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2022.03.24
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「父母様と歴史的な勝利」

一九九二年四月五日
ソウル本部教会にて


  貴い父母の生まれた日

 皆さん、きょうはなぜこんなに緊張しているのですか? きょうは何の日ですか? (「父母
の日」です)。なぜ「父母の日」が必要なのでしょうか、なぜ父母が必要なのでしょうか? 私
たち統一教会には、いかなる国のいかなる団体にもない「父母の日」があり、「子女の日」があ
り、「万物の日」があり、「神の日」があり、それらを今日までずーと守ってきたのです。「父母
の日」というのは、この地上に初めて父母が生まれた日です。ですから「父母の日」が貴いか、
父母が貴いかという時には、「父母の日」が貴いのではなく、父母のほうが貴いのです。、その貴
い父母の生まれた日を記念するのが、きょうの「父母の日」なのです。
 今年でもう何回目になりますか? (三十三回目です)。父母が祝福を受けて三十三回目の記念
日であり、「父母の日」も三十三回目です。数字で見れば三教は、三代、三数の主体、三対象の
数でもあり、また蘇生、長成、完成を意味するのです。木に例えれば根っこと幹と枝であり、さ
らに縦的に見れば、上、中、下になっています。そして円形からみても一番中心が三教であり、
原理においても三数が一番重要な数となるのです。
 三十三年といえば、イエス様の生涯を思い出しますが、イエス様は三十三歳になっても相対的
理想を成すことができませんでした。もしイエス様が新婦を迎えることができたならば、歴史は
このようにはなっていません。第一イスラエルがイエス様を受け入れて一つになっていたならば、
既にイスラエル文化圏ができていたはずです。イエス様が死んだのちに現れたのが、今日のキリ
スト教文化圏なのです。
 もし、第一イスラエルがイエス様を受け入れていたならば、イエス様の生涯において新婦を迎
えることができたはずであり、真の母を探し出すことができたのです。そのように、完成した国
家と教会、国家と宗教が一つになった基盤の上で新婦を迎えていたならば、イエス様はイスラエ
ルの王となり、イスラエルの王権を相続し、またユダヤ教の王権を受け継ぐようになっていたの
です。内的外的三権を相続して、初めて第一イスラエル圏を中心として、さらにユダヤ教とイス
ラエル国を中心として、世界が一つになるようになっていました。
 ところが、イエス様が亡くなったために、このような圏は成し遂げられず、国を中心として、
教会も宗教も一つになることができなくなりました。ですから今までの歴史路程において、宗教
と国が怨讐になり、いかなる国であれ常に宗教を迫害してきたのです。その度に多くの人々が犠
牲になり、宗教を信じる人々がその国の主権者の宗教迫害によって死んでいったのです。そして、
打つ立場の国がカインであり、打たれる立場の人々がアベルなのです。本来そのようなカインと
アベルが一つにならなければならないのです。
 そのような基盤の上でイエス様が、父母として降臨されるのが復帰摂理においての伝統的な思
想であり、必然的な内容なのです。それは、神様が天地創造された時に、人間をつくるために必
要な素材としての環境を失ってしまったからです。ですから、環境の中には主体と対象があるの
です。その主体と対象は必ず一つにならなければならなかったのです。主体が好むから、対象が
好むから一つになるのではなく、好きでも嫌いでも、昼でも夜でも、春でも冬でも、夏でも秋で
も、常に一つにならなければならなかったのです。
 そのように、神様が創造された宇宙環境の中に主体と対象という概念があることによって、男
性と女性とが生まれたのです。では、男性と女性はどちらが主体でしょうか? 女性ですか、男
性ですか? (男性です)。なぜ男性が主体なのですか、女性が主体ではないのですか? 数を中
心としてみた場合にも、男性よりも女性のほうが多いし、平均寿命からみても、男性よりも女性
のほうが七年から十年以上は長生きするのです。
 このようにみた場合に、この世界は男性よりも女性のほうが多いと言っても、否定できないの
です。数から見ても女性のほうが多いのに、なぜ男性が主体なのでしょうか? 主体という概念
はどこから生まれたのでしょうか? 「主」という漢字は、「王」の上に点がついており、これは
神様を象徴しているのです。王様の上の主人であるということなのです。ですから、主体は神様
の系統であり、直系でなければならないということになるのです。 「王」という字を見てみると、
垂直線に三つの水平の線を引いたものです。これは、神様の系統を相続できる姿を備えた存在が
主体だということなのです。
 それでは男性と女性は何がどのように違っているのでしょうか? 東洋思想においては、男性
は天を意味し、女性は地を意味します。そして天が複雑か地が複雑かというと、地のほうが複雑
なのです。ですから、女性は複雑な問題を処理しなければならないので口数が多いというのです。
しかし根本的な男性と女性の違いは、命の種の問題です。命の起源は神様であり、神様の直系の
系統に立つために、誰が命の種を相続するのかというと、男性が命の種を持っているのです。根
っこにつながれているということです。ですから男性が主体となり、女性は相対的な立場となる
のです。


