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****************「…もう少し生き延びてはどうですか」 京介はコーヒーを覗き込んだ。「もう少し、僕と伊吹さんが仲良くするのを眺めていては?」「ふふ」「結婚式にも呼びますよ。僕の親族席に座ってもらおう。大輔も身内もほとんどいない式だ、あなたはそこで、伊吹さんが高校時代からどれほど素晴らしい人だったか存分に語ればいい」「……ああ、そうだな」「伊吹さんが僕の隣でウェデイングドレスを着て笑うのや、キャンドルサービスでこれ見よがしにあなたのテーブルに2人で火を灯すのを見ればいい」「……もちろん、俺はキャンドルの芯を濡らしておくわけだ」「そこは外せないでしょう」「けれど、そうすると、俺は赤くなりながら奮闘する伊吹さんと一緒に、嬉しそうにその手を支えるお前を延々と見ることになる」「いい場面でしょう?」「不愉快だな」「花嫁が投げるブーケは是非ジャンプして空中で奪ってもらわなくては」「おいおい、そうやって伊吹さんに睨まれろと」「空気を読まない男でしょう、あなたは」 曇る視界に京介は苦笑いする。「こんな時に逝こうとする」「……すまん」「伊吹さんの心にあなたは刻まれる」「……悪いな」「不愉快だ」「真崎」「はい」 ぽとりと落ちた雫を京介は見つめる。 闇の彼方から語りかける声は、すでにどこか朧になっている。 この男はもうこの世界にはいないのだ。「…謝りたかった」「何を」 伊吹さんの気持ちの一部を攫うからですか。繰り返し彼女と時間を過ごしたからですか。今もなお、彼女の夢の何処かに棲まうつもりでいるからですか、あの大石のように。 そんな罵倒は、見当違いだとわかっていた。「あなたのせいじゃない」 先回りして遮ったつもりでも、幽明の境に居る存在は、軽々とその意図を挫く。「難波孝を、守れなかった」「…」 雫が数を増す。「もう少し速く、真実に辿り着けていたら、難波孝は生きていたかも知れない」 コンビニ強盗を明らかにし、飯島を確保し、『羽鳥』を引き摺り出していたら。「お前が今居る世界は、もっとマシだったかもしれない」 目を閉じた。溢れ落ちる闇の視界に笑う顔が、どんな目をしていたのか、もう忘れかけている自分が居る。「あなたが謝らなくていい」「お前の世界に法が届かなかった」「あなたが背負うものじゃない」「俺達はその任を負うんだ」 法を、人の世界に届けるのが警察だ。「お前を守れなかった。すまん」「…っ」 卑怯だ、卑怯だ、卑怯だ。 こんな謝罪を受け取らずにいられる人間が何人居る。「もっと生きるべきでしょう…っ」「…うん」「もっと…生きて」 京介の罵倒を、怒りを、無念を受け止めてくれてもいいだろう。 なのに、有沢はもう居なくなる。 戸惑った声が聞こえる。「…泣いてるのか」 ことばがなくなる。 周囲の闇が、あの山の中になる。 胸に抱えた想い、小さな命が消えるたび、なぜこんなことになってしまうのかと天を仰いだ。 嘘なんですか。 誰か大きな人が地上の全てを見ていて、公平に平等に、それぞれの天秤を釣り合わせて物事を図ってくれていると聞いたのに、どうしてこんなに苦しいことばかり続くんですか。 この苦しみはいつか報われることがあるんですか。 それとも、その天秤は大きすぎて、僕らの小さな傷みなんか目盛りを動かしもしないのですか。 なのに今、有沢の声の向こうに蘇る山の闇は、静かに広く、きらきらと光って見えた。 綺麗ですね、と伊吹が言った。 京介にも見せたいと言ってくれた。 ふいに『それ』が見えた。 泣きながら土を掘る京介の背後に、薄い靄が立っている。泥だらけの手で顔を擦り、まるで自分を埋めそうな勢いの京介の姿は、その靄に気づかない。 けれど今の京介にはよく見えた。 靄は有沢の姿をしている。 心配そうに覗き込む様子は孝そっくりだ。 はっとして顔を上げ、目を見開く。 コーヒーカップの向こうの姿が二重に見える。 そんなことはあり得ない。 けれど、もちろん、そのはずだ。 苦笑いする有沢の背後に、孝が困ったような笑みを浮かべて立っている。 ごめんな。 記憶の彼方の声が謝る。 あの日、突き飛ばしてごめんな。背中、痛かったろ? 痛かったよ。 京介は呟く。 同じ道を歩いていると思っていたお前が、手の届かないほどの暗闇に居ると知って、自分の抱えた苦しみが、それでも恵まれていたと知らされて、助けを求めてはいけないんだと思った。 お前が沈んだその闇に、僕もまた堕ちるべきなんだと思った。 救われるつもりなんかなかったのに、伊吹さんが両手を合わせてくれたのを見た途端、扉が開かれたのを見てしまった。 最期を迎えるなら、この人の掌の中で逝きたいと、思ってしまった。 謝るのはきっと、京介の方だ。 京介もまた突き飛ばした、闇に待つ孝の姿を。「真崎…?」 訝しく響く声に瞬きする。流れ落ちる涙が熱い。「泣いても…いいでしょう…」 薄く笑った。「僕はまた……友人を失うんだ」 **************** 今までの話は こちら
2026.09.30
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**************** 赤来を桜木通販第2会議室で確保した夜、疲れ切った伊吹は起きなかったが、京介は携帯のバイブレーションに気が付いた。 深夜2時。 番号を見るまでもなく、相手はわかっていた。「…有沢さん?」 胸に甘えている伊吹を名残惜しくベッドに残し、眼鏡を掛け、携帯を耳に当てながら寝室を出る。『…赤来は殺さなかったんだな』 低く笑う声に笑み返す。「おかげさまで」 檜垣さんが予想以上に早く来られましたね。『こっちの手配じゃない』 見張りをつけていたのかと揶揄すると、苦笑まじりに返される。『檜垣が心配していたんだ』 君の、伊吹さんを。 静かな声音に居住まいを正した。 リビングの仄かな常夜灯、暖房をつけてソファに沈む。『オカルト巫女さんはきっと「羽鳥」を追い込むはずだ、ってな』 ここしばらくずっと彼女と赤来をマークしていた。『俺から聞いただけじゃなく、関わる過去を一つ一つ全部調べ上げて』 京介は吐息する。 伊吹の事件だけではないだろうに。 『羽鳥』事件は有沢単独で追うしかないほど野放しにされていた案件だ。向田市社会福祉協議会が関わり、市を挙げてのイベントを汚す大輔の醜聞に、なお致命傷を与えかねないほどの内容、内密に処理するには刺激的すぎる展開、手を出す方がおかしいだろう。なのに、それに関わり、日常の仕事と他の事件を背負ったまま、檜垣は赤来に食らいついた。「伊吹さんに魅かれた、と?」『いや』 くつくつ、と有沢は笑った。『警戒しなくていい。檜垣がハマったのは、伊吹さんじゃない、彼女が導いた事件の展開だ』 事件が動いていく光景、と言うか。『伊吹さんがいなければ、この事件は成り立たなかったし、解決もしなかった。それぞれの断片が小さな事件として放置されて、赤来には辿り着かなかっただろう』「幻のような、『羽鳥』と言う男の事件として」『そうだ』 有沢はしばらく押し黙った。 京介はスピーカーに変えて立ち上がり、湯を沸かし、コーヒーを淹れる。『…真崎』「聞いてますよ」『…俺はもう、保たない』「……はい」 注がれる細い湯にふつふつと膨らむ粉、立ち上る香りに京介は目を細める。 ふいに気がついた。 このコーヒーはずっと縛られ続けた夜の準備のためのものではない。 京介は今初めて、自分が寛ぐためにコーヒーを淹れている。『…彼女は一体、何、なんだろうな』「…どう言う意味ですか」 何となく思い立って、別のカップにもう一杯コーヒを淹れ、テーブルに置いた。自分のカップを持ってソファに戻る。『もう死ぬんだなと思ったのは初めてじゃない。刑事だからな』「…はい」『いろんな死に様を見て来た。自分もいつかどこかで、みっともなく死ぬんだろうと思ってた』「…はい」 テーブルに置いたコーヒーは冷えていきながら香りを広がらせる。『まさか…こんな風に……暖かい部屋で柔らかいベッドで死ぬとは思ってなかった』「……」 こくりとコーヒーを飲み込む。 スピーカーにしたせいか、目の前の暗がり、もう一つのカップの湯気の向こうに、苦笑いしながら有沢が座っているような気がした。『こんな風に…安心して逝けるとは思ってなかった』 数日内に死ぬってことが、ごくごく当たり前で、疑っていない自分が居る。『そうやって見ると…彼女は…伊吹さんは、一体何だろうって、繰り返し考えている』 事件の端々に関わって、一番酷い結末をぎりぎりのところで食い止めて来たような。「天使ですよ」 京介の即答に有沢が吹き出す。『そう来るか』「…僕らが拘りや傷みで無茶苦茶にしてしまった運命の糸を解きほぐして、本来の姿に戻してくれる存在」『……そんな風に扱うのか』 有沢が鼻白む。 京介は苦笑する。 バレバレじゃないか、この男もまだ伊吹を熱望し続けていると。「ご安心なさい。僕にとっては、彼女は愛しくて守りたい、ただの一人の女ですよ」『…そうか』 有沢が溜め息をつく。「檜垣さんはそこまで伊吹さんに傾倒してるんですか」『…わかるか』 有沢は溜め息を重ねる。『過去を当たれば当たるほど、こいつは何だって思うようになったみたいでな』 ひょっとすると、これからも事件に引っ張り出そうとするかもしれない。『そうなれば、伊吹さんは安全じゃなくなる、わかるな?』「わかります」 もう一口コーヒーを飲み、少し苦味が増して来たと舌を出す。その舌に伊吹の感触を蘇らせて、今優しくキスして欲しいと思った。「…あなたはもう伊吹さんを守れない」『……ああ』「けれど、伊吹さんが伊吹さんである限り、同じ輩は現れるかも知れない」『有栖川って言うのが檜垣に付いてる。檜垣に似た突っ走りタイプだが、昇格に未練のないやつでな』 有沢はくすりと笑った。『カッコよく死にたいらしい』「…」『檜垣が暴走したら伊吹さんを守って死ねと命じてある』「おい」 京介は有沢の幻を睨んだ。「僕の役目を奪う気か」 くすくすと笑う声が返った。「…楽しいなあ」「何が」「お前と話すのは楽しい。どうやって伊吹さんとの仲を邪魔してやろうかと考えるのが、とんでもなく楽しい」 **************** 今までの話は こちら
2026.09.29
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**************** ふう、と珍しく疲れたような吐息を漏らして、もう一度祭壇の写真を眺めた。「…もういよいよってあたりまで、結構喋れてたんだ、あの人」「…」「俺はあんたを呼ぼうとした。婚約者が居ようが、そんなことどうでもいい。有沢さんは死ぬんだから、それぐらいのワガママは良いですよって説得したんだ」 背けたままの顔が、どんな表情をしているのか、美並達には見えない。「なのに、呼ばないでくれって」「……」「呼ばないでくれって、頼むんだ、あの人」 真崎が伊吹の側に近寄った。そっと手に触れて来る。「あんたに見られたくないんだって、死ぬのが怖くて引きつってる顔」「……」「あんたの前ではずっとカッコいいままで居たいんだって」 真崎が握りしめて来る手を、美並は静かに握り返す。「笑うよなあ、生前墓参りに車椅子押させて出かけたくせに、何バカなこと言ってんだか。カッコつけても無駄だよなあ」 けどさ。「あれが、惚れるってことなんだよなあ」「…」 真崎が身体中を尖らせた気配が伝わった。指先が冷える。きっと振り捨てられるような気持ちで居るに違いない。美並の目に浮かぶ涙を、伝い始めた雫を、罵倒して詰りたい気分に違いない。「バカじゃねえの、俺が頼んだのは、刑事として気持ちいい死に様だったはずだろ。なのに、何教えてんだか」 檜垣が堪えかねたのだろう、俯いた。やがて、振り絞るように、「……オカルト巫女さんっ」 背中を向けたまま、続ける。「嘘でいいから、今だけでいいから、有沢さんのこと、好きだって言ってやってくれよ、これが最後だ、もう二度と頼まねえから、俺じゃできない、あんたの気持ちで送ってやってくれよ!」 悲痛な懇願に、真崎の指が緩んだ。「…美並」 静かな声が耳元で囁く。「僕は…」「わかりました」 美並は真崎の指を離した。諦めたようにそのまま手を下ろす相手を後ろに、ハンカチで涙を拭き、俯いたままの檜垣の背中から、祭壇の有沢の顔に視線を移す。 穏やかな顔だった。少し前の写真だとわかる、それとも加工してあるのか。 高校の頃に覗き込んだ顔を思い出した。車の中で近づいた表情も思い出した。車椅子から見上げてきた目も思い出した。「有沢さん…お疲れ様でした」 痛みを堪え走り続けた時間だった。「ありがとうございました」 孤独に向き合い自分の意味を疑った。「……お世話に、なりました」 夢も持てず希望も抱かず、ただ毎日を生き延びていた。 有沢と美並は、ある意味表裏一体だった。 だからこそ、有沢の最後のことばが別の意味で響き渡る。 美並に真崎が居たように、有沢には檜垣が居たことを、最後は理解したに違いない。 呼ばないでいい。 たぶん、そう呟いたはずだ。 納得しない檜垣に苦笑して、カッコつけたいんだと話しただろう。 看取って欲しければ、墓参りの時に望んだだろう。 有沢の最期の視界には、檜垣が写っていたはずだ。 病に伏す自分のために、署内での評価も警察官としての未来も投げ捨てて、まだ足りないまだ足りないと唸りながら駆け続ける部下。 感謝を伝えたかっただろう。成果は上がった。有沢の疑いは事件終着を導いた。その結果をもたらしてくれたのは、美並ではない、檜垣だったと、ようやく気づいたことだろう。 有沢が望んだのは、美並と作る家庭ではなく、事件を思いのままに追い続けること、そのために脇目も振らずに伴走してくれる相棒だった。 だからこそ、美並はこれを伝える必要がある。「…檜垣さん」「……なんすか、まだ途中でしょ」「有沢さんは、病室で、檜垣ならビールを買ってきてくれたって言ってましたよ」 ぐうっ、と檜垣が唸った。「私じゃ、ありませんでした」「……オカルト…巫女さん……非道…すぎ……っう、ぉおあああああ!」 檜垣が崩れ落ちる。祭壇に向かって吠える。「馬鹿野郎うううううう!」「…行きましょう、京介」 美並は振り向いた。白い顔の真崎に微笑む。「私の仕事は、終わりました」 **************** 今までの話は こちら
2026.09.28
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**************** 有沢が没した。 最後の瞬間に美並は呼ばれることはなかった。 通夜の日時を連絡して来た檜垣に、葬儀には来るなと念押しされたから、真崎に付き添ってもらって、向田市の小さな葬祭場に出向いた。 幾つかの葬儀が営まれているのだろう、濃い紺色のカーテンで仕切られた一角に案内されて入ると、そこに数人の喪服姿の男女が居た。「…オカルト巫女さん」 済まないな、手間とらせて。 本当に小さな祭壇の前に立っていた檜垣が振り返る。ノーネクタイのシャツ姿、察したように周囲の男女が視線を投げながらカーテンの囲いから出て行く。「有栖川」「嫌です」「おい」「俺は出て行きません」 檜垣の後ろに立っていた大柄な男が促されたのに首を振る。「邪魔しねえって言っただろ」「邪魔してないです」 言い切った瞬間、真っ赤になった顔に大粒の涙が溢れ落ちた。「有沢さんの側にいます」「気持ち悪いから止めろ」「何が気持ち悪いんですか。あれだけの刑事に惚れて何が悪いんですかっ」 吐き捨てるように低い声で言い放つ。「俺は有沢さんが目標でした。ずっとずっと憧れてました。病気抱えて、それでもあいつを捕まえた。あんな風に俺もカッコよく死にたいです」「バカヤロウ」 檜垣が冷えた声で唸る。「カッコいい死に方じゃねえよ。自分で犯人捕まえてねえし。捕まえた犯人の顔も見てねえし。おら、さっさとこの間の事件のウラ取って来い、次の事件を起こしてえのか」「俺は…っ」「さっさと行けっつーの、暑っ苦しい面いつまでも晒してんな」「でも」「葬儀を頼むっつっただろ? 時間空けとけよ、わかってるな?」「…わかりました」 ようよう有栖川と呼ばれた男は頷いた。顔を両手で擦り、おもむろに美並に向き直る。「あなたがオカルト巫女さんですか」「おい、お前何を」「ご協力をありがとうございました!」 かちっとまっすぐ立ったから敬礼でもされるのかと思ったが、有栖川はことばと同時に深く一礼し、そのまま急ぎ足にカーテンを翻して出て行った。「…あーその、済まねえな」「いい人ですね」 微笑むと、檜垣が苦笑して目を外らせる。「新人だから、今回の件に巻き込んだんだ。元々有沢さんの評判を聞いて異動希望出してたやつで。馘覚悟で加われって話したら、望むところですと返されてよ」 美並はちょっとほっとした。 有沢を追っていた頃の檜垣の線の細さは、いつの間にか消えている。有栖川を収める口調も、どうしてどうして落ち着いたものだ。事件が終わり、一人残された檜垣の身の振り方を心配したが、余計なことだったようだ。心なしか、体つきもがっちりとし、人が成長する要因は時間ではないと改めて感じる。美並もまた、この数ヶ月で大きく変わった。「…今、赤来の背後を洗ってる」 ちらりと真崎に視線を投げて、檜垣は頷いた。「大輔と組んでたサークルもそうだが、コンビニ強盗は『赤』って名前の組織だったみたいで、こっちの方が実は『羽鳥』の本職だったみたいだな。じりじり調べてるが、時間的にも場所的にも関わった人数的にも広範囲だ。難波孝、さん、殺害の件よりも余罪の方が呆れるほど積み重なってる」 檜垣は悩む目になって美並を見た。「あいつは…首傾げてるぜ」「え?」「意外に事情聴取には協力的なんだが」 眉を寄せた。「罪を認めてるからって言うより、どこで自分が失敗したのか、一所懸命に考えてるって感じだな」「失敗…」「聴き取るたんびに、どうしてこんなことになったんだろうって吐きやがる」 どうして僕に的が絞り込めたんだろう。どうしてそんな風に証拠が集まったんだろう。どうして皆、この事件に関わってるんだろう。 どうして?「それだけ多くの人間に、自分が関係してたってことがわかってねえみたいだ」 檜垣は深い息を吐いた。「あいつはずっと一人で奪ったり傷めつけたり殺したりしてたんじゃねえかな」 あいつの目には他の人間は入ってなかったんだ、ずっと。「それぞれが違う人間だったってこともわかってねえかも知れねえな」 だからわからない、一人を傷つけたその背後で、関わる多くの人々が傷つき、苦しんだことに。その苦しみを、傷つけられた本人は動けなくとも、何とかしようと動き出す人間がいることに。 檜垣が祭壇に目を向け、気持ちを切り替えたように振り向いた。「まあ、どこまで絞れるかわかんねえが、数年単位の刑じゃ済まねえだろうな。執行猶予も、おそらくつかない………むしろ、大輔の方が下っ端だったと考えた方がいいレベルだぜ」「そう、ですか」 美並は思わず真崎を振り返る。同じことを考えているのだろう、真崎は檜垣を見つめたまま、淡々と確認する。「桜木通販は厳しい状況になりそうですね」「この国は身内犯罪を裁けなかった組織に厳しいからな」 檜垣は苦く笑った。「こっちもかなり食らうだろうさ」「ひょっとして、葬儀に来るなと言うのは」「オカルト巫女さん、相変わらず察しがいいねえ」 檜垣がひょいと肩を竦める。「あんたの活躍はいろんな意味で目立った。ぐしゃぐしゃに絡んだ糸を解いた手腕を、期待するやつもいれば、犯人側じゃないかと疑うやつもいる。どっちかと言うと、警察の在り方としちゃ、後者が正しい。有栖川みたいなのは、組織にとっちゃまずいタイプだってことだよ」 **************** 今までの話は こちら
2026.09.27
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**************** 南門を開ける仕組みは壊されていなかった。「開けるぞ」 シートスの声にユーノとユカルは頷き、もう1頭の平原竜(タロ)に跨ったイルファもさすがに緊張した顔で開かれていく門を見つめる。平原竜(タロ)1頭が通れるだけ門を開き、何ものも飛び込んでこないことを確かめた後、シートスとイルファの乗った平原竜(タロ)が先に進む。背後を警戒しながら、ユカルとユーノが乗った平原竜(タロ)が通り抜けた後、再び門を閉じた。 晴天だった。晴れやかに広がる大空、だが周囲に立ち込める異臭に皆は思わず顔を歪める。「…酷いな」 鼻を覆ったユカルが唸る。「ああ」 ユーノもまた眉を寄せたまま頷く。 『運命(リマイン)』との決着がついてから1週間は経っているが、それでもそこここに遺骸が散らばり、崩れていっている。黒く焼け焦げた地面には引き摺られたように液体がなすりつけられた跡が残る。 この中でどこで食料を探せばいいのか。果たして安全に食べられるものが残っているのか。 先を行くシートスの平原竜(タロ)には迷いがない。目的地をすでに見つけたのだろう、速度を上げながら進んで行く。「ユカル」「わかってる」 遅れを取るまいとユカルも平原竜(タロ)の速度を上げた。 やがて、シートス達が目指していたものが見えてきた。 無数の剣に貫かれ囲まれて、まるで一つの塊のようになってしまっている3人の男女の亡骸。日差しに晒され、異臭放ちながら溶け崩れていく姿を、身内であれば正視できないだろう。 近くで平原竜(タロ)を降りたシートスが、持参していた布を広げながら近づいていく。イルファも片方を引っ張り持ち、ユーノ達が着く頃には突き立った剣を引き抜かれてぐずぐず崩れた体を、ゆっくりと包み込み始めていた。「…お待たせしました、ジーフォ公。テッツェ殿、アリオ姫」 このような最期であった、とセシ公が語ったそのままに、中身がこの世を去った体を包み、平原竜(タロ)の背中へ引き上げる。厳しい顔で亡骸を固定したイルファが滑り降り、入れ替わりに平原竜(タロ)に跨ったシートスを見上げた。「じゃあ任せたぜ」「すぐに戻ってくる。無茶をするなよ」 イルファ、ユカルと視線を向けて、「『星の剣士(ニスフェル)』もだぞ」「了解しました」 苦笑いしながら応じると、シートスはぎゅっと眉を顰めて立ち去っていく。 うまくジーフォ公の亡骸を見つけることができたら、すぐに回収してシートスが戻る。その間、ユーノ、ユカル、イルファで周囲の索敵と食糧になりそうなものを探すことになっていた、が。「…正直なところ、ここで食えるものが見つかっても、食えるかどうか微妙だな」 珍しくイルファが弱音を吐いた。「そんな繊細だったっけ?」 平原竜(タロ)の上から声をかけると、野太い溜息をついた。「お前は俺をどんな男だと思ってるんだ。俺にだって心はある」 イルファは大仰に嘆いて見せる。注意深く歩いているのは、とんでもないものを踏みつけないためだろう。1人だけ歩かせているのは不公平かと思って、ユーノも平原竜(タロ)から降りた。地表に近くなると地熱の加減か、臭気は一層濃く澱む。結構な戦場を潜り抜けてきたはずだが、ここほど静かで酷い場所は、あまり経験したことがない。「ユーノ?」 立ち止まったユーノをイルファが振り返る。あまりにも自然な仕草だったから、つい本音が溢れた。「もう一度、蘇るんだろうか」「…」 イルファが太い眉を上げた。促された気がして、ユーノは問いを繰り返す。「こんな状態から、もう一度、また」「……甦るさ」 イルファはゆっくりとしゃがみ込み、ひょいひょいとユーノを手招きした。「見てみろ」 強かなもんだ。「……ああ」 イルファの指差した先には、おそらく千切れた手だろうと思われる遺骸がある。何かを強く握りしめた形のまま、干からび張り付く皮、どす黒く汚れた指に絡みつくように、鮮やかな緑の草が伸び上がっていた。「人はこいつらの養分にしか過ぎん」 骨が見えかけた指先を小さな虫が渡っていく。「食い散らす獣が居なくとも、体が溶けて地面に吸い込まれて、それを餌に草が繁り、虫が寄る…」 いつの間にか、平原竜(タロ)を降りて側に立っていたユカルが、掠れた声で呟く。「皆の体も、そうかな」 散っていった野戦部隊(シーガリオン)や平原竜(タロ)のことを思い出しているのだろう。「そうとも。誰だってそうさ。死ねば、草や羽虫の餌になる」 だからこそ、食べられる間にしっかり食べておかんとな。「なあ、腹が空かんか?」「イルファ…」 これを見下ろしながら言う台詞か? 突っ込むユーノにイルファはにやりと笑い返す。 「それこそ、俺の本分なのでな」 **************** 今までの話はこちら。2170000ヒット、ありがとうございました!てなことを言っている間に、もう2180000ヒットが目の前に迫っております。ひょっとしたら本日中です。あわあわわ。引き続き、描き続けたいと思います。勝利者となった国を襲っている荒廃。誰の、何が、勝利したのか。正しいものが勝利したのなら、この惨状は何でしょう。高揚感が消えた後、ひたひたと寄せてくる静けさ。
2026.09.26
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****************「…京介?」「…」「何か拗ねてます?」「…」 温かい湯船の中、美並の体を抱えながら、真崎はずっと無言だ。 今日はとにかく帰りなさい。 元子に促されて、2人真崎のマンションに戻った。 体が冷えて心も冷えて、なんだか魂を引き抜かれたみたいで、どちらが言うともなく、一緒にお風呂に入って。お互いぼんやりしながら体を洗って、来て、と望まれたから真崎の腕の中、背中を向けて抱きかかえられて。「……終わったね」 ようやく声が聞こえた。 はい、と答えかけて思い出す。「終わってません」「え?」「監視カメラ、外して下さい」「何で?」「一体幾つ追加したんですか」「……幾つだったかなあ、覚えてないなあ」「もう必要ないでしょう? ポケットマネー分、全部外して下さい」「いや、わからないよ? いつ必要になるかわからないんだし、美並がまた連れ込まれちゃうと困るし」「もうそんなことはありませんよ」 ふざけた口調で応対しても、真崎が不安がっているのは肌から伝わるような気がする。「……美並」「はい?」「……もう考えない?」「は?」 振り返ろうとしたら、駄目だよ、と制されて、また抱き締められる。そっと当てられた掌が胸を包んで妙に恥ずかしい。「この中にもう、あいつのことは残ってない?」「誰? 有沢さん?」「ううん」「…ハルくん?」「……ううん」「………檜垣さん?」「…………違う」 がう、の声は肩に吸い付かれて半分消える。「誰のことですか?」「赤来。『羽鳥』」「…は??」 本当に何のことだかわからなくて首を捻ると、またちゅうう、と今度は首筋に吸い付かれた。「まあ冬だから良いですけどね」 首も肩も外には出ないし。「体全部キスマーク付けても、中には付けられないよね」(中略)「美並」 唇へのキスをようやくもらって微笑むと、ちょいと離した真崎が切なそうに笑った。「もう僕のことだけ?」「え?」「美並があれほど見てくれるなら、僕が『羽鳥』でも良かったのに」 そっと押し当てられた塊に気づく。「…モニター見てて、寂しくなった?」 微笑んで見上げる。真崎が唇を尖らせる。「…美並はあいつのことばっかり話してて」 美並がくれるものは僕が全部欲しい。(中略)「美並の……好きな……謎解き……だよね…っは」「京介」「なに……っ、ふえーっ」 眉を寄せて苦しそうに顔を上げた相手の頬を摘み、両側へ引っ張った。「らりふんの…」 目を見開いた京介が泣きそうになる。「失礼なことするからです」「ふぁい?」「関係のない人の謎に興味はありません。今京介と一緒に居るのは誰ですか?」「ふぃなふぃ」「では、それが全てです」「ふぇ」「私にとっては、京介が世界最大の謎人物ですよ」「そう…?」 ようやく頬を離されて嬉しそうに目を細める相手に、美並は溜め息をつく。 本当に、恋人を殺しかけた相手に嫉妬する男なんて、そうそう居るとは思えない。(中略)「…しかも…何で勢いがついてるんですか?」 聞くと怖い答えが返りそうだが、あえて聞いてみると、覆い被さって来ながら真崎は満足そうに微笑んだ。「いや、美並が刑事で、追い詰められる犯人が僕って言うのも楽しそうだなあって」 ああもう、突っ込むまい。 美並は吐息を漏らしながら、真崎の腕に体を委ねた。 **************** 今までの話は こちら
2026.09.26
