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憂国愚痴φ(..)メモ by 昔仕事中毒今閑おやぢ in DALIAN
新地球日本史(6)
【新地球日本史】(48)明治中期から第二次大戦まで
日露戦争-西洋中心史観への挑戦(1)
アジアを目覚めさせた勝利
日露戦争の第一の特徴は、
絶対不敗と信じられていた白色人種のキリスト教徒が黄色人種の異教徒に敗れたこと
であった。当時の有色人種は白色人種の支配下にあり、アフリカの黒人やアジア・アラブの諸民族は、奴隷か召使いとしてしか存在を認められず、さらにカリブ海やメキシコなどではインディオが、オーストラリアではアボリジニが動物視され、狩りの対象とされていた。
しかし、アジアやアフリカには、西欧諸国に反撃できる有色人種の国は一国もなかった。このため、これらの有色人種は殺戮(さつりく)されるか、植民地とされて働かされるか以外に選択肢のなかった時代であった。この西欧帝国主義の植民地化の波が、ユーラシア大陸を越えて朝鮮半島に迫ってきたときに、有色人種の日本が立ち上がり、初めて白色人種を破り、有色人種が反撃に転じた。それが日露戦争であった。
近代中国建国の父とされる孫文(
現在盛んに「見直し中」てかm化けの皮剥されちゅぅw
)は、「日本がロシアに勝った。これはアジア民族のヨーロッパに対する勝利であり、アジアの諸民族は非常に歓喜し、大きな希望を抱くに至った」と神戸で演説したが、日露戦争の日本の勝利が中国では日本への留学熱を高め、一九〇五年には留学生は一万二千人に達した。
そして孫文は日本への留学を通じて啓蒙(けいもう)された青年たちを率いて辛亥(しんがい)革命を実現し、中国に最初の近代的国家を誕生させたのである。
(
「率いて」って、現場にいなかった、どころかアメリカにいましたがw ま、ここいらは蒋介石への誤解(徳を以って怨に報いる?だっけw)がしっかり戦後残ってたのと同現象でしょうけどさ
)
ベトナムのファン・ボイ・チャウは、「日露大戦の報、長夜の夢を破る」「日露戦役は実に私達の頭脳に一世界を開かしめた」と回想録に書いている。
彼は福沢諭吉の『学問のすすめ』に大きな影響を受け、「米国の虎やヨーロッパの鯨の横暴に対して、黄色人種として初めて歯止めをかけた。なぜ日本がそれをなし得たか。答えは東京にある。中国、朝鮮、インドからの留学生で東京は溢れている。日本に学べ」と、若者を日本に留学させる「
東遊運動
」を始めた。
二百五十人余の若者を日本に送り、王子のコォデ・デ侯までもが独立を夢見て亡命してきた。またハノイには慶応義塾に倣って「トンキン(
もろ「東京」だもんネw
)義塾」も創設された。
(
しかし、漢字捨てて仏神父製造のアルファベット表記にしたのはいかがなものかとw
)
フィリピンでは日本海海戦の勝利のニュースが伝わると、日本のマニラ領事館に多数の祝電が寄せられたが、のちに国会議員となったエンリケ・コーポラウは、「アジアの時代が来た。アジアがヨーロッパに対して立ち上がる時が来た」と歓喜したと書いている。
一方、インドのジャワーハルラール・ネール首相は、「私が若い頃に日露戦争があったが、日本勝利のニュースを見たくて、新聞が待ち遠しかった。また大国ロシアに勝った日本を知りたくて、日本に関するあらゆる本を読んだ」「日本の勝利は、アジアにとって偉大な救いであった」と回顧している。
インドの新聞「サメイ」紙は、「日本が西欧との闘争に勝利したことを誇りに思う。われわれは心から日本人の勇気と規律、鉄のような意志、不屈の力によって勝利を収めた日本に心からの祝意を贈る。日本だけがアジアの名誉を救った」と報じた。
また「ヒタバディ」紙は、「インドのようなおとなしい羊でも虎に変身できる。我々は羊が虎にはなれないという過ちに気がついた。日本の勝利がインド人を覚醒(かくせい)し、英国と対等という前向きの思想に目覚めさせた」と報じた。
ニューデリー大学のアール・デュア教授は、日本の勝利はインドの未来に強い希望と自信を与え、一九〇六年十二月には国産品愛護の
スワデーシ
、英国製品のボイコット、自治要求の
スワラージ
と国民教育促進の四綱領が採択された、と日露戦争がインドに及ぼした影響を高く評価している。
(
学ぶものを学ばないで「排斥」だけしてるから先がなかったのかもよw
)
また最初のビルマ(現ミャンマー)首相のバ・モーは、日本の勝利は「アジアの目覚めの発端、またはその発端の出発点とも呼べるものであった」と書いている。
このように、日本の勝利は世界の虐げられていた諸民族の独立への夜明けとなり、人種平等や民族国家独立への道を歩ませたのであった。
(元防衛大学校教授・平間洋一)
(2004/08/31)
【新地球日本史】(49)明治中期から第二次大戦まで
日露戦争-西洋中心史観への挑戦(2)
アラブに「日本に習え」の波動
日露戦争が始まると数多くの日本や日露戦争に関する本が出版された。エジプトではカーミルの『昇る太陽』が出版されたが、カーミルは、日本のように一致団結すれば、エジプトも英国から独立を戦いとることができることを教えるためにこの本を書いたという。