 男性は一体何をもつて主体になるのか

​ そのような主体を中心にして対象が回る時、その中心は移動できないのです。中心が移動する
と大変なことが起こるのです。地球が太陽の周りを回る場合も、常に中心を中心として回ってい
るのです。中心が移動しながら回るのではありません。それと同様に、男性を中心に女性は家庭
を舞台として回らなければならないのです。このように見ると、今日の女性はあまりにも乱暴な
行動を取っているのです。ですからアメリカでは今、男性たちが女性問題を中心としてデモをし
ているのです。とても韓国では理解できないことです。 「男性を無視し、男性を僕のように扱っ
てはいけない」と言ってデモをしているのです。男性は男性の本然の立場に復帰し、女性は女性
の本然の立場に帰らなければなりません。それには、誰も異論はないのです。
 そのような意味から見ても、文総裁の教えが必要なのです。ですから、そのような女性たちを
集めて、「天の真理がこのようになっているのに、女性たちを中心として回ればどのようになる
か」と言うのです。もし、そうなれば大変なことになるのです。なぜかというと、女性は男性よ
りも軽いし小さいので、そのような女性を中心として回れば根っこまで抜けて倒れてしまうので
す。すべての面において男性は女性よりも大きく、力も強いために、自然の法soから見ても間違
いなく、男性を中心として女性が回るようになっているのです。
 天地の原則からみても、すべてが循環運動しながら存在しているのです。人間の血液も、すべ
て高級な器官は授け受けをしているのです。言葉をしやべる時も、音声を高めたり低めたりして
話すのです。歌をうたう時も同じです。どうしても女性よりも男性のほうが主体にならざるを得
ないのです。ですから大韓民国の女性たちは威張ってはなりません。男性に待って、男性を主体
と考えることのできる心を持たなければなりません。それで行動する時も、女性は男性を中心と
して足並みを揃えることができるようにならなければ破綻が起こるのです。
 この世界には多くの男性と女性がいますが、間違いなく男性が主体なのです。統一教会の女性
たちはこのことをよく知らなければなりません。では、男性は何をもって主体になることができ
るでしょうか? 男性が主体であれば、神様は不公平なお方でしょうか? そうではありません。
では、男性は一体何をもって主体になるのでしょうか? 男性は子供の種を持っていますが、そ
の子供のすべてを持っているのが女性です。目にも見えないような一粒の小さな子供の種を受け
て、それを育てるのが女性なのです。母となって育てるのです。そのことを考えてください。そ
の小さな種の中には、五つの感覚器官が入っているのです。小さなコンピューターの中に数多く
のプロジェクトが人っているように、人の目には見えないけれども、その中には目があり、鼻が
あり、歯があり、髪の毛の一本一本までもが入っているのです。そして、これらがすべてプラ
ス・マイナスの相対的要素をもって、授受作用を通して大きくなるのです。そのプロジェクトを
限界点まで拡大して、周りのあらゆる元素を吸収して成長していくのです。
 男性は子供の種をあげるのですが、女性はその種を自分のものとして大きく成長させ、子供を
誕生させるのです。そして、その子供を見ると、本当に不思議に神様の調和が現れているのです。
そのようなことを考えた時、もし五十億人類が研究し尽くして子供一人をつくったとしても、そ
のような子供ができるでしょうか? 四百億の細胞がすべて生きているのです。五十億の人類を
一OO年、一OOO年動員しても、女性の胎中から生まれてきた子供のような人間をつくること
はできません。そこに、いかなる人々を動員したとしても不可能なのです。ですから人間とは貴
い存在なのです。
 最近、大韓民同において、「人間の価値は、一匹の優秀な犬にも及ばない」という話を聞きま
した。本当にそうでしょうか。私はそのような話まで聞いているのです。そう考えた時に、人間
一人がどんなに貴いか考えてみましょう。犬に歌えと言って歌うでしょうか? (歌えません)。
億年、万年教育してもできないことです。しかし私の孫たちは、一歳を少し過ぎたのに話もでき
るし歌もうたえるのです。今おばあさんの気持ちが良いか悪いかもすぐに分かるのです。おばあ
さんの目を見て、少し気持ちが悪そうに見えると、真正面からではなく横から近づいて来て笑わ
せるのです。目で笑いながら「こんにちわ!」と言うのです。そして、ひざに来て抱かれると、
おじいさんやおばあさんのどんなに激しい怒りも絹のように軟らかくなるのです。一歳に過ぎな
い子供が、そのようなことをみんな知って行うのです。果たして猿の子供がそれを知っているで
しょうか、知らないでしょうか? (知りません)。​


