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写真はスペインのエル・パイス紙に掲載されたAFPによるメキシコ版「コレラの時代の愛」、久我美子の名画「また逢う日まで」を思い出してしまいそう(昔、並木坐で見た)。 いやはや、豚ヴィールス、世界を揺るがしてますね。 中世のペストを彷彿させてしまいそう。 より壊滅的な状況が訪れるならば、いっそのこと、ボッカチオのデカメロンを気取って、どこかに隠棲してしまいたいくらい(同伴者がいればの話かもしれないけど)。 ひとはウチにこもってます。 休みなのはいいけど、いささかストレス気味。 軒並み商売上がったりが続出しているなか、薬局のつぎに流行ってるのがレンタルDVDだというのが笑わせます。 さて、次はなにがくるか。 かつては、核戦争のあとを生きのびるのは、ゴキブリとメキシコ人だとか言われたものですが(笑)。 TVも特別番組が増えたものの、おばか番組を見てげらげら笑ってる連中も多い。 そんなくらいのほうが乗り切れるのだろうか。 まあ、このテーマにも飽きてきたけど。 (27 of April, 2009)
2012.04.07
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メキシコの学術政策の決定的な落ち度が明るみに出たという印象。 医者はいても医学研究者、ましてや細菌学者がいない。 けんめーにベンキョウして細菌学者になっても、喰っていけない。 頭のいいやつは、頭脳流出。 米国なんて頭のいいやつだけ集めるのに躍起になってて、メキシコの科学の水準なんてどこ吹く風。 それがここでしっぺ返しを喰う。 メキシコというのは努力が認められない、すべては腹芸できまってしまう(笑)。 人類の興亡をうらなうような病原体の有無についてわざわざ他国に調査を依頼しなくてはならないなんて、ああ、名まえ倒れのくにだってことが一目瞭然! 政治家は金儲けのことしか考えず、地道に努力するひとたちに報いるなんて自分らの知ったことではないと思っている。 政府のいうことは、大丈夫、大丈夫、落ち着いて、策はとってあるんだから、ということ。 もっと掘り下げてみると、まあ、メキシコだけの落ち度ではなく、国際的にもこの種のミュータント菌の研究が立ち遅れていたということもあるんだろうけど。 ひとびとは、どこまでホントのことを知ることができるんだろうか。 ■まさか「豚インフルエンザ」とは、想定外の感染拡大 (読売新聞 - 04月26日 13:19) http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=820216&media_id=20 (26 of April. 2009)
2012.03.26
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保健省長官のメッセージは夕べ午後十一時にTVにて放映されたそうであるが、わたしが気がついたのは十一時半ごろ。 その後も情報がすくなくて苦労したが、そのメッセージによればインフルエンザの流行のために連邦区とお隣のメキシコ州の全学校が休校になるとのこと。 保育園から大学までで、これがホントなら明日、がっこーに行かなくてもいいことになる。 TVでは、こんな時間、臨時番組を組めるほど機動力があるわけではなく、ラジオもあまりあてにならない。 けっきょくネットによる新聞社ソースによって明日は休みと勝手にきめた。 翌日、どこもかしこもこのインフルエンザ騒ぎ。 夕べのうちに知ることができなくてがっこーまで出かけたひとも少なくなかったようである。 インフルエンザの流行による臨時休校やら学級閉鎖というのはニホンにて体験したことがあるが、ふたつの州(首都と隣接する州)すべての休校とはいったいどんな意味を抱えているのか。 去年の夏ごろ、ニホンでは年末に感染症におそわれると騒いでいたと思う。 アジアの鳥インフルエンザがどう発展するか。 そこですでに、進化するヴィールスというコンセプトが論議されていた。 どうやらそれがメキシコに現れたらしい。 形式的には豚インフルエンザという形であるが、このヴィールス、じつはミュータントであるという。 つまりワクチンやらクスリの効能から逃れたところまで進化してしまったヴィールスであり、もし特効薬がいつか製造されてもふたたび進化するというイタチゴッコにいたる。 だからいくらインフルエンザの予防注射をしていたといっても、あまり効き目は期待できないらしい。 今回、このヴィールスの犠牲になっているのは、二十歳から四十歳くらいまで、あまり病気とは縁のないような健康な青少年がかなり犠牲になっているという。 世界のどこかで起こるべきことがメキシコで起きた(米国の一部でも)、ゆえにモルモット化したメキシコ人を世界は注目しているらしい。 すべては後手後手にまわっている次第。 メキシコの科学(医学、細菌学)の遅れは有名、だから現場では対応に苦慮しているらしいし、分析・調査中がつづいている。 つまり危機管理がないがしろにされていた。 パニックは起きていないということにされているが、街ではすでに相当の緊張ぶり。 人の集まるところに出かけてはいけない、果ては教会のミサまで中止される騒ぎ。 休みとおなじだからと、運動公園にトレーニングに出かけたら、どこの公園も閉まっている。 '85年のメキシコ大地震以来の緊急事態であるという。 はたしてどこまで影響をおよぼすものだろうか。 肝心なところは、メキシコでの報道よりも海外の報道に頼ったほうがいいという状況はいつもとおなじ。 (25 of April, 2009)
2012.03.24
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本日から新学期、かつ、本日から「恐怖の」午前七時出勤。 初日は緊張のためか、はじめは眠気が出なかったが、お日様があがるにつれて、しだいにウトウトしてくる。 でもホントはヒマ、オースティンの「エマ」を読んでいるところ。 メキシコは文人政治家の伝統がある。 ホセ・ゴロスティサ(1901-1973)は高名な詩人、「Muerte sin fin(終わりなき死)」という長詩(五十頁ほど)を編む。 このゴロスティサ氏、いまだ文名があがらないころ、ラサロ・カルデナス大統領の時代に国防次官のようなこと務めていて、午前九時まえに登庁していた。 ある日、カルデナス大統領から国防長官に午前十時ごろ、電話があり、取り次いだゴロスティサ氏は長官がまだ登庁していないことを告げると、怒った大統領は長官を叱責。 そこで防衛長官からゴロスティサ氏にとばっちりが回ってくる。 「今後、あなたは毎朝、午前七時に登庁すること!」 ゴロスティサ氏はむくれるが、しかたなくひっそりとした早朝のオフィスで時間をつぶす。 その朝の時間にじつはこの長詩を綴ったのだ、とエレーナ・ポニアトウスカのインタビューで応えていたのを読んだことがある。 ちなみにゴロスティサ氏はのちに外務長官の座にも着く。 そう、朝の時間は創造的な可能性を秘めているのだ。。。 本日の日付は、ほかのコノテーションもふくむ。 例年どおり、個人的祝日本人は無料というレストランチェーンに数人で訪れ、バイキングをたらふく喰らう。 レバノン料理バイキングという触れ込みであった。 ビールの小瓶(355ml)も五六本空かす(すいません、帰りは飲酒運転デス)。 喰った、喰った! でも疲労困憊にてウチでひと眠り。 夕方には30分走り、筋力トレーニングもくわえ、過分なカロリーを燃やしつくし、結果的には昨日とおなじ体重に戻っている。 まずはめでたし。 (24 of April. 2009)
2012.03.19
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イースターの救いの日の土曜。 昨日までの肉食絶食にひきかえ、今日からは肉食が復活する。 バスケ関係の食事・呑み会、今回は持ち番がこちらにまわる。 ひとつのメニューは、アランブレ、ビフテキ用の薄い肉と野菜との炒め物、もうひとつは、ハンバーガー、ガキも多いから。 こんな時期、まだヴァカンスに出かけているひとびとも多く、参加者数が心配されるが、とにかくビフテキ用肉2kg、ひき肉1kgということに。 でも徐々にひとが集まり、ビールもコロナの半リットル瓶を二十本ほど。 ガスレンジの熱に炙られるようにして手製のハンバーグを炒める。 はあ、疲れた。 みなさんは、せっせと話にもりあがる。 肉絶ち。。。でも清廉な身はいつまでもつづく。 (12 of April. 2009)
2012.03.17
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もうずっと昔には、いつニホンに戻るかわからないから、メキシコにて目についた中身のある本はできうるかぎり、買い込んでいたものだった。 もちろん読みきれないほどのものを溜め込んでいたわけで、あげくのはてには水害で濡れてしまうほどにもなったわけだが。 そのご、ニホンに通うたびにニホン語の本がふえてニホン語のほうをより多く読むようになってきた。 しかし最近、心境の変化もあり(笑)、スペイン語の本もよく手にとるようになってきた、おそらく悦ばしいことではないか。 ここで、あらためてスペイン語のすぐれた本を書店にてウオッチングしていると、意外なことに気がつかされる。 刊行点数がすくなくなっているのだ! 昔はそれなりの専門店にいけば、名の通った著者の作品は並んでいたものだった。 しかし昨今は、とびきり売れ行きのいい作品は、どよよォ~~んと並んでいるのに、ちょっとはずれると見当たらない。 これはいったいどうしたことか。 とびきり売れ行きのいい作品とは、つまり、高校やら大学(中学もあり)でクラスで読まされる本ということらしく、平積みにもなっている。 その他の作品は、増刷はすくない。 メキシコの出版社もご他聞にもれず、(中小の)出版社の統合が盛んであり、経営もその影響をこうむり、おそらく、増刷などもうえの経営陣の判断をあおぐ場合もおおく、そのゆえに増刷が減っているのではないか。 もっともいくつか元気のとてもいい出版社もあるし、それに最近は単行本のほかに、文庫本的な感じの冊子もふえている。 一概に嘆くべき状況とはいえないのかもしれないが、とにかく目につく書き手というのは、より特定化されるようになっている。 もともと書籍マーケットのとぼしいメキシコ、二千部程度でも大部数と喧伝される世界である。 まあ、わたし的には手元の本をせっせと読み通し、あたらしい本には禁欲さに徹する。。。って、これはニホンの書き手に対してもおなじ態度をとっていることになるな。 安い、かつての著名な作者の全集本の端本とかを読む暮らしをさしているのだが。 (10 of April. 2009)
2012.03.16
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今朝までこのところずっとナーヴァスになっていたのはなぜか。 大蔵省国税庁に出向かねばならなかったから。 もち、HaciendaのSatのこと。 今月からボス復帰うんぬんで、本給からは税金が天引きされつづけるものの、ボス代は非常勤給のような形になる。 まあ、ここんとこ、説明するのがむずかしいのだが。 ということで、Registro Federal Causanteの登録に出頭しなければならなかった。 がっこうは今週は休みであるが、官公庁は今日まで、ということで今日に当たった。 メキシコのお役所ほどおそろしいところはない。 書類の不備がなんだかんだ等々、なんかで難くせつけられて一日棒にふることがめずらしくない。 場所はアラメダ公園のまえ。 いまはネットで予約できるらしいがネットがはたらかず、二週間ほどまえに電話で予約をとっておいた。 予約の場合、前のひとがきていないと順上がりになり、休暇のまえということでキャンセルしたひとが多いのではないかとかんぐって、予約の11時20分のずっとまえ、午前十時に役所にはいると、チワワ、やはり長い列。 しかし係員がなにかしゃべっていて、どうやら予約したひとは先にすすめるらしく、レセプションで二言三言かわしたあと、係りのデスクの前に座らされる。 二十代前半のきゃしゃな女の子、堅苦しそうな、というかそちらもナーヴァスな表情をしているがフィエスタあたりに出かけると、きゃらきゃら笑っているような口。 しかしこういうところにくる外国人はめずらしいから、手続きに戸惑う。 書類のコピーをもってきたかと訊かれ、持ってきていないわたしはこれでアウトかと覚悟をきめたが、じゃあ、コピーをしてくるといって立ち去った。 メキシコの国税庁も世論のプレッシャーをうけて、以前より腰がひくくなったという話もあるし、コピーもしてくれるという情報も事前に得ていた。 それでも女の子は苦労する。 その隣の女の子はより新人であるらしく、係員がつきっきりで、たいへんそう。 それでも半時間とちょっとでやっと手続きがおわり、必要な書類を入手。 オフィスを出たところで、はい、破顔一笑! ここまで、ますはめでたし、めでたし。。。 (09 of April, 2009)
2012.03.15
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小学も終わりのころ、ある夕方だったか、兄と庭のまわりをせっせせっせと走りまわったことがあった。 いなかとはいえ、もちろんそんなにたいそうな庭なわけない、しかし半ばムキになって数えながら走った、二百周ぐらいはいっただろうか。 そのころは、まだ体育会系のおにいさんとは程遠いおらであったが、翌日、例をみないほどの足の痛さを感じた。 いまは、トホホ、若くはない。 走るときは翌日のことを考えてしまう。 調子がよくて、まだずいぶん走れそうでも、やめておく、よくいえば中庸の礼をまもる。 しかし、これが走れそうだからといって、いつまでもいつまでも走っていたらどういうことになるだろうか。 死刑にもさまざまな種類がある、たとえばきりもなく水をのませるとか。 だとすれば、けっして停まらずに走らなければならない死刑というのもありうるのではないか、なんて思ってしまう。 ただたんに疲れるのみでなく、まあ、心臓麻痺やら痙攣やら。 じっさい、世界では年に数例、ジョギング中に健康だと思われていたひとがぽっくり倒れてしまうという例もあるではないか。 そう思うとジョギングだってもはや命がけにちかい。。。 (ちなみに、わたしはもちろん死刑廃止論者、停まらずの走り刑なんて実施する気はとんとありません、どうぞご安心を) (08 of April, 2009)
2012.03.14