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****************「美並…っ!」 檜垣に続いて部屋に飛び込み、座り込んでいる伊吹に駆け寄る。その首についた赤い痣に一気に血の気が引いた。息が止まる、視界が眩む、冗談じゃない、本当に危機一髪だったんじゃないか。「京介……無事でしたよ」 しがみついてくれた小さな体に泣きそうになる。冷えてる、凍えている、全てのエネルギーを使い尽くして腕の中にいる彼女を、必死に包んで抱きかかえる。「12時38分、赤来豊、伊吹美並さん傷害容疑にて現行犯逮捕する」 手錠を掛けられた音、背後で赤来が連れて行かれる、その途中で。「真崎君…尋ねたいことがあるんだけど」 唐突に平板な声が話しかけて来た。腕の中で伊吹が緊張するのを、もういいからと知らせるように少し抱きしめて、ゆっくりと立ち上がった。 その目にこれ以上伊吹を晒したくなくて、背後に庇って赤来と向き合う。 これが孝を追い詰めた男、これが孝を殺したかも知れない男。 ずっと同僚として働いていたのに、赤来の顔は見知らぬ誰かのような奇妙な表情を浮かべていた。「…監視カメラの台数と設置場所、経理に回した分だけじゃなかった?」「そうだね」「誤魔化したのか」 一瞬、朝の会議で見た、赤来豊がそこに居た。「誤魔化してないよ。書類通りの台数を書類通りの場所に設置している……あなたも確認したはずだ」「ならば、なぜここにも設置されている?」「ポケットマネーで」 え、と背後の伊吹からも不審そうな声が上がったが、無視する。「僕は嫉妬深い男だから、婚約者が連れ込まれそうな部屋全部にカメラを設置したんだ」 実はこの部屋には2台仕掛けた。1台は総務で見られる、演台に片付けられているように偽装されたカメラ。もう1台はもっと小さくて、部屋のカーテンの隅から部屋中を写している。その映像は桜木通販には送られていない。京介の家のPCに取り込めるようになっている。 もし、京介が『羽鳥』なら。 そう考えてみたのだ。 時ならぬ防犯カメラの設置は不審を抱く。台数と場所を調べるのは当然、どこでどのようにモニターされるのかも調べるだろう。万が一、総務のモニターに細工されたら。事前に勘が働いて、設置されていないところにもあるかも知れないと探されて、演台上のカメラが見つかったら。 伊吹を失うことに比べれば、数百万の出費など痛くも痒くもない、その後の人生は京介にはないのだから金を残す必要はない。「…そういう……ことか……さっさとヤっておくべきだったな」 赤来の声に冷笑を返した。 本当にその方が良かったな。それなら伊吹も巻き込むことなく、京介は赤来と一緒に自分を始末して終わらせられた。そのほうが、物事はうんと簡単だった。 開いたドアの向こうに富崎の顔が見えた。手配を終えて戻って来たらしい。ひょいと目を上げ、凍りついた顔になってカーテンの隅を眺める。京介に目をやり、引きつった顔で視線で知らせる。 ああ、あそこからだと見えてしまうのか。 にっこり笑って頷くと、溜め息をついて頭を掻いた。後でお叱りが来るかもしれない。「さっきのはどういう魔法?」「何のことですか」「君は霊とか呼び寄せられるの?」「…いいえ」 ふと赤来と伊吹の会話に意識を戻す。何か懐かしいやりとりだ。「…風鈴の音がした……あれは妹が取り損ねた風鈴の音だ」「妹さん?」「…風鈴を取りたいと言ったから……手を伸ばさせて、支えてたはずだったけど……落ちちゃったよ」 ぞわと身体中の毛が再び逆立った。いつの間にか前に出て、京介に背中を向けている伊吹の姿、あたりが急に静かになって、あの山の中のように感じる。「…僕が押したのかな。君ならわかるかい、伊吹さん?」 迷子になったような声の赤来に、伊吹と出会ったころの自分が重なった。「…わかったらまた教えてよ」「…っ」「京介?」 思わず両肩を掴んだ。見上げてくれた伊吹が名前を読んでくれたから堪えられた。そうでなければ京介は、赤来に飛びかかり叫び出しそうな気分だった。 お前の居場所なんか、美並の中にはないからな。 **************** 今までの話は こちら
2026.09.25
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****************「行かせて……美並」 歯を食いしばる。「今すぐ、側に」 動けない。 赤来も優位を確信したのだろう、困惑を消して椅子に坐り直す。微笑みが浮かぶ、京介の皮膚を粟立たせる、獲物を弄ぶ獣の笑みが。『それとも伊吹さん……君はもっと他のことを知っているのかな?』「…畜生」 珍しく富崎が罵倒する。「このままじゃ引っ張れねえ」『例えば、事件の関係者と僕が関わっているような噂を聞かされたとか』『例えば、そのただの噂や思い込みを元に、何かの証拠を探そうとしているとか』『誰かの何かに、例えば僕の指紋が付いていたって、君は確認することなんかできやしないよ』 京介は携帯を取り出した。 着信歴から有沢を呼び出す。警察に連絡しても来れないだろう、有沢が出られなくても、檜垣ならば転送の手配ぐらいしているかも知れない。『……どうした?』 掠れ声が応じてほっとした。「伊吹さんが桜木通販の第2会議室で『羽鳥』を追い詰めています」『何…っ』「檜垣さんをよこして下さい、今すぐに」『おい』「僕が赤来を殺すから」『ちょっ…』「おい、真崎…っ」「ごめん、我慢が切れた、モニターを見てて。全て記録して。もうしばらくしたら、僕を捕まえに警察が来るから、第2会議室へ誘導して、お願いします!」 呼び止める富崎を背中に総務を飛び出す。「待って、真崎君!」 背後に響く元子の声にも止まらない。手足が冷えて、頭ががんがん鳴っている。間に合わないんじゃないかと警告音が鳴り響く。 全体が昼休憩に入った。廊下に社員が溢れ出す。行く手を遮る。舌打ちしながら擦り抜ける。脈絡もなく、いつかの夜に明と競ったスリー・オン・スリーが脳裏に蘇る。第2会議室は目の前だ。今何か妙な振動が響かなかったか。会議室の中で悲鳴が小さく上がらなかったか。 殺してやる、赤来豊。「ごめん、すみません、退いてっ」 廊下を駆け抜けていく真崎の耳に、奇妙な音が届く。 ぴんぽんぱんぽーん。「…え?」 一斉放送、こんな時に、一体何を。 一瞬気が削がれて速度が落ちた、その側を。「急げっ、第2会議室だ!」「はっ」「檜垣さん…?」 駆け抜ける姿を追うように、富崎の声が全館に届く。『ただいま第2会議室におられる赤来課長……繰り返します、第2会議室におられる赤来課長』 休憩に出ていた社員がざわざわと天井付近を見上げる。『至急の案件が発生しました。今すぐ社長室へおいで下さい』「……ああ……なるほど」 京介は立ち止まった。額に浮かんだ汗が流れ落ちる。 第2会議室前、警官が待機する。檜垣が中を覗き込み、指と視線で指示を出している。もう一度、富崎の声が、しっかりと呼ぶ。『繰り返します。赤来課長、至急の案件がございます。今すぐ社長室までおいで下さい』 放送は赤来の所在を指摘している。カメラがないはずの場所で伊吹と話しているつもりの赤来が、放送を耳にしてどれほど驚いたか察するに余りある。 同時に富崎は、檜垣が駆けつけている間に飛び込まないように、京介を足止めした。「…どこが安定感のある男だって? 食わせ者だよね、富崎さんも」 顎まで伝った汗を拳で拭い取りながら、第2会議室へ向かって歩き出した。 檜垣はまだ飛び込まない。鋭い視線が中の様子を伺っている。機会を狙っている、千載一遇の、二度とは訪れないチャンスを逃すまいとする猛禽類の目、ちらりと一瞬京介を見遣り、冷ややかな笑みを浮かべた。 京介が近づくのを見計らったように、会議室内で罵声が上がる。「まさか、お前…っ」「っ!」 叩きつけられたように京介は走り出した。 **************** 今までの話は こちら
2026.09.24
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****************『ボイスレコーダー……無駄だよ……だって、僕に奪われるからね』 富崎の声に重なったことばにぞっとして、京介は画面を振り向く。 思い出したのは『ハイウィンド・リール』だ。あの時は明に携帯を繋げていた。時間が限られ準備ができたせいだ。大輔に誘われてアラームをセットしていたのも同じ、だがしかし、今回はいつやってくるかわからない赤来に対しては使えなかった。だから伊吹はボイスレコーダーを準備したのだが、確かにこの状況では意味がない。 身が竦む。京介は伊吹を過信して、逃げようがない場所へ追い詰めてしまったのか。 だが、伊吹は揺れた気配さえ見えなかった。『小学生の頃、万引きを仕切っていました』『ハルくんの絵を引き裂きました』『コンビニ強盗を組織し、孝さんを巻き込みました』『大輔さんと一緒に多くの人を傷つけました』『孝さんを殺しました』「おい…」 暴かれる内容に富崎が目を見開く。「それだけのことが…隠されていたのか?」『…見えるんです』 伊吹はここで他の目が彼女を見ていると知らない。『私には、あなたの色が見える』 京介も息を呑む。 京介とハル以外には語られなかった真実を、伊吹は自ら告白している。元子も富崎も意味を計りかねている。カメラに写っているとは気づいていないが、ボイスレコーダーには伊吹の告白が残り、もし証拠とするのなら、彼女はそのことばの意味を説明しなくてはならなくなる。そして、その説明は、伊吹の真実を曇らせかねないはずだ、『現実的』ではない世界に生きている、その判断は正しくないかもしれない、として。 それでも伊吹は淡々と続ける、ごく当たり前のことのように。『あなたの中に、赤来課長と関わるはずのない、孝さんの色が見える』 簡単だ、それが唯一、ここまで『羽鳥』を追いかけてこれた理由だからだ。『お尋ねします。なぜ、赤来課長は難波孝さんを知っているのですか』 間違いだ、と赤来は言い放った。『難波孝さんは大輔さんの知り合いです。赤来課長は大輔さんと親しいのですか』 間違いだ。『緑川課長は孝さんを知っていた。赤来課長は緑川課長と孝さんのことを知っていたのですか』 間違いだ。「……いつから…こいつは…」 富崎が白い顔で呟いた。「桜木通販を食い物にしてた…?」「おそらくは、緑川事件から既に」 京介の返答に富崎はごくりと唾を呑む。『あのホテル前のコンビニに、あなたの姿が留められていた』 赤来の体が大きく揺れた。『あなたはなぜ孝さんが殺されたホテルに居たのですか』『…君の言っていることは無茶苦茶だよ、伊吹さん』 赤来が優しく話しかける、幼い子どもに言い聞かせるように。『何を言っているのかわかっているのかな、不安なことが続いて混乱しているんじゃない?』『ねえ、伊吹さん、大丈夫? 僕の話していること、わかってる?』『どうしたの急に、心配になるよ、一体何の話をしているのかな』『ああ、阿倍野さんかな、君に妙なことを吹き込んだのは。そう言えば彼女、体調を崩して休んだままだけど、こう言う時に困るよね、伊吹さんは何か知っているのかな』「俺の耳がおかしいのか?」 富崎が首を振った。「赤来が話しているのはまともなことに聞こえるが……そう、聞こえないのはなぜだ」「…真実を知っているからよ」 元子がぽつりと呟いた。「赤来のことばは普通だけれど、あなたは阿倍野さんが赤来と関係して流産して会社を辞めたのを知っている。知っていて、赤来のことばを重ねれば、意味が全く違ってくる」『伊吹さん? どうしたの?』 畳み掛ける赤来の声に、京介は拳を握り締める。 真実なんてどうでもいい。 今第2会議室で一人、お前の存在は不自然で意味がないと突きつけられている伊吹が望むなら、これから先の未来を全部投げ捨てて、赤来を殺しに行くのに。 けれど京介は動けない。 美並は来いと命じていない。 伊吹が目を閉じる、赤来に言い負かされてしまったように。「…伊吹さん…」 赤来の言うことが本当なんだと認めるように。「…呼んで」 京介は願う。「僕を呼んで」 ただ一言、京介、来て下さい、と呟いてくれればすぐに。 そうすれば、京介は罪に問われるだろうが、伊吹の未来からは憂いが消せる。 身を翻そうとした矢先。 駄目です、京介。「っく」 伊吹の声に動きを封じられる。 **************** 今までの話は こちら
2026.09.23
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****************「……大丈夫、伊吹さん」 京介は、ドアの向こうに檜垣と共に消え去っていく赤来を見つめていた伊吹に声をかける。「…大丈夫です」 答えは返ってきたものの、そのままふわりと後ろに倒れてきそうに思えて、思わず背後から抱きかかえる。冷えた体、暖房一つも入れていないこの部屋で、身震いするような攻防を一人で成し遂げた愛しい相手に胸が詰まる。 土曜日に防犯カメラの設置は終えていた。見積もりの台数と場所を書類で赤来に知らせたのは罠だ。会社の手順としてはおかしくない。赤来が自分がまだ疑われていないと思っているのなら、そのカメラのないところで仕掛けてくるだろう。 京介ならば、お祝いの席など設けない。あからさまに自分が関わる場所で仕掛けなどしない。 いつも通り、何事も起こっていないかのような日常で仕掛け、相手の油断を誘い、致命傷を負わせる、大輔と同じような遣り口で。「しかし、これはやり過ぎだろう」 同意した富崎は京介が密かに設置したカメラの配置と数に呆れ返った。 深夜2人で画像を切り替えて点検しながら、眉を寄せる。「こんな状況、株主連中も納得しないんじゃないのか」「それほど長くはないと思うよ、仕掛けるまで」 京介は昼間見た赤来のデスク周りを思い出す。「片付けを始めている気がする。ぎりぎりまで残るような顔をして、ある日突然いなくなっている気もするんだ」「…それは同感だ」 経理の書類、この状況なのに処理が速くなっている。「捌く件数が減っているだけじゃない、ちょっと聞いてみると、かなりの数を赤来が引き受けて回しているらしい。周囲には負担を減らすためと話していて、評判は悪くない」「この1週間内だね。早ければ、月曜日」「早すぎないか?」「赤来課長は伊吹さんを高く買ってるんだよ」 京介は苦笑いした。「それほど大人しくはしていないって思ってる」「ふうん」 俺も伊吹さんは買ってるけれど、そこまで焦るかなあ。 富崎のことばにひくりと顔が引き攣った。「他から見るのと相手にするのとは違うよ」「相手にすると違う、ねえ」 じろりと見遣った瞬間、富崎が笑う。「ああ気にしなくていい、僕は相性的に伊吹さんは無理だから。怖いしね」「…ならいいけど」 本当に君は伊吹さん相手だと『外れる』なあ。 富崎の顔に夜の痴態を思い出して顔が熱くなった。 読みは外れてないとわかったのは月曜日の昼前だ。『…動いたぞ』 社長室に引き継ぎ業務で出向いていた時、富崎からの連絡があった。元子と顔を見合わせ、行動に移る。 試運転中ということで、総務の隅に並べられたモニターの操作管理は富崎一人が関わっている。少し早めの昼を申し渡された職員は、社長と真崎が揃ってモニター前に陣取ったことに、管理上の調整と考えたらしく、部屋には誰もいなくなっている。「会議が終わった後別れてから、伊吹さんに話しかけたから、ひょっとしたらとモニターしていた」 指先で叩く画面には、廊下で2人話し込みながら、赤来が何かを手渡すのが見える。「パンフレット? 居酒屋のチラシみたいね」「伊吹さん、あれを確保しておいてとか考えないだろうね」 不安そうな富崎の声に真崎は第2会議室に画像を切り替える。先ほどのカメラから、第2会議室に入るまでは一瞬画像が入らない死角がある。もちろん、『羽鳥』ならば、それも確認しているだろう。「座ったな」「はい」 会社で設置した防犯カメラは音声を拾わないが、京介が個人で設置したものは音声を拾う。伊吹と向かい合って座った赤来にきりきりしたものを這い上がってくるのを堪えながら睨みつける。 今すぐ飛び込んで引き剥がしたい、例えドアが少し開いていても、あの場所からは逃げられない。逃げても誰かが駆けつける前に、伊吹が殺されてしまうかもしれない。 伊吹が倒れている第2会議室を何事もなかったようにドアを閉め、淡々と周囲と会話しつつ廊下を歩み去っていく赤来の姿が想像できる。一般社員は第2会議室は使わない。管理者だけが知っているが、社内で防音性が一番高い部屋だ。『「Brechen」が結構桜木通販にテコ入れしてるからって、岩倉産業の社長があまりよく思っていないとか』「ちっ」 ことさら響いた声は伊吹にどう伝わっただろう。舌打ちしながら、赤来の卑劣さに苛立つ。 確かに『Brechen』の最近の動きは岩倉産業とずれている気がする。『ニット・キャンパス』に労力を割き過ぎ、商品展開が不十分だ。もっとも、力をつけ伸びてきた『Brechen』の面々を、岩倉産業の古参連中が煙たがっているとの噂もある。『ニット・キャンパス』が終われば、岩倉産業から独立するのかもしれない。『「さわやかルーム」? 懐かしいでしょ』『…懐かしいですね』 赤来の嫌味に伊吹は動じない。静かな顔に惚れ惚れする。「…伊吹さんの前の職場?」「ええ。大変だったと聞いています」 富崎の声に京介は唸る。「調べたんですね、赤来さんは」『扉は少し開いている。君は閉じ込められてなんかいない。後ろを振り向き、逃げ出せばいいだけだ』 響いた声に薄く笑った。なんて馬鹿馬鹿しい理屈だろう、そんな正論があるものか。「賢いな」 富崎が冷ややかに呟いた。「抵抗しなかったと論証できるぞ」「え」 京介は思わず画面を凝視している富崎を見遣る。「抵抗できるタイミングに抵抗しなかったことが、同意したと判断される事例は幾つもある」「そんな」「赤来はほんと、素人じゃないな」 **************** 今までの話は こちら
2026.09.22
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****************「っっ?!」 さすがに赤来が跳ね飛ぶように美並から離れた。いきなり解放された体に入ってきた空気に噎せて咳き込む美並の耳に、もう一度。『繰り返します、第2会議室におられる赤来課長』 何々、どうしたの、どういう放送、これ。 廊下のざわめきが聞こえてくる。喘ぎながら美並も訝しく天井を見上げた。『至急の案件が発生しました。今すぐ社長室へおいで下さい』 声はゆっくりと響き渡る。『繰り返します。赤来課長、至急の案件がございます。今すぐ社長室までおいで下さい』「そんな……どうして……ここに居るのが…」 赤来がぼんやりした声で呟き、はっとしたように周囲を見回し、見る見る顔を真っ赤にする。「監視…カメラ……っ」 赤来の声に振り返り、美並も見つけた。部屋の隅にプロジェクターなどが載せられた演台、よくよく見ると、その中にカメラが一台こちらにレンズを向けた状態で混ざり込んでいる。「ここにはつけていなかったはず…っ」 唸った赤来が鋭く目を光らせて振り返る。「まさか、お前…っ」 座り込んだままの美並に身を翻して詰め寄ろうとした矢先、「はいはい、それ以上やるのは『無し』な、公務執行妨害ついちゃうから」「っ」 突然扉を開けて入ってきたのは檜垣、数人の警官が続いて窓に至る経路を塞ぐ。うろたえて周囲を見回した赤来が、さすがに逃げ場はないと思ったのだろう、動きを止めた。「今でも殺人未遂ついてる感じだけど…大丈夫かい、オカルト巫女さん?」「美並っ」 檜垣を押しのけるように真崎が飛び込んで来て、抱き締めてくれる。その体が冷え切りがたがた震えているのに、美並はほっとして手を伸ばし、しがみついた。「京介……無事でしたよ」「うん……うんっ」「12時38分、赤来豊、伊吹美並さん傷害容疑にて現行犯逮捕する」 檜垣がちらりと美並の首を眺め、赤来の手首を掴む。 がちゃりと落ちた手錠を、赤来はのろのろと見下ろした。「…どうして…」 平坦な声で呟き、訝るように首を傾げる。「どうして……捕まった…?」「詳しくは署で聞いてやる……じっくり……そりゃあじっくり、どうして捕まっちまったのかわかるまで、な」 檜垣が低く唸る。「少なくとも、有沢さんが楽しめるぐらいには、丁寧に聞き取ってやるさ、安心しろ」 吊り上がった唇から、獰猛な獣のように歯が覗く。「行くぞ……なんだ?」 戸口から連れ出されかけた赤来が唐突に立ち止まった。。のっぺりとした奇妙な表情で美並を振り返り、続いて真崎に目を向けた。「真崎君…尋ねたいことがあるんだけど」 美並を抱き締めていた真崎が鋭い視線を返しながら立ち上がる。「何?」 美並を背後に庇いながら、用心深く応じた。「…監視カメラの台数と設置場所、経理に回した分だけじゃなかった?」「そうだね」「……誤魔化したのか」 一瞬、課長の顔に戻った赤来に真崎は淡々と応じる。「誤魔化してないよ。書類通りの台数を書類通りの場所に設置している……あなたも確認したはずだ」「ならば、なぜここにも設置されている?」「ポケットマネーで」「…は?」「僕は嫉妬深い男だから、婚約者が連れ込まれそうな部屋全部にカメラを設置したんだ」 檜垣が突然吹き出した。「ひでえ、笑えるな、それ」 赤来が目を細め、細く長く溜め息をついた。「…そういう……ことか……」 冷えた声が続く。「さっさとヤっておくべきだったな」 呟いて、赤来は今度は美並に目を向けた。「さっきのはどういう魔法?」「何のことですか」「君は霊とか呼び寄せられるの?」「…いいえ」「…風鈴の音がした」 赤来が目を細める。一瞬懐かしげに微笑み、「あれは妹が取り損ねた風鈴の音だ」「妹さん?」「…風鈴を取りたいと言ったから」 どこか幼い声で続けた。「手を伸ばさせて、支えてたはずだったけど……落ちちゃったよ」「…」「…僕が押したのかな。君ならわかるかい、伊吹さん?」 振り向く瞳の奥に、孝に似た小さな姿が微かに見えた。「わかったらまた教えてよ」 言い捨てて背中を向け、警官に両側から付き添われて歩いていく赤来は、二度と後ろを振り返らなかった。 **************** 今までの話は こちら
2026.09.21
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**************** ゆっくり目を開いて世界を見た。 大丈夫だ。 『羽鳥』も『赤来』も十分元気だ、まだまだ平気で逃げ出そうとしている。もっとぎりぎりのところまで切り刻んでも大人しくする気はなさそうだ。 まだ踏み込んでいい、もっと深くまで貫いてもいい。 全力で行っていい。 体がざわつく。汗が滲む。押さえつけていた感覚が次々と光彩を放って立ち上がって行く。皮膚が粟立つ、目の前の男に対する恐怖ではなく、自分の中に居る別の『羽鳥』を意識して。恐ろしいはずなのに、沸き立つような喜びしかない自分を感じて。 圧倒的優位に居る相手だ、楽しいじゃないか。 鋭く感覚を研ぎ澄ませる。 ポイントはどこか。 『羽鳥』が思い出しもしていない、『赤来』の記憶にはない、けれどそれが致命的だと知らしめる場所は一体どこだろう。「…それとも伊吹さん」 椅子から浮きかけていた腰を緩やかに落として、『羽鳥』は穏やかに微笑んだ。「君はもっと他のことを知っているのかな?」 どす黒い赤い靄は『羽鳥』の姿を幾重にも包む。『赤来』の薄皮を貼りつけ、無言の美並を身動きできないように包み込もうと、紅蓮の触手を伸ばしてくる。「例えば、事件の関係者と僕が関わっているような噂を聞かされたとか」 低い優しげな声。 経理に出向いて書類の指示を受けているだけだと誤解しそうな、安定感のある口調。「例えば、そのただの噂や思い込みを元に、何かの証拠を探そうとしているとか」 勘違いだよ、伊吹さん。 君は何か根本的なところで間違っていて、それでこんな馬鹿なことをしてしまっている。「誰かの何かに、例えば僕の指紋が付いていたって、君は確認することなんかできやしないよ」 堪えかねたように、くすくす笑う。「いつかのファイルは面白かったけどね」 もうこのあたりで終わりにしよう。「…間違いは誰にでもよくあることさ、僕にだってある、だからさ」 僕は許してあげるよ、君を。 『赤来』はにっこりと笑う。「だって、君が考えているような色々な事件と僕には、一切関わりがないんだからね」 よく調べればわかることだし。「君だって、勤めている会社の上司に妙な疑いを掛けて、いろんな人を巻き込んで迷惑かけたくないだろう?」 ひょいとこれ見よがしに腕を伸ばして時計を眺める。「例えば、この時計が珍しいものだからって、僕が持っていておかしいってことじゃないんだしね」 青い針の時計。『赤来』は修理を依頼した店から、警察が調べているとでも知らされたのか。 見せつけてくる、知らせてくる、美並が何を手掛かりにし、何を押し付けて来ようとも、『赤来』に繋がる『羽鳥』のラインはただ一つもない、と。 ふいに、鮮やかな朱色に染まった空が見えた。 ああ、そうだろう。 奇跡はそう言う繋がり方をするものだ。「……なぜ、ハルくんの絵を引き裂いたのですか」「絵?」 『赤来』は戸惑った声で応じた。「僕は、絵など引き裂いて……っ」 『羽鳥』が凍りついた。「…まさか…」「あなたが忘れてしまっていても、傷跡が残されていた」 あれを、残していたのか。 声にならない声が『羽鳥』の口から零れた途端。 チリン。「?」 ふいに音が響いた。美並だけに聞こえたのではない、『羽鳥』もまた訝しげな顔で美並を凝視して耳を澄ませている。 チリン。「風鈴?」 美並のことばに『羽鳥』がざわっと毛を逆立てたのを感じた。 もう一度、と胸の中から声が響く。 紅の海に座る『美並』にもう一人、誰かの姿が重なるような気がして戸惑う。幼い少女、華奢な手足、促されるように『羽鳥』を見つめる。『赤来』を超え、『羽鳥』を貫いたその彼方、誰だろう、弱々しげな、孝に似ている小さな姿が透ける。 そっくりだったから、我慢できなかった。 愚かで圧倒されて振り回されて、だから踏みにじって消したかった。 アイスブルーの光が赤い靄の彼方から、孝の気配を重ねつつ滲み出してくる。 許してあげるよ、君を。 弱かった、脆かった、堪えきれず、抱え切れなかった。 けれどもう、このあたりで終わりにしよう。 だから、今一度、思い出させてやって欲しい。 美並は口を開いた。「…あなたが………忘れてしまっていても……傷跡が……残され……っっ!」「黙れっ!!」 飛びかかられて椅子から転げ落ちる。派手な音がしたはずだが、ちょうど昼休憩に入った矢先、一気にざわめく社内に美並が床に叩きつけられた衝撃が飲み込まれる。「うっ」「黙れっ何の話だ、今何をやった、ボイスレコーダーか、何をどこで鳴らしたっ」 美並の上に馬乗りになった『羽鳥』の姿から、見る見る赤い靄が溶け去っていく。赤来の顔は青白く表情を無くしている。「これはなんだ、こんなものがなぜ見える、お前は何をやってるんだ!」 首を締めきらないのは答えを待っている姿、乗られた体重が苦しくて吐きそうになった美並が喉を鳴らした瞬間、ぴんぽんぱんぽーん、と滅多にならない間抜けたコールが鳴った。 落ち着いた富崎の声が続く。『ただいま第2会議室におられる赤来課長』 **************** 今までの話は こちら
2026.09.20
