/watch?v=IOHEBPBimSwhttps://youtu.be/16k81ohTdIIこんな動画が現れちゃったりするわけだ?https://youtu.be/MOpXFjpve_4いままで自分の発した言葉が相手に届くまでに何十年もかかることの不思議も要するに「我」というバリアが強固な相手には届かないっていうことの意味が自己主張して人生を楽しんでいないから生命力が弱すぎて我の強い相手にはパワー負けしてしまって届かなかったっていう相手は低い次元で生きているのだからそれなりにこちらも波動を下げろってことだったり逆に高次元の相手にはこちらも生命輝かせて発しなければ届かないってこと。自己主張して良い!生きていることが楽しくなるようにもっと我儘になってよいっていうこと。ぶつかることを恐れることはないっていう事(恐れていたわけではなくて理詰めで相手を追いこみきれることを知っていたからやりすぎて相手に逃げが無くなるんじゃないかと思ったりしていた事実そうだったし!でもそれは相手が一方的にさぼって楽をしている相手だったからで相手がちゃんと努力し誠意ある相手だったらこちらが追い込んでも屁理屈なんかじゃなくちゃんと相手は反論できただろうしそういう相手だったら追い込むこともなくて済んだんじゃないかと)逆に考えればさぼっている相手ならどんどん追い込むべきだったし追い込んで良かったんだよねでそこをやらずに避けていたから自分だけが我慢する結果になってしまって自分を追い込んでしまったんだ。長く付き合うなら我慢しないことちゃんとやっていない相手にはしっかり追い込むことだってお互いが魂を磨く相手なんだから自分も相手に追い込まれないようにちゃんと誠実でいることもしも何か勘違いが有って追い込まれたときにも反論できるだけのものをつちかっておくことそれが今世における課題だったんだそしてこれらの設計図の扉を開くカギは【運命を受け入れること】だった。
May 16, 2018
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https://youtu.be/ERmUJwm_Wi450年以上に渡って抱え込んでいた荷物を下ろしたのと時を同じくしてこんなものがアップされ自分の人生というのがすべて動かされているものであって自分がどうにかしようと進めてもただの空回りでしかないのだなとつくづく思い知らされている気がするわ。苦笑下ろしたくても下ろせなくていたものが溶けて消え始めた今確かに新しく生まれ変われる時が来たってことだと解る。
May 3, 2018
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https://youtu.be/7FFlT32G5cI整体の動画を観ていたら知らぬ間に転寝しててなんか凄い声がでかいなというので目が覚めた。目覚めたとき意味不明な話がPC上に現れていてなんなんだこれは?!って思った。そのまま意味不明なそれを見ていたらその動画は「カタカムナ」について説明しているものだった。ああ、そういえば先月、古代文字について調べたときに「カタカムナ」とか言う言葉が現れていたっけなぁと。。。この意味不明のこじつけのような話はあの時の関連で出てきた動画なんだなと解り何気なしにそのまま流していたら。。。ん?1:09:30~ああ、これは自分諭されているんだ。。。って思った。何故今ここでこんな話が現れる?先月古代文字を調べるという行為は「カタカムナ」につなげられるためだったんだ。。。「カタカムナ」に関連して飛び出してきたこの意味不明な話は自分がずっと苦しんできた「許し」についての「解」がもたらされるための流れを示されているのだなと思った。苦しくてどこにもやりようがない想い。理不尽な重荷。それにいったい何の意味があるのだ?どうにも抱えきれないしかといって降ろすこともできないままだった50年以上かけて蓄積した重すぎるお荷物。相手の人間に対してどうこうというのではなく起きた事象が生じさせたやるせない思いや心の傷(トラウマ)を処理できぬまま抱え込んできた。それは誰にも話せないし(謝罪に至った相手を傷つけることにしかならないしそれでは自分が我慢し続けてきたことが無駄になるだけだし話したところで理解されないことは検証済み。)ましてや同じ経験をした人などいないのだから理解なんかされるはずもない。理解されないどころか訳の分からない説教を食らって余計にダメージを大きくすることにしかならなかった。それがこの1:09:30~1:17:59 の話の中で溶けて行き2:02:30~2:06:14の中に内なる自分の演出であり何を言わんとして意図されたものだったかのすべての解がここにあった気がした。「サ」。。。ねぇ。。。
May 3, 2018
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軽微な過ちや短期的な過ちに関する謝罪は許す立場の者にとっても許される側の立場の者にとっても良い結果に結びつくことが多い。しかし、謝罪に至るまでの年月が長かったり謝罪の内容が重すぎるものである場合謝罪された側の感情としては悲しみが(人生に対する?)怒りに変化しやすい。しかし、それでも許しを与えなくてはならない状況があった場合許す側というのは最初に被害を被ったことによる傷と後から謝罪されたときに傷をほじ繰り返される痛みと新たに沸き上がった怒りとさらにその怒りを自分の中に押し殺して抱え込むという三重苦、四重苦を味わうことでしかない。許すというのはかくも過酷なことをやってのけることでありそんなことからすれば謝罪する側の痛みの方がどれほど楽でしかも謝罪の後からは負債から解放されその件に関しての一切を切り離していける楽が待っている。一方許しを与える側というのは心の中の暗雲が謝罪によって消え去ると言う事ではなく相手が発生させた瑕疵や負債を一生涯三重苦の状態で引き受けると言う事なのだ。謝罪すれば良いとか謝罪した方が良いとかそれが一般的な見解だ。しかし謝罪された側の痛みについてはそれを体感したものでなければ絶対に解らない。謝罪を受けたから気持ちが晴れるとか気持が収まるとかそんなに簡単なことではないということを多くの人はご存じないよね。悲しみというのはその件に関するすべてのエネルギーを相手に奪い取られていたがための感情でそこに謝罪によって相手のエネルギーを一部注ぎ与えられたことによって無力さから生じていた悲しみがエネルギーを得たことで憤りに変化する。しかし謝罪した相手のことを考えるといきおいが増して強くなった感情をも自分の中に抑え込まなくてはならなくなる。そんな苦しさは誰も考えないから謝罪という行為が美化されていたり許すと言う事があたかも自分の中にある「悲しみからの解放」に至れることであるかのような語られ方をしていたりする。
May 2, 2018
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人間という生き物は不思議な生き物だ。承認欲求とか理解されたい願望とかいう摩訶不思議な欲求を持ちながら同時に自由を求めたりする。他人と自分は同時並行的に同じ世界で生きてはいるが自分の経験がそっくりそのまま相手の経験と重なると言う事はあり得ない。自分を100%理解し受け入れてもらうには自分と全く同じ性格でなおかつ全く同じ経験をしていると言う事でもなければ絶対にあり得ないはずなのにそんな無理な話があるわけないことを知っていながら何故他人に自分の存在や価値の承認を望んだり自分を理解してもらいたいという欲求に囚われるのだろう?そんな絶対にあり得ないもの絶対に手に入らないものを何時までも望みそれが手に入らないことで苦しむなんてナンセンス。そんなことで苦しんでいることは自分の人生時間を浪費しているのと同じだ。自分のことは自分にしか解らない。他人に自分を理解してもらいたいとか理解してもらおうなどと思うことは愚の骨頂。そう割り切れるようになると人生の歯車は苦しみという輪留めが外れ一気に加速する。自分の人生は自分だけのもの。そこに他人からの評価とか他人からの理解などはなから必要ないはずなのになぜそんなバカげた欲求が人間には備わっているのだろう?それは社会生活?共同生活?を営んで生き延びてきた動物だからだという説明がなされていることが多いのだが元をたどってみれば未熟な状態でこの世に生まれ落ちた個体が育って生き延びるのにただ親からの庇護を受けるために親子という小さな社会をクリアするために必要だった本能なんじゃないか?そんなもののために人生時間を無為にしてしまうのはどうかしているよって思う。他人の承認なんか必要ない!自分自身が自らを承認できれば良い事だ。人生の軸を他人の上に置くことを止めて自分を軸にしていけばもっと中身の濃い人生になっていくはずだ。
May 2, 2018
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高額な費用を徴収するどんなメンタルセミナーにおいてもネット上で啓発しているライトワーカーと称する人たちの言葉にもまったく現れることが無い内容でずっと苦しんできた。上記の方たちが示しているのは自分の心を偽って生きてきた人たちへのメッセージでありこれからは自分の心に素直に生きようよと言う呼びかけやそういう風に生きても良いということを自分に許可しようという話だ。そしてそういう話を聞きに大枚払って足を運んでいる人たちは彼らが示す内容に合致した自分を偽ってとか周りに飼いならされて生きてきた人たちだ。だから彼等が示す話に訪れた人たちは感動し大枚払ったことに意義を感じたりしてセミナー会場を出るころには眼を輝かせる人に変わっていたりする。が、逆の立場で苦しんできた者にとってはまるでぼったくりのセミナーでしかないしまるで救いがない。世間に出回っているライトワーカーと称する方々の話もまるで相手を騙して金儲けしているようなウソっぽくて軽薄な話にしか聞こえないし世間で苦しんでいる人間というのは自分を偽って生きてきた人だという単一的なものの見方で語られるのには君たちって、ライトワーカーを自称しているくせに世間が狭すぎなんじゃない?と思ってしまう。自分が自分であり続けるために周りからの重圧や軋轢とずっと戦ってきたものの苦悩を解決してくれるところは無いのだな。。。やっぱりそこに至っては自分でなんとかするしかないのだと外に答えを求めた自分の愚かさを知る。