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(WIKIPEDIA)

私は昭和17年、東京都文京区に生まれ、
今年71歳になります。
昭和20年代から30年代が、
私の子供時代、
学校時代です。
当時はまだまだ戦災後の焼失家屋跡の
焼け野原、
お屋敷跡が結構残っており
子供達にとっては
恰好の遊び場でした。
また、当時は勉強、宿題も
今ほど五月蝿くありません。
また、皆んな貧乏であったせいか
特段差別とかいじめ、
男の子と女の子との区別も無く、
それこそ、皆で仲良く、何時も遊んでいた
との記憶があります。
そんな頃から私は、何となく、
海外に興味を
持ち始めていました。
ディズニーの漫画、、「青い大陸」、
なんと言っても昭和36年末封切りの映画
「ウエストサイド物語」
腰が抜ける程に興奮しました。
ボーリングを始めて遣ったのが、昭和34年、
神宮の青山ボーリング場。
そこで、初めて飲んだのが、「コーラ」。
薬臭くて閉口しました。
また、昭和34年開始のTV
「兼高かおるの世界の旅」、
昭和36年の小田実の
「何でも見てやろう」、
昭和37年堀江謙一のマーメイド号、
太平洋単独横断航海
「太平洋ひとりぽっち」、
昭和41年、ニューカレドニアを舞台
にした森村桂の
「天国にいちばん近い島」等
に感化されました。
「一生に一度でも良いから、いつかは外国に
行ってみたい、、、」 当時、海外旅行など、
夢の世界の出来事でした。
そんな中、昭和44年「JALパック」創設され、
確か、「ロンドン、パリ、ローマ、9日間、29万円」
の募集広告。
申し込もうと上司に相談したら、
当時の「連続有給休暇限度:5日間」の規程を
乗り越えることが出来ず、
断念。
当時の月給は、3万円位でした。
初めての海外は、昭和57年、生産性本部
主催の海外研修で、「上海、天津、北京」へ。
約500名参加。
人民公社が華やかりし頃で、
まだまだ中国は相当に貧しく、
パトカー先導で
信号ノンストップの観光でした。
それから30数回、海外に出掛けています。
ほぼ、年に1度位ですが、年を取った為か、
荷物移動が負担になり始め、最近はクルーズに
嵌っています。
今回のクルーズは、8回目です。
昔から、何となく憧れの地である南太平洋。
ミュージカル映画「南太平洋」で歌われる数々
の名曲。
そして、
「天国にいちばん近い島」とかへの憧れ、
その象徴的な島と言うと「タヒチ」が
思い起こされました。
眩しいばかりの青さを誇る海と空、
真っ白なさんご礁:ラグーン、
乱舞する熱帯の魚たち、
そして、
ゴーギャンが期待したような純粋、
素朴で優しく、美しい人達に囲まれた
ユートピァ。
そんな妄想を夢見ての旅立ちとなりました。
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