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なぜ鳥は歌うのか、こんなやさしい問いに悩まされる。 悩まされるのではなく、鳥が歌うことに歓喜する。 それはなぜか。 朝はやくがっこうに着き、しばらくうとうとするあいだ、耳は鳥の歌声に開かれ、子守唄へと化する。鳥の歌声につつまれる。 気がつくと、終日、鳥の歌声に耳をそばだて、たえずあたまのなかを響く。 そう、あの少年(青年)に近づいているのか。 あのイーヨーに。 しかしこのわたしは、恥ずかしいかな、鳥の名をしらず、鳴き声を聞き分けられない。 ああ、恥ずかしい。 自分を取り巻く樹木も数多くその名を知っているとはいえず、つまり自分を取り巻く自然について、それらの名をごくわずかしか得ていない。 これは恥ずかしいこと。 いまさらながら、大江の燃え上がる木の第三部にまで読みおよびながら、そんなことを痛感する。 そう、イーヨーにははるかにおよばない自らが情けない、情けないというまえに知識を充実させるべきが筋だとは思うが。 ああ、自然、自然を愛するというまえに、まず自然のことを知り、自然を組み立てているそれらの名に通じなければ。そんな思いをあらたにする日々。 (07 of April, 2009)
2012.03.13
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たしかイギリスにて先進国だかなんだかの会議をやっているらしい。 この会議についてなんらかの意見を表明すべきが筋。 しかしこのところ休暇モードで仮眠中に近し。 イギリスでの国際会議というのは、それほどめずらしいことではないとは思うけど。 とにかくイギリス料理の評判の悪さはじつに有名。 まともなのはフィッシュ&チップスぐらいとか。 かような理由で、むかし触れたことがあるがバルガス=リョサとかカルロス・フエンテスらはイギリスの家での仕事がはかどるという、夜の社交生活に活気がとぼしくなるとかで。 ところが今回のイギリスの国際会議のシェフの語るところによると、このイギリス料理を魅力的にするのはイギリスの周縁的地方料理がキーだという。 そんなやり方があったのか。 たしかにイギリス本流の料理は精彩にかけても、さまざまな理由で末端をささえてきた料理には何かがありそう。 もっともヨーロッパを旅したことがない小生におおきい口をきく権利がないのは百も承知であるが、ここは耳年増(?)の出番があってもいいのかと。 (06 of April. 2009)
2012.03.12
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駅まで歩いているとひさしぶりにすれ違った。 相手は夕方のトレーニングの時間なのであろう。 最近のいきさつから、こちらどんな顔つきをすればいいのか一瞬、戸惑う。 しかしひさびさということもあったのか。 相手は黒い顔をゆるませて、Vサインをおくってくる。 相手は、うちのだいがくのキューバ人野球コーチ、そう、あのキューバ! ええい、野球のコーチならこちとらに任せておけえ~ィ!なんてもらしてしまいそうだったが。 スポーツ指導なんてしょせん技術は二の次。 ということで、先日の野球ワールドカップのとばっちりをしっかりうけとめる。 そうさ、勝ち負けなんて二の次、ウンドーがんばろうぜ、ということか。 ああ、それにしても国別のスポーツなんておらはキライだな(これが結論風)。(ちょっといきさつのことをご存知でないひともいるかもしれませんが。 このキューバ人コーチとは顔なじみで、朝、ウエイトリフティングの施にていっしょにトレーニングしていたときも。 ちなみに一時は、キューバからバスケットのコーチが来ていたときもあり、試合をしたことがあります。 最新情報によると、カストロじきじきニホンの野球選手の分析をしていたとか。 でもでも。。。スポーツってひとりで黙々とトレーニングに励んでこそ、切磋琢磨の道場なのかも。 ) (04 of April, 2009)
2012.03.11
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メキシコはグアダラハラがひとつのトポスになる。 あのエミール・クストリッツァが到着、マラドーナの映画のこと、あるいは、パンチョ・ビジャが幼いときからの憧れで、その映画を撮ろうと思っていること。 ノンスモーキングバンドのライブも欠かせない(いま、出不精のわたしは縁がないが)。 それに先立ってグアダラハラにもうひとりのアイドル(!)が到着。 マヌ・チャオ。 サパティスタに学んだことは数多いと発言。 とりわけ二年前のサン・サルバドル・アテンコでの警官隊らによる地元民衆への抑圧を国家テロと発言したことにより、内務省からにらまれ、追放処分の一歩手前までにいたる。 アテンコとは、ニホンでいえばナリタ闘争みたいなものであるが、メキシコ国家がその威信をかけて手向かうものを力でねじふせ、見せしめにしようとしたもの。 メキシコでは68年のトラテロルコ虐殺が国家テロとして末永く弾劾され、しかし過去のこととしてみなされてもいるが、似通った性格の暴力がいまだに顕在だということ。 見せしめということで、投獄されたひとたちはいまだに釈放を許されない。 それをマヌ・チャオはするどく意識していて、かような発言になったもの、きわめてアクチュアルな態度といえる。 それにたいしてエミールのロマンチック・レヴォルーションへの思い込みには、ちょっと距離をかんじる。 いっぽう、ピーター・ガブリエルもメキシコでライブをひらく。 ついでにメキシコの大統領に接見し、フアレス市の女殺し対策を訴える。 アーティストといえども、つねにその態度がとわれている(もちろん、まったく反社会性に閉じこもるというのもひとつの選択である) (叙述がやや粗くなっている、もっと調べて綴ればよかったが。。。しかしこのところ、Kに引き摺られる暮らしをしているもので) (02 of April. 2009)
2012.02.15
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先ほどのこと。 歯を磨きにいこうとしてた。 左手にコップ、右手には包丁を握ってた。 (これは、人間フシンではなく、自己フシンがただしいニホン語) (30 of March, 2009)
2012.02.13
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フランスの大統領が例の夫人を伴ってメキシコ訪問中。 TVのニュースでみると、夫人のほうが背が高く、凛々しい。 それでも大統領は踵の高い靴をはき、夫人のほうはぺったんこの靴なんだそうな。 さて、話はイージーではない。 中学の日本史の教科書を拡げればわかることだが、明治開国ニホンにたいし、欧米諸国は不平等条約なるものを押し付けた。 いわく、外国人がニホンにて犯罪をおかしてもニホンには裁く権利がなく、もちろん収監も本国にてとのこと。 ニホンにたいしてはじめて平等条約を結んだのはメキシコ、しっかり教科書に記してある。 そのメキシコなのであるが。。。(笑) メキシコといえば誘拐天国。 ある誘拐事件の首謀者として美しいフランス人女性が捕まった。 判決は、懲役60年(誘拐犯は、死刑にせよとか、いきまいている政党もあるが)。 そこにフランス大統領の登場、そのフランス人をフランスにて収監しようという動きがある。 もちろんフランス大統領のフランス国民への人気取り、という意味がある。 この日記を機会にあらためて調べてみると、フランス側にはこのフランス人が無実だという主張があるらしい。 メキシコの警察、司法が堕落していることからそんな見方が出るのだろう。 しかし誘拐の被害者をふくめ、このフランス人の罪というのは明白なのだという。 メキシコ側の国民感情としては、あらゆる誘拐犯に譲歩はゆるされるべきではないということ。 これもムリがとおればドオリがひっこむ例なのか。 (10 of March, 2009)
2012.02.06
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暑くも寒くもない日曜、するべきことはいくらでもある。 昼からバスケ関係の一歳女児の洗礼式に立ち会う。 しかしルーティーンにちかく、食事もわたしの苦手な鶏(ミショテ)なので手持ち無沙汰。 女児の父方の祖母エステラは、テピートで靴の商いをしているのだが、離婚者であり、少なからぬ娘、息子と暮らしている。 今日はエステラの両親もそろっていた。 そこへ女児の祖父、つまりエステラの元旦那があらわれる。 この元旦那を眼にするのははじめてではなく、娘が新生児を失ったときにも姿をみせていた。 そしてエステラの両親の隣に座り、最近の景気(おなじく靴の商い)についていろいろ談笑する。 いきさつがよくわかるわけではないが、自分の娘と別れた男と談笑できる親っていうのも、考えてみるとたくましそうだ。。。 まあ、ニホンだったら愛憎のしがらみでそんな目にあうとさぞ居心地がわるいだろうと思うし、じっさい、わたしだってトラウマからはとうてい抜け出せない。 と思っていると、つぎからつぎへとビールをすすめられて、コロナを六本か七本ぐらい呑んでしまった。 ということで本日は運動なし。 ニホンにいるあいだに3キロぐらい太ってしまうもので、あとでせっせと運動で減量しようとするのだが、3キロ減らすのには3ヶ月ぐらいかかってしまう。 昨日は韓国食材店にてひさしぶりに大根の葉っぱを入手、明日のお弁当のために大根の葉っぱの煮付け(きのこ、たまねぎ、にんじん)をこしらえる。 この香りはたえられない。 (09 of March, 2009)
2012.02.04
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ウチに帰るミクロ(乗り合いマイクロバス)と並行して走っている路線でのこと、おとといの午後三時半ごろだという。 客が二十人ほどいるなか、四人の若者が強盗にはいる。 しかしその四人は、ひとりが19歳ぐらいでほかの者はせいぜいが14か15歳ていど、手にナイフをもち、客をおどす。 ひとりのおばさんは、指輪を渡さないものだから平手打ちをくい、語り手のおばさんは四十ペソと家屋税関係の書類のはいったかばんを奪われる。 何人かの被害者は、みんなして訴えようと声をかけるが、運転手にしろほかの乗客にしろ、乗り気ではない、あとのモンダイでもめたくないのだろう。 何人かの被害者はミクロを降り、パトカーに出くわし、運よく三人の若い強盗に迫ることができた。 パトカーにて警察署への途上、ポリスは強盗の家族の家に立ち寄り、この子どもたちの「自由」について「交渉」しようとする。 しかし被害者たちは受け入れず、警察署での手続きに執着する。 しかし警察署でもたらいまわしにされ、被害の中身について笑われる。 しかも警察署へ向かう道すがら、強盗の家族の車が付いてくる(後の仕返しなどが予想される)。 なんとか警察で手続きをおえて外にでると、強盗たちの家族が待っていて、罵り、罵言をなげつける(おそらく、あんな子どもたちになんで恨みがあるんだ?もうちょっと大人らしいことができないのか。とかだろう)。 たしかにそうだ、この年齢の子どもなら、ほんとうは学校にて自分たちの将来のために努力すべきである。 しかし未成年ゆえに、これだけの被害者の努力はおそらく報われないだろうし、ただ恨みをかっただけになる。 子どもの過ち。。。 これがちょっと事情がかわれば、乗客が強盗たちをひっつかまえて、半殺しのリンチ、ということがわりとある。 お金持ちがぬくぬくしているなか、貧乏人が貧乏人を苦しめ、かつ自分の首をしめていく。 http://www.jornada.unam.mx/2009/03/05/index.php?section=correo Víctima de asalto critica negligencia de gobiernos federal y estatal El 3 de marzo de los corrientes fuimos asaltadas en un microbús que circulaba sobre Av. Cuauhtémoc y que se dirigía a Esperanza Palacio, en Nezahualcóyotl. Cuando eran las 3:30 pm cuatro jóvenes, casi niños, de entre 15 y 16, excepto uno que parecía de 19 años, con cuchillo en mano nos manifestaron que no opusiéramos resistencia. A una señora (omito su nombre para evitar represalias) la abofetearon para quitarle sus anillos y a mí me arrebataron un bolso de mano en el que sólo llevaba 40 pesos y documentos prediales de mi casa. Cuando hicimos un llamado a los pasajeros, alrededor de 20, y al chofer para bajarnos a pedir auxilio se negaron, y el chofer nos dijo que no los hiciéramos porque no quería problemas. Al bajar del micro solicitamos auxilio a una patrulla y logramos alcanzar a los tres menores delincuentes. Cuando la patrulla nos llevaba a la delegación, con los jóvenes detenidos, el policía decidió llevarnos a la casa de los familiares de los delincuentes y negociar la libertad de los detenidos. Con temor, nos negamos y pedimos a los policías ir a la delegación. Nos llevaron al palacio de gobierno de Nezahualcóyotl y ahí nos informaron que no les competía, que teníamos que ir al MP de la 7 (ubicado en Av. 7 y Bordo). En dicha agencia tampoco nos atendieron y nos enviaron a Ecatepec. Fue tortuoso porque uno de los familiares iba tras la patrulla en que íbamos nosotras. Ahí, un tal licenciado (nunca se identificó) me preguntó que cuánto me quitaron, respondí que 40 pesos y documentos importantes; de tal forma que se burló. Casi toda la gente que trabaja en dicha agencia nos dio un trato despótico e inhumano. A las 6:30 pm, cuando salía de la agencia, los familiares de los delincuentes me insultaron. Cuánto dolor me da pensar que estos niños pudieran estar en la escuela esperando un buen futuro, pero la crisis provocada por los ricos elimina toda posibilidad. Pero más rabia me da la negligencia y despotismo de autoridades de un gobierno de izquierda y la estupidez de un gobierno de derecha que se regodea diciendo que vamos ganando paso a la delincuencia, evadiendo que ésta es resultado de un sistema injusto. Margarita Reyes (06 of March, 2009)
