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今日、1月11日は命日でした。。。
何だか急に、気になって、今日の昼、ブログを書いた後、もしかして~と思い
昨年の今頃の日記を確かめてみたところ・・・今日だったんです。
忘れていたわけではないのですが、今日が11日であることをブログで気がつくなんて・・・
ダメな娘ですねぇ~~(--;)
父の誕生日は2月2日、命日が1月11日で、何だかゾロ目が多いねって、話していたのに。。
そうか~もう4年たつんだ・・・
亡くなってからしばらくは、なるべく思い出さないようにしていた。
思い出すと、辛くて、辛くて、、、悲しみと後悔の入り混じった涙が止まらなくなりそうだったから
涙がコントロール出来るってことを、父の死後、初めて知った。
時々、ふっと気付くと、涙がこぼれてきたことがあって、今でも何の呪文を唱えていたのか、、、
はっきりはしないのだけど、「止まれ、止まれ。。。」みたいな言葉を心で念じながら唱えると、、
不思議に、涙がス~ッとひいていったっけ。。。
決して、仲のいい親子ではなかった。
とういうか、、、私が反抗的な娘で、素直でなかっただけで、父は子煩悩な方だったと思う。
高校時代は、父の職場の途中に私の学校があったので、遅れそうな時は父の車に乗せて
もらい、校門に横付け!で登校した。(先生に見られて、社長出勤か!っとからかわれた^^;)
何だ、かんだって言っても、、、娘の希望は全部受け入れてくれた父だった。
昭和一桁世代の父、不器用で愛情表現は下手だったけど、、、
きっと、こんな娘を心配していたんだろうなぁ。。。
異国で暮していた時、たった一度だけ、便せん一枚の手紙をくれたことがあった。
その一年前に軽い脳梗塞で、手先がマヒした父は必死のリハビリで、何とか職場復帰して、
やっと字もちゃんと書けるようになったらしい。(父の病気を家族は知らせなかったので)
その頃、私はパリにいて、友人が旅行で訪ねてきたことがあった。
友人はその前に、私の実家へ挨拶をしに行って、父の姿がないことに気がついたのだけど、
仕事かな?って思って、何も聞かなかったと言う。(父は入院中だった)
「みんな元気にしてた?」と聞くと、、、
「うん!みんな元気だったよ~。○○君(弟)も大きくなってたよ!」(弟は7歳だったかナ?)
そう、私には歳の離れた弟がいて、いつもドラエモンの絵を描いて手紙をくれたっけ(^^)
40代後半の父が、脳梗塞で入院しているとは、想像もしていなかった。
手紙をくれたのは、退院後、リハビリに励み、やっと手が震えなくなってからのこと。
その手紙で、初めて父の病気を知った私。。。
家族は、遠い場所に暮らす私を心配させたくなっかたのだと、後でわかった。
大きな、特徴のある文字で書かれていた、父の短い手紙。。。
『お父さんは、何とかこうやって、字が書けるまでに回復したので、安心して下さい』
『○○子は、いつ日本に帰って来るのですか?』
『何といっても、女性の幸せは結婚にあるのだから、早く帰国して結婚し、幸せになってほしい
と、いつも思っています。身体にはくれぐれも気をつけて、生活して下さい。』
そんな父の願いにもかかわらず・・・私が帰国したのは、それから5年も後のことだった(--;
そして、最初の脳梗塞の時、「酒、煙草をひかえないと、また脳梗塞になりますよ」
「今回は何とか、マヒが残らずにすみましたが、次はかなり残るか、生命の危険もありますよ」
と主治医から、忠告されて、煙草はスッパリと止められたのに、酒の方はダメでした~(--;)
とにかく、酒好きな父でした(^^;)
そして、70歳を前に2度目の脳梗塞を起こし、ついに・・・車イスの生活になってしまいました。
脳梗塞のリハビリで通院中に、大腸ガンが発見され、手術。
術後、抗ガン剤の治療を断ると、即!退院するように言われ、退院し自宅療養、気がつくと、
母にも軽いアルツハイマーの兆候が顕れていました。(><;)
そんな、両親の為に私はどれだけのことをしただろうか?と考えると、、、
申し訳ない思いで一杯になります。。。
今夜は、父の遺影に、大好きなお酒を供えました。