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文鮮明先生御言選集 19560520 - このようにイエス様は私たちを尋ねておられる



1956年5月20日(日)前本部教会



  離れた一匹の羊と同じ堕落人間

 堕落した以後、私たち人類は神様の御前にあってどのような位置に立っているかといえば、99匹の中におられず離れた一匹の羊と同じ立場に立っています。

 天にいる千々万天軍天使たちも一匹の羊のようなアダム・エバを失ってしまうことによって、神様の御前に喜びの讃歌を捧げられないでいます。このように千軍天使たちをして喜びの讃歌を捧げられないようにした人間を再び探すために、神様は今まで苦労を繰返していらっしゃいました。

 イエス・キリストは神様が4千年間探して来られた一存在として地上に送られました。そういうイエス様は万民の前に善の祖先として、死亡の中に入っていった私たち人間を再び生かすために、真の父母の立場に立って苦労の歴史を重ねておられます。

 今日私たちがイエス・キリストを4千年摂理歴史過程にあって神様の唯一な独り子として立てられた方であり、罪悪に落ちた人類を救うために、十字架を背負うことをもってサタンに対して勝利した中心存在として立てられた方であると簡単に知っております。

 それならばイエス・キリストを一中心に立てるために、神様はどのようにされたのでしょうか? 世界人類に対して摂理したそのすべてのものをイエス様に任せました。そうしてイエス・キリストは新しい一中心として立てられて、すべての万民を責任持って救援しなければならない立場に立つようになりました。そのような立場に立つようになる時、彼の心と体は言うに言えない悲しみの中におられたでしょう。


  私たちを捜して来られたイエス・キリスト

 それではイエス・キリストが今日私たちを尋ねて下さるのには、どのような過程を経て尋ねて下さるのか。神様は4千年歴史を通して人間を救援するための御言を立てたし、多くの先知聖賢たちを通してメシヤが降臨されることを、数多くの群衆の前に予告して来られました。

 この為にユダヤ教信者たちは、先知者たちが訴えた証拠の御言を通してメシヤを迎える為の準備をしてきました。それが旧約の歴史です。このように準備された所に来られたイエス・キリストは、神様の御前に旧約4千年の歴史を善の歴史として終結しなければなりませんでした。そのために彼が語った新しい御言は、神様の4千年復帰摂理路程に入り交じった悲しい御言であると同時に、すべての人々が信仰路程を行くのに持っていかなければならない天倫の法度を明らかにした御言でした。

 ところがイエス様が発表されるこの新しい御言を、多くのユダヤ教信者たちが、こころして聞いて信じなければならないにもかかわらず、信じることのできない群衆を見つめられるイエス様の心情はどのようなものであったのでしょうか? イエス様は悲痛な心で訴えられたということを皆さんは知らなければなりません。

 今日まで天は私一人を探して、罪の中に溺れている私たち人類を再び尋ね立てるために長い間苦労してこられました。旧約時代には、先知者たちを通してイスラエル民族に旧約の律法の御言を下さいました。そして、4千年の悲しい歴史を解怨するために、イエス・キリストを送られて新しい真理の御言を発表されたのです。しかし、その御言をユダヤ民族が信じ受け入れなかったことを通じて、神様の辛く悲しい心情を慰労して差し上げられなくて、天の悲しい心情を御自身自ら励まし勇気づける結果となったことを、皆さんは知らなければなりません。




  イエス様が下さった御言を信じないユダヤ民族

 最初から手本となるべきイスラエル民族が、イエス様が下さった新しい御言を不信して一つとなれないことで、イエス・キリストは悲しみの御言を残していかれました。そのために百匹の羊のような立場に立たなければならないイスラエル民族たちがどのような立場に立ったかと言えば、離れた一匹の羊のような立場に立たされたのであり、私たちもまた同様の立場に置かれています。

 私たちは一匹の失なわれた羊と同じ立場にいるイスラエル民族に対していたイエス様の心情を知らなければなりません。失なったイスラエル民族を探し立てるためにイエス様は悲しい心情をもって叫ばれました。