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****************「間違いだ」 ためらいは瞬時、すぐに切り返してくる。「難波孝さんは大輔さんの知り合いです。赤来課長は大輔さんと親しいのですか」「君は何か勘違いをしている」「緑川課長は孝さんを知っていた。赤来課長は緑川課長と孝さんのことを知っていたのですか」「違う」 切り結ぶ。 至極真っ当な、『赤来』の嘘偽りのない顔で応じる相手に向かい、その顔を突き崩して奥にいる『羽鳥』へと進む道を探す。「あのホテル前のコンビニに、あなたの姿が留められていた」 『羽鳥』が体を引く。「あなたはなぜ孝さんが殺されたホテルに居たのですか」 『赤来』は『難波孝』を知らない。『孝』に繋がる『大輔』も『緑川』も知るはずがない。 知っているのは、『羽鳥』だ。 ボイスレコーダーには大輔なら気づかないと言う台詞が入っている。赤来が大輔との関係を認めたことばだ。けれどそれを持ち出せない限り証拠にならない。ことばは宙に溶け、そんなことを言っていないと言われれば話にもならない。 『羽鳥』は自分が安全なのを知っている。「…君の言っていることは無茶苦茶だよ、伊吹さん」 『赤来』は再び何食わぬ顔でモブの一人として『羽鳥』を皮膚の下に押し込めようとする。「何を言っているのかわかっているのかな、不安なことが続いて混乱しているんじゃない?」 訝しげな声を響かせる、心配そうに、善人の気配で。「ねえ、伊吹さん、大丈夫? 僕の話していること、わかってる?」 どうしたの急に、心配になるよ、一体何の話をしているのかな。 美並を真っ向から否定し、あり得ないと嘲笑う。そんなあやふやな感覚で何ができると糾弾する。「ああ、阿倍野さんかな、君に妙なことを吹き込んだのは。そう言えば彼女、体調を崩して休んだままだけど、こう言う時に困るよね、伊吹さんは何か知っているのかな」 知っていると意識すれば気が逸れる。知らないと考えれば、ごまかしていると負担になる。 さっきまであれほど美並を脅しつけていたのを忘れたように、話題をかえ、雰囲気を作り直す、その底にあるのは、どんな手を使ってでも優位に立とうとする意思だ。 飲み込まれそうになる、正しさと言う刃の前では無力なんだと。 本当は美並が間違っているのではないか。 今ここは、美並が考えているような殺人犯との対決の場ではなく、職員の不調を心配する上司との懇談の場でしかないのではないか。 そう考えたくなる。 …何を怖がっているの。 美並は自分に問いかける。 能力を過信して大石や奈保子を傷つけた。苦しい過去を知りもせずに京介を傷つけた。最後にと切なく望まれたのに応じられずに有沢を傷つけた。 美並はいつも足りない。 けれど怖がっているのは足りないことではない。能力を封じ、過去を聞き取り、応じられないのは謝罪して、それでも美並は怖がっている。 怖がっているのは足りないことではなく、足りないことで傷つけることだ。 けれどその感覚は、足りていれば傷つけていいのかと言う問いになる。 能力があり、過去を熟知し、望みに応じることができるなら、傷つけても構わないのか。「伊吹さん? どうしたの?」 答えない美並に、『赤来』は案じる気配で覗き込む。 赤い靄に隠されているが、微笑みは勝利の確信だろう。 ああ、そうか。 美並はゆっくり瞬きする。 自分が間違っていると考えたくなるのは、自分が振り下ろす正義の刃に傷つく人を見たくないからだ。 正しさで裁かれてきたから、正しさで裁きたくない。 自分もまた、無傷で安全圏で居たいと願っている。 いや、たぶん、それもまた、違う。 美並は目を閉じた。 『赤来』でも『羽鳥』でもない、『美並』を覗き込む。 『美並』は知っている。 『見えた』ことで得てきた真実、それがどれほど揺るぎないものか、わかっている。 その『力』を理解している。 小学生の頃、いじめに怯まなかったのは、そんなもので現実が塗り替えられることはないと知っていたからだ。能力を封じても平気だったのは、見ようと見まいと現実は変わらないとわかっていたからだ。 世界はあくまで公平で、人の思いにかかわらず、全ての出来事は天秤の中で釣り合いが取られて収まって行く、その非情さを骨身に沁みていたからだ。 『美並』は知っていた、だから自分に言い聞かせた、美並は『足りない』のだから、その刃を振り下ろすことはできない。その刃を振り下ろしてはいけない。 人を傷つけてはならない。 でなければ、『美並』もまた、世界の理の中で刈り取られて行くだろう。 ひょっとすると、その手控え感が、周囲の攻撃を煽ったのかも知れないが。 けれど今。 『美並』は闇の中に座っていた。 足元も周囲もわからぬ暗がりの中、苦しそうでも不安そうでもなく、微笑みながら見上げてくる。 人の闇を見ていたのではない。 自分の中にある闇を人に写して眺めていた。 だから恐ろしくも辛くもなかった、そんなものは自分の中でとっくに十分味わっている。 誰かを傷つけても能力を溢れさせたい。欲望に翻弄されながら快楽に溺れたい。悲劇を餌に同情と共感を引き寄せたい。組織や社会を理由に傷つかずにいたい。叩き潰され全てを奪われたから仕方なかったと言い訳したい。 弱さも脆さも全ては自分の中にあったから、『美並』にはどんな攻撃も意味がなかった、聖人君子ではないと言う指摘さえも。 そんなことは、知っている。 闇の玉座に白いドレスを広げて座る『美並』は、微笑みながらとん、と軽く足を踏む。 一転、周囲は深紅となった。 少し桃色がかったような、鼓動を感じるような生温かくたゆたゆと揺れる海。 『赤来』の靄どころではない、厚みのある重みのある、手に触れて握れるほどの深い紅。 『美並』はずぶりと海に手を入れ、掬い上げて差し伸べる。 指先から肘にかけて伝う『赤』。 **************** 今までの話は こちら
2026.09.19
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****************「なぜあなたはそれを調べたのですか」 美並の問いに赤来は薄く笑った。唇の片端を上げる皮肉な笑み、桜木通販の経理課長としては見せなかった冷ややかな微笑だった。「…わかっているんじゃない?」 ここね、監視カメラ、ないよ。「…」「台数と場所、知ってるんだ。第2会議室には設置されなかった」 だから何を話しても構わない。「扉は少し開いている。君は閉じ込められてなんかいない。後ろを振り向き、逃げ出せばいいだけだ」 赤来は楽しそうだった。「誰か助けて下さい、赤来課長がおかしいんですって」 少し間を置く。美並の反応を確かめるように。絶体絶命の危機に垂らされた糸を教えるように。 だが。「誰が信じるだろうね」 丁寧に希望を断ち切った。「入ったのは君だ。僕は強制していない」 腕に手さえ掛けていない。「ここには何もない。君を傷つけるものは一切ない。居酒屋のパンフレットぐらいだよ」 そうか、こんな風に。 美並は『羽鳥』に誘い込まれた女性達に自分が重なっていくのを感じた。 赤来の評価は良い。会社でも好人物で、傾きかけた桜木通販の経理課長として十二分に働いている。阿倍野のことは秘密の付き合いで、しかも真崎を襲った一件で彼女は会社を離れてしまった。傷つけられた彼女の訴えは、どこにも届いていない。 赤来の言う通り、第2会議室に連れ込まれたわけではない。今も縛られてもいないし、椅子から立ち上がって身を翻し、扉を開け放てば逃げられるだろう。だが、その椅子は赤来の座る目の前にあり、立とうとした矢先に腕を掴まれひねり倒される距離にある。背後に逃げたくても、椅子があっては逃げられない。扉の近くに居るのに、赤来と椅子に挟まれて動けない。 このまま襲われてしまえば、世間が美並にどんな目を向けるかは明らかだ。 疑いを持った人物になぜついていった。 不安な話題を出されたのになぜ離れなかった。 黙っていないでなぜ声を上げなかった。 なぜ。 なぜ、自分を襲う運命に抗わなかったのか。 安全圏に居る強者の理屈で裁かれる。「…」 美並は第2会議室に入った時からスイッチを入れているボイスレコーダーの熱を感じ取流、その途端。「ボイスレコーダー」 ぼそりと赤来が呟いた。「無駄だよ」 小さな笑い声の後、「だって、僕に奪われるからね」 確実に美並がそれを収めている場所へ視線を投げた。口調も巧みだ。奪う、ではなく、奪われる、と美並の無力を暗示し、逃げ場のない未来を提示して見せる。「気づかない奴らは居るだろうけど……大輔とか」 にい、と笑った唇が赤い靄の彼方に透ける。「僕は気づく」 確かに気づいただろう、襲った女性から身の証を立てられる全てのものを奪っただろう。 逃げても無駄だ、抵抗しても無駄だ、無駄だ、無駄だ、無駄だ。 繰り返し叩き込まれれば、人は誰でも意思を失う、持っているのは苦痛でしかないから。「伊吹さんは賢い子だよね」 宥めるように赤来は笑った。「僕の何を知っているのかな」 なおも美並の無力を『確かめさせよう』とする。それともこれは、純粋な『興味』か。あるいは、自分の勝利を完全にするために、小さな穴まで潰そうとする『手配り』か。「小学生の頃、万引きを仕切っていました」「…それで」「ハルくんの絵を引き裂きました」「それから」「コンビニ強盗を組織し、孝さんを巻き込みました」「……それから」「大輔さんと多くの女性を傷つけました」「……まだあるのかい」「孝さんを殺しました」 赤来が動きを止めた。 金曜日、真崎が泣きじゃくって抱き締めてきた時、美並は初めて『難波孝』の色を見た。 緑がかったアイスブルーの儚げな色。 柔らかくて優しい声が重なる。 出会えて、幸福だった。 真崎の中の孝の色は綺麗だった。幾度苦しい思い出を塗り重ねても、なお煌めくような色だった。同じものを、あの山の中で見ていた。静謐で綺麗な光。明の姿の奥にも淡く霞みながらも見えていたとわかった。 そうして今、美並は『羽鳥』の赤い靄の向こうに、全く同じ色を見ていた。「…なぜ?」「…見えるんです」「…は?」「私には、あなたの色が見える」 ぎくりと『羽鳥』の体が強張り、一瞬赤い靄を透かして、大きく見開いた赤来の目が見えた。「タイル…?」「あなたの中に、赤来課長と関わるはずのない、孝さんの色が見える」 ボイスレコーダーは動き続けている。 美並が今までずっと隠していた現実を冷酷に記録し続けている。 息を吸い込む。 自分の中に紅がある。雪を抉り、傷みをあからさまにする非情の赤が。「お尋ねします。なぜ、赤来課長は難波孝さんを知っているのですか」 **************** 今までの話は こちら
2026.09.18
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****************「……ああ、大丈夫そうだね」 赤城は美並に先んじて第2会議室に入り、窓を開け、明かりをつけた。椅子を引き、自分から座る。後から来る美並を待ち構える格好で、もし美並が不審を感じて走り出せばすぐに逃げられるし、あまつさえ、扉は薄く開いたままにしていいから、と命じたあたり、真崎以上に配慮のきいた上司の振る舞いだ。「難しい話からしておこうか。あのね、今株主側から不安が訴えられててね」 赤来はさらりと主要な話を持ち出した。「真崎さんが使い込みをしてないか調べて欲しいって内密に依頼があって」「え」「こんなに危うくなった会社を引き受けるのは怪しいって言い出した困った人が居るんだよ」 赤来は苦笑いした。「岩倉産業にさっさと身売りした方がいいだろうって」「……ああ」 そういえば、前にも岩倉産業との絡みを突っ込んだ人間が居ると聞いた。美並が岩倉産業のスパイだとか何とか、小説のような話を持ち出されたと真崎が不愉快がっていた。 とすると、赤来の情報はまんざら嘘でもないのか。 いや。「…」 美並は赤黒い靄がたゆたゆと広がるのに目を細める。 情報は嘘ではない。けれども、その根っこは他でもない、赤来が支配しているのかも知れない。片方で桜木通販の闇を嘯き、桜木通販の中では株主への不信を煽る。平凡だが効果的な遣り口だ。「まあ、伊吹さんにも妙な噂が立っていたし、その辺りからかな」「岩倉産業のスパイ、ですか」「知ってるんだ? まあ、あそこの『Brechen』の大石さん?は、伊吹さんの婚約者だったって噂もあるけど」「そのせいですか?」「ううん、どうだろう。けれど、大石さんは岩倉産業から離脱するかも知れないらしいね」「えっ」 意表を突かれた。「『Brechen』が結構桜木通販にテコ入れしてるからって、岩倉産業の社長があまりよく思っていないとか」 社長と婚約してて、岩倉産業を継ぐと言う話だったけれど、流れたみたいだしね。「…ひょっとして伊吹さんの件からかな?」 楽しげな声を響かせ、覗き込む赤来の顔は靄に覆われて見えにくくなっていた。 また大石の行く手を遮るのか。 怯む気持ちに、ゆっくりと深呼吸する。『Go On』 鮮やかな文字は真崎の温もりをまとっている。 進め。 抵抗は核心に迫っている道標だ。 例えば、大石が奈保子と婚約を解消し、岩倉産業から分かれて『Brechen』を離脱させたとしても、今美並にできることは何一つない。 美並は赤来を狩ると決めている。ハルを標的にし、源内に師匠の過去を暴かせ、京介を一人で置き去っても、自分の能力が何一つ扉を開かないと知っても、それを確認するためだけでも、美並はこの先へ進む必要がある。「大石さんが何を考えておられるのか、私にはわかりません」「昔さ」 赤来はくすりと笑った。「大石さんと仲良しだった頃に、伊吹さん、彼を失敗させたんだってね」 なるほど。 冷えた頭で頷いた。 この数日を、赤来は美並の過去を調べるのに費やしていたのか。真崎を跳ね除け、有沢の追撃を躱し、自分の未来を失わないために、攻撃できるポイントを探していたのか。「『さわやかルーム』? 懐かしいでしょ」「…懐かしいですね」 当然出て来るだろう場所に嘲笑う響きを載せられて苦笑した。 蘇ったのは有沢と訪れた墓所だ。車椅子を押し、『さわやかルーム』に居た時もやはり、残り短い命を運んだことがあっただろうに、美並はその命に思い至らなかった。幼かった。自分のことで手一杯で、いろいろ見ているつもりで、何も見えていなかった。 そうだ、美並はたぶん、この世界に生きていなかった。 あの映画のように、数々の鍵を扉に突き刺しては開けて回り、暴いては眺め、なのに、その部屋をどうするつもりなのか、きっと考えてはいなかった。 失敗したのも当然だ、今ならそれが良くわかる。 美並は目を上げた。 赤い靄に包まれた『羽鳥』を凝視する。 **************** 今までの話は こちら
2026.09.17
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**************** 月曜日はいつもの会議、真崎が席を外し、石塚が電話対応に追われている間、メールボックスの中身を確認に出かけた美並は、廊下の向こうから話しながらやってくる赤来に気づいた。「…じゃあそういうことで」「わかりました」 相手は富崎、確認するように頷くと伊吹に軽く会釈して離れていく。赤来は視線を動かし美並に微笑みかける。「おはよう、伊吹さん」「おはようございます。会議は終わりですか?」「何とかね。幾つか確認事項が残っていて、真崎次期社長はまだ会議室だよ」「そうですか」 頷く美並に、ごく自然に赤来は廊下の隅を見上げる。視線で誘導されて、美並もまた天井を見上げた。黒と銀のカメラが新しく備え付けられている。「ずいぶん増やしたよ」「そのようですね」「経理に台数とか設置場所の見積もりが回って来てね、急ぐからと今朝の会議で事後承諾だったけれど、素早く動いたね」 手配を進めたの、と響いて、赤来を見る。相手はゆっくりと興味深そうにあちらこちらを見回しているし、さっき会議で聞いたばかりと言う顔をしているが、事前に見積もりが回っていたなら、どこにどれだけ配置しているのか十分把握しているのだろう。「いろいろ問題が起こる前に、と聞いています」「問題がね」「はい」 富崎は部署に戻っていて姿がない。廊下には先日来の騒がしさはない。それぞれの部署で仕事についていて、昼にも午前の一息にも時間がある。「この前の話、考えてくれた?」「お祝いですか」「そう。どこがいいかな」「課長とまだ打ち合わせていなくて」「ああ、もし良かったら」 まるで思いついたようなさりげなさで、赤来は手にしていたファイルから、色鮮やかなパンフレットを取り出した。「例えば結婚式後の二次会を企画させてくれるんでもいいんだけどね」 真崎さんに見せようと思ったんだけど、忙しそうだったし。「伊吹さん、今急いでる?」 にこやかに笑う赤来を見つめ返す。 結婚式がいつかも決まっていない、その二次会の企画を持ち出すあたり、まだまだここに腰を据える気配がある。源内や檜垣が指紋を集め、カード・キーと照合し、あるいはまた、それを元に他の場所での情報を新たに収集し始めていると気づいていないのか、それともこれはあくまでブラフか。 いつかのトイレの一件を思い出した。 会社を情事の場所に転じられる感覚は、ここで仕掛けてはまずいと言う制御を失っている。獲物が確実に仕留められるなら、ためらいなく機会を伺うだろう。 美並は少し息を吸った。 気持ちを落ち着け、感覚を研ぎ澄ませる。 ふいに微かな遠い悲鳴が聞こえた。いやぁあああ。離して。目の前の赤来の笑顔に薄紅の靄が被さる。腹のあたりから滲み出す薄黒く漂う霧がじりじりと体を這い上がり、紅の靄と混じり合って、ねっとりとした光を帯びるのを眺めた。「いえ…時間はあります」 笑い返す。「課長がまだ会議室におられるならば」「まだ時間はかかると思うよ」 生真面目な顔で赤来は溜め息をつく。「流通ルートを一つ放棄するかどうかを話し合ってた」「そうですか。保持は難しそうですか」「…そうだね」 ちらりと赤来は美並を見やる。「もう少し話せることがあるんだけど」 カメラを見やり、周囲を見回す。「ここじゃまずいな」「課長がいない方がいいことですか」「…あまり聞かせたくない話なんだ」 赤来は心配そうに眉を寄せた。「ちょっと経理上問題があって」「……伺えますか?」 美並が振ると、少し考え込む。黒みがかった赤い靄、ハルが表現するところの腐った血の色が粘度を増しながら波打つ。「…第2会議室でいいかな?」 美並に首を傾げた。「しばらく使わない」「わかりました。あまり遅いと石塚さんが不審がるので」「わかった、数分だね」 頷く相手の顔に悪意はない。「これは渡しておくから、後で見てみて」 ひょいと渡されたパンフレットは確かに小宴会スペースや小綺麗な居酒屋のもの、どう見ても真剣にお祝いのための場所を探してくれているようにしか見えない。 **************** 今までの話は こちら
2026.09.16
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****************「……僕達の物語みたいだ」 美並を抱きかかえながら、真崎が呟く。「神様のちょい見せ…ですね」「え?」「昔、通りすがりに聞いたことばです」 美並は髪にキスしてくる真崎の唇に微笑みながら、エンディングロールが流れる画面に溜め息をつく。「あるべきものが、あるべき場所へ、一番いい形に収まる光景を、神様が気まぐれに見せてくれる」「…それって酷くない?」 不安そうに真崎が抱きしめてくる。「幻みたいなものでしょ」「違いますよ」 美並は目を閉じた。「約束です」「約束?」「どんなに難しい状況でも、必ず何とかなる道がどこかにあるから探しなさいって言う呼びかけ」「…希望を失うなってこと?」 でも、厳しい時の方が多いよね。「…京介?」「…はい」「私、一人で生きていくつもりでした」「…美並…」「あなたと知り合ってからも、自分の能力が何の救いももたらさなくて、何も願いが叶わなくて、必死に頑張っても全部指の間から零れていくばかり」「美並っ」 ぎゅううっと真崎が抱き締める。「僕は違う、僕は違う、美並がいなくちゃ僕はもうとっくの昔に死んでたからっ」「…って、思い込んでました」「え」 半泣きになってぎゅうぎゅう締め付けてくる真崎にくすくす笑う。「自分の能力が子どもに繋がったら、またきっと辛い想いをするから、一人で生きて、一人で死んでいこうって。明や両親が心配してくれているのもわかっていたけど、もう重くて、しんどくて。こんな想いをするのは、私一人でいいやって」「…み…なみ…」 呆然とした声が背中で響く。真崎が何を考えているのかよくわかった。美並がずっと真崎を支えながら絶望していったのだと思っているのだ。「僕、は…」 干からびた声、腕の力が緩む。その腕を外側から押さえて、真崎の体に凭れ込んだ。「あなたと同じ……孝さんになることしか未来の姿が見えなくて、苦しんでいたあなたと同じ」「…」 真崎が腕の力を少し強める。髪にキスが落とされる、丁寧に、祈りを込めるように。「私には、私が幸せになる未来の姿が見えなかった」 生まれた子どもが人の心が見えて、ひょっとしたら私よりもはるかによく見えて、そのために傷ついて苦しんで、自分の無力さに竦んで動けなくなって。そんな命を与えてしまうなら。「一人で生きていこうと思う、未来しか」 私の存在は意味がない。 いや、私の存在は未来にとって害悪でしかない。 それならいっそ、このまま。 真崎一人を救えれば、それで十分役目を果たせる。「…あなたを救いたくて付き合った」 次のことばは辛い。「あなたを好きなのかどうかわからなかった」「……ん…」 真崎は否定しなかった。ただじっと、美並の頭に頬をつけて頷く。「けれど…あなたは笑ってくれる」「…」「私の側で、嬉しそうに笑ってくれる」「……嬉しいからね」 真崎が呟く。「僕は美並と居るのが嬉しくてたまらないからね」「…救われたのは…私だった」 美並は静かに息を吐いた。 涙が零れ落ちていく。 愛など望むべくもないと思った。愛のない場所を探し歩いた。なのに、ここだけにはあり得ない、その場所に、真崎が居た。真崎の側で溢れてくる愛に気がついた。 かけがえのない場所。「京介、待っていて下さい」「…え?」「怪我するかも知れないし、傷つくかもですが、どんなことになっても、ここへ戻って来ます」 言い切ってからごくりと唾を呑んだ。体が小さく震えているが、怖かったり怯えたりしているのではないとわかっていた。武者震いだ、自分の全力を使っていいという瞬間への期待。「……」 真崎は沈黙している。 目を開くと、最後の文字が巻き上がって消えていくのが見えた。それで終わりかと思っていたら、一番下から文字が浮き上がって行く。 予想していた気がした。 『Go On』 神様のちょい見せが囁く。 頑張れ、美並。 頑張れ。「京介、私は、あなたと生きていきたいです」 この先開くどんな扉も全て覗き込み、受け取り、確かめていこう。この能力が何をもたらすのかわからないけれど、そこに美並は必ず自分の姿を見出すだろう、傷つけられ隠され回復することもできなくなった深くて暗い闇の姿を。「あなたが孝さんにならないと見定めたように、私もまた」 力を振るっても『羽鳥』にならないと見極めたい。「……止められないよね?」「はい」 ぽた、と真崎が背後から肩に頭を乗せた。「僕は美並に屠られてもいいのに」 深く溜め息をつく。緩んだ腕に力が戻り、もう一度しっかりと美並を抱きかかえてくれて、美並の体から緊張が抜けていく。我知らず息をついた。 黙り込んでいた真崎が小さく唸る。「…美並が他の誰かを屠るのは嫌だな」 僕が全部受け止めたいのに。でも。「行ってらっしゃい」 掠れた声が続く。「飢え死にする前に戻って来て」 **************** 今までの話は こちら
2026.09.15
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**************** 美並は土曜日曜を真崎と過ごした。 何をしていたわけでもない。甘い夜を過ごし、ゆっくりめに起きて休日の朝、さすがにいろいろと目立ってしまったから、サングラスを掛けた真崎と、無理やりつけさせられたマスクの美並で、スーパーに買い物に出かけ、朝昼兼用の食材を買う。イングリッシュマフィンを買って、ポテトサラダとハム、レタスを挟み、かぼちゃのスープを合わせて食べる。嬉しそうに2個平らげた真崎は、食後のコーヒーを淹れ、2人でたまたま始まった映画をTVで観た。 小さな奇跡の物語だった。 成功を夢見て都会に出て、同僚の裏切りで何もかもをなくし、田舎町に戻って小さな雑貨店を営む男。古い屋敷の始末を頼まれ、そこにある物は売っていいと言われて引き受け、何十もの部屋がある屋敷に赴く。渡されたのは古い小さな鍵で、玄関を開けると埃の溜まったカビ臭いホール、いくつかの扉が並んでいるが、どれも鍵が掛かっている。ホールには碌なものがなく、大きな花瓶が一つだけ、それもひびが入っていて使い物にも売り物にもならない代物だ。 男はがっかりして世界と自分を呪う。夢ばかり抱いて散々な目に合ったのに、また馬鹿な期待をしてこんな目に遭っている。自分を嘲笑いながら屋敷を出て行こうとしてふと花瓶を振り返り、引き寄せられるように覗き込めば、そこにはぎっしりと鍵が詰まっている。渡された玄関の鍵と同じ意匠、震える手で一番上に乗せられている鍵をホールの扉に一つ一つ合わせて見ると、かちりと音がして扉が開いた。扉の向こうにあったのは、絢爛豪華な飾り立てられた広間、数限りない扉がそこに並んでいる。花瓶に入っていたのが、この屋敷の扉の鍵だと男は気づく。 男は毎日屋敷に通い、一つ一つ鍵を合わせていく。開いた扉の向こうには財宝もあったが、薄暗い地下牢、穏やかで静かな庭園、湯気の立つ食事が並べられた明るい食卓もあった。始めこそ、手に入ったものを売り捌いていたが、そのうちに屋敷に住み込むようになり、毎日鍵の合う扉を探して歩きまわるのが日課となった。驚いたり笑ったり喜んだり怯えたりしながら、男は日々を暮らしていく。 ある日男は残った鍵がただ一つとなったことに気づいた。しかし、扉が見つからない。 全ての扉を開けたはずだった。屋敷のことを隅々まで知っていると思っていた。男は探し回り、隠し扉や隠し通路があるのかと、時に屋敷を破壊して見たが見つからない。夢は急速に色褪せた。食べるものにも住むところにも困らない、財宝は売り捌いても減ることがなく、ただ、鍵の掛かった扉だけが見つからない。 男は寝込むようになった。医師を呼んでも何も悪いところがないと言う。散歩を勧められ、屋敷を離れてみることを提案された。鍵のかかった扉さえあればいいのに。男は気鬱を持て余して、自分が放り出した雑貨屋に戻った。埃を被り、汚れて閉ざされた雑貨屋は、男が訪れた屋敷のようだった。片付けて整理し、掃除を始めた。それと知らぬうち、鍵のかかった扉を探していた。 やがて男は日記を見つける。古めかしい錠前がついた日記、昔見た気もするが思い出せない。だが錠前の意匠は鍵と同じだ。興奮に胸を躍らせながら鍵を差し込むとかちりと音を立てて開いた。1ページ目に屋敷の絵があった。古びた屋敷に男が一人入っていく。ページを捲るごとに、男が今まで開いた扉とその部屋が描かれていた。 最後のページを開くと、それは雑貨屋の入口だった。戸惑う男の目の前で、ページの中の絵が動く。扉が開き、誰かが立っている。思わず入口を見上げた瞬間、扉は軋んだ音を立てて開く。一人の女性が立っていた。裏切った同僚に奪われたはずの婚約者、同僚と結婚したはずの相手だった。 彼女は驚き、尋ねる。私の店にどうしてあなたが居るのかと。男は応じる。ここは俺の店だった。夢破れ、あなたを失い、生きていく力を失った俺の店だった。それは間違いだと彼女は語った。私こそ、あなたに捨てられ、道を見失い、それでも一人生きて行こうと買い求めた店だった。 男は訳がわからないまま、手にした日記を彼女に差し出す。 見て欲しい、これが俺が暮らしてきた日々だった。彼女が受け取り、訝る。全てに私が描かれているわ。驚く男は日記を見直し、豪華な部屋の絵画に、薄暗い地下牢に貼られた紙に、庭園の薔薇の中に、食卓に置かれたナプキンの飾りに、全ての部屋の中に、彼女が描かれていたのを見つける。 俺は君を愛していたんだ。男が呟く。あなたは私を愛していたのね。彼女が呟き、そっと一冊の日記を取り出した。 あなたもこれを見てくれるかしら。この店に辿り着くまで、私はたくさんの旅をしたの。行った場所の全てにあなたを見つけて悲しかった。あなたの居ない場所を探して、ここへついに辿り着いた。なのに、あなたがここに居るなんて。 男は彼女の日記を掴み、彼女は男の日記を胸に抱く。小さく囁き合う、もう一度、最初から始めましょう。彼女が渡した鍵を受け取り、2人は片付いた店の暖炉の前で互いに受け取った日記を開くと、そこは真っ白なページに戻っている。顔を見合わせた2人は笑い、それぞれにペンを取り出して書き始める、今日、あなたに出会った、と。 **************** 今までの話は こちら
2026.09.14