2012.02.03
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朝鮮、ポーランド、アイルランドといったくには似通ったところがあると前にも触れたことがある。 残念ながらわたしはアンジェイ・ワイダの善き観客ではなかった、機会にめぐまれてこなかったということもあったが(名画座にはあまりまわってこなかった)。 昨日とおなじくNHKETV特集にてアンジェイ・ワイダの特集をビデオで観ていた(昨日は中間試験の採点日ということで、ふたつのNHKのビデオを観ていたことになる、そのつぎはお待ちかね(?)ヨシモトさんの出番であるはず)。 ポーランドはナチス・ドイツに侵攻されたことはよく知られている。 しかしじつはポーランドはソ連にも侵攻されていたのであった。 それでもポーランド、とりわけレジスタンス勢力はソ連軍を解放軍とみなし、強力関係にあった。 だがソ連軍にはうちわの事情があり、しかもスターリンのもと、エゴイスティックな面もみせ、呼びかけられもしたレジスタンスによるワルシャワ蜂起は結果として敗北におわる。 それが描かれているのが「地下水道」(未見)。 河の向こうにはソ連軍がひかえているというのに、眼の前で見殺しにされるレジスタンスの生き残りたち。 のちにソ連軍はワルシャワに進駐、しかしレジスタンス勢力を弾圧、レジスタンス側はいまだ大戦終了まえなのにソ連軍を敵とみなし、抵抗する。 他の東ヨーロッパ諸国とことなり、ポーランドの場合は大戦中から反ソ空気が濃厚であった。 したがってこのような事情を理解していれば、「灰とダイヤモンド」(これは観た)の見方ががらりとかわるはずである。 ソ連系のコミュニスト政権に抵抗する暗殺者、原作では政権の人間が主人公なのにワイダは暗殺者のほうに視点を置き、それによりポーランドに連綿とつづく自由への戦いを謳う。 そしてその視点の巧みな置き換えにより、政府の検閲をたくみに乗り越え、制作、公開に踏み切れたワイダの知恵にも感心される。 もちろんわたしはずっとずっと昔に見たとき、そんなことには気がつかなかったことを告白しておく。 おなじく「大理石の男」(未見)でも、国家建設にはげむ労働者の姿への政府の恣意性をきびしく追求、これにより制作・公開を許可した文化大臣はポストを失うにいたるシビアさ。 労働者のストに軍が銃を向け、死傷者までだす1970年の事件(メキシコの1968年も思い出す)。 政府とかかわりをもたないはじめての労働者組合「連帯」とワイダの関係。 そしてこの番組のメーンであった、大戦中にポーランド領内にてポーランド将校がソ連軍に大量虐殺された「カティンの森」事件。 ああ、ポーランドがいかに生きのび、自由をもとめてきたか。 表現の自由のとぼしいくににて、ワイダのような監督がいかに自分の表現をもとめてきたか。 自分の無知さを悔いることしかできない。 http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2008/0615.html (05 of March, 2009)
2012.02.02
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第二次大戦によるニホンの敗戦により、朝鮮半島は解放された。 しかしたちまち米ソの冷戦の餌食になるわけである。 例の38度線による分断はなぜ超えられなかったか。 スターリン体制のもと、つまり粛清体制のもとでは、東ヨーロッパ諸国にしろ東アジア、とりわけ朝鮮半島において、コトがうまく運ぶはずがなかった(もちろん米国の覇権主義もおおきくひびいたろうが)。 そのなかで朝鮮半島のひとびとは、解放以後も政治に振り回されることになる。 いくら朝鮮半島のひとたちが心情的に祖国統一を願ったところで、政治状況がゆるさず、それは復興ひとすじのニホンの戦後の発展とは対照的であった。 米ソ冷戦の波は、朝鮮半島の沖の済州島(チェジュ島)にも押し寄せる。 朝鮮民衆の一体化を願うだけで、共産精力の刻印をおされ、しかも朝鮮半島のなかでも国内差別に悩む過去をもつ(ニホンに渡ってきた近代史のなかの朝鮮人は、済州島のひとが多いという、なぜなら半島ではこころよく思われない場合が多いから)。 済州島にてはじめはごく小規模であった、警察・国家権力と民衆(ゲリラ)勢力は、しだいにエスカレートしていく。 民衆側ゲリラは、なんとなくイタリアのパルチザンを彷彿させる。 ここまでは、歴史の叙述にちかいが、はじめ去年の四月に放映され、わたしは年末に録画したNHKETV特集での済州島4・3事件では、在日のひとたちも姿をみせる。 江戸川区でお弁当屋さんを営む在日コリアンの八十ちかいおばあさん、キムチが評判で常連さんには朝鮮人参酒もふるまう。 旦那さんには先立たれ、ひとりでお店を切り盛りするこのおばあさんは、歳に似合わず可愛い顔で、声までおんなの子を感じさせる。 しかしこのおばあさんには、信じられない過去が宿っていたのであった。 蜂起し、山にこもった民衆ゲリラ側と町に残ったひとたちのあいだの伝令の役を、当時十五か十六の小娘のこのおばあさんがつとめたのであった。 あたしの村は戦場だった、この蜂起の前後を通じて済州島ではすくなくとも七万人が殺害されたという。 いや、戦場といえるのかどうか、同胞が同胞を殺害したのだから。 このおばあさんたちも最後に捕まり、チーフのおんなの子は拷問で殺害され、このおばあさんも投獄されるが、しばらくしてようやく密航というかたちでニホンへ逃れることができた。 それこそニホンでは潜伏という形になり、郷里のだれとも音信をとることははばかられた。 蜂起分子であるから、連絡をとれば相手に迷惑がかかることは眼に見えている。 かくしてニホンでの潜伏六十年、済州島でのことはだれにも話してはいなかったらしい。 お弁当つくりという日々のつとめのみ。 しかしながら近年、韓国政府が変化し、済州島事件に陳謝する姿勢をしめし、哀悼の式典にこのおばあさんを招き、六十年ぶりに済州島を訪れる。 もちろん家族・親族と会うのも六十年ぶり。 歴史とはなんであるのか、ここからもひとつ学べそうだ(ひとつでは足りないだろうが)。 http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2008/0427.html (04 of March, 2009)
2012.02.01
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帰りのメトロでは、通路をはさんで向こう側にうつくしいおんなの人が座る。 長めの髪をわずかに頬を覆うまで垂らし、鼻筋がきれいで唇は適度にあつぼったい。 紫系のジャケットに古びたジーンズ、おそらく女子大生だと思われる。 透明なビニールにつつんだ花束を手にしていて、百合はまだ蕾そのもの。 両側を挟まれているので、花束をどこにおさめるか苦慮し、けっきょく膝にはさむ。 飴玉をしゃぶり、いくらか薄汚れたバッグから本を取り出し、表紙によく茂った樹が描かれた本に眼をおとす。 「モモ」とかその類いだと思ったが、Susan Sontagの名がみえる。 タイトルは、Bajo el signo del saturnioであった。 つまり「土星の徴しの下に」である、こちらはのけぞりそうになる。 この版は見たことがない。 UNAMクアウティトラン校あたりの女子大生であろうか。 UNAM本校のある三号線では、こんな類いの本を読んでいる大学生はときどき見かけるが、この五号線ではめずらしい。 たちまち話しかけたくなるのを抑えるのがタイヘンであった。 背に夕陽を浴びているので、暑さにたえられなくなったのだろう。 無理してからだをよじるようにしてジャケットを脱ぎ、腕がむき出しになりこちらの眼は釘付けになる。 おなじく紫系の木綿のシャツ。 いかにもしなやかな姿態で、こちらの眼がうるみかける。 こちらもつられてかばんからJose Agustinの小説でも出して拡げておけばよかったかもしれないが、ビル・エヴァンスだけを聴いていた。 飴玉とSontagの組み合わせも妙ではあるが。。。 しだいに眠気にかなわなくなったのか、うとうとし、お口に飴玉をいれ、唇のへりから柄が飛び出ている。 遠い学校だから朝も早く、疲れきっているのだろうな。 でもやはり飴玉を口にふくんだままの居眠りというのは、生理的な不快感をもたらす。 「お嬢さん、虫歯になりますよ」とか、よけいなお世話をしたくなる。 それに気づいてか、飴玉を膝のうえのかばんに納めるが、あらら、Sontagの本に押しつけるような感じになる。 「それはないでしょ」と口をはさみたくなる。 そのままパンティトラン駅まで眠り込む。 あとを追うように歩いてみると、上背もこちらとおなじくらいあった。 しかし向かうのは別の方向であった。 ああ、Sontagも読まなければ。 (03 of March, 2009)
2012.01.31
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このあいだの日記では、PCの盗難やらの騒動を扱った。 本日、午前10時半ごろオフィスにはいり、さてもう一台のPCのスイッチをいれようと思った。 あっ、ない。 安物のモニターの下の土台部(CPU)が見当たらない。 いつもビールスにやられているようでもあり、点検にでも出されたか。 とにかく問い合わせると、点検ではないという。 ここから今日の騒動がはじまる。 天井裏やらあたりを厳重に調査。 あんなの、お金にすればたいしたものではないのに。 でもなんという大胆さか、これほどまでにこちらが警戒しているというのに。 ポリスもふたりほど来て、写真を撮ったりする。 仲間のひとの証言によると、朝八時にはどうやらあったらしいという。 すると、がっこうがオフの時間ではなく、開いている時間に合鍵を用いて、電光石火のごとく盗み去ったのか。 二ヶ月ぐらいまえにも鍵をかえたのだが、ふたたび鍵をかえることに。 あきれてものがいえない。 でも何かいわなくちゃならない(笑)。 数日まえから言われているのだが、ニホン語科のボスのことについて副所長と話す。 現在、仏語とニホン語はボス不在。 前の大統領が就任したとき、政権党がかわるという騒ぎであったために、あらゆるボスが波及的にポストを追われる。 わたしもとばっちりを受けたひとりであった。 しかしガッツのあるおばさんがいて、あたしは絶対辞めさせられないと数年越しで訴訟をおこし、権原的な論争にもなり、最終的にはこのおばさんが勝つ。 それで上級アドミニストレーションオフィスは怖れをなし、以後、科長について消極的な方策をとるようになる。 副校長のオファーは、「あんたを科長にするが。。。」というものであった。 返り咲きということ。 しかし条件を聞いて、ちょっとショック。 まず本給への上乗せは月額三千ペソのみ。 この円高の時代に三千ペソ。 しかもその分はふつうの給料ではなく、honorario(大蔵省への収入申請を伴うもので会計士をたのんだりしなくてはならない)で、いうまでもなくややこしい。 手取りはいくらになるんだか。 しかもいまは十一時から五時という時間帯であるが、朝七時にはいり、正規拘束の六時間にくわえ、三時間ほど多めに拘束されるらしい。 いまでも朝の七時にはがっこうに着いているのだが、じつは車のなかで寝ている。 はたしてそのリズムについていけるだろうか。 朝の七時から、というのはじっさいするべき仕事はあまりないが、だれかニホン語のオフィスにがんと腰をすえているべきだという意味もあり、科長といったら聞こえがいいが(笑)警備員とたいしてかわらない。 ふむ、腕を組んでしまう。 まあ、最終的には受け入れないわけにはいかないだろうが。 (28 of February, 2009)
2012.01.27
