独り言 反 女権主義

独り言 反 女権主義

メモ4


「男らしさ、女らしさにとらわれず」といってるが
最近(といっても2004,5年くらいからか)
「性差を否定するものではない」ともいっている。


しかし例えば子供の遊びでいえば、男の子はちゃんばらを好み
女の子はおままごとを好むという性差がある。(まあこれは例えで色の好みとかで
も同じであるが)


もちろんあくまで傾向である。全員が全員でない。
中にはままごとが好きな男子がいるかもしれない。


しかし人数でみれば圧倒的にちゃんばらをやる男の子、ままごとをやる
女の子は多くなる。

それはほぼ必ずおこるだろう。性差があるから。

つまりジェンダーフリーが性差を否定しないということは
フェミニズムはちゃんばらをやる男の子が多く、
ままごとをやる女の子が多いということを受け入れなければならない。

それができるのだろうか



例えばフェミニズム思想をもつ教師のクラス
のほとんどの男の子がサッカーをやって女の子がおしゃべり
をやっていてもそれに対して「ジェンダーにとらわれている」というのは
性差の否定になるだろう


で、例えば中にままごとをやりたい男の子がいたとしよう。
しかしその男の子が自分は男なのにままごとをやるのは恥ずかしいと思うことは
別にいいのだ。

思うに今のフェミニズムはこの男がままごとを恥ずかしいと思うべきではない
というような主張である。少なくとも自分はそのような主張をみたことあるし、
「らしさにとらわれず自分らしく」というのはそういうことを含むのだろう。



しかし大多数の人間と別の行動をとろうとしたときそれを恥ずかしいと思うのは
普通のことだ。それをわざわざ「恥ずかしくないんだよ」と
教育を使って呼びかけることはむしろそれを奨励することになる。

「別に男の子がままごとをやるのは恥ずかしくないんだよ」
というのを強くやっていけばそれは男の子にままごとを勧めることになる。

今までのフェミニズム(批判される前のジェンダーフリー)は明らかに
ちゃんばらをやる男の子が多く、ままごとをやる女の子が多いのは
いけない、ジェンダーにとらわれているというかんじだった。


ジェンダーフリーパンフレットやジェンダーチェックを見れば
それがうかがえれる。

しかし今の「性差を否定しないジェンダーフリー」だって
結局ジェンダーにとらわれずに自分らしく
とやっていけば性差否定につながるのだ。


まあちょっとごちゃごちゃしたが
結局個人差や例外というものもあるだろうが
基本的に人数でみれば、男の子はちゃんばらが好きだし
女の子はままごとが好き、男は寒色系が好きだし
女は暖色系が好きなのだ。

例外を保護しよう保護しようとすれば、
逆に大多数の傾向をもつ人の自由を侵害するだろう

「男の子はちゃんばらという固定観念にとらわれてはいけません。
男の子はままごとをしたっていいんです。」ということを教師
がいえばそれはちゃんばらを普通に好きでやっている子も
「自分は固定観念にとらわれてるのかな」と思ったり、
なんとなくうしろめたさを感じさせるだろう。

結局それが保守派の主張する性差とジェンダーは切り離せない。
ということかもしれない。

男の子が「ちゃんばら」(ここはちゃんばらじゃなくてもなんでもいい)
をやるのはそれは性差でもあるしジェンダーもあるだろう

男の子の多くが青色を好むのだからどうしても
「男の子は青色が好き」という観念は作られる。

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: