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もし、今現在の私に取って一番必要なものは? と尋ねられたらとしたら、正直、その返答には困る私がいます。少し前、そうそれが数年前の私なら、特に仕事や生活等に必要なものというのは十分間に合っているし、足りなかったり、不足しているものや、あれがあったら、それがあうったらという様な要望も特にないという言ってみれば恵まれた状況でした。では、今の現在の状況はどうなのかという事ですが、今すぐに必要とされるものや、あるといいなというものは幾つかあげられますが、それとて絶対的なものではないのですが、その事に関連した一番の不安は、今現在のところはまだ足りていても、この先の事はどうなるかが全く先が読めないという事です。座して食らわば・・・と謂われますように、今現在は不足のないものでも、将来に渡っての保証は何もないというのが現実です。不慮の事故やアクシデントに備えての保険を掛けておけば安心かと言っても、現在の保険会社によるその保証の内容は名ばかりのものであるという事は、此れまでの体験でも十分に分かっている事であり、保険会社による責務逃れや出し渋りの例は日常茶飯事の様になっております。しかし、その様な事例は民間に限られた事ではなく、年金等の公的な機関に於いても、その基盤となる政府の財政自体の雲行きが限りなく怪しくなっている事も事実です。政府の国民に対しての一番大きな社会保障である健康保険制度にしても、その財政破綻が明らかになって来ている事から、自分達の将来に対する懸念を持つ者は私だけではないのは間違いのない事と思われるのですが、皆様はどの様にお思いになられているでしょうか?7年前の東日本大震災とそれに伴う原発事故の時には、事故原発近隣の当地も大変な状況に置かれ、その時に体験した政府や地方行政の対応の不味さや不手際を嫌という程実感し、市民同士やボランティアの温情や誠意ある行動を目の当たりにして来た私としては、その時の様な最悪とも感じられた政府と自治体の姿勢が、今も尚その当時と全く変わっていない様に感じてならないのです。熊本地震の際には、その懸念されていた事が再び繰り返される事となったのですが、7年前の震災の事後処理に付いての大きな問題を残したままで、更なる大きな負担を抱えてしまう事になってしまった政府の対応の不味さが見て取れる様に、結局は、被害に遭った国民が自分の身やその周囲の事を自身と周辺住民とで何とかしていかなければならないという事でした。その復興予算にしても、その財源は毎度の事となった赤字国債頼りの大判振舞いのばら撒きに他ならず、コンクリート造りのイミテーションの熊本城の石垣の修理に数十億円等という巨費を費やすなど、肝心かなめな処や住民対応は後回しにしての政府行政のやり方には、またかと呆れ果てるだけです。
2019.01.28
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ネット内 拾い読み 色々な考えの人がいるものだなと。でも、皆、頭が頗る良いのではないかと。 コピペ サイト アドレス http://www.geocities.co.jp/noboish/ronbun/kisida.html岸田秀は特異な思想家だ。思春期からの頑固な強迫神経症が縁となって精神分析の研究に入り、徹底した自己分析によって自ら神経症を癒していった。それゆえ彼の理論は、苦しい強迫神経症から解放されたいと願ってフロイトを読みつつ、ひたすら自己分析を続けた体験を一つの基礎として築かれた。彼の個々の論文は、深い洞察力に富み、読んでいて興味尽きない。しかし、その「自我論」は、狭い自我を超える「真の自己」のはたらきを否定する構造になっており、この点は批判が必要であろう。以下に岸田の「唯幻論」・「自我論」の大筋を見、その批判検討を通して、「真の自己」のはたらきに基づいた幸福論が可能かどうかを吟味しよう。 1 岸田「唯幻論」 岸田によれば、動物は一般に本能的に規定された世界認識の中で、本能的に規定された行動パターンによって世界に適応する。本能とは、第一にこの行動パターンである。本能の第二の面はエネルギー、自己や種族の保存を求めるという目的を持ったエネルギーである。ところが人間は本能が壊れた動物である。つまり、個人の適応を保証する統一的な体系としての本能が壊れて、そのエネルギーは、バラバラに断片的に存在する。むろん本能が壊れた人間にも、自己や種族保存の衝動はある。が、その実現のためにどうしたらいいかという行動パターンが壊れている。またそれに対応して、本能による世界認識のパターンも壊れている。つまり世界をどう認識するかについて「種」としての制約がなくなっている。 が、本能が壊れたままでは、人間の行動は混乱し、滅亡の危機にさらされる。そこで本能の代用として自我がつくられた。人間は、それぞれの身分や、役割や、立場を基礎として自我を形づくることではじめて自分の行動を決定できる。もし自我がなければ、人間の行動は支離滅裂になってしまう。自我は、本能に変わる行動規範として機能する。また、本能の世界認識の代用として言語が成立した。人間は、本能によってではなく、言語によって世界を分節し、再構造化し、それに基づいて行動する。人間にとって世界は、自我を中心にして言語によって構成されるのであり、自我の成立と言語の成立は不可分である。 ところで本能が壊れている以上、人間がどのように自我をつくり、どのような世界認識をするかについて、それを制約する生物学的根拠はない。根拠がなく、恣意的だという意味で、自我も世界認識も「幻想」である。本能が壊れて現実を見失った人間が仮に現実と呼んでいるのは、疑似現実、すなわち「共同幻想」に過ぎない。自己保存も種族保存もセックスも、人間の一切の行動は、その「幻想」に基づいて営まれる。こうして、自我は「幻想」であり、それに基づいた世界認識も行動もすべて「私的幻想」・「共同幻想」に基づいているという「唯幻論」と「自我論」が主張される。この理論は、一切が「幻想」だとする点で、大乗仏教、特に唯識思想に通ずるが、仏教と違うのは、自我がこの「幻想」から原理的に目覚め得ないと、岸田が主張する点である。 さて、首尾一貫した行動規範としての本能が壊れた人間は、その代用として自我を必要とする。ところが自我は、矛盾する多くの要素(バラバラになった本能)を抱え、本質的に不統一、不安定である。この解決不能なディレンマをごまかすために自我は、多くの要素の一部だけを取りこみ、その部分だけで仮に首尾一貫した形をつくり、その形と矛盾する他の部分を抑圧する。自我とは、当人がこれが自分だと思っているところのもであり、エスとは、当人の生命全体のなかの、自我から排除されたものである。 要するに自我は「幻想」に過ぎず、かつ常に自我よりも広大なエスの領域に脅かされているため、本質的に不安定なのである。そのため、その不安定さをごまかす何らかの支えを必要とする。たとえば欧米人は、かつて神を自我の支えとしたが、神が揺らいでからは、神の後釜として真理、国家、理性など、次々とさまざまなものを求めた。それらの支えは、次第に個人を超えたものから個人の身近なものへ、ついには個人の内部のものへと移り変わり、そして今や、個人が内部にもつ欲望に自我の支えを求めるまでに至った。 