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**************** 有沢を病院へ送り届けると、帰院時間を超えていたのだろう、少し窘められた。 病室へ運ばれ、血圧や脈拍を測られるマスクを外した有沢の顔は薄赤くなっていて、険しい顔の看護師から微熱が出ていると知らされた。壁に付けられた装置から伸びたチューブで、横になった有沢に酸素マスクが、用心のためと説明されながら、寝巻きに着替えさせられた胸にモニターがつけられる。 それらの動きをじっと見つめる有沢が、壁際に立つ美並に微笑む。赤く染まった目元、まだ潤んでいる瞳がゆっくり瞬きする。 部屋を整えた看護師が壁から伸びたコードを有沢の手元に置いた。「もし苦しくなったらこれを押して下さいね」「はい」 ナースコールに触れ、頷いて部屋を出て行く看護師を見送り、有沢は呼ぶように美並を見る。「なんですか?」「ビールが欲しいな」「無理ですね」「無理だなあ」 檜垣なら買ってきてくれたかな。 にやりと笑う顔は憑き物が落ちたような明るさだ。「苦しいですか」「ちょっと……呼吸するのに力が要る感じ」 話しながら、軽く呼吸を弾ませる。「さっきよりは…楽かな…」「…では、帰りますね」「…うん」 うとうとしかけていたのか、有沢は瞬いて目を開けた。「また来てくれますか」「京介と一緒に」「…ひどいな」 苦笑いする。「あなたはずっと容赦がない」「ごめんなさい」「……だから俺は安心して逝ける」 ぽつりと吐かれたことばは脅しには聞こえなかった。「…あなたは…憐れまない……俺が何をしても……どれだけ…甘えても…」 目を閉じる。ふう、ふう、と数回息を大きく繰り返す。「同僚だったら……楽しかっただろう…なあ…」 囁くような声で続けた。「あなたと……俺で………事件を……追って……」 しゅーと聞こえる酸素の音に、ともすれば声は消されそうになる。「……張り込んで……上と……揉めて……」「……問題児だったでしょうね」「ああ…違いない……」 くすくす、と有沢は小さく笑った。「……太田さんに……叱られて………毎日……歩き回って……靴底減らして……」 けれど。「…帰りに……寄って……明日こそ……とっかかり……見つけるって………大騒ぎ…して…」 次、は。 蕩けるように眉を緩める。「有沢さん?」 モニターは警告音を鳴らさない。薄赤くなっている頬はそのままだが、呼吸は穏やかに続いている。「……あら」 入って来た看護師が素早くモニターに目を走らせ、美並を振り向く。「眠られたみたいね」 ずっと病室におられたから疲れたんでしょう。「そうですね」 美並は立ち上がった。ナースコールの側に投げ出された有沢の手に触れる。頬の赤みを裏切る冷たさにそっと布団の中に手を入れてやった。 看護師が検温し、モニターを確認し、静かに一礼し、部屋を出て行く。「おやすみなさい」 美並もまた小さく呟いて、病室を後にした。 吹き付ける風のせいばかりではなかっただろう。 体がひどく寒くて、美並は会社に向かった。 真崎はまだしばらくマンションに戻らない。昼は過ぎていて、ひょっとすると久しぶりの外回りにも出ているかと思ったが、一目顔を見て帰ろうと思った。「あれ?」 確かにここ数日桜木通販は何かと慌ただしかったが、今日は違う雰囲気で落ち着かなげだ。「…お疲れ様です」「あら、今日は休みじゃなかった?」「はい、けど、あの」「ああ、課長ね」 開発管理課の中には石塚しかおらず、忙しそうに書類の山を積み上げている。「今はちょっと無理だと思うわよ。富崎課長と防犯カメラの設置にうろうろしてるから」「防犯カメラですか」「そう。ひょっとすると手放すかもしれない社屋にねえ」 石塚が苦笑いする、その指に。「?」「っ」 美並の視線を感じたのか、一瞬うろたえた顔で石塚が左手を隠そうとし、やがて溜め息をついた。「もう…相変わらず変なところで鋭いんだから」「すみません」 笑いながら、扉を閉めていつもの席に座る。「それって結婚指輪ですよね?」「そう」「お相手は…高山課長?」「そう」「すみません、ここからは私もわかりません、いつご結婚されたんですか?」 それとも今日ご飯行きます? 確認すると、石塚がふるふると首を振った。かっちりした眼鏡も気がつくと、赤とオレンジの混じった可愛らしいものになっている。「忙しいから無理。引越し途中だし」「高山課長のお家に?」「そう」 美並の視線に諦めたように笑う。「11月22日。役所に届けを提出するだけだったから簡単よ」「新婚2日目ですね」 さすがに驚いてしまった。「…今回のことでいろいろと考えたんだってさ」 放り投げるような口調で、それでも耳たぶを染めながら石塚が口を尖らせる。「いつ何があるかわからんからなって。それがプロポーズってどう思う?」「ひどいですね」「ひどいわよ」 微笑みながら美並の脳裏に高山の家に行った時の光景が浮かぶ。結構長い付き合いはあったのだろう。緑川の一件があったから、妻を失った後で同僚と再婚するのに抵抗があったのかもしれない、お互いに。けれども、桜木通販が消え失せるかも知れないとなったら、二人の間の約束が何もないことに気づいたのかも知れない。「…課長が阿倍野さんに襲われたって」「…はい」「……考えたらしいの、それだけで収まるんだろうかって」「ああ……」 高山は案じたのだ、真崎に係わりのある人間に向かう波紋を。「目の届くところに来いって」 緑川の事件に関わり、情報を隠していた高山は、自分が野放しにしてしまったかも知れない殺人者に警戒した。ひょっとすると、高山は石塚を守るために桜木通販から退くつもりかも知れない。「とっちめてやろうと思ってるのよ、『ニット・キャンパス』が終わったら」 石塚は指輪を眺めた。「会社がガタガタしている時に、無駄遣いしちゃいけないでしょって」「高山課長は無駄遣いなんてされませんよ」 美並は微笑んだ。「…私もそう思う……さ、仕事仕事」 石塚のはにかんだ微笑は、照れ隠しの声とともに書類の向こうに伏せられた。 **************** 今までの話は こちら
2026.09.13
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****************「伊吹さん?」「あ、はい」「終わりました、行きましょうか」 有沢が振り仰ぎ微笑む。以前には見なかった気配の儚さにどきりとする。日差しのせいなのか、いまにも薄れて消えそうな感覚に、「寒くはないですか」 尋ねると、「寒かったら温めてくれるんですか」 車椅子の中から真っ直ぐな目で見上げられた。「それとも、私がこんな状態だから、それは無理だと言い訳するんですか」 いつかの車の中、傷ついてもう少しで有沢の手に落ち込みそうだった自分を思い出した。 有沢もまた、同じことを考えている。 メモリアルホールに人の気配はなかった。有沢の力無い声でもはっきりと届いた。「あなたが私を受け入れてくれないのは、私がもう死ぬから、私との未来がないからですか」 まるで、別次元の大石から問いかけられているようだ。 美並が真崎を選んだのは、大石が自殺してしまって、もうこの世に居ないと思ったからか。 誰かが誰かを選ぶのは、その相手との輝かしく美しい未来のためか。 ふと先ほどの老婦人の後ろ姿を思い出し、向田署で会った姫野を蘇らせた。「姫野さんを覚えておられますか」「え?」「太田さんと仲が良かった」「……それが何か」「檜垣さんのことは?」「あいつは今『羽鳥』を追い詰めるために動いてくれている」「覚えてるんですね」「どういうことですか」「…これが、あなたの約束した、『檜垣さんの満足するような死に様』ですか」 有沢の顔が薄赤く染まった。「残り少ない時間を盾に、女を一人縛り付けるような死に様が?」「…っ」 ぎりっと有沢の歯が鳴る。「…あなたは…っ」 吐き捨てるように呟く。「理解していない、この、孤独を…っ」 美並は眉を寄せた。 もし有沢が美並が真崎に向けるような想いを向けてくれているのなら、その苦痛は想像できる。 昨夜一人で自室に戻った時の味気なさ。寒々として世界から自分が切り離されたような感覚。そのまま凍えてしまいそうで、真崎の熱が欲しかった。 それでも。「…姫野さんは未来があるから太田さんを望んだんじゃありません」 自分の年齢もわかっていた、太田の仕事も理解していた、いつ途切れるかわからない絆だと十二分に知っていた、だからこそ、一度一度の出会いを大切に慈しんだ。「檜垣さんは、あなたと働き続ける未来を夢見て、今不眠不休で動き回っているわけじゃない」 途切れるから、なくなるから、消えてしまうものだから。 もう一度、白い塔に目を向ける。「あなたにも、わかっているんでしょう?」 有沢が美並の顔を見つめ続けている、無言のままで。「自分がもうすぐこの世界と関わりがなくなるから……あなたはただ寂しいんでしょう?」 だから、欲しいのは私じゃない。 有沢を見つめ直す。「この世界に自分がいた記憶です」「……」 マスクの上から覗く落ち窪んだ目から溢れ落ちる涙を、美並はじっと見つめた。「……どうしたら……いいんだ…」 掠れた声が零れる。「……もう…『羽鳥』は…捕まります…」「……はい」「……捕まらなければいいと…思ってた…」「…」「ずっとこのまま、捕まらなければ……あなたに会える……檜垣と連絡を取合い指示を出し……まだ先があると……そう思っていられる…」 事件が終わる。 まるで何事もなかったように、罪は暴かれ、罰は定まり、報告書の一枚として資料室に収められる。「まだ生きていられたら……次の事件を追えるのに…俺にはもう、」 俯く有沢がははっと嗤った。「もっと…追いたい……もっと……事件に、関わりたい…」 今更だ、今更わかってしまったんです。「俺は…刑事が好きです……っ」「……はい」 美並も目を閉じて頷いた。 有沢の体の周囲にどす黒い靄に包まれながら、きらきらと光る清冽で鮮やかな紅が生まれ出るのが闇の中に見えた。怒りの赤、支配の赤、『羽鳥』が満たしていた腐った血の色よりももっと激しくて眩い赤、命を燃料とし、獲物を追い詰め飛びかかる獣の赤。傷みと苦痛に覆われて隠されていた有沢の願いが、今、金粉を散らしながら立ち上るのが痛々しくて辛かった。「俺はなんで…もっとまともに…走らなかったんだろう……恨んだり憎んだり馬鹿にしたり嘲笑ったり……そんなもの…いらなかったんだ………もっと初めから………誰に嗤われても見下されても……変なプライドなんか捨てて……ただ……信念のままに………声に呼ばれるままに……走れば良かった……っ」 目を開けると、有沢はマスクを両手で押さえつけながら号泣していた。 **************** 今までの話は こちら
2026.09.12
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**************** 最終電車に飛び乗って、真崎のマンションへ向かいながら、携帯の充電が切れているのに気づいた。自分の余裕のなさに呆れたが、辿り着いたマンションで出迎えてくれた真崎は、もっと余裕がなかった。『とにかく入って』 引きずり込まれて抱きしめられて、玄関から連れ去るようにベッドに連れて行かれて。(中略)『僕を殺したいの? もう赤来に関わらないで』 ベッドでは滅多に見せない鋭い視線で言い渡されたが、孝の件を依頼してきたのは真崎だ。『…他の事件は始末が付きますが、孝さんの一件は詰められないかもしれません』 言い返した美並に、真崎は思わぬ一言で応じた。『孝の事件は、終わったんだよ』 何が終わったのか、解明は始まってもいないのに。 不審がる伊吹に頷いて、『僕はずっと怖かったんだ……自分が孝そっくりで、いつか大輔に繋がれたまま、孝みたいにどこかのホテルで殺されるんじゃないかって』 でも。『今、君が、ここに居る……それだけで、僕は生きていて良かったんだとわかる』 静かな声は、今までにない落ち着きがあった。『孝には君がいなくて、恵子さんしかいなかった』 少し唇を噛む。 吹っ切るように続けた。『僕は孝にはならない』 分かったから、もういいんだ。 見上げた顔は静謐だった。今までの熱をどこかに捨て去ったように、けれど内側に確かな力を漲らせて。 美並にも通じた。 理由はわからないけれど、真崎の中で孝の事件が一つの形に収まった。どのように扱っても置き所のなかった傷みが、真崎の心の中に居場所を得て、形を整え収められた。 それはわかったけど。(中略) ふっと有沢のことを思い出した。有沢の人生を支配した『羽鳥』の事件。それは今や終わりを告げようとしている。有沢は美並を望んでいるが、『羽鳥』の事件が終わってしまえば、美並は有沢との接点を失うだろう。有沢は美並と寄り添って歩くためには、あまりにも美並の傷みを知らなさすぎる。だから共に歩く未来はない、それを有沢は理解しない。 同じ過去を共有し、傷みもまた重なっているけれど、真崎は孝にはなり得ないと確信できたのなら、その後の繋がりはどこにあるのだろう。『京介は…孝さんの人生をどうにもできないって言ってるんですね?』 美並が有沢の人生をどうにもできないとわかっているように。 そうか、と気づく。 有沢が美並を望むのは、美並の存在で理不尽で納得できない人生を変えられると感じたからだ。 けれど本当はそうじゃない。 誰にも他の人間に人生を変えてもらうことなどできはしない。『……うん』 見上げた真崎の目がみるみる涙を溢れさせる。 同じ境遇だけじゃなく……バスケが好きだとか……学校帰りに……買い食いするとか。 もっと…べつ…の……ことを……もっと……別の……話をもっと。 友達……親友として。 何も……できなかった……何も……してやれ……なくて……っ。 僕は…無力だった……っ。 誰にも変えられない他人の人生の終末に、何かの形で関わりたかったと泣く、この人に。 目を閉じて、嘆きしゃくりあげる真崎に抱き締められる。 遠く微かな声が聞こえる。 出会えて、幸福だった。 **************** 今までの話は こちら
2026.09.11
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**************** 昨夜、真崎は合気道を習いに行って不在だと知っていても、仕事が終わって会社を出た時に真崎のマンションへ向かっている自分に気づいた。慌てて引き返し、自分の部屋に戻って来た時、入り口で立ち竦んだのを覚えている。 ここはこんなに寒々しかっただろうか。 見慣れた家具やキッチンが、こんなにも他人行儀に見えるのはなぜだろうか。 冷蔵庫を開け、食材を選び、ミートソーススパゲティを作りながら、自分のたてる物音しかしない室内が、妙に虚ろな気がして困った。TVをつけても、賑やかに笑うタレントの声も顔も意識に入らない。『いい匂い、何作ってるの?』 今にもそう言いながら、覗き込んでくる真崎の声が聞こえそうで。仕上がって皿に盛って振り返るテーブルに、真崎がにこにこ笑って待っていてくれそうで。 真崎が居ない。 死んでしまったら、こんな風なんだ。 仕上がったスパゲティの皿を手にぼんやりと誰も居ないテーブルを眺めた。 大石が自殺したと聞かされた時、苦しくて悲しくて眠れなくて辛かった。街を探し回り、時には呼びながら走り、そうやって見つけられなかった傷みに座り込んで泣いた。 けれど今、真崎が居ないこの部屋に、美並はただ立ち竦んでいる。 そんなはずはない。 居なくなるはずはない。 あり得ない。 思いもつかない想像できない考えられない、ただそれだけで。 もし阿倍野に真崎が刺されていたら? もし大石のように自殺されたら? もし有沢のように病気で余命僅かと知らされたら? あり得ない、あり得ない、あり得ない、だって、彼は、私の、一部分のはずで。 美並が無事なのに、真崎が死ぬことなんてあり得ない。 だから。 TVを消し、スパゲティの皿を置き、暖かいお茶を淹れ、きちんと座って手を合わせる。「いただきます」 しっかり食べよう。体力を蓄え、十分に眠って、動き出す敵に備えよう。 ハルは赤来に破かれた絵を警察に提出すると言った。あの時破かれて、けれど全て拾って持ち帰り、大切にジップ付きの袋に収め、ハルはあの絵を保存していた。指紋が残っているのは確実、追い詰められるのは目前。 ならば、どうする。「…」 もぐもぐ口を動かしながら、目の前には居ない赤来を見つめる。 美並ならば、仕掛ける。 計画が進むのを楽しんで見てきた。無防備で騙されやすい人々が、掌の上で踊るのを眺めていた。強者は常に自分であって、勝利するのも自分だった。 なのに、忘れていた過去の出来事が、今の自分を裁こうとしている、しかも逃れられないほど明瞭な鎖をじゃらつかせて。 許せるだろうか、自分の愚かさを。 見放せるだろうか、仕方がなかったなと。「…ううん」 赤来はそう動かない。 最後の最後まで、一番大きなダメージを与えられる場所を探し、見極め、致命的な一撃を繰り出そうとする。 悪くても相打ち、そう考える。 孝の事件に関しては、悔しいが美並はモブだ。赤来の視線は真崎に向いている。なのに美並に声をかけたのは、美並が真崎の弱点だからだ。 赤来は仕掛けてくるだろう。 追っ手を送り出した真崎に最後の反撃を試みるだろう。 その時、全力で叩きのめす覚悟を決めよう。 悪くても、赤来は葬ろう。 決めた後は楽だった。 作ったスパゲティは完食した。お風呂に入って髪を乾かし、カレンダーを眺める。 明日の土曜日は有沢に墓参りの手助けを頼まれた。断る理由はなかったし、これが最後になるという予感もした。土日は真崎のマンションに泊まるけれど、明日のことはできれば今夜真崎に話しておきたい、それも直接に。 **************** 今までの話は こちら
2026.09.10
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**************** 冬の風が穏やかに吹いていた。「あそこですか?」「そうです」 頷く有沢は車椅子に座った体をゆっくり振り返らせる。「重いでしょう?」「大丈夫ですよ」 美並は微笑む。「慣れてますから」 応えた瞬間、まるで時間が全て巻き戻って『さわやかルーム』に居る時に戻ったような気がした。「ああ、そうでしたね」 苦笑する有沢はマスクを着けて日差しの中で微かに笑う。 顔色は良くなかった。病院から最後の外出的な気配で送り出されるのも道理、何かあったら連絡をと教えられた電話番号にかければ、すぐに救急が手配されるらしい。何より、いつか喫茶店で扉を押さえた逞しい体つきが消え失せて、美並が車椅子を押して段差を超えられるほど軽くなっている。 身内はもういませんから、私が死ねば、同じところへ埋葬されるんです。 微笑みながら話す有沢には、既に違う世界を見ているような気配があった。 横断歩道の信号が変わる。車椅子を押して道路を渡る美並に、車が早めにブレーキをかける。「…怖いものですね」「え?」「この高さで自動車が来ると、圧迫感がある」「…そうでしょうね」 止まった車の前を横切る。エンジン音が小さくなるが、熱を帯びた車体は近い。「一人なら逃げられないな」 有沢が呟く。「こんなことも、見えてなかった」 美並達が横断歩道を渡り切るや否や、信号が変わった。車が走り出す。美並と同じように振り返ってタイヤに踏まれていく横断歩道を見た有沢が、少し体を強張らせた。「粉々だ」 踏みしだかれた枯葉が砕け散って風に舞う。「あんな風にさえ吹き飛ばされる」「…行きますよ?」「…ああ、そうですね」 美並の声に、少し離れた共同墓地の入り口に有沢は向き直る。『向田市営共同墓地霊園 たまゆら』 車椅子を押してかろうじて通れるぐらいの狭い入り口は、石柱と金属柵で作られている。すぐ近くに管理事務所があって、手続きをすると地図を渡され、石畳の小道を奥へ進んだ。 中は思ったよりも広かった。道路沿いにあるから、そちら側は高い生垣に遮られているが、広々とした芝生に小道が通り、点々と文字を刻んだ石のプレートがおかれている。所々に桜が植えられていて、まだ若い木々が多かった。中を区切る低い生垣にはこの季節でも開く花が使われ、春先や夏には色鮮やかな光景が楽しめるだろうと思われた。「樹木葬と言うそうです」 有沢が細くなった指で指し示し、「遺骨を納骨袋に入れて、あの芝生のあちらこちらに埋めてプレートを置く。小さなもので15万と言ったかな」 言われてみると、プレートの大きさも様々で、中には装飾的な飾りを彫り込んだ大きな大理石風のものもあって、尋ねると50万から100万すると説明された。「まあ、私に関わるのはあちらですが」 こほ、と小さく咳き込んだ有沢が口を押さえ、しばらく苦しそうに呼吸をした後、奥の建物を指差した。コンクリートとガラスでできた小さな建物、その隣に白い塔のようなものが立っている。「あの建物が葬儀や供養を行うメモリアルホールで、白い塔が永代供養墓です。宗教にこだわりがなければ、あそこに納骨して、年一回の供養を受けられるそうですよ」 車椅子を押してメモリアルホールに入ると、周囲をぐるりと取り囲むようなガラスの通路から、供養塔が見えた。通路の途中に何箇所か小さな机が置いてあり、今も一人年配の女性が供養塔に向かって静かに手を合わせている。なるほど、雨の日でも、ここからなら参拝できると言うことか。「…塔の地上部分には納骨壇があって、骨壷に入れた遺骨を納め、地下には納骨袋に入れた遺骨を収める。地下の遺骨は年月とともに土に還って行くそうです」 眺めながら有沢は、納骨壇で5万、地下で2万ですよ、と付け加えた。「管理費も何もない、入る時に支払うだけです。太田刑事と飯島はあそこに居る。……犯人と刑事が同じ場所で眠っている」 少し笑って、女性が離れた小机に促す。「行きましょうか」「はい」 近寄ると供養塔の前には花が置かれ、線香が手向けられているのが見えた。祭壇は狭く、なるほど車椅子の有沢が入っては誰も通れなくなる。配慮したのかと気づいて見下ろすと、有沢は手を合わせることなく、静かに目を閉じて頭を垂れていた。 美並も供養塔に目を戻した。 大石が亡くなったと聞いた時、街の至る所にあった墓石が急に目につくようになった。独り身でもなく、岩倉奈保子が居るのだから、どこかの立派な寺に葬られたのに違いない。けれど、墓石の一つ一つが大石の墓に繋がる入り口のように見えて、遠くから自分には近づくことのできない場所への祈りを向けた。 今ならそれは間違っているとわかる。墓は個人個人のもので、たとえこの供養塔のように一緒に葬られていても、向かう心に呼び出されるのはたくさんの人の塊ではない、一人の人間だ。そうして、美並には、ここに頭を垂れるべき相手はいない、今は。 有沢に目を落とす。 有沢が死んだ後、彼はここに眠ると言った。有沢の葬儀や供養に加わることを、真崎は同意するだろうか。 ふと、有沢だけではない、美並も、そして真崎もいつか、この世から離れることになるのだと改めて考えた。 **************** 今までの話は こちら
2026.09.09
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****************「…他の事件は始末が付きますが、孝さんの一件は詰められないかもしれません」 やっぱり、その辺りも心配していたのか。 そもそも伊吹に事件の解明を望んだのは京介だ。孝の死の真相を知りたいと願い、何があったのかを解き明かすために協力して欲しいと頼んだ。「…酷い話をするね」 すり、ともう一度伊吹に頬を摺り寄せる。応えるように伊吹が胸にキスしてくれる。まるで二匹の獣がお互いの傷を舐め合ってるみたい。 京介と伊吹の付き合いは、ずっとそういうところがあったのかも知れない。見えないところに深く重い傷をつけられ、癒せないまま生きてきて、傷があることさえ意識しなくなって、それでも傷みは悪化していて。 出会ってお互いに見つけあって、触れ合って、探しあって、その場所に自分を投げ込んで、互いが持っている別の力で少しずつ傷を塞いで治していった。 とても綺麗に治った心の傷は現実のものと違って、跡形を残さないと初めて知った。 大輔との苦しい過去は、今京介を傷つけない。大輔があらゆる場面を再現して、京介を詰り責め立てようと、今の京介には他人の物語を聞かされているようなものだろう。 今の京介は、大輔と関わっていた頃の京介とは違う。変わろうと足掻き、離れようともがいていた頃の京介が、想像もできなかった軽さで大輔と向き合えると分かっている。「孝の事件は、終わったんだよ」「…え?」「…僕はずっと怖かったんだ」 伊吹にこの話をしたことがあっただろうか。「自分が孝そっくりで、いつか大輔に繋がれたまま、孝みたいにどこかのホテルで殺されるんじゃないかって」 どれほど努力しどれほど凌ぎどれほど必死に頑張っても、何も実らず何も手に入らず一人でゴミのように死んで行くんだって。「僕の命は無駄だったと思い知らされるだけなんじゃないかって」 でも。 目を閉じる。伊吹の温もりを感じる。「今、君が、ここに居る」 それだけで、僕は生きていて良かったんだとわかる。 有沢の電話が掠める。 命の残りが少ないから、包むように庇うように優しく柔らかく囲われて、手に掴めるものが何もない不安を誰も聞いてくれはしない。 一人で死ぬのは堪える。 反転して響く、切ない声。 一人で生きるのは堪える。 孝は京介を望んだのかもしれない。けれどそれを訴えては来なかった、志賀が高崎に向けたように。大輔に虐げられる境遇に甘んじたのは、それでもそれまでの『自分』を捨てられなかったからではないのか。 京介は捨てた。それまでの何もかもを、伊吹が愛してくれるなら、チリ一つ残さず消し去ることさえ平気だった。たぶん、その途中で、傷みに満ちた過去もそれが絡みつく現在も手放すことができたのだろう。 そこまで賭けられる相手に出会えた。(中略)「京介は…孝さんの人生をどうにもできないって言ってるんですね?」「……うん」 ふいに視界が煙った。止める間もなく、溢れ落ち滴る雫に、伊吹が一瞬目を細め、それでも降り出した雨を受け止めるように身動きせずに聞いてくれる。「僕は…孝が…大事だった……なんとか…してやりたかった……」 同じ境遇だけじゃなくて、バスケが好きだったとか、学校帰りに何を買い食いするとか。「そういう……とこで……関わり……たかった……」 道場に居た源内のように、赤来に向かう富崎のように。「もっと…べつ…の……ことを……もっと……別の……話をもっと……」 友達として。 親友として。 誰かの欲望のまま屠られて死んでしまうような未来じゃなくて。「僕は…何も……できなかった……何も……してやれ……なくて……っ」 伊吹さん、僕は。「…無力だった……っ」 伊吹を抱きしめ、京介は声を上げて泣いた。 **************** 今までの話は こちら
2026.09.08
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****************「伊吹さん……面倒な男に関わってるなあ」 ぼやきながら、まあ僕もだけどね、と肩を竦めて受話器を置いた瞬間、もう一度電話が鳴って取り上げる。「はい、真崎です」『夜分失礼しまっす、向田署の檜垣です』 おやおや千客万来だよ、と改めてソファに座り直す。『今お時間よろしいですか』「大丈夫です。何か」『ちょっと忠告と警告を』 サクッと言い切った檜垣が口調を変える。『お宅んところの、オカルト巫女さん、気をつけてやって欲しいんだ』「オカルト巫女…? ああ、伊吹さんのことですか?」 どうやら有沢と別件らしいと察した。『赤来の指紋が手に入ったから、数日内に奴を仕留めるけど、その前に動き出すかもしれない。洗い出してる限り、結構物騒な奴だし、オカルト巫女さん、証拠が揃わなけりゃ体を張るつもりらしいぜ。知ってたか?』「体を張る?」 不穏な物言いに思わず有沢とのやりとりを思い出し、大輔の顔が頭に過ぎった。確かに伊吹は時々ややこしい相手を魅きつける。赤来だって、伊吹を評価し気に入っていた。「どういうことですか」『何でも、赤来はオカルト巫女さんの結婚を祝ってやるって誘ったらしい』 今度は本気でひやりとした。『聞いてない?』「まだ」『先走るなって止めたけど、思い切り良過ぎるところがあるだろ、やりかねねえなあと』「ああ…確かに」 伊吹はまだ赤来の指紋を警察が手に入れたことを知らないだろう。証拠を揃えるのに我が身を使えばいいと知ったら、平然と受けるだろう、一人で赤来の招待を。「ありがとうございます、僕からも注意します」『できるだけ早く伝えてやろうとしたんだけど、オカルト巫女さん、携帯に出ないんだよ』「え?」『今夜、どこかに出かけるって聞いてるかい?』「いえ…」『こっちはこれからもう一つ出た物証確認に出向くから、よろしく頼むぜ』「わかりました」 不規則に乱れ出す鼓動に、電話を切るのと並行して携帯を鳴らす。「…伊吹さん」 時計はもう24時前だ。いつもの伊吹なら数コールで出るはずだが出ない。「っ」 座っていられなくて立ち上がる。事件のごたごたがあるから車を買い控えていたのが恨めしい。 虚しくコール音を響かせる携帯を切り、夜中でも応じてくれるタクシー会社を呼び出す。金曜の夜ですぐに応答はあったが、逆に出払っていて少し時間がかかると言われた。少しでも早く伊吹の家に駆けつけたくて、脱いだコートを掴んで玄関に向かう。有沢との会話が不吉な気配で蘇る。「駄目だよ、伊吹さん」 僕を置いて一人で動かないで。 焦りながらドアを開けた瞬間、「きゃ」 小さな声が響いてはっとした。「伊吹さん?」「…ごめんなさい、遅くから」 伊吹が驚いた顔から照れ臭そうにはにかむ。「電話でも良かったんだけど、顔が見たくて……京介?」「っは、ぁっ」 思わず引き寄せて抱きしめてしまった。「良かった……」 ふいに身体中から汗が出た。冬なのに粘りつく、冷たい汗だ。「出かけるところだったんですか?」「うん、伊吹さんのところへ」「私の所?」 今夜約束してましたっけ。 訝しげに伊吹が首を傾げる。「約束してない、けどいいでしょ、僕も顔が見たかったんだし」 とにかく入って。 正直なものですぐに甘える口調になる自分を自覚しながら、京介は伊吹を部屋に引き込んだ。(中略)「…ああ怖かった…」 呟くと伊吹が身を捩って見上げてくる。「今日はいじめてませんけど」「いじめられるのは怖くないって」 上目遣いが可愛らしい。いやもう、なんでもどうでも全て可愛い。 頭を引き寄せて撫でて頬をすり寄せて、今の今まで艶めかしくうねっていた体をもう一度抱き込んで、当たってしまうけど許してもらって。「怖い話を聞いたから」「オカルト?」 京介がそんなものに怯えるなんて珍しいですね、と首を傾げている相手にくすくす笑う。「そうだよ、オカルト」「幽霊話ですか?」「ううん、何でも見抜いて無茶するオカルト巫女さんの話」「…檜垣さん?」 むっとして思わず唇を尖らせた。「時々伊吹さんって凄く無神経だよね」「はい?」「こういう状況で他の男の名前出す?」(中略)「飢え切ってるから」 伊吹の髪にキスを落として囁いた。「僕はずっと飢えてるから」 もっともっと伊吹さんが欲しい。ずっとずっと伊吹さんが欲しい。(中略) 目を閉じて息を吐いて熱を逃がす。 本当、こういうことも凄く上手くて困るんだけど。「赤来の結婚祝い、受けるつもりだったって」「…ちっ」 低い舌打ちにくすりと笑う。「伊吹さん、雰囲気台無し」 瞬きして潤んで霞んだ視界を取り戻す。「駄目だよ」「指紋が手に入ったから?」「危険を冒さないで」 僕を殺したいの? 尋ねた声が予想を超えて猛々しく響いた。「もう赤来に関わらないで」 **************** 今までの話は こちら