  愛を中心としてつくられた宇宙

​ まず神様は環境をつくり、そして何をつくりましたか? (男性と女性です)。神様は環境を創
造されて、主体と対象関係をつくられたので、男性と女性が存在するのです。またレベルは低く
ても、昆虫の世界、鳥の世界、あらゆる動物の世界には雄と雌がいるのです。もちろんそこには
中性というものもありますが、相対性なくして主体の分裂によって繁殖するということは成り立
たないのです。見えないところに主体と対象の作用があるので、主体が大きくなり相対になるこ
とのできる存在を作用させて、新しいものが生まれてくるのです。
 植物世界においても、おしべとめしべがありますが、それは動物世界の雄と雌の概念と同じで
す。花の世界においても、その花のおしべとめしべを中心とした愛をささやくのです。それでは、
そのおしべとめしべは互いに向かい合わせているのでしょうか、背け合っているのでしょうか?
 皆さん、銀杏の木を知っていますか? 丘の向こうに雄の銀杏の木があれば、雌の銀杏の木は
首を長くして雄の銀杏の木から来る花粉を待っているのです。そのようにして実を結ぶのです。
天地の調和は皆そのようになっているのです。すべてが愛のゆえに花を咲かせるのです。一人で
は花を咲かせることはできません。横約縦約関係の内容が必要なのです。花の色がきれいなのは、
蝶や蜂などの昆虫が飛んで来て蜜などを吸うことによって、おしべとめしべが互いに一つになっ
て新しい種が生まれてくるためです。
 また鉱物世界においても、分子と原子世界があり、分子世界においてもプラスイオンとマイナ
スイオンがありますが、すべてにプラスの性質とマイナスの性質があるのです。元素は一O八個
ありますが、どんなに有名なノーベル賞をもらった博士が、科学実験室で元素と元素を一つにし
ようとしても絶対に一つにはなりません。相対的基準が整えられなければ一つにはなれないので
す。ですから互いに張り合って、主体と対象の系列が違い、レベルが違い、次元が違っても、す
べてが合うようにプラスとマイナスがあるのです。それで、分子世界にはプラスイオンとマイナ
スイオン、原子世界には陽子と電子があるのですが、すべて相対的関係なのです。
 そこで、このような環境を創造された神様の世界で、必ず知らなければならないのは主体の概
念です。それが創造の原則なのです。それは、愛を中心として宇宙はつくられたからです。次元
は異なっても、一番下の小さなものから一番上の人間もそのようにつくられたのです。
 例えば、人間の血管に動脈と静脈があり、すべての細胞に動静脈の血管が通じているように、
宇宙のすべての万物は主体と対象とからなって、動静脈のような作用を成し、吸収、同和する様
相を備えているのです。ですから、この宇宙は、レベルは低くてもすべてが愛という概念を中心
としているために、この世界には主体と対象の概念があるということです。そして、それは主体
と対象という概念のみで終わるのではありません。アダムとエバ、男性と女性、雄と雌が一つに
なるには、必ず相対的関係を結ばなければならないし、そのようにして相対的関係を結べば繁殖
作用が起こるのです。
 このように互いに相対的な関係を通して、だんだんと拡大していくようになるのです。父母は
一組であっても、その子供たちは十人にもなるのです。姿形は小さくても、数においては多くな
るのです。そこに、相対圏が生まれるのです。この宇宙も同様です。家庭があればその家庭を中
心として、氏族があればその民族を中心として相対関係を持たなければなりません。それは、宇
宙が縦的横的に運動しているからです。個人的に運動しようとすれば、家庭を通って、すべてを
連結して、世界の果てまでも行かなければなりません。例えば、指先に行った血液は心臓に戻り
たいでしょうか、戻りたくないでしょうか? 「心臓に戻る」と言って指先に向かった血液が、
「夫婦喧嘩のため、妻の頬を叫いて出た血であるから、心臓には来るな」と言うことができるで
しょうか? 「足の指先の匂いのする血は、心臓の中に、頭の中に来るな」と言えるでしょう
か? そうなれば大変なことが起こるのです。血液というものは、低い所、高い所、東西南北、
どこにでも通じる自由があるというのです。
 それで血液は何を意味するかというと、命を連結するものなのです。なぜそのように命にふさ
わしく運動する推進力を持っているのかというと、愛のゆえなのです。では、愛のために命が生
まれたのでしょうか、命のために愛が生まれたのでしょうか、どうですか? 愛を与えて命を買
いますか、命を与えて愛を買いますか? これは何を意味するかというと、愛のために命を捨て
るか、命のために愛を捨てるかということです。愛のために命を捨てなければなりません。「愛
のために命を捨てる」と言えば、誰も離婚できないのです。妻は夫を捨てることができません、
夫は妻を捨てることができません。考えてみると、そこには大変な問題が介入してるのです。​