純粋に生理学的な欲求を除いて人間の欲望はすべて、自我の強化をめざす。名誉欲にしても財産欲にいても、根底的には不安定な自我を少しでも強化しようとする動機から発している。たとえば「権力欲の強い者とは、自我が不安定なのは自分の権力が弱すぎるからだ、それが及ばない領域がまだあるからだと思っている者である。権力の不足を自我の不安定の原因と見るならば、全世界をおのれの支配下に収めている全能の神にでもならぬかぎり、そのような原因はいくらでも見つかる。」 したがってどんな欲望にせよ欲望に最終的な満足はない。自我の決定的な安定はないのだから、欲望がめざすものを実現することは不可能でなのである。 結局、人間が自我の安定を見いだそうとするあらゆる試みは、それが「宗教」・「真理」・「欲望」その他いずれによってなされようと、こうすれば不安定な自我が安定するという「嘘の物語」に発している(もちろんそれが「嘘の物語」だという自覚は普通は欠けているが)と岸田はいう。それゆえ彼の理論では、人間は宗教その他の「嘘の物語」にかりそめの満足を見いだすか、欲望の無間地獄に陥るかしかない。 2 岸田理論を批判する こうした岸田理論を批判的に検討しよう。「唯幻論」によれば人間は、自我の「幻想」から決して目覚め得ない。自我は、程度の差はあれ、非常に狭く固まっている。狭く固まった自我を壊して、より広いものにすることは可能だが、広くなってもそれが自我であるかぎり限定されている。また自我は、自我である限りみずからを維持しようとするエゴイズムに囚われる。それゆえ人間は、自我とそのエゴイズムから逃れられない。自我は、家族の範囲に、あるいは国家の範囲に拡大するという形(家族エゴや国家エゴ)で広くなっても、このエゴイズムの質や強度を変化させることは出来ないというのが岸田の見方のようだ。 岸田は、次のようにも言う。すなわち、現在の自我を首尾一貫させ、その内部的安定を確保しようとすればするほど、そこから排除される部分が多くなる。それに応じて自我は狭くなり、対立する広大なエスに脅かされる。また、現在の自我は、狭ければ狭いほど、それが消化できる経験の範囲が限られるため、それだけ範囲外の経験に出会う可能性が大きく、崩れやすく、不安定になる。かと言って、広い部分を自我に取り入れれば、それだでたくさんの矛盾した要素を抱え込むことになるから、首尾一貫性が損なわれ、内部的にはそれだけ不安定になる。どのみち自我は不安定というわけだ。 こうした文脈のなかで岸田は、「真の自己」のはたらきに人間の幸福や安定を見ようとする立場をも否定する。19世紀はじめのヨーロッパのローマン主義は、個人の内部にありながら、何らかの普遍的価値とつながっているもの、すなわち愛や理性の能力とか、創造的才能とか、個性とか、「真の自己」とかを発達させたいという「人間的」欲望を重視し、それを実現しようとした。「個性重視」を語ったユングや、「自己実現」を説いたフロムらは、ローマン主義者の、精神分析界における後裔であった。彼らの精神分析理論はそれぞれ異なっているが、個人の内部に本当にその人自身であるところのものが潜在しており、その「真の自己」は今のところさまざまな不幸な条件のために抑えつけられているが、それを実現することが、すなわち個人の精神的健康を保証し、社会的価値をも実現すると主張する点で一致している。 要するに岸田は、ユング、フロムらの思想を次のように捉えている。すなわち「人間にも動物における本能のようなものが存在しており、それは今のところは抑えつけられ、覆い隠され、埋もれているが、そしてそのために表面的には歪められ、変質した形で現れているが、どこか心の奥のほうに損なわれない健全な状態で潜在しており、それを引っ張りだしてくれば万事うまくゆくという思想である」と。 人間は、本能が壊れた動物であるという、岸田の理論的な大前提からすれば、こうした「真の自己」論を認め得ないのは当然だ。彼はこう言いたいのだろう、「本能が壊れてしまった人間は、自己防衛上やむなくその代用としての自我をつくった。 自我の幻想が崩れれば、行動の規範を失って生きていけないし、たとえ幻想から目覚め得たにしても、そこには統制不可能になった本能の残骸があるだけで、真の自己といったバラ色の健全な状態など発見できるわけがない。自我はエゴイズムをその本質とする必要悪かも知れないが、それにしがみつくしか人間の生きる道はない」と。 人間はあくまでも「自我の不幸」に甘んじるしかないというのである。 しかし、「真の自己」が動物の本能に替わるような実体的な「何か」として潜在するという岸田の解釈は誤解に過ぎない。問題は、自我が自らの生の営みの全体をどれだけ受容できるかどうかである。自我が、自らの生の営みの大部分を否定し押し殺して、狭く固定化すればするほど自我の無理は増大し、その無理を維持しようとするエゴの防衛も強化され、自我はますます固定化される。その悪循環のなかに「自我の不幸」の根源がある。本能が壊れていようといまいと、自らの生の全体が可能なかぎり受容されている状態こそが「真の自己」が発現した状態である。「真の自己」とは実体的な何かではなく、生がどれだけ受容されているかという、その「状態」をいう。 岸田に欠けているのは、自我の変質の可能性という視点である。自我は絶えず崩壊と再統合を繰り返す可能性を秘めている。自我がこれまで否認してきた自らの内的・外的な経験を受容できるようになるとき、自我そのもが変質している。自我は、自らの内的・外的な経験の何を受容し、何を歪曲・否定するかという、その選択の枠組みとして機能する。自我がもし、その生の営みの全体を、すなわちその内外の経験の全体を可能なかぎりそのままに受容できるようになったとすれば、自我がそれだけ大きくゆるやかな枠組みへと変質ないしは成熟したことを意味する。 それゆえ岸田が心配するように「広い部分を自我に取り入れれば、それだけたくさんの矛盾した要素を抱え込むことになるから、首尾一貫性が損なわれ、内部的にはそれだけ不安定になる」ということはない。むしろ、心理的不適応や緊張から解放され、より深い快適感に満たされる。自我は、より深い生の営みの全体性の上に成立した一つの機能にすぎなない。それが自覚され、固定化された虚構の自我を無理に防衛する必要がなければないだけ、ゆるやかな枠組みとしての自我は安定するからである。 成熟した自我は、自らの内外の経験を歪曲したり否認したりする度合いがより少なく、生の営みの全体性により深く根差して、しかもその全体性のもとに自らを相対化している。そんなふうに相対化された自我は、自らを防衛する必要がないから、自我を守るはたらきとしてのエゴイズムも少なくなる。自らの生の全体性がどれだけ深く受容されているかどうかに、人間の「幸福の質」がかかっているといえよう。--------------------------------------------------------------------------------
2012.01.21
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あなたに取っての幸せって、どんな事だと思いますか?
2011.11.25
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あなたに取っての幸せって、どんな事だと思いますか?