また国民的詩人、イブラーヒームが、「銃を持って戦う能わずも、砲火飛び散る戦いの最中に、身を挺して傷病兵に尽くすはわが務め」との「日本の乙女」という詩を作ったが、この詩はエジプトだけでなく、レバノンの教科書にも掲載された。
現在でもインターネットの日本・アラブ通信に「新アラブ千一夜(第一夜)」として掲載されている。
イランではシーラーズイーの「東方から何という太陽が昇ってくるのだろう。この昇る太陽で全世界が明るく照らし出された」と、天皇を中心に団結して大国ロシアを破り、世界に明るい希望の光りを灯した日本を讃える『ミカド・ナーメ(天皇の書)』が出版された。
イラクでは詩人のアツ=ルサーフイーが「対馬沖海戦」を、レバノンでは詩人、アッ=ディーンが「日本人とその恋人」を書いた。アフマド・ファドリーは、
桜井忠温の『肉弾』
を一九〇九年に翻訳したが、これがアラビア語に翻訳された最初の日本の本であった。
(
ゲッ、誤解されたかな?w
)
一方、トルコでは観戦武官、ペルテヴ・バシャが『日露戦争』『日露戦争の物質的・精神的教訓と日本勝利の原因』を刊行し、日本軍の勇敢さや国民の一致団結を讃え、「国家の命運は国民の自覚と愛国心で決するものであり、トルコも日本を見習い近代化を進めるならば、決して悲観すべでない。
国家の命運は国民にあり
」と訴えた。
(
そうなんだが、たが「核」となるものがないとなぁw
)
そして日本の勝利がトルコの祖国解放運動、ケマル・アタチュルクのトルコ革命に連なっていった。
さらにイスラム圏では、日本にイスラム教を広げ、天皇をカリフ(盟主)としてイスラム世界に強力な求心力を回復し、西欧の侵略に対抗しようとする動きが高まった。
(
おぃおぃw ほらね、どうも発想が違い過ぎなんだわな
)
一九〇五年には、日本がもしイスラム国家となれば、明治天皇をカリフとするのが適当であり、それによりイスラム諸国の団結が強固になるであろう、という論文が『イジュティハート』誌に掲載された。
イランからはタバタバーイーらの立憲派学者が、天皇に電報を打ち、イスラム社会への支援と保護を求めた。
また、日本への布教とイスラム圏との協力を探るために、トルコ皇帝の内命を受けたイブラヒムが来日し、「われわれの目的は日本にイスラムを広めるとともに、東洋の覚醒(かくせい)と統一をはかり、東洋の文化を残忍な西洋の侵略者から防衛するために協力することです。日本の進歩と発展は全東洋世界の願望であり、今日、東洋人はみんな己の生存を日本人の生存と一体のものと考えております」と、日本への期待を表明した。
(
だからさぁ、その「(近代に至って)成功経験ないイスラム」を捨てて「日本教徒」になろぉてな発想は、ハナからないわけぇ?w
)
一九二一年三月にはヘヂアスの王族、アルカデリーが、イスラム民族連盟の極東駐在代表として来日し、イスラム教徒代表者会議で、日本を盟主と仰ぐことが決議されたと伝えた。
このようなイスラムの働きかけを受け、日本でも一九〇九年にアジア主義者の頭山満、内田良平、大原武慶らと、アフマド・ファドリー、ハムンド・バラカトゥッラーらが、
イスラム教の布教
とアジアの共同防衛を目的として、
亜細亜議会
を結成した。
(
どうも「ロマン主義超民族主義者w」は、迎合(腹の底ではちっとも思ってないハズw)気味あるんだよなぁ。先達イスラム研究者の大川周明なんて東京裁判での記録映像で今でも「生き恥」w晒してるしサ
)
さらに一九二一年十月には中央アジアの回教徒と連携するために、
大亜細亜協会
が設立された。
これら
パン・イスラム主義者たちの日本イスラム化計画
は、一九三八年に東京・代々木にモスクを建立し、その四カ月後に前首相の林銑十郎大将を会長に、
大日本回教協会
を発足させたにとどまった。
(
千代田線・小田急線の代々木上原高架駅から異様な建物がよく見えるわw
)
しかし、日本とユーラシア回教徒との連携は、一九三〇年代に入ると加速し、中央アジアのパミール高原に近い新疆のカシュガルを中心にイスラムの独立国を作ろうと、回教徒が多いホフホトに
西北回教連合会本部
を、包頭、大同、張家口にその支部を設立した。
(元防衛大学校教授・平間洋一)
(2004/09/01)
【新地球日本史】(50)明治中期から第二次大戦まで
日露戦争-西洋中心史観への挑戦(3)
北欧解放とソ連誕生…そして
ポーランド人は、日露戦争がロシアのポーランド支配に変化をもたらすと期待し、独立派リーダーの
ピウスッキ
が来日した。
ピウスッキは海外にいるポーランド人によるポーランド部隊の編成、武器や資金の提供、ロシア軍に関する情報提供や攪乱(かくらん)工作などを申し出た。
これに対して日本は、ヨーロッパの複雑な国際政治に巻き込まれることを恐れ、ポーランドへの援助は小規模なものにとどめた。このささやかな援助がポーランドの独立にどのような寄与をしたかは明らかでない。
しかし、日露戦争から十三年後の一九一八年十一月、第一次世界大戦の停戦協定によりポーランドが独立を認められ、ピウスッキが大統領に就任すると、日露戦争で活躍した五十一人の日本軍指揮官に「軍徳勲章」が贈られた。
一方、フィンランドもロシアの支配下に置かれていたが、日本の勝利に触発されて帝政ロシアが崩壊した好機を利用し一九一七年十二月に念願の独立を達成した。
