戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年05月31日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
さてと、それでは源信の経歴に戻ります。

『往生要集』を書き上げた翌年の寛和2年(986)1月、西海の諸国へ頭陀しに行く。
「頭陀(ずだ)袋」なんて言葉はバリバリ現役なので、なんとなくわかるでしょうが、
『日本の名著4 源信』の註釈によると頭陀行とは

 【梵語ドゥータの音訳。修行者が衣・食・住の欲をむさぼらないための十二の修行法で、
  廃物の布を衣服とすることや、一日一食、乞食、樹下や露天に住む、いつも座り、
  横にならないなどの制限がある。抖擻(とそう)ともいう。】

だそうな。

4月、 慶滋保胤

保胤の『日本往生極楽記』は源信の『往生要集』ほどは一般には知られてないけど、
2人の著述以前には日本で書かれた往生関係の書は少なかったようなので、
極楽往生の実例を集めた保胤の書と、実践に用いるために書かれた源信の書の
タイアップがあってこそ、本格的なブームに弾みがついたんじゃないかと思う。
その下地を作ったのが空也。

空也はこの時点ですでに死亡しているが、
保胤と源信はこの後もタッグを組んで極楽往生の実践を続ける。
ま、肝心なところで一方の名前が見当たらなかったりして
ちょっと歯がゆいような面もあるんだけど、2人が密接な関係であったことは
間違いないらしい。

同年の夏には源信と寂心が飯室谷の安楽院の供養に赴いた。
律院になるのは江戸期 だからね。
この供養の詳しいことについてはわかってないようだけど、
同じ頃重要な動きがあった。
それが横川首楞厳院(しゅりょうごんいん)の二十五三昧根本結衆の発願で、
「根本結衆」25人の連署による「二十五三昧会」(にじゅうござんまいえ)という


念仏結社としては慶滋保胤らの勧学会の結成の方が早かったけど、
「興味のない人が見たら遊んでいるように見える」勧学会よりももっと本格的なもので、
源信もこれに参加している。
ちなみに、勧学会の方は保胤の出家などもあって第1期の活動はこの頃終了したらしい。

『往生要集』の成立の翌年に設立された念仏結社なので、
当然源信の働きかけによる結成かと思いきや、発起人である「根本結衆」25人の中に
源信の名はない。

結社が始動してからは源信が中心的なメンバーでもあったようだけど、
源信はあくまで「根本結縁衆」の1人。
つまり、二十五三昧会に結縁した人の中の1人だという。

「根本結衆」25人はみな僧侶で、この中には良源さんの四哲の1人、
覚超 さんもいる。
結縁衆の方は後代に入れ替えなどもあったようだけど、
最初に結縁した19人を「根本結縁衆」と呼ぶらしく、これも全員僧侶。
結衆、結縁衆のいずれにも良源さんの弟子で阿闍梨といった高僧も数人含まれており、
いかに多くの僧侶が源信の『往生要集』に影響を受けたのかがわかる。

源信は押しも押されぬ天台の学匠で、前回の雑談のバイキングの例でいえば
テーブルに並んだ料理のほとんどの味を熟知していたけど、
そういう豊富な知識の中から源信が選び取った料理は「極楽浄土風料理」だった。

四哲の1人、檀那院の覚運さんも浄土への関心が高かったらしいんだけど、
覚運が自分の皿に盛った料理は天台僧らしく「法華思想風料理」と「密教風料理」と
「極楽浄土風料理」の3つで、しかもまったく味の異なる3つのおかずを
1つの皿に載せて混ぜて食べようとしたらしいので、面白い。
ただ、覚運の名は二十五三昧会にはない。

源信が書いた往生特集本に影響を受けた人達が自発的に結成したのが
二十五三昧会だった訳だけど、発起人がたまたま25人揃ったから
二十五三昧会なのじゃなく、ちゃんと意味のあるものだったらしい。

根本結縁衆の中には叡山を出た増賀の弟子もいる。
以前の記事で、増賀は多武峰に移っても叡山と完全に縁を切った訳じゃないと書いたけど、
それはこういうことを指している。

して、結縁衆の中にはもう1人、
本シリーズでもすっかりおなじみ感のある人が混ざっている。
奇人変人の花山院、なんとあの方もこれに参加していたんですよ。

花山天皇が退位して出家した のが寛和2年(986)6月22日。
二十五三昧会結成の日付をどこに置くかというのは明確じゃないみたいだけど、
首楞厳院で根本結縁衆連署の発願文が出されたのが同年の5月23日で、
会の具体的なルールを定めた最初の起請文の日付が同年9月15日なので、
ちょうど会が発足して始動するまでの期間に
花山天皇が出家して飯室に入ったことになる。

花山院が入山した頃の山内は以前にもまして浄土熱がヒートアップしていた頃だろうから、
まだ17歳と多感な時期であり感性も鋭かった若い院もそれに感化されたのかもしれないけど、
天台座主であり実の大叔父でもある禅師の君はそんな院をどう見ていたのだろうか・・・
とちょっと興味もわきますが、前にも紹介したように花山院には色んなエピソードがあるので
結構世間でも人気者だけど、院が二十五三昧会に参加していたことは
一般の歴史ファンにはあまり知られていないように思える。