  神様の上に真の愛がある

​​​​​​​​きょうは何の日ですか? (「父母の日」です)。私は「父母の日」という言葉よりも「父母様」
という言葉のほうが好きです。皆さんは父母様が好きですか、「父母の日」が好きですか、(父母
様が好きです)。これで、「父母様と歴史的な勝利」という題目になります。 「父母の日と歴史的
な勝利」という言葉はあまり良くないのです。しかし「父母様と歴史的な勝利」という題目で話
すには、あまりにもタイトルが大きすぎるので、何か速くに感じます。
 環境の中には主体と対象がありますが、主体と対象が一つになっても、そのままでは滅んでし
まうのです。どんなに愛し合った美男美女が結婚して、一つになって永遠に生活しようとしても、
それは宇宙に通じないのです。すべてに相対関係があるからです。家庭を越えて国家があり、国
家を越えて世界があり、世界を越えて天宙があるのです。このことを一般の人々は知らないので
す。そして、神様はその上にいらっしやるのですが、神様で終わりでしょうか、神様の上に何か
があるでしょうか? 神様の上に真の愛があるというのです。このような話をするので、「文総
裁は思想的に混乱を起こす人だ」と言われるのですが、どんな混乱を起こしても、ほほえみつつ
自分の行くべき道を確実に行き、成すべきことを必ず成しておけば、その混乱は人類において必
要なものだというのです。
 では、神様の愛は絶対に必要なのでしょうか、どうですか? 絶対的なものは二つあります。
愛も絶対的であり、神様も絶対的であるというのです。絶対的なものが二つあっても、同等であ
れば大変なことが起こります。 「女性が大きいか、男性が大きいか」と言って、女性が男性の前
に立てば、ちょうど男性の顎に女性の頭がぴったり合うようになっているのです。それが天地の
道理なのです。絶対的な神様ご自身と、その神様の前にある絶対的な愛のどちらをより絶対的に
要求するでしょうか? (愛です)。女性という言葉は絶対的ですが、その前に愛があれば、絶対
視しなければならないのは愛のほうなのです。
 皆さん、男性と女性はどこから来たのかというと、神様から来たのです。ですから男性におい
て絶対的に必要なのは女性であり、女性において絶対的に必要なのは男性なのです。女性におい
て宇宙的な奇跡とは、男性が存在するということなのです。それは歴史の上で最も偉大なことで
あり、聖なることであり、奇跡中の奇跡なのです。また、どんなに立派な男性がいても、その男
性にとって奇跡中の最大の奇跡は女性が存在するということなのです。このような話をすると、
女性たちは気持ちがいいでしょう。 (はい)
 女性たち、よく男性と喧嘩をしますか? (しません)。しようとはするのですが、喧嘩をして
も負けるのですね。女性同士で喧嘩をすれば勝つかもしれませんが、女性は男性と喧嘩をすれば、
一OOパーセント負けるのです。ですから女性は喧嘩が嫌いなのです。
 世界の五十億人類の半分の二十五億の女性は、もし男性が世界に一人しかいないと考えてみた
場合に、女性たちは喧嘩をするでしょうか、しないでしょうか? 喧嘩をしないという女性がい
るならば、一度喧嘩をしてみなければ夜眠ることもできないのです。しかし喧嘩をする前に、お
金で一人の男性を得ることができるならば、財布の中のお金、貯金通帳の中のお金、家にあるお
金、すべてを出してもよいというのです。もし、その男性が取り引きされた場合には、その値段
はどのくらいでしょうか? だんだん値段を上げていった場合に、黒人、白人、黄色人たちの中
で、「白人たちは上げてはいけない。黒人たちは奴隷だ。黄色人たちは皆集まれ」と言った時に、
一番最後に誰が勝つと思いますか? 数の多い女性が勝つのです。黄色人が残るのです。
 また、二十五億の男性の前に現れた女性が、もしお母さんであれば、そのお母さんの価値はど
れほどでしょうか? 考えてください。それは、奇跡中の奇跡だというのです。お母さんの目一
つを見ても奇跡中の奇跡であり、女王様の目なのです。触りたいし、つまんでみたいし、千年、
万年触ってもまた触りたいというのです。これは深刻な問題です。これは遊びの気持ちなどで言
えることではありません。そのような課題を一度小説に害いてみてはどうでしょうか? 自ら美
しいと思う女性たちは、なぜ二十五億の男性たちが私を探して来なければならないと威張るので
しょうか、何のために女性は大騒ぎするのでしょうか? それは愛のためです。愛がどれほど価
値のあるものかというと、愛には戦争をなくし平和にする力があるのです。
では、男性と女性は互いに何でもって愛し合うのでしょうか? それは、目と鼻と耳と口の四
つです。そこで男性と女性の心が平和になるのです。愛の調和によってそのようになるのです。
そして女性が貴いか男性が貴いかというと、愛が貴いというのです。ですから愛のゆえにさまざ
まな問題が起こるのです。そうですね、黒人の食口たちも先生の言うことが理解できますか?
(少し、理解できます)。
 どんなに素晴らしい男性も女性も、相手が好きなのではなく、その相手が好む愛が好きなので、
どんな男性も女性も互いに愛し含うようになれるのです。平和の内容、幸福の内容、自由の内容
が愛の中に潜んでいるために、愛を離れた平和はなく、愛を離れた幸福はなく、愛を離れた自由
はあり得ないのです。では、そのような平和、幸福はどこから出発したのでしょうか? 心と体
が一つになる以前に、「ああ、私は幸福である」と言えるでしょうか? 結婚式をする前には、
新婦は新郎の前に立つと胸がどきどきするのです。しかし愛の関係を結んでしまえば、妻が大の
字になって寝ていても夫は逃げ出さないのです。