 今日私たちが知らなければならないことは、天が私一人を探すために4千年間辛く悲しい心情を抱いて摂理して来られ、その後にはイエス・キリストが神様の悲しい心情を継承して、私たちの後ろに着いて来ながら叫んでおられるという事実です。

 それではイエス様は30余生涯の間どのような過程を経られたのでしょうか? イエス様は神様の願いが現れることを願いながら、30年間の私生涯期間の間準備して来られました。その期間が過ぎた後に新しい御言を持って現れて伝えるようになる時、イエス様は喜びを感じながら御言を伝えたのではなく、天の辛い悲しみをもって御言を伝えたのです。

 「私に付いてきなさい」と言う言葉、「私を信じなさい」という言葉など多くの御言を語ったが、その悲しい心から訴える声に耳を傾け、聞いて従って行く群れは本当に少なかったのです。

 そんな環境でイエス様は悲痛な心情を抱いて30生涯を過ごされて、イエス様が生きておられた時に叫ばれた切実な声が、今も聖書の御言を通して皆さんに訴えているし、今日この時間にもイエス様は霊界から皆さんに向って懇求しているという事実を知らなければなりません。

 そのために今皆さんはイエス様が訴えられた御言の内容が何であるかということを知って、自分が行くべき方向を探して行かなければなりません。

 皆さん自身が天の御前に失ってしまった一匹の羊と同じ立場にいるにもかかわらず、自分が行くべき方向もわからずに自分がどんな立場にいるかもわからないまま、この世がそのままずっと続いていくだろうと思うなら、皆さんは大きな誤解をしているのであります。

 皆さんはよく知らなかったでしょうが、イエス様はお生まれになってから以後、今までの2千年歴史過程を経てきながら悲しい声で叫ばれておられるし、その叫び声は皆さんの願いとなっているのです。


このようにイエス様は私たちを尋ねておられる(2)

  神様の心情とイエス様の御声

 懇切に叫ぶこの御声を皆さんは無視しますか? 聞こえないという人がいるならば、同じ恨みの心でも持って行かなければなりません。皆さんの中で呼んでおられる御声を聞きたがらない耳がありますか? この御声を聞きわけるために奮い立つようにならなければなりません。あるいは呼んでおられる御声を皆さんが聞いたとしても、体が丈夫でなく動けない時には、そこへ向かう心でも集めることができる私自体とならなければなりません。

 神様は失われた羊と同じ立場にある今日の私一個体を探すために喘ぎ苦しみながら探して来られた歩みが、1日でもなく、1年でもなく、100年でもなく、6千年をかけて探して来られました。



 私たち人間が神様の呼ばれる御声を聞けないために、実体の神になられたイエス・キリストを通して見せて下さり、実体であられるイエス様をして神様の無形の心情を現し、宣布された御言がすなわち福音の御言だったのです。

 人間が無形にしておられる神様の心がわからず、神様の御声を聞けないために、これを解消するために神様の実体として現されたイエス様だったのです。また彼が伝えた御言と声を聞いて、イスラエル民族がイエス様のところに来て4千年間知らないでいた神様の真正な御旨を知って、神様の心情を感じて悔い改めるべき立場であったにもかかわらず、イスラエル民族は悔い改めず、遂にはイエス様を遠ざけてしまったのです。

 そのために今皆さんは聞こえて来るイエス様の悲しい御声を聞きとるために準備をしなければならないのです。そのためにどのようにしなければならないのか? 皆さんが世俗的なすべての言葉をよく聞くように、真に神様の心に代身して、神様の御旨に代身して万民の前に現れたイエス様を、「信じます」と言うことのできる心を持たなければならないのです。

 イエス様は無形の神様の代身として来られて、4千年の間天の御前に悲しみだけを与えた無知なる人間たちを代身して贖罪の路程を歩まれたのでした。このようにイエス・キリストを悲しみの位置に立てて再決心するようにされた神様の心情を、皆さんは推し量ることができなければなりません。