このとき立ち上がったのが、帝政ロシア軍の騎兵旅団長として
奉天の会戦で敗北したマンネルヘイム大佐
であった。
大佐はこの敗北から、日本のような小国でも国民が団結すれば大国ロシアにも勝てるとの自信を得たのである。
その後、フィンランドは
カレリア地方
の割譲をめぐってソ連と二回戦い二回とも敗北するが、それを戦ったのがマンネルヘイム総司令官であった。
(
スプートニクスてなバンドで「霧のカレリア」という名曲あったですね。エレキギター全盛のころw
)
戦局が悪化すると国民は、敗軍の将を大統領に選び停戦に持ち込んだ。そして彼が死ぬと、国会議事堂に通じる大通りを「マンネルヘイム大通り」と命名し、その通りにソ連からの内政干渉を守るかのように国会議事堂を背にしたマンネルヘイムの立像を建立した。
フィンランド人のこうした独立心と抵抗心が、ソ連に国境を接しソ連の重圧を受けながらも、冷戦中にソ連の衛星国にされず、議会制民主主義を維持したのであった。
レーニンは旅順陥落の三日後に、機関誌『フペリヨード』に「
旅順の降伏はツァーリズム降伏の序幕である
。革命を信じない者たちが、革命を信じ始めたことは、革命の始まりである」と書いたが、その直後の
1905年1月22日
に、皇帝に食料や燃料などの不足を訴えようと宮殿に集まった多数の市民が警備兵に虐殺される「
血の日曜日
」の惨事が起こった。
この事件を境に革命の波は全国に広がり、レーニンの予言通りに革命の歯車が止まることなく回り始めた。
そして、第一次世界大戦末期の一九一七年には、
「二十世紀の怪物」といわれた共産主義国家のソビエト社会主義共和国連邦
が誕生した。
西欧諸国から警戒され内政干渉を受けたソ連は、その対策として各国の労働者や世界各地の民族独立運動を支援し、資本主義諸国やその植民地に紛争を誘発しようとした。
これが(
害毒w
)
国際共産主義運動
であり、その指揮中枢がモスクワのコミンテルンであった。
コミンテルンが特に重視したのが、国内が軍閥に支配され混迷している中国であった。
コミンテルンは東方の国境の安全を確保するため、中国に共産党を創設させて国共合同を推進し、日中講和の機会を妨害して日中戦争を継続させ、日本を太平洋戦争へと追い詰めていった。
一方、孤立した日本をドイツと結びつけたのは、
1935(昭和10)年の第七回インターナショナル大会の「日独をコミンテルンの敵」とする宣言
で、日独はこれに対抗するため1936(昭和11)年に「日独防共協定」を締結したが、日独伊三国同盟を推し進めたのがヒトラーであった。
ヒトラーは「日本海海戦があったのは、私が中学生のときだった。
クラスのほとんどすべてがオーストリア人で、(ロシアの)敗北のニュースに落胆した。しかし、私は歓声を上げた
。それ以来、私は日本海軍に対して特別な感情を持った」と回想しているが、ヒトラーのこの日本海軍への過大な期待が、ヒトラーを日本に近づけ、日独伊三国同盟を締結させ、それが日本に太平洋戦争を不可避とさせたのであった。
(元防衛大学校教授 平間洋一)
(2004/09/02)
【新地球日本史】(51)明治中期から第二次大戦まで
日露戦争-西洋中心史観への挑戦(4)
「黄禍論」生み、日米対立へ
米国の黒人たちは、日本の勝利を自分たちの勝利のように誇りに思い歓喜し、日本が白人優位を覆し、有色人種を解放してくれるであろうと夢想した。
特にのちに
アフリカ独立の父といわれたウィリアム・デボイス
は、「日本がヨーロッパに圧迫されているすべての有色人種を救出してくれる。有色人種は日本をリーダーとして仰ぎ従うべきである」と主張した。
黒人の新聞「ニューヨークエイジ」紙は、「行け、黄色い小さな男たちよ。天罰を加えるまではその剣を側に置くな。欲望の固まりのロシアを投げ飛ばせ」との詩を掲載した。
しかし、この黒人や有色人種の期待こそ白色人種が最も恐れた「黄禍論」であった。すなわち日露戦争当時、米国や西欧諸国を支配していた人種観は、アングロサクソン民族が世界で最も優れた民族であり、野蛮で遅れた異教徒をキリスト教に改宗させることは、
神の摂理
と考えられていた。
※摂理:全ておさめること。自然界を支配している理法。
(
ったく、とんでもねぇw 短絡
)
この人種観を科学的に補強したのが、ダーウィンの「弱肉強食」の進化論を国家や民族に適用した
スペンサーの「社会進化論」
であった。
そして、当時はルーズベルト大統領も「すべての戦争の中で最も正しいものは野蛮人との戦いだ」「ロレーン地方がドイツのものになろうと、フランスのものになろうと、たいした問題ではない。しかし、米国やオーストラリアが赤や黒や黄色の土着民の手を離れ、世界の有力民族の遺産となることは極めて重要だ」と書いていた。
日露戦争に対する米国の世論は、戦争初期は米国人特有の弱者贔屓(ひいき)の感情も加わり、日本に極めて好意的であった。
しかし、日本の勝利が確定的になるに従い対日警戒心が高まり、日露戦争後にはホーマー・リーの『無智の勇気』に代表される多数の反日・恐日論の本が出版された。
(
ここいらは、猪瀬直樹「ミカドの肖像」に詳しい
)
