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山内一豊と妻・千代の像:WIKIPEDIA
折角、「こころの友」を写経しましたので、
小生なりに、勝手な歴史解釈をしておきます。
証拠はない歴史物語ですが、歴史というものは大抵は、
勝者側が自分の都合で書き直しているのは周知のことです。
「次第に、真実が明らかになる」のが「歴史物語というもの」
かもしれません。
「歴史」そのものが「核心的利益として扱われる現代」が
明白に其れを示しています。
つまりは、人類の文字の歴史(中国の文字の発明は約8千年前)
とは長いものですが、自分に都合の良い
「あるスパンだけを歴史と言う」 が如しです。
フン族、モンゴル帝国(元)としてユーラシア大陸から
ヨーロッパ、東欧までを席巻した古代、中世を忘れて、
日本の侵略だけに「歴史」をフォーカスする
のは、素晴らしい覇権の力を貶めることに過ぎません。
なぜか、現代中国は、阿片戦争(対英敗北)以前を
忘却し、いきなり、春秋戦国・ 三国志 を思い出すような気が、
この呆けにはします。
中国は古来から覇権の潜在力を抱えている
巨大な多民族国家なのですが・・・
脱線しました。
★
さて、「土佐」とは、徳川幕府から赴任を命じられた
山内一豊一族が望むところではありませんでした。
・・・・・
もともと、当時土佐という辺境の地を治めていたのは、
中央との姻戚関係を結び、密かに
天下を狙っていた長宗我部一族でした。
(長宗我部は秦氏の後裔であり、秦の始皇帝の流れを汲むと
自称していました。祖先として特に目立つのは、
聖徳太子に信任を受けた秦河勝で、太子と 蘇我 馬子が
物部守屋を倒した際の功労で信濃の国を与えられ子を派遣する。
その子孫が土佐の国・ 長 岡郡 宗部 (そがべ)郷に移って、
既にあった香美郡宗部を支配する宗我部氏と区別するため、
自らを「 長宗我部 」と呼んだ。
小生は、寺尾氏の「茜色に燃ゆ」を読んで、うろ覚えながら、
蘇我馬子自身は百済からの帰化人系統であり、
当時は帰化人が 日本の政治に寄与しているのを知っている。
蘇我氏や 秦氏などが日本の政治文化のかなりの部分を築いている。
随分昔から土着的であった土蜘蛛、北方から来たアイヌ、
南方から来た隼人族、大陸から来た帰化人系統などが
DNAでは密接に繋がっている。
・・・
始皇帝末裔の証拠がありませんが、「華夏人」の移民のようです。
始皇帝が東方の不死薬を探すように命じた者達のなかには
シルクロードを経て辿り着いた遙か西方から来た民族もいました。
モーゼのような風貌の方達もいたと思われます。
彼等は、当時高い技術を身に付けた集団でもあり、日本で新しい
技術を伝播したことは間違いない事実と思われます。)
四国全域を制覇します。
中央とは斉藤利三(としみつ;その主君は明智光秀)を通して関係を強めます。
和の精神の極まるところの、当時の朝廷 側は、新興勢力である、
武の中心・織田信長 による、朝廷、貴族、僧侶などの
「旧来制度=アンシャン・レジーム」への破壊工作(*)に辟易しており、
明智光秀へ信長追討令 を下します。
(*比叡山焼き討ちの後にも、高野山焼き討ちを計画していました)
「 本能寺の変 」がそれを実行した事実です。
本来は、正統な勅令なのですが、朝廷の力が弱い時代には
「追討」が「戦い」に曲解されます。
つまり、「 天下取りの戦い 」となり、後釜を狙っていた秀吉に、
「 光秀の主殺し 」という、別の勝手な理由付けが取って代わられます。
(その理由を考え出したのは秀吉の軍師「黒田官兵衛」でしょう。)
信長を討った別の理由は、長曽我部元親にとっては、当時、信長が、
四国征伐を企画していたので、斉藤利三が光秀に信長追討を
進言したのだとも勘ぐられています。
光秀に勝った、秀吉は四国征伐を実行します。
長宗我部元親は敗れて、土佐一国に引きます。
さらに、秀吉は島津征伐に向かい、長宗我部も征伐軍に組み込まれます。
その俄にできた征伐軍の司令官・仙石秀久は統率力がなく、
戸次川の戦いで破れて、仙石、大友、長宗我部、十河連合軍からも
多くの勇猛な武将が死にます。
長宗我部家の跡取りと見なされた、 信親 (*)も見事な戦死を遂げます。
(*信長の「信」、元親の「親」をとり、烏帽子親・信長から左文字の名刀と名馬を
与えられた元親の嫡男。母は足利義輝の家臣・石谷光政の娘。)
長宗我部による、実質的な天下取りの夢は砕けて元親は狂ったようになります。
(秀吉軍には暗に潜在的な敵対戦力淘汰の意図があったかも知れません。)
最終的には島津は豊臣軍に屈服し、秀吉は元寇時に攻めてきた朝鮮・中国への
抑制・反撃を目的に派兵に動きます(息子・秀頼の時代を安全にするため)。
余りにも無謀な戦いのために撤兵し、やがては、秀吉は寿命を全うします。
息子・秀頼を天下の将軍にしたかった秀吉ですが、
「光秀を討つなどの理由が曖昧な秀吉の政治の流れ」を
家康が認めるはずがありません。
家康 は、関ヶ原、大阪の陣で豊臣を滅ぼした後、自らの天下では、
亡き斉藤利三の娘・お福を春日局 として3代・ 家光の養育係り に迎えます。
(「家+光」とは、もしかしたら家康と光秀から取ったもので、
その養育が斉藤利三の娘によりなされた?という因縁かも。)
於福が必死になって家光を守ったのも頷けます。
・・・
さて、土佐ですが、長宗我部盛親が大坂方で敗れ、断絶した後、
山内一豊が外様として土佐に当てがわれます。
しかし、行きたくはありませんでした。
長宗我部一族の遺臣がおり、鬼が住むとも言われた土地
(英国からみた豪州の如し)
なので、身内に下調べさせたり、有力豪族の家臣達を相撲大会として集め
皆殺しにしたり、おっかなびっくりの統治を始めました。
あの一豊の妻(「馬と黄金」や「小袖」「枡」、家康に三成挙兵を知らせた
「笠の緒文」で賢女振りが知られる。法号は見性院。)でさえ、
夫の狂変にも呆れ果て、
土佐にはわずかしか暮らさず
養子と共に京都の寺に入っています。
山内家は、士農工商という身分制度に加えて、
武士のなかに山内系統=上士(じょうし)、
旧来の武士=下士(かし;白札、郷士など)という二重構造を構築して、
強制的な独自の身分制度を作りました。
一種の植民地政策です。
山内家には早くから後継者がおらず、妻を長宗我部一族から中村・一条家で
迎えた姻戚関係から山内家が繋がっているので、両家は姻戚関係です。
山内家の末裔は、山内だけではなく長宗我部の血が入っています。
(こまかくみると、土佐は本来は両家だけの血が入っているわけではないが、
夫婦単位で見れば土佐中の人はDNAでは繋がります・・・)
とにかく、初期の山内家の植民地的支配が土佐の武士層に
特殊な二重構造をもたらし、
その歪さが封建態勢そのものの矛盾を際だたせて、
その是正の動きが、自然と、幕末の坂本龍馬、
明治に向けての板垣退助(自由民権運動)などに繋がっています。
書ききれませんが、ブログのなかの「こころの友」にある程度現れていると思います。
かなり、極端な、土佐正史、日本正史を書きました。
(蛇足ですが、信長は死しても姉・お市の方の三人の娘の数奇な生き方は
戦国時代の歴史そのものを綴っています。)
まったく、証拠がない呆け物語なので、ご放念ください。
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