人生朝露

人生朝露

ユングとタオと芭蕉の鬱。

ところがどっこい。
荘子です。

C.G.ユング
現在は、小泉八雲に続く荘子読み、カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung、(1875~1961))であります。

参照:八雲とユングと胡蝶の夢。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5049/

さて、ユングといえば、この話が有名ですよね。

>ある若い女性患者に関するものである。(中略)その前夜、彼女は、誰かに黄金のスカラベ(ある高価な装飾品)を贈られるという印象深い夢を見ていた。彼女がまだこの夢を語り終えないうちに、何かが窓をとんとんとたたくような音がした。ふり返ると、かなり大きな昆虫が飛んできて窓ガラスにぶつかり、どう見ても暗い部屋の中に入って来ようとしていたのである。不思議なことに思われた。私はただちに窓を開け、中に飛び込んできた虫を空中で捕まえた。それは一匹のスカラバエイデ(セトニア・アウラータ)、よく見かけるバラコガネムシで、その緑金の色合いが黄金のスカラベのそれに最も近いものだった。「これがあなたのスカラベですよ」と言って、私は患者にコガネムシを手渡した。この出来事によって彼女の合理主義には待望の穴が開き、理知的な抵抗の氷が砕けたのであった。こうして治療は、満足すべき結果をもたらした。(『共時性について』より引用)

いわゆる「シンクロニシティ(共時性)」についてのお話です。精神疾患を抱えた患者との会話の中で、夢に出たスカラベ。そして、偶然に飛び込んだコガネムシから「意味ある偶然の一致」という意味を見出した、不思議な話です。

参照:Wikipedia シンクロニシティ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A3

Cetonia aurata
しかも、また虫の話です(笑)。

参照:小泉八雲と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5046

ユングが東洋思想に触れたのは、日本人が老荘をまともに読まなくなってしまった20世紀初頭から。『易経』を診療の手段に使うようになったことから始まりまして、その後、道教の修行書『太乙金華宗旨』を読んで、『黄金の華の秘密』として出版したことも有名です。どうも、かつての日本人のように『道徳経』『荘子』から入って読んでいないので、ユングの場合かなりオカルト的な解釈をされてしまいがちなんですよね。ただし、このユングの思想が六十年代、七十年代の「カウンターカルチャー」もしくは「ニューエイジ」の文化に与えた影響は絶大で、ビートルズが『易経』や『老荘』を読んでいるのも、当然なわけです。

参照;当ブログ 荘子とビートルズ。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5034

With the beatles
ちなみに、ビートルズの前身は「シルヴァー・ビートルズ(The Silver Beatles)」と申しまして、 命名は前述のユングの「黄金のコガネムシ(Golden Beetle)」からだと考えるのが自然だと思われます。ユングとリヴァプールって縁がありますし。だれも言っていませんけどね(笑)。

さて、実はユングの話にによく似たものが、『荘子』にあるのです。しかもなぜか達人の道、「達生篇」の木鶏の前に。

Zhuangzi
桓公田於澤、管仲御、見鬼焉。公撫管仲之手曰「仲父何見?」對曰「臣無所見。」公反、謗詒為病、數日不出。齊士有皇子告敖者曰「公則自傷、鬼惡能傷公。夫忿奮之氣、散而不反、則為不足、上而不下、則使人善怒。下而不上、則使人善忘。不上不下、中身當心、則為病。」桓公曰「然則有鬼乎?」曰「有。沈有履、辻有髻。戸内之煩壤、雷霆處之、東北方之下者、倍阿、鮭蟹躍之。西北方之下者、則逸陽處之。水有罔象、丘有宰、山有蝮、野有彷徨、澤有委蛇。」公曰「請問委蛇之状何如?」皇子曰「委蛇,其大如轂、其長如轅、紫衣而朱冠。其為物也惡、聞雷車之聲、則捧其首而立。見之者殆乎霸。」桓公展然而笑曰「此寡人之所見者也。」於是正衣冠與之坐、不終日而不知病之去也。
→斉の桓公が、管仲にくつわを取らせ、沼地に狩に行ったとき、目の前で鬼神の姿を見た。そこで管仲の手を取って「管仲よ、今、何か見えたか」と尋ねたが、管仲は「いえ、私には何も見ませんでした」と答えた。
 桓公は帰ると、何日も病に伏したままになってしまった。斉の家臣で告敖(こくごう)なる者がこう告げた。「殿、あなたは自分で病気になっているのです。鬼神は殿を傷つけることはできません。そもそも内に滞った気が外に発散したまま体に戻ってこないと、気が不足してしまうのです。気が上ったままでは、怒りっぽくなりますし、下がったままでは、忘れっぽくなります。気が乱高下せず、水平を保っていないと病気になるのです。」
 桓公が「ならば鬼神は存在するか?」と尋ねると、告敖は「存在します。泥水には(履・リ)という鬼神がいまして、かまどには(髻・キツ)がおります。ごみ捨て場には(雷霆・ライテイ)が巣食い、東北の低地には(倍阿・バイア)(鮭壟・カロウ)が跳梁し、西北には(イツヨウ)がいます。水際には(罔象・モウショウ)、丘では(シュツ)が、山には(キ)が、原野には(彷徨・ホウコウ)が、沢地には委蛇(イダ)がいます」と答えた。
 沼地で鬼神を見た桓公は「その委蛇とはどんなものか?」と尋ねると「「委蛇は身の太さは車輪の軸ほど、長さは車の前のながえほどあり、全体は紫で赤いのとさかをつけた恐ろしい魔物です。雷のような車の音を聞くと、頭を持ち上げるのです。この鬼神を見たものは覇者になると伝えられています」。
 覇者となれると聞いた桓公はニタリと笑い、「それこそが、私が見たものだ」といった。桓公は、身なりを整えて告敖と座談し、その日の夕暮れには病は治っていた。

