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2021.03.06
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​​​​​​​​​​ あなたは誰のものか

一九五八年三月十六日(日)前本部教会



 この時間は「あなたは誰のものか」という題目で皆さんにお話します。

 この地上に生きているすべての人間は、各自ある目的のために生き、振るまっているのです。

 考えてみれば我々の人生は、私を中心にして始まり、私を中心にして終わりを結ぶようです。しかしもう一度考えてみれば、私を中心にしているような人生が曲折の多い人生であり、嘆息と悲しみの多い人生であることを、皆さんは今までの自身の実際の生活において、多く体験していると見るのです。

 また、自身を中心とする生活をして、自分だけのための生活をすれば、罪と悲しみが満ちるようになるのですが、自分を忘れて自分を否定する生活をするなら、どんな困難も無難に越えることができるという事実を、皆さんは実際の生活で感じるのです。


 すべての存在の存在要件

 我々が本質的な面で人間をより深く考えてみるなら、自分の体も自分のものではなく、自分の心も自分のものではないということを、否定することができません。また、創られた全体の被造世界、全宇宙もその主人が被造万物それ自体のようですが、より深く考えてみれば、創造主のものであることを、誰もが否定できないのです。

 例をあげると、この地球は主人が地球自体であると考えやすいのですが、この地球も宇宙に属している存在であることを否定できません。また、地球の上に存在しているすべての万物も、自らが主人であり、自ら存在し始めているように考えやすいのですが、万物もやはり地球の因縁から外れて存在できないことを、また否定できません。

 このようにすべての存在を探って見れば、大きなものから小さなものに至るまで、すべてが切っても切れない因縁を結んでいます。地球を探って見るときも、我々はこの地球が自ら存在できないことを知っています。即ち、全体と切っても切れない因縁を結んでいって、自然法度によって運行されるときにのみ、地球としての存在要件を完備するのです。このように地球を中心にして見るときにも、地球の原因者である創造主がいることを是認するなら、この宇宙は創造主である神によって生じ、地球は宇宙によって生じ、この地上に存在している万物は、地球によって生じているということを、皆さんは否定することができません。

 それでは今日この地上に存在している万物の根源者、即ち人間の父母のような存在は何であるか? 宇宙ということを否定できません。ところで天宙の父母(根源者)が何であるかに対しては、未だに解明されていないのが事実です。



 それではこのような立場に処している宇宙万象と皆さんに、最後にどのような解決策がなければならないでしょうか? このすべてのものを解明することができる人間、即ちすべての因縁に通じることができ、宇宙全体の価値と全体的な理念、福音的な理念を代身することができる一つの実体を立て、宇宙に対して出て行くことができる人格者が、この終末の時代に現れなければならないのです。もしもこのような存在が現れないとしたなら、神様が人間を中心として摂理されたと断定できないということを、皆さんははっきりと知らねばなりません。

 今日この見える万物世界を主管している人間、いわゆる万物の霊長であると自任している人間が、自身のものであると思っているなら、それは誤解です。皆さんの体は皆さんのものではありません。皆さんの心もまた皆さんのものではありません。皆さんのものであると認定する根拠が何かと反問してみれば、皆さんは答えることができない立場に至るのです。

 もしもこの問題が解決されれば、これが歴史的な一つの起点になって、同時にすべての問題を解くことができる解決点になるのです。しかし今日この地上に生きている人間は、この問題を忘れたままで、生きているのです。

 神様は宇宙を失って悲しむよりも、このような人間になってしまった事実を、より悲しまれるのです。ですからこのような神の心情を感じて、体恤する人間がいたとしたなら、彼から根本的な宗教の摂理が出発するようになるのです。ここから神を再び捜し求める道が開拓されることを、知らねばなりません。

 この地上に存在しているすべてのものが、地を父母として、全体を父母としているのであり、さらには創造主を父母としているように、皆さんの一身も皆さん一身として終わるものではないのです。

 皆さんは、地が自分の父母であると感じたことがありますか。我々の体は地のすべての元素で結合されています。地が我々の根源であることを否定できない人間であるのです。ところが人間は自分を、地が抱いているという事実を忘れて生きている時が多いのです。今皆さんは物質の父母が地であることを知っているのですが、さらに自身を一つの人格体として生んだ、父母があるという事実までも知らねばなりません。


 人間の構造と価値、そして生の標準

 それでは人間はどのような存在として創られたのか? 物質的なすべての要素を持っている存在、天の理念を代身することができる実体形状として立てるということが、神様が人間を土と水と空気で創られた理由であったのです。このような創造主の理念を通して創造された人間ですから、人間自体に神の神性に和することができる、ある要素がなかったとしたならば、この人間自体にはどんな理想も希望も所願もあり得ないことが、創造の原則となっているのです。