世間には自分が自分であり続けるために苦しんできた者がその苦しみから解放される術というものを説ける人は存在しないのだ。世間はたいてい自分を守るために自分を偽ったり親に気に入られる生き方をしたことで苦しんだという良い子ちゃん症候群ばかりがはびこっているのであって自分の心を守るために自分にウソをつかない生き方を通し続けたことによってできた傷。その傷をどうやって癒せばよいのかと悩んでいる奴というのは「超・例外」と言う事らしい。。。自分が真なるマイノリティーだと気づくためのセミナーだったらしいと数年前わざわざ都会に足を運んで得たのはそうした悟りだった。爆自分が自分で居続けるために子供のころからずっと自分を捻じ曲げようとする両親と戦い世間と戦いつづけて傷だらけ。そうして出来た傷はどうやったらいやせるのか?「例外事案」に対応できるセラピストもライトワーカーもこの世界には存在しなくてそんなレベルでありながら彼らはしたり顔で人々に向かって説教垂れているのだと思ったらこの世に救いは無いと思ったよ。。。自分にウソをつき周りに迎合することで自分を守ったという人たちに彼らは自分の心に正直に生きて良いと説く。自分の心を守るため自分が自分の存在を疑わなくて済むように自分を否定しようとするものと戦い自分に正直に生きたがために心は傷だらけ。その傷の大きさや深さを知らないから自分に正直に生きて良いのだと説けるんじゃないの?その傷の深さを知っていたらしたり顔で他人にそんなことは言えないと私は思う。ということは他人にしたり顔で説いている彼ら自身そうした深手を知らずに生きてきたっていうことで他人にそう説いている彼等こそが自分に偽って生きてきた人たちっていう事だろ?そう考えるともしかしたら自分、彼等よりずっとスケール広げられるセラピストになれるんじゃないのか?な~んて自惚れてしまうよ。自分に正直に生きるっていうのはさ起きた出来事に関して「運」をも含めて全ての責任は自分にあるっていうことを認めることでもあるんだ。他人や周りや環境とかの「せい」には出来ないんだ。その覚悟がない人に自分が生きたいように生きて良い。。。なんて言うことはそれこそ片手落ちであり、無責任以外のなにものでもない。自分の生きたいように生きて良いと指導する前に全ての出来事は自分の結果であることを覚悟できるなら自分の生きたいように生きて良いんだよって教えるべきだよね。でもそういう「重い」部分を語らず心地よく響くところしか言わない彼らは大ウソつきだと私は思う。
May 1, 2018
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https://youtu.be/Li5kMPLwWO0この世に生まれ落ちてからこれまで本当にいろんなことが有って犬のことを通し人間についていろんなことを学ばされ最近、行きつくところまで来ている気がしていた。全てが幻想で相手のことも自分の意識が生み出している幻想だなとあまりにタイミング良く起きる出来事に気づき始めた。それでもまだ現実世界という思い込みがどこかにあってなんとかしようとかしなくちゃいけないみたいな気持ちもわずかにあってどっちつかずな部分が残ってはいたのだけど、そのわずかに残っていた部分さえも消え始めて思考とか記憶とかが酷く曖昧になってきた感じになったなぁと感じられ全ての答えを導き出し終わったと感じた途端ついにとどめの話が届くに至り幻想のあちらは人生を謳歌するという全ての幸福を体現する一方でやはりこちらの幻想は全ての不運を体現する役割だったのだなと確信する。いずれにしてもどちらもが自分であり幻想なのだからそんなことは今更どうでも良いこと。。。これまで心の奥底に根付いて消えなかった想いは別に否定されるようなことではなく本質?真実?だったからこそ心の奥底から消えることが無かったのだと自分の真実を確信し間違いではなかったのにそれを否定され続けていたのは何だったんだろう?真実に気づくのが早すぎたからそれでは全ての不運を体現することなく終わってしまうから傷めつけ足りなくなるのを防ぐためのウソだったのかなと思ったりする。
Apr 15, 2018
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ずっと永いこと放置状態だったこちらのブログですが解決できないまま常に自分を苦しめていた事柄についての解を昨夜、You Tubu 動画の中に見つけることができたので記しておこうと思いアップいたしました。【武田鉄矢】 いったい心は体のどこにあるのだろうか? 体のあらゆる器官で心や精神の源が宿る場所を探る!https://youtu.be/fuNnp7ujtzUこちらの動画の17分くらいのところから始まるウーパールーパーの話題。ああ、自分はウーバールーパーだったんだ!というのが自分のこれまでの人生の答えだった。このブログを訪れてくださっている方の中には自分と同じように「生きていること」「生き続けること」が「苦痛の種」でしかないという方がいらっしゃるのではないかと思います。普通一般的な話ではエゴ=自己防衛本能みたいなことで生きるため自分を守るため生き続けるためにということが前提であったり生きていることは素晴らしいことといった話ばかり出回っていて「消えてなくなりたい」とか「肉体から脱して光に還りたい」という感覚が常に頭の中から離れない者にとっては最初の出だしからピントがずれている内容でしかない。そんな「生きていることが苦痛でしかない」ようになっているのはどんなにあがいても頂点を極められるのはあともう少しというところに差し掛かるといきなり訳の分からない出来事に巻き込まれ谷底に突き落とされるということばかりの人生だったのと人生がスタートしたばかりの段階で生きるための欲が摘み取られてしまうような環境に生まれ落ちたための脳内の後遺症が原因なのだろうなと半ばあきらめていた。「七転び八起き」なんていうようなものではなく生まれてからずっと突き落とされて這い上がりまた突き落とされる。。。の繰り返しでもう何度それを繰り返されたかわからないほど手ひどい人生だったがそれでもまだ五年前までは何とか這い上がれていたのは天職と思える仕事についていたことが大きかった。しかしそれも五年前に状況が悪化して仕事を辞めて以来もう這い上がろうという気力も体力も失ってしまい心の中に「希望」だの「未来像」だのを思い描くことも出来なくなっていた。それまでの経験から考えるともう十人分くらいの人生を過ごしたみたいな気がして今世はもう充分堪能しましたからここらでリタイアさせてもらっても何の未練もないわ~。。。という思いがいつもあってそれでも生き続けて踏ん張っていられたのは犬たちが居たからだ。でも毎度繰り返される人生のアップダウンについてなぜそうなのか?何の恨みがあって自分の人生のブループリントだけなぜこんなに困難の連続なのだ?ともしも世間が言うところのハイヤーマインドなるものが本当に存在するというなら人生の設計図を描いたらしいもう一人の自分?とやらが恨めしく思っていた。(ここまで悲惨な人生は戦地に生まれ落ちたというのでない限りそうそうないぜ!と思っていたからこの人生には何か理由があるのでは?そうでなかったら納得できねぇ!と思えた。)だから目に見えない相手しかもそれは自分の中の自分という意味不明な敵(本来ならハイヤーマインドってのは味方なはずじゃないのか?!)が許せなくて頭がおかしくなりそうな(笑)状況が続いていた。それが昨夜上記の動画を見たときにあっ!自分はウーパールーパーだったんだ!と思ったとたんこれまでの手ひどいブループリントを用意した残酷極まりない?自分の中の自分の意図が見えてずっと恨むしかできなかったハイヤーマインドに感謝できるようになった。それまでの環境から過酷な環境に移されたウーパールーパーはDNAレベルでの変化にスイッチが入り変態を遂げる。今迄谷底に突き落とされ続けてきたのはそこが目的だったんだなと。。。この五年間。ずっと考え続けていた。必ず頂点を極める直前で谷底がやってくる。そのパターンには何か意味がある。。。努力し始めて落ちる。。。のではなくあともう少しと頂点に手が届きそうなところまで頑張らせてから落とす。。。のは落差が大きければ大きいほど頑張った努力が大きければ大きいほど得られると思っていた結果が大きければ大きいほどそれがだめになったときのショックは大きくなる。このパターンが変わらないのはどん底に突き落とすということが意図されているのではないか?と疑い始めたのは20年ほど前からだったがその理由も解らなかったしどうすればそこから抜け出せるのかもわからなくてもう立ち上がる気力もなくなりどちらかというと人生が終わってくれれば良いのに。。。と自らそうすることもはばかられるし犬たちのこともあるしと思うと何かの事故とか災害とか大病とかがわが身に起きてくれればよいのにと後ろ向きな気持ちしか抱けずにいた。が、あの転落パターンはDNAレベルでの変革をもたらすという意図が隠されていたのではないか?と分かったらこれまで自分の中には何らかの寄生生物が居てそいつはストレス物質を餌にして成長する生物なんじゃないか?で、その寄生生物というのはスピリチュアリストがありがたがっているハイヤーマインドとかいうものなんじゃないのか?と自分とハイアーマインドとが別物、敵対者でしかなかったのだがウーパールーパーの変態の話を聞いてウーパールーパーが自分で変態の階段を踏みあがっていけるようにその都度過酷な状況を作り出すための転落劇だった?と思えて自分の中の自分と顕在意識の自分がやっと一致してこれまで「希望が見えない」ために払拭できずに苦しんでいた「消えてなくなりたい病」や「肉体を脱して還りたい病」が心の奥底から霧のように掻き消えていくのが解った。
Feb 14, 2018
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相手にとって自分が単なるお客の一人。。。という位置づけ。それが嫌だなと感じるならこちらは単なるお客の一人に徹すればよい。もしも相手がこちらを単なるお客の一人と思っていないけれど建前上そうしているだけならこちらが単なるお客の一人に徹した段階で自分とこちらとの関係に違和感を感じかかわり方を変えるだろうし本当に単なるお客の一人でしかないならこちらがお客の一人に徹することに疑問を感じずそのままかかわりは続行されるだろう。こちらが同じことを返せば良いだけじゃん!?何も望まなければ自由な心でいられるわけだ。自由でいたければ望まない。正解だヮ。