  絶対的な神様も愛なくしては生きられない

 愛の関係を結べば所有権が決定され、男性の所有は女性の所有になり、女性の所有は男性の所
有になるのです。それは何のためかというと、愛のためなのです。私の夫という言葉も、私の妻
という言葉も、何をもって言うのかというと、愛を前提にしていう言葉なのです。女性という言
葉は男性を考えて、男性という言葉は女性を考えていう言葉なのです。私の夫という言っても、私
の妻という言葉も、愛を前提とした言葉であることを多くの人々は知らないのです。女性として
本当に自分の夫を愛することのできる人はどんなに幸福であり、男性として本当に自分の妻を愛
することのできる人はどんなに幸福なことでしょうか、先生の場合はどうですか? 先生は幸福
な男性でしょうか、不幸な男性でしょうか? 私の妻は幸福な女性でしょうか、不幸な女性でし
ょうか? (幸福な女性です)。なぜですか? (愛のためです)。
 自分のすべてを捧げて一OOパーセント愛するところに、妻があり夫があるのです。ですから、
愛という言葉はありがたいものです。耳と口と鼻と耳、これらすべての細胞はいかなる時に一つ
になることができるのでしょうか? 目も焦点が合わなければなりません。焦点を合わせてこそ
気持ちよく何でも見ることができるし、焦点が合わなければあらゆるものが崩れてかくのです。
前後上下左右が合わなければなりません。人間が歩く時も、手と足が交差するようになっていま
す。口も焦点が合わなければ、言葉がよく出てこないのです。耳も最もそうです。すべて焦点が
合わなければなりません。ですから愛し合う者同士は、まず目と目が合うというのです。男性と
女性は何を合わせなければならないかというと、一つになるにはまず気持ちを合わせなければな
りません。心が統一されなければ行動が生まれて来ないのです。
 そういう意味で、統一教会とは偉大な言葉なのです。教会を統一するということは、文化と思
想を統一することであり、そのためにはあらゆるものを統一しなければなりません。それで統一
教会の人々は、焦点を合わせて話さなければならないのです。その論理は何を中心としているか
というと、愛とは変わらぬものであり、絶対的な神様ですらも愛なしには生きることができない
からです。
 そのような神様の存在には、何かの理由があるでしょうか、ないでしょうか? 神様が人間の
父親であれば、男泣きするでしょうか、しないでしょうか? 男が雄牛のように泣いている姿を
見たことがありますか? 父母が亡くなった時、子供が亡くなった時、愛する相手が亡くなった
時に男は泣くというのです。一番悲しい時、一番うれしい時に泣くことは、それは極と極の二つ
の世界を通して、永遠に回る愛の舞台となるのです。
 愛の嫌いな人は手を挙げてみなさい? (……) いませんね。ここにいるおばあさんもそうな
のですか? もう六十歳も過ぎたのに愛が必要なのですか? 愛を中心として泣くことには終わ
りがないのです。うれしくて泣くその泣き声には終わりがないのです。そうですか、そうではあ
りませんか? 愛を見たことがありますか、ありませんか? 見たこともないのになぜ愛が好き
なのですか? これは大きな問題です。
 皆さん、心はありますか、ありませんか? 心を見たことがありますか、ありませんか?
(ありません)。見たこともないのに「心がある」と言うのです。もし、「心がない」と言えば、
どんなに気持ちが悪いことでしょうか。女性として、「そのようになって、お嫁にも行かずに…」
と言われたら、どんなに悲しいことでしょうか。男性はいつどこに行っても結婚できるけれど、
女性はそう簡単にはいかないのです。

 神様の創造の動機は愛から始まった

 人間の存在の根源はどこでしょうか? 環境から相対的な世界をつくられて、互いに和動する
ようにしておかれたのが神様のみ業なのです。そのようなみ業を行うようになった動機は何かと
いうと、それが愛なのです。愛の原理がぺアシステムを通して創造された博物館がこの世界なの
です。ですから被道世界はすべてぺアシステムになっているのです。ペアシステムになっていな
いものは何一つありません。万物の霊長としての人間は、万物世界の王として君臨しており、そ
の人間がぺアシステムになって愛し合う時には、すべてがそこに歩調を合わせようと踊りを踊る
というのです。それは、すべてが愛のゆえに生まれたからです。
 神様が一番必要とし、一番好まれるものはお金でもなく、知識でもなく、権力でもありません。
唯一、愛のみです。そして男性が一番好きなものも唯一、女性なのです。ですから男性の中で、
女性が嫌いだという人はいません。では、女性が一番好きなものは何でしょうか? それは男性
です。男性が一番好きなのです。それはなぜかというと、男性の背後にある愛を中心としてさま
ざまなことが起こるからです。神様がアダムとエバをつくる前に、愛とはこういうものだという
概念があったからです。しかし今日の哲字世界においては、概念と実際が二つの流れになってい
るのです。ですから歴史過程において、イエス様を中心としてどんなに被害を受けてきたかしれ
ません。これらが一つになるという論理を、この字宙の創造原則がその中にあるということを知
らなかったからです。見えない心、見えない愛がそこにあるということを知らなかったからです。
 男性と女性は目に見えない愛を中心として一つになるために、愛の実体としてつくられたので
す。ですから、愛を中心として一つになることができるようになっているのです。見えない愛の
影に従っている見える実体が存在するのです。見えるものと見えないものがどのように一つにな
るかといえば、心と体がどのようにして一つになっているかということを見れば分かるのです。
それは、真の愛を中心として一つになるのです。お金や知識ではありません。統一教会の人々は
真の愛についてよく知っているでしょう? (はい)。自分の命を犠牲にし、投入して投入して、
投入して忘れて、さらに投入しようとするところに真の愛が始まるのです。それで聖書には、逆
説的な論理が次のように記されているのです。 「死なんとするものは生き、生きんとするものは
死ぬ」 と。
 皆さん、真の愛が何か分かりますか? 真の愛の位置にぴったりとサイクルを合わせると、喜
ぶようになっているのです。ラジオも一つの周波数にダイヤルを合わせると、音波を通して放送
が聞けるようになっているのです。
 さて、目に見えるものが中心でしょうか、見えないものが中心でしょうか? 我々人間は、見
えない良心が中心になっているということを知らなかったのです。それで、今まで見えないもの
が先か見えるものが先か、唯心論が先か唯物論が先かという問題を中心として戦ってきたのです。
これらすべて一つにしなければなりません。偽りの愛は、すべてを迫害して決裂させるのです。
しかし真の愛は、一つにすればするほど統一されていくのです。私たち統一教会の人々はそのよ
うな力を持っていますか、会えば会うほどに分裂しますか、どうですか?