一方、ルーズベルト大統領の代弁者で海軍戦略家のマハン大佐は、「日本移民の流入を傍観するならば、十年もたたないうちにロッキー山脈以西の人口の大半が日本人によって占められ、同地域は日本化されてしまうであろう」「太平洋に面した大海軍国家は日米しかなく、日米が直接対立する可能性が一段と高まった」と
黄禍論を利用して海軍軍事力増強の必要性を訴えた
。
さらにマハン大佐は、ノックス国務長官が再び中国の門戸開放宣言をすると、一九〇九年に「門戸開放政策」との論説を発表し、日本は中国や満州の市場に関心を強め、
満州鉄道中立化提案を拒否
し、日露協商を締結するなど、独占欲にむしばまれていると批判した。
(
小村寿太郎は、コレが失敗だったよなぁw
米国のアジア政策は、自国の支配下地域には他国の進出や干渉を許さないモンロー主義という覇権主義と、その対極にある積極的な進出政策の門戸開放・機会均等政策を、軍事力を背景に推進するもので、米国の東洋進出は「マハンによって鼓舞された海軍力の増強は国家に威信と利益をもたらす」という
海軍モンロー主義のユーラシア大陸への拡大
であった。
視点を変えれば、米国海軍のアジア進出は、モンロー・ドクトリンのアジアへの適用であり、それはヘイ・ドクトリンという錦の御旗を掲げ「西へ西へ」と海外市場を求め、海のフロンティアを征服していった海上開拓史でもあった。
また言葉を換えれば、インディアンを征服し、西海岸に到達した米国が、太平洋を西進し遭遇したのがアパッチ族ならぬ日本海軍であり、この「西へ西へ」の潮流が激突したのが、
海軍史的に見れば太平洋戦争
ではなかったか。
(
対米戦争としては「太平洋戦争」で、国家としては「大東亜戦争」だな。戦場的に、さ
)
そして、太平洋のアパッチが消えると、米国海軍は、「米国および同盟国の死活的重要な権益に挑戦するいかなる動きも米国の軍事力と対決することを理解させるため」に、第七艦隊を冷戦中は日本海、台湾海峡、ベトナム沖へと派遣した。
そして、冷戦でソ連を破ると、アフガニスタン紛争ではインド洋、イラクのクウェート侵攻やイラク戦争ではペルシャ湾から紅海へと西進を続け、今日に至っている。
(元防衛大学校教授 平間洋一)
(2004/09/06)
【新地球日本史】(54)
明治大帝の世界史的位置(1)
3人のアジアの君主の誕生
十九世紀の半ば、東洋に三人の帝王が前後して即位された。
一人は日本の保護により、中国から自立して大韓帝国の皇帝になられた高宗である。高宗は明治天皇と同年齢で、王族とはいえ貧窮のうちに育たれたが、父の大院君の策謀によって王位につかれた。
十一歳で即位後の最初の王命が、貧窮時にクリをくれなかったのを恨まれての、焼クリの行商人の処刑だった。これはさすがに側近に諌止(かんし)された。
大院君と妃の閔妃(びんひ)一族は宮廷で血みどろの暗闘を続け、大院君を利用した日本の暴漢に閔妃が殺害されると、高宗は暗殺を恐れてロシアの公使館に亡命され、そこで政務をとられた。
ロシア公使館から出られても、王宮とロシア公使館に避難路を備えさせられた。高宗は事大主義の言葉そのままに、父と王妃、清国と日本、ロシアと日本を天秤にかけて、安全を保とうとされた。
第二はタイのラマ五世で、ご即位は明治天皇の一年後、西暦一八六八年である。当時のタイも、徳川幕府が西欧諸国と結ばされたのと似た、不平等条約下にあった。タイと日本は国際的に似た状況に置かれていたのである。
ラマ五世が、奴隷解放、郵便制度の創設、電信・鉄道の敷設、政府機構の能率化など、タイの近代化に尽力された点は、明治天皇と共通点があられる。しかしフランスとの抗争の結果、三百万フランの賠償金とルアンプラバン州の一部を、仏領カンボジアに割譲させられた。この州の残りの部分も日露戦争の二年後にはフランスに奪われた。
第三人目が我が明治天皇で、陛下は倒幕軍が江戸城攻撃の予定日の前日、百官を集められ、紫宸殿において天地の神々に新国家方針を誓われた。御年
十五歳
であられた。
これが五条の御誓文で、全国民の会議制による政治への参加、旧弊の打破、身分制の解消、近代化などの思想が盛られている。
御誓文は福沢諭吉が明治八年に書いた『文明論之概略』の、「(維新の動乱は)全国の人民、文明に進まんとするの奮発なり」という文章の理念的表現と言えよう。
中国の属国であった朝鮮の高宗とは同年齢であるが、焼クリ屋を処刑せよ、などといった非君主的なことは、明治天皇は言われなかった
。
(
プッw
)
しかし日本を取り巻く国際環境は厳しかった。明治四年、岩倉具視大使一行は渡米し、大統領、国務長官らと面会し、不平等条約改正の交渉をはじめるが、治外法権の撤廃、外国軍の撤退、関税の自主権の確立など全く相手にされなかった。
横浜には結局、明治八年まで英仏軍が駐屯し、外国人居留地は事実上は上海などの租界と同じであった。
福沢諭吉は日本は文明国にならねばならないが、日本人と日本の伝統の上に日本の文明がある以上、これを無視して文明の理想に到達することはできないと考えていた。事実、独立とはある地域の人々が、自分たち独自の生き方を主張することで、つまり国の伝統維持を国際的に認めさせることである。
福沢は『文明論之概略』で、明治維新は尊皇の思想や、天皇親政の古代に帰ろう、というのではなく、幕府体制を改めたいだけで、皇室と人民は政治的関係があるだけと述べ、皇室と国民の交情は、人為的に速成できるものではない、としている。
