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8「清盛・信西らと勝利者に」
平清盛 と共に作戦の場に召された義朝は先制攻撃・夜襲を主張し、頭をかきむしりながら 信西 と共に躊躇する関白・藤原忠通に対して決断を迫った。
平 清盛 (たいら の きよもり)は、 平安時代 末期の 武将 ・ 公卿 。
伊勢平氏 の 棟梁 ・ 平忠盛 の 長男 として生まれ、平氏棟梁となる。 保元の乱 で 後白河天皇 の信頼を得て、 平治の乱 で最終的な勝利者となり、 武士 としては初めて 太政大臣 に任じられる。
日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた( 平氏政権 )。
平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、 治承三年の政変 で法皇を幽閉して徳子の産んだ 安徳天皇 を擁し政治の実権を握るが、 平氏 の 独裁 は 公家 ・ 寺社 ・武士などから大きな反発を受け、 源氏 による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。
伊勢平氏の嫡男
永久 6年 1月18 日 ( 1118 年 )、 伊勢平氏 の 棟梁 である 平忠盛 の長男として生まれる(実父は 白河法皇 という説もある。詳細 後述 )。出身地は京都府京都市という説が有力である。生母は不明だが、もと白河法皇に仕えた 女房 で、忠盛の妻となった女性(『 中右記 』によると 保安 元年( 1120 年 )没)である可能性が高い。『 平家物語 』の語り本系の諸本は清盛の生母を 祇園女御 としているが、読み本系の延慶本は清盛は祇園女御に仕えた中﨟女房の腹であったというように書いている。また、 近江国 胡宮神社 文書(『仏舎利相承系図』)は清盛生母を祇園女御の妹とし、祇園女御が清盛を 猶子 としたと記している。清盛が忠盛の 正室 の子でない(あるいは生母が始め正室であったかもしれないがその死後である)にもかかわらず 嫡男 となった背景には、後見役である祇園女御の権勢があったとも考えられる。
大治 4年( 1129 年 )正月に12歳で 従五位下 ・ 左兵衛佐 に叙任。これについて 中御門宗忠 は驚愕している。清盛は同年3月に 石清水 臨時祭の舞人に選ばれるが、清盛の馬の口取を祇園女御の養子とされる内大臣・ 源有仁 の随身が勤めていることから、幼少期の清盛は祇園女御の庇護の下で成長したと推定されている。祇園女御の庇護下で育ったことから、清盛の実父は白河法皇であるとの噂も当時からある。
落胤説の事実性は乏しいものの、清盛が公卿を輩出したことのない 院近臣 伊勢平氏の出身にもかかわらず、令制最高職の 太政大臣 にまで昇進したことは、王家との身内関係が当時信じられていたゆえと言われる。
若い頃は、 鳥羽法皇 第一の寵臣・ 藤原家成 の邸に出入りしていた。家成は、清盛の継母・ 池禅尼 の従兄弟だった。 高階基章 の娘との間に 重盛 ・ 基盛 が生まれるが、死別したと推測される。
保延 3年( 1137 年 )忠盛が 熊野本宮 を造営した功により、清盛は 肥後 守 に任じられる。 久安 3年( 1147 年 )、 継室 に迎えた 平時子 との間に 宗盛 が生まれる。時子の父・ 平時信 は鳥羽法皇の判官代として、 葉室顕頼 ・ 信西 とともに院庁の実務を担当していた。
この年6月15日、清盛は 祇園社 に赴くが、郎等の武具を咎めた 神人 と小競り合いとなり、郎等の放った矢が宝殿に当たるという事件が発生した( 祇園闘乱事件 )。祇園社を末社とする 延暦寺 は忠盛・清盛の配流を要求して 強訴 するが、鳥羽法皇は延暦寺の攻勢から忠盛・清盛を保護し、清盛の罪を 贖銅 三十 斤 という 罰金刑 にとどめた。
その後、清盛に代わり正室腹の異母弟の 平家盛 が常陸介・右馬頭に任じられ頭角を現す。既に母を亡くし問題を起こした清盛に替わって、母方の後見の確かな家盛が家督を継ぐ可能性もあった。
しかし久安5年(1149年)に家盛は急死したため、清盛の嫡流としての地位は磐石となる。家盛の同母弟・ 頼盛 は15歳の年齢差もあって統制下に入り清盛も兄弟間の第二の者として遇するが、 経盛 ・ 教盛 に比べてその関係は微妙なものであり続けた。
安芸守 に任じられて瀬戸内海の制海権を手にすることで莫大な利益をあげ、父と共に西国へと勢力を拡大した。
またその頃より宮島の 厳島神社 を信仰するようになり、 仁平 3年(1153年)、忠盛の死後に平氏一門の棟梁となる。
保元の乱、平治の乱
保元 元年( 1156 年 )の 保元の乱 では義母・池禅尼が 崇徳上皇 の子・ 重仁親王 の乳母だったため清盛の立場は難しいものであったが、一門の結束につとめ 後白河天皇 側について勝利をもたらし 播磨守 、 大宰大弐 となる。
信西と 藤原信頼 ・二条親政派の対立では中立的立場をとっていたが、 平治 元年( 1159 年 )の 平治の乱 で政権を握った藤原信頼・ 大炊御門経宗 ・ 葉室惟方 などの反信西派を一掃することで、急速にその政治的地位を高めることになる。
この過程で 源義朝 ・ 源重成 ・ 源季実 ・ 源光保 といった有力武士が滅亡したため、清盛は武士の第一人者として朝廷の軍事力・警察力を掌握し、武家政権樹立の礎を築く。
全盛期
継室の時子が 二条天皇 の乳母だったことから、清盛は天皇の乳父として後見役となり 検非違使別当 ・ 中納言 になる一方、後白河上皇の院庁の別当にもなり、天皇・上皇の双方に仕えることで磐石の体制を築いていった。