2026.09.07
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****************「そう言うことだ」 セシ公は苦笑いした。「姑息な手だが不安を煽るよりいいだろう。新たな王が伴侶を得る。厳しい時代だが、ささやかにみんなで祝いの席を設けて、新たな国の始まりとしよう。そう呼びかけて準備を進める」「だから、そちらは俺達なんですよ、リヒャルティ」「無駄にきらきらした外見をうまく活かして、馬鹿馬鹿しくおめでたい感じでお願いしますよ、リヒャルティ」 バルカとギャティに両側から覗き込まれてリヒャルティが狼狽える。「は? え? 俺? 俺が仕切るのかよ!」「兄貴の婚姻だ。弟が準備するのは当然だろう」 セシ公がしらっと言い切る。「いや、だって、俺、そんな役割、したことねえぞ!」「私も『王』なんて役割をしたことはないよ。幸い、その部分はレアナ姫が支えてくれるだろう、『王』と呼ばれる振る舞い方や儀礼的な仕草などをな」 揶揄うようにいなしたセシ公が冷えた目の色で付け加える。「まだまだ序の口だ。これからは皆、今まで担ったことのない役割をすることになる。……とうに覚悟はできていると思っていたが?」 視線の強さにぐ、と押し黙るような静けさが広がった。「失礼ながら」 ジノがそっと手を挙げた。「私は外に向かうのではなく、『氷の双宮』にてレアナ姫とレスファート様の守りに徹したく存じます」 問うような周囲の視線に僅かに微笑み、「もしお話の通りでありますれば、良からぬことを企む者がいないとも限りません。今ならラズーンの王にもなれると考える不心得者もおりましょう。せっかく生き残った方々ですが、不穏な要因は早めに摘むのが得策かと。私なら、リディノ様付きの詩人として知られておりましたし、愚かな輩が見くびって首を差し出して下さいましょう」「ふむ…確かに」 頷いたセシ公に、どうだ、と目線で尋ねられて、ユーノも頷き返した。「今回はイルファも連れていくので、守りが手薄になりますね。身内に襲われると考えたくはないですが」 それほど人が優しいばかりではないことを、ここにいる面々は重々知っている。「では、ジノはレアナとレスファートの身の回りの付き添いに残ったことにしよう。シートスは向かいたい方面はあるか」 じっと地図を眺めていた黄色の瞳が、ゆらりと動いてセシ公に据えられた。「では、まず南門のジーフォ公方々を確かめに」「…」 セシ公が唇を強く結ぶ。激情を堪えるように寄せられた眉が、ゆっくりと開く。強く高まった緊張が緩やかに解けて、掠れた声が同意した。「…異論はない……配慮に感謝する」 振り切るように立ち上がり、一同に机の地図への注目を促した。「私はレアナ姫との婚姻と『太皇(スーグ)』の継承を進める。リヒャルティと『金羽根』は婚姻儀礼の準備と糧食物資の確認を。ジノは『氷の双宮』貴人の警護。壁の外の探索は、ユーノ、イルファ、シートス、ユカルで南門周辺より開始。食料確保と索敵を中心に移動、できる限り周辺状況の把握に努めるように。万が一を考えて数日分の食料を持って行け」 覗きこむ顔が、それぞれの役割を確かめるように頷きあう中、シートスが淡々とした表情で頭を下げる。「ありがたく。必ずや、我々が生き残れる手立てを得て参ります」 ラズーンが、ではなく、我々が、と言い切った返答に、セシ公の顔に厳しさが戻る。だが、それ以上は追及せずに、セシ公もまた静かに頷いた。「朗報を待つ」 **************** 今までの話はこちら。
2026.09.07
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****************「会議に先立ち、セレド第一皇女、レアナ姫との婚姻を報告する」「はあっ?!」「おいっ?!」 部屋に集まり地図を広げた机を囲んだ面々の中、セシ公の淡々とした声に、イルファとリヒャルティが声を上げて立ち上がった。「どういうことだよ、兄貴!」 形式も何もかも吹っ飛ばしてリヒャルティが詰め寄る。「聞いてねえぞ!」「右に同じく!」 イルファが喚く。「いつの間にそんなことになったんだよ!」「右に同じく!」「今こんな時に結婚なんて浮かれてる場合かよ !」「右に同じ…ん?」 ふと、イルファが首を傾げて口を噤んだ。「なるほど……そう言うことか?」「え?」 気持ちよく合いの手に乗っていたリヒャルティが間合いを外され振り返る。「何だよ」「いや、確かにそれは悪い手ではないなと」 イルファが腕組みをしてまま考え込み、ふむ、ともう一度唸って腰を下ろす。訝しげに見下ろすリヒャルティを見やり、「考えてもみろ、今この国には統率者がおらん。生き残った安堵も、そう長くは持つまい。これからどうするのかと我に返ると、混乱がひどくなるぞ?」「兄貴がいるだろうが」 何の問題がある、とリヒャルティは一層不満顔だ。「不出来な弟と違って、理解が早くて助かる」 溜息混じりにセシ公が両手を上げ、ざわざわとした雰囲気を収めた。「私は確かに『太皇(スーグ)』の地位を引き受けた。だが、民衆が『そう』認めるかは別の話だ。何としてでも生き残るという戦後の興奮が抜けてしまえば、待つのは冷静な計算だけになる。誰が、どこで、どんな利益を得るのか、民衆の目は厳しくなるだろう」「…それほど、外はひどい状態なのか」 イルファは『金羽根』とシートス、ユカルに目を向けた。シートスが深く吐息をついて話し出す。「先日から『金羽根』と手分けして、まずはラズーン内を見て回っているが、無事な土地はほとんどない。焼け爛れたり瓦礫が散乱していたり悪臭放つ汚泥が積み上がっていたり……食料をどうして得るのか、早急に決めるべきだろう」 険しい表情で頷きながら続ける。「『氷の双宮』を暮らしの基盤として、少しずつ周囲に畑を作り、持ち込んでいた種を蒔き、収穫していくしかないだろうが、残っている食料を考えても、かなり慎ましく暮らさないと餓死者が出る可能性があると思われる。農作業ができる者ばかりでもないしな」 セシ公が付け加える。「そちらはバルカとギャティに見積もってもらっているが、女性や子どもを中心に糧食を整えるにしても、健康な働き手を飢えさせるわけにもいかない。並行して、壁の外に食料を確保に向かう必要があるだろう」「私が向かいます」 ユーノは手を挙げた。「傷もかなり治ってきたし、ジノやイルファの手を借りて食料を探してきます。ついでに、地図をお借りして周囲の状況も確認してきます」 このままでは早晩食い詰めるのは、昨夜の夕食を見ても想像がついた。外を全く知らない者が出向くより、戦場としてでもあの場に居た経験がものを言うはずだ。 続いてユカルが手を挙げた。「内側の確認はほぼ終わった。我々もユーノに同行します。平原竜(タロ)の機動性は荒地でこそ活かせると思います」「少なくとも、野戦部隊(シーガリオン)は『外』の状況を把握している。探索に無駄な時間をかけずに済む」 シートスがユカルと頷き合う。「結構な面々が出払うんだな」 リヒャルティが眉を寄せる。「確かに外はヤバいだろうし、ユーノやジノ、イルファにシートス、ユカルとくれば、まず無事に戻って来れるだろうが、逆に目立ちすぎて『外』への不安を煽るんじゃ……ああ、そう言うことか」 唸りかけて、突然パン、と掌に拳を叩きつけた。「周りは確かめなくちゃならねえし、確かめるために素人は出て行けねえが、今回の立役者が動き出せば不安がる人間もいる。そいつらの目を、兄貴達の『おめでたい結婚』に惹きつけておくってことか」 **************** 今までの話はこちら。大変に、大変長らくお待たせいたしました!2160000ヒット、『ラズーン』第七部 7.新たなる国(8)(9)を2日続けてお届けします。そして、改めて2170000ヒット誠にありがとうございます!既に1000ヒット超えておりますが、続きを頑張って書いております。できるだけ早くアップするように努めますね。これからもどうぞ、よろしくお願いいたします。
2026.09.06
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**************** 京介が帰宅したのを待っていたように電話が鳴った。 携帯ではない、家の電話だ。「はい、真崎ですが」『…夜分に失礼致します』 抑えて低い、あたりを憚るような声が届いた。掠れてはいるが、すぐに相手に思い至る。「…有沢さん、でしょうか」『はい』 応じた声の後は沈黙が続く。 京介はネクタイを抜いてソファに座った。シャツのボタンを外しながら出方を待つ。 時計は23時を回っている。 今夜も伊吹が側に居ないが、明日の夜には来てくれるはずだ。平日2日に1回の一緒の夜が、だんだん辛くなってきている。土日が待ち遠しくて、月曜の朝が苦しい。 早く一緒に暮らしたい。伊吹の部屋を引き払っておいでと提案してみたが、今はまだ、と断られたのに小さく痛みが走った。片付けがあるのか、それとも。 こんな風に夜中に電話をかけてくる男を気遣ったのか。 電話の向こうに伊吹の気配はしない。有沢は入院していると聞いてた。病状は良くないはずだ。けれど、個室ならば連絡は逆に取りやすいだろう。 眼鏡を外し、垂れ落ちてきた髪に隠された嫉妬を浮かべた自分の顔を想像する。 いつまでたっても不安になる、伊吹を奪われてしまわないかと。 だから早く、一刻も早く。 子どもができてくれれば伊吹だって否応もなく一緒に暮らしてくれるはず。 焦る気持ちが暴走を煽りそうでまずい。『明日』 低い声が告げる。『伊吹さんをお借りします』「…」 髪を掻き上げていた手を止める。『お聞きになっていなくても当然です、今日連絡をつけました』 有沢は京介に配慮した。「どんなご用件ですか」 伊吹に対する用件と、この電話の用件を聞く。 伊吹が連絡してこなかったのは、源内に合気道を習った後で、赤来の指紋が取れるようなものを探してみると言っていたからだろう。むしろ京介の連絡を待ってくれているのだろう。『墓参りに行きます。飯島と、太田刑事の』 命日ではありませんが、もう時間が残されていないので。『檜垣には捜査を任せていて、他に頼める当てがありません』 申し訳ない、と謝りながら、その実謝罪する気配はない。『一つ、ご報告はできます。明日伊吹さんにもお伝えしますが、渡来さんから、昔赤来が破いた絵が提出されました』「破いた絵」 脳裏に第2会議室でのやり取りが蘇る。「そう言うことか…」『指紋が取れました』 有沢が低く笑った。『源内さんからも、有力な証拠が頂けると檜垣が張り切って出て行きました』「……『はおりゆたか』の描いた絵、ですね」『現物は見ていませんが、連絡があったそうです。紙についた指紋は残りやすいんですよ』 おそらく、詰められると思います。「…そう……ですか…」 深い息を漏らして、京介はソファに背中を預けた。『早ければ、週明けに任意同行を掛けることになるでしょう』「…ありがとうございます」 思わず素直な礼が出た。『…くださいませんか』「…え?」 唐突にそれまでと違う声で囁かれて瞬いた。『あなたは桜木通販の社長に就任されると聞いた』「ええ」 体を起こし、眼鏡を掛ける。『赤来の件でダメージは食らうだろうが、あなたは被害者だ。世論もいずれはあなたに傾く。桜木通販からの離脱者は予想されていたほどはいない。あなたの手腕に期待が向けられている。「ニット・キャンパス」ですか、そちらも事件で逆に注目が集まった。地方の小さなイベントにしては新聞が繰り返し取り上げ、新たな参加希望もあるようだ』「…よくご存知ですね」 これは敗北宣言なんかじゃない。宣戦布告だ。 京介は前に居ない有沢を睨みつける。『あなたには未来がある』 有沢は静かな声で続けた。『私の時間はそれほど長くない』 しわがれた老人のような声だと感じた。諦めと怒りと不快感と。『ほんの数日のことです』 有沢が囁く、闇に潜む魔性のように。『残された時間を、伊吹さんと過ごしたい。ただそれだけの願いを、叶えてくださいませんか』「…あなたは何を捨てたんですか」『…え?』 京介は繰り返した。「あなたは、伊吹さんを得るのに、何を捨てたんですか」『…』「僕は今持っているものも、この先の未来も、伊吹さんが居ないならどうでもいい」 そうだ今だって、動いた後なのに空腹も感じないし、喉も乾かない。伊吹がこの部屋に居なくて、飢えて乾いて干からびているけど、伊吹が今夜ぐっすり眠りたいなら、それが全てに優先する。「この瞬間に伊吹さんが居なくて死にそうなんだ。数日先の未来を語れるあなたより、僕の方が飢えている」『…』「明日あなたと出かけることが彼女の意志ならば、僕はただ待っている。けれど、そのまま伊吹さんが帰らないなら、あなたは死ぬまでに僕の検死報告を聞かされるでしょう』『…重すぎるだろう…』 呻くように有沢が吐いた。『君は伊吹さんを潰す気か』「残り時間がないなんて理由で、彼女の時間を奪おうとするあなたよりましですよ。でも、僕は今からあなたを殺しに行こうなんて思わない」『…なぜだ。放っておいても死ぬからか』「いいえ」 京介は息を吸った。「あなたがもう伊吹さんに拒まれたと知っているから」『…』「そうでなければ、あなたがわざわざ僕に圧力をかける意味がない。違いますか?」 答えはしばらく戻らなかった。 やがて、くつくつと響く嗤い声が届いてきた。『…なるほど、切れ者だな』「ぐっすり眠ってください、明日伊吹さんに面倒をかけたくないなら」『…そうするよ』 真崎。 有沢が突然呼び捨てる。『死ぬまでに、もう何度か電話していいか』「どういうことですか」『…気遣う声に疲れて来た』 ふう、とまんざら演技でもなさそうな吐息が聞こえる。『周りがいい奴ら過ぎてな、自分の黒さを持て余すんだよ』 君は彼女を挟んで俺には容赦がないから安心する。『手加減されなくても、まだ大丈夫なんだってな』 一人で死ぬのは堪える。 ぷつりと切れた電話に京介は溜め息をついた。 **************** 今までの話は こちら
2026.09.06
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****************「…どうした?」「…いえ」 源内の手の場所を眺める。京介の腰に添えられている手はしっかり当てられているが、それだけだ。「……ああ…」「ん?」「いえ……わかりました。体の動きを意識しつつ、掃除にも集中するんですね」「そう言うことだ」 笑って離れる源内は、別の場所を雑巾がけし始める。 たぶん、これも初めて理解することだ。 雑巾を濯ぎに戻る。水がかなり汚れてきたので入れ替えて、もう一度濯ぎながら、自分が微笑んでいるのに気づく。 これは何だろう。安心? 安堵? 源内の触れ方には性的なものがない。比較するとよくわかる。源内に比べると、今までが京介と接した人間のほとんどが、少なからず性的なものを含んで京介に触れていたのだ。抱きたい抱かれたいと言った露骨なものから、綺麗だから触れて見たい、そう言う類のささやかな欲望まで。仕事中の伊吹や高崎、富崎と言ったごく少数の人間だけが、その気配を発さない。 そのことに、無意識に緊張していたと、ようやく気づいた。 今、京介には緊張がない。相手の出方に警戒を向ける必要がなく、源内の指示通り、自分の体の動きだけに十分な注意を向けることができ、していることにより深い意識を向けることができる。自分のことだけを考えていられる。 気持ちが良かった。 体も意識も、今していることだけに集中できることが、これほど気持ちいいとは思わなかった。 腕を伸ばす。指を一番奥まで届かせようとして、脇腹も背中も伸びていく。肩を動かす、ゆっくりと大きく限界まで。微かな汚れを見つけ、拭き方を工夫しながら擦り落としていく。 朝の鍛錬と同じだと気づいて、低い棚をしゃがみ込み体を深く曲げながら拭いた。手を変え、向きを変え、呼吸を穏やかに繰り返しながら、掃除をしつつ身体中を曲げ伸ばししていく。「……ふ…」 体を起こすのも体の中心を意識しながら動いていくと、感覚が澄み渡っていく気がした。 視界の端に同じように、丁寧に丁寧に掃除を続けていく源内の姿があった。まるで棚一つ一つに祈りを捧げていくようだと思い、また不思議な感覚に囚われた。 もし、単に『ニット・キャンパス』だけの関わりならば、こんな光景には出くわさなかっただろう。もし、孝の事件だけの繋がりならば、ここまで距離を詰めることはなかっただろう。 源内も京介も、違う関わり方だったら、全く別の世界に居ただろう。 京介は、大輔への恨みを抱え、伊吹を食い尽くし、世界を呪いつつ一人で生きたかも知れない。 源内は、師匠とともに合気道を葬り、自信のないままハルを手放し、小さな町で一人やさぐれていたかも知れない。 視界がきらきらとした光に覆われている。 これは何だろう。 雑巾をまた絞り直す。 いろんなものが、よく見える。 定められていたかのような、この感覚は何だろう。 今度は奥まった棚を拭き始める。隅に額縁のようなものが積み重ねられて埃を溜めていたから、触ってもいいか迷ったが、源内が丁寧に、と言ったことばを思い出し、そうっと引きずりだした。「…っ」 覗き込んだ瞬間に息を詰めた。 埃を被った額縁は数枚、その一番上はクレヨンで描いたと思われる子どもの絵だ。 画面一杯に描かれた新幹線とその側に立つ、子どもと両親。旅行に行くのか、両親は大きな鞄を持ち、子どもはリュックサックを背負っている。満面の笑顔。『おじいちゃんへ』 ぐいぐいと引かれた幼い文字は、下の方に名前を刻む。『はおりゆたか』 うるさく跳ね上がる心臓、手にした雑巾で京介はそうっと古めかしい額縁のガラスの表面を拭き取る。 間違いない。 これは『羽鳥』の絵だ。 祖父へ送った家族旅行の絵、ひょっとすると、『羽鳥』と祖父、あるいは家族の数人しか触っていないかも知れない絵。額縁に収められていたなら、それほど傷んでもいないだろう。 残されているのでないか、決定的な指紋が。「っ」 気配に振り返ると、源内が無言で見下ろしていた。「……師匠の絵だ」 静かで重い声だった。「そんなところに片付けていたのか」 手を伸ばしてきたのに、差し上げて渡すと、「家に置けなくなったからって持ってきていたのは見てたんだがな」 両手で支えて源内はしみじみと眺めた。 喉から手が出るほど欲しいのは確かだ。けれど、同時にそれは、もう居なくなってしまった師匠の思い出を、罪の立証のために差し出せと言うことだ。 京介は無言のまま源内を見上げた。「……欲しがらないのか」 ぼそりと源内が唸る。「…欲しいですよ」 小さく笑う。「けれど、あなたを傷つけて奪い取ったら、伊吹さんは僕を許さないだろうし」 それでもいいけど。またいじめてもらえるなら。 ちらっと走ったあやうい想像を、さすがに源内は気づかなかったらしい。「…俺にさ」 今にもどさりと座り込むのかと思ったが、源内は踏み止まった。深い溜め息を一つ、それから、「来いって言うんだ、ハルが」「はい」「…服飾、やりたかったんだよな」「……はい?」「イタリアなら楽しいだろうって」「……ああ…」 なるほど、それで『ニット・キャンパス』を引き受けているのか。 小規模なイベンターが仕切るには難しい案件を、苦労も厭わず引き受けているのは、ハルのためばかりでもなかったのか。「男がひらひらしたの楽しんでちゃいけないだろうって、どっかで思ってたの、見抜かれてたよ」 合気道も本当はさ。「動きが綺麗なんだ」 深く深く息を吐き出す。「技よりも翻る裾や袖の動きに目がいってしまってな」 不肖の弟子だったんだ、ずっとずっと。「離れることで守ったつもりになってたんだな」 それが合気道のことなのか、ハルのことなのかは、京介にはわからなかった。けれど、離れることで、大事なものを侵さずに済むと考えたとは伝わった。 源内は、しばらく黙って『羽鳥』の絵を眺めた後、「…今更だが……本当に、今更なんだが」 ぼそぼそと続けた。「ハルを守るために、どんなことでもやろうと思ってる」 この絵を警察に渡してこよう。 京介に目を合わせた源内は、少し情けなさそうに笑った。 **************** 今までの話は こちら
2026.09.05
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****************「で、その顔は何だ」 と聞くほうが野暮か。 金曜日に源内の道場へ出向いての第一声に、京介は薄赤くなったのを自覚する。「ああ、そのえーと」「何だまたキスマーク付けられたのか」 すでに着替えている源内がからかう口調に、慌てて奥の更衣室へ向かいながら、「今度は僕が付けました」 がたたっ! 響いた物音に振り返ると、源内が蹴り飛ばしたらしいバケツを拾いに向かっている。「あの」「話すな答えるなさっさと着替えて来い!」 背中を向けたまま怒鳴られた。「ったく」 源内は小さく溜め息を吐きながら、バケツの中で濯いだ雑巾を丁寧に絞って京介に渡す。「ハルのことだけでも色々人生に衝撃だったのに、あんたのような男がいて、そいつと関わっていくなんて予想もしていなかった」「…そんなに特殊な人間でもないと思うんですが」「自覚がないのも致命的だよ」 ほら、始めろ、と促されて、京介は雑巾を手に造り付けの棚を拭きにかかる。 長く使っていなかった道場は、源内がざっと掃除した程度では、溜まった埃を掃き出しきれなかったらしく、この前に使った後もどこからか現れたチリ埃で薄汚い感じになった。 終わった後の片付けは俺がやるから、始める前の掃除を一緒にしよう。 提案した源内に、前後とも自分がすると申し出た京介だったが、静かにはっきりと首を振って拒否された。『師匠には師匠で、整理して学ぶべきことがあるんだ』 確かに、こうして一つ一つ棚を拭き、汚れを確かめ、雑巾を濯ぎ、また次の棚を拭き、と繰り返していくと、この数日間でのしかかっていた様々なものが、少しずつ減っていく気がする。 経営管理の方法に『5S』と呼ばれるものがある。整理、整頓、清掃、清潔、しつけの頭文字をとったもので、不要なものを捨て、使いやすく片付け、掃除し綺麗な状態を保ち続けること、それを職場で徹底することで、職場の問題に気づき解決していく。 心も同じようなものかもしれない。 毎日毎日、いろんな想いや考え、感情が見えない場所で無造作に積み上げられ、不具合があるような気がするのに、どこに問題があるのかもわからなくなって、いつの間にか身動き取れなくなってしまう。「京介」「はい」 呼びかけられて振り返ると、源内が背後でじっとこちらを見ていた。「何でしょう」「もう少し、丁寧に」「すみません」 いけない、気持ちのことを考えて、実際の掃除がおろそかになっちゃってたかな。 謝りながら、ちょっと落ち着かない、けれどどきどきするような感覚になる。 そう言えば、最近は上から目線で命じられることなんてほとんどなかったなあ、と雑巾を絞り直した。次期社長と決まってからは、社内でも一層距離を置かれるようになった。高山が一歩引いている気配があるのは、いつぞやの孝の話以降だ。あの細田でさえ、呼びつけることをぴたりと止めた。京介にストレートに話しかけてくるのは、富崎と元子ぐらいか。『どうだろう?』 富崎の提案を思い出す。『不自然ではないと思う。先日の一件から、会議室にも設置したいところだが、微妙な会議まで全て記録されるのはどうかと思うし』 報道後、不審な人物が桜木通販の周囲をうろうろすることが増えた。メディア関係ばかりではなく、野次馬的な一般人もいるようで、社内外にも不安が広がっている。 富崎が提案したのは監視カメラの増設で、今まで出入り口と駐車場にだけ設置していたのを増やさないかとの申し入れだった。『ひょっとして?』『ああそうだ、動きも掴みやすくなる』 暗に赤来のことを尋ねれば、すぐに頷く。『ありがとうございます。必要ですね』 京介だけに被害があるならまだいい。伊吹に手を出されては全てが終わる。 元子も異論はないと応じた。『あなたが全て決めていいわ、責任は私が引き受けていく』 変わっていく、何もかも、いつの間にか、踏みとどまれないほどの強さではっきりと。 今、京介に命じられるのは伊吹ぐらいかも知れない。 私がいいというまで我慢して。 耳の奥に響いた声に薄笑みを浮かべた途端、「京介」「はいっ」 源内の声に思わず背筋を伸ばした。「違う、もう少し考えて体を使え」「え?」 意味がわからなくて振り向くと、やってきた源内が隣で同じように棚を拭き始めながら、説明してくれた。「ここでは、この筋肉が伸びている」「…はい」「……こうすると、ここに力が入って、重心が動く」「………はい」 同じような動きをしながら、言われた場所を確認する。「…違う、こっちだ」 時々意識している場所がずれていることを見抜かれ、そっと静かに押さえられて示された。 ふとまた、奇妙な感覚が過ぎる。 **************** 今までの話は こちら
2026.09.04
