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こんにちワン、尾関です。今日はご報告がありまして、ブログを書きます。ぼくは現在千葉県習志野市の「元気応援センター習志野」にて院長を務めておりますが、この度、地元である愛知県春日井市(高蔵寺)に帰省しまして、整体院 空(くう)を新規開院させていただく運びとなりました。作成中HPはコチラ。整体院 「空」千葉県では、脊柱管狭窄症や変形性膝関節症と診断された方をたくさん施術させていただきましたので、愛知県春日井市(高蔵寺)にて開業いたしましても、同じような痛みで苦しんでいらっしゃる方のお役に立てればと思います。開業時期は4月下旬を予定していますが、詳細は未定です。決まり次第、こちらのブログでご報告させていただきます。尾関直人
2011年03月29日
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こんばんは、尾関です。今日はちょっと難しいお話をしたいと思います。みなさんは「人間の三大欲求」って言えますか?ふつうは「食欲・睡眠欲・性欲」と言われますね。でも何かで読んだんですが、そこには「食欲・睡眠欲・排泄欲」と書いてあったんです。たしかにおしっことうんちは本能的で我慢できないですね。ぼくは、この考え方ってすごく面白いと思うんです。「人間がいちばん欲しているものは、長寿と繁栄である」ということを心理カウンセラーの前田大輔先生に教えていただき、爾来、「欲求とはなんだろう?」ということをよく考えていました。ぼくは「長寿=生存」「繁栄=(種族)保存」と思っているのですが、この「生存の本能」と「保存の本能」を別々で考えていくと、いろいろ面白いことが分かってきます。そもそも、ごはんを食べずに眠らずに生きるということは不可能です。そしてウンチも我慢の限界があります。けれども一生セックスしないで亡くなる人もいるわけですね。まぁ、自慰行為のひとつやふたつはするかもしれませんが、ごはんやウンチ、眠ることに比べると、圧倒的に我慢することができるのが性欲なのです。まぁ実は我慢できるというか、性欲というのは、他のカタチに転換されやすいのが特徴です。たとえばそれは「恋愛」という形であったり、仕事への依存であったり、やたらとおしゃべりになってみたりするのですが、そういうのは性欲の転換された形と見ることができるでしょう。ほんとうの本能である「ごはんを食うこと」「うんちをすること」「眠ること」というのはあまり転換されることはありません。「腹が減ったかわりにうんちをします」ということはないのです。その意味で、ほんとうの3大欲求というのは「食欲・睡眠欲・排泄欲」なんだろうとぼくは考えています。これは言い換えると「入れること・休むこと・出すこと」なんですね。この3つで考えるとピタリとはまるのです。そう考えていくと、「性欲」というのは男女でわけて、男の性欲は排泄欲の一種、女の性欲は食欲の一種というふうに考えることができるかもしれません。よく「欲求」というとマズローさんの5段階欲求説ばかりが異様にとりあげられますが、「説」と言っている以上、間違っている可能性もあるのですね。ぼくはこの「欲求」の考え方を整体施術で活かすために考え抜いているのですが、考えれば考えるほど奥が深いです。ここに「感情」と「理性」と「価値観」の問題がふくまれてきます。そしてそれを整体師としてはすべて「ゆがみ」の問題として観ていかねばならないわけです。そこがどうしても難しい。ただ、この理論が完成すれば、心理と身体を組み込んだめちゃ面白い技術ができそうなのです。一人でも多くの方によくなってほしいので、がんばります。====================ビジネスマン必見!「潜在能力を120%引き出す『整体の知恵』あなたの中に埋もれた才能を引き出すコツとは?ツイッターもやっています。フェイスブックはこちらからどうぞ♪整体院・整体施術のごあんないはコチラをごらんください。お忙しいところ恐縮ですが、下のバナー↓をポチっと押してくれたら、すごく嬉しいです。ホントに嬉しいです。
2011年02月18日
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もう、栄養は十分に足りている。これからは栄養を減らす時代だ。周りを見ていると、ちょっと健康を崩したときに、新たに栄養をプラスしようとする人が多いのに驚かされます。「ビタミンCが足りないのかしら?」「カルシウム不足かな?」「タンパク質が足りてないかも?」そういって、栄養を補給しようとする。しかし、僕の考えでは、そういう時代はもう終わりだ。たしかに車はガソリンがないと動かない。エンジンがぷすぷす言い出したら、ガソリンを補給するのが正解だ。けれども、人間は自動車ではない。やたらめったら栄養を詰め込めば健康になると思っていると、大変なことになるだろう。ぼくの周りでは、「カラダを休ませる」という考え方をしている人はほとんどいない。胃が痛くなったら薬を飲んで、とりあえず痛みに対処する。肩が痛くなったら、とりあえずシップを貼ってみる。その行為じたいが悪いとは思わないが、誰もカラダに痛みが発生した理由を考えようとはしない。そこには問題があると思う。とりあえず下痢になったら止める。熱が出たら下げる。その場しのぎばかりじゃないか。結果的に、自らの超回復力、「自然治癒力」を弱めるようなことばかりしてしまう。だからその次には、なおさらクスリに頼らないといけなくなる。それが本当に健康につながるのだろうか?「カラダを休ませる」とはどういうことか。それは余分な栄養を補給せずに、その臓器を使わないようにすることだ。いちばん良いのは減食。断食。とにかく食事の量を減らせば、胃腸は休まる。その他の臓器も同時に休まる。臓器が休まってくると反応が起こることがあるが、ここでビビってはいけない。やたら眠くなったり、症状が悪化したように感じたり、悪いものが一気に出てきたりするが、それはすべて改善への「過程」なのだ。その過程を見事に経過することができれば、それはその人の自信にもつながる。それに、自分のカラダを知ることにもなり、ひいては自分を活かす糧にもなる。なぜ、自分のカラダをもっと大切にしようとしないのだ!なぜ、自分のカラダの何をも知らないで、クスリばかりでごまかそうとするのか!お医者さんがくれるクスリですが、7割は間違ったものだそうです。(ある本に書いてあっただけで真実かは知りません)またあるデータによれば、風邪を引いたとき、クスリを飲んでも飲まなくても治る期間に差はないそうです。なのに、なぜ色々とクスリを飲まされ、しかもそのクスリで胃が荒れないように、胃薬まで飲むハメになるのか。ぼくはその状況を変だと思うけれども、多くの人にはそれが普通になっているらしい。80歳にもなって1日18粒もクスリを飲んでいる人の話を聞いたが、そんな社会ってどうなのだとぼくは問いたい。なんでこの社会にこんなにもクスリが蔓延しているのか。その仕組みで誰が儲けているのか、一度考えてみたほうがいい。ちょっと話がズレて、クスリのことばかり書いてしまいましたが、サプリメントにせよ、健康食品にせよ、誰かが商売でやっていることをもっと痛感したほうがいい。カラダは、人生と一緒で、「よくなるようにできている」のです。そのことをもっともっと信じたほうがいい。よくならないのには理由があって、その原因を取り除けばよいのです。何か新しいものをプラスする発想ではなく、回復をジャマしているものをマイナスする発想なのです。要らないものをそぎ落としていけば、モノゴトの本質、「大切なもの」が見えてきます。自分の心の見栄やプライド、強がりを捨てていくと、ホンネの本音が出てくるのと一緒です。どうか、もっと自分のカラダを大切に、自分のココロを大切に、見つめてみてください。お手ごろでお気軽なクスリに頼って、おざなりに済まさないでください。本気で健康を考える整体師からのお願いです。
2010年09月24日
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おはヨーグルト!どうも、尾関です。今日は【姿勢】のお話です。みなさん、姿勢はよいですか?「姿勢が悪い!」って周りから言われていませんか?え、「姿勢がよい」ってよく褒められる?でも「姿勢がよい」と言われる人も、注意が必要なのです。先日、久方ぶりに親父とごはんを食べました。そのときに親父の会社の人の話を聞いたのですが、その人は、どうも人間関係がうまくいかないようなのです。親父いわく、その人は「姿勢がよい」のだそうです。合気道をやっているらしく、姿勢がピシッとしていてキレイ、なのだそうです。だけどぼくは、それは違うなと思った。というのも、人間関係がうまくいっていないのに、姿勢がよいわけはないのです。それでぼくは親父に、「その人はたぶん、腰がものすごく反っていて、 胸を張っている感じなんじゃない?」と聞きました。そしたら「そうだ」と。「それは良い姿勢じゃない。多くの人は良い姿勢を勘違いしている。 本来の良い姿勢はもっともっと楽な姿勢なんだ。 その人は頑張りすぎるタイプでしょう? それはその人の姿勢から来ているんだ。 胸を張りすぎて、胸の緊張が強い人は、 バリアをはっている感じでどうしても他人とぶつかる。」とぼくは言いました。そうしたら親父は、まったくそのとおりだと言っていました。となると、やはりその人は「良い姿勢」ではないのです。背筋をピンと張った姿勢は、なんとなくキレイなので、多くの人はそれを「良い姿勢」だと勘違いしてしまいます。けれどもたいていの人は「良い姿勢」にはなっていません。「良い姿勢」とはバランスがとれてカラダとカラダのパーツ同士が調和して、精神が安定し、疲れにくく、回復しやすい姿勢です。もちろん仕事もうまくいって、スポーツも上達が早くて、人間関係もうまくいきます。それが良い姿勢です。またなるべく筋肉を使わない絶ち方が良い姿勢です。ですから「良い姿勢」を作ろうとして、腹筋や背筋を鍛えてもあまり意味はありません。世の中にはムチャな常識がたーくさんあります。「本に書いてあること」でも研究家から見れば「そんなアホナな!」ということはたくさんあります。じゃあ、ほんとうに良い姿勢を作るには?その秘訣は、またおいおい発表していきます。ご期待ください。
2010年09月17日
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おはようございます、尾関です。昨日、おとといと涼しかったですが、今日はちょっと暑いですね。さて、今日はすこし腰痛のお話を。腰痛でお困りではないですか?このブログを読んでいるのは、たぶん若い人が多いと思います。とはいえ仕事で一日中座りっぱなしの人も多いので、そういう人は、若くてもカラダが固い人が多いですね。ずっと同じ姿勢をしていると、どうしても腰に負担がかかります。それで腰痛のある人も結構いるでしょう。そこでぼくが言いたいのは、「腰痛をガマンするな」ということです。たしかに20代、30代だったら仕事盛りですから、忙しいかもしれません。そしてカラダも若いですから、無理もききます。だからついつい、腰痛を放っておいてしまう人が多いですね。しかしこれはよくありません。たしかに筋・筋膜性の腰痛や椎間板ヘルニアなどは自然治癒することもありますが、ただ、「なぜ痛みがでたのか?」ということを考えないと、痛みが再発することもあります。ギックリ腰を繰り返す、なんてのはその典型ですね。痛みが経験として活かされていないのです。そもそも腰痛を含め「痛み」というのは、カラダからのメッセージなんです。「姿勢が悪いよ」とか「食べすぎだよ」とか「もっと休みを取りな」とか「ストレスがたまってるよ」とか、そういう警告なんですね。赤ちゃんはしゃべれないので、泣いて訴えますが、腰は痛みで訴えるのです。整体師の仕事というのは、痛みから「腰の訴え」を汲んで、それを本人に教えてあげることなんですね。いわば「カラダの声の翻訳家」です。で、腰痛の声を聴いたあなたは、腰をいたわってあげたほうがいいわけです。泣いてる赤ちゃんは放っておいても泣き止むことがありますが、ふつうは、ミルクをあげたり、おむつを替えてあげたりしますよね。それと同じで、腰痛にもきちんと対応してあげたほうがよいのです。イヤな感情は、ずっと溜め込んでいくと、あるときドッカーンと爆発してしまいますね。そんな感じで、「まぁいけるだろう」と思って、腰痛を我慢しつづけていると、こちらとしても非常に改善しにくい状態になってしまいます。どっかーんとギックリ腰になることもありますね。年齢が若ければ若いほど、カラダの改善はしやすいです。ふだん60代、70代を観ているぼくですが、たまに20代、30代を観ると、その回復力に驚かされます。(もちろん高齢の方も思った以上に自然治癒力というのはあります)腰痛はガマンしないで、適切な対処をすることが大事です。若いからといって油断しているあなた!きちんと腰をメンテナンスしてくださいね!!