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もともとカトリック一色であったメキシコであるが、もうひとつ突っ込むと、べつの側面が浮き出てくる。 スペインによる強引なカトリック教徒化が実施されてきたものの、ひと皮むくと、うわべはカトリックを装いながらも、その基層は従来の原住民信仰(ヨーロッパ人にいわせると異教そのもの)が根強く残っているということで、たとえばチアパスのチャムーラ部落などではいまでも色濃くみられる。 または宗教的小集団がその独立をまもっていることでもしられていて、もっとも有名なものは、ドイツ系のメノニータスだったりする。 さてこんにちのメキシコはいかようにカトリック性を守っているのか。 たとえばいまの政権与党は、キリスト教中道右派(じっさいはだいぶ右派)を謳っていて、けっこうこりこりの伝統政策を誇示。 しかし従来のカトリック教に民衆が満足できていないことは、ちょっとしたメキシコ通ならみんな知っている。 社会的に、つまり家族構成がかわり、核家族化が進行するなか、カトリック教会は民衆の要求にこたえることが日増しに困難となっている。 そんななか、浸透しているのがプロテスタント系の教会やら布教、新興宗教(ニホンのものもふくめ)で、より細かい対応をほこっている。 そんなカトリック大国メキシコの非カトリック化を危惧し、何度もローマ法皇はメキシコを訪問し、とりわけチアパスは重要な戦略地点と化しているようにみえる。 以上は前置きであり、もう二三十年も前から言われてきていることである。 そしてチアパスの原住民共同体では、従来、共同体の同心性をまもるためにカトリック性が重要な鍵を担っていたものの、共同体内部のトラブル(カシーケ地元ボスの収奪・専横)に端をはっし、プロテスタント系に宗旨替えし、共同体から追放されるものが増加している。 しかしもはやプロテスタント系のみの「活躍」の場ではないらしい。 チアパスでは、ムスルマン(イスラム系)も浸透をはじめているらしい。 1994年にわたってきたスペイン人にうながされて、チャムラの13家族ほどがムスルマン化したという。 わたしが眼にした記事は、このムスルマン・スペイン人がメキシコ人を収奪しているという件で、大工仕事で朝7時から夜12時まで働いて週にたったの600ペソだという。 記事は、このムスルマン化メキシコ人がスペインに旅行しようとしたら、収奪のじじつがスペインの教団本部にばれるから、旅行にプレッシャーがくわわっているとしめくくられている。 しかしこれらのメキシコ原住民は、ムスルマン化におおきな意味を見出しているので、べつの宗教に代わろうという遺志はないらしい。 ともかくチアパスの原住民社会のイスラム化というじじつを前にして感慨を抱く。 宗教的多様性、および宗教的寛容性というコンセプトのまえでメキシコはどんな姿をみせるのか。 もちろん宗教はそれ自体の問題ではありえず、微妙に社会経済的な問題がからまっていることはいうまでもないが。 http://www.jornada.unam.mx/2009/02/23/index.php?section=estados&article=030n1est (25 of February, 2009)
2012.01.26
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四階建ての、うちの仕事場である建物の三階の隅にニホン語科室が位置する。 こちらはあまり鼻が敏感ではないのだが、この数週間というもの、周りのものが、臭い、臭い、ともらす。 まるで排泄物の臭いだという。 もう限度だという声もあがっていた。 ニホン語の部屋には以前からミステリーがひそむ。 もう十年もまえから、たとえばCDラジカセの読み取りボールが抜き取られたり、ものがよくなくなる。 あるときは(五六年前)、ドアがこじあけられて、盗難があり、わたしのかばんなんかも盗まれたことがあった。 おかれているPCにもいたずらがされたりする。 しかし最近は、物盗りも内部的になっているうたがいあり。 とくに月曜の朝にはそれが顕著で、あるときなどゴミ箱にテキーラの空の瓶がおいてあったり、また哺乳瓶が残されていたときは、いぶかしさも度をこえていた。 夜警が怪しそうだ、とわたしは繰り返した。 しかし近年は、夜警は建物のなかに留まってはいないという。 もう限度だという声で室内捜索が実施された。 わたしは眼の届かない床にでも、なにかが腐っているのではないかと予想した。 天井板が一枚動かされているのも目に付いていた。 その結果は。。。天井裏に箱の蓋のようなものに排泄物が放置してあった。 量は多くない。 天井裏にあるものはそれのみではなく、他学科のポスターやら、クリスマスの飾りつけの袋やら。 この二三週間まえには、部屋に二台あるPCのうちの一台が盗まれるという事件があった。 ニホン語科は長いことボス不在で責任体系がアイマイで、なくなっても点検に出されてでもいるのだろうとたかをくくっていた。 しかし盗難であった。 その部品のようなものが天井裏で発見されたらしい。 先週の金曜の午後のことである。 ある程度まで事件の全容がみえてきた。 犯行は合鍵をもっているものの仕業であろうが、盗難におよび、一挙に持ち出したのではなく、しばらく天井裏に隠しておき、日にちをあらため、天井裏から持ち去ったものと思われる。 メキシコの地方にはある迷信のようなものがあり、盗難のさい、排泄物を残しておくと、捕まらないのだという。 その線なのだろうか。 わたしは、トイレが施錠されたかなにかでトイレを利用することができず、やむなくここで用を足したのではないかと推理していたのだが。 盗難がかかわっているだけに、学校側もより徹底した調査を実施する模様。 とにかく、一連の不祥事、ニホン語科のメンバーも疑われていたので、コトがおおきくなって、さっぱりしているところもある。 自分では金田一耕助にでもなった気分で推理に頭をはたらかせている。 うん、探偵物は流行るわけだ。 (24 of February, 2009)
2012.01.25
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近ごろの若いモンはァ。。。なんて口にすると失笑と蔑視のエジキ。 若いモンにゃあ、勝手にやらせておけばいいんだョ。 年末年始にはTVウオッチングを決めこんでいたが、ある番組にて、若者層の海外旅行が減少したということを報告しているひとがいた。 今回の金融危機以前のことであり、円高もくわわり、俗に国内旅行よりも海外旅行のほうが安くつくとさえいわれていた。 リタイア組がわりと海外へ出かけるのに対し、かつてとは異なり、若者はあまり海外へ足を伸ばさなくなった。 解説によると、若者はあまりよくわからないことを避ける、事情の通じていないこと・ところでは愉しめない、ということらしい。 その代わり、国内の温泉が人気の的だというから驚く。 いい歳した若いモンが温泉めぐりに歓びを見出すとは、世も代わったりか。 むかしの若者は、好奇心が旺盛で、無銭旅行やらヒッチハイク、なんでも自分の眼とからだで試してみたがったものである。 いまの若者の共通言語はきわめて限定的ではないだろうか(もちろん、例外もさがせばいくらでも出てくると思われるが)、つまりウチワだけの喜び追求ということである。。 そういうわたしも、じつは学部生のころは、海外旅行を体験しておらず、いまにいたってもそれはまぎれもないコンプレックスとして自身に刻印されている。 わが青春に悔いあり(いや、悔いのなかった時期を経たことがない、と告白しておくほうが無難か?) (18 of February, 2009)
2012.01.24
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本日はバスケ関係の誕生パーティーにて夜がつぶれる。 踊る、踊らないはどちらでもいいのだけど、とにかく音楽のためにろくすっぽマジな話ができないのがつらい、これはメキシコ人のわるい癖。 だから紋切り型のものか、相づちていどのことしか交わせない。 それがこうじると、フィエスタに出るのが苦痛にちかくなる。 昼間は一本、映画を見て、ごぼうと豆腐を買って帰り、四十分走ったのだが、このフィエスタがいけない。 それでも、どういう風の吹き回しか、ゲリラの話が出ていた。 曰く、メキシコでは対ゲリラ政策はラテンアメリカ随一だ、なぜなら逮捕も拷問もなく、ただたんに消してしまうだけだから。 かつてのアルゼンチンやらコロンビア、ペルーといったところよりも、即効・迅速な手が打たれるとか。 もちろん米国が裏でおおきくからんでいることだろうけど。 あとテキーラの話も。 テキーラの生産地には米国から、タンク車が何台も押し寄せて金にものをいわせて、ばっさり持ち去ってしまうとか。 さて、愛の日、れいのソカロでのキッスエベントにはかったるくて出向かなかった。 街でのいちゃつきぶりにむかついて、へそをめげていたということもある。 ああ、なぜ恨みと妬みの日がないんだ? (15 of February, 2009)
2012.01.23
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女性週刊誌ねたのノリである。 いうまでもなく、みみっちく、寄る辺のないわたしなどとはまったくの接線をもちえない。 あの世界第二位の超富豪、カルロス・スリム(68歳)が灼熱の恋におちいっているという。 それをすっぱぬいたのは、スペインの週刊誌Semana、しかしべつにガセねたではなく、じゅうぶんに確証をとってあるらしい。 その相手とは、ヨルダンのフセイン王の未亡人、ヌール王妃(Queen Noor of Jordan)で、それこそ世紀の恋、ハーレクインも真っ蒼。 このカルロス・スリムというひと、その父親がレバノンからメキシコに移民したのは14歳のときのことで、貧しく、スペイン語も喋れなかった。 この電子通信業をはじめ、いまでは手広くビジネスを展開させるレバノン系メキシコ人は、じつは以前の政権にて特権、つまり独占的な権利をえてビジネスを発展させていまのような大富豪になりあがった。 このカルロス・スリム、おなじくレバノン系のソウマヤという奥さんを溺愛し、六人の息子娘をもつ。 しかし33年の結婚生活のすえに、ソウマヤさんは1999年に亡くなり、カルロスは哀しみのどん底に突き落とされる。 奥さんを偲んでソウマヤ私立美術館まで建ててしまった。 いっぽうのヌール王妃も、フセイン・ヨルダン国王の四人目の奥さんであったが、ソウマヤさんの亡くなる一日前に国王を亡くし、未亡人となる。 このフセイン王、16歳のときから64歳まで国王をつとめ、奥さんを同時に複数持ったことはないといわれ、ヌール王妃の哀しみもひとかたならぬものがあったという。 伴侶を喪ってからというもの、このふたりはたがいにあたらしい恋をもとめようとはしなかったが、しかしながら世界中に友人をもつこのふたりが顔をあわせるのは時間の問題であったともいえる。 そして気がつくとふたりは灼熱の恋におちていたという。 しかし、もちろん厚いベールにつつまれ、ほんの内輪の友人だけの助けにたよりながら世界各地を渡り歩くようになったのが、去年の春かららしい。 このヌール王妃も、じつは父親にレバノンの血がはいっている。 68歳のスリムにたいし、ヌール王妃は57歳、しかしなんとも若くみえるのは、肉体的トレーニングに励んでいるからだともいわれる。 老いらくの恋などといっては叱られてしまいそうだ。 どこかで感情移入してしまいかねない、しかし、しょせん、わたし(たち)とは別世界の出来事、どこかよその惑星の出来事にひとしいかもしれない。 先日はドミニカ共和国の超高級リゾート地Las Villas de Cap Canaにて滞在していたらしいが、いうまでもなくドミニカ共和国はラテンアメリカでの最貧国のひとつである。 なにか無理やり教訓めいたものを鷲づかみにするならば、恋なんてもう縁がないと思っていてもどこでふと恋におちてしまうかわからない、ということだと思うが、それなら下手な演歌の文句と似たり寄ったりで、ふたたび、みみっちく、寄る辺のない自分の生活に立ち戻り、啄木の心境を味わうことになるらしい。 http://www.jornada.unam.mx/2009/02/12/index.php?section=sociedad&article=037n1soc# (14 of February, 2009)
2012.01.22
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この数十年ぶりといわれる「世界(金融)恐慌」は、先進国を、とりわけニホンを容赦なく襲っている。 ニホンではとりわけ「派遣」が問題とされていたわけだが、恐慌度がさらに続行すれば「派遣」だけの問題におわらないことはいうまでもない。 どこのくにでも叫ばれているのは、内需、内需の掛け声。 さてメキシコでの「世界恐慌」はいかがなものか。 メキシコには資源があるし、先進国ほど金融がポチャることもないから、先進国ほどの深刻な影響はないと政府筋からは説かれてきた。 しかしやはり自動車業界を筆頭に影響は波及しており、失業は増加の一途をたどっているようである。 世界第二の富豪であるメキシコ人のカルロス・スリムは国会にての会合で、メキシコでの世界恐慌の影響の波及的深刻化に警鐘をならした。 恐慌だ、恐慌だ、と脅し続けるのも、心理的悪影響を倍増させるだろうから考えものだが、あまりにも恐慌をみくびるだけならいざしらず、メキシコの場合は、私財を肥やすことだけしか頭になく、グローバルな視野が決定的にかけているらしい。 はっきりいって対策不足である。 じっさい、ドルに対してペソは安くなる一方、この数ヶ月でのインフレの進行は眼を覆うような様相をしめしている。 燃料、エネルギー系の値上がりも著しく、ニホン同様に漁師組合もディーゼル高騰のあおりをうけ、ストにはいったまま。 失業が険悪な経過をたどり、食料品をはじめ物価の上昇が依然、つづくならばより暮らしにくくなる日々がのしかかってくるにちがいない。 カルロス・スリムは、今後、悪化が進行するにちがいない、社会のすべての層において苦しさは増す、と述べた。 それにたいして政府筋は、そんな悲観論だけ世間にばらまいても何の特にもならないと、はげしくスリムに反撥。 もしこの恐慌のメキシコへの影響をすこしでも弱めようと願うなら、抜本的な改革が必要とされることをスリムは意図したものだと思われる。 ニホンと似たり寄ったりで、政府筋の対応というのは、どこか間が抜けている。 でも、ことは笑い事ではおさまらないのである。 (13 of February, 2009)
2012.01.21
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「急ぐんだよ、走れ、そら走るんだ、そこ、かがむんだよ、ミグラに捕まんなよ!」 八台のライトバンに分乗した八十余名の連中が月夜の晩、メキシコから米国へ密入国をこころみる。 車を降りてから手引き人の言うままに荒野をすすむ。 「急ぐんだ、おい、なにやってんだよ、かがむんだってば。ぼやぼやしてんじゃないよ。てめえのために全部だいなしにはしたくないんだぜ。ミグラにでも捕まったら、ひでえ目にあわせてやるからな!」 どやされるまま、連中は必死に這いずり回り、転ぶ。 遠くにボーダーパトロールのサイレンが響く。 そして連中をあちこち探し回る。 送ってきたライトバンはすでに去り、国境の向こうで待つ車まで路なき路を手探りですすむ。 野生の動物につまづいたり、喉の渇きに苦しむ。 ズボンが破けたり、埃まみれになるのは覚悟のうち。 河をわたるか、険しそうな丘をこえるか、判断力もとわれる。 ボーダーパトロールの声が響く。 ”Hey you, mtherf00kers, get out of this country!" 米国をもとめる荒野の路はかくして六時間あまりもつづく。 この難行苦行は、さらに至難さをます。 さて、この舞台はじつは、メキシコシティの北隣のイダルゴ州に位置する。 これ、総合体験ツアーパックの一環をなす。 地元の観光発展のために、おなじように険しい地勢を背景にして、米国への密入国を体験するのであるが、体験とはいってもヤワな観光とはおおちがい。 このイダルゴ州は首都に近いながらも原住民が多く、肥えた土地に乏しいために義務教育を終了すると米国に密入国に旅立つものがすくなくない。 極端な例になると、地元の原住民語で育ち、のちには米国での英語を覚えればいいので、ろくにスペイン語を覚えないものもいるのだそうな。 そんな原住民系の地元のひとたちが、こんな体験ツアーを主宰しているということ。 これも一種の雇用対策ともいえる。 原文スペイン語記事のレポートは詳細かつ迫真にせまっている。 http://www.jornada.unam.mx/2009/02/10/index.php?section=estados&article=028n1est おなじようなことが、メキシコの他の山林でも発生している。 実戦に類似した兵器を利用しての、模擬戦。 これはまずメキシコシティの郊外、アフスコの山林で実施されていたが、批判もわきおこり、のちにわたしはモレロス州はクエルナバカの近く、ヤウテペックあたりでこの種の模擬戦の広告を目にした。 なかには、かつてのヴィエトコン狩りとかを名目としたミリタリーツアーパックもあるんだとか。 今後のメキシコの生きるべき道、それを観光にしぼってみても、課題はおおきくうめき声がもれそうだ。 テオティワカンのピラミッドをまもるために、過度のライトアップショーの類いは遺跡自体の保存に支障をもたらすものの、地元の観光産業との兼ね合いもあるらしく、背景はフクザツだ。 マリポサモナルカと環境保護、保全の問題もある。 (11 of February, 2009)