2011.11.25
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貴方は、家族や誰かと一緒に住んでいますか?一緒に住んでいるというのは、法的に云えば、戸籍や住民票上の同居者という事になるかも。でも、一緒に暮らしているはずの家族だとしても、仕事の関係やら学業とかの関係で、普段は離ればなれという事もあるのではないかと思います。でも、今回、私の話しは友人達の事。どういう訳か、私の友人達は、配偶者との関係に恵まれていないのです。私から見たら、友人達には何の落ち度もないし、それは単に友人達の配偶者に問題がある様に思えるのですが。ちょっと、その友人の何人かをれいに上げてみましょう。 友人、Tの例。カメラマンのTは、アメリカの大学で講師をしていた彼女を、熱烈アタック。日本とアメリカ間と云う超遠距離恋愛、結婚は劇的だったのにも関わらず、年々その熱は何処へやら。冷え切ってしまったのね。今、彼女はお勉強の為とかの理由で、もう数カ月帰ってきていない。友人いわく、家にいて喧嘩しているより離れていてくれた方が良いって。離婚は、大変だからこのままで良いって。・・・・・・何でだろ。 友人、Oの例。ある官庁勤めのOは、金融関係のお堅い仕事に就いていた彼女と御見合結婚。彼女は一見良く出来た女性。でも、実際は全く違っていた。家事、育児一切駄目人間。友人は、それでも良く頑張って、家事や育児も手伝ったというより、友人が一人で頑張っていたという印象。その挙句が、外見美女の妻の浮気、でも、友人は寛容姿勢を通したまま。他の友人も皆口をそろえて、アホかお前はって、何でだろ。 友人Tの場合医療系自営の彼は、出来ちゃった結婚 派手派手の一見可愛い子ちゃんゲットで、当初は幸せに見えたものの、月日が経つ毎の女の変化は恐ろしい。T曰く 俺の人生ってなんなのって 何でだろ。 友人Mの場合医療系自営 彼の場合、大学病院勤務時代に、ターゲットにされて掴まってしまった相手とゴールイン。確かに美人だけど、「ひゃ~っとクール」何とも温かさが感じられない彼女に周囲はブーイング。歳月と共に少しは変わったのかな? でも、友人はそれで幸せなんだろうか?夫婦円満の友人もいるけど、何故か子供が出来なかった先輩のI夫婦。何故こんな優しくて、とても良い夫婦に子供が出来ないのだろうか? 友人は、膠原病が発覚。 最近、奥さんが脳腫瘍発見、何とか命は助かって良かったのだけど 何でだろ。
2011.07.31
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lucifrの話luciferは、人間の世界に来て、色々な事を見聞きし。そして、沢山の人と出会い、色々な人が居る事を知った。果して、luciferは、この人間の世界での人間として、どの様な人生を送って来たのだろうか?luciferの宿主 kazukun kazukunとは?luciferが この世に出現する為には、人間の姿形が必要であった。その為に、選ばれたのが、kazukun kazukunの母は、才女で ミス◯◯ 父親は心は優しいが 強靭な肉体 と不屈の精神の持ち主で 世の中のリーダー的人物であった。あったというのは、過去形で在り、若くしてこの世を去っているから。その父親と母親は、幾多の周辺の障害がある中、kazukunをこの世に送り出してくれたkazukunは虚弱体質ではなかったが、自己抗体が常人とは異なる為、特に気を付けた周囲の生活環境を必要としたが、物事の全般に対して少々甘く考える嫌いのある母親によって、幾度かの生存危機に陥った事もある。kazukunの両親を選んだのは、lucifer自身ではなく、その選択はluciferを人間界に遣わした、創造主であった。そもそも、創造主の目的とは何なのか?地球が生まれた時の目的は? 創造主は、何の目的で地球を作ったのか?
2011.07.23
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luciferの話 続編 この世の創造主と約束をして、人間の世界に遣されてきたluciferであったが、実際に来てみると、この人間の住む社会は、話に聞いたり、勝手に想像していたパラダイスとはどこかが違っている様に感じられたのである。luciferが遣わされた 任地 日本とは?2度の世界大戦を経た後、軍隊を持たず、戦争もしないという世界で一番平和で民主的な国家を目指していた 日本と云う国。その日本も、周辺諸国と戦争を繰り返しながら、迎えた2度目の世界大戦では、時の世界情勢と国際間の事情により枢軸国側に加わったが、より大きな力のあった連合国側と交戦し、その戦場となった太平洋やアジア大陸地域に派遣された多くの軍人兵士や軍属も含め、それらの人員に多大な使者死傷者があった。戦火は進み日本の国土は空襲で焼け野原となり、日本本土の非戦闘国民にも多大な犠牲が払わたのち、最後に2発の原発投下と云う地獄の業火により、終戦を向えた。地獄の釜が開く時というのか、日本と云う国が戦争で受けた傷を、それは表面的な回復であったかも知れないが、戦後10数年と云う短期間の間に復興出来た陰には、朝鮮半島やベトナで発生した民族を二分した周辺アジア民族の戦争犠牲が日本に与えた特需によって成し得た事は確かな事実である。しかし、その陰にある欧米の覇権主義と他民族に対する植民地支配の構想の構図は、第二大戦の終結から半世紀以上過ぎた現在に於いても、その陰と陰謀が少しも無くなっていない事に注意が必要である。lucifer は、人間の世界で一番平和で幸せな国として日本を推薦されてやって来たた。さて、そこは本当にその通りだったのであろうか?
2011.07.23
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luciferは、この世に送られてくる時に、ある約束をしてきた。それは、人間として、一番幸せな人生を送れる事。人間の世界には、世の東西を問わず、3っつの願いと云う有名な話があるが、luciferの願いは、シンプルではあるが、その意味するところは重い。さて、その願いに対しての回答は、確かにその願い聞き届けるが、こちらにも条件があると。その条件とは、一番の幸せではなく、次の二番目の幸せだと言う事。何故なら、一番目の幸せが手に入れば、その次はないからという事である。15番目より、14番目の月か? 15番目の月 満月は、次の日から欠けていくから。う~ん、成る程。 そして、契約書にサインする際に、luciferは、もう一つ言い渡された事がある。召還の日は、luciferが人間としての幸せを、もうこれ以上の幸せはないと感じた時がその時だと。その時、luciferは思った。創造主の創り上げた人間の世界等にluciferが満足したり、まして、この上無しの幸せ等感じるはずはないと。これは、戦わずしてluciferの勝ちは決まったなと。
2011.07.19
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以前に書いた下書きの一部です。人は、長い人生の中で、自分の事を、本当の意味で大切にしてくれる人間と出会えるかどうか? そして、その相手と、どの様にして関わって行けば良いのか? それが一番重要な課題ではないかと。そういう私は、かなりと云うより、信じられない位の勝手気ままな人生を送って来ましたけれどね。そんな人間の言う事ですから、まっ、大した事では無いのですが、この世の天使達を大勢見てきた堕天使luciferからの、その天使が人間界で生きていく為のlectureやadviceだと思って頂けたら良いなと。
2011.07.06
