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2023.02.21
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カテゴリ: 書籍
認知バイアス

認知バイアス

 認知はエレガントではないことも多い。また、非効率きわまりないことをやらざるを得ない場合もある。でも、それが認知の姿なのだ。(246ページ)
著者・編者 鈴木宏昭=著
出版情報 講談社
出版年月 2020年10月発行

SNSを流れる言説の中には、事実に基づかない内容や、明らかなウソ、他人に踊らされているものが多い。SNSは、われわれの認知を歪める増幅器になっていやしないか――そんな思いがあり、本書を読んだ――。著者は、認知分野の研究を40年続けている鈴木宏昭さん。日本認知科学会フェローであり、人工知能学会、日本心理学会の会員でもある。鈴木さんは本書で、「人は賢いからバカであり、バカだから賢い」(4ページ)ということを強調したいという。どういうことだろうか――。

まず最初に視覚を取り上げる。人類は視覚優位の動物とされるが、意外に〈節穴〉である。視覚情報を貯蔵する場所(視空間スケッチパッド)がとても少なく、3~5程度の情報紙か保持できないという。さらに、200度に及ぶ広大な視野の中に、はっきりと対象を認識できるのは、たった数度の範囲内にあるものだけ。このため、チェンジ・ブラインドネスのような課題が苦手である。

次に利用可能性ヒューリスティックを取り上げる。利用可能性ヒューリスティックとは、人は頻度を測定する代わりに、思い出しやすさを利用することが多い。何度も出会っていれば記憶によく残る(リハーサル効果)から、頻度の頻度の代わりになると考える。だが、たとえばメディアは滅多に起きないような大事件に限って、センセーショナルに、繰り返し報道する。こうして視聴者の記憶に定着してしまい、結果的に滅多に起きない事件が頻繁に起きているように誤認してしまう。

われわれは物事をカテゴライズするが、そのとき分類指標として「プロトタイプ」を用意する。このとき、代表例はプロトタイプとは異なる。だが、われわれは往々にして、代表例をプロトタイプと誤認して推測や判断を下してしまう。これを代表性ヒューリスティックと呼ぶ。

確証バイアスはよく知られた認知バイアスだ。われわれは、「pならばq」を検証することに囚われ、その対偶である「qでないならpでない」を検証することを忘れがちだ(本書では対偶という用語は登場しない)。

人間に自由意志はあるのだろうか。実験によると、脳から運動指令が出た後に、意図が生じることがわかった。だとするなら、われわれは自分の行動にとんでもない理由づけを行っているのではないだろうか。人の行動は自由意志によるものではなく、無意識の働きによって引き起こされると考えた方が自然ではないだろうか。

ビデオやワインの実験から、言語化することが記憶を劣化させたり、ある種の思考を阻害することが分かった。言語は分解、分割が可能な対象に対しては強力な武器となる一方、分割できないもの、全体の形状に関わるようなことにはポジティブには働かないことが多い(163ページ)ことが分かってきた。われわれは相手のコトバを聞いたとき、状況モデルを構築できなければ、そのコトバを理解したとは言えない。

われわれの思考には、あるパターンがあり、それにより制約を受けている。制約は、ふつうは認知を効率的に行うことに寄与するが、創造的な思考を妨げる。多様な思考をすることは、創造的な解決に繋がる。だが、絶えずイノベーションを繰り返すということは歴史上例がないことから、鈴木さんは、ふつうの企業がイノベーションを起こし続けることは原理的に無理(188ページ)だと指摘する。

人間は集団行動する生き物である。だが、人の集団には個人にはない独特のバイアスが存在する。集団の意見に同調することは、誤った判断を加速してしまうこともある。これは同調圧力に弱いとされる日本人だけでなく、アメリカ人でも起きていることだ。また、ブレーンストーミングを行うことは、生産性や多様性の向上に繋がらないことがわかっている。さらに情動的共感は、共感は特定の個人に対しては強く働くが、集団に対しては働きにくい、あるいは働かない(211ページ)という問題を抱えている。

最後に鈴木さんは、こうしたバイアスは、とても短い時間の中で決定をしなければならない「限定合理性」のために役に立つと、これまでのバイアスを振り返り、それらの良い側面を説明する。
言語というとブローカ野や、ウェルニッケ野などがその中枢といわれているが、これはむろん言語のために用意されたものではない。他の用途で用いていたそれらの脳領野をうまく利用(ブリコラージュ)したのだ(245ページ)。だから人間の認知はエレガントではないことも多い。
限られたリソースをブリコラージュしてきた認知機能を、理想的な状況と比較し、人間の知性を論じても無意味だろう。

たとえばTwitterでは、自分の気に入らないアカウントをブロックしてしまうと、ウソや滅多に起きないことがエコーチャンバーになって繰り返し読まされることで、記憶に定着し、さらに悪いことに、ウソつきがこれを補強する。これも確証バイアスの一種だが、その結果、ある仮説に対する対偶の検証を怠るようになることには気づかなかった。自分も気をつけなければ‥‥。
また、コトバから状況モデルを構築できないという点も頷ける。本書で引用されている新井紀子さんの『 AI vs.教科書が読めない子どもたち 』は読んだが、なるほど、状況モデルを構築できていないということなら分かりやすい。そして、ディープラーニングに与える学習データとして、状況モデルを構築しやすいものを集めるといいのだろう。
私は、自分が創造的な人間でないという自覚がある。それで創造的になれるとは思わないが、SNSを利用するのは、多様な思考に接したいからだ。だから、認知が歪んでいる発言は学習データとして何の価値もないわけだ。

とはいうものの、最終章で、これらのバイアスが必要なものであり、(鈴木さんはそう書いてはいないが)進化の必然の結果だという説明には驚いた。が、首肯せざるを得ない説得力を持っている。
われわれの認知は既存機能、既存の認知の上にパッチワークする形で構築されており、したがって、そこから発露しているようにみえる知性には制約がある――これは才能や努力で改善するものではないから、学べば学ぶほど、否が応でもこの制約を思い知らされる。
冒頭で鈴木さんが書いた「人は賢いからバカであり、バカだから賢い」という事実を受け入れる覚悟が要ると感じた。






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最終更新日  2023.02.21 12:30:50
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