2012.01.20
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本日はめずらしくも、あわただしく過ごしたので、ゆっくり綴っているヒマがないのダ。 ということでガセねたっぽく。 週末にメトロの広告で見たことには、例の2月14日のバレバレタインかデーには、シティのソカロ(中央広場)にてギネスレコード狙いのエベントが催されるのだとか。 その内容とは、同時に何組のカップルがキッスを交わすかというもの。 何千人、いや、一万人をこえるんじゃないだろうか。 それで参加者を募集中。 かくいうわたくしめもそんな記念エベントに加わってみたいものだが、まさかリカちゃん人形を抱えていっても勘定にいれてくれそうもない。 ああ、相手がいるひとのみ限定なのだろうか。。。 こんなときにはわが身を呪う。 (まあ、こういうもんは、ただ見てるだけではちっともおもしろくもないもんネ) (10 of February, 2009)
2012.01.19
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ホルへ・レジェスは1952年に生まれ、大学時代に縦笛を学び、卒業後ドイツに渡りクラシック音楽、電子音楽、ジャズを身につける。 そののち、インドに足をのばし、ヒンズーやらチベットの伝統音楽への造詣をふかめる。 メキシコに帰国後、ロック音楽とメソアメリカ的亀の甲羅やらほら貝などを融合したものをグループとして演奏する。 八十年代のはじめから、チャック・モールという伝説的プログレシッブロックグループを打ちたて、神秘的、しかしメソアメリカ的要素をのこした演奏を繰り広げた。 それまでのメキシコには、米国のロックンロールをスペイン語訳しただけのものが流行っていて、それにたいしてメキシコロックという意識をはじめて表にだし、以後のメキシコロック音楽のさきがけ的存在となる。 しかしチャックモールは五年で解散し、ホルへ・レジェスはより先スペイン的、神秘的傾向をつよめていく。 そのメキシコ先スペイン的音楽を代表するものとして世界中で演奏を披露する。 おなじように民俗的な音楽を中心にするグループに「トリブー」というのがあり、人類学博物館の庭などでも演奏していることがあるが、ニホンにも巡演したことあり。 うちのがっこうのハイメ・トーレス・ボデー文化センターのホールにも公演にきたことがあり、じっくり耳をかたむけた。 シンセサイザーやら電子音楽をも使いこなす一方で、独自の音、つまり音はまず自分のからだから発生するべきだとでもいうかかわりから、自分の胸、腹、腕等を叩きながら音作りをはじめる。 先スペイン文化が用いていた、自然のなかにあるもの、動物のからだの一部やら砂やらを通しての音作りもあり、楽器以前の音の生まれ方というものを感じることができる。 例年、「死者の日」にはメキシコ大学キャンパス内の溶岩公園(espacio escultorico)にて伝統的な音による公演を催していた(ザンエンながら参加したことなし)。 そのホルへ・レジェスが心臓発作により死亡したとの知らせあり。 合掌。 http://www.jornada.unam.mx/2009/02/08/index.php?section=espectaculos&article=a07n1esp http://www.jornada.unam.mx/2009/02/08/index.php?section=espectaculos&article=a07n2esp (09 of February, 2009)
2012.01.17
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俗に鬼のかくらん、とかよぶ。 夕方から腹痛で苦しむ。 十分しか走っていられなくて休む。 しばらく休み、おなかも空っぽにしたら起きられるようになってけど。 (かくらん、と記すところを、てんかん、と入れてしまいそうになってあせった) シティのチマリスタック区というお金持ちの住んでいるお屋敷で銃撃戦あり。 家主は退役した将校さん(63歳)で、夜、プロスティテュータをウチに呼んだらしい。 このおんな、35歳であるが、将校さんとは顔なじみ、つまりお得意さんということらしい。 しかし今回は、四人の男が、意図して開けられていた門から浸入し、それがばれ、将校と銃撃戦になったという展開。 いくら屋内の事情は将校のほうが知りつくしているといっても、三人対一人、しかも将校は9口径、男たちは22口径。 現場にて男がひとり死亡、負傷しながら逃げたほかの男もよその区で死亡しているのが確認され、当のプロスティテュータと愛人関係にあったとされる男が逮捕される。 一人は逃亡。 将校は手と腕に二箇所負傷。 まるでアクション映画そのもの、このあいだはカンクンの警察総担当になった将軍らが麻薬シンジケートに惨殺されるという事件があったばかりだが、軍人の周囲もかくして穏やかならず。 ほんのちょっとなにかが変っていたら、まったくべつの結果を招いていたにちがいない。 フェリーぺ・カサレス監督あたりに映画にしてもらいたいくらい。 ほんと、快楽をもとめるためにも細心の注意が必要、いまにはじまったことではないが。 まあ、こんなのをnota roja(スキャンダル記事・三面記事)というようですが。 http://www.jornada.unam.mx/2009/02/06/index.php?section=capital&article=033n1cap http://www.eluniversal.com.mx/ciudad/93990.html (07 of February, 2009)
2012.01.15
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複数の本を同時に読んでいるといろいろなことが沸き起こる。 たとえばシンクロニシティもどきのもの。 このあいだ読んだクレジオでは、例外的にアフリカに愛着を抱いたフランス人のことが出てきたが、いま読んでいるセリーヌの「夜の果ての旅」でも前半で、アフリカの植民地のビジネスにたずさわる主人公の苦痛の日々が描かれ、フランス人のアフリカ体験についていっきょに感心をふくらまされたところである。 つい数日まえに幸田文の「みそっかす」を読んで、幸田ファミリーの教養ぶりに驚かされた。 そのときになってはじめて文の叔母さんには有名な音楽家の延子叔母がいたことを知った。 そのころの延子叔母は「弟子たちの稽古と音楽会と交際とにひまがなかった」と記されていて、隅田川の氾濫にあった文たちは延子叔母と祖母のところに預けられたと語られている。 この露伴の妹である延子叔母さん、それだけで見過ごされていいようなひとではない。 たまたま中村紘子の「ピアニストという蛮族がいる」を流し読みしていた。 するとこの幸田延のことに章がさかれている。 幸田延は、明治ニホンでの「音楽界からの官費留学生第一号」でまだ獣十九歳であった。 西洋のクラシック音楽がまだ何たるかをしらないニホンにあって、のちの芸大にて教鞭をとり、音楽界の人材を育てていく女だてらの延子に世間の風当たりはつよかったらしく、やがて音楽界の表舞台からは引き下がらざるをえなくなる。 いまでは滝廉太郎とか山田耕作とかが名高いが、かれらに音楽教育を授けたのも延子であった。 中村紘子は時代背景にも留意しながら、思いやりのあるまなざしで延子の成功と失意を描いている。 その延子もいまではその世界では著名になり、延子について卒論を書いているひともいることを知る。 当の露伴からして、はじめの奥さんは教養に恵まれた夫人ではなく、市井のひとにちかく、二人目の奥さんは、教養をまがりなりにもつちかっているためにか、露伴との不和がよく伝えられたものである。 男は身勝手である。 文の縁談についても露伴はつぎのように意見している。 「芸術の世界に身を置く人はなるべく避けたい。心凝れば妻子は無きに同じく、心遊べば己を養うに忙しい」 たとえば藤村の場合などにもいえるだろう。 (06 of February, 2009)
2012.01.14
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米国式アカデミズムの勉強では、それこそ山のような本を読ませる。 あたえられた時間ではとても読めないような量の著作が課題になるわけだから、要領さえつかめれば、それぞれの本のどこに大事な、そこだけ読めばいいようなことが書いてあるか、それだけに上達してしまうことにもなりかねない。 そんな米国式究極の詰め込み研究がどこまで有効か、ときに疑問をかんじる。 メキシコにスカラーシップで勉強にきたひと、いちおう、先輩ということにしておくが、メキシコ革命文学をテーマにしていたと思うが、例によって翌週までに、これまた山のような課題の著作を課される。 ニホンだったらメキシコ革命小説といったら、ペドロ・パラモとかマリアノ・アンスエラ、あるいはアグスティン・ジャニスあたりを思い浮かべるのがせいぜいだろうが、本場ではそのジャンルの厚さに仰天させられるものだ。 そのひと、ただただ圧倒されて仰向けになり天井を眺めながら「参ったなァ」とか呟いていたらしい。 でもほかにすることもなかったので、ある本の一部だけでも読んでクラスに出ていったらしい。 ・・・・・ わたしもニホンにいるあいだ、ある地方都市の大きい図書館の開架を眺めていて、あっけにとられて、なにを読んでいいやらわからず、ことばを喪う。 終日、ホテルに引き籠って来る日も来る日も頁をめくるだけの暮らしを夢想する。 それでも、なにかのついでに、という心持で本を取り出してみることにする。 そういえば中島敦の「文字禍」をいまだに読んでいないことを思い出し、全集版をさがすが見当たらず、ちくまの文庫判の「ちくま日本文学」の中島敦の巻を取り出すと、きちんと載っている。 このシリーズ、ただのアンソロジーの一種と思って見くびってきたが、注意深く選択作品群にあたると、かなり考え抜かれた構成になっているし、値段もちょっと高めの文庫判という程度で、持っていても損はないなあ、と合点する。 でも都市の図書館では、学生さんではないのに一日中、図書館にこもっているようなひとも見かける。 ということで、図書館を出て、まだおなかがすいているわけではなかったが、コンビニにて125円の焼きそばサンドをほおばる、こんなものを食べるのはほとんど半世紀ぶりぐらいの印象。 (05 of February, 2009)
2012.01.08
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本日月曜日は革命記念日の振り替え休日とかでお休み。 買出しとかに精をだし、午後走り、夕方、ちょっとうとうとする。 昨日をのぞき、一週間まえから毎日半時間以上走っている。 さて、これからちょっとふんばろうかと思っている矢先に、停電! しばらく待ったが休日でもあるから、あまり復旧の見込みはなさそう。 だもので、音楽を聴きながらワインを呑み始め、二杯目を呑みほそうとしているころ、午後11時ごろ、気の抜けたように電気がもどる。 でも、もうできちゃってるんだもんね! ということで、今晩はもうお休みタイム。 明日はイイ日でありますように!! (03 of February, 2009)
2011.12.14
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日中、ディビシオン・デル・ノルテにあるというラミロ・ヒメネス劇場とかでモリエールの「おんなの学校」を見ることになっていた。 ヘネラル・アナヤ駅にて下車、武力干渉博物館(Museo de Intervencion)の前を抜け、劇場のまえに達すると人だかり、青少年向きの公演でもあるために、いたしかたない、切符は売り切れ。 ・・・・・・・・・・ ヒコテンカル通りをまっすぐにすすむと、トロツキー博物館の表示あり。 モグリ、といわれてしまうにちがいないが、メキシコにン十年住んでいながら、じつはトロツキー博物館に入ったことがない。 チュルブスコ通りを車で走りながら、ああ、あそこだな、と何回も眺めたし。 しかしわたしがメキシコに住みはじめてしばらくのあいだは、一般公開はされていなかった(はず)。 もともとこのトロツキーの家、ニホンで紹介されたのはあまり古いことではない。 たかだか三十年ぐらいまえに、高畠通敏先生が朝日の文化欄に訪問記を載せたことがあった。 とにかく、わたしにとってはここを訪れていないことは、ながいあいだコンプレックスを形作ってきていた。 しかし、きっかけはとるにたらない。 人気のない道へと折れ、何ブロックかすすむと、よく見なれた防塞屋敷が眼に入る。 まずは入り口がわかりにくかったが、チュルブスコ通りだと見出す。 訪れているひとはまばら、しかも大半は外国人。 すくなかぬ写真の展示のあと、中庭に出て、トロツキーの生活スペースに足を踏み入れる。 トロツキーは二回、テロをこうむっていて、はじめのものは、シケイロス一派によるもので、口径の大きいものもふくめ、相当派手な銃撃戦であったらしい。 トロツキーの身辺には護衛がついているが、その護衛たちもなんの反撃のいとまもなかったというほど、すさまじいもの。 執筆室の壁には、いまでもその銃弾跡がいくつもいくつも残されていて、その烈しさを実感できる。 キッチンや食堂も簡素ながら、整った美でまとめられている。 コーヒーではなく、紅茶を飲んでいたらしい(トワイニング)。 しかし何といっても薄暗い。 光と色にみちた、開かれたフリーダの美術館とはなんと対照的なのだろう。 それは防御の理由で窓が塗りこめられていることによる。 壁も厚く、陰気でもあり、さぞ冬は寒かったことだろうと思われるが、そんななかでも執筆などをつづけ、原初的なテープレコーダーのようなものも並んでいる。 もともとはメキシコに亡命後は、フリーダ・カロの「青い家」にお世話になっていたものだが、ディエゴ・リベラやらフリーダ自身のコミュニズム・イデオロギーの変化(スターリンへの傾倒)によって、「青い家」を出て、その近くであるここに住まいをかまえたわけである。 フリーダについての二度目の映画(サルマ・ハエック版)では、フリーダとトロツキーのロマンスが取り沙汰され、トロツキーの奥さんがジェラシーを燃やす場面が描かれている。 じっさいにあったか、なかったか、恋多きおんなのフリーダであったからあながち否定できないだろうが、フリーダ側がどれだけロマンス的ニュアンスをこめていたかは疑問である。 わたしは、奥さん役の女優をお芝居で何度か見ていて気にいっていたので、お歳はめしたようだが、そんな役をやってほしくはなかった、個人的な思いいれだが。 トロツキー宅の中庭、および部屋を周ることで、当時の(こんにちでもの)コミュニズムの意味について考えさせられる。 月並みだがスターリンではなく、トロツキーが台頭していたら、とか、レーニンがより将来の方向性を定めていたら、とか。 メキシコの現状とコミンテルンの関係をどう考えていたかとか。 とにかくメキシコ近代史(あるいは美術史といってもいいかもしれない)とのかかわりをもっと突き詰めてみないと。 わたしにとってのトロツキーの勉強は、まだ始まったばかりだといえる。 (02 of February, 2009)