 神様は人間を創られるとき、すべての物質と通じることができる物質的な要素の結実体として肉身をこしらえ、この肉身を主管する霊を吹き込んで人間を創ったのです。

 物質が一つの存在性を現すためには、地球や満宇宙と通じる因縁を持っているように、人間も地を父母としていて、さらには理念的な主体である天を父母としていることを信じる人間にならねばならないことを、皆さんははっきりと知らねばなりません。

 それでは人間は、何であるか? 物質的なすべての因縁を代身した実体(肉身)と、神霊的なすべての因縁を代身した実体(霊)が結合した、一つの実体として創られた自体が正に人間であるのです。このような価値を持つ人間ですから、創造主のまえに愉むことができ、敬礼することができ、創造主を讃えることができるのです。このように人間自体は極めて小さな一個人ですが、全宇宙を代身して天の栄光を現すことができる宇宙的な価値を持つ存在なのです。また天はこのような価値を持つ完成された人間に対することを、願っておられるのです。

 それゆえ今皆さんは、自身を立てて何を主張しようという、心を持ってはならないのです。体が自分のものではなく、心が自分のものではない立場で、自分のものを主張していったなら、歴史が許さないのです。過去の歴史においてこんな個人、こんな民族、こんな国家が滅んだ事実を、皆さんはよく知っているのです。



 今ここに終わりの日になるのではなく、最後には天道を中心とした摂理のみ旨の為に生きなければなりません。そうではなくて自分の主義や、自分の国家理念を指向する人間は必ず壊されるのです。

 これを考えてみるとき、皆さんはどこに安定圏を求めるのか? 皆さん自らが幸福を感じ、皆さん自らが満足して、全被造世界のまえに自信を持って神を代身して現れることができる安息圏は、たやすく得ることはできません。しかしこれが人間が捜し求める、共通的な目標であるのです。

 今心は天上に向かい、体は万物に対する立場に立っている皆さんは、このすべての万象は私のものであると、自信を持って言うことのできる境地を感じてみましたか? 血統的な因縁による氏族・国家、そして世界の人類に向かって、そのものたちは私のものという感じを持ってみましたか? さらには地上の人間のみならず、霊界にあるすべての霊人たちに向かって、そのものたちは私のものとすることのできる皆さんになっていますか?

 このようなことを考えてみるとき、そうではなしに自慢して、自身の何かを立てて誇る人間、自身のある主義主張を押し立てる人間、その人間は必ず倒れます。

 このような事実を皆さんは否定することができないなら、皆さんはどんな標準を持って生きるべきかということが、重要な問題になるのです。


 父子関係の回復のための宗教の教え



 それではこの因縁をどのように結ぶのか? この因縁はある世界的な主義主張や、ある国家理念、社会的なある体制で結ばれるものではありません。ですから皆さんの心の底から、この一つの事実が決定されなかったなら、どんなにこの世界が幸福らしい世界、善の世界になったとしても、皆さんとは何らの関係がなくなってしまうことを、皆さんは知らねばなりません。

 ところが今日の皆さんの欲望は、皆さん一個体を越えて国家、あるいは世界に向かって動いているのです。このような所有の欲望を持つそれ自体も尊いのですが、それよりもさらに尊いものが何でしょうか? まず自身を永遠不変の主体に属する自体であることを認定して、その次に宇宙的な欲望を充足させることです。正にこのような人間がいたなら、この地上には彼を打ち滅ぼすどんな権勢や、勢力もないのです。

 ところが今日人間は、これを考えないでいるのです。自身の本当の価値を主張しない人間が、万物を取り、宇宙を主管して何の役に立つでしょうか。

 ですから今日人間世界において、天宙的な理念を現す主義主張があるなら、それは宗教です。宗教理想の主義主張がないというのです。見えざる創造主に対し、このお方が我々の父であり、我々は彼の息子・娘であると言うことができる関係、そして切っても切れない父子の因縁と、その価値を土台として出発するものが宗教です。従って真の宗教は、その時のある民族を支配する次元に留まっているものではありません。未来の国家、未来の世界、さらには天宙を望み見るものです。そして創造主の理想を通して創られた地と人間が、三位一体的な関係として一つになろうとする、目的に向かって動いて行くのです。

 正にこれを求め求めて回復するためのものが宗教ですから、宗教は今まで主従の関係を重視してきたのです。また何が先で何が後かという前後の関係などの、秩序的な因縁を結んできたのです。天倫がこのようになっているのです。

 それでは悪というものは、どこから出発したのでしょうか? 天倫を中心とする秩序的な因縁を外れたところから、悪は出発したのです。それで天は皆さんが満宇宙のものであり、創造主のものであり、皆さん自身のものであるという、この一基準を立てさせるために今日まで、苦労されてこられたのです。