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漢字で金と書いて「カネ」貴金属の金「キン」そのものか、それから由来しているのであろうが、銭 英語ではMoney。古代より、人々の暮らしの中で、この金は、その他の殆ど全ての物に変換できる便利な物として扱われてきた。そして、その欲しい必要な「物」が手に入るという事で、逆に金があれば、金さえあればそれで良いという短絡的な考えになってしまった。実際には、金が幾らあっても、手に入らない、手に入れる琴の出来ない「もの」は幾らでもあるのだが。 私には以前、巨万の資産を持つ支援者がいた。その人物は、子供がいなかったせいか、私を息子の代わりにしたかったのかも知れない。実際に、養子になって自分の跡を継いでくれないかと頼まれた事もあったのだが、私は人の財産や金には全く興味が無かったし、彼を取り巻く周囲の人間が嫌いだったので、やがてそうなるであろう相続問題には介入したくなかったからである。絶頂期の資産は200億とも伝えられていた。家の門から母屋までは、車でも結構な時間が掛かる、大きな水車と水車小屋のある池は、人工的に作られたものとは思えない位に大きいものであった。隣接する彼の企業の10棟に及ぶ製造工場の敷地は、山二つを切り開いた自家発電所までを有する巨大なものであった。成功者と呼ばれる人間なのだろう。でも、私にはそんな事はピンとこなかった。私と彼の出会いは、必然的偶然というか、ある意味、私の数奇な運命からは、至極当然の事で、少なくても出会った時はそう思っていたし、出会ったばかりの頃は、確かに企業は順調であっただろうが、それ程大きな企業ではなかったと記憶している。そして、彼は企業家であると同時に発明家でもあったのだが、発明した機械や機構の開発途中で技術的な行き詰まりが出た時は、私に相談するのである。そして、そんな時は、彼は突然馬鹿でかい彼の愛車に乗ってやって来た。彼も、私と同じでかなりの車好きであった。彼の愛車はベンツ。その時の私の愛車はクラウンであった。当時のクラウンのキャッチフレーズは「いつかは、クラウン」であったが、私は「今は、クラウン」だけどと思っていた。30前の若造が生意気だったと思う。しかし、30になる前に計画通りにポルシェに乗れたのだし、今あるのはポンコツ国産中古車であるが、全く人生そんなものである。まっ、彼の発明を製品化するのに、私のアドバイスがどれだけ役に立ったのかは定かではないが、彼と彼の企業は成功し、その後もどんどん実績を伸ばして行った。彼は話が好きというか、私が行くとよく色々な話を聞かされた。その話の中でも、戦争中の駆逐艦に乗っていた頃の話しは、生死の狭間の中での実体験なだけにとても考えさせられるものがあった。彼の乗艦していた駆逐艦の資料を集めたが、その中に小さな艦影の写真を見つけたので、私が絵に書いてプレゼントしたら、その次に行った時には、彼の社長室の壁に立派な額縁に入れられて飾られていたのには、ちょっと恥ずかしくなってしまった。生死を決めた南方海域での体験と、その事によって、その後の彼の生き方が決められたという事、人の人生の中の一瞬の出来事がどれだけ大きな意味を持つのかを勉強させられた思いであった。わが身の危険を返りみず、僚艦の危機に沈没現場に駆けつけて救助してくれた味方の駆逐艦の話。感動の実話なので、機会がある時に載せる事に。
2011.07.01
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luciferの人間観察。人間の望みって、人によって其々だろうけど、まずは、痛み、苦しみからの解放。それが一番先だと思った。五体満足で、健康でいられる事が、どれだけ幸せなのだかという事。でも、結構そんな事すらが分からない人って多いみたい。私は、自分の使命が苦しんでいる人を助ける事だと思っていたから、自分なりには出来るだけの事をして来た積りだったけど、実際には、どうだったんだろうね。
2011.06.29
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Luciferは、人間世界で努力する人を沢山見てきた。そして、労せずして手に入るものなしという事の意味が分かる人と、多分に運と金の力に頼ってでも、それが何とかなってしまっている人もいるという矛盾性が人間会には存在するという事もまた事実ではある。親の七光り、二世議員や企業の二代目。話は変るが、2時間前に飲んだ薬が全く効かない為に、今夜はまだ就寝できずにいる。同じ構成成分、効用を謳っている同種薬であっても、メーカーが違えばその効果と副作用の度合いは全く異なる事がある。
2011.06.26
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ブログ名:ルシファーの呟き総アクセス数:43072 アクセス(平均 22 アクセス/日)開設日数:1975日(開設日:2006/01/29)日記記入率:15.3%開設日より2000日まで、あと25日 それまでに 44444アクセス達成出来るでしょうか?日記記入率が15%と低率なのが問題でしたね。今日は、JINの最終回をとびとびながら観ています。パラレルワールド ね~っ。 もしかしたら、私も江戸時代ではなく、今の時代にタイムスリップしてきたのかも。そしたら、そろそろ元の世界に戻る時期が来ているのかも。あと少し頑張ろう。
2011.06.26
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Lucifer Nofe 何て言ったら 誰しもどん引きすると思うけど。Luciferが、これまで人間として生きてくる事が出来たのは、多くの人達の力に支えられてきたからである。思えば、本当に色々な人との出会いがあり、そして別れがあった。恐らく周りの人達は、私の事をとても変わった人間位に思っていたはず。それは、確かにそうなのだろうと思う。しかし、私自身、決して二重人格者や精神的破綻者等ではない。当然、ジャンキーでも、宗教家でもなく、自己評価や評定としては、極普通の人間の領域内で、最初に与えられた生活空間を、この世で最良の場所と思い大切に思い続けてきた、しかし、これまでの間には、自身の生命を脅かす事に至る様な窮地に追い込まれた事や、身体的健康の面では、随分早い時期から、その終息の時期を前もって知らされていた様に思える。そして、それは警告の意味合いがあったのだと思うが、あと少し、あと少しという感じて、何度も再挑戦の機会を与えられてきた。Luciferがこの人間の世で暮らした理由。Luciferの暮らしてきた人間の社会と云うのは、幸せ右上がりの一番良い時代と背景であったのは間違いのない事実であり、人間の歴史の中でも、最も恵まれた周囲の環境推移であった様に思われる。確かに、この人間の世の中には、もっと素晴らしい環境の所もあるかと思うが、地域の利便性や気象等の自然環境、その中でもとりわけ、周囲の人間性については、とても運が良かっただけなのかも知れないが、自分は間違いなく、それらによって最高の幸せを与え続けられてきた事を確信している。まっ、Luciferとしては、人間の持つ本性や底意地の悪さと云うか、余り観たくないものは、なるべく避けてきた事も事実ではあるが、実際にアクシデント等に遭遇して大変だった時や窮地に陥り、これまでかと思った時には、必ずや助けが入ったのである。それらの助けがあったからこそ、 luciferはこれまで生き続けてくる事が出来たのであるし、それらの人々に対する感謝の気持ちは、Luciferとしても、それらの人々にせめてもの恩返しをと常に考えて来た。Luciferのこの世での使命は、人間として生活するluciferが出遭う人がどの様にluciferと関わって行くかの観察にあった。Luciferはその自身の持つ役割について、人間を始めた初期の頃には、多分普通の子供と同じ様に、何か自分の周囲には不思議な事が起こるなという感じ程度のものであった。しかし、普通なら、そこで終わりだろうと思われる様な場面に於いても、まるで時間が停止したのか、そして、その時間の部分だけが削除されて元の時間に戻ったという事が何回もあった。原因不明の酷い全身症状と痛みでのた打ち回った事もあったし、その後の発作は何年も続いたり、視力が奪われそうになった事もある。これまでは、そのアクシデントの都度、奇跡的な回復を見せて来たのであったが、それが何回も重なる内には、少し慣れっこの様になってしまっていた事も事実である。幾ら酷い目に遇ってる最中にあっても、多分今度も拿云う丈夫であろうという思いが出てきた時、その様な慢心に対しての教育的指導? が今現在の状況に思えるのである。そして、期限は切られた。開設2000日目、それまでに、出来るだけ早く44444を達成してしまおうと思った。それが出来れば、また少し何かが変わるかも知れないと信じて。