2011.12.13
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土曜、レフォルマ大通りに沿って歩く。 先週の土曜はD.オーディオプレーヤーでバッハやブラームスを聴きながら歩いていたわけだけど、街の雑踏のなかではやはりクラシック音楽は聴きにくいものだと思い、J.レノンに耳を傾けていた。 景色がすべて透明で意味のとぼしい背景にすぎないかのように思えてくる。 街のざわめきに身をさらしながら歩くときは、まっさらということはありえず、つねに何かしら考えている。 いや、まっさらのときもあるのだが、そんなときはわたしを通じてこの街が物思いにふけっているという印象をもつ。 ソナロサのペンドゥロ(振り子)書店にてはじめて本を買う。 英語書籍の棚で一週間まえに手にとり、この一週間、買うべきかガマンするべきか、読みこなせるか途中で投げ出してしまうか、せっせと考えた。 ドリス・レッシングによるThe Golden Notebookがそれ。 このノーベル文学賞を受賞した女性作家のこの作品は、六百五十頁にちかい代表作であり、ニホンでもかつて小さい出版社から訳書が出たものの、ながいあいだ、品切れ状態。 それでも最近になってようやく再版されたらしいが、もちろん相当たかい。 Harperのモダンクラシック叢書の一巻として出ているこの本は、17ドル、260ペソで、分厚さと著名さから比べるとそう高くはない。 じつはお目当てだったのは、邦訳も出ている「バートルビーと仲間たち」(エンリーケ・ビラ=マタス)だったのだが、スペイン直輸入ということで薄っぺらいのに、このレッシングの作品とおなじくらいの値である。 ときたま英語のテキストを読むこともあるが、それほど達者なわけではない。 Alice in wonderlandさえ挫折しているくらいである。 しかしどうしてもフェティシズムのようなものをレッシングの著作に感じて購入、レフォルマ大通りの時代がかった石造りのベンチに腰かけ、頁をめくっていった(けっきょくこの週末17頁を読みすすむ)。 音楽に清められ、背を石のかたまりにゆだね、しばしレッシングのテキストを眼で追っていると、突然、すべてはいま与えられており、これ以上の歓びはありえないという思いにとらえられてしまう。 いまさらなにを望もうか。 この歓びに身を打ち震えさせなくてはいけない。 それが一日たてば、寂しさに胸をかきむしるようにしてむせび泣いているかもしれないというのに。 そんな気持ちのまま、ふたたび歩きはじめる。 そんな自分のいたらなさ、ふつつかさ、おぼろげなさと心中でもしたまま歳月だけはいたずらに経てきたのだとつぶやいてみる。 (19 of January, 2009)
2011.12.12
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からだをゆっくり馴らせている。 おとといは20分走り、昨日は30分走った。 今日は、街をさんざん歩いたすえに、20分はしり、運動公園にてバスケの二対二。 これがいけなかった、相手をみくびったがよく動く相手で、こちらの足がついていけない。 もうやめてくれえ~と思っても延々と暗くなるまでつづき、終わったときは足腰ががたがた。 この三日の特訓がきいてか、からだの節々が痛むし、からだがだるい。 三週間トレーニングを休むとこんなザマになるのだ。 ずっと横になっていたかったのだが。 バスケの18歳の女の子の誕生日パーティーに出なくてはならなかった。 でも、ごくあっさりとしたものだろうとたかをくくったら、大違い。 まず道に大きめの仮設テントがもうけてあって、お客がすでにけっこういる。 なによりも驚いたのは、ふつうは15歳のパーティ(キンセアニョス)でするはずの、チャンベラネス(従兄弟たちからなる従者踊り子)がキンセアニョスのように踊りまくる。 チャンベラネスの踊りは見飽きているはずなのに、女の子といっしょにダイナミックな激しい動きをみせ、エキサイトする。 ということでキンセアニョスとおなじレベルのバーティーであり、さきほど午前一時半にうちに戻ってきた。 ああ、疲れた。。。 昨日のニホンのTVのつづき。 オガタ・ケンが亡くなったことに触れて、民放にてある有名アナウンサーが、映画「オキナワの少年」での存在感を口にしていた。 これ、超マイナーな映画だし、もうずっとずっと昔の映画なのに。 ちなみに昔、Kさんと話していたときにこの原作が芥川賞をうけた作家のことにおよび、芥川賞を受けたのにいまの仕事は工事現場の旗振りでしかないと聞いて、ショックをうけたことをおぼえている。 (11 of January, 2009)
2011.12.11
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夕べはネットを開けてまもなくして停電に。 しばらく待てども戻りそうもないので、仕方なくワインを呑みながら床につく。 こんなとき、闇夜のわびしい独り寝は身にこたえ、わが身を呪いさえする。 しかし今回は新兵器のお世話になる(膨らまし人形ではないので、あしからず)。 メカにはめっぽう弱いわたくしであるが、今回はじめてデジタルオーディオプレーヤーとかいうものに手を出してみた。 不況のいま、鳴り物入りのハイテク電子機器もわたしの手のとどくところにある。 やや安めということで、日立の製品を購入。 しかしとりあえずいくらか音楽を入れてもらいはしたものの、いったいデビューはいつのことかと案じていたところ、この闇夜、絶好の伴侶になるべき代物。 かくしてワインをすすりながらバッハやらブラームスに耳をすます。 ああ、いまだ人生にあらたな歓びを見出すことができるとは。。。 (すてきなひとに耳元で囁いてもらうのもいいけど、あまり妄想にひたるのも考えものか?) ・・・・・・・・・・ さてニホンではTVのBSにて一読永劫などという番組があった。 民法系でこれだけまともに作家を採りあげるのはわりと稀有なことだと思う(ただし二日目があるのを知らなかった)。 佐伯というひと、時代劇など濫作する。 このひと、若き日はスペインにて闘牛のフォトグラファーの修行をしたものの眼が出ず、不遇時代を味わい、売れ出したのは五十代の後半から。 なぜこんなにも濫作するのか、それは不遇時代の仕事のなさが強迫観念のようになっているからという。 そんなものだろうか、自分の身にもつまされるが。 たしかにあの超売れっ子の五木寛之でさえ、仕事がこない不安をうったえていたときもあったし。 物書きなんて株屋と似たり寄ったり。 石田衣良は新宿超高層と軍艦島について話す。 天をあおぐ超高層と廃墟と化した軍艦島、この両極端の親和性について話す。 物書きというのは両極端のイマジネーションに淫するとか石田が述べ、例としてきわだって美しい婦女子を目にすると、その老齢の身を思い浮かべ、また見る影もない老嬢からはその若かりし美貌のときをあたまに描くといい、それはわたしのやり方と共通したものだったので、少々驚く。 美しさにめぐまれているが、わたしなんかには振り向いてもくれないような令嬢にこころをときめかせるとき、そんな数十年後を思い描くようにしている。 もうひとり、あさのあつこは、わたしもおなじく中学生の野球モノを綴ったことがあるので、無意識に意識している。 日常性に埋没しかけながら、それでもはいあがるようにして綴りだしたとぽつりと洩らし、通い合うものをふっと感じる。 TVというものは、内容がいくらすぐれていても厭きる、数分見ていると厭きるのであまり見る気がおきないし、あとから考えてもただの時間のムダではないかと思うが、それでもあとから考え、それをどう反芻するかに意味がある場合がありそうだ、曖昧な物言いにわたしのほうで終始しているようにもみえるが。 それから中国人作家の楊逸とNHKのアナウンサーとのルポルタージュも印象にのこる。 いかに苦労し、精進したかのところは判然としなかったが、人柄のようなものは伝わってきた、人柄なんてフィクションの場合が多いが。 姜尚中と大田との話しも興味をひく。 ただし横から母親が「大田は理屈っぽいからイヤだ」とか一言いいたがるので、閉口。 おなじく母親はコータイシがだらしない、嫁さんに気をつかってばかりで、とか二日にいっぺんぐらいはぶつぶつ言うので、こちら身にこたえる。こちらの忍耐にも限度あり。 「コータイシなんてフツーのサラリーマンにして、自分のやりたいよ~にやらせときゃいいじゃん」 「テンノーがいなかったら、韓国や中国のような国になっちゃうでしょ」 あいた口がふさがらないけど。。。 (10 of January, 2009)
2011.12.10
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夕べはコップ(ワイングラスじゃない)に三杯ワインを呑み、午前一時から五時半にトイレに起きるまでせっせと眠り続けた(白馬にまたがったお姫さまは現れなかったけど)。 時差にもかかわらずこれだけ眠れたというのは、まれなこと。 もう飛行機の時間を有効につかおうなんていうスケベ心は起こさず、必死にからだを休めることだけに気をつかい、うとうとしつづける。 九時間のあいだ、映画はウォリー・Eを流しっぱなしにして、しばらく眺めてはふたたびうとうとするという半植物ニンゲン状態。 すこしでも飛行賃を浮かそうというので、せっせと「商品」を運ぶ。 ただし円高で、こちらのビジネスもちょっと苦しい。 おなじものをたくさん持ってきているから税関でひっかかる。 「某公立大学でセンセーをやってる」というと、お目こぼしにあずかるらしい。 そんな薄給でごくろうさま、ということらしい。 そんな雰囲気にあまえて、今回はナマの食品まで持ち込もうとスケベ心をおこす(やっぱりスケベなんじゃん?)。 納豆やら生めんやら。 けっきょく納豆はやめ(豆製品、米製品の持ち込みはやはりきびしいにちがいない)焼きそばナマめん四玉(せこい!)、こんにゃくを三パック。酒粕もパス。もちろん乾麺やらお味噌とかはいつも持ち込んでるけど。 豆腐とこんにゃくの煮物がたのしみ。 そういえば今回の訪日のハイライトは、以前日記にも記したことであるが、浸水でひどく汚れた一万円札の交換であった。 まずふらりと都市銀行に寄るとうさんくさくおもわれる。 でも、ネットでも情報は仕入れておいたが、あらためて情報を得る。 二度目の都市銀行訪問。 店頭での換金はリスクがそれなりにあるので、銀行側は取引のある客、つまり銀行口座をもっているひとでないと相手にしない傾向があるらしい。 まずは口座つくり。 恥ずかしい話しであるが、ニホンを離れて以来、わたしはニホンで口座を持っていないのである。 しかしここでも難癖がつく。 振込み詐欺の流行る昨今、あたらしい口座の開設には慎重であり、わたしの場合は池袋まで出てきて申請したものだから、なぜ地元の銀行を利用しないのかと責められる。 それに相手が怪しそうなヒトだし(爆)。 しかし必要な資料はきちんと手にしているし、銀行側では拒否する権限はない。 ようやくのこと口座開設、汚れたお札は日銀鑑定ということで送られ、後日、全額口座に振り込まれたという連絡あり。 しかしキャッシュカードが送られてくるのはまた後、ニホンの実家では母が郵便物をろくすっぽ見もしないでゴミに出してしまうことがままあるので、さらにシンパイはつづくが。 まあ、今日もお疲れモード全開です。 日記のレス、遅れてます、すいません、ゆっくりレスをかえしていきますので、お見捨てになりませんように(笑)。 (07 of January, 2009)
2011.12.09
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いなかの、畑のなかの十字路、軽のハンドルを握り、くわえタバコの婆さんを見かける。粋だ。しびれそうだ。 こんな婆さんの垂れたおっぱいに頬ズリしたいなんて感想をもらす。 するとたちまち先方からも、「あんたみたいなフザケタ野郎の役立たずチンポコが風にぶらりぶらりしてるのを見ながら一杯やりたいよ」なんて声がかかりそうで、思いっきりびびる。 さあ、年の終わりにこんなネタでいいのだろうか。これから思いっきり落ち込んでやろうじゃないか。。。(と、掛け声だけは勇ましい) ああ、歩いていけるところにゆっくり本が読めるカフェでもあればどんなにいいことか。 昨日は片道歩いて20分のスーパーに買出しと称して四往復した。さすがに足が痛くなったよ、帰りはけっこうな重さの荷物を抱えてきていたし。 いっそのこと、亀の子たわしで、鶴印の飛行機でもせっせと磨き上げたい(意味不明、でもちょっとおめでたそう。。。) (31 of December, 2008)今年、小学にはいる甥っ子は色白で性格もよく、巧みに絵を描く。 幼稚園でもモテモテで、三人の女の子からコクハクされ、答えを待たれているんだそうだ。 ひとりの女の子など家でもこの甥っ子との結婚式の絵ばかり描いてるとかいう話。 それを聞いたうちの母、つまりおばあちゃんが「男の子は男の子と、女の子は女の子と遊ぶんだよ」と前時代的に諭すと、べそをかいたそうな。 子ども時代を生きるのはラクではない。 さて本日、メキシコに到着。 ニホン滞在中、ネットを二度しか見なかった。 われながらエラいと思う(さびしい思いをしたひと、もしかしている?) リムジンバスにて地元からナリタへ。 乗り込んだとき、ふたりのわりと見栄えのいいおんなのひとがアジアのことばで話し合っている。 さぼさしはもちろん微笑みかける。 ナリタの第二ターミナルにて降りるとき、そのふたりのおんなのひとが、こちらをじっと熱く見つめながら話しかけてくる。 「モンゴルに行くには第一?第二ターミナル?」 清楚で器量のいいおんなのひとであるが、水商売をするほど若くはないようで、その英語も端正、きっと祖国ではエリートの部類ではないだろうか。 この時季に帰るとは、不況で切られたのか、今日まで便がなかったのか。 「わたしにはわからないから、だれかに訊かないと」と答えた。 はたしてうまく着けたものかどうか。。。 (06 of January, 2009)
