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先週の土曜はD.オーディオプレーヤーでバッハやブラームスを聴きながら歩いていたわけだけど、街の雑踏のなかではやはりクラシック音楽は聴きにくいものだと思い、J.レノンに耳を傾けていた。
景色がすべて透明で意味のとぼしい背景にすぎないかのように思えてくる。
街のざわめきに身をさらしながら歩くときは、まっさらということはありえず、つねに何かしら考えている。
いや、まっさらのときもあるのだが、そんなときはわたしを通じてこの街が物思いにふけっているという印象をもつ。
ソナロサのペンドゥロ(振り子)書店にてはじめて本を買う。
英語書籍の棚で一週間まえに手にとり、この一週間、買うべきかガマンするべきか、読みこなせるか途中で投げ出してしまうか、せっせと考えた。
ドリス・レッシングによるThe Golden Notebookがそれ。
このノーベル文学賞を受賞した女性作家のこの作品は、六百五十頁にちかい代表作であり、ニホンでもかつて小さい出版社から訳書が出たものの、ながいあいだ、品切れ状態。
それでも最近になってようやく再版されたらしいが、もちろん相当たかい。
Harperのモダンクラシック叢書の一巻として出ているこの本は、17ドル、260ペソで、分厚さと著名さから比べるとそう高くはない。
じつはお目当てだったのは、邦訳も出ている「バートルビーと仲間たち」(エンリーケ・ビラ=マタス)だったのだが、スペイン直輸入ということで薄っぺらいのに、このレッシングの作品とおなじくらいの値である。
ときたま英語のテキストを読むこともあるが、それほど達者なわけではない。
Alice in wonderlandさえ挫折しているくらいである。
しかしどうしてもフェティシズムのようなものをレッシングの著作に感じて購入、レフォルマ大通りの時代がかった石造りのベンチに腰かけ、頁をめくっていった(けっきょくこの週末17頁を読みすすむ)。
音楽に清められ、背を石のかたまりにゆだね、しばしレッシングのテキストを眼で追っていると、突然、すべてはいま与えられており、これ以上の歓びはありえないという思いにとらえられてしまう。
いまさらなにを望もうか。
この歓びに身を打ち震えさせなくてはいけない。
それが一日たてば、寂しさに胸をかきむしるようにしてむせび泣いているかもしれないというのに。
そんな気持ちのまま、ふたたび歩きはじめる。
そんな自分のいたらなさ、ふつつかさ、おぼろげなさと心中でもしたまま歳月だけはいたずらに経てきたのだとつぶやいてみる。
(19 of January, 2009)