Pussy Cat Sophie (子猫ソフィの猫物語)その他

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2009.08.15
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カテゴリ: ブック・レビュー
私がこの種の本のレビューを書くのは、これが最初で最後だと思う。

同じアメリカでも、原爆を投下して数10万人を殺したことを、
義務を果たして誇りに思っていると語るポール・ティベットの話よりも
明るくて楽しいマリリン・モンローの映画の方が、私は好きである。
日本人もいろいろいるが、アメリカ人も本当にいろいろな人がいると思う。


コラムニスト、ボブ・グリーンの
Duty[デューティ]わが父、そして原爆を落とした男の物語(光文社)を読んだ。
デューティとは義務という意味である。


ボブ・グリーンはこの本で、自分と父親とのやりとりと
広島への原爆投下を指揮したティベットという男のインタビューを
織り交ぜて描いている。
自分の父親を織り込むことで、
ティベットと同世代である「ボブ・グリーンの父親の世代」の世相と価値観が
鮮やかに描かれている。

これは義務と倫理観の葛藤を考えさせる本である。
ずっしりと重い。

おそらく原爆投下に関する米国の一般見解は、
(軍人ではない数10万人の広島の一般市民を一瞬のうちに殲滅することと引き換えに)
多数の米国人兵士を救うため、早期に終戦させるために、


だが、原爆投下によって救われたであろう米国人兵士の数は、
広島で死んだ市民の数より、遥かに少ないはずである。

原爆投下の作戦を立て、自ら広島にB29で原爆を落としたティベットは、
心からこの米国の見解を信じているか、または信じたいようだ。
彼は命令遂行という義務だけで動き、彼の倫理観は全く作動しなかった。


数10万人を一瞬にして殺害した原爆投下は、それより凄まじい殺戮ではないのか。
それに米国だって第2次世界大戦中はメチャクチャやったのではないか。
米国は戦勝国だから、殺戮行為が表立って暴露されなかっただけだろう。
米国はベトナム戦争ではわざわざベトナムまで行って、
かなりむごい殺戮を行っているではないか。

しかし、このボブ・グリーンのコラムが発表されると、
「原爆投下によって日本の本土に出陣せずに済んだ。死なずに済んだ。
 原爆投下は正しかった。ティベットありがとう」
という反響が、生存する米国軍人やその子孫から相次いで寄せられたそうだ。
確かに彼らにとってはそうだろう。

だが、彼らの命は、数10万人の非戦闘員の広島市民の犠牲の上に成り立っていることを
彼らは絶対に忘れてはならない。

しかも、原爆投下がなければ、日本から頼まれもしないのに(←当たり前の話だが)、
わざわざ米国軍が日本まで来てやる本土決戦によって米国側で死ぬのは、
戦うことを仕事とする米国軍人のはずだった。
軍人が死ぬのと、数10万人の非戦闘員の一般市民が死ぬのでは全く異なる。
非戦闘員の広島市民にとっては、数千人、数万人の米国軍人が死ぬべきだったのだ。
殺戮された数10万人の広島の一般市民にとっては、
米国軍人とその子孫が死んで、自分達とその子孫が幸せな人生を生きるべきだったのだ。

しかし、この本で最も戦慄を覚えたのは、
原爆を投下した爆撃機B29に、ティベットが母親の名前(エノラ・ゲイ)をつけて、
それを誇りにしていることだった。
少しでも倫理観があれば、たとえ義務で原爆を投下したのであっても、
大量殺人兵器、大量殺人の道具に、母親の名前をつけたりするだろうか。

もし、母親の名前をつけていなければ、
国家に対する建前や軍人としての建前として、
「原爆投下という義務を果たしたことを誇りにしている」と言っているのだと
倫理的に好意的な解釈もできただろう。
しかし、この男、こともあろうに、原爆投下したB29に母親の名前をつけている・・・