2010年09月11日
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どうやらぼくには怠けグセがあるようです。日によっては頑張るのですが、気分が乗らないと、ぜんぜん怠けます。もうダラダラと無駄な時間を過ごしてしまいます。以前は、そんな自分が好きになれませんでした。なんで怠けんねん!もっと頑張らないとダメだなぁ、社会で立派に活躍してる人はもっと頑張ってるのになぁ、俺はなんでこんなダラダラとしてるのかと、そう思っていたのです。けれども最近、「怠け」にも意味があるのかもしれない、と思うようになりました。というのは、カラダは締まったり緩まったりを繰り返しています。その波がダイナミックだと、健康ということになりますね。しまりっぱなし、ゆるみっぱなしというのは、あんまり健康的とは言えません。時間的・空間的に、張弛(緊張と弛緩)のバランスが取れているのが健康だとぼくは考えています。一日のなかで緊張と弛緩があり、カラダのパーツのなかで、緊張と弛緩があり、1週間、1ヶ月、1年、一生のなかで緊張と弛緩があります。要はそのバランスが取れているということが、健康を保つ上で大事なことだと思うのです。そのなかで痛みが出たり、病気になったりということもバランスのひとつなのですね。ですから病気というのも健康のうちに含まれるのです。さて、「怠けグセ」ですが、もちろんこれは「ゆるみ」であります。つまり、頑張り屋ほど、怠けグセを持っているのではないかと思います。それではじめてバランスが取れる。頑張り屋が頑張り続けたら、かならず壊れます。それが自然の摂理です。ですから「怠け」というのは、健康を保つための生体システムなのですね。だから無理はしないことです。怠けたいときには怠けてもいいのではないでしょうか。ただ、なんにも無理をしないと成長も鍛錬もないですから、「ちょっと無理をする」ということで、カラダもココロも一歩ずつ成長していきます。そんな感じで、自分の怠けグセに言い訳をすることにしました。
2010年09月10日
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ここ数日、やたらと首を痛める方が多いです。とはいえ、かくいうぼくもちょっと首を痛めています。寝違えのような症状になっていて右を向くと、首の右側が痛みます。さて、この首の痛みですが、どうしたらよいものでしょうか。まず第一に「あまり無理に動かさないこと」です。無理にでも動かせば動くようになるだろうというのはあまりに乱暴な話で、痛みを長引かせる原因になりかねないので注意が必要です。それから「あたためる」ということです。実は、「あたためる」か「冷やす」かというのはなかなか難しい問題で、ケースバイケースなことが多いのです。ただ、かなり熱を持っている急性期でなければ、基本的にはあたためたほうが回復は早いようです。蒸しタオルなどで温めてみてください。それからもうひとつ。腰を立てて、姿勢をよくします。その状態で、首を回してみると案外痛みが取れることがあります。首だけが悪くなるということはほとんどありません。たいていは骨盤のゆがみに始まり、そこから背骨がゆがんで首が痛みます。背骨の生理(S字)湾曲が正常でない方は、首を痛めやすいので注意が必要です。足を組むクセがある人、横座り(お姉さん座り)をする人、要注意ですよ!で、首の痛みの取り方ですが、あとはまあ時間が経過すれば、ほおっておいても基本的にはよくなります。もちろん腕のいい治療家にかかれば回復は早くなりますから、お金よりも時間が大切な方は整体などを受けるとよいでしょう。ちなみにこの季節の首の痛みの原因、おそらくは夏の胃腸の疲れです。食べすぎると首を痛めやすいので注意してください。「食べ過ぎなんてしてない」という人でも胃腸がマヒしてしまって、胃の疲れを自覚できていない場合があります。胃腸がマヒするとやたら食欲が出ます。そのニセの食欲にダマされると太ります。なのでまずは減食して胃腸の感覚を繊細にすること。お腹が空いていないときに食べないこと。そういうことをやっていくとカラダの反応がよくなってきます。ぜひ実践してみてください。
2010年09月01日
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自分のカラダの調子を読むということ。人間、調子のよい時もあれば、悪い時もあります。しかしぼくらはえてして、「調子のよい時がふつう」と思ってしまいます。けれども本当は調子のよい時も悪い時も、ぜんぶ含めて「自分の元気」なのであって、「調子がよいから嬉しい!」「調子が悪いからかなしい」というように一喜一憂していると疲れてしまいます。調子のよいときも悪いときもまるごと受け入れる。「今の自分が本当の自分なのだ」と認めてしまう。変化するにしても、その「みとめ感」がないと始まりません。「どこかにいる本当の自分」というのは探し続けてもきっとどこにも見つからないでしょう。とにもかくにも、「今の自分が本当の自分」なのです。ちなみにカラダの調子を読むときに、自律神経(交感神経と副交感神経)のことをアタマに入れておくと、ちょっとした変動にあわてなくなります。
2010年08月22日
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どうも世間では、整体と言えばグイグイ筋肉を押したり揉んだり、体をひねってみたり、骨をボキボキ鳴らしたり、そういうものとして認識されていることが多いように感じるのですが、ぼくが今おもうことは、「整体とは、その人がその人らしく生きるためのお手伝い」なんです。
2010年07月25日
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もっと「感じる」ということを大切にしたらいいのに、と思います。「感じる」ということを大切にしている人があまりにも少ないと思う。みんな、強引だ。わがままだ。自分勝手だ。力といえば、どうも「筋力」しか思いつかないらしい。しかしたとえば、「立つ」「歩く」といった日常動作でも筋力よりも感覚のほうが大事なのだ。筋力をどれだけ強くしたって、感覚が鈍ければ転ぶでしょう。逆に筋力が衰えても、感覚が鋭ければ、歩けるのです。筋力を強くしてガチガチに固めれば安定すると思っているのは、大きな勘違いですよ。固めて安定するのなら、カチンコチンの銅像の方が安定するということになります。しかし実際に、人間と同じサイズの銅像など、きわめて不安定だ。赤ん坊がひょいと触れただけでガシャンと倒れてしまうほどでしょう。なんで、人間がおよそ60kgの重さを小さな足の裏二つだけで支えることができるのか。それはバランスを取っているからです。もちろんバランスを取るためにほんの少しの筋力は使うけれども、筋力で固めているわけではない。そういう「常識」がもっともっと世間に広まってほしい。誤解をおそれずにあえて書きますが、集団で筋トレしてる高齢者などまるでブロイラーのように見えますよ。ウォーキングが大好きな人もいますが、ぶんぶん腕を振り回して歩くのは、美しくないですよ。何をそんなに頑張っているんですか。人間はもっともっと省エネで動けるんです。多くの人はアクセルとブレーキを同時に踏むようなカラダの使い方をしています。それでカラダを壊し、体を痛めています。そうして整体院に行き、「治してくれ」という。それで食っているぼくが言うのは変な話だが、どこかおかしいと、ぼくは思う。筋トレというのは、アクセルを強く踏む訓練に似ています。そうではなくて、ブレーキをはずす訓練をすればよいのです。合気道をはじめ、日本の文化というのは、基本的には「ブレーキをはずす訓練」なのですね。そういうすばらしい文化(稽古体系)が、もともと日本にはあったのです。文化があるということは、まじめに練習すれば誰でも会得できるということなのです。それが稽古体系という意味です。しかし、それを誰も知らない。本当に、もったいないですよ。というわけで、最近はちょくちょく合気道の技を披露することにしています。だいたいみなさんビックリしてくれて、合気道に興味を持ってくれます。まあ、手を触れただけでその手が離れなくなって、そのまま投げられたら、たいていビックリしますよね。指一本の相手に、腕相撲で負けるとか、体重が重くなったり軽くなったりということは、ふつうは信じられないはずです。けれども、そういう世界が日本文化の中にはふつうに存在するのです。まあ、こんなことは合気道の技を受けた人でないとなかなか信じることはできないでしょう。おっと、ついつい技自慢になってしまいましたが、ぼくが本当に言いたいのはもっと感覚を磨きなさいと、「感覚」を磨くと、バランス能力が身につくよ、ということなのです。それはココロでもカラダでも同じことです。まあ色々な意見があるでしょう。けれどもぼくは、力でねじふせるのはスマートじゃないと思う。感覚こそ力。なんだってそうだと、思うんだけどなぁ。