2011.06.22
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「出る杭は打たれる」と日本では良く合われる事ではあるが、今回の堀江隆文氏、俗称ホリエモンに対する2年6カ月に渡る実刑判決と云うのは、既得権を持ち現在の状況を壊したくない人にとって、私のとった行動は危ないものに見えてしまった」ため、「出る杭は打たれる」ことになったのだと、堀江氏が分析している様に、日本の常日頃表には出てこない陰の権力者に取っては、自己の権力や既得権の為には何でもありという事の様である。以下 週プレNEWS より 堀江貴文が伝えたかったこと「僕がやりたかったのはお金儲けじゃない」週プレNEWS 5月10日(火)21時17分配信 実刑判決を「出る杭(くい)は打たれる」と自己分析した堀江氏。量刑は2年6ヶ月だ 4月26日、旧証券取引法違反の罪に問われた堀江貴文氏の上告が最高裁に棄却され、2年6ヶ月の実刑が確定した。 堀江氏は会見で、「一貫して無罪を主張してきた私にとって、この結果は非常に残念であり、悔しくもある。しかし、(2審の)高裁で受けたほどのショックはない」として、棄却後の心境を「人生ゲームのコマがひとつ進んだような感じだ」と語った。 判決は有罪となったが、現在も「違法なことをしたとは思っていない」という堀江氏。過去に自身と同じ罪に問われた被告らの判例を引き合いに出し、「ほかの判例(執行猶予がついていたり課徴金処分だったりする判例が多い)と比べて、量刑の重さが違うのはとても不公平な結果だと思う」とも。 しかし、そうした「不公平」に不満は持っていないと言う。「世の中というのは不公平や不条理に満ちているもので、誰しも『なんで自分だけ』という経験を一度くらいはしたことがあるだろう。(中略)悲しいかな、世の中の真理とはそういうものなのだ」 また、判決内容については、「納得してはいない」ものの、「原因の一部には、私にも責任があると感じている」と堀江氏。特に、自分のやりたかったことがきちんと世間に伝わっていなかったことを落ち度に挙げ、「私がライブドア事件でやりたかったことは、お金を稼ぐことではない」として、その「真意」を次のように語った。「資本市場の仕組みは、企業を応援してくれる人たち全員が株を持てることにあるのだが、今の日本では一部のお金持ちや投資顧問会社しかほとんど参加できない。これはおかしいことだ。また、電波はもっと有効に活用できるはずであり、テレビやラジオの仕組みを変えて、より便利なものにしたいと考えていた」 こうした考えが世間にうまく伝わらず、「既得権を持ち現在の状況を壊したくない人にとって、私のとった行動は危ないものに見えてしまった」ため、「出る杭は打たれる」ことになったのだと、堀江氏は分析している。取材/杉原光徳(
2011.06.21
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このままでいると、近い将来どうしようもない事になるのは必至。自分としては、毎日本気で頑張っている積りでも、現実は中々にそう思う様には運ばない。この国の人達ってと言ってしまったら、お前もその一人だろうと言われてしまうだろうけれど、もう少し何とかならないものか。本当は、少しどころか、日本人は今の10倍どころではなく100倍以上賢くならなければならない時。この国を支配する立場の堕落と、国民の無知化は、この国を亡ぼしてしまいます。マスコミによる、支配する側に都合のよい屑情報を排除し、正しい情報源の構築と共に間違った事に対しては、絶対に正当化させてはなりません。
2011.05.22
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宇宙人 ホーキング博士によると スティーブン・ホーキング「宇宙人はいるがコンタクト取るな」との事であるが、それは既に遅いかも。別宇宙の知的生命体は、地球上の生命の進化状況の監視の為に、太古の昔から地球に来ているから? もし、地球人に化けている宇宙人を近くで観掛けても、知らない振りをして、コンタクトしなければ良いのかも。 以下 コピペ 中央日報/中央日報日本語版] イギリスの物理学者スティーブン・ホーキング博士(68)が「外界に生命体が存在すると確信する」と述べた。「しかし我々はその生命体を探しだしてはならず、できるだけ接触を避けなければならない」と主張した。 イギリスのサンデータイムスは25日、ホーキング博士が「ディスカバリーチャンネル」のドキュメンタリー番組でこのように力説したと報道した。「スティーブン・ホーキングの宇宙」というタイトルで制作されたこのシリーズは来月9日から放送される。 これによればホーキング博士は「宇宙にある多くの惑星だけではなく、惑星別にも生命体が存在するのがほとんど確実だ」と主張した。こうした主張は科学的証拠ではない論理的推論に根拠している。彼は「宇宙には1000億の銀河系があり、各銀河系には数億個の星がある」とし「したがって地球にだけ生命体が暮らしているのではない上、外界生命体が存在すると信じるのは完璧に合理的だ」説明した。 ホーキング博士は高等生物出現の前の地球のようにほかの星にも進化の段階の低い生命体が暮らしている可能性が高いものと推測した。といえども「一部の生命体は相当な知能を持っており、人類に脅迫的な場合がある」と警告した。「自分たち惑星の資源を無くした後、新しい宇宙植民地を開拓するために宇宙船に乗って群れで歩き回る宇宙人の姿も想像したりする」と付け加えた。 ホーキング博士は続いて人類が外界生命体と接触しようとすることは危ないことだと指摘した。「もし宇宙人たちが地球へ来たらクリストファー・コロンブスが北米大陸に上陸して原住民たちに悪い影響を与えたことのような結果をもたらす」という。 一方、ホーキング博士が放送原稿を何回も直し、画面構成にもかかわったことから番組の完成に3年以上がかかったということだ。
2011.05.17
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私がこれまで体験してきた数奇な運命を話したとしても、恐らく誰も信じないと思う。人には、其々にその人の生涯に出会う出来事、出会う人、そういうものは最初から決められているのかも知れないと思う事がある。
2011.05.09
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この世の「イイオンナ」に告ぐ旬の時期は何にでも存在するが、旬の期間を短くするのも、長くするのも、その女性の考え方と努力次第. イイオンナに年齢は無いと云われるが、イイオンナは、年齢に関係なく、イイオンナである。「セカンドバージン」も、お堅いTV局の番組としては意外であるが、「祝女」教師による、女子小学生への「都合の良いオンナとは?」授業は、なる程納得。中々やるなNHK。{花の命は短hく」、「命短し恋せよ乙女」は大昔の話。驚異的長寿の現代、アラフォー世代は、これからが真の「乙女」人生を花咲かせる時。いつまでも、イイオンナでいられるかどうかは、その女性の考え方と努力次第である。全てのイイオンナに告ぐ現状に慢心する事なく、更なる人間向上を目指し、尚一層奮励努力せよ。