このティベットという男、自ら発言している通り、
本当に原爆投下、数10万人の殺戮を誇りにしているのだと思った。
大量殺戮兵器に母親の名前をつけて誇りにしているなど、狂気の沙汰だ。
命令遂行の義務や祖国への義務の名のもとに、
大喜びで大量殺人を肯定しているとしか思えない。
この男には、義務と倫理観の間の葛藤が恐ろしいほどない。
少しでも倫理観があれば、多少は葛藤があるはずだろう。
葛藤のうえで、義務履行を選んだのだろう。
しかし、ティベットは原爆投下という義務を誇りにしていると繰り返し言っている。

多分、この人は国や上司の命令であれば、義務であれば、
捕虜虐待も、ユダヤ人殲滅も平気で実施する。
ナチス・ドイツ側にいれば、おそらくユダヤ人皆殺し作戦を立てて、
「誇りを持って」ユダヤ人殲滅という義務を実施していたのではないだろうか。
果たしてアメリカ人は、もしティベットがナチス・ドイツ側で
非戦闘員のユダヤ人大量殺人を実施して、
ユダヤ人抹殺の義務を果たしたことを誇りにしていると言ったら、どう思うだろうか。
敗戦国ドイツでユダヤ人大量殺人を実行したナチの将校は、
第2次世界大戦後、裁判で罪を問われたが、
戦勝国アメリカのティベットは、
非戦闘員の広島市民を数10万人殺しても、その罪を問われなかった。
もしアメリカが負けていれば、ティベットの行為は数10万人の民間人を殺戮したとして、
裁判で有罪を宣告されているはずである。
敗戦国であるドイツの無差別攻撃も、日本の真珠湾攻撃も批判され、
その義務を遂行した軍人は、戦後責められたはずだが、
戦勝国アメリカのティベットは責められず、英雄扱いされている。

ちなみに日本の真珠湾攻撃は、一般市民ではなく、軍事設備だけを狙った。
この理由の1つとして、日本に資源がなかったことが挙げられるだろう。
つまり、効率的な戦略として、先制攻撃を行い、
攻撃対象を軍事施設に特化せざるを得なかったのだ。
一般市民を巻き添えにして、
戦局や戦争交渉や和平を有利に運ぶ余裕がなかったのだろう。

その一方で、原爆投下は実際に一般市民を巻き添えにして、和平の交渉カードに使った。
「言うことをきかなければ、一般市民を殺すぞ」という現代の無差別テロと同じ。
倫理的に見れば、何と卑怯なやり方か。
「降伏しなければ、また原爆を落として多数の一般市民を殺すぞ」
そう言って脅す戦法なのだ。

原爆投下では、戦闘員の軍人が、自らが助かるために、非戦闘員の一般市民を盾に使った。
民間人を守る立場の軍人が、たとえ敵国側の民間人とはいえ、
多数の民間人を犠牲にしたことを軍人として誇りにしていると言う。
これが「軍人としての厳しい規律に基づき、義務を果たしたのだ」と、
厳粛でカッコ良い軍人を気取るティベットの本質だった。

無差別攻撃や真珠湾攻撃をしたドイツや日本の軍人が、
大喜びで殺人兵器に母親の名前をつけたとは思えない。
そんなことをしたのは、おそらくティベットだけである。
最も倫理観のないティベットが、戦勝国の軍人というだけで英雄扱いされている。

ティベットは真珠湾攻撃をした日本の軍人と会ったことがあるが、
厳格な軍人同士、何か通じるものがあったと言う。
おそらく両国共通の軍人文化というものがあるのだろうが、
同時に倫理観ある人々から批判された者同士で、
「同病、相哀れむ(Misery loves company.)」という感情もあるのではないか。

ティベットは義務を遂行したことを誇りにしていると言う。
祖国のため、厳しい軍の戒律のもと任務・義務を遂行したのだと言う。
誇りを持って、命じられた通り、やるべきことをやっただけだと。
いかにもカッコ良い。
ボブ・グリーンの口調にも、それを称える心が感じられる。

パーセプション・ギャップ(認識の差)とは恐ろしい。
おそらく、かなりの数の米国人が、ボブ・グリーン同様、
この「見せかけのカッコ良さ」に感動するのだろうと思った。

だが、いくら「勝てば官軍(Winners are always right.)」でも、
カッコ良さの影で、ティベットが数10万人の殺害を実行したことを忘れてはならない。