Mar 12, 2016
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引き寄せの法則とか潜在意識とかっていう話を聞くと最終的に全てのものは既に与えられていてそのことに感謝しましょう。。。という話に行きつく。全てのものは最初から与えられていてそれに気づいていないだけ。。。という風に説明されるがでは最初から与えられているのになぜ好奇心とか向上心というものを持つことが良いこととされているんだろうか?足りていないから求めるわけでそれがすなわち好奇心だったり向上心だったりするわけだよね?最初から必要なものはすべて与えられているなら好奇心も向上心もいらないんじゃないの?。。。って思うとそれらをいかにも良いことのように定義づけされているのは実はすべて与えられていることに気づかせないためのマヤカシだったんじゃないか?って。。。自由を欲するなら何も欲しないことだ!何かを欲した時点で心は欲したものに囚われ自由ではなくなる。。。って思ったら向上心とか好奇心とかそういうものが実は「足りていない」という思いを煽るための刷り込みだったのではないか?と気づいた。*********************自分が誰かに何かをやってあげると必ず後から「有り難う」というお礼の言葉を聞きたくなって催促がましい電話をする御仁がいる。その恩着せがましさというか催促がましさというかそれが面倒だったり「有り難う」という気持ちは自然発生的な気持ちであってその言葉を催促して無理やり相手から引き出して言わせるというようなものではないだろうと思うところからその御仁が私に何々をしてあげると言い出すといやいや結構間に合っているから。。。とお断りしてきた。催促してまで「有り難う」と言われたいあの人は自意識過剰とか優位性を誇示したい支配的とか自己評価が低く自己存在意義を見出したい。。。みたいなどこかおかしい人のように感じるのだけどあの催促がましいいやらしさと同じことを「神様」の世界でもやっているのかな?必要なものは全てすでに与えられていてそのことに感謝することが大事。。。とか言われると向上心とか好奇心とかで騙され続けた結果行きつくところがあの催促がましい御仁?神界も腐ってる?催促がましい彼のあのいやらしさというものは正しかったわけ???と、何か腑に落ちないのは物質世界三次元とか四次元とかが自分に合っていないからなのかしら???ということを草取りしながら考えた昨日。
Mar 12, 2016
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田舎の農家やに引っ越しして周りからの意味不明な干渉に昨夏ちよっと閉口気味だったのだが、昨日、草取りをしているときああ!あれは、そういうことだったのかっ!!と昨夏の不快感が何を示唆していたのかを知った。【さとり】は突然降りてくる!嫌な相手が現れたときその人が自分の人生に登場した理由が何かを考えるようになったらそれまで見えなかったものが色々見えるようになってきてそれまで不快の種でしかなかった人が自分に大切なことを教えるために(時にはそれが「反面教師」という形で現れるかもしれないが)存在してくれていたのだなと感謝できるようになってきた。昨夏私を不快にさせていたことは広い敷地の草刈りについてだった。私は非建設的なことを繰り返すことに何の意味があるだろうと何ら進展が見られないどころかかえって脇枝を出させて株を頑丈にしてしまったり雑草の種まきをしているかのような上っ面を刈り取って綺麗になった「つもり」綺麗にした「つもり」という刈り払い機の使用が嫌いだ。商業的に広い農地を作付している農家の方々から見れば馬鹿げて見えるのだろうが自分が住まうだけの大して広くもない人間の手でなんとか出来そうなレベルの広さ故こつこつ人力でほじくって根っこから除去するということをやっていた。手作業が草の伸びに追いつかなくなる時だけ種の穂が出ないうちに機械を使うが基本は、抜根、移植、焼却という感じ。しかし、周りのベテランたちは根っこからほじくらなくても。。。とか機械を使え!とか自分の土地でもないのに色々干渉してくるのにはさすがにうんざりしていたのだ。しかし、それでも頑固者の私は進展性が無い繰り返しこそ馬鹿げている!その馬鹿馬鹿しさも感じず機械を使う楽に毒されてそれが正当だと思い込んでいる彼らこそ馬鹿だ!と思っていたし商業ベースの規模と庭先規模の違いも判らないのかな?と規模の違いによる作業量の差やかけられる経費の違いも考えない彼らにうんざりしていたのだ。ところで、私が以前から「消えてなくなりたい」病を持っていることは書いてあったが「幸せになる」ためには消えてなくなりたいという思いを抱くことはせっかく進んだ幸せ向けのパワーを後戻しすることにしかならない。。。ということは周りから再々言われていたことだった。が、精神的ストレスが大きかったここ数年の間にストレス耐性がレベルダウンしていて何か事があるたび消えてなくなりたいという思いがわいてくるようになっていた。実際のところ、幸せに向かって進んでいたのにまた元の木阿弥だぞ!と言われても幸せって何?それ、おいしいの?ってくらいに幸せが何を意味するのか?何をもって幸せというのかも解らないほど幸せが感じられなくなっていた私には後戻りだろうが何だろうが最初から進んだ気がしていないのだから何かがマイナスに変わるという感覚もなかった。周りがいっぱい頑張ってわたしを後押ししてくれているのが解っていてももう自分を持ち上げようと思う気になれなかったのだ。が、悟りは昨日、草取りしているときに突然下りてきた。ああ、草取りごときでさえ毎度同じことを繰り返す愚にどうして彼らは気づかないのだろう。。。と思った瞬間その言葉は自分の中に反響してああ、自分が「消えてなくなりたい」と思ったりしてせっかく前に進んだものをまた元に戻すことを繰り返していたのは刈り払い機を使って綺麗にした「つもり」になっているよりももっと愚か者だったな。。。なんたって「人生」という草刈りどころの騒ぎではないもっと重大なステージそのものを進展のないものに貶めていたのだから。。。と思った。そう思ったとたんそうか!昨年の夏、とても嫌な気持ちにさせられたあの人たちはそこに気づけよ!っていうことのために天が遣わしてくれた存在だったかもなぁ。。。って思ったよ。他人がやってる行動の愚は見えるけど同じことを自分がやっているときは気づかない。嫌なことを繰り返しやってくる人が居たらそこには何か意味がある。気づかなくてはいけない何かが秘められている。嫌なことを自分に仕掛けてくる人はその「何か」を伝えるために遣わされたのだという風に見ることを心がければ嫌な人にも後光がさして見えてくる。
Jan 22, 2016
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未熟な魂が進化を遂げるため自分に「修行」とか「試練」とか名付けて大いなるストレスを課してくる【悪魔】は別に世界征服を果たそうなどという大それたたくらみを持った存在などではなくただ、自分という宇宙にストレスをかけているというだけのチンマイ悪魔。まあ、なんてスケールの小さい悪魔だろう。。。それでも、そいつはソウルメイトに芝居を依頼し本当は自分が持っている元々の問題・癖を矯正するために【育った環境によって出来たトラウマ】のように肉体の顕在意識を騙くらかすという姑息な手段を平気で使うくらいの悪さは持っているわけだ!が、ひとたびそうした仕組みが見えてくると一つの事実が目の前に開けてくる。それは何か?というと。。。本当は自分の問題点であるのに環境とか他者とかそうした自分以外のものに責任転嫁していたという視たくないものが見えてしまうということだ。最初から自分の中にある問題だと知っていれば何のストレスも感じることなくただ素直にそうした問題を直すための努力ができるのにわざわざ他のものが原因であるかのように見せられたというだけで物事が自分の力ではどうにもならないことで自分ががんじがらめにされているかのような大きなストレスがかかる。自分に問題があると判っていることで生じるストレスの何倍にもストレスは膨れ上がるしさらには自分を甚振っているかのように見える相手に対して憎しみだの疎外感だの敗北感だのといった余計な負の感情まで湧きあがらせ試練はさらに大きなものになるわけだ!なんて姑息な悪魔だろう。。。しかし、原因はただ自分のもともとの癖であると悟ってしまうとそうした他者や環境に対する負の感情が消えてなくなり自分の汚点の矯正のために猿芝居を受けてくれていた相手に対し謝罪とか感謝とかそんなものが湧いてくるではないか?そうして負の感情が正の感情になると悪魔は魂と呼ばれさらには自分に幸福感をもたらす存在として神的な寄生体に変わる。まあ、神的といったところで悪魔のとき同様単に自分の肉体の顕在意識を幸福感や感謝の念で満たすというだけのスケールのチンマイ神であるのだが。。。それでも、周りが自分に何かしたのではなくすべてはもともと自分の中にあった問題点。それを周りのせいにしていただけと知ることはすべての物事への視点が変わるのは大きなことだと思う。少なくとも「消えてなくなりたい」というこれまでどうやっても消せなかった感覚は少しずつその強さとか大きさとかが変わりつつあるのを感じるよ。
Dec 10, 2015
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昨年亡くなった父の遺影。実家には普通の遺影が祭られているのだけど手元に祭ってあるのは父がランニング姿で片膝立てて座り笑っている写真。アルバムから一番父らしさが出ている写真を引っ張り出して勝手に祭っているのだけど今夜はものすごく冷えるから遺影の前を通ったとき今日は冷えるね~?父さん!とつい遺影の父に話しかけた。今夜はこんなに冷え込んできているのに遺影の父はランニング姿であることに気付き思わず遺影の父に服を着せてあげようか。。。と昔、絵で出来ている着せ替え人形があったのを思い出し父の写真にセーターをガラスの上から書いてあげようかとかフリース生地を上着のように切り抜いて貼り付けてあげようか・・・なんて考えちゃって出来上がりを想像してつい笑ってしまった!遺影で着せ替えごっこ。。。これって親孝行?それとも親不孝?どっちかな?