 皆さんは、未来の中心になろうと願いますか? 神との因縁がなしに立てられた人間世界の中心は、永遠ではありません。あるいは民族の中心になりたいですか? 皆さんが思いどうりに民族の中心になったとしても、皆さんは堕落した人間ですから、いつか一度は折られる時があるのです。世界のまえに堂々と出たとしても、一度は折られる時が近づいて来るのです。それで宗教の道、即ち修道の道を行くという人間には、すべてのものを捨てよと教えるのです。しかしこの御言は、いつも捨てなさいということではありません。 堕落した人間が善の路程を経てゆくときにおいては、言うこともできない紆余曲折の路程を経て、革命と闘争の過程を経なければなりません。神様はこのような過程を経る人間ですから、どんな民族でもある主義にかたよって固着してしまったら壊れることを知られて、そのすべてのものを捨てなさいとされるのです。

 それでキリスト教がこの地上に、天を云々して現れるとき、言うこともできない迫害を受けたのです。またどの時代においても、天を現す個人や民族は、歓迎されなかったのです。二千年前にもイエス様の新約の福音を聞いたのですが、彼を国家的にみな追い出したのです。さらにはイエス様以後、今までどの時代においてもキリスト教を迫害しなかった民族は、一つもありません。

 しかし神様は、この地上にキリスト教の理念を立てるために、どんな国家の政策的な理念であっても、イエス様が主張される内容と一致しないときは容赦されなかったのです。


 神が所有すべき個人、家庭、国家、世界

 イエス様は持つべき民族を持たず、持つべき国家を持たず、持つべき世界を持たなかったので、神様はこれを取り戻すために、今まで苦労されておられるのです。それではこのみ旨を、誰が成就させるのですか? このみ旨を成就しなければならない人間は、天でもなく、地でもなく、正に皆さん自身なのです。

 神様はこの宇宙を取り戻すための摂理をされ、一度に全宇宙を求めることはできないので、まず一人の人間を捜し求めるための苦労の歴史を経るのですが、これが正にアダムの堕落の後、ノアを求める一六〇〇年の期間であったのです。アダムが失敗することによって、神様はノアを立てたのですが、ノアもこのみ旨に対する責任を果たすことができず、これが四百年延長され、アブラハム・イサク・ヤコブのときに至って、初めて一人の個人を求め、一つの家庭を捜し求めたのです。

 神様はこのヤコブ家庭を中心に、エジプト路程を経ていって、モ-セを立ててイスラエル民族を率いさせたのです。ところが民族を中心としてイスラエルの国を求めるために来られたイエス様が、この国を自身のものとして求められず、天のものとして立てられない立場で逝かれることによって、選ばれたイスラエル民族はどうなったでしょうか? 世界を流浪する民族になったのです。

 こうしてイエス様が来て行って後、今日まで天はこの地上の人間のまえに新約の摂理路程を立てて何をされたかといえば、イエス様が捜し求めた神を中心とする民族と国家を建設し、さらには天宙的な天の理念を運行できる世界を建設されようとしているのです。

 このような足場を持っていないので、今日イエス様を信じている信者たちには未だに自分たちが捜し立てるべき国家の理念が残っているのです。しかしこのような事実を、彼らは知らないのです。

 それではイエス様が今日、この時代に要求することが何でしょうか? 天が四千年の間苦労して立てたイスラエル民族を失ってしまったので、このイスラエル民族を代身することができる第二のイスラエルの使命を、今日キリスト教が担うことを願っておられるのです。ところがこれをキリスト教徒が忘れていることを、皆さんは知らねばなりません。

 このような際に天性に向かってゆく皆さん自身を考えてみれば、皆さんは哀れな人々です。人間が天性の道理を正し、善なる姿になっていないので、天性の道理に通じることができる家庭がなく、社会がなく、民族がなく、国家がなく、世界がないのです。正にこのような立場に処している自分たちであることを、皆さんが考えてみなければなりません。 皆さんがこのすべてのことを捜し立てることが最後の目的ですから、天は今まで皆さんがこれを捜し立てる前には、あるものに属してそれに頼む存在にならないことを望んでおられるのです。即ち、ある民族、ある主義にも属さないことを望んでこられたのです。ですから今日皆さんは、このようなことを心の底に刻んで歩んで行くべき運命におかれているのです。

 そして今日皆さんに、皆さんの体がこの地を代身する体になり、民族を代身する体になり、永遠の生命を代身する体になっているかと問うとき、皆さんはそのようになっていると答えることができないのです。それゆえ皆さんは、皆さんの一身を自身のものと主張しては駄目です。皆さんは、ヤコブに十二子息を中心とする七十食口があったように、神が臨在することができる家庭を成さねばなりません。そして皆さんの家庭は、神が統治される国のものであり、その国は神が支配する世界のものにならねばならないのです。さらには天上のすべての霊人たちまでも、神が主管される理念圏内に属するようにしなければなりません。