  変わることのない愛こそが真の愛である

 きょうは「父母の日」ですが、真の父母とはどういう人でしょうか? お金を多く持っている
人であればいいですね。おなかが空いた時には、思いどおりに食べさせてあげられるからです。
貧しい生活が続く時、一度でもいいからおなかいっぱい食べてみたいと思うのです。それはどん
なに素晴らしいことでしょうか? しかし、問題はそこにあるのです。食べた後に、食べたこと
を忘れてしまうからです。皆さんは今まで何千回御飯を食べてきたか知れないのに、それらのこ
とをすべて忘れてしまったでしょう。しかし真の愛を一度経験すれば、何億年たっても忘れられ
ないのです。
 韓国の人はトウガラシを食べ、キムチを好みますが、西洋の人はハンバーグが好きであり、日
本の人はお汁粉が好きなのですね。このように、生活の中で一番身近な食物も環境によってすべ
てが違ってくるのです。しかし愛においては1OOO年前の人々であれ、一万年前の人々であ
れ、東洋人であれ、西洋人であれ、すべてが同じなのです。
 では、変わる内容がたくさんあるものに価値があるでしょうか、変わらない内容がたくさんあ
るものに価値があるでしょうか? 宝物を見てください。例えば、黄金は変わるものに価値があ
るのでしょうか? 黄金は色において変わらなです。ダイヤモンドは何をもって価値がある
と思いますか、変わるからでしょうか? きょうはこのように、明日はこのようにと変わるから
でしょうか?女性の心はよく葦のようだと言われているのは、常に変わるからです。そのよう
な中から宝物を探し出すことができるでしょうか?
 移り変わるこの世界において、ダイヤモンドは変わらない色を誇るのです。黄金は変わらない
光を持っているのです。なぜ真珠が貴重かというと、真珠は和合し融合する変わらない色がある
からです。真珠は子供たちも、おばあさんたちも、みんなが好きであり、触りたいと思うのです。
そこには一〇〇〇年過ぎても変わらない色があるのです。宝石は変わる性質がより少ないほうに
価値があるのです。では、愛においてはどのような愛が最高の愛なのでしょうか? 誰かが来て
壊そうとしても壊れないダイヤモンドのような愛でしょうか? 黄金は軟らかいけれどもその色
においては何ものにも負けないものであり、春夏秋冬が過ぎて一〇〇〇年たっても変わらない色
でもって、王者の立場に立っているのです。変わるものはすぐに上がったり下がったりするので
すが、変わらないものは上がったり下がったりしないのです。人間も同じです。
 人間も変わらない人を願うのです。そこで、変わらない男性、変わらない女性をどこから探し
出すかということが問題です。そのような男性も女性もいないのです。朝はカルビが食べたい、
お昼には味噌汁が飲みたいと言うのですが、愛だけは変わらないのです。愛はさまざまな色にも
なりますが、原則的な面では変わらないということです。ですから愛する夫が妻に対する接し方
は、1000年前でも、一万年前でも変わらないというのです。また、愛する妻が夫に対する態
度も、億万年過ぎても変わらないのです。自分の良心も、生活姿勢もそのようになるのです。で
すから誰でも、「あなたは、本当に私を愛しますか」と言った時に、「あなたに心と体をすべて捧
げて愛します」という言ってを聞きたいのです。
 では、女性に聞いてみます。 「あなたはどこから来ましたか?」 )アメリカのテキサスから参
りました)。テキサスの両親の愛は変わらないので懐かしいでしょう? (はい)。なぜお父さん
お母さんが好きかというと、その愛が変わらないからです。ですから、両親は貴い存在だという
のです。神様の愛は億万午過ぎても変わらないものであり、それと同じように変わらないお父さ
んお母さんとして、神様の愛を壊かしむからです。その愛に頼りたいし、その生命に接ぎ木され
たいし、その因縁の中に抱かれたい我々の心が、日空局の愛を追求していくということです。人間
はそのような愛を壊かしみ共に住みたいという本質的な内容があるゆえに、そのような貴い愛を
探し求めて笏律しているのです。