2010.11.24
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今の日本人は、とかく争い事を避ける為に、回避行動をとりますよね。それが、こいつは弱いからやれると相手に思われ、付け込まれる原因になる訳です。やられたらやって返す。というのがイスラムの考え方とされていますが、それだとエスカレートして、最終的に殺し合いや戦争になってしまいます。本来のハンムラビ法典の「目には目」という意味は、その後に付く「歯には歯」と一緒にして解釈されがちですが、この法典の意味するところは、もっと人間本来の精神と間違いを諌める法律の原本になるものなのです。言ってわかる相手とは話し合いでも良いですが、そうでない相手、悪意を持った相手とは、自分の身だけでなく、周囲の善良な人達の当然の権利を守るため、それを犯したり破壊しようとする人間には、正義の力が是非とも必要です。まずは、ウイキペディアから、ハンムラビ法典に付いてどの様な事が書かれているか良く御覧になって下さい。 以下、コピペ 「目には目を、歯には歯を(タリオの法)」 [編集]「目には目を、歯には歯を」との記述は、ハンムラビ法典196・197条にあるとされる(旧約聖書、新約聖書の各福音書にも同様の記述がある)。195条に子がその父を打ったときは、その手を切られる、205条に奴隷が自由民の頬をなぐれば耳を切り取られるといった条項もあり、「目には目を」が成立するのはあくまで対等な身分同士の者だけであった。ハンムラビ法典の趣旨は犯罪に対して厳罰を加えることを主目的にしてはいない。古代バビロニアは多民族国家であり、当時の世界で最も進んだ文明国家だった。多様な人種が混在する社会を維持するにあたって司法制度は必要不可欠のものであり、基本的に、「何が犯罪行為であるかを明らかにして、その行為に対して刑罰を加える」のは現代の司法制度と同様で、刑罰の軽重を理由として一概に悪法と決めつけることはできない。ハンムラビ法典の内容を精査すると奴隷階級であっても一定の権利を認め、条件によっては奴隷解放を認める条文が存在し、女性の権利(女性の側から離婚する権利や夫と死別した寡婦を擁護する条文)が含まれている。後世のセム系民族の慣習では女性の権利はかなり制限されるのでかなり異例だが、これは女性の地位が高かったシュメール文明の影響との意見がある。 ハンムラビ法典と律法 [編集]ハンムラビ法典の「目には目」と旧約聖書出エジプト記21章、レビ記24章、申命記19章における「目には目」の律法が似ているため、その関係がよく取り上げられるが、その詳細は異なる。ハンムラビ法典は上述のように、身分の違いによってその刑罰が異なるのに対し、聖書律法は身分の違いによる刑罰の軽重はない。また、聖書の律法は、神と家族間に対する罪など、倫理的な罪はそれと比べて重い処罰が課せられ、物品等の損害など商業的罪に関してはそれと比べ軽い罪が課せられている(Gordon Wenham) [1]。 現代における評価 [編集] 罪刑法定主義 [編集]現代では、「やられたらやりかえせ」の意味で使われたり、復讐を認める野蛮な規定の典型と解されたりすることが一般的であるが、「倍返しのような過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐ」すなわち、あらかじめ犯罪に対応する刑罰の限界を定めること(罪刑法定主義)がこの条文の本来の趣旨であり、刑法学においても近代刑法への歴史的に重要な規定とされている。 公平性 [編集]現代人の倫理観や常識をそのまま当てはめることはできないが、結果的にこれらの条文は男女平等や人権擁護と同類の指向を持つ条文である。また、犯罪被害者や遺族に対して、加害者側に賠償を命じる条文や、加害者が知れない場合に公金をもって損害を補償する条文も存在し、かつ被害の軽重に応じて賠償額(通貨の存在しない物々交換の時代なので、銀を何シェケルという単位だが)まで定めてある。「ハンムラビ法典は太陽神シャマシュからハンムラビ王に授けられた」というかたちで伝えられるが、特定の宗教的主観に偏った内容ではなく、むしろ宗教色は薄い。身分階級の違いによって刑罰に差がある点は公平といえないが、当時の社会情勢に鑑みると奴隷制廃止は不可能であり、何らかのかたちで秩序を定める必要があったことから当然の帰結といえる。ただし、身分差別を除いて、人種差別、宗教差別をした条文はみられない。この点に関しては中世ヨーロッパの宗教裁判に比してはるかに公平と公正さにおいて優れており、先進的といえる。司法の歴史上非常に価値の高いものである。 弱者救済 [編集]あとがきに、「強者が弱者を虐げないように、正義が孤児と寡婦とに授けられるように」の文言がある。社会正義を守り弱者救済するのが法の原点であることを世界で2番目にふるい法典が語っていることは現代においても注目される。 等価の概念 [編集]経済学者のカール・ポランニーは、ハンムラビ法典の負債取り消しに関する記述や、報酬にかかる費用などを研究し、当時の社会での等価は市場メカニズムではなく慣習または法によって決められていたと論じた。近代的な等価概念との相違点として、私益のための利用を含まないこと、および等価を維持する公正さをあげる次回へ続く
2010.11.04
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ジャーナリストの常識、非常識どうにも、「ジャーナリス゚ム」の報道権利を履き違えたジャーナリストの様に思える。 以下コピペ 取材テープ提出命令、田原氏「弾圧だ」TBS系(JNN) 10月25日(月)19時5分配信 「ジャーナリズムに対する挑戦じゃないか。断固闘います」(田原総一朗さん) この裁判は、田原さんがテレビ番組で拉致被害者の有本恵子さんらについて「外務省も生きてないことはわかっている」などと発言したことに対して有本さんの両親が精神的な苦痛を受けたとして慰謝料を求めているものです。田原さんはすでに外務省幹部への取材内容を文書で提出していますが、神戸地裁は「文書を提出したことで秘密保持の義務を放棄した」と判断し、今回、テープそのものの提出を命じました。 「テープを出したら(外務省幹部の)名前もポストも特定できる。守秘義務を放棄しろということ。ジャーナリストに対する弾圧」(田原総一朗さん) 田原さんは取材源の秘匿を理由に命令には応じない構えで、一両日中に大阪高裁に即時抗告する方針です。(25日17:13)最終更新:10月26日(火)4時15分
2010.10.26
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烏合の衆カラスがたくさん集まってがやがやと騒ぐだけのように、ただ数ばかり多い群衆。規律もなければ、統一されてもいない人々の集団の意から、転じて、未熟でまとまりのない、まったくだらしない無統制の軍隊をいう
2010.10.26
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口は災の元とは良く言われるが、言わなくて良い事や、相手が嫌がる事を平気で口に出す人間がいる。そういう人間は当然であるが、周囲からは敬遠されがちなのであるが、それでも当の本人は、周囲のそういう対応に対しても、全く気付かないでいたり、逆に自分が敬遠されたり阻害されているのは、周囲の人間に問題があるからだと逆恨みする場合も多い様である。物も言い様では角が立つとか、そのものの言い方一つにしても、ちょっとした事で、相手の感じ取られ方が大きく異なる場合も多く見られる。その人間の持つ本質的なものとか、相手に対する思いやりや、デリカシーに掛ける人間の場合は飛所に厄介な問題と成り兼ねない。人に対する思いやりや、デリカシーに欠ける人間というのは、その人間の育った時の環境や、どんな躾と教育がされて来たかという部分が大きく影響している様に思われる。