2010年07月23日
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ぼくがつくづく感じるのは、他人まかせの健康法が多すぎるということです。「どうすればいいの?」という疑問を、ほんとうによく聞きます。「食事はどうすればいいの? どんなものを採ればいいの?」「睡眠は何時間くらい取れば?」「健康にいい体操って?」たしかに素直に人に聞くことも大切ですが、ぼくは、もっともっと「感じる」ということを大切にしても良いと思います。ヨガや禅に、「内観」というコトバがあります。これは、「自分の中で起きていることをつぶさに、こまかく観察する」ということです。多くの人は、まったくオートマチックにカラダを動かしています。だから、自分のカラダがどう動いているか知らない。カラダがどうなっているか、感じたことも少ない。自分が立つときの重心の位置。歩くときに足裏のどこに体重が乗っているか。首・腰の緊張ぐあい。ひじの運動・・・。そういうことをひとつも観察せずに、生活できるのが人間なのです。それはそれで良いことなのですが、あまりにもオートマチックになりすぎるのも問題です。というのは、「感覚」が鈍くなってしまうのですね。シールにして貼られた消費期限ばかりを信じるぼくたちは、自分の舌と鼻でモノが腐っているかどうかを判断する感覚を失ってしまいました。それと同じように、氾濫する健康情報に振り回されるうちに、自分の中の「快」の感覚を忘れている人があまりにも多いのです。現代人は、もっと「内観」をして、自分の感覚を磨いたらいいのにと思います。だって、自分の「やりたいこと」すら分からない人が多いでしょう?それは、自分のココロの奥の奥の声が聴こえなくなっているんです。そうしたらカラダの奥の奥の声も聴こえませんね。それでは不健康になってしまうのも当然です。アタマの知識だけでは健康にはなれません。カラダとココロの、もっと、もっと奥の、奥深いところの声を聴く。それが何よりの健康法ではないでしょうか。カラダはなんでも答えを知っています。愛すべき人も、生きるべき道も。ただ、要らないアタマの情報が多すぎてその声が聴こえなくなってしまっているんです。それは情報過多な現代のせいではありません。ここでもやっぱり「自分のせい」なんです。情報はいつでも受け取る側の問題です。つまり、「要らない情報」に振り回されるのは、「自我」が強すぎるからなんです。自分のことばかり考えるキモチ、その雑念・邪念が、ココロの声を聴くジャマをしているんです。そういった雑念や邪念を取っ払って、素直にココロの声に耳を傾けると、ほんとうにカラダが欲しがっているものが分かります。そのときぼくらは、本当に健康であり、健幸であると思うのです。
2010年07月10日
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男がみんな、スラッとした脚が好きかというと、まったくそんなことはない。女の人はやたらとダイエットをしたがるけれども、男は「やせているほうがいい」なんてこれっぽっちも思っていない。ぽっちゃりでもセクシーな人はセクシーだし、やせていても、なんとなくぐっとこないカラダもある。要するに「肉付き」の問題なのだ。じゃあ、いったい何がセクシーのポイントなのか。それは「肋骨のやわらかさ」であるとぼくは観ている。「セクシー女優」のあおいそらが一般のテレビに出ていたことがあったのだが、ぼくはその肋骨のやわらかさに驚かされた。思わず「さすがだ」と言ってしまった。肋骨がやわらかければ、左右に倒す動きも、ひねる動きも滑らかになり、女らしさ、そしてセクシーさが生まれる。面白いことに、人はそれを触らずともそれがどういう素材で、どれくらいのやわらかさかということを感じることができる。パッと見て鉄かプラスチックかガラスか、ということが分かるのと同じで、相手のカラダのどこがやわらかくて、どこがカタイのか、瞬時に判断しているのだ。それは直感(勘)のはたらきである。それで男がパッと目がいく場所が骨盤と肋骨。それがやわらかいと判断すれば、その女の人がセクシーに見える。そういう構造がある。「パッと目がいくのは胸」という人もあるかもしれないが、それは本当ではない。もし本当ならば、おすもうさんの胸にもついつい目が行ってしまうはずだ。しかし、そうはならない。どんなに大きい胸でも、見たいと思わないこともある。胸など誰でもやわらかいもので、特に面白いものではない。やはり男は、はじめに骨盤と肋骨を見ているのだ。骨盤を観て、そこから生えている腰椎(腰の部分の背骨)のそり具合を見る。力まず、たわむような腰椎であれば、よいと見る。そして胸椎(胸のうしろの背骨)と肋骨を見る。見るといっても、ジィッと見るのではなくぱっとそれを直感で判断してしまう。しかしやはり最終的には肋骨を見ていると思う。それほど肋骨は大事なのです。さて、そんな肋骨をやわらかくする方法があるのですが、知りたいですか?嬉しいことに肋骨のやわらかさは後天的なものです。身長や、胸の大きさ、容貌の良し悪しと違って、自分自身の努力によって、変えていくことができる。つまり、誰しもがセクシーな肋骨を手に入れることができるのです。しかし、まあちょっともったいぶって、ここには書かないことにしましょう。興味のある方はご連絡ください。
2010年06月22日
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ぼくは日々施術をしていく中で、「最高の整体」をやりたいと思ってるんです。これは完璧主義者の性ですね。しかし、なかなか最高の施術なんてできるもんじゃないんです。もちろんプロとして、本気で施術はしますよ。しかし、それが最高だったかどうかは検証のしようがないわけです。カラダは一瞬一瞬で変わっていきますから、対照実験ができません。厳しく言えば、整体はすべてが本番で、実験というのはひとつもないのです。だから、それが最高の整体どうか誰にも分からないのです。それがぼくの悩みでした。施術をする。来院者さんに訊く。たとえば「痛みが9割なくなりました!」と言われる。それはそれでOK.しかし、本当に最高だったのか?と思うとなんとなくモヤモヤした気持ちになっていたのです。「9割痛みは取れたが、もっと上手ければ100%取れたのでは?」「もっと短い時間でできたのでは?」「もっと手法の数は少なくてもよかったのでは?」「今回は改善を8割にとどめたほうがよかったのでは?」考えようと思えば、いくらでも考えることができます。「最高の整体って、いったい何なんだ!?」ぼくは悩んでいました。しかし最近、ふとしたきっかけで「今のは最高の整体だったのでは?」と思うことがありました。整体をしていて、なんとなく受け手の気持ちが伝わってくる。言葉を交わさなくとも、通じ合っているのが分かる。相手の施術してほしい部位が手に取るように感じられる。それは不思議な経験でした。それから、その「最高の整体」を理想とするようになり、若干、施術が変わっていきました。そのときの施術が基準となるので、「今の施術は良かったか悪かったか」が分かるようになってきたのです。そのなかで分かってきたのは「よい整体か悪い整体か」という区別は施術結果によるものではないということです。つまり「痛みが取れたからよい整体」「痛みが残ったら悪い整体」ということではないのです。じゃあ、何を基準にして考えるのか。それは「心が通じ合ったかどうか」なのです。心が通い合った施術は成功、心が一方通行なのは失敗と思ってよいのです。「心が通じ合う」というのは非常にあいまいな言い方ですから、基準にならないと思う方があるかもしれません。しかし、感覚としては非常にハッキリしていて、心が通じているか否かというのは明確に違います。しかし、これは言葉ではなかなか説明できません。フワッと二人でひとつになったようなピンと気が張ったような、不思議な感覚なのです。おたがいの構えもガードもポーズもなく、ただ自然体でそこにいる、という感じです。まあ言ってみれば、仲の良い恋人や夫婦が「この感じ落ち着くんだよね」と思う感じです。よいカップルの空気は「愛そう」とか「やさしくしよう」とかそういう邪念や作為がないですが、まるでそのような感じですね。「よくしてあげたい」「治したい」という気持ちさえない。ただ、二人がそこにいる。そんな感じです。整体はやればやるほど奥が深くて最高にスリリングです。誰か、やってみません?