明治天皇は優れた臣下と国民に恵まれておられたことは認められよう。陛下は直接に政府・国民に命令はされなかったが、その御製を通して、国民を教え、さとし、慰め、精神を鼓舞された。それだから国民と陛下との関係は単なる政治的なものではなく、厚い心情でつながれ、陛下のご病気が重くなられた時は、皇居前には御平癒を土下座して祈る、多くの国民の姿が見られたのである。
明治の日本は半独立国の状態から、西欧の列強と肩を並べうる独立国になった。この事実は、西欧諸国の支配下に置かれたアジア、アフリカの覚醒(かくせい)につながった。この日本の覚醒と成功のリーダーであられた明治天皇の存在こそが、陛下の世界史的意義であろう。
(作家 三浦朱門)
(2004/09/07)
【新地球日本史】(55)明治中期から第二次大戦まで
明治大帝の世界史的位置(2)
五カ条を神々に誓われた意味
日本が朝鮮やタイのようになっても、おかしくはなかったのである。
我が国もまた、実に危うい状況に置かれていた。幕末は年号が何度も変わるから西暦で言えば、一八五三年がペリーの来航で、これは鎌倉時代の蒙古来襲にも比すべき大事件であろう。そして明治維新は一八六七年だから、この十四年の間に、我が国は辛くも体制を整えて、独立を保った。非ヨーロッパ圏の地域で、日本ほど見事に、独立を保ち近代化に成功した国はない。私たちはこれを世界に誇ってよい。
元々、
明治維新は英国とフランスの代理戦争
の面がある。
フランスが幕府に指導武官を派遣し、フランス式の軍事訓練を施したことはよく知られている。また英国は今でも長崎に邸宅が残っているグラバー等を通じて、薩長に武器を供給した。彼は薩摩と英国の提携や薩摩と長州の同盟の成立に暗躍した。このようなことが可能だったのは、一人の貿易商の後ろに、英国政府の存在があったことは、疑いを入れない。
当時、英仏は世界各地で覇権を争っていたが、その二番手が、米国、ロシア。そしてフランスに勝利したプロシアが、諸王国を統一してのドイツ帝国であった。
アメリカはまず日本の扉をたたいて、開国を強いて、不平等条約を結ばせる。英仏はそれに便乗して、ペリー来航の翌年、日本と和親条約を結んだ。
一八五九年に英国が総領事オールコックを日本に派遣すると、同年、フランスも駐日総領事ベルクールを任命する。アメリカはおおむね英仏の線で日本との関係を結んでいたが、ロシアだけは単独で対馬に軍事基地を持とうとした。
ウラジオストク、カラフトを領有するロシアが対馬を占領すると、日本海が彼の物になるだけでなく、朝鮮半島も、日本列島も、ロシアの勢力下に置かれる危険ができる。だから英国は軍艦を対馬に派遣して、ロシア艦を退去させた。
日本のためを思ったのではない。東亜でロシアを突出させまいとする、英国の国益からであった
。
佐久間象山
や
橋本左内
のような先見の明のある人がいて、幕府は彼らを弾圧したが、彼らの呼び起こした危機感を共有する在野の士が次第に多くなり、尊皇、佐幕、開国、攘夷と多くの言論の交錯の中に、攘夷を底に秘めた開国と、旧体制打破の理念的根拠としての尊皇が、彼ら志士の思想となった。
志士たちが陛下を「玉」と呼んだことは、よく知られている。彼らに尊皇の精神が希薄だったとは言わない。幕藩体制を批判する上にも、尊皇精神は理念として有効に機能していた。
しかしまた彼らには権謀術数家としての、覚めた打算の眼で皇室を見る角度があったことも間違いなかろう。
もし明治天皇が暗愚な君主だったら、幕府征討の時も、維新直後の征韓論を代表とする革命政府の分裂の時にも、右往左往され、結果的には明治の日本の歴史は、随分と違ったものとなっていたであろう。
しかしいずれにせよ、人々は異国の支配下に置かれることには、感情的にも拒否反応を持っていた。それなら日本が他国と違う所以(ゆえん)のもの、今風に言うならアイデンティティーを確立せねばならない。しかもそのアイデンティティーを喪失せずに、革新を行わねばならなかった。
この視点からも、皇室、天皇の存在は貴重であった。皇室が無力でありながら、日本そのものであること、そこがあらゆる議論の対立の消滅点でもあった。
その意味で、明治天皇が幕府御親征の詔書の直後に、五箇条の革新の方針を神々に誓われたことの意味は大きい。
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸(けいりん)ヲ行フベシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦ザラシメン事ヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ
明治維新の理念とは、日本のアイデンティティーを失うことなく、近代化を達成しようとすることなのであった。
(作家 三浦朱門)
(2004/09/08)
【新地球日本史】(56)明治中期から第二次大戦まで
明治大帝の世界史的位置(3)
敗者に寛大な革命と陛下の心