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****************「僕を欲しいって言って…」 未練でも欲望でも何でもいいよ。(中略)「死ぬなら君の側で」 息を荒げながらも静かな瞳で美並を見上げてきた。「もちろん、生きるのも君の側で」 僕の命は全部君のもの。そして君の命は。「全部……僕のものにしたい」「………」 美並は薄紅の真崎の顔を見下ろした。 間違うのかもしれない、この先何度も。後悔するのかもしれない、この先もまた。 今ここで真崎を手放さなかったことを。 けれど。(中略) 低い叫びが耳に響いて、美並は思わずほっとした。 たぶん、失わずに済む、きっとこの先も。 美並が踏み込めなければ、今みたいに真崎が踏み込んできてくれるだろう。 思っているより自分は弱くて脆いのだ。 けれどもう、それを隠して生きる必要はなくなった。 真崎の背中は美並が守る。 けれど美並の傷みもまた、真崎が近づき暴いて吸い取ってくれるのだろう。 許されている。 視界が煙った。揺さぶられる体の熱だけでなく、ようやく帰る場所に辿り着いた迷子の子どもの安心で。 戻っていい、怪我をしたり傷ついたり、闘うことができなくなったら、この人の元に戻っていい。 一人で頑張らなくていい。 一人で堪えなくていい。 一人で竦まなくていい。 怖がっていい。 怯んでいい。 逃げていい。 次にもう一度闘えるようになるまで、この熱に抱かれて甘えていい。 そんな相手はきっともう二度と見つからない、伊吹美並という人間には。 人の傷みが見え、隠された現実に気づき、真実の姿を見立ててしまう娘には。 だから願おう。「京介……あなたが……」 唯一無二の、番。「欲しいです……っ」 これほどはっきり望んだものを口にしたことなどない。 涙が溢れる、息を引いてしゃくりあげながら、ままよと繰り返し訴える。「欲しいです、京介…っ」 どこかへ行かないで。 誰かと一緒にならないで。「ずっとここに居て」 私の側に。「離れないで」 首を抱いて縋りつき、訴える声は消えそうだ。それでも必死に声を張る、二度と伝えられないかもしれないから。「あなたが欲しい…っ」 ぞくんと大きく真崎が震えた。「あ…ああ…」 思わず溢れた、そんな響きの声に驚いて顔を上げると、真崎が凍りついている。「…京介…?」「反則だ……」 ゆらりと視線が動く。 美並を見据える瞳は深く、きらきら光っている。(中略)「美並は、もう、僕の、だから…っ!」「あっ」 きつく強く吸いつかれ、背けた首に痛みが走った。 **************** 今までの話は こちら
2026.09.03
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**************** 悲痛な声に力が抜けた。 本当はもっと、嫌がられるまでやった方がいいんだろうけど。 もうここまでが美並ができる限界。 でも、ようやく終わった。 これでもう、この先はないんだ。 もう二度と、真崎に触れることはないんだ。 できればもっと、甘くて優しい、終わりが良かった。 こぼれ落ちる涙にそっと抱き締めて、震えている真崎を横たえる。 ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。 傷を暴くようなことをしてごめんね。巻き込んでごめんね。守れなくてごめんね。「もう許してくれる…?」 優しい声を背中を通して聴きながら呟く。「……許せないのは、私です」 慌てたように振り向かれて、失敗したと気がついた。 どうして最後の最後まで。 どうしていつも、詰めが甘い。 大石の件が掠める。あの頃から成長していない。 覗き込む瞳に口から勝手にことばが溢れれた。「…今日を、最後にした方が良いのかなって、思って」 こんな本音を吐くようなことをして。「なのに、ごめんなさい、未練があって、手放せなかった」 やっぱり嫌われたくなかった。「美並…」 また涙が零れたのに真崎が抱き締めてくれて、温かさに震えた。「ごめんなさい、私、気持ちよくさえしてあげられない」 恵子ならもっとうまくやっただろうか。「違う、違う、美並、違うから」 真崎がぎゅうぎゅう抱き締めてくる。「僕は大丈夫だった、僕は……君に何をされても構わない」 目を閉じる。「美並が望むなら、何でもするよ?」 わかっている。だからこそ心配だ。(中略) **************** 今までの話は こちら
2026.09.02
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**************** ハルが桜木通販にやって来て、襲撃と言っていいほどの猛々しさで踏み込んだ。事件のあらましを知り、美並達が何をしようとしているのかを確認し、そうして提案した一つの物証に美並は驚いた。 そんなことがあるのだろうか。『残してあるんだ』 え。『僕とあいつの指紋しかない』 本当? 頷いたハルは強い意志を漲らせていた。結婚式に招待しろと言い放った姿は、もう、いつかの幼い子どもでも、美並に思慕を向けていた少年でもなく、この数十分でいきなり大人になってしまったようで。 その口から聞かされた阿倍野の事件は、なお衝撃だった。 視界が一瞬真っ暗になったのは、ここに居る真崎の無事が、どれほど細い糸に支えられていたか気づいたせいだ。 美並は覚悟している、『羽鳥』と相打ちになることさえ止む無しと思っている。そのせいで真崎が嘆き美並を罵倒するのは、彼の無事と引き換えにできると思っていた。危うい能力にこれ以上巻き込まれるのは嫌だと捨て去られる未来さえ受け入れるつもりだった。 けれど、真崎から聞かされた『事情』は遥かにそれを上回った。 美並が『羽鳥』を仕留め損なえば、今度こそ、真崎が屠られる。 ハルの物証がもし間に合わなければ、不十分であるならば、それもまた同じだ。 赤来の結婚祝いを受けよう。 即座に決めた。 真崎の不在は何とでもなる。 相手の標的は美並だ。美並さえ落とせば逃げ切れる、赤来はそう考えているだろう。 その目論見を逆手に取り、美並を餌に逃げきれない罪を背負わせてやろう。 キスをねだってくる真崎、無事だったんだから許してね、と見下ろす瞳に、泣きそうになった。 今夜が最後にしよう。 この愛おしい甘い人をこの手に抱くのを諦めよう。 真崎は美並を諦めてはくれないだろうから、酷いやり方を再現しよう。こんなやり方では二度とベッドを共にしたくないと思わせて、そこから距離を取って行こう。 確かに桜木通販は風前の灯火だが、引き受ける真崎の評価は女子社員の中ではじりじり上がっている。きわどい噂も華の一つになる容姿、能力は保証済み、桜木通販が無くなっても、真崎ほどの人材はすぐに別の場所でも頭角を表すだろう。「今夜はいいと言うまで駄目ですよ」(中略) 美並ではないかもしれない、こんなやり方を押し付けて。 それでも終わってしまう、これで全部終わってしまう。 ならば、もう少しだけ。「そんなことをするなら二度と触れませんよ」(中略) **************** 今までの話は こちら
2026.09.01
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****************(中略) 伊吹が実は密かにかなり怒っていた、とようやく気づいた。 怪我をしてないからと言ったけれど信じてくれない。(中略)「……許せないのは、私です」「…はい?」 思ってもいなかった答えが返って慌てて指を外して向きを変えた。「…美並…」 瞳いっぱいの涙。「…今日を、最後にした方が良いのかなって、思って」 少し微笑む。 溢れた光に、何を謝られていたのか、ようやく気づいた。 冷たいことば、冷たい対応、快楽ばかりを追うような抱き方、考えてみれば、京介が嫌がるやり方ばかりを選んでいた。「なのに、ごめんなさい、未練があって、手放せなかった」「美並…」 思わず引き寄せ抱き締める。 冷汗が出て一気に萎えた。 阿倍野の話を美並は自分のせいだと考えていた。『羽鳥』を追い詰め切れず、京介を事件に巻き込んだ自分がまずいと考えていた、それを今の今まで気づかなかった。「美並、違う、何言ってるの」「ごめんなさい、私、気持ちよくさえしてあげられない」「違う、違う、美並、違うから」 腕の中でくしゅくしゅと潰れ薄まり消えていきそうな気配にぞっとした。「僕は大丈夫だった、僕は」 ここで間違えるわけにはいかない。こんなところで度量を試される時が来るとは。 繰り返された傷みの記憶、そっくり同じことを伊吹がしないとは言い切れない、それでも。「君に何をされても構わない」 小さな頭を深く抱き込み、寄り添わない冷えた体を強く引き込む。 いつの間にこんなに冷えてしまっていたのだろう。京介は快楽に溺れていて、伊吹の体が冷えていることにも気づかなかった。(中略)「美並?」「…はい」 鎖骨のあたりで聞こえる滲んだ声。「美並が望むなら、何でもするよ?」(中略) 声が掠れた。 **************** 今までの話は こちら
2026.08.31
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**************** 決心がついた。 ハルは断言した。「源内?」「わかった、止めん。と言うか、止めても無駄だろ、これまで通り」 もう何度目かになる溜め息を重ね、コーヒーを飲み、腕時計を見る。「そろそろ出よう、我慢のできない奴らが騒ぎ出す」「わかった」「ハルくん」 立ち上がったハルと源内を伊吹が呼び止める。「何を出すの?」 止める間もなくすうっとハルが顔を下ろす。頬にキスするような近さで何事か囁く。「え」「え」 警戒した京介の声と瞬きした伊吹の声が重なった。「本当?」「うん」 驚いた顔で振り向く伊吹はハルの近さに気づいていない。 その一瞬、ひどく悲しげな優しげな笑みがハルの瞳に滲んだ。老成した高齢の男が小さな子どもを見る目だと京介が思った瞬間、ハルと目が合う。 鋭く貫くような怒りが届いた。 望んだ相手は決して自分の手には入らない。なのに目の前に、それを事も無げに攫っていく存在がいる。完膚なきまでに叩きのめしてやりたいが、愛しい相手はその存在を命に代えても守ろうとする。 できることはただ一つ。「京介」 ゆっくり体を起こしたハルが呼び捨てた。「はい」 思わず立ち上がる。 罵倒されてもいい殴られてもいい、けれどこの場所は生涯誰にも譲らない。叩き落とされても蹴り飛ばされても、伊吹が許してくれるなら、何度でもここに戻ってくる。「遠くにいる」 静かな声で言い放った。「予定」 意味が取れない。「連絡」「あ」 源内もまた首を傾げ、けれど伊吹ははっとしたように体を強張らせた。「招待」「……」 まっすぐに京介を見つめて来た黒い瞳に理解が落ちた。続くことばに自分だったらと思うと、京介は胸が詰まる。「結婚式」 見届けさせろと訴えられている。大事な女性が必ず幸福になるのだと確信させろと命じられている。「はい、是非」 約束すると、ハルは頷き、くるりと向きを変えたが、「美並?」「はい?」 第2会議室から出て行きながら、ハルは背中を向けたまま言い放った。「そいつ、女に襲われてるから」「えっ」「あ」 京介は引き攣った。「阿倍野とか言うのに、果物ナイフで昨日刺されかけたらしい。怪我してないって言ってるけど?」「ハルくんっ」 思わず呼んでしまった。「いじめられろ」 ぼそりと唸ったハルは振り返りもせず、部屋を出て行く。すまん、と片手で源内が謝ってくれたが、それを見送って立っている伊吹は無言のままだ。「あの、伊吹さん…」「…どう言うことですか」 くるりと伊吹が振り返る。静かな目が怖い。「今夜詳細を聞かせてください」「う、うん」(中略)「…っ、あっ」 堪え切れなくて、京介は声を上げる。「いぶ…き…」 視界が霞む。息が弾んで頭が朦朧とする。(中略) 容赦なく高まっていく体が辛い。(中略) 口を開いて熱を逃がす、それぐらいしかできることがない。 汗に溶ける。溺れていく。**************** 今までの話は こちら
2026.08.30
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すみません、まだ書き上がってないです、『ラズーン』なのに、驚くじゃありませんか、もう8000オーバーだと?2回分書かなくちゃ。頑張っております。そこへ追い打ちかけるように人員削減と病欠だと?残業だな?うん、残業だ。人が減っても仕事は減らない、むしろ増える。真理だ。で、後は何をしたらいいんだ? レベルアップか。そうか、そういう時期なのか。心穏やかに暮らしたいんだが。ほんと。いやほんと。
2026.08.29
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**************** 第2会議室でこれまでの状況を聞いた源内は混乱し、ハルは何事か考え込んでいる様子だった。もう少し疑問を確認し、話を詰めていかなくてはならないだろう、それほど時間が残されていないから、今日が最後の機会になるかもしれない。 仕切り直そうと、美並は給湯室でコーヒーを淹れ直し、ハルには望まれたお茶を淹れる。 ハルが美並を遠ざけたのは気づいていた。ハルと源内の2人相手では真崎1人では分が悪すぎる、そう案じたのも確かだったが、ハルが意味もなく時間を作るはずもなく、その意味を考えているうちに、頭の中に構図が一つ浮かび上がった。 腐った血の色のタイル。 初めは、あれで『指紋』を取るつもりだったのかと思っていたが、ハルはそれを赤来に与えてしまった。『そのタイルは差し上げます。お持ち下さい、あなたのものだ』 去り際の穏やかな口調に何かが引っかかる。 赤来課長は目を見開いて、ハルとタイルを眺めていた。 空は赤い。 なぜか幼いハルのことばが蘇る。 今のハルからあの時のハルは思い出せないに違いない、気配もキャラクターも違い過ぎる。 けれどもし、何かのキー・ワードが与えられたならば、容易に思い出すことができるかも知れない、あの時のハルを。「…っ」 お茶の香りが広がった瞬間、美並の頭の中に、草いきれと絵を破られていたハルの姿がタイルに重なる。 同じ色。 変わらぬ、同じ、腐った血の色。 体が強張った。 気づかないだろうか、特殊な感覚でなければ、お前の色はこれだと示されてもぴんと来ないものだろうか。 なぜ絵は破かれたのだろう。 きっと、それが真実を知らせていたからだ。見たくない、知りたくない、己に不利なものの存在を、人は壊し消したがる。 赤来は忘れきっているだろうか、平穏な暮らしの中で、自分の闇の部分は完全に封じ込めてしまっているだろうか。「……違う…」 忘れてなどいない、だからハルは美並の中から赤来の色を読み取った。自分がかつて遭遇した、命を磨り潰す『支配』の色を見分けた。それをハルはあのタイルに表現した、これはお前の色だろう、これを自分は見たことがある、この色を持つお前を知っている、と。「…ハルくん……」 思わず流しに手を突く。 赤来を見分けるためだけではない、ハルは自分が知っていると赤来に突きつけに来たのだ。どれほど時間が経ち、どれほど人の間に紛れようとも、自分は無数の色の中から確実に『羽鳥』を見分けられる、と。 だからこそ、こっそり来てはならなかった。報道陣を連れ、全ての武器を携えて、赤来に会わなくてはならなかった。 もう逃げることはできない、と宣戦布告するために。 ハルの存在を『羽鳥』に知らしめるために。「っっ」 ぞわりと身体中の毛穴が開く。 ハルが悩んでいたのは、『ニット・キャンパス』への参加だけではない、赤来を追い詰める鉄槌を自分が振るうかどうかを悩んでいたのだ。 それは同時に自分も、そして関係者も危険に晒すから。「ハルくん…」 なんという犠牲を払うつもりなのか。 美並は滲んだ涙を堪え、急いでコーヒーとお茶を揃えて第2会議室に戻る。「…お待たせしました」 声を掛けて入り、部屋の凍りついた空気に気づく。 源内がぐったりと俯いて座り、ハルはいつも通り、真崎はむしろ困った顔になっている。「課長?」「…ごめん。僕にも何が起こってるのか、よくわからない」 真崎は苦笑いした。「ただ、彼は昔『羽鳥』に会っていることで、赤来課長に何か仕掛けたらしいよ」 やっぱり。「ハルくん」「源内」 美並の声を無視してハルが声を掛ける。真崎を見遣ると、少し首を振り、自分の手近の椅子を示した。今はどうやら、源内とハルの間に何か起こっているらしい。頷いて、そっと腰を下ろす。「源内」「……」 はあ、と溜め息が応じ、俯いたままの顔から呻くような声が続いた。「……囮、だよな?」「ごめん」「お前は赤来って奴の標的を自分に向けたんだ」「違う」「違わない」「違う」「……もうことば遊びはいい」「違うよ、源内。俺はあいつを許す気はないんだ、俺の絵を破ったから」 優しい柔らかな声が応えて、源内ががばりと顔を上げる。「嘘だ」「お前が評価した俺を侮辱したんだぞ放っておくのか」「……嘘くせえ」 棒読み的な返答に源内が顔を引きつらせる。「お前が他の人間の評価を気にするような奴なら、俺はもっと楽だったんだ」「頼む」「え?」「この先も」「……え…?」 ハルは微笑む。「イタリア」「…」「フランス」「…」「世界あまねくに」「………」「忙しい」「…………ハル」「いつか消える」 源内の呆然とした表情に笑いかける。「その時まで」 闘わせてくれ。「…ハル…っ」 ぶわっと源内の両眼から大量の涙が溢れ出て、美並も真崎もぎょっとした。驚かなかったのはハルだけで、むしろ眉を寄せ、「気持ち悪い」 容赦なく切り捨てた。 **************** 今までの話は こちら
2026.08.29
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**************** ほとんど口をつけずに、冷めきってしまったコーヒーを、伊吹が再度淹れ直しに行ってくれる。「美並」 唐突にハルが口を開いた。「お茶で」「…ええ」 伊吹の気遣わしげな視線は京介に向けられる。呼び捨てにされたことに抵抗しなかったのを謝る視線かと思ったが、そうでもないようだ。何かを案じているのは確かなので、大丈夫、と笑ってみせると、ほっとした顔で出て行った。「時間?」 ハルが鋭い視線を投げてくる。「ああ…そうでしたか」 なるほど、ハルがわざわざ茶を希望したのは、伊吹を遠ざける意図があったのか、しかもそれはハル側に必要だったと言うよりは、京介に必要ではないかと考えてくれたと気づく。「すみません、ありがとうございます」 確かに伊吹の前で話しにくいことがある。「何だ? 彼女はメインの関係者だろう?」 源内が訝しげに尋ねるのに、「心配性なので。実は」 京介は昨日の阿倍野の一件を話した。「さすがに関係のない人間にまで、何かしてくるとは思えないけれど」 緊張した顔に戻る源内と相変わらず無表情なハルに続ける。「ひょっとすると」「赤来、じゃない、『羽鳥』が煽った可能性もあるってことか」「たぶん」「美並?」「話しません」 ハルが再度質すのに首を振る。「伊吹さんにはもう檜垣さんや有沢さん達が注意を向けている。手を出してくることはないでしょう。余計な心配を掛けたくない」 無事だったしね、と笑ってみせると、ふん、と鼻を鳴らされた。「仕掛けてくるとしたら、ガードのない方ってか」 源内は厳しい顔のまま、もう一度、溜め息を重ねた。「溜め息」 ハルが気づいて指摘する。「ああ、一生分溜め息吐きそうだ」 まあ、体の方は心配してないけど、とハルに視線を向ける。「?」 今度はハルが訝しそうに源内を振り向いて、京介は頷く。「ああ」「だろ」 確かにハルに手を出されて稀代の才能を潰されるようなことになったら、源内は自分を二度と許せないだろう。「…どうしたもんだかな」「出す」 ぽつりとハルが言い放った。鋭い視線で源内を射抜く。「…え?」 考え込んでいたのだろう、珍しく源内の反応が遅れる。「問題ない」「いや、ハル、それはな」「死ぬだけ」 さらりと言い放ったことばにざわりと源内の気配が逆立った。「ハル」 今何言った。 京介が目の前に居るのを忘れてしまったように、源内がハルに向き直る。「死ぬだけ」 淡々とハルが繰り返す。「いつか必ず」 ぶっつりと音を立てて源内の何かが切れた。穏やかな表情が見る見る憤怒に染まる。ゆっくりと椅子から立ち上がる。その源内を、椅子に座ったままのハルが見上げる。「僕も」「そんなことは言われなくともわかってる」「わかってない」「わかってる」「わかってない」「わかってるって言ってるだろうが!」 あれ? 京介は目の前で始まったやりとりに置き去られて戸惑う。 何か見えない部分での問題が浮かび上がってきてしまったらしい。「源内」「ガキが死ぬとか口にするんじゃねえっ」 ハルの声に源内が吐き捨てた。「ああ、ああわかってる、確かにお前も俺もいつか死ぬだろう、だがそれは今じゃない、明日でもない明後日でもない、ましてや事件に巻き込まれて殺されるってこととは全然違う!」 ああそうか。 京介は瞬く。 確かに源内は悩んでいた、ハルの才能を自分が付き添い関わることで潰さないかと。もっと広い世界、もっと高い場所で評価されるべきものを、こんな小さな町、こんな人脈一つない企画会社の男が閉じ込めてしまっていないかと。 それはつまり、ハルの才能を失いたくないあまりの悩みだったのだと今更気づく。 ハルの身に危険が及ぶかも知れないと言う可能性を提示されて、一気に表面に現れたのか。「いいか、お前は今注目されてきてる、世界がようやくお前の才能を評価し始めてるんだ、今ここでか関わらなくても、もっと他の手が」「出す」「お前が出さなくていい、見つかる、さっきのタイルみたいに、何か別の方法が」「源内」 ハルが目を細めた。「彼はもう気づいたよ」「…え?」 いきなりの滑らかな口調に源内が真っ赤になった顔を凍らせた。「彼はもう、僕があの時の子どもだって気がついた」「いやだって、そんなはずがないだろう、お前が絵を破かれたのはうんと小さな頃だし、向こうだって名乗らなくちゃ覚えてなんか…………っ」 いきなり源内の顔が真っ白になった。「お前……まさか」「ごめん」 ハルが微笑む。大人びた、悲しげな笑みだ。「決めてた」「まさか、お前、そんな、つもりで…」 よろめくように足を引き、椅子に崩れ込む。「俺に、話も、しないで?」 掠れた声は泣くようだ。「謝ってばかりだな、新しい世界に行く時は」 低く呟いたハルが苦笑した。「誰一人、幸せにできない」「…お待たせしました」 戻ってきた伊吹が部屋の空気に眉を寄せる。「課長?」「…ごめん。僕にも何が起こってるのか、よくわからない」 京介は正直に伝えた。「ただ、彼は昔『羽鳥』に会っていることで、赤来課長に何か仕掛けたらしいよ」 **************** 今までの話は こちら
2026.08.28
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**************** 京介の前で、高崎と志賀が二人でホール・イベントの問題点やら検討やらを始め、他の仕事もあるんだけど、と言ってはみたが、冷ややかな視線で高崎に睨まれスルーされて数十分後、京介はようやく解放された。「ちょっとやりすぎたか」 からかうつもりはなかったが、志賀が思った以上に初々しくて、たぶんこれは、『そういう関係』にはならなくとも、高崎とあれこれじっくり話し合ったのだろうと思うと、ついつい志賀の本音を確かめてみたくなった。 同時に一つの方針も固める。 もし『ニット・キャンパス』がうまく成功したなら、高崎に仕事を一つ任せてしまおう。望むなら『Brechen』への転職を視野に入れてもいい。桜木通販が無事に残る可能性はひどく少ない。その点、岩倉産業ならば、高崎の能力を十分に活かせるだろう、志賀ともうまく折り合うだろう。「…残念だけどね」 小さく溜め息をつく。 貴重な人材をどのように育てるかもまた、トップの仕事だ。「トップ、か」 上層部は誰が何人残るのか。高山は始末がつけば退くかも知れない。赤来は居なくなる、細田も怪しい。富崎は意外に残るかも知れない、初めて見せた裏の顔で、先の展開を面白がりながら。 伊吹は、どうする。 穏やかなノック。「…」 京介はドアを振り向いた。 今度は誰かわかっていた。「失礼します」 伊吹が断りながらドアを開け、京介と視線を合わせる。 昨夜は会えなかった。今夜は一緒だ。寂しさで体が疼く。 たぶん志賀に絡んだのも、伊吹の顔が見られなかったせいだ。早く時間が過ぎればいい。伊吹と一緒に居られる時間が、どんな時間よりも長くなってくれればいい。 それでは。 それなら。「おはよう、伊吹さん」「おはようございます、真崎課長。…どうぞ」 ことばが固いと思っていたら、その後ろに予想外の人間が続いて瞬きした。「社長……渡来さん? …源内さんも」 続いた人間、その背後で続くシャッター音に蕩けかけた顔を引き締める。 これは単なるお遊びじゃない、立派な強襲だ。「何の御用でしょうか」 ハルが京介をメディアに晒して喜ぶとは考えにくいし、第一伊吹が連れて来ない。「ごめんなさい」 元子が静かに微笑んだ。「報道のこともあって、『ニット・キャンパス』協賛企業を見て回りたいと希望されたの。他の部署も見て回られて、最後があなたなんだけど、進捗を報告して差し上げて」 ハルに対する敬語は、先日の『「ニット・キャンパス」ぶっ潰す騒動』のせいだろう。「ああ、それは勿論です。ご心配おかけして申し訳ありません」 京介は手近の椅子を勧めながら、ドアを伺う。頷いた元子が、ここから先は企業秘密となりますので、と報道陣を引き離しにかかってくれる。伊吹が姿を消したところを見ると、お茶を準備してくれるつもりだろう。ぱたりと静かにドアを閉めた。「別室でご説明しましょうか?」「ここで」 ハルは言い放って、面倒そうに椅子に座った。「疲れた」「…まあ見ての通り、視察とは名ばかりで、何が起こってるのか、関係者から直接説明を聞きたいと思ったんだよ、できるだけ早く」 源内が苦笑いしながら、同じように椅子に座る。「伊吹さんも戻ってくるだろう? 報道された内容はいろいろ耳にしてるし、そういう意味では確認したいことも幾つかあるが」 源内がぴたりと口を閉じると、伊吹がコーヒーを淹れて戻ってきた。それぞれの前にカップを置き、京介の前にはカフェラテを置いてくれる。嬉しくて早々に口をつけると、ハルにじろりと睨まれ、苦笑した。「話せ」 命令形か。「俺としては、俺の師匠がなぜ今回の件に関わっているのか知りたいね」 源内の問いに伊吹が視線を投げてくる。京介は説明した。「源内さんに僕は合気道を習ってる……君も座って」「課長がですか」 訝しそうに首を傾げながら、伊吹は京介の促しに腰を下ろした。「それこそいろいろあってね。それで、源内さんの合気道のお師匠さんが羽折二木助って言う人で、二人のお孫さんが居て、お孫さんの一人を事故で亡くし、その供養というか、大恩仁寺と言うお寺に住み込まれたことを聞いた」「……そんな」 伊吹がゆっくりと目を見開いた。ハルがちらりと物問いたげに見遣ったが、黙ったまま京介のことばを待つ。「君は師匠の孫が触ったものが、道場にないかと聞いたな」 それは『指紋』に関係してるのか?「……はい」 伊吹が頷く。「…どういうことか、説明してもらおうか」「…では、私から」 伊吹が口を開くのに、初めは奇妙な顔をしていた源内も、話が進むに連れて、そそけ立ったような薄寒い顔になっていった。 伊吹が話し、京介が補足する。その間、ハルは一言も口を挟まない。「だから今、私たちが必要なのは、赤来課長の指紋です。それも、赤来課長に知られずに取る必要があります」 今はまだ逃げる気配はないけれど。「逃げない、とは言い切れない」 伊吹が厳しい顔になる。「…ちょっと、待ってくれ、これはその、現実の話、なんだよな?」 源内が深く溜め息をつく。「どこからどう、絡んでるのか、何が何だかわからないって言う事しか言えないが」 困惑した顔は、敬愛する師匠の過去の闇を覗いてしまったからだろうか。 なぜか黙ったままのハルを見遣り、考え込むように口を噤んでしまう。 詳細を聞いてもハルは口を開かない。静かな瞳はうろたえもしていない。 源内からの情報や報道で、何か察するところがあるのか、京介の凝視にも淡々としている。「コーヒー、淹れ直してきますね」 伊吹が心配そうな顔で立ち上がった。「頼む」 源内はもう一度溜め息を重ねた。 **************** 今までの話は こちら
2026.08.27