2010.10.16
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今回は、人間関係と日本語の会話について。 日本語は、そのニュアンスがとてもデリケートなので、自分の伝えたい事とは違う解釈をされる事が多い様に感じます。会話はリアルタイムなだけに、文章で伝える場合とは違い、相手の解釈が違っているなと感じたら直ぐ修正する事が可能ですが、どういう訳か多くの日本人は、相手に対する遠慮なのか、その他にも理由があるのかは分かりませんが、相手の話を直接否定したりはせずに、遠回りな言い方をしてくる場合が多い様に思います。私は、自分自身の気持ちにダイレクトな性格なので、イエスとノーははっきりさせなければなせらないと考えていますが、これをはっきりさせようとすると、相手が困っているのを感じる時が多々あります。誰しも相手に嫌われたくないとか、相手に悪く思われたくないと思うのは当然の事だと思います人間関係は、その全てが言葉のやり取りという訳ではありませんが、自分の意思や考えを相手に伝えるには、やはり言葉や文章で伝えるしかありません。一緒に居たり一緒に行動していれば、相手の行動からも、相手の善意の思いを汲み取ったり、或いは逆に相手の悪意を感じ取る時もあると思います。そうしている内には、相手の性格や人格、そして、その人の特質というものも段々時間が経つ内には少しずつ少しずつ分かってくるでしょう。人間関係も、その長い間には山あり谷あり、風のある日や雨の日もあるでしょうし、台風の様な時もあるかも知れません。しかし、ちょっとした雨ならば傘をさせば良いでしょうが、台風の時はどうでしょうね。人間関係に台風の様な波風が立った時、それを乗り越せるかどうかは、やはり日頃からの相互信頼がどれだけ強く構築されているかに尽きると思います。日頃の「なあなあの関係」が幾ら長く続いていたとしても、一旦何事かあった時に、「なあなあの関係」が如何に脆いものであるか、私はそういう人間関係崩壊の事例を幾度となく見てきましたし、実際に自分でも体験しています。せっかくの長い間時間を掛けて築いきた関係であっても、それはあっけなく壊れてしまう様に思えます。まっ、その人間関係にも色々ありますが、友人、恋人、夫婦の間であっても、その関係が壊れるのは一瞬の事の様に思えます。本当は、壊れる前にその兆しがあるのだろうと思いますし、「空気を読めない」とかいうのも、多分そういう事なのだろうと思いますが、私にすれば、何が「空気を」だと思います。空気だなんて、私は気象予報士などではありませんから。、今日の人間関係は、北北東の風、風力3 なんてね。これが風力4を超えると、ちへょっと危険かなと。気圧も要注意で、中心気圧が1000mhpを切ったら 台風だ~っ気象予想序に、気温は寒くても、暑過ぎてもまずいですから、22-25度くらいが適温かなと。心の中の人間関係を大切に暖めなきゃ。そういえば、冷えた・・・をレンジで温め直してっていう様な曲があった様な。冷えた人間関係を暖めるレンジがあればね~っ。そのレンジ、エコポイントも付いているのかな?私なら、レンジ等よりも、ライターで火を付けてやったらよろしいかと。それでも温まらなかったら、最後の一手は、火炎放射器? 危ないな~っ。この話は、続編があるかも。
2010.10.15
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コピペ「クソババア」朝青引退後も暴言連発!デイリースポーツ 10月5日(火)9時29分配信 3日に引退相撲を行ったばかりの元横綱朝青龍のドルゴルスレン・ダグワドルジ氏(30)が4日、全日本力士選士権が行われている両国国技館に姿を見せ、引退相撲に協力してくれた相撲協会員にあいさつした。 突然の訪問で報道陣に囲まれたが、「アホ」「下がれ」と現役時代さながらの暴言を連発。女性リポーターには「クソババア」。いつまで日本にいるかとの質問には「何でお前に言わないかんのや」と悪態をついた。 ただ時折、笑顔も見せ報道陣に記念写真を求める一幕もあった。放駒理事長(元大関魁傑)は「ご苦労さん、とそれだけ言いました。相撲界は去るけど、どこの世界に行っても一緒。そこで頑張ってもらえればいい」と第2の人生へエールを送った。
2010.10.06
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日本人と日本の社会は、魔女狩りが御好きな様である。国民の上層組織や社会に対する不平不満をすり替えて、悪者はあいつだと、小物を捕まえて吊るし上げたり、敵対勢力になりそうな相手に対しては、ありとあらゆる手段を使って徹底的な潰しを図る。国内でそんな事をしているから、これ幸いにと、盗賊国家にいい様にされてしまうのである。日本に巣食う本当の「悪」がどういうもので、どういう人間が操っているのかを知らなければならない。
2010.10.01
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我人生のキリ番。何て言うと、また大層なと思われるかも知れませんが、物事には最初があれば必ず終わりの時がやってくるのが世の常です。私がまだ若かりし頃頃、日頃お世話になっていた大先輩の所へ御見舞いに行った時の事です。病室に行くと、そこにはいつもと変わりない元気な顔で応対してくれた大先輩がおりました。何だ、入院したと聞いたけれど、大した事はないのか?と思った矢先、先輩から、「私は癌なんだ」と言われて吃驚しました。そして、「担当医は、癌だとはっきり言わないけれど、私も、自分の体の事位分かるよ」と。そして、「昨日は、新米女医が何人も来て、交代で診て行くんだけど、その度大変だったよ」とか、半分冗談混じりに、入院生活の事や、私の好きな車の話題にしてくれたり、お見舞いに行ったのに、逆に精一杯の接待をされてしまった感じでした。そして、時間が来て、帰ろうと挨拶する私に「健康が一番大切だからな、体を大切にしないと駄目だぞ」と。それに「はい、・・・先生も早く治してください」と返事をしたら、「今日は、よく来てくれたな、ありがとう、嬉しかったよ」と言って握手をされました。それが、大先輩の元気な姿を見た最後でした。私と同じに車好きで、当時ドイツ製の車に乗っていて、私もいつかはその方の様にと、将来の目標にしていた方の一人でした。気付いたら、いつの間にかその方の年齢を越してしまいましたが、私自身何度も体調を崩し、危機的状態に陥った時には、どこからかその方の「頑張れ、まだお前にはやならければならない事があるだろう」という励ましの声が聞こえてきていた気がします。
2010.09.26
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Luciferには、友達がいない。そう聞いて、えっ、そうか、成るほど。そう思った方に聞きたい。では、あなたには友達がいますかと。その前に、友達って、あなたにとってどの様なものですか?職場や学校で仲の良い人は友達?その同僚やクラスメイトは、皆友達?会社の同僚やクラスメイトには、仲の良い者や気の合う同しがいれば、気の合わない人間、嫌な奴もいるはず。そういう人間はどうします?毎日一緒に顔を合わせ、一緒に仕事をしたり、勉強する同僚だから、クラスメイトだから、本当はその相手に面白くない面があったとしても、あなたは我慢して仲の良い「トモダチ」の振りをしていませんか?