2010年06月09日
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他人のココロを読むために、まずは自分のココロを読めるようにならないといけない。自分のココロに目を向けることは恐ろしいことです。ココロの奥底にはコンプレックスがあり、トラウマがあり、触れられたくない傷があります。その傷に向き合い、癒していく過程の中に、相手のココロを読むということがあるのです。自分のココロをよくよく観察し、またココロに関する本を読み、そして実践していくと、その人のココロの傷がどこにあるのかそれを見つけるのはさほど難しいことではなくなります。難しいのは、そのココロの傷が原因で、今のあなたのつらい状況があるのだ、ということを理解させることです。たとえば人間関係に悩む人はほとんど親との関係が未解決になっています。うまくいかなかった親との人間関係が普段の人間関係に出てくるのです。しかしそのことを本人に直接言ってしまうと、心理学用語でいう「抵抗」が起こります。つまり「あなたの今のつらい状況は、 親との関係が原因になっているのだ」と言っても、「いや、もう自分の中で解決しています」と言われる。また整体でいうと、あきらかにトラウマや精神的ストレスから痛みが発生していても、「いえ、ストレスはありません」「トラウマはもう大丈夫です」「そういうことに劣等感を感じてはいません」と言われる。やはり本人が気づかないとダメなのです。また本人が気づくように導いてあげないとダメなのです。アドバイスをしてみてうまく受け取ってもらえないと「あの人は素直じゃない」と言いたくなりますが、ほんとうはアドバイスする人が下手なのです。誰しもココロの傷に触れられたくないのです。それは傷つくのが怖いからです。だから上手に導いて、その人が気づくように仕向けないといけない。それが何よりも難しいことです。ただ心理カウンセリングと違って整体では相手のカラダに触れることができますから、相手はウソをつけません。「ストレスはありません」と言われてもカラダを見て「ほんとうにありませんか?」と言える。そうすると相手は観念して「実は・・・」と話し出すのです。ココロを読み、ココロに気づかせる。それが整体の真髄ではないかと思います。余談ですが、ココロを読むには自我を消す必要があります。ココロを読むのが得意な人でも、たいていは「好きな人」のココロだけは読めません。それは我が出てしまうからですね。どうでもいい人の気持ちは分かるのに、「好きな人」のことはさっぱり分からないというのは自我が出てしまっているのです。しかし「好き」というのは「我」ですから、「我」がなくなれば「好き」もなくなってしまいます。どんなプレイボーイも本気で惚れたときは失敗するらしいですが、そこにはそういう訳があったのです。
2010年06月03日
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病気や痛みというのは、原因が分からないから怖いのです。逆に原因さえ分かれば、カラダのことで怖いことなどないのです。体調には波があるので、それを読む。カラダの反応を知る。そういうことをしていけば、かなり楽になります。最近のぼくを例にとってお話しましょう。ここ数日で、唇に出来物ができてオデキ直人になってしまいました。ニヤリと笑うと、切れて痛いです。これは胃腸の疲れが原因ですね。最近は暴飲暴食をして胃を鍛えていたのでいたし方ないことです。わざと満腹食べたり、多めに酒を飲んだりしていました。それで、そろそろ回復させようと思ったのですが、胃が疲れてくると「ニセの食欲」が出てくるのですね。なんだか腹が膨れているのに、やたら食べたいときがありませんか?それが「ニセの食欲」です。胃がマヒしてしまうと、いくらでも食べられるような錯覚に陥ります。(その食欲を「健康」と勘違いしている人もいます)それでその食欲に負けてしまい、しかもチキンラーメンとかしか食べていなかったので、ついに出来物ができてしまったというわけです。それで肺にも負担がかかったのか、朝に2,3回ゴホゴホと咳がでることがありました。これは肺や胸周りの筋肉をカラダがゆるめようとする反応です。またその関係と思いますが、お尻にも出来物ができました。さて、このままではいけないので、ここ2日は朝食を抜いてプチ断食をしています。それは胃腸を空にして休ませるためです。そうしたら昨日と今日はやたらと眠い。これは、回復の始まりの弛緩反応と見てよいでしょう。まずは変になっていたカラダがゆるむのです。そうすると眠くなる。このまま朝のプチ断食を続け、無理に食べなければ、排泄反応がはじまりおそらく便が出ます。そのあとはカラダが変わって、夏のカラダ、つまり汗が出るカラダになるだろうという見込みです。ここまで分かっていると、カラダがダルくても、とくに不安はありません。朝起きて、疲れが残っていても「胃腸が休まっていない」と思うだけでそれ以上のことは考えません。だからもちろん薬を飲む気にもなれません。カラダは勝手に治るものだからです。しかし世間の人はほとんどこういう考え方をしていません。辛ければ薬を飲むという安易な選択に流れてしまうのです。そうやって自然治癒力を衰えさせ、なおさら薬に頼るようになってしまうのです。もっともっと深くココロとカラダを見ていけば、ほとんどの症状は解明できます。「原因不明」ということが現代医学には多いですが、整体・東洋医学的に見れば分かることも多いのです。こういった考え方をもっともっと世に普及していくことがぼくの使命だと思っています。
2010年06月03日
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言葉というものを過剰に信じないほうがいい。言葉というのは、左脳で作られる。しかし左脳的なものは自分で操作することができる。ほんとうに観察すべきポイントは人がふだん無意識的にやっている右脳的な動作。内容ではなく、しゃべり方。話すスピード、声のトーン。さりげなく何度も出てくる単語。作っている表情の合間のふとした視線。文章でなく、筆跡で見る。見せようとしていないポイントを見ると、ハッとその人について気づくことがある。それが整体師の観察だ。
2010年06月02日
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不安・落ち込み・迷い・恐怖・心配・・・。そんな気分のとき、ぼくらは休みたくなります。布団の中にもぐって、一日中寝ていたいと思ったりもする。しかし、そういった感情もまたプラスの感情もすべて筋肉の緊張から起こっている。心だけが動くということは人間にはありえなくて、かならず心と体は連動しているのです。筋肉の緊張の偏り具合で、感情は決まります。だから本来、感情にはプラスもマイナスもない。筋肉の緊張の偏りに、後付けで名前をつけたものを感情と呼んでいるのだけなのです。とにかく感情が激しすぎるのはよくないとかなり昔から東洋の哲学は教えています。感情が激しいということは、筋肉の緊張の偏りが激しいということ。筋肉の緊張があまりに偏ると、いわゆる「病気」になります。とはいえ、実はこの「病気」も治癒の一環なのだ。現代人は病気をこわがってすぐに薬を飲むけれども、東洋医学では「症状即療法」と言って、カラダに現れる症状は、それがつまり自然治癒の始まりと考えます。たとえばセキ。風邪を引くとセキが出ることがあるが、あれは胸の緊張をゆるめる働きがある。胸を触りながらセキばらいをしてみると、一瞬、胸筋がグッと硬くなって、そのあと空気が一気に放出されるのが分かるでしょう。(実際にやってみてください)一瞬グッと硬くして、そのあと呼吸と共にフッと抜くと筋肉はゆるむのです。また、たとえば下痢。下痢もカラダに対する療法なのです。腸が疲労してきた場合に、腸を空にしてカラダを休ませる。もしくは毒が入った場合に、それを体内から出す。そうすると、たとえば嘔吐というのも「悪いもの」には思えないでしょう?くしゃみもそうですよ。くしゃみをした瞬間に「風邪かな」という人があるけれども、あれはそう自分で思い込んでいるだけです。本当はくしゃみによって、首周りの疲労の偏りが解消されているのです。だからくしゃみが出たら、「あー、治った」というべきなのです。熱が出るのは、全身の筋肉がゆるんでよいのです。言ってしまえば、整体を受けるよりもよっぽどよい。どんなに最高の整体も、やはり人為的なものなのです。自然治癒の芸術にはかなわない。で、かなり話がそれてしまったけれども、不安・落ち込み・迷い・恐怖・心配。こういった感情が生まれてくるときというのは、基本的にはエネルギーが余っていると見るべきです。ただ、筋肉の疲労が偏っているだけ。筋肉は偏って疲労すると、やたらと疲労感を感じます。全身に疲労を感じる。しかし本当に全身が疲労している場合は、むしろ爽快な感じなのです。だから「疲れたな」というときは余分に庇いすぎずに、たとえば思いっきりランニングなどしてくると、かなり心が晴れるのではないかと思う。そうしたら心配で夜眠れないということもなくなる。それは直接的な解決法ではないけれども、直接的に解決しようとするよりも効果が高いと思う。(ただ、いわゆる「スポーツ」はぼくは個人的にはオススメしません。なぜなら大抵の競技では、なおさら偏ることが多いからです)このように整体の考え方というのは現代の考え方とはぜんぜん違うけれども、非常に役に立つのです。なんでもかんでも症状を薬で抑え込めばいいというものではないのです。自然を信じる。自分を信じる。それが整体の考え方なのです。
2010年05月18日
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ココロというのは面白いもので、かならずカラダの緊張とつながっているんです。「腹が立つ」という時は、お腹の筋肉がかたくなる。落ち込むときは胸の筋肉がかたくなる。張りきるときは腰の筋肉がかたくなる。「もういやだ!」というときは腰の力が抜けている。ある人を整体してみると、ある程度までは、性格が分かるものです。それは、ココロがカラダにあらわれるからですね。カラダとココロはひとつです。その性質をしっかりと理解し、それを利用しましょう。つまり、ココロがヘコんだときには、カラダを変えていけばよいのです。ココロでココロを変えようとしても、なかなか変えることができません。しかしカラダをゆるめることで、ココロも自然と変わってくるのです。こないだ「雨の日は気分が落ち込む」という80代の男性が来院されたのですが、首と胸の緊張をゆるめると、「スカッとした」と言ってお帰りになりました。それは、カラダからココロを変えたからカンタンだったのです。それを「落ち込むことはありませんよ」なんてコトバで説得しようとしても無理なのです。できないことはありませんが、カラダに響くコトバを発するのは、非常に難しいことなのです。まあこのブログを読んで、すこしでも気持ちが晴れたなら、それはカラダに響いたということですけどね。「ココロ」というコトバは「コロコロ」から生まれたという説があります。ぼくはその説を信じているのですが、ココロ、つまり感情というのはアテになりません。たとえばツライとき、「死にたい」とか「消えてなくなりたい」とか「もう辞めたい」とか色々おもうと思いますが、そういうのは全部、カラダ(筋肉)の緊張として説明ができるのです。そもそも動物は心から「死にたい」と思うことはありません。そのココロは「生きたい」なのです。みんな「生きたい」んです。ただ、カラダがゆがんでくるとコトバ(表現)もゆがんできます。そこで「死にたい」なんて思ってしまうのですね。しかしそれは、けっして本当の感情ではないのです。だから、「自分のコトバ」にだまされてはいけない。「本当の感情」というものはないのです。感情なんてアテになりません。どんなにツライときでも、カラダが変わればココロも変わってきます。そしてカラダは、ほおっておくと自然によくなるという、すばらしい性質があります。よくならないのは「傷口」をいちいち気にしていじくりまわすからです。どうしてもツライときは、そのツラさを何とかしようとしない。無理に明るくしない。ツライならツライでいいんです。落ち込むときは、目いっぱい落ち込めばいいんです。ヘコんだらヘコんだ分だけ、ココロは強くなって復活してきます。大切なのは「待つ」ココロ。「ほおっておく」という態度です。「ツライ」という感情は、実は回復のはじまりです。ココロの痛みもカラダの痛みも、痛みを感じた時点が回復のはじまりです。あとは、ココロとカラダの声を聞いていれば、自然とラクになっていきます。大丈夫です。トンネルの出口はもうすぐそこにあります。
2010年05月16日
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「カラダを鍛える」ということをすこし考えてみよう。カラダを鍛えるには「ちょっと無理をする」のがいちばん。カラダを甘やかしてばかりだと弱っていくばかり。庇ってばかりだと、ダメになるのだ。だからたまに夜更かし、いや夜を明かしてみる。(こないだ徹夜したら、まだまだイケると思いました(笑))スナック菓子で満腹になる。インスタント食品ばかり取る。酒をたくさん飲む。そうやってカラダに悪いことをする。そうすると、カラダがだんだん疲れてきます。ダルくなったり、調子が崩れたりします。そのときにパッと「健康的な生活」に切り替える。プチ断食をして胃腸を休ませ、睡眠をしっかり取る。すると、カラダは復活します。前よりも強くなって。(サイヤ人みたいですね)毎日がラクだと、カラダは弱っていきます。しかしあえて負荷をかけることで、カラダは強くなるようです。だから無理をするのは基本的には良くないけれど、「たまに無理をしてみる」とけっこう面白かったりするものです。ココロも同じです。
2010年05月06日
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整体というのは面白いもので、ある一箇所が変わると、全身が変わるということがあります。野口晴哉先生は、「整体とは、川にある小石をすこし動かして、流れを大きく変えるようなもの」というような表現をされていましたが、なんとなく分かるような気がします。だいたい、パッとカラダを見ると「つっかかっている部分」があるものなのです。それほど細かく分かるわけではないですが、「なんとなく悪そうだなー」と思う部分があるのですね。うちの施術所に、膝が1年くらい痛いという方が来院されています。その人の場合、なんとなーく腰が悪そうな感じだった。それで、あまり膝は触らないで腰をよくしていったら、1ヶ月くらいで通常の状態になりました。このように、ある部分の「流れ」をよくすると、バランスが取れて痛みがなくなるというのはよくあることです。というかそれが整体の基本だとぼくは思っています。さて、最近思うのですが、人生にもそんな一面がありますよね。それまで、何かしらつっかえていたものを「捨てる」ことで、新しい流れができることがあります。その「つまり」は小さなもの(こと)かもしれないですが、存外に大きな影響を持っていたりします。それは、なかなか自分では分からないのですが、他人から見ると見えていたりします。そういった「つかえ」をなくしていくと「気」が通ります。ちょっと怪しく思われるのでこれ以上は触れませんが、流れがよくなると気が通るのです。そうすると、人はイキイキしてきます。これはカラダやココロを整体するのも人生を整体するのも、同じだと考えています。いま、「つかえ」ている部分はありませんか?もしそれを手放したら、どうなりますか?