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****************「…課長」 緊張した顔で高崎が動き、京介が部屋を出て行くのか、志賀に迫るのか、何れを選んでも道を塞ごうとする。「こいつは」「高崎くん」「はいっ」 険しい顔で睨み返してくる。「そんな怖い顔をされると脅されそうでどきどきするなあ」「えっ」「僕はコーヒーね」「は?」「志賀さんは?」「え、あの…」 不安そうに顔を上げた志賀が戸惑って答えを探す。「コーヒー…で」「じゃあ高崎くん、よろしく」「え、何ですか、俺が買いに行くの?」「君のも買って来ていいから」「ありがとうござ…じゃなくて、今っ?」「そう今」 さっさと行け、と視線で促すと口を尖らせながら部屋を出て行く。 後ろ姿を寄り添いたい気持ちも露わに、志賀が視線でドアを出て行く高崎の背中を追う。「…改めて、志賀さん」「はい」 京介が向き直ると、志賀は顔を強張らせて向き合った。「この度は………?」 再び頭を下げようとした相手に微笑み、首を振る。「謝罪し、礼をいうのはこちらです」「え…?」「高崎もいずれ知りますが、あなたには貴重な情報を伝えてもらったことを感謝しなくてはならない。その上で、再びご迷惑をお掛けする可能性があることを先に謝らなくてはならない」 すみません。 居住まいを正し、頭を下げる。「僕の方こそ、個人的な事情で『ニット・キャンパス』開催を危機に陥れている人間です。あなたや大石さん、岩倉産業の方々にもご心配とご迷惑をおかけしています。この件が済んだら、相応の責任を取るつもりがあります」「…どういう、ことですか」 志賀の口調が変わった。「まさか…」 察したのだろう、京介が静かに顔を上げると、志賀が少し青ざめていた。「赤来課長が、何か」 京介は無言で微笑んだ。「っ」 志賀が息を呑む。高崎が出て行ったドアを見やり、すぐに京介に目を戻す。「高崎は、察してます」 囁くような声で続けた。「あなたに何があったのか知って、あなたが高崎にどう思われてるかまで心配してたら動けなくなるからって、自分は信じて欲しいからって、だから」「…そうですか」 なるほど、高崎のこれ見よがしな『気にしていない』宣言は、志賀だけではなく京介にも向けられていたのか。自分を蹂躙した同じ性別の人間に囲まれて、上司部下で働かなくてはならない京介の苦痛を思い、少なくとも自分は性的なものを仕事に持ち込まないとアピールしたのか。 良かった。 胸に今まで感じたことのない安堵が広がる。 僕の目は間違っていない。 信頼した部下が確かにその評価にふさわしいと知らされるのは、これほど誇らしいものなのか。 多くの成果を挙げてきたし、会社に貢献してきた。社外の評価も上々、自分の能力が叩き出した恩恵は十分に受け取ってきたけれど、こういう嬉しさは初めてだ。「『最後の砦』」「……はい」 ふわりと志賀が笑みを零した。目元を潤ませるほど華やかに笑い、「あいつはいつも、『最後の砦』です」 全幅の信頼を響かせる。 その幸福を、京介もまた知っている。 背中をいつも守る姿。自分がどんな姿になろうとも、受け止めてくれる確かな存在。 闘え、と囁かれる。 進むべき道を塞ぐ矮小な噂など、躓く石にもならない。 闘え、弱さも脆さも狡さも全て抱えたままで、踏みとどまるべき場所を信じて。 ドアを出て行った高崎もまた、同じことを志賀に対して感じていると伝えてやったら、この笑顔はなお華やぐだろう。「あなたにとっても」「……は、い」 一瞬強張った顔は誤解している。「僕にも『最後の砦』があります」 京介は笑った。「骨は拾ってやるから炎の中に飛び込んで来いと命じるような人ですが」 胸の奥が温まる。「僕の命を支えてくれる人です」 志賀が大きく目を見開いた。薄赤く染まる顔に瞬きを繰り返す。「あの…」「はい」「あんまり、そういう顔を見せない、方が」 喉に絡んだような声で続けた。「……いろいろと、まずい、感じが」「襲われそう?」 ちろっと舌を出して笑う。「伊吹さんにも言われました」「っ」 がこん! 志賀が口をつぐんだ途端、ドアが蹴り開けられる。「かーちょー」 平坦な声が響いた。「あんた、火に油を注ぐってことば、知ってますか?」 憮然とした高崎は両手にカップを持ったまま、鬱陶しそうに目を細めた。「人の心配をなんだと思ってんすか」 **************** 今までの話は こちら
2026.08.26
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**************** 静かなノックの音が響いて京介は顔を上げる。「どうぞ」 昨日から比べれば格段に捌かなければならない案件は減ってきた。ネット社会の移ろいやすさと言うか、京介の境遇もまたありふれた状況の一つにしかならなくなった社会のあり方とか。そう言うものは人の心を傷つけるしかないはずなのに、今の京介への見えない覆いとなって注目を和らげてくれる不思議。「あれ」 入ってきた顔の意外性に瞬きする。 高崎と、志賀。「忙しい時にすみません」 まずは高崎が頭を下げた。引きずられたように、志賀がそっと頭を下げる。 高崎は紺藍のスーツに地味な深緑のネクタイ、何だか妙に肩幅が広くなった気がする。隣の志賀はグレイスーツに薄青ベースの細めのネクタイ、こっちは逆に線が細くなったか。「いいよ、何?」 ちらりと高崎を見遣ると、相手は厳しい顔で見返してくる。 これはホール・イベントで何か問題が起こったか。 事件が報道されたことの影響は、大きな場所ではそれなりに落ち着きつつあるが、小さな場所、例えばホール・イベントの参加者と言ったところでは問題が広がるかも知れない。 若者を『健全に』育てられない環境だと判断されるとか。出演することで今後のキャリアに傷がつくと予想されるとか。 桜木通販のホール・イベントは多人数の参加者を当て込んでいる。『Brechen』はプロのダンサーで構成されている。どちらも出演者を今から失うときつい。舞台展開そのものに響く。「参加者に何か?」「へ?」 尋ねると高崎の顔が間抜けに緩んだ。「いえ、別に。むしろ盛り上がってきたかも」「え?」 今度は京介が眉を寄せた。「盛り上がってる?」「LGBTの新しい取り組みだとか、俺とこいつの先が知りたいとか」「は?」「高崎っ」 立てた親指で示された志賀を見るのと、相手が薄赤くなりながら隣を睨むのと同時だった。「勝手なこと言って、加わりたがってるのが増えてます、そっちを捌くのが面倒なぐらいで」 当の高崎はしらっとした顔で続ける。「何言ってるんだってところに落ち着きました、俺は」「どう言うこと?」「こいつが女だったら、俺は恋愛感情抱かなくちゃならないんですか?」 高崎は淡々と話す。「ラブラブじゃないと仕事しちゃいけないんですか?」 そう言うことでしょ、結局。 志賀が一瞬表情をなくし、やがて小さく唇を噛みしめる。「俺は今『ニット・キャンパス』って仕事をしてる」 高崎の顔は静かだった。「楽しい仕事だ、やりがいがあります。仲間もいいし上司もいい。毎日アイディアを思いつく。試してみたいことが次々出てくる、そしてこいつは」 再び志賀を無遠慮に指差す。「それを一番よく理解してくれる」 ぐいと唇を引いた高崎と、目を見開き少し口を開いた志賀の表情は対照的だった。 志賀には聞かされてなかったな、これは。 京介は二人を見比べる。 志賀はおそらく大石から謝罪を指示され出向いて来ている。高崎の同行はたまたまだったか頼まれてかはわからないが、たぶん高崎が同行することを主張したのだろう。京介が万が一にも志賀を切らないように防衛線を張りに来た。「それは男でも女でも変わんないです」 なんでもかんでも好きだ嫌いだに結びつける奴らにはうんざりする。「俺は嫌いな奴とも仕事はするし、好きな奴でも仕事に声をかけない時もある。やり易さってこともわかるけど、俺が欲しいのは仕事内容をちゃんと理解してチームが組める奴です」 高崎はまっすぐ京介を見返す。「もし課長が、先日の件で、こいつが『ニット・キャンパス』にふさわしくないって言うんなら、こいつを評価してる俺も課長の基準を満たしてません。すっごく悔しいけど、『ニット・キャンパス』から俺を切ってください」「た、かさきっ」 志賀がうろたえた声を上げて慌てて京介を振り向いた。「申し訳ありません!」 背筋を伸ばし、厳しい顔で頭を下げる。「限られた貴重なお時間を、プライベートな用件で無駄にし、大変申し訳なく思っております。しかし、『Brechen』の意図ではなく、全く私個人の事情によるものです。先日大石より、今後も『ニット・キャンパス』への参加を許して頂けるとお聞きし、感謝しております」 こっちも見事だな。 京介は微笑んだ。 確認したいところだろう、自分のことを京介がどう考えているのか。報道がなされた今、京介が無理矢理大輔に性的に虐待されていたと知って、志賀が伝えた内容がどれほど不快なものであったか、自分の存在が京介にとって過去を思い返す苦痛でしかないかもしれないと、考えなかったはずがない。 それでも『ニット・キャンパス』に参加し、同じホール・イベントに加わる人間として、純粋に『仕事に個人的な事情を持ち込み台無しにしたが、そのミスを飲み込んで再度仕事を再開してくれた相手企業への謝罪と感謝』に絞り込んで振る舞っている。 京介は立ち上がった。 **************** 今までの話は こちら
2026.08.25
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**************** 珍しいハルの笑顔に激しいシャッター音が鳴り響く。源内が少し驚いた顔になっている。 美並も思わずハルを眺めた。 もうここには『赤い空』の絵を破かれて怒っていた子どもはいない。 自分の才能を否定され、認められないことに憤って、周囲との関係を拒んだ少年もいない。 在り方を問われ選択を確かめられても、抗弁する必要さえ感じない、その自信。「次を」 笑みを残したままハルは振り返る。「経理課?」「はい」 細田のありがとうございました、の声を背中に、ハルは再び歩き出しながら、思い出したようにくすくす笑って、なお美並を驚かせた。「ハルくん?」「ごめん」 心配になって声をかけると、目を細めたハルが、「描きたい」「え?」 手を空中に浮かせ何かをなぞるように泳がせた。「作りたい、形にしたい」 美並。 囁く声が低く続ける。「君を愛している」 息を呑んだ。「ごめん」 ハルがまた小さく笑って謝った。「世界を愛してる」 君だけじゃない。「ごめん」「ハルくん」「あんな質問」 遠くを眺める視線で呟く。「こんな場所で」 薄く微笑む。「すべて経験」 吐息した。「答えだ」 来てよかった。 大人びた声は感慨深げだ。 ふと、この『訪問』は単に『羽鳥』を確かめるためだけではなくて、ハル自身もどこか『ニット・キャンパス』参加への迷いがあったからかも知れないと思った。 オープン・イベントのやり方そのもの、参加者との調整、権力抗争に持ち込もうとする大人達など、ハルの気持ちを疲れさせるものが一杯あったに違いない。それらから離れて、自由に自分のイマジネーションのまま作りたいと思ったこともあったのだろう。 『羽鳥』の一件が終わったら、美並との関係が落ち着いたら、『ニット・キャンパス』に関わり続ける意味はどこにあるのか。 その答えをハルは桜木通販で見つけたのかも知れない。「経理課」 札を見上げてハルは表情を消した。「行こう」「はい」 ドアを開ける。「失礼します」 声に応じて奥に座っていた赤来が立ち上がる。手にしていた書類ファイルを机の上に置く。「こちら、『ニット・キャンパス』のアーティストの」「渡来晴さんですね。初めまして。経理課課長、赤来豊と申します」 にこやかに席を立って近寄ってくる。手には名刺を準備している。 その名刺に視線が吸いつけられそうになるのを美並は堪えた。「ハルです。すみません、僕は名刺を持たないので」「では、私が」 ハルの返答に被さるように源内が自分の名刺を出そうとする。「ああいえ、そうですね、お仕事依頼ではないのですし」 赤来は残念そうに笑い、名刺を片付ける。 美並の胸が疼いた。 失念していた。当然あり得ることだった。ハルが名刺を持たなくとも、源内が名刺交換をすることはできたはずだ。 ちらっと源内を見やると、かすかに眉間に皺を寄せている。 源内もまた赤来の指紋を得ようとしていると感じた。「いろいろ慌ただしくしていますが。お尋ねになりたいことがあればどうぞ」 赤来はハルの側で課内を一緒に見渡す。「空席がありますね」「体調を崩しました。急に寒くもなりましたし」「今はどんなお仕事を」「勤怠管理と資産確認……ご存知でしょうから詳細はお話ししませんが」 暗に部外者に話すことは何もないと伝える赤来に、ハルは顔色一つ変えない。「お忙しそうなので失礼します」「いえお構いもせずに」 何か参考になりましたか。 赤来がハルを覗き込んだ。視界の端で美並を見る。「…今度このタイルを使います」「これは…」 ハルが突然ポケットから取り出したタイルは、いつか美並にも渡されたようなものだ。ただし、その色は。「何というか、凄い色ですね」「よろしければ手に取って下さい」 一瞬ためらった赤来は、ここでは断れないと考えたのだろう、ハルからタイルを受け取る。「何と言う色ですか」「気に入って頂けましたか」 ハルが薄く笑った。「口の悪い人間は腐った血の色だと言いますね」「…」 赤来はタイルを斜めにしたり戻したりと光の反射を楽しむように動かした。やがて小さく溜め息をつき、「見事な色ですね」「こう言うタイルが数千枚集まり、一つの絵になります」 ハルの解説に顔を上げる。「運命のように繋がれる」「君は…」 赤来はハルに目を据えた。不安げな、何かを探すような奇妙な視線でハルを見つめていたが、ふいに目を見開きことばを呑む。「ここへ来てよかった」 気づかぬ顔でハルは繰り返した。 次のことばは美並の予想を覆した。「そのタイルは差し上げます。お持ち下さい、あなたのものだ」 第2会議室には、状況が状況だけに、ハルと源内、美並のみが行くことになった。「美並?」 顔色が悪かったのか、ハルが心配そうな顔を向けてくる。「…大丈夫」 美並はかろうじて頷いた。 大丈夫などではない、美並の頭の中には、ハルが赤来に渡したタイルが閃いている。 あのタイルを回収できていれば、タイルにはおそらくハルと赤来の指紋しかない。かなり有力な証拠に繋がる。 なのにハルはタイルを赤来に渡してしまった。赤来から回収するのは至難の技だ。「わかった?」 くらくらする視界をこらえながら尋ねる。「うん」 ハルは頷く。「『羽鳥』」 同じ赤。「ハルくん、聞いていい?」「うん」「『羽鳥』の指紋が必要だって知ってた?」「うん」「なのに、なぜ」 会議室のドアに手を掛けながら開けられない。目の前ですり抜けた機会に胸が苦しい。 淡々とハルが断じる。「不要」「必要だった」 思わず反論した。「不要」「時間もチャンスもない、だから」「伊吹さん」 源内が見かねたように口を挟んだ。「あれはたぶん使えない」「え?」「あいつはハルから受け取って眺めた後、ハルと話しながら何度か握り込んで表面を擦っていたよ」 指紋は残ったかも知れないが、鮮明なものはほとんどないだろう。「それに」「源内」 ハルが遮る。 どこか悲しそうな顔で美並を見た。「中で」「あ、ああ」「みなみ」 ふいに幼くなった声で、ハルがドアをノックしながら呟く。「大丈夫」 僕は考えている。けど。「まだ決心できない」 **************** 今までの話は こちら
2026.08.24
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**************** 明日。 こう言うことか。「美並」 にっこり笑って桜木通販に入ってきたハルに美並は呆気にとられる。 しかも一人じゃない。背後に源内と報道陣らしいものを従えての、堂々たる『訪問』だ。「すでに岩倉産業にも伺ったんですが」 源内が受付で説明をしている。揉めていないところを見ると、事前に連絡はしていたのだろう。「お待たせしました」 元子が出て来た。今日は甘い灰色のスーツ、白いブラウスで貫禄ある体がはち切れそうな印象があるが、物腰は柔らかくて丁寧だ。「突然お邪魔して申し訳ありません」 黒づくめの源内が微笑んだ。「いえ、ご心配おかけしております」 元子が深々と頭を下げる。 すいとハルが進み出た。白いラフなジャケットにスラックス、高校生には見えない立ち居振る舞いで話しかける。「初めてお目にかかります。渡来晴です。本日は無理を聞いて頂き、感謝します」「桜木通販を見たい、とおっしゃっていましたね」 元子は立っている美並を手招きした。 来客があると呼び出された美並は慌てて近寄る。「『ニット・キャンパス』開催にあたり、協賛企業を訪問し、イマジネーションを高めたいとおっしゃったの。伊吹さん、ご案内してくれる?」「は、はい」 どの辺まででしょう、と視線で社内案内図を見やると、「各部署、すべてご覧になりたいそうなの」「よろしくお願いします」 ハルが頷き、はっとした。 そう言うことか。 ハルは自ら『羽鳥』を確認しに来たのだ。協賛企業の視察とは聞こえがいいが、要は『ニット・キャンパス』に関わる組織の、どの辺りまで『羽鳥』が浸潤しているのか、自分の目で見極めようとしている。「源内さん…」 思わず相手を振り向けば、苦笑いしながら肩を竦めた。「芸術家はイマジネーションのためなら何でもしますからね」 源内もある程度のことは知っているらしい。話したのは真崎か、それとも大石か。 いずれにせよ、真崎は本日も第2会議室に籠っていて、基本的には出てこれない。「…ご案内します」「心配無用」 ぼそりと背中からハルがいつもの口調で言い放つ。 歩き出したハルの姿をパシャパシャとカメラのシャッター音が追う。 予想以上の注目度だ。『ニット・キャンパス』の中心がハルだというのが良くわかる。 元子は後ろから源内と一緒に歩いてくる。「そうですか、じゃあもう真崎さんが次期社長になるのは決定事項なんですね」「先日から引き継ぎを始めています」 桜木通販の動きについて説明する声に、またシャッター音が響く。その音に紛れるように、「あいつ」 隣に肩を並べたハルが尋ねた。「第2会議室に一人で居ます」「最後」「わかりました」 まっすぐ前を向く瞳は、ゆっくりと掲げられた部署名に向けられる。「こちらが総務課です」 失礼します、と声をかけて扉を開くと、ちらっと視線を動かした富崎が立ち上がった。「…?」 伊吹は戸惑う。なぜだろう、新しい力のせいだろうか。 富崎の姿に重なって、柔らかな栗色の光の中に、激しい光がちらついているように見える。 ハルも感じたのか、戸口で立ち止まる。「ご心配おかけしております」 静かに笑ってデスクを離れて近づいてくると、ゆっくりとハルの横で体を開いて手で示した。「現在業務の整理と調整を行っているところです」 通常なら株主でもない一般の高校生に、説明したり案内したりする場所でもないし状況でもない。けれど社運を左右する要となるイベントのトップならば別だ。 視線を合わせないように仕事に没頭する社員達が、静かに見渡すハルに苛立った表情を向けるが、ハルは動じる気配もない。「ハルです」 突然はっきりした声で言い放った。「『ニット・キャンパス』へのご尽力に感謝します。全力を尽くしますので、よろしくお願いいたします」 ぺこりと頭を下げた姿に、部屋の空気が緩む。 なんだ、意外にいい奴? 顔を見合わせる動きに、美並はそっと促す。「では、次へ…失礼します」 富崎が微笑んで会釈するのにドアを閉める。「次?」「人事課です」 部屋の名前を確かめて入り、ハルは同様に挨拶し、礼を述べる。 課長高山は席を外していて、それだけでもこの訪問が急なものだとはよくわかったが、ハルの何かを探すような視線には気になる社員も居たようで、課長不在を理由に曖昧に追い出される。「次」「品質管理課です」 ハルは細田の前でも同じことを繰り返した。名乗り、感謝を述べ、協力を依頼する。 その前後にゆっくりと課内を見回すのは、こういった企業で働いたことのない、あるいは今後働く予定もない学生が向ける、好奇の視線とよく似ている。「…あの」 細田が部署の仕事を説明した後、控えめに美並とハルを見比べながら口を開いた。「今回の『ニット・キャンパス』ですが、海外からの注目もされていると聞きました」「はい」「それはハルさんの作品によるものですよね」 何を言いだそうとしているのかわからなかったようで、ハルは瞬きを返す。「ハルさんの作品は、ニット…例えばウチが扱っている商品とかにあんまり関係がないように思うんですが」 一瞬、周囲の空気が凍ったが、細田は気づかず訝しそうにことばを続けた。「なぜ「ニット・キャンパス』に参加しようと思われたんですか」「参加理由?」 ハルがぽつりと呟く。 源内がはらはらした顔になったのは、報道陣も居る中、もし美並が居るからなどと言われては、余計な混乱を招くだけだと心配しているからか。 けれどハルは唐突ににっこり笑って、周囲の視線を釘付けにした。「いつ海外に行ってもいいんだけど」 時折聞かせる流暢なことば遣いで続ける。「今これをやってみたかったから」「じゃあ」 細田が頷いた。「もしやってみたくなくなったら、『ニット・キャンパス』をやめますか」 おい細田。 今それを尋ねるのか、空気読まないにもほどがあるだろう。 誰もが突っ込みたくなっただろう、その質問は、ハルにとって楽しいものだったらしい。「わからない」 くすくすと笑った。「本当のところは、自分がなぜ『ニット・キャンパス』をやってみたいのかわからないけど、人生のほとんどの経験はそう言うものだね。やって初めて理由がわかる。『ニット・キャンパス』が終わった後、僕にも理由がわかるんだろう。それを楽しみにしています」 **************** 今までの話は こちら
2026.08.23
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**************** 実家から戻りながら、美並は流れる電車の風景を見つめていた。 いつもこんな風に世界を見ていた気がする。 流れ去るもの、止められないもの、自分には関係がないものとして。 けれどそうではなかった。 美並が世界を無視していただけで、本当は世界はずっと美並を見守っていたのかもしれない、明のように、時に苛立ちながら、時に心配しながら。 美並、美並、あんた本当に大丈夫?「っ」 駅に降り立った途端に動いた携帯に我に返る。 真崎かと思ったが、違った。「ハルくん?」『どこ?』 相変わらず突然で唐突な関わり方だ。映画からこっち、ずっと連絡をとっていなかったのに、昨日会ったばかりのように尋ねてくる。 駅名を告げると、『話』「わかった。いいよ」 どうせならホームに居る方が目立たないかとベンチに座る。『記事』「…見たの?」『赤?』「うん。誰かもうわかったよ」『居た?』「確認した」 ハルと話すのは相変わらず短いやり取りで全てが伝わる感覚がある。 しばらくハルは応答しなかった。『タイル』「え? ああ」 映画の後で渡されたタイル。僅かにピンクが入っているような鮮やかな紅。幼いハルと一緒に居た、あの時の美並の色。 愛情の色だ、と思った。渡されたタイルの色は、真崎の内側に見た色とよく似ている。 様々な感情の奥に、気持ちと体を触れ合わせた瞬間に溢れ出す、愛しい切なさの色。 同時に思い出したもう一色。 腐った血の色。 あれは『支配』の色、けれど同じ赤の系統だ。『指紋?』「え?」 尋ねられて瞬きする。 誰がいつ、そんなことをハルに知らせたのだろう。『認識』「……うん、そうなんだ」 『羽鳥』が赤来だとはわかった。状況証拠は集まって重なって行く。けれども決定打がまだ手に入らない。 ハルには赤城課長の名前は知らせないつもりだった。基本的にはハルには関係ないし、関わったのは幼い頃だけだ。「でも、大丈夫。『ニット・キャンパス』は絶対開催するし、成功させるよ」『ふうん』 ぼそりとハルが唸った。『そうやって美並は僕を遠ざけるつもりなんだ?』 流暢なことばに返答するのを戸惑っていると、『明日』「はい?」 ぷつんと通話は切れた。「……明日?」 美並は眉を寄せて立ち上がった。「明日って……なに?」 首を傾げていると、続けて携帯が鳴る。 今度も真崎ではなかった。『元気かい、オカルト巫女さん』「檜垣さん」『定着したよな、この名前』 くっくっと檜垣が嗤った。『時計。見つかったぜ』「見つかった?」『まあ厳密に言えば、同じ時計を赤来が持っているのは確認したってことだが』 檜垣は楽しげに続ける。『どこで買ったかはわからなかったが、一度故障してたんだよ』「故障…」『モノがモノだけに、ここらの小さな店じゃあ修理できない。本社に送って修理して、もう一度店に送ってる。そこで見つけた』「…よくまあ…見つけましたね」 確かに修理に出したなら、受取手の名前も連絡先も確認するだろう。『受け取りに来たのは、赤来本人だ、裏が取れた』 まさか、そんなものが自分に繋がるとは思っていなかっただろう。『映像を詳しく確認してるけど、全く同じその時計かって言うと、そこまでは詰められない。せいぜい、同じ時計を持っているし、行為が行われていた時間にホテルをうろうろしているから、任意同行願いたい、どまりだ』「はい」『飯島と大輔は押さえてる、その二人との繋がりが欲しい』「指紋、ですよね」 美並は溜め息をついた。「クリアファイルで取ろうとしたけど、駄目でした」『おいおい、ぎりぎりなことするなあ、オカルト巫女さん』「でも、『羽鳥』は赤来課長です」『その御託宣を、現実に何とか持ち込んでくれ』 檜垣が声を低めた。『有沢さんが大人しくしてるうちに』「何か……既に触っていたものが見つかればいいんんですが」『……警戒してくるだろうぜ、これからはもっと。コップとかPCとかもおいそれと触ったままにしてくれねえだろう、持ち出すのも難しいが………ああ、書類とかの紙も残りやすいんだけど』「書類は…難しいでしょう?」 美並は眉を寄せる。「触る人間が多すぎるのでは?」『その通りだ。赤来単独か、赤来と他数人しか触ってないようなものがあれば、確認できるんだが』 赤来と数人だけが触れているようなもの。「…探して見ます」『気をつけるんだぜ、オカルト巫女さん』 檜垣が真面目な口調になった。『俺も一応あんたの安全は気にしてる』「…ありがとうございます」 美並は微笑んだ。「有沢さんのために、ですよね」『当然だろ』 他にどんな理由があるんだよ。 悪ぶったことばに笑みを深める。 必死だ、檜垣も。そうでなければ、こんな短時間に時計と赤来を結びつけてこれはしない。「結婚のお祝いをしてくれるそうです」『は?』「一席設けたいと言われています」『一人で行くな』 檜垣が凄んだ。『いいか、一人で行くなよ、誰もいなけりゃ付き合ってやるから連絡しろ』 あんたが襲われるところを現行犯で捕まえられりゃ、苦労しねえからな。「手がなければ、そうします」『了解だ、オカルト巫女さん』 怖えオンナ。 呟きを残して通話は切れた。 **************** 今までの話は こちら
2026.08.22