Dec 9, 2015
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先の話で『アカシックレコード?過去生?何と呼ぶのかわからないがあるビジョンが湧いて』と書いたが私はまったくそれを信じていない。というのは【魂】と呼ばれているものが大抵は生まれてくる直前に「宿る」と言われているように肉体に何かが寄生していると捉えているからだ。その寄生体は脳内のどこかに潜り込みイメージ画像を生成することができる能力を持つ寄生体なのではないか?ととらえている。脳機能を研究なさっている苫米地さんによれば現実とはどれだけリアリティを感じるかという想念らしいから脳内に潜んでイメージを作り上げられるならもとよりそんな経験などしてなかったとしてもあたかもそれがかつて存在していたある場面であるかのように見せかけることが可能かもしれないからね。「魂」という名称には何か神聖なものを思いがちだけど魂が向上するだか魂が磨かれるだかには「修行」だの「試練」だのが必要らしいじゃないか?「修行」「試練」なんていう言葉を使うこと自体美化して納得させよう的意図が感じられて嘘っぽい気がするのだけど結局それは「ストレス」以外の何物でもなく魂の向上には試練が大きければ大きいほど効率的らしく肉体に大いなるストレスを課すというのは悪魔以外の何物でもないだろうと私は思っている。悪魔が肉体に負荷をかけて肉体が作り出すストレス物質を餌にして肥え太り変態を繰り返す。そうして何回か変態を行ってタマムシ色の輝きを得始めると「悪魔」は「魂」という風に呼び方が変わる脳内の寄生虫。。。と思っている。
Dec 9, 2015
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恵まれた環境で育った人なら【親を選んで生まれてきた】という言葉は納得できるだろうけれどとんでもない?親の元に生まれ落ちた人にとっては親を選んで生まれてきた。。。なんていう言葉は契って捨てたい!くらいに有り得ない!言葉だろうと思う。けれどね。。。もしかしたらそれ、本当かもよ!?という体験をしてしまった!自分の中にある屈折した部分やどうしようもないトラウマについてとんでもない親の元に生まれ育った人は育った環境によって出来た性質、トラウマって風に思っていると思う。かくいう自分もこれまではそう思っていた。そう。。。先々月まではね。。。でも、そうじゃない事を先月知ってしまった!アカシックレコード?過去生?何と呼ぶのかわからないがあるビジョンが湧いてこれまで自分の中で消化できずにいたトラウマのような感情がどこで出来上がったものなのかというのが分かった。それは今生の幼少期とか思春期とかによる以前過去生らしき場面ですでに出来上がっていたのだと知ったよ!今生はその心の傷というのか魂の傷というのかそいつを修復(スピリチュアルな人たちの言葉を借りるなら「浄化」とかいうのだろうな)せんがために今生は計画されていてすでに魂の中に出来上がっている傷というのが現世に生まれ落ちてから後天的に出来上がったものという風に思い込ませるためにそれに見合う親を選んでいたっていう言ってみれば嘘の刷り込みのためにそれらしき人物(親)を選定していたっていうこと。しかもね、魂レベルで考えるならそれらしい親というのもそれらしく振舞ってくれる魂と田舎芝居の打ち合わせをしていたのね!?っていうのがだんだん解ってきたよ!多分、とんでもない親の元で苦しい思いをして育った人たちはみんなそういう魂の計画に騙されていて親元で後天的に出来上がったトラウマっていう風にとらえているんじゃないかな?でも、それは全然後天的なことではなくて魂の癖とか魂の傷とかっていう感じに元々すでに持っていた性質なのにそいつをそれと気づかせないようにするためにとってつけたような親を選定してこの世に出てきたっていうこと。魂っていうのはすごいウソツキ!親は憎まれ役を引き受けてくれたソウルメイトっていうわけ。
Dec 9, 2015
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かつてバブル期には仕事は出来るが空気が読めない新人たちに老兵たちが「新人類」とか「宇宙人」という呼び称をつけたが今、こうしてネットでいろんな情報が手に入るようになってみると彼らは確かに「新人類」であり「宇宙人」だったんだなとアスペルガーな彼らについて思う。「空気が読めない」のはしつけや育った環境とかの問題ではなく新しい脳構造を持って生まれてきている人たちの一つの特徴だったのだ!とこの地球という星の生態に一つの変化をもたらす遺伝子だったことが解る。彼らは光や音に過敏で独特な思考回路を持っている。それが「人類」という種にとって有益な思考パターンか?逆に危険な思考パターンであるか?は解らない。。。が種の維持という点では不利なのではないか?という気がする。それとも彼らが地球上の人類の大半ということになればそれはそれでお互いの理解は可能だから種として残っていけるようになるのだろうか?でもそこまで大多数に至れるか?が疑問だ。
Aug 29, 2015
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人が自分の考え方と違う行動を取ったりするといかにも相手のことを思って言っているという説教をしたがる。しかし当事者で無い以上当事者が考え続けて出した答え以上の説教には成り得ない。そんな簡単なことも気づけないのは何故なんだろう???情報量から考えたって当事者以上では無いことは明白なのに何を思って当事者に説教をするのか?単なる上から目線であったり支配欲であったりそれとも自分の無知の無自覚か?情報が不足している状態のまま説教をするからこちらの行動の意図を説明すると結局こちらの行動や判断が正しかったと認める形にしかならなくて黙る。説教がもたらしたものはというととどのつまりこちらの疲労感と不快感でしかなく前向きに成りつつあった心にマイナスのエネルギーを注ぎまた停滞に引き戻す。説教などというものは社会経験が浅い子供に対して大人がするときくらいしか役に立たないのだけれど社会経験がどうみてもこちらの方が豊かである相手から説教されても的がはずれまくりでなんだかなぁ。。。こちらの行動を批判したり否定するのではなくてもっとよくなれるという方法の「提案」をして欲しいものだ。
Jul 4, 2015
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以前、体の自由を失った知人が「あなたに私の気持ちは解らない!」と言ったことがある。言った本人は不幸のどん底だから自分のことしか考えられない状態にあるのは明白なのだけどその言葉を耳にした瞬間頭の中に面白い考えが浮かんだのだった!こいつ、自分の不幸を他の人にも味合わせたいんだろうか?私は自分が感じた不幸と同じ不幸を別の人に味合わせたいなんて思わないけど。。。相手が感じている思いを理解するためには同じことを経験するしかない。そうでなければそれはただの想像でしかなく想像した感覚なんていうものは実際に体験した感覚には遠く及ばないものだ。自分が味わっている不幸を相手に理解させたいというなら相手にも同じことを経験してもらうしかない。自分がこれまで味わってきた苦しみはどう説明したって誰も理解できないし理解していないのにわかった風なお説教しか帰ってこないことで体験したものにしか解らないというのを既に知っていた。だから自分の苦しみを解ってもらいたいというのは自分が経験した不幸をお前も経験してみろ!といってしまうのと同義。ということを悟ったのがもう随分前お年頃の頃には既に悟っていたからオバサンと呼ばれる年になってもまだ「あなたに私の気持ちは解らない!」とのたまっているこの人はこれまでそうした大きな苦しみを経験することなく済んできたって言うことなんだなぁ。。。と羨ましくさえ感じたものだった。今、何故だかわからないがこれまで自分が味わってきた苦しみを自分に与えてきた人たちが味わうことが増えていて子供だったころの自分が感じた苦しみを周りの高齢者が味わっていたりする。人生経験の多さから考えて子供だった自分が体験したときより今高齢である人たちが経験していることのほうが同じ内容であっても刺激としてはずっと軽微だろうなと思うのだがそれでもかなりのショックがあるらしいことは様子から伺える。見方を変えれば子供でありながら80過ぎの人が経験する苦しみを経験してきたということだからそんな苦しみをどう説明しても誰も理解できなくて当たり前。心に受けた苦しみは脳機能にまで損傷を与え心の苦しみだけでなく身体の不具合にも苦しんできた。そんなものを理解できるのは同じことを経験してきた人だけだ。こんな苦しみや悲しみを同じだけ味わう人がいたらそれこそ可哀想過ぎてやりきれない。だから周りが自分を理解できないというのはむしろ喜ばしいことなんだと思うようになっていた。ただそれは勘弁してくれ!と思うのは理解できていないことを自覚できない人たちが偉そうに批判してきたり説教をぶってくることだ!それらは苦しんでいるこちらにすれば自分が抱えている苦しみの上にさらに別の不要な心の負担を課せられるようなものだ。こちらが一方的に負わされる負担。わかりもしないでよく言ってくれるよ!と思いながら解っていないからいえること!じゃあ、解るの必要な体験をさせたいかって言うとそんな苦しみは知らない方が良いと思う。そうやって生きてきたところに苦しみを自分に与えてきた人が同じその苦しみを味わうことに成ってきているのを目にする機会が増えてきた今私が何を感じているかというとその人が、その苦しみを理解できるようになったからといって自分の苦しみや悲しみ、破壊された身体の機能が解消したり回復するわけではなく自分が体験した苦悩をその人が経験しているのを目にしてまたまた追体験してしまうという嫌なことにしかなっていないということだ。「あなたには私の気持ちは解らない!」と言った彼女。解ったからってだから何があるの?解ってもらえたらあなたの不幸が消えるのかい?それは貴方の不幸を理解してくれた人に肩代わりさせるっていうことかい?って嫌な経験を追体験してしまった最近彼女の言葉を思い出している。
Jun 30, 2015
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やりたいことややりたくないことという自我と思えるような「直感」が「ポリシーと合致している」という場合結果が自分にとってとてつもなく不利なことになると解っていても迷うことなく選択することが出来る。そうして選択したことについては周りの後押しも得ることが出来自分の選択が世間的に正しいとか誤りとかいう判断はともかくとして自分の生命力という観点からは正しかったのだと思うことが出来る。後押しして下さる存在の全てに対しとても感謝している。