2010年03月28日
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「あー、また忘れちゃった。いやよねー、年のせいかしら」とか「近頃、〇〇になってね。年のせいだわー」というフレーズをぼくはよく聞きます。たしかに、年齢にしたがって変わっていくものはあります。しかし、何でもかんでも年のせいにしてしまうのはカラダに対する責任放棄と言えるのではないでしょうか。カラダは長年がんばってきたのです。無理に使われても、ヘタクソな動かし方をされても、休みがなくても、がんばって働いてきたのです。そりゃあ、長年がんばればちょっとは疲れてきますよ。カラダも休みたいなぁって思いますよ。なのにそこに追い討ちをかけるように「カラダがもうボロボロだ」「年だから、カラダが動かない」とかカラダに対してめちゃめちゃヒドイことを言ったりします。「長年よくがんばってくれたな」とか「そろそろ少しは休むか」なんてカラダをねぎらってあげる人はほとんどいないのです。年をとってカラダが痛むのはカラダが悪いのではなく、あなたのカラダの動かし方が悪かったのです。「カラダ」という素晴らしい道具を使いこなせていないのはあなた自身なのです。それをちょっと古くなったからといって、カラダのせいにされてはカラダもたまったものではありません。「ヘタクソな動かし方でごめん」とカラダに謝ってもいいくらいです。胴体力メソッドを開発した故伊藤昇先生は「カラダのピークは60代」だと喝破しました。たしかに筋力という意味では20代が最高かもしれません。しかしカラダの動かし方というのは年をとればとるほど上手くなってもおかしくないのです。年齢を重ねるほどに、省エネが動きができるようになれば良いのです。ですから「年のせい」というフレーズはなるべく発さないほうがいいのです。27歳のぼくが言ってもあまり説得力がないかもしれませんが、カラダのプロとしてどうしても伝えたいので書いておきました。
2010年02月16日
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どうも、尾関です。なかなかゲイリー・クーパーが止まりません。仕事中何度トイレに行ったことか・・・。来院者さんの筋肉をゆるめるのはいいけれど、ぼくのお腹をこれ以上ゆるめたくありません・・・。これで3日目です。とはいえ、ここで焦ってはいけません。というのは、ゲイリー・クーパーが続くのには意味があるのです。カラダが、自分を痛めつけたりするはずはないのです。カラダ(胃腸)は自分を守ろうとして必死になって、それでゲイリー・クーパーになっているのです。それをやたらめったら、止めてはいけません。だから僕は、まだ一粒も薬を飲んでいません。というか、いま「薬」という選択肢を思い出しました。そうか、「薬」という手があったよね。まあ、いつまで続くか分かりませんが、とりあえず「カラダ様」におまかせしたいと思います。明日はプチ出張ですので、車の中でプリッと出ないようにがんばります。
2010年02月15日
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整体をやっていて思うのですが、なぜ皆さん、こうも「筋トレ」が好きなのでしょうか。かくいうぼくも、高校時代はけっこう筋トレをやりました。毎日寝る前にやっていたのです。でも二十歳くらいで合気道に目覚め、その哲学に触れてからは、ほとんど筋トレというものをやらなくなりました。それは「筋トレ」にどこか不自然さがあり、自分の考えに合わないと思ったからです。ぼくは筋トレが悪いと言いたいのではありません。スポーツ選手には必要だと思いますし、なにかしらの理由であまりにも筋力低下した場合には、筋トレが必要なこともあるでしょう。しかし、何から何まで「筋肉のせい」にしてしまうと、たとえば痛みの原因というのは分からなくなってしまうのです。先日、うちの整体に「座っているとお尻の骨が痛い」という方が来られました。60代の女性です。ご自身いわく「やせてきて、お尻の肉がいないから痛いんです」しかし、お尻の肉がなくて痛いということはほとんどないと教えてもらっていたので、骨盤を整えて、最後に尾骨(尾てい骨ですね)の調整をしました。すると、次回来院されたときには、「座るときに痛くなくなった」とのこと。良かったですよね、無理にお尻に肉をつけなくて。あと、膝が痛い方にもよく「筋トレが必要でしょうか・・・」と聞かれます。しかし、施術して膝がよくなった方は体重を減らしたわけでもないし、筋力を増やしたわけでもありません。カラダのゆがみを取って、バランスを整えることで、おのずから膝の痛みが取れていくのです。もし、「筋力がなくて膝が痛い」ということだったら、赤ちゃんはどうなるのでしょうか?もし、「体重が多くて膝が痛い」ということだったら、お相撲さんはどうなるのでしょうか?ぼくが来院された方にこのお話をすると、だいたい皆さん納得してくれます。「カラダのゆがみが原因だったんですね」と。世間で言われていることをそのまま鵜呑みにしてしまうと、危険なのです。間違った考え方でカラダを壊す人は多い。無理な体操やストレッチで、逆に筋肉が固くなる人も多い。膝が痛いのにウォーキングを続け、もっと痛める人もいる。なかなかよくならない人というのはたいてい「常識」にとらわれています。痛みが取れない「常識」から痛みが改善される「非常識」へと、頭が発想されたときに、症状はよくなってきます。つまり、固くなったアタマとカラダとココロが変化したとき、人はよくなるのです。最後に、本で読んだフレーズを。「ライオンもゾウも筋トレしないのに、たくましい」
2010年01月28日
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ぼくが個人的に独断と偏見で考えているのは「整体とは相手の心身に チューニングする技術である」ということ。相手の「体を整える」という発想ではないのです。ラジオのチューニングのように相手の振動というか空気というかそういうものに波長を合わせていくと不思議と身体がゆるんできて、痛みが取れることが多い。誰かがマイナス思考になっているとき、ある人は「あなたは今、マイナス思考になっているよ。もっとプラスに考えようよ」と相手を否定し、悪いところを見つけて、それを正そうとします。こういうことは論理的な人がよくすることです。それとは逆に「そうだよね、つらいね」と共感する人もいる。相手がマイナス思考だとかプラス思考だとかいう判断や分析をしない。ただ、相手を受け入れて共感する。それが整体の発想なのだと、ぼくは思うのです。整体をしていて「感じる(聴く・観る)ことは癒すことだなぁ」と思いました。こういう発見が日々あり、かくも整体というのは面白いものなのです。
2010年01月26日
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ぼくは、結構どこでも歌ってしまう。知らぬ間に歌っている。鼻歌のつもりなのだが、気づけば、わりかし本気で歌っている。そして歌詞やリズムがよく間違っている。そばにいる人は、それがすごく恥ずかしいという。たまに松山千春のモノマネもしてみるが、それも全然似ていないという。お風呂に入ったら、もうほぼ100%歌ってしまう。シャワーのヘッドがマイク。以前、本屋の店長をしていたとき、店長室で歌っていたら隣の休憩室に丸聞こえだったらしくパートさんに笑われた。「店長、いつも歌ってますよね」きっとぼくは鼻歌依存症なのだ。この病気、誰か整体で治してください。
2010年01月24日
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整体・合気道をやればやるほど、「筋力」というものの限界を感じる。そして神や天にまかせることの有用性を強く感じる。たとえば筋肉に「コリ」がある場合、それをどんなに強く押しても、そのコリがなくなることはない。それとは逆に、「このコリはなくなる」と信じてそっと手を触れる。それだけで、コリはジワジワと溶けていく。(「溶けていく」という表現がいちばんしっくりくる)「なにかをやってやろう」という意志があるとうまくいかない。たとえば書道や絵画で「うまく書こう(描こう)」とするとそこに作為が入って良い作品ができないように、「治そう、治そう」「コリをほぐそう、ほぐそう」という気持ちが前面に出すぎると、どうしてもうまくいかない。またうまくいったときに「やったぞ、できた」と自分がやったように思うと、次がうまくいかない。それは不遜な気持ちが出たからです。「自然」というのがいちばん良い。「勝手にそうなる」という状態。そして「勝手によくなった」のだから、改善は「神」「天」「それ」がしたのだと自然と思えてくる。カラダはよくなるようにできています。あとはそれを信じられるかどうか。もはやそれは祈りと言ってもいい。我らが整体は非常に科学的ですが、それは同時に宗教的でもあるのです。そこで力を持つのは感覚です。どこまで感じることができるか。どこまで「声」を「聴く」ことができるか。そこがポイントだと思います。
2010年01月21日
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メタ的に見ると見えてくるものというのは多いのです。「メタ的に」なんていうと、なんだか難しい用語に聞えますが、そんなことはありません。たとえば自分とAさんが話をしている。それを「自分とAさんが話しているなあ」と捉えることができれば、それはメタ的に認識したことになります。メタ的に見ることができると、感情が変わってきます。とくにイラッとすることが少なくなる。また、相手と自分の会話がどこでどうズレているかが見えてきます。また身体的に見ても、たとえば筋肉のハリがあるとかゆがみがある、という認識から、「なぜ、このハリがあるのか」とか「なぜゆがみが生じたのか」という視点に変わってきます。それらはすべて、メタ的に見たときに変わってくるのです。整体をやっていて、そんなことを思いました。
2010年01月19日
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心を知る技術ちょっと古い本でアマゾンで180円で買いました。カウンセラーの先生の本です。この本によれば心の病を抱えている人は次の3段階を経て、改善していくようです。受容→気づき→自立そして何よりも大事なのは、はじめの「受容」であると。つまり「認めてもらえた」「分かってもらえた」という感覚が、心を病む人にとっていちばん大切だということです。そのことで、昨日おもしろい経験をしました。いま、整体の9日間の技術向上研修期間なのですが、そのとき仲間の先生と練習していて、ふと「ozekey先生は、人に気を利かせて神経使ってますもんねぇ」とボソっと言われたのです。ぼくは、それがすごく嬉しかったのですね。自分で、神経質なところがあるなあと思っているし、空気を読みすぎたりしてしまうところがあると自覚していたので、その一言で「なんか分かってもらえた!」と思ったのです。その一言を言ってくださった先生が内心でどんなことを考えていたかはわかりません。なんとなーく、言っただけかもしれません。でもぼくとしては「わかってくれて嬉しい」と思ったのです。そうしたら、一気に筋肉がゆるんで全身の血流がよくなりました。そして「これこそが整体の本質なのかもしれない!」という思いを持ちました。だって、たった一言です。全身の筋肉を揉んだりしたわけではありません。だけど、全身がバーっとゆるんできた。それってすごいことなんです。しかし「その一言」を言おうとすると出てこない。セリフみたいになってしまって、相手に響かない。けっきょくは、自分自身を鍛えて、「その一言」がスッと自然に出てくるようにならないと整体を極めることはできないのではないかと感じています。「誰かを理解する」ということは誰かを分析するということではなく、その人になりきり、その人を受容するということなのです。そしてその修行は、一生涯、続いていくのです。