 これを考えてみるとき、今日皆さんはどんな立場、どんな位置で召命を受けたのかを知らねばなりません。また、皆さんがどんな立場で自身の理念を、自身の欲望を、また自身の行動をどのように展開させてきたかを、反省してみなければなりません。こうして今日皆さんの立場がこのように天倫の全体的なみ旨、創造的、全体的な摂理のみ旨において、どのような位置にあるかということを、皆さんは明白に知らねばなりません。

 神のキリスト教に対する摂理のみ旨は、神様が喜ぶことができる個人を捜し求め、神が支配することができる家庭を求めるためであり、この家庭を合わせて天の民族を成そうとすることなのです。正にこのみ旨を成す責任を、選民イスラエルが完遂しなければならなかったのですが、彼らがこれをぶち壊すことによって、神様は世界キリスト教徒を動員して、第二イスラエルを建設されてきたのです。ですから今日、全世界キリスト教徒が一つに団結して、この地上の悪に対して進撃することができる一日、キリスト教で言う最後の審判の日を、迎えなければならないのです。

 神のものとして所有されるためには

 天倫のみ旨のまえに完全に和して、天上の認定を受けた人間、神秘的な体験をした人間は知るのです。神が私に対してお前はわたしのもの、と認定するのを感じると同時に、万物が私に対して頭を下げるのを見るのです。全被造万物がお前は神の息子であると、神のものであると認定する日には、霊界の数多くの霊人たちは勿論、地上の万物までも彼に頭を下げ、讃えるようになるという事実を、今日人間は知らないのです。神が認定し、万物が認定する立場に入るならば、真の良心を持つ人々もやはり、彼のまえに自然に和して入ってくるのです。

 そして皆さんは自身の存在位置と存在意識をもっても、自分のものという所有観念を捨て、自分が万物のみ旨を代身し、人類のみ旨を代身し、天倫のみ旨を代身するという考えを持たねばなりません。自身がこんな理念を持ってゆくことを自覚する人間が、いわゆる道人です。皆さんがこのような修道の道を歩むには、この地上で持つものをみな持ち、やることをみなやって、享受することはみな受ける生活をしては駄目です。

 皆さんが本当に天倫による存在の価値を捜し立てようと願うなら、まず皆さん自身を無慈悲に否定して、自分の家庭や社会、罪悪なるこの世の中に対して無慈悲に闘ってゆくという、敵愾心を持ってゆく覚悟がなければなりません。だからといって腕力でやるのではなく、奉仕と犠牲によって罪悪に相対し、攻撃していかなければなりません。こんな過程を経ていって、天は六千年の長い歳月を、無言で闘っておられるのです。

 それではこのような創造主たる神が、人間を再び捜し求めるために苦労していることを知るとき、皆さんは今どうすべきか? 皆さん自身が正にこの宇宙のもの、すべての人間のもの、さらにはすべての万物のものとして、和する存在にならねばなりません。また神のものとして所有されねばなりません。

 それでは皆さんが神のものとして所有されるためには、どのようにしなければならないか。まずこのすべての被造万物を創られた創造主神が、正に我々のアボジであることを感じなければなりません。それで創造主神は、永遠不変の絶対者として、創世から今まで、切っても切れない父子の関係を回復するために苦労してこられた、我々のアボジであることを知らねばなりません。

 肉親の父母が我々に血肉を与える父母なら、創造主はいかなる父母か。我々の永遠不変の霊的な真の父母なのです。私の心の父母であると同時に、永世を与える霊の父母なのです。今日まで人倫的には血肉の父母を尊び、また孝行せよと教えてきたのですが、天倫の創造主に対してはどんな法度もないので、人倫と天倫がそれぞれ違う道を歩んできたのです。こうして人類を代表して、天倫を代身する創造主神に対し、天倫的な真の父母の道理を叫んで行くものがなければならないのですが、このお方がいわゆるイエス様であったのです。

 イエス様は地上に来られ、創造主はわたしの父であると語られました。神はわたしの父であり、わたしと一体であるとされたのです。夫婦一体、父子一体の内容を持って、イエスはこのように主張されたのです。ですから他のどんな主張よりも、天倫のために孝子・孝女の道理を立てたことが偉大であったのです。


 イエス様がメシアとなり得た理由

 今日イエス様を信じる皆さん、皆さんは歴史の終末期に処しているのです。ところでここまで来るには、数多くの革命の過程を経てきました。個人を中心に、あるいは宗族を中心に主張した習慣や風習は、より大きな民族が現れるとき、みな壊されたのです。一つの個別的な国家は、やはり全体的な統一の理念を追求する摂理によって、より大きく強い国に吸収される歴史過程を経てきたのです。