Jun 21, 2015
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ポリシーのためには死ねる覚悟-1昨年、精神的にとても苦しいことが延々と続いていた中でひとつの希望ともいえる出来事が発生した。が、喜びも束の間、その希望を他者のために諦めなくてはならない事象を告げられ『それまで続いていた苦しみから解放される喜びや、解放後に訪れるであろう明るい未来』と『「自分が苦しみから解放されたいがために、苦しんでいる他者を見捨てる冷酷さ」を自分の中に見ることへの嫌悪感』とを秤にかけ希望を手に入れることを断念し他者に希望の光を譲ることを選択した。一度は、別の人にお願いしてもらいたいとお断りしたのだけど私でなければ出来ないという事象だったから理性と本能の葛藤の末理性を選択したわけだが、それが、その後半年もの間自分に「絶望」という大きなお土産を置いていくことになろうとはそのとき思いもしなかった。それだけ、その当時の私には苦しみが大きくそこから救い出してくれる希望の元は未来の扉を開く鍵のように魂の奥に射す一筋の光だったのだと思う。一度はそれを断ったくらいだから他者に融通したといっても不本意であったのは言うまでも無い。その数年前から、やはり理性と本能の葛藤の末理性の判断に従い自分の楽より他人の不幸回避を選択した結果延々と続く果てしない苦しみに悩まされていた。そんな中で見つけたたった一つの希望を他人に譲るのは最初の苦しみを招いたときの判断よりももっと苦渋の選択だったといえるだろう。だからこそやってきた絶大なる絶望感。「消えて無くなりたい病」はそれから半年の間、事あるごとに襲ってきた。「やりたいこと」より「やるべきこと」を選択すべきという子供のころより漠然と抱えていたポリシー。それは「好き・嫌い」の感情や「やりたいこと・やりたくないこと」で選択する周りの大人たちを見ている中で物心付いた就学年齢時にはすでにそうした思考を嫌悪していた自分が居た。だから、やるべきことよりやりたいことを優先する大人に対し冷ややかな目でものを見る「可愛げのない子供」だった私に周りの大人は「理屈っぽい」「強情っぱり」という評価を下し姉妹中で一番幼いながら、私は周りからどこかで一線遠ざけられていた。遠ざけられていただけでなく、本能優先で行動する周りの大人に対し嫌悪感を持っていたから自分が周りを遠ざけていた部分もあったのかもしれないと今振り返り思ったりもする。昨年末、やっとそこから抜け出すことが出来たのには「一つの悟り」と悟りが降りてくるための「大いなる助け」があったからだ。「消えて無くなりたい」と思うときというのは自分の中で処理しきれない苦しみが訪れたときに湧き上がる。それは自分を消滅したいというよりもそれ以上の重圧に耐えられないための自分を守るすべとして湧き上がってくる自己保存の思いだと思う。次から次へとやってくる苦しみの元は「消えて無くなりたい」という負の念でありそれがある限り苦しみをエンドレスに引き寄せるのだと言うがそれでは、やるべきことよりやりたいことを優先すべきだったということなのだろうか?自分の楽のために他者の苦を見捨てて良いという事なのだろうか?どこかでやれば出来る可能性が見えているのにやらないという選択をするのが嫌なのだと思う。最初から自分には無理、という内容であれば何も葛藤することも無く断るのだと思う。あえてそれを選ばなかったとしても自分なりの納得が出来るのだと思う。しかし、やれる可能性が見え隠れしているからこそそこで葛藤が生じるのだと思う。だから葛藤するのは相手のためを思って。。。というのではなく自分がそれをやらなかったことへの嫌悪感をどう処理するかという問題によるのだと思う。しかし、やることを選択した後半年もの間絶望感にさいなまれるというのはやりたくなかった気持ちを押しやってポリシーを優先した際に「覚悟」を決めていないまま結論を出したからだ!と思う。覚悟を決める時間的猶予を与えられず回答を急かされた中で結論を出したという自分の落ち度が後々まで尾を引いたのだ。しかし、では、結論を出すにあたり時間的猶予が与えられていたとしたらどうなっただろうか?と振り返ると結局は、与えられた時間いっぱい堂々巡りを繰り返していたに過ぎなかろうとどちらの答えも同じだけの重さであることは解りやすい。重みが違ったなら葛藤など生じなかったはずなのだから。。。これらを総合的に考えれば時間が無かろうが時間的猶予が与えられていようが葛藤が生じることというのは同じ重みの内容だということ、だから、葛藤の末どちらに転ぼうが結局は選択しなかったほうについてあれこれ後になって悔やむことになるのは必至であるということが解る。ならば、選ばなかったほうを未練がましく考えないことが自分を苦しめないことにつながり今後の選択時には、時間的猶予が無い選択であっても結果に対し、後悔しないことを自分に約束することが重要なのだと学んだ。-----------------ただ、他者の幸福を優先すべくポリシーを選択するよりも感覚という漠然としたものや好き嫌いと言った「自我」を優先する選び方でよいのか?というのが疑問だったりした。直感で選びなさいと言われることが多くなった最近思うことに直感というのは自分の経験やもてる情報の総合的判断という風に考えていたこれまで抱いていた自分の認識は誤りで自分の潜在意識や目に見えないものたちがより良い人生を送れるようにとの配慮の元で顕在意識に働きかけてくれているということなのだと解り「自我」と思って否定してきたものというのが実は「大我」であったと解ってきた。
Jun 21, 2015
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自分の事って意外に解っていないのだなと知ったのは以前、ある方に【苦しむのは、それを強く望んでいるからだったんだね。】と言われたときだった。それまでの自分は何とかしたいことがあっても出来ない苦しさにもぉぉやだっ!って泣き言言って身動き取れなくなっていた。その方は、私のそんな姿を見てはどうしたものかと途方に暮れる事がたびたびあったのだと思う。しかし、そうして駄々を捏ねて泣き喚いても泣き寝入りした翌朝にはまた、何とかできないものかと動き出す私を見てああ、そぉなのか!こいつが「もぉぉやだっ!」って投げ出すのは一番それを強く望んでいるのにどうすることも出来ないジレンマがあるからなんだ。どうすることも出来ない苦しさに耐え切れなくなって一旦投げ出して苦しさから離れたらまたそこを目指して動き出すって言う苦しさだけを手放すための投げ出しなのだなと、再び活動し始めるための必要不可欠のステップなのだと思ったのだそうだ。自分では気づかなかったのだけど、言われてみればそうかもしれない。自分では、苦しさに耐え切れなくなって投げ出していただけなんだけど投げ出しても、結局解決には至らないから課題は目の前に突きつけられている。だから泣いて寝た後はまたその問題を直視せざるを得ないから頑張り始める。。。ていうか頑張るしかない。しかし、言われてみれば確かに、大事とか必要とかいう感覚が弱ければ投げ出したまま放置するはず。泣き寝入りした後はまたそこに取り組むというのだから一番大事とか譲れない場所とかそんな感じだったかも。。。自分のことというのは案外解っていなくて他人の観察結果というのは客観的なだけに自分よりも的確だったりする。そんなことが随分前、そう、おととしの夏ごろにあって「感情モニタリング」とか頭で解っていただけだったなと当時のことを思い返して今改めて実感している。よく、スピ系の人たちが「自分をそのまま受け入れなさい」とか「自分が今何を感じているか、じっくりその感情を味わいなさい」とかおっしゃる。そのときに湧き出ている感情を味わい自分がそれまで無視してきたインナーチャイルド的ものを無視することなく認めることを許すというのかな。。。確かにそうすることで自分という人間が、そのときに感じていることを別の視点から観察する自分というある意味別人格を設けることで客観さというのか冷静さが出来て感情に振り回されることが少なくはなる。けれども、スピ系の人たちが言う表現では今一歩踏み込みが浅くて自分を知るには至りにくい。けれど、あの方から言われた【苦しむのは、それを強く望んでいるからだったんだね。】という一言で人間の思考の傾向を知ることが出来て自分が何を欲しているのか?が明確に出来るようになった。苦しさが大きければ大きいほど自分がそれを強く望んで止まないということ。それを知るだけで随分と心が軽くなった。昨日、そこらへんのことが書かれている心理学者(澤田匡人さん)脳科学者(中野信子さん)の話を見つけたので備忘録として記しておくことにした。友達のフェイスブックにイライラするのはなぜ? 脳科学者と心理学者が解説する「嫉妬」と「妬み」の正体http://wotopi.jp/archives/16160リア充にも優しくなれる「メタ認知」とは? 脳科学者と心理学者が教える、SNS疲れしない方法http://wotopi.jp/archives/16246この中の『「メタ認知」で本当の自分と対話してみる』に書かれている『もやもやしたときに、「あ、いま私、この人のことを妬んでいるんだな」と客観的に感じやすくなるので、自分の基準へ軌道修正しやすくなります。』の部分。もやもやとか苦しいとかっていうのは自分が何を望んでいて、それが叶いそうにないときの感覚だということ。それを知ることでそれを手に入れるにはどうすればよいのか?をポジティブに考える習慣を培えば自分の人生がもっと楽になるし手に入れられればハッピーに成る。私の場合、苦しんでいたのは、大切な人の命が危ないのに何も出来なかった自分が居たからなのだけど、勇気を振り絞って行動を起こした結果それは解決することが出来た。その後、そのときの行動が元で周りから物凄いバッシングを受ける羽目になり周りと疎遠になってしまったが大切な人の命を保つことが出来た結果から考えれば疎遠になったという損失は軽いものと思える。私にとって大切な人の命を守りたいからという行動が理解してもらえないならそれまでの関係だったと思うしね。先のそれを知ることでそれを手に入れるにはどうすればよいのか?をポジティブに考える習慣を培えば自分の人生がもっと楽になるし手に入れられればハッピーに成る。ということについては自分が抱えていたような特殊な問題は別として大抵のことは思考習慣を変えれば、あなたも「応援される人」になる!http://shuchi.php.co.jp/article/1481ここに書かれている語尾を「~できる」と肯定形にしてみることで解決してしまうだろう。