広島市の爆心地近くで被爆した人間は、
一瞬のうちに、身体の全細胞が燃えて、炭素化または蒸発した。
しばらく生存した者も、全身火傷で焼けただれて、
水が欲しいと言いながら、阿鼻叫喚のうちに悶え苦しんだ。
生き残った者も、ガンにかかりやすくなったり、
遺伝子が狂う可能性があるとも言われている。

ティベットは、このような大量殺人行為をしておきながら、
その大量殺人行為について、義務を果たしたのだと誇りにしていると言う。

せめてティベットは
「やりたくなかったけど、義務だから仕方なかった」と言えなかったのか。
米国の国家プログラムで原爆を開発した「原爆の父」オッペンハイマーでさえ、
第2次世界大戦後に、原爆開発に対して後悔の念を吐露している。

本書のどこかにちらりと
「戦争だったから仕方なかった」というティベットの発言があった。
しかし、これはおそらく倫理観ある人から、自分の行為や発言を批判されて、
やっと出てきた発言である可能性が強い。
他の箇所では繰り返し、原爆投下を誇りにしていると、くどいくらい述べている。

ティベットの母親にちなんで命名したB29のエノラ・ゲイという名前は、
米国では、英雄的行為の名前なのかもしれないが、
日本では、大量殺人をした「鬼・悪魔・人でなし」の名前である。

ある意味では、ティベットは、
倫理観のなさを露呈する自業自得の凄まじいネーミングを
自らの母親にしたといえる。

たとえ原爆投下は当時戦争中の国家的義務であっても、
自分はやるべきことをやって、それを誇りにしているなどとは、
戦後、絶対に言ってはならない行為だろう。
ある集団を率いる長(ヘッド)として、その集団の非倫理的な義務を果たした時、
部下として非倫理的な義務に従った時、
非倫理的な義務を果たしたことを誇りにしているとは、
口が裂けても言ってはならないと思う。

ただし、被害者感情抜きで正当な評価が下されるのは、
おそらく被害者の家族・親戚が死んで、次の次の世代になった時だ。
このような発想に対しては、
被害者の家族・親戚が死ぬのを待つのかという批判もあるだろうが、
3世代後に被害者感情がかなり消えるのは事実である。

おそらく今の世代にできることは、
事実やインタビューを残し、
被害者感情抜きで後世の世代に判断させることなのだろう。
だが、やはり後世の世代でも、
原爆投下は国益追求やヘッドとしての義務を果たしたが、
人類としての倫理観には反する行為だったという結論に達するという気がする。
おそらく戦争は、どの国家がどのような大義名分でどのような戦法で行っても、
非倫理的である。

ボブ・グリーンは、本書で原爆投下の倫理性を正面から問うのではなく、
原爆投下計画を立てて原爆投下したポール・ティベットにインタビューして、
歴史の語り部として、記録として残したのではないか。

そしてこれは同時に、ティベットが義務の名のもとに、
全く何の倫理観の葛藤もなく、原爆投下という任務を遂行した記録にもなっている。

米国では、戦争の英雄が重い口を開いて語った英雄物語、
日本では、大量殺人犯の告白物語。

原爆投下の道義性が問われるべきだろうとボブ・グリーンが思っているのはわかる。
だが同時に、ボブ・グリーンがティベットに対して、
尊敬や同情の念を感じているのもわかる。
明らかに、ティベットの「見せかけのカッコ良さ」に取り込まれている。
明らかに、ティベットと老いた父親世代と重ね合わせて、
数10万人殺したティベットを心情的に英雄扱いしている。

個人が1人を殺すと違法で、
国家が100万人を殺すと合法。
だが、どちらの殺人実行者も、世論次第で英雄になりうる。
アメリカはいつまでティベットを英雄にしておくのか。

「1人を殺すと殺人者だが、戦争で100万人を殺すと英雄である」
昔チャップリンが何かの映画で言っていたようだが、
それを実感できる本である。

Duty[デューティ]、一読に値する。





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Last updated  2009.08.23 12:55:29


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