  変わらない父母の愛

 それでは、この世の中で貴い愛が何種類あるでしょうか? 愛の種類を中心として見た場合に、
何がこの世の中で貴い愛でしょうか、皆さんの家庭の中には何がありますか? 兄弟の愛、夫婦
の愛、父母の愛があるでしょう。家庭の中には血肉を分かち合った兄弟の愛があるのですが、社
会に出てみた時に、自分の兄弟以上に近い人はいますか? しかし兄弟は、いずれはそれぞれに
別れるのです。その次に、父母の前には子女の愛があるのです。その次は夫婦の愛です。この四
つの愛が問題なのです。それで、父母、夫婦、子女、兄弟愛の中でも変わらない愛は何かという
と、父母の愛なのです。子供たちが学校から帰って来ると、必ず「お父さんお母さんどこにいる
の」と捜すのです。兄弟は年齢的に見ても近く、遊ぶ時も)緒の時間が多いにもかかわらず、学
校から帰って来ると、必ず「お父さんお母さん、どこに行ったの」と聞くのです。
 このように父母の愛が一番であるとすれば、夫婦の愛はどうでしょうか? 変わるところが多
いでしょうか、変わらないところが多いでしょうか? 統一教会の祝福を受けた家庭は、子女を
愛する以上に夫婦が愛し合う時に、その家庭の主人は、お父さんお母さんではなく、愛が主人と
なるのです。愛はみんなが好きなものであり、そのような変わらない愛に従いたいというのが、
歴史過程を通して全人類が求めてきたものなのです。
 ですから、統一教会の教理を家庭の中に、変わらない愛を再考の根っことして降ろしておいた
のです。これは私が賢いから言うのではなく、天の真理がそのようになっているのです。私がそ
のような内容をつくったのではありません。天の真理がそのようになっているのです。今までそ
れを知らなかったために、定着することができなかったのです。ですから、統一教会の人々は、
どうすれば定着できるかということをよく知らなければなりません。
変わらない愛の中でもより変わらない愛があるという時には、人々はその愛に従っていくよう
になっているのです。また、天運もその愛を保護するようになっているし、神様もその愛に会い
たいと思うのです。すべてがその愛に通じるようになっているのです。神様は統一教会を愛して
いるし、神様は文総裁を愛しているのです。
 政治をする人々の心は朝に身に変わるという話がありますが、統一教会の文総裁は変わります
か、変わりませんか? (変わりません)。牢獄に人っても、七十年間さまざまなことがあっても、
昔も今も変わりなくやっているのです。)本道なのです。私は、変わる人は好きではありません。
統一教会の人たちはどうですか? 神様も変わる人が好きではないのです。変わるものは皆が嫌
うのです。愛においても変わらないものが真の愛なのです。どんなに変わるように工作しても変
わらないのです。どこに行っても変わることがないのです。何の話か分かりますか?神様の胸
の中に秘められた愛は変わることがないのです。それがゆえ、この手苗はその愛に従って生きよ
うとするのです。そこから離れようとはしないのです。
 今日まで、統一教会の文先生にはどんなに多くの曲折があったことでしょうか? 私はそのよ
うな過程を経ながら、高い山に登る時は「やあ、万歳」と言い、低い谷間に入る時は「ああ、死
にそうだ」と言いながら生きてきたと、皆さんは思っているでしょうか? そのようにしてここ
までやって来たとすれば、それは問題です。どうですか? 文総裁は変わる人ですか、変わらな
い人ですか? (変わりません)。ですから、すべてが変わる問題多き比の中で、私はアメリカに
行って、「悔い改めよ。でなければ滅んでしまう」と言ったのです。
 家庭の中で一番変わることのない愛の実体は、お父さんお母さんであり、歴史上においても父
母が嫌だと言う人は一人もいないのです。そうですね? よく父母のいない人を孤児だと言うの
ですが、兄弟のいない人を孤児だとは言いません。​
一人 暮らしをしているからといって、その人
を孤児とは言わないのです。孤児という言葉は、お父さんお母さんのいない人に対して言う言葉
です。なぜかというと、変わらない愛との関係を結ぶことのできる主体と対象の相対suな立場と、
創造理想として立てられた主体と対象圏を失ってしまったためです。
 大韓民国の家庭に、父母がいるとすれば、その父母の愛と一つになることによって、その人は
愛国者にも通じるようになるのです。愛国者に通じる道があり、さらには聖人の道理があるので
す。孤児の立場で
一人 ​​ 暮らしをしている人は、父母に侍ることのできない人であり、王様に侍る
ことのできない人であり、忠臣になることのできない人です。聖人とはどのような人かというと、
世界の人々に侍ることができる人です。父母の愛に接した人は、世界を愛することができるので
す。それは、父母の愛よりもこの世の愛のほうがより変わりやすいからです。
 このように見た時に、今日、統一教会では「真の父母」と言っていますが、なぜ真の父母を必
要としているかということが問題なのです。私たちは、変わらない父母の愛を受けることができ
なければ、幸せを探し出すことができず、自由を探し出すことができず、平和の世界を成就する
ことができないのです。皆さん、父母と自分とは縱的関係なのです。兄弟が多い人は、互いに父
母の愛をより多く受けようとして戦っているでしょう。そうですね。そのようなことからして、
アダムとエバが生まれた時、愛の主体の神様の前に、天使長が競争心を持ったということも原理
からみて推測できるのです。
 このように見た時に、親子関係において問題が起こったのではなく、兄弟関係において問題が
起こりました。その次に親戚関係において問題が起こったのです。親子関係の問題に比べて夫婦
間の問題は、二十代を越えて情的基盤を通して起こる問題なのです。親子関係は生まれながらの
ものなのです。親子関係は宿命的な因縁であり、夫婦関係も運命的な因緑なのです。宿命的であ
る限り切り離すことができません。ですから、もし裏切り者の息子として生まれたならば、その
人がどんなに美男子であっても裏切り者の息子なのです。そうですね? 博土の学位を百10個持っ
ていたとしても同じです。そのような宿命的な因縁を乗り越えるものは、愛の道以外にはありま
せん。不変なる愛の道のみが可能なのです。変わることのない愛の道に一番近いのは、親子関係
という宿命的な因縁なのです。分かりましたか?
 私たちは、父と母とを切り離すことができますか? どんなに気持ちが悪くても切り離すこと
はできません。たとえ天と地を引っ繰り返してもできないことです。このように見た時、変わら
ぬ愛の主体者として神様がおられたにもかかわらず、どうして人類は父母とその愛の根源から離
脱して落ちてしまったのかということが、今日まで誰にも分からなかったのです。それが問題な
のです。
私たちの父母の立場に不変なる神様がおられるのならば、その父母と子女の間は宿命的な離れ
ようとしても離れることのできない関係なのに、 どうして離脱してしまったのでしょうか? お
金のために離脱したのでしょうか? (違います)。知識のためにそのようなことが起こったので
しょうか? 知識でもありません。権力でもありません。では何でしょうか? それは愛の間題
しかないというのです。