 地球も一つであり、人間も一つであり、神も唯一ですから、最後にはこの三者が同席して喜ぶことができる一日を成すために、神は苦労されているのです。そしてある指導的な権限を持って命令する神ではなく、自身の欲望で主管するための神ではないのです。

 神様は六千年の間、個人は家庭のためにという心、父母が子に対する以上の心をもって人間に対してこられたのです。人間が神に対して、孝子以上の孝誠の心でアボジと呼ぶ一日を捜し求めることが、人類に対する神の苦労の歴史なのです。ところが今日人間は、このような事実をよく知らないでいるのです。

 今皆さんがこのような考えを心に抱いて祈祷したなら、多くの祈祷が必要ないのです。「天のお父様!」というこの一言と共に、数千年間役事されたアボジの心情を感じるようになるのです。六千年の歴史の中で、神様が闘争の過程を経てこられたのも、今日の私を捜し求めるためであったことを、感じるようになるのです。

 ですからこの神様が自分に対して「愛する息子よ」と呼ぶことを願うなら、皆さんは創世時に持たれたアボジの心情、人間の堕落によって感じた悲しい心情、再び全世界万民を救援するためのその心情を感じて、神を父とする人間にならねばなりません。

 そして皆さんは、神様が今日皆さんに対して摂理されるこの事実を見て、満足して喜ぶのではなく、未だにこの地上に残っている悪と対決して、千辛万苦の苦労の路程を経て、カナンの目的地まで行かなければならない人類を案じるアボジの心情を感じ、愛するアボジを呼ぶならば、このアボジという一言は歴史的な全体のみ旨に通じる言葉になるということを、知らねばなりません。

 ところが今日皆さんがいつも祈祷するとき「ご在天のお父様」と呼んでいますが、世の中ではこのアボジの名を汚す人間が多いのです。アボジと呼ぶ言葉には、六千年の歴史の血の祭壇を通して往来した、先知先烈たちの叫びが込められていることを、知らねばなりません。ここには十字架の要所が宿っているのです。我々の先知先烈たちの無限の苦しみと、残酷な歴史的因縁が現れているという事実を、知らねばなりません。

 ですからこの創造主が、自分と切っても切れない因縁を結んでいるアボジであることを皆さんが認識したなら、そんな人間はサタンがどんなに強くても、奪ってゆくことができないのです。どんなに地獄の火が恐ろしくても、そんな人間は溶かすことができないのです。

 それではイエス様がメシアとなる原因が、どこにあったのでしょうか? 父母のまえに孝道を尽くすという信念が、人類の歴史を代身することができるように、イエス様は自分一身で人倫を捨てても天倫を代身するという覚悟を持って、万物を創造された神をアボジと受けとめ、即ち自分が滅んでも興っても自身の威信と体面を省みず、神を父して侍っていったからなのです。

 イエス様は自身の家庭において歓迎されず、自身の宗族から冷遇されたのです。また、洗礼ヨハネの一団から歓迎されず、さらにはユダヤ教から排斥され、イスラエル民族から逆賊として追われたのです。しかし歴史的に結ばれたアボジの怨恨の心情を解いてあげるべき使命を悟っていたので、人類のすべてが自分を見忘れ、またそれらから排斥されたとしても、ここに落胆しなかったのです。ここにイエス様が、メシアとなる資格があったのです。人類歴史上、誰もが持つことのなかった心情、即ち神の為に自身の骨肉親戚よりもより骨と肉に染みる心情を、イエス様は感じたのです。

 こうして神様は、四千年の歴史を終結させるべき立場ですべての人間が反対するとき、ご自分の威信を忘れてイエスを抱きかかえ、涙されたのです。四千年の歴史の中で、数多くの先知先烈たちが来ては行ったのですが、神の心情を真に知る人間は、イエス様ただ一人だったのです。

 即ち、イエス様は自身の人生路程において、人間のまえに天倫の法度を教えたのです。神はわたしの父という心情に、体が通じ、血が通じるそんな場で、五感を通して万象を見やるとき、即ち神を捜し求めてさまよう人間と天上の因縁を結ぼうとする万物を見やるとき、イエス様の哀しい心情はこれを語ることができなかったのです。


 神の真の子女-心情の相続者

 ですから今日の人類は、イエス様と神が四千年の歴史を総決算するために出会った、その一瞬の出会いの心情を感じなければならないのですが、これを今日の人類は考えてもみないのです。イエス様がゲッセマネの園で血の汗を流して祈祷された時、背反する民族、不信する祭壇を思って、世界の摂理を代身していったイエス様の哀しい心情は、これを語ることができないのです。