五条の御誓文の思想的背景については、坂本竜馬の「船中八策」をはじめ、由利公正、横井小楠の進歩的発想、そして福岡孝弟に代表される反動的訂正、最後に木戸孝允による修正などによって、現在伝えられている形になった。当初は諸大名と盟約するのが、原案であったが、公卿が反対して、陛下が百官を従えて天地神明に誓われる、ということで収まった。
結果的にはこれがよかった。御誓文の趣旨から見ても、これを旧支配階級の二、三百名に示達しても仕方がない。神に誓うということは、大名、公卿を含めた、全国民に誓うのと同じことになるからである。アメリカの大統領も就任の際には、聖書にかけてその職を全うすることを誓約する。
広く会議を興すといったことは、土佐の山内容堂らの考えでは大名たちの合議を想定したかもしれないが、かつては山内の政治顧問であった板垣退助は、国民が政治に参加する国会開設を主張して、自ら自由党を創設するようになる。幕末に実質的に薩摩藩主であった島津久光は過激な明治新政府に不満で、郷里に帰ってから、「西郷(隆盛)らにだまされた」と不平をもらしたという。また最後の将軍、徳川慶喜も「勝(海舟)にだまされた」と側近にもらした、という。
西郷隆盛をかついだ西南戦争に代表される熊本、佐賀、山口、鹿児島などでの内乱は、維新を担った武士たちが、民主化の動きが自分たちを通りこして、一般庶民に拡散してゆくことへのいらだちでもあった。大名も武士も、そして公卿も、維新のあまりにも急速な発展に置き去りをくったのである。その意味では明治維新は革命であったし、その中心におられたのが明治天皇であった。
すべての改革は天皇の御名の下に実行されたから、誰もそれに反対できなかったし、反対しても、それは君側の奸を討つ、という名目しかとりえず、大きな動きになりえなかったのである。
しかし革命としては妙な革命であった。王政復古以来、二十三年で、日本は国会を持つ立憲君主国になるのだが、その間、進歩的にすぎたとして、暗殺された人材は大久保利通はじめ少なくはない。しかし維新の負け組の多くは不遇であったとはいえ、榎本武揚、勝海舟などの人材は維新政府に重用され、旧大名なみの華族に列せられた。
敵の総帥である徳川慶喜も、宗家の嗣子とともに華族の最上位の公爵になる。西南戦争で敗死した西郷隆盛の嗣子も、侯爵に列せられた。
ヨーロッパの革命ではそんなことはない。革命ではフランスのルイ十六世も、英国の革命ではチャールズ一世も公開処刑である。ロシアのニコライ二世は暗殺同然の形で家族とともに一家全員が殺害された。またフランス革命のリーダーたちは暗殺されたマラーをのぞいて、政争のうちに処刑され、チャールズ一世を処刑したクロムウェルは王政復古後、墓を暴かれて、改めて革命の責任を問われる結果となった。
日本の明治維新革命は、その成果を百五十年後の今日まで伝えているが、ルイ王朝を廃したフランス革命は二十年ほど後、英国のクロムウェルの革命も、チャールズ一世の処刑後十一年でいずれも旧王朝の子孫の、流血を伴う王政復古により革命は挫折する。ソ連の社会主義革命は七十年もったが、それにしても西欧諸国の革命は、流血の割に結果は空しい。
その後の英国、フランスの政治的変動は、比較的平和的であった。フランスの場合、革命的変革があっても、せいぜいが敗者の指導者が国外亡命するか、第二次大戦後の親独政権のペタン元帥のように、執行されなくとも、死刑の判決を受けるようなことになる。
明治維新は英仏の革命、またロシア、中国の共産革命に比べると、敗者に対して寛大である。日本人の体質的な寛容さが大きな原因であることは当然であるが、それを代表するのが、朝日のような爽やかな心を、そして大空のような広い心を持ちたいという、明治天皇の御心である、と言えないだろうか。
(作家 三浦朱門)
(2004/09/09)
【新地球日本史】(57)明治中期から第二次大戦まで
明治大帝の世界史的位置(4)
西欧君主と対照的な陰の存在
明治天皇が育たれた環境は決して開明的な雰囲気ではなかった。外国語を話すと歯が腐ると信じているような女官たちもいた。しかし陛下は若い革新的な公卿たちの意見を入れて、改革に乗り出されたのである。
御生活は質素であられた。多くの優れた歌を詠まれたが、その下書きには陛下のお手元に差し出される書類の封筒を裏返して使われた。日常のお召しものも、なかなか新調されなかったという。
その象徴が現在の皇居である。二重橋といい、伏見櫓(やぐら)、辰巳櫓などの皇居の建造物は、旧幕時代の物に手を加えられたものである。明治宮殿は良質の材木を使われていたので、米軍の空襲で焼ける時には、芳しい香りがしたという話を聞いた覚えがある。しかしそれは臣下が造営したものであって、京都から江戸に来られて、ここを東京と改名された当座は、幕府の建物をそのまま使われた。そして宮殿を造営される場合も、豪壮なこれ見よがしの大建築は望まれなかった。
バッキンガム宮殿、ベルサイユ宮殿、オーストリアのシェーンブルン宮殿など、ヨーロッパの王家はきらびやかの宮殿を国民の前に誇った。第二次大戦後でも、成り上がりのルーマニアのチャウシェスクはブカレストに壮麗な宮殿を作り、その正面の街区を整理して、シャンゼリゼもどきの大通りを建設しかけて、雄図(?)空しく殺害されてしまった。
日本の皇居の場合、今でこそ皇居の周囲に高層ビルが建ち並ぶようになったから、そこから宮殿の青い屋根を見ることができる。しかし陛下がお住まいの御殿は、それと知る者でないと、ほとんど気づかれることもなく、緑の樹海の中に埋もれている。