で、9月15日に起草された最初の起請文、
これは保胤あらため寂心が書いている。
この「おきて」は二十五三昧会の枠を飛び越えて
のちのちまで源信が改訂を続けるんだけど、せっかくだから寂心が起草した
最初の8ヶ条を紹介しましょう。



   世渡りのことにかかずらわってはならない。六趣(六道の各世界)の衆生を導くために
   『阿弥陀経』を6巻読み、施遶念仏を100回唱え、その後回向と礼拝。最後の巻でも
   礼拝。次に三礼、錫杖、結願を行い、結願の時には『宝性論』の偈を唱えること。
   結縁衆のうちで当日、やむを得ない故障によって参会できない時は、理由を申し出れば
   許可を与える。が、つまらぬことで不参の許可を取ってはならない。

 2、念仏結願の次には光明真言を唱えて土砂を加持すること。
   これは十悪などの罪を犯して悪道に堕ちる者があっても、108遍の光明真言で加持した
   土砂を遺体や墓の上にまけば、地獄・餓鬼・修羅・畜生に堕ちた亡者でも真言で加持した
   砂の力によってもろもろの罪の報いを除き去り、極楽に往生することができるという
   如来の説によるものである。結縁衆のうちでもし死ぬ者があれば、この砂を遺骸の側に
   置いておこう。

 3、よく人物を見極めて結縁衆の補充にあてること。
   この会に参加する者は、よく心を整えるべきである。もし結縁衆でわずかな過ちで背く
   者があっても、すぐに悔い改めるようなら我々はそれを許そう。志を同じくする者は、
   互いに釈迦如来に対するように尊敬し合わなければならない。だが、粗暴な振る舞いや
   騒ぎを起こす者があれば速やかに結縁衆から外す。理由もなく3回以上参会しない者も
   衆議によって結縁衆から外し、えこひいきなく結縁衆にふさわしい者を選んで欠員を
   補充することとする。

 4、往生院と名付ける別処を建てて、結縁衆から病人が出たらここに住まわせる。
   これは、普段と同じ所に病人を置いておけば物事に執着して正念が起こらないからで、
   臨終の正念が起こりやすい環境で病人を養生させることを仏が勧めているからである。
   別院には阿弥陀仏を安置し、部屋を荘厳し、仏前に捧げる物は病人の要求に従って
   送ること。また、病人の往生の妨げにならぬよう、俗事を病人の前で話してはならない。

 5、結縁衆から病人が出た時は、交代で看病をする。
   病人を看取ってやることは、自分達の功徳にもなる。2人1組で1日1夜看病にあたり、
   1人は念仏を勧め説法を聞かせてやり、もう1人は病人の要求に従って雑事をこなす。
   病人の不浄や臭気を厭わず、父母や師長に仕えるように接し、次の組が来るのを待って
   交代する。病人が危篤に陥れば一同が集まって念仏を行い、病人の所見を聞いて記録し、
   葬送の一切を引き受ける。これはどんな重大な故障が起こっても自分の番は果たさなければ
   ならない。もしよそで病気になった場合でも行って看取ってやらねばならないが、往復に
   1日以上かかる場合はこの限りではない。

 6、結縁衆の墓所を「花台廟」と名付けて春秋に念仏を行う。
   花台廟はまず陰陽師に地鎮をしてもらい、一基の卒塔婆を建ててその中に種々の陀羅尼を
   納めておく。結縁衆から死者が出たら、方角や日時のよしあしを問わず3日以内に葬る。
   たとえ他国で過ごして遺骸だけを送ってきた場合でもこの地に埋めてあげよう。春秋には
   山の花、林の葉をたむけて日が暮れるまで来世のために念仏を行う。それ以外でもにわかに
   発心した時は臨時の修行をして差し支えない。

 7、常に西方極楽浄土を念じ、深く功徳力を積むこと。
   臨終の正念というのは簡単に得られるものではなく、常日頃の修行で功徳力を積んで初めて
   臨終の時に正念が得られるものである。だから、結縁衆たちよ、どうか夢うつつの時でも、
   寝ても覚めてもいつでもどこでも阿弥陀仏を心に念じ、口に唱える事を忘れてはならない。

 8、結縁衆は死後も生前の義を守って修善を行うべきである。
   死は永遠の別れだが、我々が最初に約束を交わした時は善人・君子の集まりであったから、
   その交わりは楽しいものだった。だから、死んでもその固い交情は忘れない。もし結縁衆
   から死者が出たら、一同は力を合わせて葬送を行い、その夜は一同が墓所に集まって夜通し
   念仏を行い、遺骨を安置する場所を施遶念仏し、これが終わってから解散する。父母や
   師長に重大な事故があった時は不参もやむを得ないが、それ以外の人が勤めを怠ることは
   許されない。   
   7日ごとには一同が集まって念仏を唱え、49日には特に花を折り水を汲んで講筵を開く。
   1周忌にも同じことをする。写経や仏画を描くことは故人やその弟子たちの意に従う。
   死者の名を過去帳に記し、亡くなった日を往生院に記して毎月の念仏のついでに必ず
   阿弥陀仏の宝号を唱えよう。毎年の命日には、別に善根を修する事を我々の勤めとしよう。
  (「起請八箇条」より。参考訳文は『日本の名著4 源信』林幹弥氏訳)



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最終更新日  2015年06月01日 21時32分28秒


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