2010.09.26
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もう無くすものは何もないと思った位、色々なものをなくし続けてきた私でしたが、それは、無くしたのではなくて、自分が壊したからだと気付いたのはずっと後でした。そして、私が壊してしまうと思っていたのは、治(直)そうとして、治らなかった結果でした。なおらなかった理由は、壊れていたのではなく、なおそうとしても駄目なものは最初から駄目で、最後までそれは変わらないと云う事実。私はやっと、直るものを選んで直せばよい事に気付きました。しかし、それで良いものかとうか?
2010.09.17
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私は、人間の生きると言う事の喜びを知る為に、この世に遣れたと思た事がありましたが、一瞬の喜びの後には、必ず長い苦しみがある事を知りました。楽あれば苦あり、そしてまた、苦あれば楽あり。人は、其々に、生きる事の苦しみを背負って生まれ、その苦痛から逃れる為に生き続け様としているのかも知れません。肉体的苦痛、死の恐怖。私は、そのいずれも幾度となく体験しましたが、この世にはそれとは比較にならない程の過酷な体験をさせられている者の存在を目の当たりにした事がありました。その時、それまで自分の味わった苦しみは、人の痛みや苦しみを私に知らしめる為の啓示であったのだと受け止めました。
2010.09.03
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今回の三ヵ月に及ぶ体験は、私に取ってこれからの自分の進むべき道を決める為の道標となった事に疑いはない。 To be or not to be, that is the question.
2010.09.03
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二年前の悪夢が再び再現され様としている。アクシデントの日から今日まで大変苦しい道であったが、もう、この辺でログアウトという事になるのかも。やれるだけの事をやり、あと少しという所でのくだらないアクシデント。それは、正直性に欠ける人間によってもたらされた。
2010.05.21
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日本と言う国、そして日本人。理解する事は困難な国と民族である。協調性やら、外面を重んじるばかりに、肝心な部分が欠如してしまっている様に思われる。世界で一番平和で、安全といわれた国、日本という国。世界で一番勤勉で、優しさを持つといわれた日本国民。その日本という国と国民が、今、窮地に追い込まれている。何故、その様な事になってしまったのか?その理由や、経過の概略は知っていても、真相を知る者は意外に少ない。
2010.05.05
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この世は、人間の為だけにあるのではないし、人間が己の生存とその為の欲を制限する事をやめた場合には、日本人に多い生活習慣病「糖尿病」の様に、それは次第に体を蝕み、やがては生命を脅かす大きな余病の発生と、その進行を促す事になる。今の人間の社会は、正に糖尿病患者の蝕まれた肉体そのものである。糖尿病以上に怖いのは癌である。人間の体の中で、ある日突然活動を開始する癌細胞は、忽ちのうちに体全体に侵攻し、その他の正常な細胞を駆逐して機能を奪い死に至らしめる。平穏な人間社会の中に現れた、一部のがん細胞的人間は、やがて同様の人間を作り出す組織を形成しながら、人間社会の社会的構造を破壊する。現在の世界状況の中で、真のテロリストが誰なのか?一体誰がこの様な事態を引き起こしたのか考えれば分かるはず。人間の文明が長く続いたためしは無い。栄枯盛衰、繁栄の後には必ず衰退の時がやってくる。
2009.09.14
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始まりがゆれば必ず終わりがあるのが世の習い。物事にも人生にも。生きるもの全てにやがて死は訪れる。この世に生を受け、その寿命が尽きるまで、それが生まれて直後の者も、100年を越す者もいて、千差万別であるが、要はその長さではなく、生きた事の内容ではないであろうか。人類は、万物の霊長として現世に繁栄を築いた。人類は、これまで地球上に存在したあらゆる生物の中で、最も進化し繁栄したと云われているが、過去の生物が進化の頂点に達した時、そこで必ず淘汰の時が訪れたのと同様に、今人類にもその時が来ている。地球は、そこに生息する生物の為に、適切な環境を提供し続けてきたが、その環境条件は時として急激な変化を伴う事もあった。過去の生物は、その環境条件に自らを合わせて行くしかなかったが、環境条件に対応できないものは消えていった。luciferは、生物の淘汰の時に、その繁栄生物と同じ形態で現れる。luciferの使命は、その生物の存在する意義と進化に関する情報を収集する事。その為luciferは1固体ではなく方々に多数生存する。luciferは、これまでに他のluciferの存在を知り、接触に成功した事もあるが、大抵の場合、出会ったluciferは、自分がluciferとしての使命を持つ者である事に気付かないでいる者が殆どであった。
2009.09.08
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これまで、Luciferに取って謎であった人間の吐く嘘、その嘘の中でもLuciferの大嫌いであった、「優しい嘘」の意味がようやく分かってきたところである。そもそも「優しい嘘」とはどの様なものを指すのであろうか?人が人を騙したり、陥れる為に吐く嘘と、優しい嘘とでは何処がどう違うのだろうか?以前Iという人間がLuciferの側近にいた事がある。そのIはどういう訳なのか、取るに足りない様な嘘を吐く癖?があった。例えば、「これ、家で使う事が無くて余っていたのを持ってきたので使ってもらえれば」それが、実は自腹で買ってきた物だったり、その本人からすれば、相手に気を使わせない様にとの配慮の積りなのだろうが、その相手に気を使うというのは、実は相手からの有形な物の見返りを期待するのではないとしても、相手に対して貢献しているのだという自負と、そうすることによって、いつかは相手もその貢献に気付くであろうという心積もりが少なくても存在していたのは間違いのないところではなかったのかと感じている。相手に対する自分の貢献が、相手には全く通じないとしたら、それでも同じ事を続けられるだろうか?そこには、少なからず相手に対する自分の貢献を気付いて欲しいと思う心が存在するであろうし、気付いてもらえない場合や、相手に無視された場合にはどうなるのか?人間が自分の好きな相手に対して贈る贈り物や、その為に使う金銭の類は、時としてその後に大きな悲劇を呼ぶ事は良く知られている事でもある。人を物で釣るというか、まっ、物欲が強い人間は、贈り物や金銭の類の誘惑には脆弱なのだと思うが、欲しい物や必要な物は、自分で調達しなければ良い気のしないluciferに取っては、人から物を与えられても迷惑なだけであるし、先程の様な内なる期待が巧妙に隠されていた場合、それに気付かず、結果的に恨まれてしまう事にも成り兼ねないのである。しかし、人間の心の奥に潜むのは、やはり銭金と損得勘定の様である。自分は損得勘定には疎いとか、人に対する思いやりとか、本気でそう思っている人間程、実は心の奥で、自分の貢献の見返りを期待しているという事である。その貢献の見返りとは、金銭や形あるものでなくても、実は金銭以上に大変なものかも知れない。只程高い物は無いとは良く言ったものだと。可愛さ余って、憎さ百倍という事なのかも。Luciferは、悪い奴、ずるい奴が嫌いである。しかし、もっと嫌いなのは卑怯な奴。しかし、最も怖いのは、優しい嘘を吐く人間である。
2009.01.21
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何故人間は嘘を吐くのだろうか?この疑問に付いては、人間Luciferの長い間の研究課題であった。そして、Luciferが人間界での人としての付き合いを重ねるに連れて経験的データーは集まっていった。しかし、基本的な人間としての感情を持たない人間Luciferには、どうしても人間が吐く嘘の理由が理解できないままであった。
2008.12.26
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