■□■
ヨーロッパの王家は折に触れて国民の前に姿を現して、大宴会や舞踏会などを王宮で主催される。日本にも鹿鳴館という存在があった。日本が不平等条約を撤廃するために、十分に欧米文化を取り入れているというジェスチュアを示すために、「欧風」の建物を建て、そこで舞踏会を催した。そこではつい先年までチョンマゲをゆって二本の刀をさしていた顕官たちが、西洋の服装をしたり仮装をして踊った。
欧米だったら、それは宮中での舞踏会になるはずである。しかし日本の皇室はそのような催しの中心になられることはなかった。伝統墨守ではない。時代の小さな波をよそに、皇居の中で、サル真似ではない近代化を実行されていたのだ。本当に明治天皇が妙な仮装などされて、欧米の大使夫人らとワルツなど踊られなくてよかった。
■□■
明治天皇は陸海軍の大演習、国会の開会などの重要な事業に際して、国民を代表する軍人、議員などの前に出られるだけで隠者のような生活をされた。たとえば日露戦争後に、日本の天皇が英国をはじめヨーロッパ諸国を訪問されたら彼らの親日感情はどれほど増大したか判らない。しかし明治天皇はあくまでも陰の存在であろうとなされた。
明治時代ではなく昭和になってからだが、外国人を皇居前広場に案内した時、私がこれが皇居だと言った時に、彼が天皇は何のために濠(ほり)や櫓を作られたか、と質問した。私がそれらは封建時代に徳川将軍が作ったものと答えると、彼はさらに皇居はどこにある、と聞く。皇居は見えないと私が言った時の、彼の何とも理解し難い、といった表情を私は今も忘れられない。
明治天皇は維新後に全国を行幸(ぎょうこう)されたが、その中には、私の母の郷里、新潟も行程の中に含まれていた。母は当時はまだ生まれていなかったから、母の母、私から言って祖母の話であるが、沿道に土下座して行幸を迎えた県民は、お姿を拝むのはおそれ多いことで、目がつぶれるといわれたという。そして行幸の列にお賽銭(さいせん)を投げる者もいた。
天皇の神格化は強制ではなく、民間信仰として芽生えていたのである。もっとも新潟は本願寺さんが使われた風呂の湯を、薬湯として頂戴してくるような土地がらではある。私は当時の新潟の農民たちの、明治天皇をお迎えする態度をほほ笑ましく思う。天皇という中心故に日本の近代化は進捗(しんちょく)したのだ。(作家 三浦朱門)
(2004/09/10)
【新地球日本史】(58)明治中期から第二次大戦まで
明治大帝の世界史的位置(5)
反戦的ですらある戦争への態度
明治の四十五年間は、また戦争の時代でもあった。明治初年の沖縄と台湾の所属問題は、アメリカのグラント元大統領の仲裁で、戦争には至らずに解決した。しかしやがて日本の近代化と独立の主張は、近隣諸国とのさまざまな問題を提起した。西郷隆盛が征韓論に敗れて下野したということは、文字通りに解釈するわけにもゆくまいが、国際問題が、国内問題にも波及していたことは確かである。
国際問題を解決するためにも、国内体制を整備する必要があった。明治二十二年からの憲法をはじめとする法制の整備、議会制度の採用などはその表れで、日本は維新後約四分の一世紀で、国内体制を整えた。
それから間もなく、東亜の大国の満州族の支配する中国との戦いである。軍事技術が未発達の時代であったから、華々しい戦果とはいえないが、ともかくも勝った。
その十年後が近代になって世界最初に、有色人種として白人国に勝った、日露戦争であった。ロシアは天才的用兵家のナポレオンを破ったヨーロッパ一の陸軍国である。また海軍はドイツのカイゼルとともに、世界の海軍国を目指して、開戦当時、日本の海軍の倍の艦船を備えていた。常識からいって、日本が勝てる相手ではない。
陸軍は犠牲者の数こそ日本のほうが多かったが、作戦的には絶えず押し気味に戦局を進め、日本軍に有利な状況を作った。
海軍はロシア艦隊がアジアとヨーロッパとに二分されているのを幸い、それを各個に撃破する形で、ほぼ完勝という成果をあげた。明治三十八年の夏にはロシアにはもはや海軍というべきものは存在しなかった。
このことが世界に与えた衝撃は大きく、中国革命の指導者である孫文、インド独立運動の指導者たち、またベトナムその他、白人諸国の植民地になっている人々に、勇気と希望を与えた。ヨーロッパでもロシアの軍事力に脅威を覚えていた諸国、諸民族は胸のすく思いをした。またハンガリー人やトルコ人も、同じアジア人ということで、日本の勝利を自らの誇りとするところがあった。これらの国には、今でも日露戦争の日本の英雄の名にちなんだビールなどが残っている所もある。
しかし西欧諸国は必ずしも日本の勝利を喜ばなかった。日露戦争以前から、ドイツのカイゼルは黄禍論を述べていた。アメリカは日露戦争後、戦前の親日的態度から反日的態度が露骨になった。日本の同盟国の英国も、植民地の反英運動を恐れたのだろうか、日本の勝利を歓迎しない人々がいたという。
ドイツのカイゼルと、ロシアのニコライ二世は自国の艦隊の名誉長官のようにして、艦隊を指揮して、バルト海で会見した。カイゼルは第一次大戦の時も、軍服を着て、陸軍の将軍たちと地図を開いて作戦を練っているような写真が残っている。