  まず長子権復帰を

アダムとエバと天使長は、それぞれのレベルにおいて互いにより高い愛を先に受けようとした
のです。そうですね? 皆さんも父母の愛をより多く受けようとするようにです。この堕落した
世界では父母の愛よりも、その財産を受けようとしますが、それでは遠からず滅んでしまうので
す。財産よりも、より高い父母の愛を相航したいと思わなければなりません。一番深い父母の愛
の軸に自分を縦的に立てて祝福を受けることを願う人は、その位置代でもって、文氏であれば文氏、
大韓民国の民族であれば、韓民族全体を動かすことのできる軸になるのです。
ある家系の代表となるためには、長男の長男でなければなりません。韓国にはそのような長男
の長男の歴史があるのです。神様の真理の歴史において長男の長男は、堕落と関係のない曲統で
なければならないのです。堕落と戦って勝刊したイスラエルであるということです。人類歴史に
おいて、勝刊したという言葉を中心として考えた時に、召された者たちが宗教の道を開拓するた
めに身悶えしながら、一体何に勝和したのでしょうか? ヤコブがヤボク川で天使と相撲を取っ
て騰ったということではありません。ヤコブは腰の骨が打たれて折れたのにもかかわらず、戦っ
て勝刊したことによって、歴史を代表し、人類を代表するようになったというのです。人間の道
理を超越して、天を代表し、天運に合わせて、あらゆるものを和合し、融令する内容において勝
刊したということなのです。
ヤコブは天使と相撲を取って勝利しましたが、その次は誰に勝刊したのでしょうか? エサウ
に勝利しましたね。そうですね? この二人に勝和したのです。ヤコブはエサウからパンとレン
ズ豆で長子権を買って、イサクからの祝福を受けたのです。お兄さんから長子権を貫って、お父
さんからは祝福を受けたので、「すべて私のものです」と舌口えるのです。ヤコブが母と組んで父
だ-,
と兄を編して祝福を奪ったという歴史が、聖書の中になぞのように善かれているのです。そのこ
とが非倫理的な行動であるにもかかわらず、神様がなぜ協助したかということを今まで誰も知ら
なかったのですが、今回、四月十日の大会で、お母様の講演を通してすべてが示されることでし
ょう。世界がびっくりすることでしょう。既成教会の牧師たちも、信徒たちから質問されても答
えることができない内容なのです。
 神様はなぜカインの供え物を受け取らないで、アベルの供え物を受け取ったのでしょうか?
兄の供え物は先に捧げられたにもかかわらず、なぜ受け取らなかったのでしょうか、何と答えま
すか? イサクがヨセブの息子のマナセとエフライムを祝福する時に、手を交差して祝福したこ
とはどのような意味があるのでしょうか? ヨセブが「お父さん、手が違います」と言った時に、
イサクは「いや、それは知っている」と言ったのです。また、なぜエジプトにおいてイスラエル
民族だけを残して、すべてのエジプトの長子たちを打ったのでしょうか? また、ヤコブとエサ
ウはおなかの中から互いに戦いましたが、リベカが「神様、なぜ私のおなかの中で人が戦ってい
るのですか」と聞いた時、神様は「おまえのおなかには、二つの国があって大きな者が小さな者
に侍るであろう」と言われたのです。これは何を意味するのでしょうか? 神様は、本質的に長
子を嫌う伝統を持っておられるというのです。なぜかというと、このことを解決しなければ歴史
を正すことができないのです。歴史が間違ってしまったからです。
 今まで、次子を立てて長子権復帰をしなければならないということを、歴史を通して明らかに
示したのはレバレンド・ムーンだけです。まず長子権復帰です。引っ繰り返った父母の立場を正
しく立てておかなければなりません。ですから父母権復帰をすることによって、長子権、父母権
を一つにして、王権を立てるはずでしたが、サタンを中心にした王権に31つ繰り返されてしまっ
たのです。それを再び取り戻さなければなりません。下が上に行き、上が下に行かなければなり
ません。上下が下上にならなければなりません。下が上に行かなければならないのです。また、
左と右が逆になったので、右と左のIllにならなければなりません。さらに、赤と白の順になった
ので、白と赤の順にならなければなりません。
 しかし、父母という言葉や天地という言葉は正しいのです。それは、縦約だからです。左と右
が逆になっているので、左が右に行き、右が左に行かなければならないという論理を、今まで誰
も知らなかったのです。人間の良心はそれを吉日するために文化史の中に言葉として残してきま
した。それはなぜかというと、赤が白よりも先に来るのは危険なのです。白と赤が逆になってし
まったのです。逆になってしまった世界を再び正さなければなりません。そのために、右は左に
左は右に行こうとするので、交差点において互いに自分の世界を否定しながら再出発しなければ
ならないのです。左は右に、右は左に行かなければなりません。それは、完全にゼロになるため
です。ゼロになるためにはあらゆるものを否定し、捨てなければなりません。

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一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

奇知の外の凡人 が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2022.04.07 19:59:50
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