Mar 4, 2015
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今日、面白いメルマガが届いた。ビジネス系のメルマガだったからマーケティングの話という狭い範囲での内容と言うためそこに書かれていた。自分の感覚で商売やっても意味が無い。評価するのは世間なのだから世間受けするやり方でなければ成功できない。だから「世間に評価されたらあっと言う間に成功する」時代。あなたが正しかったらあなたはもう成功している。あなたに「修正箇所」があるから あなたは今成功していない。という内容だった。先日コレとは別に歴史とか科学とか芸術の話で世間より二歩も三歩も進んでいる人は批判されるが世間より半歩進んでいる人は世間がその人のことを理解する能力があるから賞賛される。。。みたいなことが書かれているものを観た。商売は周りの反応が全てだから世間より半歩進んでいればそれが正解ということなのだけどつまるところ「正しさ」なんていうモノサシが如何にいい加減なものであるか?を理解していないと自分が望む成功は手にすることが出来ないということだなと解る。自分が望む成功は何か?を、自分でしっかり分析し自分の中で整理しておかないと自分が信じることが世間に評価されなくてグレてしまう。。。なんていうことにもなりかねない。・そういう人、私はこれまで沢山見てきた。そういう人を見るたぴ゛、世間に評価されたいのか?自身で自負を持った生き方をしたいのか?自分の中でちゃんと決めておけば苦しまずとも済むのに。。。と思った。
Feb 21, 2015
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エイブラハム・ヒックス なぜ、私たちはこの世界に? http://youtu.be/389UFbB9hSo
Feb 18, 2015
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つづきJan 30, 2015 01:59:12 PM の記事の私に「お願い」メールを寄越した御仁から昨日またメールが入った。先日一度はメールしたもののその後放置状態が続いていたためだ。放置に至ったのは先方の一方的な思い込みによる説教が原因だ。こちらにはこちらとして相手に言えない事情があって連絡できないことがある。そんなことを考えることも無く、一方的に「怠惰」による放置と決め付けた上から目線の説教だった。なんだろうねぇ。。。年齢から言っていろんな経験を積んでいてもおかしくなかろうに随分楽に生きてきた方なのかな?と思ってしまうような実に物の見方が狭く自分都合な説教だった。その方の説教を読んでいるうちああ、この方の周りには「怠慢」なろくでもない人しか存在していないんだな。だから、怠惰によって連絡していないのではない何らかの重要な理由があって連絡すべきではないという判断が下されていて連絡できるような状態にたどり着けるまで時期を待っているということだってあるのだというケース外な相手だって存在するという可能性がまったく頭に無いのだろう。しかも、上から目線の的外れなだけでなく連絡が来ないことで自分が動けないことについて思いっきり自分都合でものをいうものだから連絡できる状態になったときにもするのやめようか?と思ってしまった。そのうち連絡する必要がこちらにはなくなってあちらが連絡を欲しているだけになったためこちらはすっかり無視ということになっていた。で、業を煮やして昨日あちらからメールが来たというわけなのだけど、相変わらず的はずれで自分都合でたかぴ~な文面にそのメールははい、さようなら!と削除フォルダ行きとなった。結局その御仁は自分都合思い込み上から目線という三悪によって私を「怠惰」に作り上げてしまったのだ。相手の事情や都合を確認し自己都合を押し付けなければ削除フォルダに移して終わらせることは無かったのに。。。やる気がある相手にワケの解らない上位を振りかざせばやる気の無い相手に変えてしまう危険があるって言うこともきっとご存じないのだ。こういうケースも犬と飼い主の間では良く起きている。
Feb 16, 2015
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某会社のオーナーが後継者を育てられずに悩んでいた。その会社では新入社員が定着しない。或る時、その理由がはっきりした。オーナーは並外れて能力が高い。一般の人間と能力のギャップが大きすぎるせいで並みの人間がやることに対して「サボっている」とか「気配りが足りない」という風に受け止めがちでその苛立ちが重っ苦しい「気」となって放たれているために社員にとって非常に居心地が悪く緊張を高めてしまうことになりその緊張が、さらに能力の低下を招きなおさらオーナーを苛立たせるといった悪循環に発展する。オーナーは、自分ほどの能力を持ち合わせている人間はそうそう居ないのだと解りながらも能力差による思考の違いという風に受け止めないのは社員に対して過剰な期待を捨て切れていないために眼鏡が曇っているのだと感じる。そうでなければ、もともと懐疑的な性格というだけなのかもしれないが案外、この方は相手を信頼するととことん尽くすタイプだから懐疑的という風には考えにくい部分がある。とにかくその方を見ていると社員が思ったような思考や行動に至らないのはやる気が無いからではなく余計な緊張が邪魔をしてさらなる能力低下を引き起こしそこから自信喪失というところに転落しているのだということを理解させる必要が有りそうな気がした。やる気が無い社員というなら叱責は有効なのだけど、やる気があって社員なりに自分を追い込んでいるのだからそこにオーナーの叱責が加わればもっと緊張が高まって自滅していくだけだ。叱責はやる気のある社員には本末転倒の結果を招くことになる。こうした誤解や関わり方の間違いというのは犬と人間の間では頻繁に起きている。次回に つづく。。。
Feb 16, 2015
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書いてある内容が理解できる本と意味が解らない本。これまで読んでいた本は非常に解りやすかったのだけど、今読んでいる本は。。。う~ん。。。書き方が悪いから(書き手側の問題)なのか?内容が難しいから(読み手であるこちらの能力の無さ)なのか?そもそも内容がいい加減(情報に嘘がある)だからなのか?最後まで読めばはっきりするのかな?
Jan 30, 2015
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先日、私にあなたはもっと「器が大きくなり」 「心が広くなり」 「理解が深まり」 「優しくなれ」 「気が利く人になれます」と。。。メールで私におっしゃった方から連絡いただきたいと「お願い」されました。そう、はっきり「お願いです」と。上記のメールを受け取った時、私は、自身の中で、とても苦しんでいた。別の相手から愛情の上での言葉であることは解っているし有り難いという気持ちも持っていてだけど、こちらが耐え難い苦しみに不整脈まで起きてしまうそんな苦しさを無視して追い詰めるようなことを言われ悔しさと、悲しさと、怒りにもだえ苦しんでいたときにこのメールの方は「相手の身になって考えなさい」とさらに私に追い討ちをかけた上で上記の言葉を送って寄越した。相手の身になって考えるから相手が愛情によって発している言葉であることを理解している。しかし、その言葉が弱りきっている今の私にとってとても耐え難い苦しみをもたらす言葉であるから心臓が反応して精神的苦しみだけでなく不整脈による呼吸の苦しさまで味わってしまっているのだからそれがたとえ愛情に端を発している言葉であっても結果からすれば甚振りにしかなっていない。こちらに「相手の身になって考えなさい」というのなら先方側にも「相手の身になって考えなさい」と言ってもらいたいものだ。とても理不尽な話に赤の他人が先方の補佐役として割り込んでくるのはお門違いと言うもの。他人が仲立ちになって間を取り持とうと言うのだからおそらく時間的猶予が無い事象なのだろうなと推測できるが何せ弱りきっている心身に更なる負担という置き土産を置いていかれたこちらとしては傷が癒えるまで何か出来ることにはいたれない。そう思って、仲立ちを買って出ていそうなメールの主が再々メールしてくるのをうっちゃっていた。昨日くらいから少しこちらにも冷静さが戻り始め不整脈が治まりだして余裕が出てきたと思っていたら今朝、メールの主から「お願い」メールがはいった。あまりこちらが無視し続けていたものだからメールの主は、メールの中でご自身について語り始め信用を得んと試み始めた。それによると、その方は今年80歳になるという。お年を伺って連絡するか。。。という気になりました。あちらの作戦勝ちだな。苦笑
Jan 30, 2015
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http://youtu.be/iJi5EbSkQCQ
Jan 30, 2015
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保護団体がよく口にする「命をお金でやりとりするなんて!」と言う言葉。彼らは勝手に出来ちゃった犬や猫ばかり扱っているからそんなことを疑問にも思わず使うんだよ。。。と感じている。実際にブリードしてみればどれだけコストがかかるか解るから繁殖元から他人が譲り受ける場合にはそんな考えかたは常識外れ。でも彼らは平気でそんなことを口走る。。。から私から見ればあんな非常識な連中は居ないということになる。さて、先日のイスラム国の残虐な脅迫事件のとき誰も「命をお金でやりとりするなんて!」とは言い出さなかったよなって思ったよ。誰もがイスラム国に資金が流れるのは後々厄介なことになるとか欧米のテロ対策との足並みが崩れるようなことはまずいだろうとか思う一方でそうした問題が無くお金で救出できるなら何とかしたい。。。と思った筈。だからね、価値有る命はお金に換算されるっていう現実。生保会社などはその典型。人間の命でさえ生涯稼ぐ収入額で命を換算するよね。「命をお金でやりとりするなんて!」なんて綺麗ごとの台詞はいてるうちは社会認識が甘い世間知らずというものではないかと思う。私的見解からすれば「命をお金でやりとりするなんて!」という台詞を口にする連中は逆に命の価値を認めていないんじゃないのかなって思っちゃうよ。
Jan 28, 2015