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**************** ナイフを片付け、阿倍野を送り出して行った富崎が戻ってきた。 手にコーヒーを持っている。「はい」「ありがとう、ございます」 受け取ろうとして、京介は自分が微かに震えているのに気づいた。「大丈夫かい?」「はい…」 滲み出した汗を手の甲で拭う。「怖かったな…」「怖かった?」 思わず漏らした呟きに、隣の椅子に腰を下ろして自分もコーヒーを飲み始めた富崎が訝しそうに振り向く。「終始落ち着いてただろう?」「いえ、そっちじゃなくて」 なぜかぽろりと漏らしてしまった。「ナイフが刺さってもいいかと思う自分が居て」「ああ、そっちか」 富崎が頷いてコーヒーを傾け、違和感に気づいた。 普通ならば『刺さってもいい』などと言う感覚は理解できない。富崎は桜木通販でも一二を争う結婚したい男で安定感の塊のような人間のはずだ。なのに、なぜそんな危うい感覚を語られて驚かないのだろう。「そっちか、って?」「ん? …ああ、そうか」 富崎が苦笑いした。「失敗したな」 君は伊吹さんにそう言う部分も開発されたのかい? 際どい雰囲気を込めて微笑まれ、京介は戸惑った。「失敗、とは」「人間、見えている通りじゃないってことだ」 富崎はコーヒーを飲み干して立ち上がる。そのまま立ち去るのかと思ったが、肩越しに振り向き、「まだ昼休みだ。何か食べるか?」「あ、いえ」「食べておけ。体が資本だ」 返事を待たずに出て行って、しばらくして戻ってくるとコンビニのおにぎりとコーヒーの追加を買って戻ってきてくれた。「富崎さんは」 おにぎりは伊吹を思い出して切なかったが、確かに空腹ではまだまだ終わらない仕事に向かえない。改めて感謝して口に運ぶ。「僕は済ませた……昔から早食いだ、職業柄かな」 さらりと吐かれたことばに、話してくれると感じた。「職業柄と言うと、桜木通販の前の仕事ですか?」「そうだ。所轄の警官。つまり町のお巡りさんだな」 阿倍野に対する対応に合点がいった。「よく酒場に呼び出されたもんだよ、酔っ払い同士の喧嘩に正義はないさ、とにかく収めるのが第一でね」 いい歳をしててもプライドや意地で刃物を振り回すのも結構居る。「取り押さえても怪我をさせちゃならないし……公僕だからね」 苦い経験があったのだろう、穏やかな顔で唇を歪めて見せた。「人としての根っこの感覚が狂いそうでね、辞めた」 食べておけ。体が資本だ。 同じことばをかつての上司に言われ、部下に言ったことがあるのだろうか。 安定感があるのも納得がいく、一般企業で起こる修羅場など、命のやり取りを繰り返してきた生活の中では、静かなものなのだろう。「けれど…どうしてここに」「ん?」 富崎はちょっと痛いところを突かれたと言う顔になった。「知り合いが、阿倍野さんが来てるが様子がおかしいと知らせてくれたからね」「知り合いですか」「知り合いだよ」 君には注意しておこうと来たら、この部屋に彼女が入って行くのが見えた。「確かにおかしな様子だった。入ろうとした矢先に始まったからね」 ちらりと京介を見る。「一体何をする気なのかと思ったよ」「すみません」「それとも僕は」 コーヒーをゆっくり覗き込む。「昔ながらの手腕を使って、君に尋ねなくちゃいけないのかな」 一体何をしてるんだ、と。 こちらに視線を上げない横顔が、京介の反応を伺っている。「……」「…総務と言うのはね」 富崎は答えない京介を宥めるように続けた。「実に様々な情報が集まるものなんだ。物品の管理、施設の管理、株主総会の管理、社内イベント・冠婚葬祭の管理……人事や経理、流通や品質管理各課で担いきれない仕事も回ってくる。それらを通して会社全体の動きを統括して見られる課とも言えるかもね」 楽しいよ。「何が起こっているのか、よくわかる」 以前と違ってね。 富崎は目を細めて遠くを眺めた。「ところが、最近、よくわからないことが増えた」 例えば伊吹さんが入ってからね。「いろいろなものが不思議な動き方をするようになった」「と言うと?」 くすりと笑う。「一番わからなくなったのは君かな」「僕、ですか」「君はもっと事務的で計算尽くで、人の気持ちがわからないから、そのうち仕事で躓くだろうと思っていたのに、どうしてどうして、次期社長にまで登り詰めるとはね」「褒めて頂いたお礼を言うべきなんでしょうね?」 そんな冷ややかな視線をこの人は隠し持っていたのか。 京介は改めて感心する。 なるほどそれなら伊吹が魅かれるわけもない。京介がいくら不安がっても、内側を感じ取れる伊吹の選択肢に富崎が入るはずもなかったのだ。「失ってしまったんだなと思った」「はい?」「僕は、変われる機会を失ってしまったんだ」 富崎が振り向いた。「警官で居た方がよかったのかもしれない」 世の中の理不尽に壊されそうになっても、自分の中にぎりぎりで生まれてくる力を信じて、もう少しだけ踏ん張ってみれば、何かが見えたかもしれない。「……僕にも居たんだよ、君の伊吹さんみたいな人が」 笑った顔が悲しげだった。「変わりたくなかった僕は、彼女を切り捨てた」「……お知り合い、ですね」「鋭いね」 苦笑いする。「これからも、大切な、知り合いだよ」 富崎は優しい声で呟いた。立ち上がる。「昼休みが終わる。仕事に戻ろう」「コーヒーとおにぎり、ありがとうございました」「うん」 ドアに向かって手を伸ばした富崎が立ち止まる。「真崎君」「はい」「赤来は何をしたんだい?」 名前が出されても驚かなかったのは、阿倍野の話を聞いていただけでなく、富崎なりに掴んだものがあるのだろうと察したからだ。「…安全圏から人を殺しました」「そうか」 ごき、と首を鳴らす。初めて見た仕草だった。「じゃあ、捕まえないとな」 静かに部屋を出て行く後ろ姿に、今までの富崎になかった殺気があった。 **************** 今までの話は こちら
2026.08.21
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**************** 京介は、源内と金曜日の合気道の日に少し時間をもらう約束をした。 もし、源内の師匠が確かに『羽折』の祖父ならば、ひょっとすると指紋が残るようなものを保管していないか。伊吹が言うように、赤来の指紋を取ることができれば、それをカード・キーと照合できる。捜査に大きな進展をもたらすのは間違いない。 それに今赤来を追い詰めるのは、桜木通販としても有効だった。今なら桜木通販の膿を出し切る一環として捉えられる。大輔が捕まり、売春サークルの存在が暴かれ、その捜査が進む中での赤来確保で繋がるが、大輔の一件が落ち着いてしまってからでは、あらゆる意味で遅すぎる。『想像以上にややこしい話だな?』「申し訳ありません」『まあいい、そう言う時期なんだろう、ハル流に言えば』 源内は溜め息まじりに了承してくれた。『ついでだ、本気で弟子になるか?』 誘った口調は笑みを含んでいたが真剣で、京介は考えてもいいと思いながら通話を切った。 とんとん。「…はい?」 ドアが静かに叩かれたと思ったら、返答と同時に阿倍野が滑り込んできて驚く。「阿倍野さん?」 確か体調を崩して休んでいるのではなかったか。「…」 阿倍野はドアを後ろ手に押さえたまま俯いている。 こんな状況において、会議室に二人きり、良からぬ噂が立たないかと思っても良さそうなものだが、相変わらず無防備で無神経だ。 冷ややかに相手を眺めていると、のろのろと上がった顔が京介を見据えてぞっとした。「…どうしてなの」 真っ黒な穴のような二つの目。「何?」「どうしてこんなことになっちゃったの」 意味が取れない。 けれど阿倍野が絶望しているのはよくわかる。伊吹なら、薄黒い靄が見えるとでも表現するのだろうか。 ゆらりと前に体を起こした仕草が、人形のように見えて落ち着かない。「何が間違っていたの」「阿倍野さん、何の話をしているの?」 仕事はどうしたの。「体調が悪いと聞いたけれど」 冷静に尋ねてみる。「っ…」 ぼろぼろぼろぼろと見開いた目から大粒の涙が溢れ落ちた。「あなたが仕組んだのよね?」「…」「あなたが、私を陥れたのよね?」 相子と同じく。 のろのろと取り出された果物ナイフに京介は立ち上がる。部屋の明かりが陰った気がした。ゆらゆらと体をふらつかせながら、阿倍野は近づいてくる。 脳裏に青いゴミ袋が過る。猫のイブキが自分と重なり、阿倍野に相子の姿が重なる。息苦しくなる、過去に引き戻されていくようで。「流産したわ、知ってるでしょ?」 大事な大事な、赤来さんの赤ちゃん。「産んでいいって言ってくれてたのに。楽しみにしててくれたのに。会社に迷惑はかけないわ、ちゃんと一人で育てるつもりだった。みほだってお義母さんに連れてかれて、私にはもうこの子しかいなかったのに」 半分笑った顔に涙は溢れ続ける。「あなたが……そういう薬を渡したんでしょ、赤来さんに。聞いたのよ、知ってるのよ、気持ち良くなる薬だって真崎から貰ったんだって言ってたのよ」 そういうことか。 ようやく少し構図が見えた。 薬を都合したのは大輔だろう。阿倍野の妊娠を疎ましがった赤来が頼んだのか大輔が気を利かせたのか。いずれにせよ、交渉は行われ、結果は定まった。 この件を阿倍野はおおっぴらにできない。全てを失ったのだと飲み込むことしかできない。 辿り着けるはずだった未来はあまりにも綺麗すぎて、阿倍野は耐えることができなくなった。「あなただけ、結婚して幸せになるなんて……許さない」 昼休憩に入ったのだろう、周囲がざわめき出した。職場を離れる者も多い、ここにはできるだけ人が近づかないように配慮されている。京介の窮地を知る者はいない。 忙しく頭を働かせる。 果物ナイフ一本だ、刺されても場所さえ選べば大きな怪我にならないだろう。刺したこと、刺さったことでパニックになり、阿倍野が力を込めきれない可能性は高い。腕一本犠牲にすれば、阿倍野にも怪我をさせることなく、ナイフを回収できる。 駄目です、京介。「っ」 柔らかな声が体の内側で響いて震えた。 泣きますよ?「……ああ…」 そうか、これがまずい方法か。「何…」 ならば。「……僕を、殺したいの、阿倍野さん」「っ」「そのナイフで刺して、刻んで、ぐしゃぐしゃにしたいの? 血が一杯出るよね」「っっ」「僕は倒れてのたうって、君の足を掴んだりする、血の海の中で」 阿倍野の顔色がみるみる青ざめていく。「君は何度も思い出すよね、刺した感触とか、僕の悲鳴とか、その手が血でべたべたになった光景とか。毎晩夢に見るほどずっと」 椅子を押し退け、一歩前へ進むと、阿倍野がナイフを握り締めた。「こ、ないで」「凄く痛いから、僕は泣き叫んで、吐いたりするかも知れないね、死に切れないと」「ひ…」 もう一歩進むと阿倍野が後じさりした。「阿倍野さん?」 薄く笑う。「なぜ僕を刺すの?」「い……っ」 大きく息を引いた阿倍野が握り込んだナイフを目を閉じて突き出した途端、「おっと!」 背後から手を伸ばした富崎がかろうじて阿倍野の腕を掴んだ。「こらこら何をしてるんだ、阿倍野さん」 話しかけながら手際よくナイフを取り上げる。へたへたと崩れ落ちた阿倍野を見下ろし、京介にも険しい顔を向けた。「君も妙な挑発をして犯罪者を作るんじゃない」「…すみません」「…と言うか、僕がドアを開けてたのに気づいてたね? 入ってくるのもわかっていた」 富崎は苦笑する。「とんだ食わせ物だな、君は」 **************** 今までの話は こちら
2026.08.20
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**************** 夕方になって京介に繋がれたのは源内からの電話だった。『えーっと、どう言えばいいのかと思うところなんだが』「…ご心配をおかけします」 『ニット・キャンパス』を諦める気はないと暗に伝えると、『そいつは助かる』「はい?」『ハルが猛っててな』「…猛る」 黒髪白服の眼光鋭く無口なハルが『猛る』と言う状況が想像できない。『昔から激しいやつなんだが』 源内は溜め息をついた。『今回は派手だぞ』 派手。現在進行形なのか。「どう言うことですか」『市役所とか社協とか大学関係とか絡んでるだろ』「はい」『そっちへご注進に及んだのが居た訳だよ、結構な地位のが』「……ああ、なるほど」 源内の話を聞きつつPCで『ニット・キャンパス』の広報HPを当たる。とっくに仕上げられて稼働していたはずの幾つかのコーナーが『工事中』になっている。『見てるかな?』「はい、確認しています。広報にご迷惑おかけしてますね」『いやそっちはいいんだ、企画やってれば、こう言うこともあるから』 源内はオープン・イベントのところを開けてくれ、と指示した。 確認してぎょっとする。「…渡来晴の名前がないようですが」『…出ないって言い出して』「……僕のせいですか」『いや違う。ご注進に及んだ議員が喜多村会長に張り合うネタに使おうとしたのを見抜いてな、今後そいつが口を挟むならイベントに参加しないし、「ニット・キャンパス」そのものを叩き潰すと言い出して』「………なるほど」 確かにそれは『猛る』にふさわしい。「どうやって叩き潰すつもりなんでしょう」『…あいつは海外の方がツテが多いんだよ』 源内が溜め息混じりに唸る。『今からなら一ヶ月ある。「ニット・キャンパス」開催日と重ねる形で、自分の個展を開き、現場で作品を公開作成し販売するって。元々あれこれ縛りがあるのが引っ掛かってたから、それさえなければ作品のネタはいくらでも準備できるし、海外のバイヤーはハル目当てなんで大歓迎している。スポンサーも次々名乗りをあげてるし、小さなところだが美術館関係者も動き出しててな。ハルにそれをやられると、「ニット・キャンパス」なんて消し炭みたいな状態になるぞ』「……凄まじいですね」 台風のような男を小さな囲いに入れようとしたのが間違いだったのか。 全てが壊されそうな感覚に京介が唇を噛み締めると、『安心しろ、脅しだから』「え?」『ハルは「ニット・キャンパス」をやりたがってる。今回の動きは本気だが、まだ振り回す気じゃない。あいつは何を動かしたら、どう事態が展開するかって言うのをよぉく知っててな』 だから難しいやつなんだが。『今回の議員だけじゃない、あんたの件に関して今後ややこしい介入をしてくるようなら、いつでも自分は海外に飛ぶって見せつけたんだよ。それもただ飛ぶだけじゃない、飛び立った後を破壊し尽くして飛ぶ、そう宣言したんだ。……たぶん、「ニット・キャンパス」が終わるまで、そう言う系統の介入はもう入らないと思うぜ』「…」『ハルはあんたと真っ向勝負を望んでる』 源内の声は静かだった。『過去とか未来とか、組織とか金とか、立場とか評価とか、そう言うもの抜きで、あんたに勝ちたがってる』 小さく吐息した。『珍しいよ』 いつだって、あいつの目に入っているのは作品だけだったんだがな。『だから、邪魔になる要素を地均しするみたいに潰したんだ』 美並、と優しく呼んだ声を覚えている。 自分と一緒に映画を見てくれた愛しい相手が、終わればすぐさま離れて他の男の所へ行く。 それを見送ったハルの気持ちが胸に響く。 歳下だろうが学生だろうが関係ない。伊吹を守る役割が果たせないなら、さっさと消えろと挑まれている。 冷ややかな黒い視線を感じた。 明渡せ、その場所を。 そこは、美並を守れるものだけが立っていい場所だ。「……不利だなあ」 苦笑しながら京介は呟いた。「僕に出せるのは体一つしかないのに」『……何かあったのか?』「え?」『いや、何かあったのはわかってるが………』 もごもごと口籠もる。『まるであんた……絶対の勝利を確信してるみたいだ』「?」 今度は京介が首を傾げた。源内とのやりとりを思い出す。そんなことばを話しただろうか。『……そうか……だからハルが焦ったのか』「焦った?」『いや、えらく慌ててそっちへ出かけたからさ』「そっち? 桜木通販ですか?」 思わず閉め切ったドアを振り向いた。『たぶん。まあさすがにすぐに何かやらかすわけじゃないとは思うが』 そうだろうか。 京介はドアを凝視する。 今日は京介はここから出られない。明日も明後日も、状況によっては缶詰になるかも知れない。 かけがえのないものを守ろうとするなら、人がどれほどためらわないのか、京介はもうよく知っている。そして、伊吹はハルにとって、京介以上にかけがえのないものだろう。 来るはずだ、必ず。『まあハルの動きを話しておこうと思ったのが一つ、「ニット・キャンパス」の開催は心配するなと伝えたかったのが一つ』 源内が重荷を降ろした声で話し出して、注意を戻した。『ああそれに、金曜日、来るだろ』「道場ですね」 迷惑をかけないかと思っていたのだが、源内は待ってくれるようだ。 脳裏を鳴海の姿が掠める。 甘えよう。 京介には分け与えられる持ち合わせがほとんどないが、助けてくれるなら甘えよう。傷ついても今は伊吹が居る。「伺います」『鍛錬してるか?』「してますよ。少しずつ体が柔らかくなってきた気がします」 笑って、源内に確認することを思い出した。「…一つ、お尋ねしたいことがあります」『ああHPの方はちゃんとやり直して復旧する」「いえ……源内さんのお師匠さんのことですが」『師匠? 名前なら羽折二木助って言うんだが』「…珍しいお名前ですよね」『珍しいだろ、神社にはねおり、で同じ漢字を書く場所があるんだが、羽根の羽に、折り紙の折る、ではおりって読むんだ。それが何か?』「……以前にお聞きした時、孫娘さんを亡くされて、その後お寺に入られたと。そのお寺の名前は大恩仁寺と言いませんか」『ああ、そうだ。何だ、知っている寺なのか?』「もう一つ。羽折さんにはお孫さんがもう一人おられませんでしたか」『あ、ああ、居たはずだ、男の子だった』「その男の子が触ったことのある持ち物が何か、道場に残っていたりはしませんか」『…どうだろうな………いや、ちょっと待て』 源内の声が警戒を帯びる。『一体何の話をしてる?』「……難しいお話になります。お会いしてからでもいいですか」 がちりとどこかで鎖が鳴る。 『羽鳥』を食い締める戒めが、一つ一つ詰められていく。 **************** 今までの話は こちら
2026.08.19
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**************** これは見込み違いで、断られる方だったか。 視線をPC画面に走らせ、鳴海工業の品物が来なかった場合の動きを考え始めた矢先、『あっ、おいっ』 突然電話の向こうががたがたした。『こらっ、待てお前、下手なこと言って』『酷いことだと思ってますよ!』 突然飛び込んだ叫び声に京介は目を見開いた。どう聞いても、それはいつも鳴海の後ろで縮こまっていた鳴海の妻の声、必死の響きを載せて再び繰り返される。『私は酷いことだって思ってます! あんな酷いこと、許しとくなんて親じゃないですよ!』『おいこらっ、勝手に』『私は真崎さんの、お兄さんじゃなくて、あんたの味方ですよ! 子どもを一回でも可愛いと思って抱っこした親は、絶対あんたの味方ですよ! それだけ言いたかったんです、それだけ…あっ』 がたがたがたっっ! 響いた音に真崎は息を呑む。受話器の向こうで言い争う声が続き、やがてわああっ、と激しく泣く声が響いて遠去かり、しばらくの沈黙の後、疲れた声が聞こえた。『…すまん。とんでもないことを』「…いえ。……僕を心配して下さったんですね?」 応じながら、ぽわりと胸に浮かんだ温かいものに瞬いた。 そうだ、この電話は注文の支払いが滞ることへの不安ではなく、醜聞を抱えた企業と取引している苦情でもない。事の渦中に居る真崎が無事かどうかの安否確認だ。『…言い訳になるが……息子を、亡くしててな』「え…」『……あんたぐらいの時に、得意先回りしていた時の事故で、な』 鳴海が囁くように呟いた。『ずっと…忙しかったんだ。やりくりできてなくてな……寝る間も惜しんで営業に回っててくれて……』 後でわかったんだが、断って来た得意先で俺みたいな小さな工場を相手にできるかって嗤われたらしい。疲れてるのに、ムキになって次の得意先まで足を伸ばして、一瞬寝ちまったんだろうなあ。『ガードレールに突っ込んだんだ。……誰も傷つけなかったのがせめてもの幸運だったと言ったら、初めてあいつにぶっ叩かれてよ』 育てもしてなかったくせに、偉そうなことを言わないでくれって。あの子をあそこまで追い詰めたのは、一言も褒めなかったあんたのせいだって。誰に何を言われても、お前には俺がついてるって言ってやってくれてれば、無茶しなかったのにって。『男親ってのは、よう…』 深い息を吐く。『褒め方なんて…わからねえよ』 飯、食ってかないか。 鳴海工業を訪ねた時、突然誘われた夕飯を思い出した。 あれは京介に向けられていた。 けれども同時に、居なくなった息子、いつかは同じように工場を隣で切り盛りしてくれたはずの息子に向けられたものだったのか。「ありがとう…ございます」 気がつくと、そう答えていた。 妻に頭が上がらないのも道理だろう、これだけの負い目を抱えて、それでも工場を保たせていた気概に頭が下がる。それは、これから先、桜木通販を背負う京介にとって、こちらでいいと示す一里塚のようなものだ。「ご心配を、ありがとうございます」 京介は一人じゃない。「支えに……なりました」 退くわけにはいかない、この思いを裏切らないためだけでも。 思った瞬間、銀杏の風を薙ぎ払った伊吹の姿を思い出した。 ああ、伊吹さん。『そうか………そうか』 受話器の向こうで鳴海の声が潤む。 君はきっと、いつもこんな気持ちで立ってるんだね。 以前は自分が死なせた大石のために。それより昔は自分を慕う明のために。 そうして今はきっと、京介のために。 ここで、退くわけには、いかない。『…頑張れよ、兄ちゃん』 滲んだ低い笑いが続く。『あんたには、鳴海工業がついてるぜ』「…はい」 京介は背筋を伸ばして頭を垂れた。 **************** 今までの話は こちら
2026.08.18
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**************** 報道が始まった。「はい、桜木通販でございます。…いえ、その件に関しましては」「はい、桜木……申し訳ありません、現在その件は」 さすがに当日は仕事にならなかった。置いてはすぐに鳴る電話、お叱り罵倒から支援励ましまでありとあらゆることばが桜木通販の内外を飛び交う。 元子始め管理職総出で対応に当たり、通常業務を何とかこなそうとする配下を必死にサポートする。皮肉なことに、その中で、赤来課長もまた奮闘していたのは不思議な光景だった。 京介は電話対応から外された。 ごく数人の、連絡を取らなくてはならない人間の連絡だけが繋がれた。 今は第2会議室で一人、扉を締め切り、PCに向かっている。「……」 今まで桜木通販の『さ』の字も知らず思いつかなかった人々が、ネットや『ニット・キャンパス』の広報などで名前を知り、仕事内容を検索し、興味本位に注文をし、不快感から注文を取り消し、受付はバタバタしている。 混乱した支所や販路、商品の調整、在庫確認、出荷業務と回収業務、一年間の仕事を数日で突っ込まれたような状況に、次々と指示を出し、対応していく。 奇妙なことだが、トータルすると売上は上がっていた。 ネット上に京介の画像が並んでいる。一般広報用だけではなく、どう見てもプライベート画像のようなものがあるのは、昔の同級生か知り合いが売りさばいたか、面白半分にアップしたか。 『ニット・キャンパス』が公的な意味合いも強いために、早々に人権的配慮からの対応がされているが、全てを消し去るのは無理だろう。 情報も酷いものだ。何が酷いと言って、その8割がでっち上げでは『ない』あたりが酷い。「…」 そうか、酷いことだったんだ。 京介は奇妙な感覚でネットを泳ぐ。自分の画像、解説されている内容、それらを全く他人の目で眺め、そのままストレートに情報を理解していくと、惨いことが公然と行われ、しかも罰せられることも明らかにされることもなかったという酷さが良くわかる。 その酷さに、京介は全く気づかなかった。 苦しかった辛かった何度も死のうと思った消えたかった生きていたくなかった。 確かにそう思ってはいたけれど。「…」 そうか酷いことだったのか。 たまたま死んでいなかっただけだったのか。 報道当初は真崎大輔の非道さに焦点が集まっていたが、数時間で京介叩きが始まり、半日を過ぎたあたりで揺り返すように事件の検証や京介への同情が増え始めている。『ニット・キャンパス』への反応も、今は反感と支援が半々か。こちらも思わぬ広告効果、それに気づいた人間が今度は役所や協力機関に向けての意見を上げ始めている。 備え付けの電話が鳴った。「真崎です」『おう、俺だ』 居丈高な物言いに微笑する。 よかった、連絡してくれたのなら安心だ。『新聞にえらいこと書かれてるじゃねえか』「鳴海正三郎さんですね?」『……落ち着いてやがるな』 ちょっと、お父さん、と背後で嗜める声がした。『黙ってろい、俺あこいつと話してんだ……で、聞きてえのは、まだこっちの品物はいるのかってことだが』「必要です」『……売れるのか? ってか……』 口ごもった相手に笑みを深める。「お支払いがご心配なら先に振り込みましょうか」『ちっ…そんなことをされたら断れねえだろうが。そう言うことを言ってるんじゃねえ』 しばらく押し黙った相手は、『…俺あ、はっきりさせときたい人間でな』「はい」『あの真崎大輔ってのはお前の兄貴か』「はい」『血は繋がってんのか』「…はっきりしません」 真崎は丁寧に答えた。「戸籍上は繋がっています」『…そうか』 お前。 また鳴海は黙った。やがて、『仕事、続けられんのか』「……桜木通販は、この事件を境に僕が取り仕切ります」『社長になんのか』「はい」『火中の栗ってやつだな』「そうですね」 相手は再び黙り込む。 **************** 今までの話は こちら
2026.08.17
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**************** 報道が始まった。「はぁあ…」 美並が実家に戻った時に居合わせた明は、案じる両親に変わって美並を質問責めにした挙句、深々と溜め息をついて胡座を組んだ。「すごいことになってんなあ」 大丈夫かな、京介。 あっさりと心配してくれる弟の気持ちが嬉しい。「大丈夫、私が居るから」「言うねえ」「言います」 さすがにちょっと気恥ずかしくなりながら応じると、苦笑した明が、「まあ全部親には話せないけど、少しは話したほうがいいよ。こっちでも…結構な噂になってる」「どんな噂が出てる?」「んー」 明は困った顔でがしがしと頭を掻き、考え悩みながら話してくれる。 曰く、真崎大輔は家族全員と関係を持っていた。特に弟との関係は奔放で弟は兄に性的に飼い慣らされていた。『ニット・キャンパス』の資金を横領、参加できない企業から裏金を受け取り、時には性的な接待を要求していた。また大学時代から売春サークルを動かしていて被害者は数十人に上る。桜木通販も裏口参加した一社で、弟が体を代償にしたらしい。弟は売春サークルで身体を売らされていて、覚醒剤をやって捕まったこともあるらしい。「…当たらずと雖も遠からず、ね」 孝の話が混在してしまったのだろう。「…かなりかけ離れてんのかと思ったけれど、そうでもないあたりがなあ」 明が溜め息を重ねる。「また京介が無駄にイケメンだしなあ。ネットに画像が拡散しかけて、どっかの人権団体が反発したんだろうね、慌てて削除されまくってた」「無駄にって」 思わずくすくす笑うと、明が不思議そうな顔で振り向いた。「明るいね、美並」「そう?」「うん、思ったよりずっと元気で、ずっと楽しそう」 修羅場じゃないの?「正念場ね。でも、勝つつもりだから」「姉ちゃんが言うなら勝つだろうね」「…明」「ん?」「…結婚しにくくなったらごめんね」「大丈夫」 にっと明が笑う。「俺も勝つつもりだから」「明が言うなら勝つわね」「勝つさ」 微笑む弟の脳裏に七海の姿が浮かんでいることは間違いない。「父さん達もさ、美並が帰ってきたのを見て、ずいぶん安心してた」「そう?」「もし、疚しい気持ちがあるなら、あんな風に笑顔で帰って来ないだろうって。俺にはそこのところがよくわかんなかったけど、人生を選び取った顔をしてるってさ。それと」「うん」 コーヒーを取り上げ、ゆっくり飲んだ明が、静かに続ける。「今度こそ、私達も美並を選ぶ、と言ってた」 がつっと頭を殴られたような気がした。 一旦戻っておいで、そう呼ばれたのは桜木通販や真崎京介の噂を聞いたからだと思っていた。大石とのことで傷ついた美並を案じてくれていたのはわかっている、けれど今度はどんな結末が待とうとも、退きもしなければ怯みもしない、そう言う決意を漲らせて戻った。 もし真崎と結ばれることで親子の縁を切ると言うなら、それもまた受け入れよう。 今度こそ、美並は自分の能力をしっかり抱えて生きていく、この先たった一人になっても。 けれどそんな美並の覚悟をさらりと超えて、両親は美並の基盤を支えようとしてくれたのか。「あのさあ、美並」 明が目を細める。「『そんなこと』ぐらいで一人になるって決めないでくれ」 微かに怒りの気配があった。「俺だって、タカ先輩のことを知ってる、京介とも知り合っている」 姉ちゃんほどではなくても、この目はしっかり見てきている。「ムカつくよ、タカ先輩みたいな人が、訳のわからねえ他人の理屈で良いように殺されたこと。京介のことだって、蹴ったのは蹴られたほうが蹴りやすい顔をしてたからだなんてふざけた理論、聞く気はねえ」 かつりと音を立てて置いたカップ、激しい動作を堪えるように指を組む。「俺だって七海だって、大事だと思うもののために闘うことぐらいできる」 見くびるなよ、姉ちゃん。「もう小学生じゃねえんだ、いつまでも庇ってくれなくていいよ」「あきくん」 そんなつもりは、と言いかけた美並のことばを、目線一つで封じる。「信じてくれよ、俺達は力になれる」 懇願するような声音だった。「もうちゃんと、姉ちゃんを守るために闘える」 震える指先に勘違いに気づいた。「あき、くん…」 がっかりさせていたのだ、美並が明を庇うたびに。 あなたでは足りない、あなたでは弱い、美並一人さえ守れないほど。 そう密かに言い放っていた。 守っているつもりで傷つけていたと初めて知った。「…嬉しかったよ、『ハイウィンド・リール』で当てにしてくれたの」 微かに俯く。「京介がヤバい時に、何を喜んでるんだと思ったけれど、嬉しかったんだ、あいつに一泡吹かせる美並の手伝いができて」 俺はずっと、叫びたかった。「美並が正しい、って」 ぎりっ。 明が噛み締めた歯が鳴る音に、ことばを失った。 **************** 今までの話は こちら
2026.08.16
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