2009年12月15日
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つまるところ整体というのはじぶん自身の「体」を「整」えるということではないのか。肉体的にも精神的にも、じぶん自身の「芯」がないと何の効果も出ない。たとえば凝っている筋肉をゆるませようとして「ゆるめ!ゆるむんだ!」と念じながらやっても効果は薄い。それは、焦りの気持ちが手に現れるからです。しかし逆に「この筋肉はゆるむに違いない」という信念を静かに持っていると、知らぬ間に筋肉がゆるんだりします。とはいえ傲慢になってしまい「これくらいすぐにゆるむさ!」という気持ちになるとまた、それはそれで効果が出ません。謙虚で、なおかつ信念に満ちた状態で、相手に集注しているときは、効果が高い。それには、しなやかでたくましい、柳のような心身が必要なのです。整体は肩コリ・腰痛を改善させる技法などではなく、もはや哲学であり、生き方であるように思います。
2009年12月15日
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謙虚であることは大事だ。ぼくは整体師ですが、謙虚さがなくなり傲慢になっているときは、どうしても結果が出にくい。つまり、その人の痛みを取ることができない。やればやるほど、技術うんぬんではなく、「気持ちの問題」が大きいように感じる。よく痛みや症状のことを軽くみて「気のせいだよ」と言うことがある。しかしそれはおかしなことで、ほとんど痛みや症状は「気のせい」なのである。それに「気のせいだよ」というのは「気のせいだから気にするな」ということでしょう。それはなおさらおかしい。気にするなと言っても気になるのが人間というもので、その「気になる」のを何とかするのが整体なのです。そんなとき、術者が傲慢で「治せる治せる」とタカをくくっていたり、「俺が治しちゃうよ!」なんて気張ったりしていると、どうしても結果が出ない。受け手が「この人の手で治りたい」と思わないかぎり、どうしてもよくならない。野口晴哉先生が「心の集注」ということを言っていて、ぼくは最近そのことを本で読み返したのだけれど、すごく心にビンビンくるものがあった。心が受け手に集注していない。つまり気が入っていないと、効果は出ない。「気とは何ですか?」と聞かれるとはたと困る。しかし、確かにそこにある。そして傲慢さが出ると、気が出なくなる。謙虚に、自然にまかせ、相手を思いやると、自然と気が出てくる。キーワードは「共感」「時空の共有」ということになると思うけれども、まだまだ要研究の課題だ。「不思議な世界だなあ」と思ったらクリック!!
2009年11月20日
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じぶんのこころを透明にして、透明にして、透明にする。呼吸をゆっくり、一定にする。自分の心が洗われると、相手の心が現れる。こころはかならず表出している。こころは内面だが、すでに見えている。それを、見ようとするかしないかだ。小さな仕草、目線、言葉尻、助詞の使い方ひとつ・・・。「sign」を見逃さない。そんなことを、考えている。面白いと思ったら、ポチっとお願いします↓
2009年10月30日
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痛みが出ている場所に捉われてはいけない。何度も教えてもらっていることだが、今日、電車のなかでふと気がついた。「全体を見なきゃダメだ」と。やっとこさ、言われていることが腑に落ちた感じ。といっても「わかる」と「できる」じゃ大違い。明日もがんばるぞ!
2009年09月25日
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ぼくは言ってみれば身体マニアで、骨とか筋肉とか、すごく好きなんです。それでいろいろ観察してみるんですが、知れば知るほど面白いですね。カラダはどこかしら必ずゆがんでいるものですが、そのゆがみにもクセがあります。脳のせいだったり、生活習慣のせいだったり、やっている仕事やスポーツのせいだったり、いろいろありますが、とにかくじぶんのゆがみのクセを知ることで、ゆがむことが怖くなくなります。ゆがみにも意味がある、ということに気づくのです。ちなみにぼくの場合は、すぐに左側がちぢんで、腰が左に回旋します。ストレスは胃にくるタイプで、なにかあるとすぐに食べなくなります。で、この胃をかばおうとして、おそらく左側がちぢむのです。また腰が左に回旋してくると、左のひざが痛みます。おそらくですが、過進展<のびすぎ>になるのでしょう。またこれも仮説ですが、中学・高校でやっていた卓球も、ゆがみの原因になっているような気がしますね。右利きの卓球マンは、右足を後に引いて、カラダを左にねじってかまえますから、そんなことをほぼ毎日5年くらいやっていれば、カラダもねじれるというもの。そういうことが分かっているので、ゆがんできたなと思ったら、積極的に右側にからだをねじり、なおかつカラダの左側を伸ばす運動をします。このときけっして無理をせずに、呼吸にあわせてゆっくりゆったり伸ばすのがポイントです。呼吸でカラダをマッサージするのです。最近、発見したのが、首を右に倒しながら息をすると必ずむせ返るのです。ごほごほと咳がでる。これはカラダの自然治癒力の作用です。咳やくしゃみ、あくびなど、自然に出てくる反応はすべてカラダがじぶん自身を矯正していると観ます。急激な呼吸を使って、瞬時にカラダを治しているのですね。げほっとやるときはすごく力を使います。おもに横隔膜がはたらきますが、もちろん肋骨なども動きます。うーむ、カラダはすごい。ぼくが思うにカラダというのは、オートマチック車なんです。つまりほとんど自動。勝手にゆがみ、かってに治る。自然な「ゆらぎ」を持っているんです。でも、ある程度をこえると人力で操作しないといけない。AT車も、シフトはオートマでも、ハンドルは回さないといけないですよね。つまりそれは「意識的になる」ということです。風邪はほおっておいても治りますが、「クスリを飲む」というのは意識的な行為です。意識的な行為をするときに、どの行動を選ぶのか。そのさいに、カラダを観る目が必要になってくるのです。大切な大切なカラダ。カラダを知ることで、健康はもっとたくましくなります。筋肉隆隆で、黒い肌と白い歯だけが健康ではありません。その人なりの健康というのがあるのです。それを見つけるのは、じぶんの責任です。次回は食養篇です。
2009年02月18日
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利己的な遺伝子ならぬ、利己的な内臓です。もしや、ぼくらのカラダは内臓のためにあるのでは?なんて変なことを考えてしまいました。それが正しいかどうかは置いといて、ほんとうに内臓のチカラというか、内臓の影響力は絶大です。たとえば「気分がのらない」なんていうのは、心・精神の問題だとふつうはとらえられます。しかし「気分がのらない」のは、単純に内臓が休みたがっている場合がけっこうあるのです。「めんどうくさい」「やる気がでない」も同じです。精神的に疲労している自分をふるいたたせようとしても、なかなかその気が起こらない。そんなとき、ともすれば自分を責めてしまいがちです。「なんで俺は、意志が弱いのか?」「アタシはダメだ」というふうに。しかし、自分を責める必要はないのです。精神的に弱いのではなく、ただ単に、内臓が疲れているだけという場合が多いのです。内臓の疲れの原因はほとんど食べすぎだと思います。もちろん精神的な疲労で内臓力が弱ることもあります。それでまた精神的にも疲労する。悪循環なのです。そんなときはやたら頑張るのではなく、「ああ、内臓が疲れているのだ」といって、すこし食を細めるのです。それで内臓を休める。そういう健康の術をぼくは持っています。内臓と会話してください。内臓に無理させてないか、聞いてみてください。年末年始は牛飲馬食する人も増えるでしょうが、くれぐれも内臓は大切にしたほうがよいでしょう。
2008年12月30日
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岡島瑞徳先生が亡くなっていたらしい。10月12日。今日ネットで知って、かなりビックリ。岡島先生は、野口晴哉先生のお弟子さんで月刊秘伝では有名ですね。まだけっこうお若かったのでは?うーむ、未だに信じられない。DVD持ってるし。ご冥福をお祈りいたします。合掌。
2008年12月20日
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内臓力の威力はものすごい。おとといの朝はやたら起床できなかった。5:45に目覚ましが鳴るのだが、起きられない。普段なら5分か10分くらいで起きるところを45分かかってしまった。これはぼくにとっては、異常事態なのです。で、這いつくばるように起きてみると、どうもお腹がきもちわるい感じ。胸やけのような感じです。うーん、いやな気分だということで、その日は減食&プチ断食を決行。朝食はみそ汁のみ。昼ごはんも、おにぎりひとつとパン一つ。夕食もすくなめにしました。そしてよく寝る。すると翌朝、つまり昨日の朝ですが、かるーく朝食をとったところ胃腸が刺激され、ぶりぶりぶりと気持ちよく出まして、完全復調です。やはり、「排出力」がにぶるとイカンです。「出す力」がなくなると、カラダにどんどん毒がたまります。そうすると、カラダも重くなるし、不思議といろんな意欲がなくなってくるのです。つまり精神までおかされる。いまふうに言えば、「プチうつ」というやつでしょうか。かつての日本人には、「ハラ(腹・肚)感覚」があったと言われていますが、内臓と気持ちに密接なつながりがあることを実際に感じていたのでしょう。内臓感覚を敏感にしておくと、いろんな信号に気づけます。今回は口内炎ができたので、内臓が疲れていることが判明しました。内観といって、じぶん自身のカラダに目を向けてみるのです。「からだはほてっている感じ」「水分が欲しい時期なのか」「内臓がただれているような感じ」「体温が上がらない感じ」「手足の先端がつめたい感じ」いろんな不調サインがありますが、それぞれの対処法を知っていれば、からだの変化が怖くなくなるのです。はじめは内臓感覚はつかみにくいですから、「肌の不調は、内臓の疲れ」と覚えておくとよいでしょう。自分自身に自覚はなくとも、内臓が疲れていることがあります。内臓はウソをつきません。ぜひ、内臓の声なき声に気づいてあげてください。