 イスラエル民族が心を広げて、やるせない神様の内的心情を代身して叫んでおられた御声を聞き分けることができたならば、実体に現れたイエス・キリストの悲しみに満ちて叫んだ御言を、問題なく聞きとることができたのです。ところがイスラエル民族はどうでしたでしょうか? 旧約聖書に現れている御言で満足しようとしました。神様の最後の御言が旧約にすべて記録されていると思ったのです。



 無形の神様が4千年間苦労して来られたその悲しみを、地上で喜びとして解怨して差し上げなければならないイエス・キリストでしたが、こういうイエス様の悲しみを理解できないイスラエル民族だったので、神様の悲しみはイエス・キリストを通じて解怨できず、また再び悲しみとして残れるようになったことを皆さんは知らなければならないのです。

 神様の御旨を代身して、4千年の歴史を代身して地上に来られたイエス・キリストは、喜びの御言を発表できずに行かれました。そのためにイエス様以後2千年歴史が経過しましたが、今日6千年の歴史を通して見てみる時、未だ神様の悲しみとイエス・キリストの悲しみは地上に深く浸みこんでいるのであります。

 今日私たちはこのような神様の悲しみとイエス・キリストの悲しみを知って、今神様の喜びの御言とイエス・キリストの御言を推察することができなければなりません。

 イエス様が私たちを探した目的が、いつも悲しみの御言だけを伝えようとすることではありませんでした。失われた羊の群れと同じ私たちを探すために苦労される過程には、いつも悲哀の御言だけをおっしゃってはいけないのです。6千年の間、悲哀の御言を語ってきたのですから、失われた羊が探されるその瞬間には6千年の悲しみを根こそぎ忘れることができる喜びの御言が現れるべきなのです。

 皆さんはその喜びの御言が天から現れるだろうと思っていますが、それは大きな誤解です。

 今私たちは2千年の間苦労して来られたイエス・キリストの心情の御前に、私たちを探しておられる主の御前に競争しあって出ていくことのできる羊とならなければなりません。

 悲しみのイエス・キリスト、傷ついたイエス・キリストが叫ぶ声を聞いてもためらい、方向を掴んで競争しあうことのできない者になってはいけないのです。イエス・キリストは突然尋ねて来て悲哀の御声で皆さんを呼ぶ時、皆さんがその場で動きを押えてはいけないのです。それならば、どうしなければならないのか? イエス・キリストの悲哀の声が御声が聞こえる前に、皆さんはまず悲哀の声で叫ばなければなりません。 私がまず、「私の牧者よ! 主よ!」という音声が天地に浸み通るように叫ばなければならないのです。

 しからば皆さんを探して来られたイエス様が、皆さんが叫ぶ声に耳を傾け聞かれて再び訴える時、それは悲しい声ではなく喜びの声で訴えられるでしょう。皆さんはそういう立場に立たなければなりません。


  イエス様の悲哀の心情を証かさなければならない私たち

 今日私たちはイエス・キリストの悲哀の心情を証かさなければいけません。牧者を失ったことを悲しむだけではなく、失った牧者を探すために叫ぶことを知らなければなりません。

 このように訴えられたイエス様が残された苦労の歩みまでも責任持てる存在となることが、このイエス様の前に満足を捧げることができるというのです。今日イエス様は悲哀の声で私たちを尋ねており、また私たちを尋ねるために苦痛の生活を繰り返している事実を皆さんは知らなければなりません。

 人類を救うために4千年歴史を代身したイエス様は、人類全体の救援摂理によって平安な生活をすることはできませんでした。苦労の生涯を経て今日私たちを尋ねて来ているのです。

 皆さんが知っているようにイエス様の30余生涯は苦痛の生活でした。大工のヨセフの子供としての30年準備期間にあって、その生活は外的にしても内的にしても苦痛の生活だったのです。

 皆さんのように平安な立場で思い通りの生活ができませんでした。万民の救世主らしく生きられたと思うことは大きな誤解です。義父のヨセフとマリア、そして兄弟たちからも非難を受ける立場で、イエス様は言いたいことがたくさんあってもみな言うことができない苦痛の生活を送ったのです。