 このようにイエス様は教団と民族、国と世界が反対しても、神を愛する心がより大きかったので、人間として感じる心情、神様のすべての心情を感じることができたので、ゴルゴダの道を自信をもって行かれたのです。

 ですから今日皆さんも「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい(マタイ二六:三九)」と祈祷されたイエス様の心情と共に祈祷するなら、地獄に行く人間はいないのです。ところがイエス様がこのように神の愛の心情を持って現れたように、イエス様の愛の心情を知る人間が、当時一人もいなかったのです。それでイエス様はこの地上に、新郎・新婦という名詞を残していったのです。

 それではどうしてキリスト教の中に、マクダラのマリアの名が残ったのか? 千秋万代に彼女の名が伝えられてきたのは、何ゆえでしょうか? それはイエス様が彼女の名を、紹介されたからです。その当時、一人の卑しい女の身で三百デナリもする香油を、独身のイエスの足に注ぎ、頭を拭うという事を、誰が許したでしょうか?

 弟子たちまで嘲り、ユダが抗議し、皆なが反対したのですが、イエス様はどうして福音の報せにマグダラのマリアの名が記念されるようにしたのか? イエス様は愛する弟子、また多くの人々よりも、この一時のマグダラのマリアの誠精が、神様にご自分の誠精をすべて捧げると同じ条件になったので、このように語られてのです。イエス様が十字架につかれるや、従ってきた弟子たちはみな逃げてしまったのです。しかしマグダラのマリアとイエス様の母は、イエス様の墓を捜したのです。彼女らにも家庭と夫があって、固有の旧約思想を中心にしたユダヤ教の風習がありました。ところがこのような事をすべて度外視して、即ち自分の社会的な威信や体面を考えないで、死んだ独り身のイエスの墓を捜してさまよったのです。それでマグダラのマリアは、イエス様に出会ったのです。

 それでは天上の審判は、どこで決定されるのか? 皆さんが天の為の功労と苦労が多いからといって、誇るのではありません。それによって決定されるのではありません。ただ神の心情とイエス様の心情が、皆さん自身の体に体恤されて結実して、それが神様やイエス様と切っても切れない因縁となっているものだけが、永世不死の条件になるのです。

 これを考えてみるとき、今日全人類はどのようにしなければならないか? 神に通じる真理の御言を追究し、霊的な体験を追究することも良いのですが、神の心中深くに留まっている愛の因縁に結びつけ、イエス様の心情と愛の因縁に結びつけなければなりません。そんなときに皆さんが、イエス様の新婦、神の息子・娘として立つことができるのです。 ところが今日我々は、悲しい人間たちです。大韓民国三千万民族が、イスラエル民族にならねばならないのですが、そうはなっていないのです。この社会に教会がどんなに多くても、神の教会がなく、信じる人間がどんなに多くても、神の息子・娘がいないことを知るのです。それゆえ今、この地上に何が出てこなければならないのか? この民族を生かす神の息子・娘が出てこなればなりません。神の教会がなければなりません。神の民族がなければなりません。従ってこのような涙の道、捨てられる道で神の息子になることができる道が開かれたなら、我々はここに感謝しなればなりません。

 イスラエル民族が一つの民族を建設するために、エジプト苦役の四百年期間に天を中心とした一つの標準と理念を立てて、民族が団結して変わらぬ信仰の期間を経た後にこそ、初めて所望の一日を迎えることができたように、今日皆さんもこのような立場に処しているのです。

 また今日皆さんはエジプトの地のような、そんな地で生きているということを骨身に染みて感じてみなければなりません。

 それゆえ今皆さんは、選ばれたイスラエル民族を蔑視したパロ宮中に対して、敵愾心を持って闘ったモ-セの心情を抱く人間にならねばなりません。一日に決心した心を、ミデアンの荒野四〇年の路程をさまよっても、変わらなかったモ-セの心情を、我々は持たねばなりません。

 三代父母に対する責任

 それでは今皆さんが、このような長い期間を耐えてゆくならどうすべきでしょうか?

