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夢の旅行は今日で終わり。
お疲れ様!
2. ワラキア公ヴラド3世
(ドラキュラ公、ヴラド・ツェペシュ公)
WIKIPEDIAにあるから周知だと思うが、
ワラキア公ヴラド3世(1431~1476)は、
ワラキア公国(首都:トゥルゴヴィシュテ)の君主で、
諸侯の権力が強かったワラキアにあって
中央集権化を推進し、オスマン帝国と対立した人物である。
シギショアラでドラクル(=竜公、悪魔公)と呼ばれた ヴラド2世の
次男として生誕。
1436年に父がワラキア公となり、
宮殿跡(WIKIPEDIA)
バルカン半島の諸侯連合軍(ヴァルナ十字軍)として
オスマン帝国と戦うが敗北した。
ヴラド3世は弟と共にオスマン帝国の人質に。
1447年父、長男が暗殺される。ワラキア公にはハンガリー勢力が
「又従兄弟」を後継させたが、
オスマン帝国はそれを廃しヴラド3世を即位させた。
しかし、わずか2ヶ月でトランシルバニア公に破れて
モルダヴィアに亡命。
1451年に亡命先のモルダヴィア公が病死、
トランシルバニア公に身を寄せる。
「又従兄弟」がハンガリーを無視・独立を企むと見た
トランシルバニア公の支援で1456年にワラキア公に返り咲く。
1459年、領内の大貴族を打倒、中央集権化を推進、
オスマン帝国への貢納を拒否、帝国使者を無礼があったとして
串刺し刑。帝国は数度の侵攻。
ゲリラ戦、焦土作戦で ヴラド3世は抵抗。
1462年のメフメト2世の首をかけた戦いと、
城内のオスマン兵の串刺しの林を見て、
オスマン軍は戦意を失いワラキアを撤退。
オスマン軍は戦いから転じて、弟や離反貴族を糾合させる戦術をとる。
遂にヴラド3世はトランシルバニアに落ち延びる。
ハンガリー王から、オスマン帝国への協力者としての罪状を問われて
幽閉となる。
(ヴラド3世は1.オスマン帝国と戦ったのに、
カトリックの国で幽閉され、
また、2.この頃に最初の妻が城から投身自殺したので、
「 反キリストの吸血鬼 」 に
なったと、映画化したものもある。)
1474年に幽閉から解放され、カトリックに改宗し、
ハンガリー王の妹と結婚、
1476年にワラキア公に返り咲く。この改宗のために
ワラキアでは東方正教会信仰の人心を失うことになる。
ブカレスト近郊でオスマン帝国軍と戦い戦死、 ヴラド3世の
首は塩漬けにされて、オスマン帝国の首都で晒され、
遺体はスナゴヴの修道院に葬られたという。
・・・・・・
呆けの小生には、次のように思う。
1. 外には強大なオスマン帝国、ハンガリー帝国の狭間、
また、内には諸侯乱立の中世、
2.宗教的には、「イスラム教世界対キリスト教世界」、さらには、
「キリスト教世界の中のカトリック教会対東方正教会」、
3. 政治と宗教が結託した絶対君主体制という、
複雑怪奇な世相を見ないと、
ヴラド3世の人物評価を異常性とは断定できない。
・・・ ・・・ ・・・
大国の人質として捉えられた後、小城を持ち、
ゲリラ戦術や、敵兵串刺し刑等の脅しで
大国と戦い続けた 小国を守る姿を
「悪魔」と呼ぶのはホンモノの神が許さないのではないか。
☆
最後に、 トゥルゴヴィシュテ(*)は1989.12に
ニコラエ・チャウシェスク、その妻エレナの
裁判、処刑場となった。
(*「トゥルゴヴィシュテ」はスラヴ語で市場の意。)
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