 イエス様の苦痛はイエス様一人のための苦痛ではありませんでした。4千年の間苦労された神様の心情に代わって、私でなければ失った家庭を再び探す者がいないことを知って、長い間ひたすら天に対する切なる思いだけだったのです。そしてその周囲の環境と自分を中心とした悲惨な環境で戦っている多くの群れを見て、イエス様は苦労と悲痛の生活過程に入って、4千年間神様の生きた御言に代わって理想世界を成し遂げるために生命を捧げて戦ってこられたのです。

 生まれた時からまともな待遇を受けず、イエスは死ぬ時まで荒野の生活と同じような孤独で苦労の生活をしたのです。こういうイエス様の外的な苦痛も苦痛であったけれども、外的に現れない内的心情の中に隠れた苦痛というものは、ただ神様だけが知っておられました。

 イエス様を信じて従って行くべきイスラエル民族は、わからなくてはいけない人はわからなくなって、わからなくてもよい人はわかってあげたのです。こういうイスラエル民族の中で、イエス様は本郷の生活を慕わしく思ったのです。 彼が食べて着て飲んだ生活は自分のための生活ではなく、自分の安らぎのための生活ではありませんでした。彼の居食住すべてのことは、イエス様自身を越えて神様のため、世界人類のため、民族のためであったのであり、一歩一歩歩んだ足跡も、そのような足跡だったのです。

 それなのにそういうメシヤの事情を知ってくれた人は一人もいなかったのです。孤独なイエス・キリストの心情を抱いて、「あなたの心を私が知っていますから、あなたの心情を私が知っていますから、行かれる所ごとに付いていってあなたの心を慰労する友達となりたいのです」という人がいなかったのです。慰労してしかるべき弟子たちまでもイエス様の隠れた悲しい内的心情を慰めてあげることができなかったのです。

 そのためにイエス・キリストの30余年の生涯は、苦痛の生活で綴られたのです。福音を伝えた3年公生涯路程が始まった日から、彼が伝える御言は私的な御言ではありませんでした。自分の利益のための御言ではなく、自分のどんな能力を立てるための御言でもありませんでした。神様の御旨を成し遂げようとする御言だったのです。

 ところが、こういう御言と御旨を持っていたイエス様を、民族全体に代わって理解してくれて友だちになりたがった人が一人もいなかったのです。そのためにイエス様は村からはさげすまれたし、民族全体からもさげすまれました。 今日皆さんは平安な立場で神様の御言を聞くことができる環境にいます。皆さんはこのように自由な環境で神様に対することのできるこの時を失ってはいけません。


  苦痛のイエス様

 イエス様の当時には、御言を伝えるにも人に隠れてこっそり伝えなければならず、御言を聞くのに隠れて聞かなければなりませんでした。そのためにこれらが行くところが荒野だったのです。そんな中でもイエス様は、多くの群衆を荒野へ導き出して神様の御言を伝えようとしました。そうしてまでも神様の御言を伝えようとして、神様の御旨を成し遂げようとしたイエス・キリストの心情を皆さんは知らなければなりません。

 このようにしてイエス様が生活過程で多くの群衆に福音を伝えたが、それを歓迎する人は一人もいなかったのです。福音を伝える心がどれほど切実でも、理解できない人が多かったのです。イエス様が受けた使命と責任を果たすために、苦労すればするほどそれに対して破壊的な行動をする者が多かったのです。 こういうことを眺めながら一日中多くの群衆に対して荒野で叫ばれたかわいそうなイエス・キリストは、また再び天の御前に訴えるためにオリブ山の険しこを訪ねて行きました。付いてきた弟子たちが散らばって、一人きりで神様の前に出て自分の傷ついた心を癒し受けて、再び第二次としてサタンと戦うことのできる力を補うためのイエス様の苦労を皆さんは考えなければいけないのです。

 イエス・キリストは30余年の生涯を燃して、苦痛の中の苦痛なる生活をしたことを知らなければなりません。それのみではありません。イエス様の苦痛が30余年の生涯の苦痛で終わったと思うのは大きな誤解です。今日あの世、霊界へ行っても、イエス・キリストは苦痛の中にあるのです。

