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ナイフを片付け、阿倍野を送り出して行った富崎が戻ってきた。
手にコーヒーを持っている。
「はい」
「ありがとう、ございます」
受け取ろうとして、京介は自分が微かに震えているのに気づいた。
「大丈夫かい?」
「はい…」
滲み出した汗を手の甲で拭う。
「怖かったな…」
「怖かった?」
思わず漏らした呟きに、隣の椅子に腰を下ろして自分もコーヒーを飲み始めた富崎が訝しそうに振り向く。
「終始落ち着いてただろう?」
「いえ、そっちじゃなくて」
なぜかぽろりと漏らしてしまった。
「ナイフが刺さってもいいかと思う自分が居て」
「ああ、そっちか」
富崎が頷いてコーヒーを傾け、違和感に気づいた。
普通ならば『刺さってもいい』などと言う感覚は理解できない。富崎は桜木通販でも一二を争う結婚したい男で安定感の塊のような人間のはずだ。なのに、なぜそんな危うい感覚を語られて驚かないのだろう。
「そっちか、って?」
「ん? …ああ、そうか」
富崎が苦笑いした。
「失敗したな」
君は伊吹さんにそう言う部分も開発されたのかい?
際どい雰囲気を込めて微笑まれ、京介は戸惑った。
「失敗、とは」
「人間、見えている通りじゃないってことだ」
富崎はコーヒーを飲み干して立ち上がる。そのまま立ち去るのかと思ったが、肩越しに振り向き、
「まだ昼休みだ。何か食べるか?」
「あ、いえ」
「食べておけ。体が資本だ」
返事を待たずに出て行って、しばらくして戻ってくるとコンビニのおにぎりとコーヒーの追加を買って戻ってきてくれた。
「富崎さんは」
おにぎりは伊吹を思い出して切なかったが、確かに空腹ではまだまだ終わらない仕事に向かえない。改めて感謝して口に運ぶ。
「僕は済ませた……昔から早食いだ、職業柄かな」
さらりと吐かれたことばに、話してくれると感じた。
「職業柄と言うと、桜木通販の前の仕事ですか?」
「そうだ。所轄の警官。つまり町のお巡りさんだな」
阿倍野に対する対応に合点がいった。
「よく酒場に呼び出されたもんだよ、酔っ払い同士の喧嘩に正義はないさ、とにかく収めるのが第一でね」
いい歳をしててもプライドや意地で刃物を振り回すのも結構居る。
「取り押さえても怪我をさせちゃならないし……公僕だからね」
苦い経験があったのだろう、穏やかな顔で唇を歪めて見せた。
「人としての根っこの感覚が狂いそうでね、辞めた」
食べておけ。体が資本だ。
同じことばをかつての上司に言われ、部下に言ったことがあるのだろうか。
安定感があるのも納得がいく、一般企業で起こる修羅場など、命のやり取りを繰り返してきた生活の中では、静かなものなのだろう。
「けれど…どうしてここに」
「ん?」
富崎はちょっと痛いところを突かれたと言う顔になった。
「知り合いが、阿倍野さんが来てるが様子がおかしいと知らせてくれたからね」
「知り合いですか」
「知り合いだよ」
君には注意しておこうと来たら、この部屋に彼女が入って行くのが見えた。
「確かにおかしな様子だった。入ろうとした矢先に始まったからね」
ちらりと京介を見る。
「一体何をする気なのかと思ったよ」
「すみません」
「それとも僕は」
コーヒーをゆっくり覗き込む。
「昔ながらの手腕を使って、君に尋ねなくちゃいけないのかな」
一体何をしてるんだ、と。
こちらに視線を上げない横顔が、京介の反応を伺っている。
「……」
「…総務と言うのはね」
富崎は答えない京介を宥めるように続けた。
「実に様々な情報が集まるものなんだ。物品の管理、施設の管理、株主総会の管理、社内イベント・冠婚葬祭の管理……人事や経理、流通や品質管理各課で担いきれない仕事も回ってくる。それらを通して会社全体の動きを統括して見られる課とも言えるかもね」
楽しいよ。
「何が起こっているのか、よくわかる」
以前と違ってね。
富崎は目を細めて遠くを眺めた。
「ところが、最近、よくわからないことが増えた」
例えば伊吹さんが入ってからね。
「いろいろなものが不思議な動き方をするようになった」
「と言うと?」
くすりと笑う。
「一番わからなくなったのは君かな」
「僕、ですか」
「君はもっと事務的で計算尽くで、人の気持ちがわからないから、そのうち仕事で躓くだろうと思っていたのに、どうしてどうして、次期社長にまで登り詰めるとはね」
「褒めて頂いたお礼を言うべきなんでしょうね?」
そんな冷ややかな視線をこの人は隠し持っていたのか。
京介は改めて感心する。
なるほどそれなら伊吹が魅かれるわけもない。京介がいくら不安がっても、内側を感じ取れる伊吹の選択肢に富崎が入るはずもなかったのだ。
「失ってしまったんだなと思った」
「はい?」
「僕は、変われる機会を失ってしまったんだ」
富崎が振り向いた。
「警官で居た方がよかったのかもしれない」
世の中の理不尽に壊されそうになっても、自分の中にぎりぎりで生まれてくる力を信じて、もう少しだけ踏ん張ってみれば、何かが見えたかもしれない。
「……僕にも居たんだよ、君の伊吹さんみたいな人が」
笑った顔が悲しげだった。
「変わりたくなかった僕は、彼女を切り捨てた」
「……お知り合い、ですね」
「鋭いね」
苦笑いする。
「これからも、大切な、知り合いだよ」
富崎は優しい声で呟いた。立ち上がる。
「昼休みが終わる。仕事に戻ろう」
「コーヒーとおにぎり、ありがとうございました」
「うん」
ドアに向かって手を伸ばした富崎が立ち止まる。
「真崎君」
「はい」
「赤来は何をしたんだい?」
名前が出されても驚かなかったのは、阿倍野の話を聞いていただけでなく、富崎なりに掴んだものがあるのだろうと察したからだ。
「…安全圏から人を殺しました」
「そうか」
ごき、と首を鳴らす。初めて見た仕草だった。
「じゃあ、捕まえないとな」
静かに部屋を出て行く後ろ姿に、今までの富崎になかった殺気があった。
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