2011.12.08
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夏に参加した市の保健所による検診、もう秋には家に結果が着いていたが、母親は小度胸だからみられず、妹によると網膜がなんだかんだ、その種のスキャンダルにはいっさいかかわらないことにしているが、ことが眼におよんではそうのんびりとしているわけにもいかず、へたすればオマンマの食い上げにも、ここで重い尻をあげる。 裏を走るバスは、それこそ日に五回ていど、時間表など覚えられる道理なく、起き抜けに確かめに見にいき、納得顔に家にもどり、出直す。 ふたたび停留所に参じると、これはまいった、上りと下りの時間表をまちがえてしまいーー国によって昇降口の向きがちがうのだからーーまだ一時間もあり。 呆けた顔で待つのも癪だと思い、空っ風のなかせっせと歩き出すこと一時間、ようやく客のまばらなバスに乗り込む。 はじめて訪れる日赤、その眼科、着いたのはすでに午前10時、それでもなんとか受け付けてもらえ、お年寄りの多い中、二時間ちかく待つ。 さいわいにも緑内障とか白内障とかの餌食にはなっていないらしく、瞳孔を開かされたために、より多くの検査を実施させたかったような眼科医ーそのへんのおにいちゃんと呼んでもいいような若さーには、また夏にあいましょう、とこそこそと逃げ出す。 じつは前科あり、幼いころから眼にはあやしげなところがあり、小学のころにはあちこちの目医者をめぐったはてにたどりついたところは東大眼科、けれども視力弱化の原因わからず、網膜に曇りがあるのだとかうんぬん、しかして今回のおにいちゃんは、その曇りはたいしたものではないとか、かくかくしかじか、おからだのことはいまだかつてよくわからず。。。 (20 of December, 2008)
2011.12.07
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いつもニホンへの土産にはこまる。 はやいはなし、もうなにもないのだ。 でも手ぶらでいくのもシャクなので、なにかしらは持っていくように心がけてはいるものの。 定番は、ボリバル通りのコーヒーの卸しにて買うコーヒー。 いまさらコーヒーでもないだろうとは思うのだけど、ベラクルスはコアテペックあたりのコーヒー、コクはあまりないのに香りだけはいい。 そんなにおいしいとは、わたしは思わないのだが、ニホンのまわりのひとがイイ、イイという。 なかには車のなかに置きっぱなしというひともいるらしい。 ニホンのようなブレンド大国のひとに、こんなシンプルのコーヒーがいいとは思えないのだけど。 挽いたのを7キロ、それに最近は義理の弟の行きつけの喫茶店にて仲間うちで飲むためといって、豆のまま欲しいというので計10キロ。 今朝、市の中心部までいって担いできた。 もうひとつ定番は、テキーラ、いいものを捜したらきりがないので、老舗系のを三本。 おなじくカルーア入りチョコレートもいくつも買う。 甥っ子がなぜかメキシコのプロレスを市っている。 仮面(マスカラ)を買っていったこともある。 今回はプロレスのキーホルダーが欲しいとか。 こういうことには詳しくないので、とりあえず土曜に市内のコリセオ・プロレスリンクまで出向くが、試合がないらしく露店も見当たらない。 人づてにラグニージャのほうに歩き、ひとつのあまりぱっとしない露店にゆきあたる。 プロレスラーの人形のキーホルダーはなく、仮面のちゃちなキーホルダーならあったので、いちおう、買っておく、なんか子供だましという感じ。 日曜に大き目のスーパーにいくと、表紙がプロレスラーのノートがあったので買いこむ。 それにグアダルーペの聖母を少女用にアレンジした絵のノートもあったので、ためしに姪っ子用に買う。 今回は、メキシコの画家チューチョ・レジェスの作品集が欲しいという声もあったので、運び屋をする。 民芸品はいっさいなし。 むかし、アマテの絵を持っていったら実家のおふくろにそれを丸めたので蝿を叩かれたので、わたしのまわりには見る人がいないと悟ってやめた。 (16 of December, 2008)
2011.12.06
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今週は、ちょっと忙しい。 日曜には休日出勤、月曜にはお歌の会。 そして今日は、Muestra gastronomica,ニホン食見本試食会。 いちおう、公立がっこーなので、予算を交渉し、捻出してもらうことができた。 ほんとは自分たちの手でカレーとかお好み焼きとかこしらえればよかったのだが、「自分でつくるの?」と上から問われる。 やはり、お金の使い方にはからくりがあるというのは、やはりメキシコ。 というわけで、市内のニホン食レストランに委託。 これも、メキシコだけあって、土壇場になるまで予算が出るかわからないこともあって、むかしも何回かしたことあるけど、予算が最終的に出なくて、出費をわたしひとりでかぶったことも(出しゃばりで目立ちたがり屋だから?)。 まあ、今回はすんなり行きそう。 それで、午前中にがっこーの車で、がっこーのひとの運転で市内のレストランへ往復。 予算は六千ペソ。 しかし学生の数も二三百人で、でも時間の関係で来られないひとも少なくない。 整理券を前の日に配っておいた。 オフィシャルには一時半開始。 各種のり巻き、ぎょうざ、焼き飯、やきそば、てんぷら、それにサービスとして鶏のから揚げがくわわる。 みなで手分けして、なんとか均等に行き渡る。 こちらは徹底して裏方に徹する。 というわけで、ごくろうさんでした。 あまったものは、ぜんぶわたしのおなかに入った。 (11 of December, 2008)
2011.12.05
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もうすぐクリスマス、みんなすでに浮かれててホントはベンキョウ気分ではない。 学校中がそんな様子で、クリスマスエベントも盛り上がる。 年によってしたりしなかったりだが、こちらも急遽、ニホン語にてクリスマスソングを歌い上げることに。 出し物は、最小の、ジングルベル、きよしこのよる、サンタが町にやってきた。 なんせろくに練習の時間もなかったんだから、しかたがない。 講堂のステージに立って唄うのはイヤだとか初めは口にしていた連中も、だんだんその気になって、パフォーマンス入りで満足気。 伴奏はなく、バックにアンパンマンのクリスマスシリーズからの抜粋。 なんとも安易、でもホントはするとは思っていなかったもんで。 あさってもエベントをするんだけど、はあ、タイヘンですな(と、ほとんど他人事)。 昨日、映画館から出て、夕方、買った新聞(朝刊)を読んでいると、テカマックでの事件が眼に入った。 メキシコシティからパチューカへ向かう街道沿いのテカマック町、朝、四時ごろ中距離バスが襲われたらしい。 乗客をよそおって五人の拳銃強盗が乗り込む。 こんな場合、絶対に抵抗とか、逃げ出そうとか思ってはいけないことになっている。 乗客のなかにふたりの軍人がまじっていた。 退役だというが、それほど老いてはいないはず。 もし所持品に拳銃などが見つかれば、最悪の事態も予想される。 この二人は、五人に対して発砲におよぶ。 その結果は:五人の賊のうち、三人死亡、一人がけが、もう一人は逃亡。軍人二人は、一人死亡、もう一人は重傷。 五対二だものな。 さきに発砲したのは軍人ではなく、賊を抑えようとして賊のほうが発砲したので応酬したという話もある。 ハリウッド映画顔負け、しかし、ラテンアメリカではそれほどめずらしいことではない。 はて、逃げた一人はどうするか、命が助かったことをありがたがり、終生、感謝に生きる道をすすむか。 それとも、生き残りの軍人にさいごまで復讐をいどもうと考えるか。 こんなところからでも、話はいくらでも編みだせそうである。 まあ、そんなシーンに出くわさないことだけは祈りたいものだが。 テカマックの郊外って新興住宅地であり、わたしもわりとよく訪れるところ。 (09 of December, 2008)
2011.12.04
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夕べは、お弁当をこしらえなくていいので、のんびりとTVなんぞを観ていた。 11チャンネルのクリスティナ・パチェコの対談番組では、ゲストがアレハンドラ・サンチェスであった。 このアレハンドラは、Bajo Juarez(フアレス市にて)というドキュメンタリーを撮り、悪名たかきフアレス市の連続おんな殺しを追及している。 このモンダイについては、すでに何度か触れたことがあるし、ニホンでもジェニファー・ロペスとアントニオ・バンデラ主演になるこのテーマの映画がちょうど廻っているところらしい。 残念ながらわたしはこの映画をまだ観ていないのだけど、まずアレハンドラが凛々しく、言葉が押し寄せるように喋りつづけ(アレハンドラの写真をさがしたが、みつからず)、すでに映画を観ているクリスティナも感極まり、ことばにつまるときもあったほど。 話がもりあがり、一時間の対談があっというまに、過ぎ去る。 フアレス市は国境地帯であり、優遇政策の工場なども多く、メキシコ各地から若者が集まってくるが、とくに婦女子がえじきになる。 なんの餌食か、組織犯罪か、官僚たちもどこまで共犯であるのか。 これらの娘たちも、働くだけでなく、愉しむ権利があり、ただ身持ちがわるい、などといって済ませられるものではない。 これもすでに何度か、触れた話。 メキシコのプロサッカーリーグに審判としてデビューしたおんなのひとヴィッキー・トバルさんがサッカーの審判界から引退するという話。 下部リーグで線審などをつとめた末に、2004年に一部リーグ審判としてデビュー。 しかし、反感をもつ選手たちのおかげで、四試合ほどこなしただけで、およびがこなくなった。 http://www.jornada.unam.mx/2008/11/07/index.php?section=deportes&article=a25n1dep ヨーロッパでは、スイスなどに女性の審判がいる。 ただし、ワールドカップでは、走力の速さのモンダイでおんなのひとは選からもれたが。 メキシコでは、おとこのサッカーにおんなごときが、かかわってきてもらっては困るという発想なのか。 これが気になるのは、ニホンにておんなの子投手がニホンのプロ野球に加わったという絡みで、メキシコの新聞にも写真が出た。 スポーツのなかで、おとことおんなは、どうあるべきなのか。 あのプロレスでは、女性レスラーに人気を奪われないために、男子レスラーは女性レスラーに冷たい目をするとか読んだことがある。 写真は、ビッキー・トバル、あとは後進の育成にあたるとかいうが、あのヒールでサッカーボールをキックするというのも、メキシコおんなの凄みを感じさせるのでは? (07 of December, 2008)
2011.12.03
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加藤周一が亡くなる。 ほんとはお悔やみをいうより、ごくろうさまでしたといいたい心境。 ちょうど学部生だったころ、岩波新書ニンゲンだったころに「羊の歌」「続羊の歌」を愛読した。 シュバイツアーとフランソア・モーリアックとの対比に触れた箇所につよい印象をうけた。 それは、たとえば宮田光雄の語ることとは反対であり、そんなことを自分でモンダイ設定して考えるということが、いまになってみればきわめて有益だったと思う。 きわめて理知的なひとで、恋愛は、唾液の接触にはじまって粘液の接触でおわる、などという辛らつなことも綴ったが(その真偽はわたしには、いまだにわからぬ)、横光利一をやりこめたことなどちょっとやりすぎだったかも。 後年、横光をじっさい読むまで、わたしは横光を誤解していたような気がしていた。 羊の歌は、あの時代の知識人の履歴書のような雰囲気も伴っていた。 それ、貸してしまって戻ってこず、全集にふくまれているのに再購入していない(ほかの全集は定価で(!)二冊購入した)。 富山房からのマチねポエティックも読み、当時はわかった気がしていたものの、福永や中村からみると、遣り残したことはないような気がする。 ニホン文学史、拾い読みしかしてないか。 博識で鋭い考察にみちていたが、それでも、究極のオリジナリティに欠けていたようにも受け取れるのはなぜか。 とにかく、こんな安易なメモではしかたがないと思うが。 そうそう、三十年まえに岩波講座「文学」に発表した「文学の擁護」にはおおきな影響を受け取った。 これもいつか、語ってみたいことである。 (06 of December, 2008)
2011.12.02
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昨日の新聞のトップを飾った写真は、アルゼンチン大統領官邸にての三人のおんなたち。 美貌の誉れのたかいクリスティナ・フェルナンデス・アルゼンチン大統領。 髪を結わえてしまっているが、これも美貌がきわだつ、イングリッド・ベタンクールさん、言わずとしれたコロンビアにて六年あまりも人質暮らしをおくった元コロンビア大統領候補。 この二人にくらべると、いくらか器量に衰えがみとめられるが(笑)、米歌手のマドンナ。 アルゼンチン大統領とイングリッドさんの会談中(表敬訪問)、イングリッドさんがいると知ったマドンナが急遽、三者の面会を願い出たという、いわば歴史的シーン(ほんと?)。 まあ、ニホンの歌手でイングリッドさんを知ってるひとがなんにんいるものか。 今朝の新聞のもう一枚の写真は、六ヶ月の亡命暮らしのすえにメキシコに帰ってきた、ルシア・モレットさん。 エクアドル内のコロンビアゲリラの陣地を訪問中に、コロンビアの越境攻撃を受け、多くの死傷者が出たなかの数少ない生き残り。 このエクアドル訪問のメキシコ人学生グループについては多くの憶測もながれ、ゲリラ関係の嫌疑でコロンビアに脅かされたのみでなく、メキシコに戻ってきた場合にその嫌疑でメキシコ警察に逮捕されるのではないかと、ニカラグアに亡命を余儀なくされていたもの。 すくなからず支持者たちに守られ、メキシコにあえて帰還。 これからの動向がおおいに関心をよぶ。 かくして南米の、ラテンアメリカの歴史、あるいは政治は、おんななくしては語ることができないのではないだろうか。 その背景はどうあれ、たくましいおんなたちだ。 にほんのおんなもがんばれ!(おれも、あやかって、ちょっとはがんばってみよう) (05 of December, 2008)