 2千年歴史が延長され、神様の御旨を成し遂げなければならない一つの目的において摂理を代行するイエス・キリストは、今日この時間までも苦痛の生活をしています。その苦痛の生活が連結されて今日に継続しています。

 それではこの苦痛をどこへ行って解決すべきなのか? 今日この地の万象ではありません。この地の万象では絶対ありません。今日責任持つことのできる皆さんを通して、その苦痛と苦労の中で結ばれた恨みを解かなければならないのです。

 そのためにイエス様は、永生摂理路程での苦痛を、皆さんの前に歴史的な距離を考えずに現されたのです。皆さんがこういう事実を知っているのですから、皆さん自体イエス様の苦痛なる手を握って慰労することのできる者とならなければなりません。そうして中傷罵倒を受けたイエス・キリストの徹した怨恨に代わって背負って慰労しなければならない責任が今日皆さんにあるのです。

 それでは皆さんがそういう立場に立つことができなければ、どのようにしなければならないか? 皆さんの環境でイエス様の苦難を感じ取れなければなりません。皆さんの生活の中でイエス・キリストの苦難の生活を分析できる人とならなければならないのです。

 それではイエス様はどんな罪があって30余生涯の苦難の生活、苦痛の生活をするしかなかったのでしょうか? 罪があったとしたら、神様の前に万民を救援しなければならない救世主として立てられたことを受けたという罪のほかにはないのです。こういうイエス様が万民のために苦しみ、万民のために切なく訴えられた理由を知らなければならないのです。そういうイエス様に対して、今日私たちは悔い改めの心でも持たなければならないのです。

 皆さんの生活の中でもイエス・キリストの30余年生涯の苦難の足跡が残っています。皆さんがこれを刈り取らなければならないのですが、馬屋で生まれる時の苦難からゴルゴダ山上までの苦難、そして復活以後2千年の苦難の足跡までもすっかり刈り取らなければならないのです。このような全体的な御旨を知らなければなりません。

 イエス様の悲しみは心痛く訴えるところで終わらなかったのです。苦難と苦痛の生涯を送っても終わらなかったのです。今日人々は、イエス様が苦難の生涯を経て十字架に亡くなることによって彼の悲しみが終ったものと思っていますが、それによってかえって御旨が延長されて、イエス様の悲しみは解こうとしても解くことのできない思いとして残るようになったのです。こういう事実を知って、皆さんは死ぬ覚悟をしてイエス様を悲しみから救わなければならないのです。

 このようにイエス・キリストは、私たちを尋ねるために6千年歴史を過ごして、今日まで苦労して怨恨に徹した道を行かれたのですから、生命をかけて十字架の道を行かれたのですから、皆さんはこのようなイエス様をしっかりと掴んでいかなければなりません。

 イエス様は30余年の生涯を終結するようにする(至らしめる)十字架の死の道に出て、死ぬようになる時、死にながらも「アバ父よ………」と切実なる思いで訴えたのでした。4千年の間苦労した多くの先知先烈たちが訴えた血の訴えが、イスラエル民族によって解怨されなければならなかったのですが、イスラエル民族が解怨できなかったので、その祖先たちの血の訴えを何でもって報いるべきでしょうか? 報いる道がなかったのです。

 それで民族に代わって歴史的な血の訴えの代価を支払って蕩減された方が、イエス・キリストだったのです。アベルの血が訴える時に、尊い血を流された多くの先知先烈たちが、切られ血を流した地に対して、イスラエル民族に対して、訴えた条件がイエス様によって解怨されたのであります。4千年間訴えた泣き声が、4千年間多くの先知先烈たちの血の訴えの目的が、イエス様一人の死によって、また死んだ後の復活によって成就したのです。

 イエス・キリストの復活を通してこの地上に血を流していった祖先たちの恨みが刈り取られたゆえに、彼らが地に対して恨めしく解怨を要求した思いが成し遂げられるようになったのです。それによってその時になってこそ初めて、イエス様を先頭に立てて天の御前に敬拝することができるのです。