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超能力などを持たない普通の人間が相手の心を読み取るにはそれなりに自分が沢山の経験をこなしていないと狭い範疇での判断をしてしまい思い込みという危険を冒すよなと今朝届いたメールを見て思った。「人の目を気にする」という人が居たとする。しかし、同じ「人の目を気にする」のでも「人に良く見られたい(見栄やプライド)」から気にするのと「他人との摩擦を避けたい(相手との関係性を重視している)」から気にするとか「他人との摩擦で疲弊するのが嫌だから(自分が大事)」気にするのではまったく意味するところが違ってくる。私が今よりもっともっといろんなことを経験していけば「人の目を気にする」という一文が示す意味合いの選択肢はもっと増えていくだろう。ところがメールの送り主は「人の目を気にする」という一文の中に「人に良く見られたい(見栄やプライド)」という一つの見識しか見出していない内容を書いて寄越した。解った風なしたり口調で私と言う人間を言い当てたと思っているメールの送り主。君は全然私を理解出来ていないぜ!おいら人に良く見られたいと言う意識が欠けているから2ちゃんねるで叩かれても全然カンケーねぇの。非常識と言われると個性的でしょ♪って捉えるタイプ。おいらが相手のことを気にするのは「他人との摩擦で疲弊するのが嫌だから(自分が大事)」なのよ。
Jan 27, 2015
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「言葉の暴力」というのは思いのほか人の心に傷を負わせるものだというのは子供のころ、「転校」という経験によって体感している。方言の違いが生み出したその体験はかなり永い事、心に影を落としていて、そこから「言葉」とそれを「発する人」について内容と意図、自分との関係性を観察する癖がついた。最近「アファメーション」という言葉を自己啓発系の話でよく耳にする。自己啓発系の自己暗示や機能脳科学の分野でも語られているけれど、「アファメーション」において発する言葉や文章では「こうなりたい」と言う言い回しはダメだと言われている。それは「こうなりたい」というのは現時点が、こうなっていないという現在の望ましくない状態を追体験させてしまうためだといわれている。意図したものと逆に作用して潜在意識下に刷り込んでしまうと言うことらしいが先日、その話と良く似た面白いことを体験した。あなたはもっと「器が大きくなり」「心が広くなり」「理解が深まり」「優しくなれ」「気が利く人になれます」と。。。ああそうですよね。私は器が小さくて心が狭くて理解力が無く優しくない気の利かないヤツです。。。て言われたわけだ。
Jan 27, 2015
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上から目線でものを言うと言った本人の意図とはズレたいたぶりの言葉として作用することがある。「自分を磨きなさい」という言葉などはその典型的なものといえる。宗教家などでは自己研鑽を推奨するという意味合いや此処から先の人生をより良く過ごせるようになるためにという愛情から発せられがちな言葉であるのだけど本当にもうこれ以上の努力は出来ないと言うぎりぎりの苦しさを抱えるほどに頑張っているがどうにも成らないところに居る人にこの言葉を発するとそれは、まだまだあんたは努力が足りない!と言っているのと同じに作用することがある。「自分を磨きなさい」と言う言葉は自己の内側から己に対して発せられるべき言葉であって他者に対して発するべき言葉ではないと知っている人は少ないように思う。
Jan 27, 2015
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この正月は読書正月だった。年末本屋で買い漁った本を片っ端から 読む!読む!読む!お勧め本は『自分を信じて生きる インディアンの方法』松木 正著 小学館 と苫米地英人さんの著書犬とちゃんと向き合ってお互いに敬愛と言う関係性の中で暮らすには人間がもっと「穏やかさ」というものを自分の中に培う必要が有るんじゃないかと感じている。「自分を信じて生きる インディアンの方法」には自分と異なる存在に敬意を払って生きる生き方というのが書かれていて白黒つけたがる誰かさんというのが結局自己中とか我欲の塊でしかなく自分自身を見つめるよりも他者を悪者にして自分を納得させているだけじゃないの?と感じる。自己の感情をコントロールできない未熟さを優しさと勘違い。そういう偽善者にあふれてしまって、あたかもそれが動物愛護ということになっていたりする。けれども、根本的なところで間違っているからちょっとうまく行かないと犬が悪者だったりブリーダーが悪者だったり、酪農家が悪者だったりする。自分は悪くなくて自分は善い人で。。。そういう生き方が普通に成ってしまっている。動物や植物を守りなさい。。。と言われてみて初めてハタと考えた。畑を荒らすモグラやカラスは害獣。家を荒らすネズミは殺してよい。だけど犬や猫は愛護動物だから食べちゃダメ!って犬を食する文化を持つ国を野蛮と評する。でもこの国の人間は魚をよく食べていて。。。動物は感情が有るから食べちゃ可哀相?なら、魚はどうなのよ?!http://youtu.be/2vqxe3ecbXw動物を食べるのは残酷!ってベジタリアンになる人も多いけど植物だって優しい声や褒め言葉をかけて育てると育ちが良いとかって言うでしょ?それは感情があるとかっていうことではなくて声をかけている人が発している周波数による影響なのかもしれないけれど魚でさえあれだけ感情があることを思えばもしかしたら植物の成長の違いだって感情なのかもしれない。。。そんな風に考え出すと善いことと悪いことってのは何が基準なのかなって解らなくなるよね。結局、ことの白黒つけているのは自分の都合でしかないってことでしょ。自分にとって嫌だから。。。自分にとって不都合だから。。。そんな風に白黒つけたがる気持ち。他者に自分の感情や都合を押し付ける我侭さ。愛護精神を声高に謳うのは結局闘争心の裏返しなんじゃないのかな?自分と他人との線引きを明確にしないで居られない自意識過剰なんじゃないのかな?愛護の精神なんてのは自分の中で育むものであって他人に押し付けたり他者から押し付けられたりするようなことではないと思う。他者に自分の感情や都合を押し付ける我侭さ。それがお互いを否定する心に繋がって戦争は起きるんじゃないかと思う。犬と上手く暮らせないと悪いのは犬で自分ではない。本当にそうだろうか?畑を荒らす害獣だって必死に生きているんだ。一見無感情に見える魚だってちゃんと感情や複雑な思考を持っている。自らの命を支えるために最低限の量を感謝を持っていただく。他者のやっていることにいちいち目くじら立てたり白黒つけて自分を持ち上げようとしない。たったコレだけのことすら出来ないのは未熟だからなんじゃないかと。。。
Jan 6, 2015
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※ 本日の記事は画像、文章共に転載については許可しておりません。ご自分のブログやサイトなどにご紹介下さる場合は記事のタイトルと共に記事のアドレスをリンクして下さい。【自論検証結果みたいな兄弟姉妹】http://plaza.rakuten.co.jp/owsee/diary/201501040000/ジョワイアンジェットピカソマギーツェッペリン精神状態の良し悪しが実年齢に関係なく肉体の年齢となって表れる。。。というのは人間界のヒーリングなどではよく言われていることだけどそちらの世界のことは良く解らない。が、リズの姉妹犬ジーンや彼女等の父犬アスタから得られた自論としての同内容。これまでは保護犬たちなどによりまあ、間違い無いだろうと思っていたが七つの子の残党五頭により見事に検証された。。。っていう気がする。兄弟姉妹だから当然のことながら実年齢は日にちまで一緒だしこれまで食べてきたものも、彼らが暮らしてきた生活場所の環境も運動状況も同じ。違いは、個々の代謝であり、もともとの体質というのは有りだけど代謝というのはかなり精神状態による影響が大きくて理解力が高くてそれゆえに緊張が高かったことから悪さの発現が早かったため本当に小さいころに矯正されていたジェットとジョワイアン(悪の一子と二子と言われていた彼ら)の今は見事に若くもともとテンションひく~で矯正の必要を感じない従属性の高かったピカソはジェットやジョワに続いて肉体年齢が若い。理解力は高いながらも権勢傾向が強いテンション高高の生意気マギーは内的興奮によりピカソより老いが強く出ていてさらに理解力が低くシャイだった心臓バクバク・ドキドキ野郎のツェッペリンはこいつは緊張が高いから老けるの早かろうなぁと幼いころから予想していたくらいだったが予想を裏切ることなく見事に老け顔に成っている。。。ていうか彼らの実年齢が今年の三月で12歳になるということを考えればジョワやジェット、ピカソが若すぎるのであってマギーやツェッペリンが世間で言うところの12歳相当なのだろうけどね。。。世間では、安価なフードではダメだとか避妊・去勢をしないとストレスがかかるとか散歩をさせないと犬はストレスがたまったり体がダメになるとかいうけれど、みぃ~んな嘘じゃん!七つの子は女の子も男の子も避妊・去勢してないし特にジョワなんかで言えば周りには年中ヒート犬が居たりしてきたわけでそれでも兄弟の中では一番老化が進んでいなかったりしてるぜ!うちは散歩なんかしねぇし!。。。つうか、多分「散歩」というストレスをかけてこなかったから若いんだと思うヮ!ましてやフードが問題なんかじゃないって言うことは彼らを見れば一目瞭然!シャンプーとかブラッシングとか季節の変わり目に浮き上がってきた死毛を除去してあげるのと梅雨時期に一回くらいシャンプーしたりすることはあっても基本シャンプーなんか必要ないくらいサラサラだし!(※画像でフケが出ているのは撮影のためにカメラ向けられている緊張と普段は一緒に居ない兄弟と隣り合わせにされた緊張によるもの。こういう緊張によるフケってのは毛が逆立って毛根際の皮脂が剥がれたものなんじゃないかと思ったりしているが実際のところどうなのかは今のところ不明です。が、緊張により出てくるというのは確か。)家の中で飼うと外飼いに比べて身体的負担が無いとか言う連中が多いけど。。。ていうか今の時代、外飼いが虐待のような言われ方してたりするが七つの子はみんな外飼いだ。で、世間の室内飼育、中型犬12歳ってのはどれくらい七つの子より身体的にストレスが無いって言うのか教えて下さい。一体、獣医や保護団体が言ってることってなんなんだろ?