エジプトのスカラベ。
エジプトで聖なる虫と崇められているスカラベと、委蛇という化け物。委蛇という化け物が、桓公が見た幻覚の正体なのだと説明しただけ。なのに、その説明で桓公の病は快方に向ったんです。ユングの話と似てますよね(逆に荘子の方が科学的に感じてしまうのが納得いきません)。

Zhuangzi
中國之民、明乎禮義而陋乎知人心。昔之見我者、進退一成規、一成矩。從容一若龍、一若虎。其諫我也似子、其道我也似父。是以歎也。(『荘子』 田子方第二十二)
→中国の民は、礼儀には通じているが、人の心というものが分かっていない。昔、私が会った人は、所作が定規で引いたように整い、あるときは龍の如く、あるときは虎の如く堂々としていた。私をいさめる時は、父が我が子を諭すように、道理にかなったものだ。(しかしそれだけに)私は悲しいのだよ。(この場合の中国は、魯の国のこと)

夫哀莫大於心死,而人死亦次之。(『荘子』 田子方第二十二)
→心が死んでしまうことほど哀しいものはない。肉体における死はそれに次ぐものだ。

・・・荘子にとって心というのは重要な問題なんです。

Zhuangzi
堯以天下讓許由、許由不受。又讓於子州支父、子州支父曰「以為我天子、猶之可也。雖然、我適有幽憂之病、方且治之、未暇治天下也。」夫天下至重也、而不以害其生、又況他物乎。唯無以天下為者、可以託天下也。(『荘子』譲王篇 第二十八)
→堯が許由に天下を譲ろうとしたところ、許由はそれを辞退した。そこで子州支父に譲ろうとしたところ、子州支父は言った。「私を天子にしてくださるのは、ありがたい話ですが、私はいま幽憂の病を患っており、天下を治める暇はございません。」天下のまつりごとはもちろん大事だが、それですら、自らの生を犠牲にするものではない。まして、他の事柄などは無理に受ける必要も無い。ただ、無心であるもののみが、天下を託すべき者といえるのだ。

紀元前の荘子は「幽憂之病」に対して「頑張るな」って言っているんですよ。最近ようやく認知されたことを平気で言うんです。

漱石。
ま、こういう精神状態は漱石もそうです。精神的にかなり滅入っています。

でも、荘子の影響を受けた人って、不思議な共通点があるんですよ。

『良寛と荘子』 考古堂書店
良寛さんとかは分かりやすいんですけど、

一休さんは、応仁の乱の混乱期に自殺未遂二回。
西郷どんは、月照さんと入水自殺して生き残った後。

みんな精神的に追いつめられながらも立ち直って、立派なことをなさっているわけです。普通の人なら途中で倒れますよ。

芭蕉。
で、芭蕉なんですが・・。

「ノート 芭蕉の中の『荘子』」 石橋筑紫男 著
「ノート 芭蕉の中の『荘子』」という非売品の本があります。著者は石橋筑紫男さんという方で、昭和63年に自費出版されたもののようです。福岡の図書館には何冊か寄贈されています。芭蕉と荘子の関係を細やかに拾っていらっしゃっていますが、多分他では手に入らんでしょう。しかし、この方が興味深いことをおっしゃっています。私にとっては、まさに、わが意を得たり、です。

>当時の芭蕉は、荘子の言葉を借りると、「幽憂の病」に、現代の言葉で言うと軽度のうつ状態にあったことは前にも述べたが、このうつ状態は深川退隠による生活環境の変化、それに伴う内的葛藤、芭蕉庵の類焼(天和二年十二月十八日)、高山伝右衛門(原文では「びじ」)の世話による甲斐への移住、故郷の母の死(天和三年六月二十二日)など精神的外傷による同一性(生き方、価値観、対人的社会的連帯感)の危機に直面していたことは前にも触れた(原文ママ)。これを克服する方法として荘子の思想に従うとすれば、現実的、具体的にはまず逍遥遊の場所を求めること、すなわち主体性を持った自由な生活の場、つまり旅(この場合には『野ざらし紀行』の旅)に出ること、日常的には万物斉同の視点に立って自得の日々を送ることであろう。(p.153)

あんまり言いませんけど、芭蕉って鬱ですよね。

参照:当ブログ 荘子の養生と鬱。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5030

次もユングで。

今日はこの辺で。

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