  イエス様を解怨して差し上げるべき私たち

 イスラエル民族が天を信じ仕えられず、犠牲になった先知先烈たちの血の訴えを完結したイエス様は、同時に後世に何を残したのでしょうか? イエス様は後世に十字架の死の血を残しました。それで今日皆さんの心にイエス・キリストの死の血が残っているのです。そのために皆さんがイエス様の前に立とうとする時、また皆さんの一生を見てみるならば、皆さんの一生にも血の峠があったことを感じるのです。これは先知先烈たちの血の訴えに対する報答であると同時に、イエス・キリストの血の訴えに対する報答であるという事を皆さんは知らなければなりません。それで十字架の歩みを通して尋ねて来られたイエス様が、私たちに、「来い」と言われる時にも、私たちは十字架の歩みを通じて尋ねて行かなければならないのです。

 今皆さんは、イエス・キリストがゴルゴダ山上の十字架上で血の訴えをされた情熱が、皆さんの脈搏に脈打っていることを体恤しなければなりません。

 イエス・キリストが十字架をもって皆さんを尋ねて下さっても、皆さんは今までそのように尋ねて下さるイエス・キリストの苦労を知らなかったし、十字架をかけてイエス様を呼びもしませんでした。死の道を歩まれたイエス・キリストは、十字架を背負われて私を尋ねて下さるイエス・キリストは、今も私のために叫んでおられ、私のために限りなく訴えておられ、苦痛を受けながら死の道を歩まれ、私のために苦労しておられます。

 今私たちは十字架をまん中に置いてイエス様に対していますが、誰がこの十字架の恨みを解いてくれるのだろうか? 今日私たちが解怨しなければならないのです。これを解怨する前には、イエス・キリストを掴んで私の新郎と言うことができないのです。

 そのために復活直後にマグダラのマリアが、「おお、主よ…!」と言った時、イエス様がさえぎった理由がここにあったのです。またそのためにマグダラのマリアが復活した主に会ったその日から天国生活をしたかったのですが、(その理由から)天国生活が2千年の間邪魔されて(遮断されて)いたのであります。この様に残された十字架の恨みを知って、今この残された十字架の恨みを、私たち信仰をする者たちが解怨しなければならないのです。

 こうして十字架の峠を越えてから私たちを尋ねて下さったイエス・キリストが残されたものは何であるのか?

 イエス様はこの地に新郎・新婦という名詞を残して行かれました。それで今皆さんの祈祷の中で、主様は新郎として現れるのでしょう。皆さんは新婦で、主様は新郎として、そのような姿で皆さんに現れるということです。新郎として現れる主様にお会いする時、皆さんはいつも十字架の血の代価を考えなければならないのです。

 今残されたものが何であるかと言えば、私たちに主様がもう一度尋ねて下さらねばならないのが何であるか言えば、十字架を廃して、万代に福を請い願うことのできる道、十字架を越えることのできる道を探して下さることです。十字架の峠を越えてイエス様が心ゆくままに私たちを掴まえることができなければ、十字架を切ってしまうことができるこの一つの恨みを解かなければいけないのです。私一人を通して、祭壇を通して、天地を通して、十字架を廃することのできる一つの不変の基準を立てる前には、再臨役事は完成できないのです。


  イエス様が残して下さった光と水と油

 このように尋ねて下さったイエス様は、今日私たちに何を残しましたか? 悲しい生活を通じて、苦難の生活を通じて、十字架の死を通じて私を尋ねて下さった後に、私たちに残して下さったものは何だろうか? イエス様は私たちに生命の光を残して下さいました。イエス様が生命を掛けて私たちを尋ねて下さったけれども、何のお土産を持って来られたのかというと、暗い世の中を明るくできる光を持って来たのです。それで私たちがイエス・キリストの死に対して感謝の涙を流す時、私たちはイエス・キリストの心情を知るようになり、イエス・キリストの事情を知るようになります。