2011.12.01
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(きょうは、なぜかネットにはいれなかった。ネットにはいれないとき、ふつうはモデムのモンダイであるが、きょうはモデムが正常であるのに、モニターではまったくなにもあらわれない、つながってないという表示がでるだけ。どうにもラチがあかない。プロバイダー(テルメックス)にも電話したがどうにもならない。きょうはもうだめか(きょうだけか?)と思う。それでも、いちど切って、ワードにてやくざ仕事でもやろうと思ってたらようやくつながる。。。ほっとする。でも、日記はまえからの引用で手をぬく) 牛島信明さんが亡くなった。 いまでは、スペイン語文学の訳者も層が広がったけれど、そのなかでも、ストイックさで秀でていたとわたしは思う。 垢抜けたところを誇示するわけでもなく、地味な、しかし着実で際立った仕事をこなした。 この世界の訳者では、新潮社、集英社系が多いなかで、いわば岩波系であった。 ただし、岩波系とはひとことで言っても、岩波にとってはスペイン語文学は、いわば亜文学であるから、編集側からの理解を得るのには苦労したらしい。 セルバンテスといえば、だれでもドンキホーテ、と答えが返ってくるし、たしかにドンキホーテは世界でもっともすぐれた文学のひとつではあるのだけど(もうすこし控え目にいうなら、フィクション上の実験を試みた大作)、ドンキホーテ以外にも傑作が目白押しだってことに気がついているひとは少ない。(ちなみにわたし、ドンキホーテを邦訳で全編をいっぺん、読んだきりです、すいません) 岩波文庫で「セルバンテス短篇集」が編まれたときはみじめだった。 ドンキホーテからの小編がいくつか、それに他の短篇集(「模範小説集」という名前)からもふたつ、みっつ、という寄せ集めの構成。 それでは、ぜんぜん意味がないっていうのに。 ぜんぜん売れそうもない、オクタビオ・パスの詩論を訳したのも牛島さん。 カルロス・フエンテスの玄人受けのみの、セルバンテス論を訳したのも牛島さん。 六十二歳であったから、まだ仕事はこれからだったと思う。 じつは、一時期、わたしはおなじ学校にいた。 稀には廊下ですれ違うこともあった。 ラジオ講座の応用篇でも馴染みがあったから、つい親しいひとのように感じてしまうけれど、とくに面識があったわけではない。 じつにもったいない話だ。 つまり、ことばを交わしたことさえなかった。 惜しい話だ。 そういえば、イバン・イリイチもこの間、亡くなった。 (2002/12/21) そういえば、このあいだ、家永三郎さんも亡くなった。 長い間、うわさを聞かなかったけれど、永い闘いののち、余生をゆっくり愉しんでいたのだろうか。 あるひとたちにとっては、神さまのようなひと。 じつは、わたしが日本史を習ったN先生、文部省側の証人だと明かしたことがあった。 いや、明かしたというより、居直ったというほうが相応しいかな。 飄々とした老人であった。 あるときは、「これはわたしの意見ではありませんよ、こういうことを書いてるひとがいるということです」と言って、中国をシナと呼ぶのは間違いではない、という小論を読み上げたことがあった。 狡猾なひとなのか。 またあるときは、紀伊あたりの密教のはなしで、お皿を修行で飛ばす話もした。 そういえば、古文書を読む勉強もさせられたけど、あれで日本史をやる気が失せたような思い出がある。 うむ、脱線してる。。。。 (2002/12/23) 点鬼簿の様相を帯びてきているのはなぜか。 エクトル・ルエダ氏が亡くなったという。 この人も六十代。 このひとのクラスには聴講させていただいた。 第二は仏語であったから、西語は独習しなければならなかった。 聴講させていただいて、いつでもでしゃばって喋ろうと試みた。 ニホンジン、とくに若いコは喋りたがらないから、わたしはひとり目立った。 このひと、テレビサの日本駐在員を務めていた頃もあった。 初めて知ったのだが、黒い雨の西語への翻訳も完成させたという。 (ルエダ氏、いつか触れたことがあるが、マイミクさんの雅杜(がと)さんのお友だちのだんなさんでした) (2002/12/27)
2011.11.30
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谷川俊太郎に「谷川俊太郎の33の質問」とかいう本(ちくま文庫)があり、詩人その他の文化人計七人に問いをぶつけ、それを綴ったものがこの本になっている。 たしかこの本、一昨年くらいにニホンから戻ってくるひこーきの中で読んだような記憶が残ってる。 今をときめく(爆)、斎藤孝せんせーも本書を「質問力」の優れた例として触れておられる。 それで計33の質問があるわけなんだけど、その三つめが「女の顔と乳房のどちらによりエロチシズムを感じますか」というもの。 でも、がっかりした。 ちょっと考えれば顔にきまってる、でも、みんながみんな、おんなじこと、言ってもしょうがないやんけ? まあ、これはもともと、お客さんたちの前の公開対話シリーズ(ジャンジャン)だから、あんまり極私的見解は述べられなかったのかもしれないけどね。 大岡さんなんて、乳房にエロチシズムなんてぜんぜん感じないって、いばってる。 ほかのひとで、インテリになるほど乳房より顔に感じる度合いが強まると語っているひともいる。ということは、プロレタリアートのような場合は、逆転することもありうるのだろうか。(ちょっと思い出したけど、まさにアマルコルドのなかに、肉体的フェティシズムがあらわされてるエピソードがありましたね) ほかのところでは、知的な肉体はありうるけど、知的な乳房はありえない、とかいう話しも出てる。 なんとか恰好をつけるべく、谷川さんは乳房にもエロチシズムは感じるけど、顔のほうがより多い、なんて玉虫色述懐に耽っておられるけど。 どこか歯切れがわるくなっているかな。 乳房には個性がないのだろうか。 総論でなく、各論で押していくべきなのだろうか。 たとえば、容貌がまったくちがうのに、じつはじつは、乳房がまさにうりふたつ、といった具合に似通っていたのを知ったときは、一種のパニックが生じるのだろうか。 うむ、乳房を基にして、その全体性を作り上げる、再構成する想像力というのは、存在理由に欠けているのだろうか? なぜ知的な肉体はあるのに、知的な乳房はないのか。 なぜなら乳房には思考することが出来ないからだという。 またエロチシズムを感じさせる顔というのは、自分の好みの顔とは違うのだという。 好みではないひとの顔でも、ときには溢れるようなエロチシズムを感じさせるときがあるらしい。 あえて表わすとするならば、表情ということになるだろうけど、やはりそこは微妙でいまひとつ、説明しにくいと谷川さんは言う。 ニホン人の場合は、肌合いという全体性に還元してしまう、なんていうオチもあり(オーラのことだと思ってもいいのかもしれないけど)。 ここからは、わたしのはなし。 わたしの趣味に、ひとの表情を盗み見るということがある。 街中の乗り物など、近くのひとがだれかと居ようと、ひとりきりで居ようと、その生の表情の動きを眺めるのは歓びだ。 べつに映画のなかの役者さんたちの表情の動きに違和感を持ったりしているわけではない。それはそれでいい。 だれにもじっと見られてはいないと思っているようなひとの生き生きとした表情を覗き込むのは、まるでこっそりそのひとの内面まで忍び込んでしまったような、隠微なまでの歓びをもたらす。 これを正面からじっと覗き込むようなことになれば、警戒されて睨み返されるのが落ちだ。 ところでエロチシズムの美について、バタイユは「穢れとしての動物性の暗示を必要とする」と述べている。 まあ、広義では、生殖を旨とする本能としての性のほかに、欲望としての性の在り方をエロチシズムというんだそうな。でも、これでは何も言ってないに等しい。その欲望を記述化しなければ。。。 (2003/10/13、14)
2011.11.29
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今年の春のこと、ベラクルスの海岸といっても、ただしくは河口と言ったほうがいいのだけど、その一角は水揚げ場にもなっている。 河口の縁、すこし埋め立てただけで、観光バスが三台ほど留まれるくらいのスペース。しかもただの盛土のみで、魚介類の水揚げを想像させるようなものはいっさいない、ほんとにさら地といった眺め。 わたしは、その手前にある安っぽい吹き抜けのレストランで、朝の卵の朝食をとっていた。自分でこしらえたもののほうが、ずっとおいしい、といった感じ。 そのレストランには、お客のことなどおかまいなしに、悪がき風のが何人も集まって、TVでビデオを眺めていた。 唄って踊ってをしていたのは、M.ジャクソンだった。 ほかのみなさんはきっとずっと前にご覧になっていると思うけれど、そのビデオクリップ風のものは、音楽に合わせて顔がCG操作であれよあれよというまに代わっていく。 清純そうな女の子がふっと不細工な兄ちゃんに代わったかと思えば、不敵そうなでぶった男がセクシーな女に代わったりとか。 CG操作といってしまえば、それですべては済むのだけど、ああ、眼に映るものはすべてかげろうなんだな、移ろいやすさのみが後にのこるものなのだな。 ここのひとは、その種の変化が早い。あんなに可愛かった女の子が一年見てなかっただけで、暮らしに疲れた翳を漂わせてしまっていたりとか。 はかなさこそわたしたちを条件付けているものなのか。 そのすこし前にグラハム・グリーンの「権力と栄光」を読んでいた。 男や女の顔を思い浮かべようとすると、いつも憐憫に打たれる。 なぜならひとの顔は神の似姿なのだから。 目じりの皺、口の形、髪の生え具合を眺めたりすると、いかなる経緯があろうとも憎む気にはなれない。 そうなのだ、憎むということは、想像力を欠いたところから始まるのだ、という一節がある。 ひとの顔の性状、表情の仔細に思いをいたせば、たちまちのうちに博愛になれるということ。 ならばなぜひとは、より見め麗しいひとを望むのか。 眼に映るものはすべてかりそめの姿にしかすぎないのに。 そんなことを朝っぱらからぶつぶつ呟いていたわたしは、やはりただの風采のあがらない死にぞこないなのか? (タイトルは羊頭狗肉の一例なり) (2003/10/11)
2011.11.28
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ヘンなときにヘンな本を読むわたしは、上野さんの「スカートの下の劇場」をふむふむと読んでいた。 いまさら気がつくのも遅い、というよりも間が抜けてる、といった感じだけど、かなりきわどい内容も含んではいて、眼をしばたたかせずには読み続けられない。 目からウロコ本、の一種かな。 といっても、きわめてまじめでもあるので、別に眉をひそめる必要なんてさらさらない。 あるひとがいみじく形容したように「下着を通してみたセクシュアリティの文明史」ということだろうか。 いまのニホンはいわば、欲望列島と化してるともいえるのではないかな。 それを上野社会学でもって、ぶったぎるとどうなるか。 でもこのテキストが編まれたのももうずいぶん昔のこと。 いまは遥かに複雑化しているのだろうか(というか、あるいは単純化、とも考えられなくもないけど)。 ぶっちゃけたハナシ、ニンゲンは本能を失ったドウブツなんだから、XXうんぬんなんて言ったって、おえおろしく歪んでる。 橋本明さんは「男も女も異性と寝ているのではなくて制度と寝ているのだ」という。 うーん、まさしくフーコーの世界だな。 ちょいとツマミ食いするならば: 「女がどのくらい自分の身体にとらわれ、身体に封じこめられているか」を明らかにしていて、たとえば、拒食症のモンダイも扱われ、さきの中島梓さんのテキストともかなり係わってくる。 XXXXとは何か。これすなわち、自分が妄想しているということが、最大のXXXXなのだ。 だから、欧米のXXXは肉体を物質視し、ニホンのXXXは「X的な妄想を増長」させることに基づいている。 つまり、いわゆるXXX小説の場合、実際のX行為描写より心理描写のほうがよりXXXX感に富んでいるという。 ふうーん、たしかに、そりゃ、そうだなあ~。 うんうん、フェメニズムもここまでくれば、タブーなんてなくなっちゃうな。 上野さんの事実上の処女作は、「セクシイ・ギャルの大研究」だけど、それは読んだことがない。 はじめて上野さんのものを読んだのは朝日の夕刊の文化欄に出てた、インテリアの社会学についてのもの。 見る・見られる、の関係がインテリアと女性心理を通して描かれていて、すごく頭が切れるヒトだなと思った。 切り抜いておかなかったので長いあいだ、また読みたいなと思ってはいたけど、それもかなわなかった。 ところが、その小論、ちくま学芸文庫「増補・<私>探しゲーム」に出ていて、思わず欠食児童がカツどんにありついたように読んでしまった。 難しいテキストも混ざっていてちょっと難儀もしたけど、いい本だった。 と思いきや、上野せんせーのセミナーに飛び入りさせていただけることにもなってしまって、ああ、ジンセイは奇遇だなあ、なんて感想をもらしていた。 こんどは、当たって砕けろ。とばかりにうちのガッコ-での講演をお願いしてみたら・・・ やってくれるというご返事で、ただただ感激をばしておりました。 もちろんタダでしていただいたので、あとで打ち上げにバイキングにお誘いしたけどね。 というわけで、懇意にして戴いております。 かくしてわたし、あんまり大きい声でいうと恥かしいけど(いまさら、もじもじする柄じゃないでしょおーが!)、セクシュアリティに関心を抱いてる。 するとジェフリー・ウイークスというひとの「セクシュアリティ」という本(上野さんが監訳)を送ってくださった。 フーコーの性の歴史、以降、もっとも意味のある本だという触れ込み。 再読しなければだな、なんせセクシュアリティの後進国たるメキシコと米国の歴然とした差異に眼を白黒させた記憶しかないもので。 (ところで河出書房新社のこの本、書店の店頭でみたことがとんとありませぬ) かくかくしかじか、上野せんせーには計三冊も本を戴いてしまった。 (上野せんせー、ご無沙汰しておりますが、常々せんせーをケイアイしております) と、上野せんせーをどっこいしてしまったけど、いまではフェミニズムも幅がひろく、いろいろな傾向のものがひしめき、上野せんせーをもって、ニホンのフェミニズムを代表していいかどうか、そんな疑問を抱くひとも少なくないということぐらいのじょーしきは、わきまえているつもりであります。(でも、いま、ジェンダーのことにまったく触れてきてこなかったことに気がついた(この文の主語は一人称ね)) (2003/10/10)
2011.11.27
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