2008年12月19日
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最近、こころなしか腸が疲れているようです。ぼく自身は元気なのですが、腸が疲れているらしいのです。1:状態宿便がたまっている感じ。マラソンのときに「横っ腹」が痛くなることがあるでしょう。あれは宿便らしいのです。最近は、朝の鍛錬のときにちょっと右わき腹が痛むのです。おそらく、腸の排泄力が低下しているのでしょう。その証左として、下唇に口内炎ができています。2:原因食べすぎ。もしくは甘いもののとりすぎ。甘いものをとりすぎると、内臓力が低下します。白砂糖のとりすぎは禁物です。もしくは単純に食べすぎ。「満腹」にするのは、内蔵によろしくない。腹八分目に抑え、空腹感を楽しむくらいがちょうどいい。3:対策プチ断食。もしくは減食。内臓を休めてやることが第一です。内臓は寝ているあいだもがんばってくれます。休ませてやるには、食べないことがいちばんです。というわけで、昨日は朝と昼の食を減らしました。すると午後3時ごろに便意をもよおし、トイレからでたあとは、だいぶん軽くなった感じです。このようにからだを対話することで、適宜、健康を保つことができます。こわいのは、「からだのリードタイム」です。実際、いまの自分が疲れているとは思わないですからね。内臓が疲れて、それからしばらくしてほんとうに自分が疲れてくる。車のハンドルのように、「あそび」があるのです。ですから、内臓がメッセージを送ってきたら、じぶん自身が疲れる前に、内臓を癒してあげないといけません。からだの本音を聞くというのは、こういうことなのです。
2008年12月11日
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凡そ文化・芸術と呼ばれるもののなかで呼吸と無関係なものはない。ぼくが思うに、文化・芸術と呼ばれるものは、等速性・一定性が要求される。たとえば筆で「一」というのを書くだけにも、非常な一定性が求められる。一定といっても、それは機械的な一定さではなく、イキイキとした、息をともなった一定なのだ。ある種の抑揚はある。しかしそれは、ブレではない。ぼくのイメージでは、呼吸の制御は、ヘリコプターの着陸に似ている。ヘリコプターが羽根を回せば、基本的には上に浮かんで飛んでいく。しかし着陸時には上に浮かびながらも降りてこないといけない。その矛盾というか相反性というか、そういう動き。筋肉でいえば、エキセントリック収縮というやつです。筋肉は縮むことしかできませんが、重力や拮抗筋を使いながら「縮めた状態を保ちながら伸ばしていく」その調整に呼吸が使われるわけです。細かい作業や気を遣う作業をするとき、素人は息が止まってしまいます。なれない仕事は疲れるというのは、そういう意味ですね。呼吸が異常になっているので、疲れるのです。玄人になると、呼吸が乱れません。だから長時間でも疲れないのですね。呼吸に目を向けてください。たしかに呼吸は意識しないでもずっと続きます。しかし呼吸を意識するだけで、生活のあらゆるところに応用が効きます。「いま自分がどんな息をしているか?」それを考えるだけでも違うと思います。
2008年11月14日
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笑いの呼吸は、丹田呼吸に似ている。そもそも「丹田呼吸」って何だよって話ですが、まあ興味ない人はこの記事はとばしてください。丹田呼吸は吐く息に意識をおいた呼吸です。もちろん本を読んでみると丹田呼吸にもさまざまな定義があるようですが、ぼくは「お腹をふくらませたままの呼吸」を丹田呼吸と呼んでいるんです。さて、笑っているときにお腹をだして鏡に映してみましょう。なかなかに面白いうごきをしています。まずは肋骨のうごきが目に付きます。ぼくはヤセ型のガリレオ・ガリレイなので、肋骨のうごきがよく見えます。「ははは」のひとつひとつの「は」に合わせて、肋骨が締まるのが見えます。同時にお腹がふくらむのですね。腹筋じたいは締まるのですが、おなかには空気が入るような感覚になる。これは横隔膜が下がりながら息を吐いているからです。ふつうは逆ですね。横隔膜が上がるときに、息を吐く。しかし丹田呼吸は違います。息を吐くときも吸うときも横隔膜をさげたままにする。つまり「笑い」という呼吸運動は、構造的に丹田呼吸と同じなのです。ただ「笑い」は単発的・連続的・痙攣的に息を吐き、丹田呼吸は等速的・持続的・意識的に息を吐くという違いはあります。(上達すれば意識的ということはなくなると思いますが)笑いの呼吸は丹田呼吸に似ている。だからなんだと言われればそれまでですが、「笑うときの呼吸はどうなっているんだろう?」といった疑問を持つこと、またそれを探求してみることは大事だよ、ということが言いたいのです。
2008年10月28日
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病を、マクロに捉えたいのです。マグロではありません。マクロスでもありません。マクロです。べつにミクロに捉えなくてもいいことはたくさんあるのです。もちろんミクロに分析して見えてくるものはたくさんありますが、最終的にマクロな視点がないと、どんどん進む方向が偏っていってしまうのです。だから病気や痛みの原因を「〇〇筋の〇〇が炎症をおこしている」とか「●●菌が▲▲をおこして、××が~になっている」というような視点で見なくても、「体がゆがんでいるから」とか「にくしみの気持ちが病気を生んでいる」とかでいいと思うのです。ちょっと宗教っぽく思う人もあるかもしれませんが、ぼくはそれでいいと思うのです。古来、病の平癒と宗教は密接な関係がありました。そもそも「宗教=アヤシイもの」という考え方が非常に短絡的なんです。たしかにアヤシイ宗教もたくさんあるでしょうけど、だからといって「宗教=アブナイ人」と決めてしまうのは思考が停止しているというものです。それはあたかも、包丁で怪我をすることもあるから、料理をするのはやめておこう、というような考え方です。ぼくの捉え方としては「宗教=科学」です。だから病気の捉え方が多少世間とズレていても、とくに違和感を感じないのです。ミクロな視点ばかりで見ていると、どうしても人を「モノ」として扱ってしまいがちです。そうすると人間の「機能」というか「構造」というか有機体としての性質を忘れてしまうのです。人は生きているのです。そして生き続けようとしている。その厳然たる事実を有効に利用するのがマクロな視点なわけです。うーむ、うまくまとまらない。勉強が足りないね。
2008年09月03日
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今日は一日頭を使ったので疲れました。というのも会社の通信教育の期限が迫ってきたのです。ファミレスに4時間こもってがんばりました。ちかれた・・・。それから訳あって、ネットにへばりついていたらもう完璧に左脳が限界くらいに来ました。これは脳を休めるしかない!そこで僕がやっている方法をご紹介します。それは「無意味音連呼法」です。いま名づけましたが。まずは目を閉じます。脳の疲労には、情報のシャットアウトがいちばん。目が開いているだけでも勝手にいろんな情報を取り入れてしまいますから、まずは目を閉じるのです。で、そのまぶたの下でちょっと上あたりを見ます。目線の持っていきかたで、うまく思考がまとまらない場所がありますから、そこに合わせます。うまくできないときは、せんだみつおゲームのように顔の横に両手を出して、左右の手を同時に見るようにすると、左脳的な思考が止まります。それでもまだ論理や意味でモノを考えてしまうことがあるので、そこで無意味な音を連呼するのです。僕が愛用しているのは「南無阿弥陀仏」です。「なまんだーぶー なまんだーぶー」と声に出していうと隣の人が怖がりますから、脳内で連呼します。この「意味のない音」というのが大事なんです。だから「意味」さえなければ、「ほにゃららぺんちょろろ~、ほにゃらら・・・」でもいいんですが、サマにならないでしょう(笑)で、「なまんだーぶー」とやってだいぶ脳がほぐれてきたなあと思ったら、ちょっと体をゆすってみます。本気でやってはいけません。あくまで適当に揺らします。「リラックスしなきゃ」という焦った気持ちになると、心身は余計にかたくなってしまいます。首や腰が凝っていても、本気で揉むのはあんまりよくない。(と思う)かるーく揺らす程度のほうが効果はあります。ほぐれてきたら寝転んで、完全脱力。そこでまた「考え事」をしてしまうようであればまた「なまんだーぶー」とやります。うまいこと脳がリラックスしたようであればそのまま寝てもよいと思います。以上、ozekeyがやっている脳のリラックス法です。医学的、科学的に効果は証明されていないですが、ぼくにとっては効果のある方法です。まあ色んな本で読んだことを混ぜ合わせたので、それなりの効果はあると思います。やってみて気が狂っても責任はとれませんが(笑)、興味のある方はやってみてください。
2008年09月01日
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呼吸がふっとゆるむ場所がある。呼吸がふっとラクになる人がいる。呼吸がふっと通るモノがある。そういうものに気づけるか。その感性を養う。たとえば僕は、緑豊かな土地にいくとふっと呼吸が抜けます。そこは僕にとって気持ちのよい、心地のよい場所だ。それから美しいものを見ると、ふっと呼吸が抜ける。たとえば仏像とかね。そういう「人」もいます。会うだけで息が苦しくなる人。反対に、なぜかほっとさせてくれる人。無意識のうちに身体は反応しているのです。それに気づいてあげられるか。自分を大切にするということは、身体を大事にするということです。人間にとって理性や論理は大事ですが、それ以上に、身体そのものはもっと大事なのです。また何を見ても、呼吸がふっと抜けるように、何があっても穏やかな呼吸が保てるように修行することも大事です。それは他人や環境に左右されない自分を創るということです。つまり自分じしんの責任を負う生き方です。呼吸を保つということはアクティブアクションのひとつです。
2008年08月28日
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あまりにも真実をついた言葉が、なんの役にも立たないように、「なんにでも使える」ということは、何にも使えないのと同じことなのである。たとえば、昨今はやっている「丹田」や「自然体」ということにしても、それが応用され、活用されないかぎり、それはないのとまったく同じなのである。もちろん、「丹田」や「自然体」がさまざまな技術の基礎になってくることはたしかで、技術だけを磨いたところで、それは徒労に終わることが多い。(幸田露伴が言うところの「直接的努力」)しかし同時に、基礎体力だけ磨いてその応用をいつまでも考えないのなら、その基礎・基盤はいつまで経っても生かされることはないだろう。けっきょくのところ、「丹田」を形成し、肚を練り、自然体を洗練し「何がしたいのか」が何よりも重要なのだ。それが分からないで、ただ「丹田」があればいい、「自然体であればいい」というのは手段と目的を履き違えているのである。
2008年07月23日