 皆さんの何かの真理、何かの運動、何かの主義をもってしては駄目なのです。皆さんは天の心情を代身して、民族を望み見なければならず、イエス様が民族と教会の為に、ユダヤの国が滅んだ事実を精算する為に、祈祷されたその心情を持たねばなりません。こうしてユダヤの国の初代教会と同じく、手に手を取って自身の立場と威信を忘れて、天を代身してゆかねばなりません。こんな時に、この民族は生きるのです。

 イエス様は反対するイスラエル民族に対し、その時は呪咀したい心があったのですが、四千年間というもの耐えてこられ、摂理された神の心情を感じるがゆえに、むしろ彼らの為に福を乞うたのでした。即ちゲッセマネの園で、あるいはカルバリの山頂で、または十字架上で、怨讐たちのために涙を流して祈祷されたのでした。

 当時ロ-マの市民権を持っていて、その国のすべての慣習や法度を固く守っていたパウロが、どうして自身の名誉と信ずるユダヤ教を捨て、自身の知識もみな捨て、ユダヤ教から追われる立場に立ったのでしょうか? それはパウロがイエス様の偉大なる愛の心情を知ったからです。こうしてどこにも頼る所がなく、身を横たえる所もなく、世の荒波にさらされながら一身の安楽を忘れ、イエス様の御言を伝播していったのでした。

 パウロが使徒の職分を果たすことができたのは、彼の人格のゆえではありません。彼が他の人が持っていない、即ち神の愛を代身して現れたイエス・キリストの心情に通じる一つの基準を持っていたので、使徒パウロになることができたことを、皆さんは知らねばなりません。どんなに博識で、お金が沢山あっても、それをもってしては駄目なのです。それゆえ今、皆さんもこんな天的な法度で歩んで生き、心と体がそこに向かって動かなければなりません。

 我々は天と地と人間の、三代の父母の因縁から外れることができません。それではこの三代の父母の恩に何をもって報いるのか。今までの人類・民族・民はみな滅びました。こんな理念を捜し立てるべき摂理が残っているので、今日世界的な物質の運勢が人間に訪れてくるのです。物質が人間を打つときが近づいて来ました。なぜならば、人間が自分の位置を失って万物のまえに犯した罪があり、これを終わりの日に世界と人間のまえに蕩減復帰しなければならないみ旨があるからです。それで今日人間が、世界的に物質的な苦痛を受ける立場に処しているのです。それゆえこの物質的な苦痛を踏み越える人間が、出てこなればならないのです。そして初代教会的な神の愛に通じる使徒たちが、出てこなければならないのです。

 今日先進国家であるアメリカも、民主主義的な内容を持って動いているのですが、物質万能主義だけを叫ぶ立場になれば、物質にやられてしまうのです。この物質を全人類の為に使用する方法を考えないと駄目な時にきているので、アメリカのような国では他の国のために援助するのです。ところが援助しても、裏面で自分たちの利益を得るために援助するなら、これは天倫が許さないのです。

 このような理念を成すために、人類は民主主義の経済社会を経て、本然の物質文化、経済社会を指向していっているのです。従って人間が物質の価値を主張して、本性の理念を代身することができる実体の基準の者となって、物質と人間と天の三者が同席する型を持たなければならないのです。


 天国の民の伝統

 今日のすべての信仰生活を推し量って見るとき、我々は物質に隷属する信仰観念を持っていては駄目です。もしもこのような宗教団体があったなら、天が良心的な人々を動員して、そんな信仰観念を修正するのです。そんな時が近づいて来ています。また天倫を忘れて自分の正当性を主張する人々の意識も、是正すべき時に来ているのです。

 地球も一つの存在ですから、意識があり、存在の目的があるのです。そして地球も被造物ですから、一人の主人がいるのです。その主人が、正に神様なのです。それで神がおられる限り、一つの理念の下に動くことができる世界は、必ず成就するのです。

 また人類のすべての思想を支配することができる、統一的な宇宙観が出なければなりません。神の実存性を中心とした理念が、人間世界を支配できるようになり、人間と父子の関係を結んでおかなければ、神は地球と人類の父母としての責任を果たさないことになってしまうのです。それゆえ万物も一つの中心のために動いているのであり、地も宇宙の理念を中心にして動いていて、人間もやはり一つの主義を中心にして動いてゆく、その日が来てこそなのです。

 今日数多くの人々は「私はこんな人間だ」「私はこんな国の民だ」と自慢しています。今日アメリカ人は、大きな国の民であると威張っています。しかしこれをもってしては、永遠ではありません。アメリカは自分の国の為に生きていますが、他の国の為に生きなければならないことを知らないのです。その昔、ギリシャ文明がロ-マの為にあったことを知らなかったようなものです。ロ-マも自分の国の文明が、イギリスを経て現代文明の為にあったことを知らなかったのです。ですから今日アメリカ国民は、自分の国の為に働くことは勿論ですが、他の国の為にも働くべきことを知らねばなりません。ところが大部分のアメリカ人はこれを知らないでいるのです。そんな中でも一部の人々が、自分たちの為だけに生きるのではなく、天倫の為に働かねばならないという理念が立っていることは、不幸中の幸いです。

 それゆえ今皆さんは天性を代身して、世界的な摂理のまえに新たに武装して行かなければなりません。今までは物質文明が人間を支配し、人間の理性に通じる主義が世界を支配してきたのですが、それで終わってしまうのではなく、天性に通じ、イエス様に通じ、天的な理念に通じ、神の心情に通じることができる一つの主義が、この地のどこかに現れる時が必ず来るのです。