 またその次に、イエス・キリストは私たちに何を残して下さったのでしょうか? 水と油を残して下さいました。疲れに疲れ果て、傷を受けるままに傷付いた私たちを、治して下さるためイエス様は私たちに何を残して下さったかというと、水と油を残して下さったのです。

 それで私たちはイエス様が残して下さった光を照らして自分の傷を知って、水と油でそれを洗わなければならず、罪人であることと裸の体であることを知って、礼服を揃えて身に着けなければならないのです。この時になったというのです。このように皆さんが自分の心情に、心にともし火を照らして、自分の罪を洗い清めて、傷を治療して、礼服を着た後にこそ2千年前に亡くなられたイエス様の願いを今日皆さんが成し遂げて差し上げる事ができるのです。

 今私たちは心のともし火を照らして、水で体を洗い清め、傷に油を塗った後、許されて礼服を着て、イエス様が十字架を越えて来る必要がなく、私たち自身が十字架を越えていって、イエス様に敬拝を捧げなければなりません。これが地上で人間がしなければならない事であるのです。

 イエス様が十字架を越えて来られることを願わないで、皆さんが越えようとしなければなりません。イエス様が越えて来られるのではなく、皆さんが生命の光を発する存在となって、その次に全力を備えて永遠に変わらない価値の光に代わることのできる礼服を着て、十字架を越えていってイエス様を掴んで、「主様は永遠に安息して下さい」と言って敬拝することのできる愛する新婦とならなければなりません。神様はこのような新婦が現れるのを願っておられるのです。

 皆さんは今イエス様が残された荷物を解かなければいけないのです。イエス様から心の光を相続して、イエス様から水と油の恩賜を受けてその次に礼服を着て………。この礼服は皆さん一個人にとどまる礼服ではありません。皆さんに固着するものではなく、皆さんによって生命の光を受けて水と油の恩賜を受けて礼服を着ることをもって、主の御前に新婦となれる人が多くいなければいけないというのです。


 祈祷
 愛するお父様! 6千年歴史がこのようにして険しいということを感じながらも、徹した(言うに言えない)その心情、徹したその心の前に恐れを感じる者たちとして下さい。罪の中にあって何の罪が一番大きいかということも知らなかったのですが、知ってみると主様が下さった光を私の物だけとしたことが大きな罪であり、水と油を持っているのにそれらを私だけが持っていることが大きな罪であり、私は礼服を来ているのに、多くの人たちをして礼服を着るようにできないことが大きな罪であり、信じなければならない責任があるにも拘らず、信じられないことが6千年に代身する大きな罪だとわかりました。

 今日この席に集まったあなたの子女たち、自分が直接罪を犯すことよりも一つの生命に犯罪するようにすること、イエス・キリストの苦労によって残された光と水と油と礼服を残せない、この事がもっと大きな罪だということを悟れるように許諾して下さい。

 お父様、今伝えたところの御言を通して散らばっていた子女たちがイエス・キリストの形状を受けるようにして下さり、呼ばれる声を聞けるようにして下さい。歴史的な苦労と苦難、十字架の苦難まで責任とらなければならないのですが、この者たちが不足な場にあって天の御旨を知らず、お父様が願いをかけられた御旨がわからない立場におりますので、お父様、激励して下さいまして、まずこの者たちに御旨を明らかにして下さいますよう、お父様の直接的な御声を聞くことができるように許諾して下さい。善の生活をしようとしておりますから、この者たちが胸に抱く思いのまま生きていくことができるように導いて下さいますよう、愛するお父様、心よりお願いし、お祈り致します。

 主様の新婦として美しく装い、すべてのものを越えて、天の栄光を現すことのできる子女として導いて下さり、新しい歴史的な仕事を担当できるようにして下さることを、愛するお父様、心より懇切にお願いし、お祈り致します。

 すべての事をお任せしますので、御意のままに主管して下さり、集まったこの者たちの心の上に現れて下さり、永遠の勝利の栄光を代身することのできる子女として立たせて下さることを懇切にお願いしながら、主の御名によってお祈り申し上げました。ア―メン。


一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

奇知の外の凡人 が徒然なるがままに書く日記です。
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