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「疲れる」というのはなかなか面白い。一日中働いても疲れない日もあれば、2時間で疲れる日もある。長いこと一緒にいても楽しい人もいれば、2,3分話しただけで疲れる相手もいる。ぼくらは精神的や、肉体的に疲れます。そしてその二つは、はっきりと分けることができない。精神的に疲れれば、体力も落ちてくるし、体力が落ちてくれば、心が疲れたように感じる。そしてぼくが最近思っているのは、「疲れたから休む」のではなくて、「休みたい」「そろそろ休まねば」という心がカラダを疲れされることがある、ということだ。ぼくらの頭は常識にとらわれていて、カラダはそう感じていないのに「そろそろ寝ないと」「そろそろ食べないと」「そろそろ休まないと」というふうに、自分じしんで制限をかけることがある。たとえば睡眠や食事などは本能なのであって、ほおっておいても、ぼくらはそれを満たそうとする。だが、アタマが発達したぼくらは、その本能さえもコントロールしようとするのだ。「食べなければならない」「寝なければならない」これは、アタマが作りだした不安である。食べないと、寝ないとどうにかなってしまうんではないか、というおそれである。仕事中に、「あーそろそろ休みたいな」と思うと、どっと疲れが出てくる。しかし「(仕事の)目的を完遂したい!」とつよく思うならば、けっして疲れたりしないものだ。たとえ作業効率が徐々に悪くなってきても「つかれた」という言葉は出てこないはずだ。だから「休みたい」「休まなきゃ」ということは極力言わないようにしないといけない。カラダが動く以上、ぼくらは働けるのだ。腹がすかないのなら、食わずに働けばいい。「肩を揉んでもらいたい」という思いが湧くと、とたんに肩が凝ったような気になってくる。ぼくらのカラダにはそのような、常識とは違うことがたくさん起こる。しかし目が曇っていると見えない。思い込みでなく、この目をガッと開いてみると、違うことが見えてくる。疲れる、ということに関しても、実際はカラダでどういうことが起こっているのか、目の前のできごとに真摯に向き合ってみると、面白いことが分かってくるのである。
2008年07月22日
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「肝がすわっている」という言葉があります。同じような意味の言葉で「肚ができている」という言い方もします。これは度胸があるとか、勇気があるとか動じないとか、覚悟が決まっているとか、まあそんなような意味ですね。静座法の岡田虎次郎は人を3つに分類して、「頭の人」「胸の人」「腹の人」にわけたそうです。もちろん、「腹の人」になるべきだと。で、ぼくは合気道家ですから、そういう思想はぴたっとハマるんですね。本を読んでいると、「腹(肚)」とか「丹田」という言葉がたくさん出てくるので、なじみがあるのです。それでまあ「肚の人になりたいなあ」とは思うわけですが、最近おもうことに、「肝がすわっていれば、万事うまくいくのか?」「肝(ハラ・丹田)というのは、万能なのか?」ということを思うのです。というのは、いつもは肝が据わっているのに、高いところだけはダメとか、格闘技はめっぽう強いのに、恋愛はからっきしの三級品だったり、仕事の決断は速いのに、虫が苦手とか、そういうことがあるでしょう。勇猛だと思われる人でも、臆病な部分はあるし、臆病に見える人でも、ある場面では肝がすわっている。ぼくが思うに、「肚」というのは案外、汎用性が低いんじゃないでしょうか。それぞれの「肚」というか、ある状況で鍛えられた「肚」は、その状況と似た状況では力を発揮するが、まったく別の状況となると、途端に力を発揮しない。そういうことがあるんじゃないでしょうか。よく、「イチローほどの天才なら、なにをやってもうまくいく。 商売をやっても億万長者になっただろう」なんてことがまことしやかに言われたりしますが、それは本当でしょうか?本当でしょうか?って検証するすべはありませんが、上のような意見を鵜呑みにするのはとても危険だと思います。肝が据わっている、というのはそうカンタンには判断できない。それはどうしても「状況」に左右されるのだ。
2008年07月21日
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カラダは勝手に治る。カラダは治るようにできている。そういった信念があります。そんなことを言っていたら、その試練なのかもしれませんが、左目の下にモノモライ的なものができました。それが6日の6日ごろだったと思います。菌か何かでも入ったのでしょうか。かなりプクーと膨らんできました。でも痛くもかゆくもないのです。じゃあ、ということでほおっておくことにしました。そうするとお店のパートさんが騒ぐわけですね。「すごい目がはれてるじゃないですか!」「お医者さんいかなきゃ」「そんなの切開すればすぐに治りますよ」毎日毎日言われ続けましたが、「カラダはほおっておけば治るのです。人間には自然治癒力があるのです」ということを言い続け、なんの「治療」もしませんでした。そうしたらここ2、3日で急速によくなってきて、あと数日で確実に治りそうです。自分を信じてよかったと本当に思いました。こうやって「病気」の経過を見るのは面白いですね。焦ることはない。自分を、自分のカラダを信じるのです。人間って、けっこう損得勘定で病気や怪我をすることがあります。病気をして得になる場合。たとえば甘えることができる、「病気だから」と言い訳ができる、そういうことを無意識的に思うと、病気になりやすい。今回の場合は、自然治癒力だ!と宣言してしまったので、自然に治らないとバツが悪い。そう身体が判断したので、「治らざるを得なかった」のです。そういうのは面白いでしょう。交通事故にあって、ムチウチになったとしても、「この怪我がひどければ、お金がたくさん出る」と思うと、やはり病状は悪化する、ということがあるそうです。「病気」はけっして偶然の産物ではない。そこには理由がある。それを観ていくこと。ぼくはそういうことが面白いと思う。
2008年06月20日
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「健康になろう」「健康になりたい」ということを思ってはいけない。健康になりたいと思う心のウラにはどんな思いがあるだろうか。考えてみると、それは「いま私は健康でない」という潜在意識に他ならない。「健康」になりたい、「健康」ならなければ、という気持ちは、すでに病的だと言える。「健康」という考え方じたいをガラリと変えなければならない。コペルニクス的転回をしなければならない。「カラダがよくない調子」というのは、「カラダが治ろうとしている最中」なのである。「不快な症状」というのは、カラダから自分にたいするメッセージなのだ。例えば下痢などは、腸をすっからかんにして休ませるための反応なのであって、「腹を下した」と言って、そのとき腹が不調になったと思うのはあやまりである。また内臓の調子が悪いと口内炎ができることがあるが、あれなども「食べるのストップ」とカラダが反応してメッセージを送っているのであって、クスリで口内炎を直して強引に食べるのは、カラダがかわいそうというものだ。われわれは、ほおっておけば健康なのである。健康だからこそ、不調になる。しかし不調を「病気」とみなして早く治そう、早く治そうと焦ると治るものも治らなくなる。眠らなければならないと思えば思うほど眠れなくなるのと同じことである。カラダの一部が不調になるということは、健康の証なのだ。その声に耳を澄ませる。知識や観念でなく、実感でカラダを管理する。不調を敵として見ないで、メッセージとして捉える。その「症状」を十分に出させる。そうすると、良くなってくることが多い。こういった東洋的な健康観がもうすこし人口に膾炙するといいなあと思うわけです。
2008年05月24日
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よく、「ストレスでカラダが固まって病気になる」ということが言われています。だから今、「ゆるめる」ことが強調されています。かの高岡先生の「ゆる」はあまりにも有名ですね。しかし最近実感するのですが、あまりにも弛緩しすぎるとまた病気になりがちだということです。基本的に健康なボクですが、もちろん調子の良い悪いはあります。朝起きたら、なんとも手足に力が入らなくて四股踏み300回やってもなんとなく血行が悪い感じ・・・。それで昼ごろまでノッテこない・・・。そんな日もあるのです。で、その日は休日だったのですが、ヒマだったのでちょっとドライブしていたのです。でも調子があがりきらず、ぼけーっとしていたので車線変更のときに危うくぶつかりそうになりました。ちょうどミラーの死角で、しかも目視しても見えない場所に車が来てたんです。クラクション鳴らされて、ビックリしてすぐにもとの車線に戻りました。でもそのあと突然体調がよくなってきたんですね。お腹がぐぅ~となって、体温も上がってきた感じ。そのとき、「ああ、ある程度の緊張感がないと健康も保たれないんだなあ」ということを実感したものです。だから仕事していると体調がよくなってくるのですね。やはり適度が緊張が必要です。自分から「コワいもの」につっこんでいく勇気も必要なのですね。ピッとしまったり、だらーんとゆるんだり、その振幅が大事なのですね。これからは「ゆる」じゃなくて「ゆれ」の時代になるかもしれません。(そもそも今、「ゆる」の時代なのか?という問題はおいといて。)
2008年05月04日
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水のリズムでゆれはずみたゆたいながれあゆみまわりそして まう水のリズムで
2008年02月29日
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集中するためにリラックスしようとしてもムダだ。まずは集中すること。集中することは観察すること。「今ここ」で何が起こっているかを仔細に観察すること。感じること。目の前のできごとにまっこうから向かい合うということ。そうやって集中していくと次第にリラックスしてくる。精神がリラックスすると同時に身体もリラックスしてくる。それは手足があったかくなることで確認できる。リラックスしていると、血流がスムーズに流れる。何か集中するものを見つける。たとえばそれは己が呼吸をつまびらかに観察することでも良い。「今ここ」を生きているときぼくらは時間から解放される。「今ここ」には時間という概念がないのだ。集中すると、必要なものしか感覚器官に入らなくなる。ぼくは朝仕事をしているときはお店で流れている有線がほとんど聞こえない。昼ごろになってはじめて、「あ、今日はこんな歌が流れてる」と気づくのだ。ぼくが「集中」というとき、それは具体的な身体の状況がある。抽象的にあいまいに集中と言っているのではない。ここがポイントだ。ぼくにとっては明らかに「集中」という身体の状態がある。それをもっと意識的に使えるようになったら、変わってくるのではないか。
2008年02月15日
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