Jan 4, 2015
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http://youtu.be/6MCkFa9MdfY昨年夏、意図せず砂糖断ち状態の生活に追い込まれていたツェップ。ダイエットとかしようと思っていたわけではなかったが確実に体重が落ちた。先月から食生活が以前の状態に戻ったとたんめきめき太り始めた。う~む、これはひとつ意図的に砂糖断ちですかねぇ。。。
Jan 3, 2015
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ときどき面白いなぁと思うのだけど偽善者というのにもいろんな種類があって本当は、全然理解者ではないのに無理して鷹揚な風を装わんと理解者であるかのようなフリをする御仁がいたりする。そういう人は、こちらとまったく興味の対象が違うのにあたかも話しに興味があるような言い方をするのだけれど、ただ話をあわせているだけで興味など有りはしないというのは解り過ぎるほどに解る。以前は、こちらも相手が興味がなさそうな話題は避けたりしていたがそれはかえって自分が熱中したいことに費やす時間を他人に奪い取られているのと同じなんじゃないか?と思うようになり興味が無い、話が合わないという人は興味ありますなんて言う心にも無い嘘はかえってお互いに苦しめあうだけで貴重な自分達の人生時間を体裁繕うために費やすだけなのだからやめましょうよ!といいたくなる。そういう体裁繕って良い顔しようとする人というのは自分が芯から熱中したいことが無いのだろうな。。。人生時間。。。勿体無いからさ!体裁繕った無駄話にお付き合いしているより立ち姿が美しいと思う犬の撮影に時間を使いたいツェップ。ショーマナーでフリーステイなどを入れるオーナーさんには悪いがマナーで入れるステイでああこの犬の立ち姿は美しいなと思える犬ってあんまり居ないよね。形を作ってはあるけれど骨格として出来ているのではないって言うか。。。画像の子は後肢の具合はあまり良くないのだけどトップラインや重心の位置などに美しさを感じることが多い。(腰周りの跳ね上がっている毛をカットすればもっとそこらへんがわかりやすいのだけど横着モンだからそんなご丁寧な撮影は出来ない。足先の毛もカットしてねぇし!爆)トレーニングとかマナーとかは何にも入れていないから勝手にタタタタタッてスクリューペグの周りを走り回ってピタッと動きを止めた瞬間に撮影するのだけど都度、ああこいつは綺麗に立つなぁと感心する。たまに後肢が前肢に近い状態で止まっても後肢を良い位置に下げて自分で修正するから本人的に飛節以下が垂直なる位置に肉球が接地していないと気持ち悪いとかバランスが悪いとか立ちにくいとか感じるんだろうなと思う。まあ、天は二物を与えずってとこですかねぇ。。。
Jan 3, 2015
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親、兄弟。あるいは子供や配偶者。嫁・姑。会社の同僚や上司・部下。学校や近隣の友達など。案外身近な存在が自分を苦しめる相手だったりすることは少なくない。なまじ身近な存在であるだけに縁を切ろうにも切れなかったり。心を強く持とうと努力しても気持ちが整う前に土足で踏み込まれてしまうということも多かったりする。自分の心の在り様でどうにでもなる。。。と思ったりするもののその在り様が解らなかったり態勢が出来上がる前にそれまでに出来上がっていたトラウマを穿り出されたり。。。苦しみから抜け出せずにいる。。。そんな方にとって「執着のコードを切る」という考え方はちょっとした救いになりそうな気がします。http://youtu.be/Q0Gi60sS1bohttp://www.amazon.co.jp/gp/product/4899762283/ref=olp_product_details?ie=UTF8&me=#customerReviews
Jan 2, 2015
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親、兄弟。あるいは子供や配偶者。嫁・姑。会社の同僚や上司・部下。学校や近隣の友達など。案外身近な存在が自分を苦しめる相手だったりすることは少なくない。なまじ身近な存在であるだけに縁を切ろうにも切れなかったり。心を強く持とうと努力しても気持ちが整う前に土足で踏み込まれてしまうということも多かったりする。自分の心の在り様でどうにでもなる。。。と思ったりするもののその在り様が解らなかったり態勢が出来上がる前にそれまでに出来上がっていたトラウマを穿り出されたり。。。苦しみから抜け出せずにいる。。。そんな方にとって「執着のコードを切る」という考え方はちょっとした救いになりそうな気がします。http://youtu.be/Q0Gi60sS1bohttp://www.amazon.co.jp/gp/product/4899762283/ref=olp_product_details?ie=UTF8&me=#customerReviews
Jan 2, 2015
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世間はクリスマスで華やぎのピークを迎えていると言うのに『消えて無くなりたい病』なんていうタイトルの記事をアップするのはどおかと思ったりしたけれどま、いっか。。。リストカットを繰り返す若者は「別に死にたいワケじゃなく、生きていたくないだけ。。。」だとカウンセラーに言うらしい。生き続けていることの苦しさを知らない大人は「生きていれば、良いことがあるから。。。」と自殺を繰り返す人を諭したりする。。。がそんな言葉などは本当に、苦しみの中にしか生きられない相手のことが解っていないよなって思う。生きていれば、良いことがある。。。というのはそれまでに良いことが有った経験がないと良いことが有ると言うことを信じることは出来ない。自殺を繰り返す人たちは良いことが有ると信じられないから生きていたくないのだと解っていればそんな馬鹿げた台詞で自殺が止められるわけがないと解りそうなもの。。。諭している人間が諭されている人間より楽なところに生きているのだからそんな人たちの言葉が自殺願望者の心を動かせるとは思えない。だから『消えて無くなりたい病』を抱えている人たちの気持ちの解釈も頓珍漢なんだと思う。大きな悲しみや、絶え間なくやって来る苦しみ抱えきれない孤独なんかが襲ってくるたび『消えて無くなりたい』という想いがみぞおちの辺りを絞るような冷たさを伴ってやってくる。『消えて無くなりたい病』というものを体感したことがないカウンセラーはその症状を自分自身を否定しているために起きていると解釈し自分を愛するようにとか自分の価値を認められるようにしようと諭す。なぁ~んて頓珍漢なんでしょ!?って思う。『消えて無くなりたい』病を抱えている人はこれ以上はもう苦しみに耐えられない!っていうところに立っていてそれ以上同じ状況の中に居たら自分が壊れてしまうって言う自己防衛本能が働いているために『消えて無くなりたい』のさ。自己否定なんかじゃなく自分を守ってあげたいって言う自己愛なんだぜ!本当の痛みを身をもって体感したことが無い連中が想像の範疇で自殺願望者を扱おうとするからとんでもない意味不明な解釈がなされていたりする。なんだろう。。。諭している側の方が経験が浅いのにその未熟な体験や浅はかな思考でありながら自殺願望者よりも「自分達は正常で、相手はやんでいる人」という風などこか高みから見下ろしている自分達の気持ち悪さを自覚していない。。。っていう気がしてしまうよ。
Dec 25, 2014
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脳機能学者の苫米地英人さんの「まずは親を超えなさい!」という本を読むとスピリチュアル世界の人から届けられてきたメッセージと同じ内容が書かれていて一方は、ただこうなんだよ、だからこうするといいよ。。。と端的に伝えてきていることを順を追って説明していると言うだけの違い。なんだ表現が違うだけで現象としては同じジャン!てことはスピ系の話だから怪しいとか思うのは誤りなんだなと思ったよ。で、問題はいずれも強く「ゴール」のイメージを想いなさい!というのだけどこれまでの人生がきつすぎて「幸福」のイメージ(ゴールのビジョンや臨場感)が浮かばないってこと。生きていることが幸せ。。。ではなく生きていることが苦しいだけ。息していることがハッピー!。。。ではなく普段不整脈で息苦しいからたまに不整脈が治まって息苦しさが無かったりするとああ、今はちょっと楽だな。ありがたい。やれやれ。。。て感じ。それにしても、楽に息遣いができる。。。ことをありがたいと感じることは息が出来ていることを意味無く喜べているわけでなく、楽である今の状況と言う外因があってありがたいと思っているわけだから自分の生命力を手放しで喜んでいると言うのとは違うと思うし。。。
Dec 25, 2014
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https://www.youtube.com/watch?v=iSHlc6yn-xA
Dec 25, 2014
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https://www.youtube.com/watch?v=A7B4cgDouiQ自分の中の「情けない気持ち」「痛み」「ざわめき」を「可愛い自分」「自分の魅力の一つ」と包み受け入れるゆとりが幸せを呼び、他人の痛みを理解・許容できる自分に変わる。
Dec 25, 2014
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犬の躾とか訓練というのはどんなことを意味するのか?結論から言うとそれは自分を律すること常に緊張を維持することなのだなと思う。里親募集してみて感じていることは躾が出来ますっ!。。。とか訓練やってますっ!。。。とかいう人たちが言っているのは躾でも訓練でもなくただ無意味に犬を弄繰り回しているだけなんだということ。何故なら、何故その人たちが犬に運動させるのか?も解っていなかったり犬に仕事を与えてくださいと言うと「たとえば、ディスクとかアジリティーとかですか?」という答えが返ってきたりする。それ、どこがお仕事なんだい?ただの遊びだろ!?そんなことをお仕事と勘違いしているようだとお犬様様だというのが見えてしまってそういう人が考えている躾というのがどれほどのモノかが解ろうと言うもの。。。そんなだから里子に出したその日の夜に致命傷負わせるような事故を引き起こすんだよ!自分で致命傷負わせてから返していいか?なんて訊いてくるんだ!引渡しのとき引渡し後の変換は一切受け付けない!と言ってある。その子の一生を引き受ける。。。そういう覚悟を持って引き取ってくれるという人にお渡しする以上こちらも今生の別れと覚悟して渡している。断っても断っても欲しいといって連れて行ったのに、行ったその日、そんな事故を引き起こし挙句返していいかと訊いてくる。あなたの覚悟って。。。その犬は里親さんの応募が沢山有った子だった。あなたに渡さずとも済んだ子だった。。。でも何度断っても絶対大事にすると言って連れて行ったはず。くだらない事故で致命傷を負わせてしまう注意力・思考力の無さ。起きた結果の責任を自ら取ることができない甘ったれた感覚。相手の犬や里子に出したこちらの気持ちを考えられない保身だけの考えかた。私は自分を反省したよ。そんな人と見抜けず熱意を覚悟と錯覚して引き渡してしまった自分の愚かさを。。。どんなに熱意が有ったって熱意と覚悟は同じではないということ。覚悟と愛情、周りの者に目をやる視野の広さとは一致していないこと。相手が断っているのに執拗におねだりするのは遠慮を知らないただの我侭さんだということ。そういう人が考える躾とはただ形だけ作る踊りと一緒なんだということ。画像を見て、この子が欲しい!この子と暮らしたい!そう1頭の子だけを見つめて他の犬にブレることがない人は犬の年齢も訊いてこなくて或いは、画像も見ていないのにどんな性質の子ですか?という質問に答えただけで自分達の暮らしに向いているか?その子が幸せで居られるか?それだけを考えて答えを出し、最後にどんな子か画像を見せてもらえますか?と聞いてくる人たちこそが本当に犬のためを考えられる自分を律することが出来る人たちなんだと。。。緊張ある暮らしをしている人は、ちゃんと理想があって理想に近づいていくためにはどうすべきかという常に試行錯誤して今をおろそかにすることなく犬だけをいじくるのではなく全体のバランス感覚に優れていること。そうした緊張というのは頭の理解なんかじゃなく仕事や生い立ちなんかによって日々培われた陰の苦労や努力あってこその厚みなんだということ。だから躾教室だの競技会だのに向けての訓練なんか無意味なんだということ。
Jul 28, 2014
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