 ところで今日、我々はどんな主義も持たず、我々の国は世界的な先進国家でもありません。しかしこの民族が、最後に残る天宙的な神の心情を代身し、神のものとして捧げることができ、全人類が頼み希望するもの、神主義として現れる理念を感じることができる所に立ったとしたら、皆さんは気を落とさないでください。

 今日統一教会に集まる皆さん、皆さんはたとえこの小さな教会に座っていても、これを広げれば世界を代身し、さらには天上を代身することができるという心情を感じるなら、問題は解決されるのです。何であっても解決できるのです。皆さんは神のみ旨を代身する子女ですから、神をこの世界の主人として侍る天国の民になるというのです。そして皆さんはいつ、どこでもアボジのみ旨に外れないことを、肝に銘じなければなりません。

 さっき読んだ聖書の御言の中に、こんな御言がありました。「人がその友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はない」そして「怨讐のために祈れ」とされました。

 イエス様が主張されたことは、我々が立てるべき法度と、永遠であるアボジの民族が誇るべき伝統的な風習です。そしてイエス様が主張された道理は、その当時にのみ限られたことではなく、人類を復帰させるにおいて必要な天倫の法度であったのです。従って今、皆さんが神の息子になり、神の娘になるには神の愛を感じ、神の愛を所有しなければなりません。そうするためには、神様が六千年を耐えて愛の息子・娘を捜し求め、今まで闘ってきたのですから、皆さんも闘ってゆかなければならないのです。


 聖霊の九つの性禀

 皆さん自身が天のものとなりたいなら、まず涙を流される神の立場に立ってみなさい。神様が切ない歴史過程を経てこられたことを感じて、皆さんも涙を流すのです。聞いているこの耳もやはり同じです。食べている一杯のめしも通らないのです。このように切ない天の心情に通じることができる皆さんになったなら、この民族は生きるのです。神様は正にこのような人間を捜し求めておられることを、皆さんは知らねばなりません。

 聖書には、聖霊の九つの実に対する記録があります。「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制(ガラテヤ五:二二)」を言います。この聖霊の九つの性禀、これが神が主張し、神が建設し、神が立てようとされる御国の標準であり、その社会の制度であり、生活の理念であって、これを皆さんは心身に染みて感じたことがありますか。もしも皆さんにこのように染みる心があったなら、イエス様がエルサレムに向かって、石を抱えて言いたかったことを泰山のように口を閉ざして耐えた、その心情を感じるのです。 今日皆さんは統一教会に入っていますが、皆さんのための統一教会を願わないでください。今日我々があるのはこの民族の為であり、今日この民族があるのは世界の為であり、世界があるのは天の為であることを皆さんは知らねばなりません。また皆さんがこのみ旨の為に苦労し、祭壇の前に何かを捧げるものがあっても、神はそれよりもこのみ旨を案じてくれることを、より喜ばしく思われるということを知らねばなりません。

 イエス様に平安な休み所を用意し、あるいは山海の珍味を並べた宴を催すよりも、イエス様の心に代って案じ、世界を抱えて涙を流すことを、神もイエス様もより喜ばれるという事実を、皆さんはまた知らねばなりません。

 イエス様は十二弟子が自身を敬うことよりも、自身のことをすべて忘れても、ユダヤの民をより愛することを求めたのです。イエス様の三〇余年の生涯の路程がそうであり、モ-セもやはりそうであり、神もやはりそうであったのです。

 それゆえ孝子・忠臣・烈女たちにならねばならない皆さんは、天のまえに弁明しようにも弁明できない心苦しさを感じなければなりません。また自分が何かをやったと主張できない自身の不足なることを感じ、天性のまえに恐れ多いことを感じなければならず、自分が自分のものではなく、アボジのものになるために闘ってゆかねばなりません。もしもこのような皆さんになっていったなら、歴史は民族を経て、国家・世界を経て、天宙主義時代に越えてゆくのです。

 今日人間が主導的な役割をしようとしているように、天が主導的な行為をするときが来ないと、誰が言い切れるのか! 天がある限り、天が主導的な行為をするときが必ず来るのです。今日まで人倫的な一つの基準が立っていないので、天倫が干渉できないのですが人倫のまえに天倫の威信が立つ日には、その命令と法度に人間はとうてけれることはできません。

 時はこのように過ぎているのに、人間は知らないのですから、いま一度反省して見なければなりません。こうして神の愛の関門に自分が通過して「神を絶対に信じます」とする自信ある実力者になって、永遠なるアボジに侍る真の息子・娘にならねばなりません。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

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Last updated  2021.03.06 18:01:45
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