明治天皇は名目こそ日本の陸海軍を統帥する存在でありながら、このような形で戦争のリーダーとしての姿を残されなかった。陛下の戦争への態度は反戦的ですらあられる。
よもの海みなはらからと思ふ世に
など波風のたちさわぐらむ
という御製(ぎょせい)は、昭和天皇も対米英戦の決をとる会議に引用されたので有名であるが、明治天皇はできることなら、戦争はさけたいとのお考えであった。第二次大戦の時の一部の軍人のような好戦的な姿勢ではあられなかった。そしていざ戦争になると、
子等はみな軍(いくさ)のにはにいではてて
翁やひとり山田もるらむ
という御製がある。与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」が反戦歌なら、明治天皇のこの御製も反戦歌である。陛下は戦争の暗い面を十分にご理解になっておられた。
ロシアのニコライ二世は、日本との戦争を勢力拡張の機会と考えていたらしい。またドイツのカイゼルが第一次大戦に踏み切ったのは、歴史に残る大帝たらんとする虚栄心に感じられる。彼らには多数の犠牲者の出る、戦争への恐れは見られない。(作家 三浦朱門)
(2004/09/11)
【新地球日本史】(59)明治中期から第二次大戦まで
明治大帝の世界史的位置(6)
「無の空間」創造された陛下
明治は一つの時代であった。日本の伝統を守るための独立と、それが列国との関係において、よりよい成果を生むための近代化という二つの課題に、大きな成功例を作った。第二次大戦後に独立したアジア、アフリカの諸国は、日本の明治時代に限りない教訓を見いだすであろう。
明治天皇の崩御は、日本国民に底知れぬ損失感を与えた。当時を代表する文人、森鴎外、夏目漱石が、崩御やそれに関連した事件についての作品を書き、また作品の中でふれているのを見ても、その衝撃がうかがえる。
明治という時代が日本に残した課題は、日本の伝統と近代化をどのような形で、国家と国民生活の中に生かしてゆくか、ということにつきよう。この課題は明治天皇崩御後、ほぼ九十年たった今も解決されていない。日本はある時はつまずき、ある時は自信を持って歩を進めてきた。
全ての国はそれぞれに、それなりの国家原理とでもいうべきものがある。それが国々の個性とか国体とかいうものであろう。伝統という敷地の上に世界という虚空がある。そこにどのような国家という構造体を作るか、それが問題であろう。
私は日本という国を思う時、しばしば古代ローマの建造物の中でも、最も原型を残しているパンテオンを思う。
これは円形の大理石の床に上に作られた、窓のない円筒形の建物と、それを覆う巨大なドームからなっている。床の直径は百メートルほどもあるだろうか。そしてドームの中央は、正確には知らないが、私の印象では十メートルほどの空間になっていて、そこから空が見える。この空間から日光が降りそそぎ、雨も吹きこむ。
ドームは古代ローマの卓越した技術の結晶で、ルネサンスイタリアも、このような完全なドームは作れなかった。たとえばフィレンツェの大聖堂は尖塔とドームの中間のような形をしている。
私は明治維新にはじまる国家建設にあたって、伝統という丸い大理石の床と、それを守る巨大な円筒は優れているが、ここまでならどの民族でもできると思う。要は国境と国民とを他者と区分して、組織すればよい。問題はそれを覆う国家の上部構造である。力学的に不安定ならそれはたちまちに崩壊する。ヨーロッパ諸国を含めて、多くの国が国家の上部構造の崩壊を経験している。
円形構造とドームは、角がない、つまり平等で差別のない形態だが、窓がないから、天井を塞げば内部は、暗黒の閉ざされた世界になる。多くの全体主義国家は、この閉ざされた息苦しい暗黒空間である。
近代日本はローマのパンテオンのように、ドームの中央が開いて、建造物の中が明るかった。しかし時に国粋主義者が、雨風を遮断すると称して、中央の空間を塞ごうとしたこともあった。第二次大戦直前の右傾化の時代である。しかし幸いにドームは崩壊することもなく、今日まで続いてきた。
私は日本という国家は、パンテオンに似ていると書いたが、その中で天皇の存在は、このドームの中央にある空間のようなものだ、と思っている。
その周りのドームの部分では、個々の石が複雑な力学的関係に置かれて、相互に拮抗(きっこう)してドームを支えている。外壁と床石である我れ我れ国民にしても、それなりの形で、国家という建造物を支えている。
この中央に何もない部分、ゼロの空間がある。これは、建造物を構成する多数の石の、力学的関係を超越した空間である。ここから国家という構造物の中に、外界から光が降り注ぐ。雨や雪が入ることもある。しかしこの無の空間を一つの規準として、我れ我れは国内の空間と虚空という世界の差と、それに対処する方法を見いだすことができる。明治天皇はこの無の空間を創設されたのである。
このシステムは家元制度にも反映されている。しかし芸能の家元制度は閉鎖的な臭いがある。近代的で伝統的な日本文化の家元制度としての皇室、それを明快な形で作られた方、それが明治天皇なのである。
(作家 三浦朱門)
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