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憂国愚痴φ(..)メモ by 昔仕事中毒今閑おやぢ in DALIAN
「百年の遺産~日本近代外交史」(3)
(17)【政党政治の揺籃期】 主義と信念に徹した星亨
(産経新聞2002年4月20日掲載)
陸奥宗光の死後、日本の議会政治は試行錯誤を重ねつつ成熟していきます。
日清戦争後の議会運営のため伊藤博文は板垣退助と提携しますが、こうなると当然、与党を持つことの便利さがわかってきます。すると
薩派も改進党と提携して松方・大隈内閣
ができます。
そうなると今度は民党としては代わる代わる利用されるだけではつまらないということになって
自由党と進歩党を合体して憲政党
を作り、伊藤は、山県有朋などの反対を押し切って政権を大隈重信、板垣の憲政党に譲ります。
ここでも
伊藤の柔軟さ
が憲政を救っています。
もし山県などの
超然主義
を貫いていれば、藩閥内閣は解散に次ぐ解散で野党と対決し、日露戦争の準備もできず、あえて戦争の準備をするためには憲政の停止もやむを得なかったかもしれません。
隈板内閣は準備不足でもあり短命で終わりますが、憲法発布の時にプロシャ的超然主義を標榜(ひょうぼう)して発足した日本の憲政が十年たたずに、
ドイツでは第一次大戦で敗れるまで実現していない政党内閣を作った
のです。
日本は再び
平和革命
に成功したと言えます。
その裏には
日本人同士の信頼関係
があったのでしょう。
伊藤にとって、大隈、板垣は維新以来の同志です。
国を思う心には変わりはないという信頼関係
があって初めて政権を譲れたのです。
次いで伊藤は旧自由党系を中心に
立憲政友会
を作り、自ら総裁になりました。三百議席中百五十五を占める大政党です。この政友会内閣も準備不足で短命には終わりますが、この政友会が将来の大正デモクラシーへの大道を開きます。
ところで、この政党の揺籃期(ようらんき)にあたって
山県有朋などを中心とする藩閥勢力
は政党政治に対する歯止めを考えます。
それは
軍部大臣現役制
と
文官任用令
です。
文官任用令の方は、政治が役人の人事に容喙(ようかい)できる範囲を狭(せば)めたもので、それまでは藩閥が勝手に藩閥の人間ばかり登用していたことを考えると、民党が政権を掌握した途端に官吏の任免権を政治から奪ったことに対する民党の憤懣(ふんまん)はわかりますが、この時決めた政官関係はその後日本では定着しています。
軍部大臣現役制こそは、昭和期に議会民主主義を否定させ、軍閥の専制に道を開かせた元凶です。
統帥権の独立よりも、実際の運用上猛威を振るったのはこの制度で、軍の意向に従わない内閣は陸海軍大臣を得られないので組閣不可能になってしまいました
。
(
渡部昇一名誉教授が最初に唱えたのかな?
司馬遼太郎も賛同した、というか同時期くらいに、相互に接触なくても同じ結論に至ったということかもしれないけど。
でもコレは、今や通説だよね
)
政党政治の揺籃期に、政党政治の歯止めとして山県が作ったこの制度が昭和期になって国を誤らせることになる
のです。
(
陸・海軍大臣は内閣の必要的構成員であって「現役」大将中将から選任されるのだが、その候補者を陸・海軍部が出さなければ当然組閣自体が不可能となって政権が発足できないため、軍部の意向に反する内閣は成立不能となるわけだ
)
この間の政局で台風の目となるのは、陸奥の子飼いの子分
星亨
です。
星は、士族階級の出身者を中心とする明治の指導者達の中で例外的に
庶民の出
でした。
左官屋の父は大酒飲みで家出し、母は乳飲み子の星をかかえて下女奉公をして一時は生活に疲れて
赤坂の溜池に星を投げ込もう
かと思ったといいます。
星は、生涯を通じて、上流階級、士族階級には傲岸不遜(ごうがんふそん)でしたが、自分の結婚に際しては
母と嫁との折り合いを考えて畳屋の娘を貰(もら)うなど、庶民の情け
のある人でした。
若い頃から終始陸奥が世話をみて、
英国にも留学し、
日本人で初めて英国の弁護士
という栄誉ある資格
を得て、帰国後、法律事務所を開いて成功します。
自由党に入り、
知識階級ぶった改進党
を嫌悪します。
実は、
板垣も陸奥も改進党嫌い
でした。
改進党は結党に際して自由党の了解を得ようとして、
自由党は剛直な正義派だから、穏健な人はついていかないので、別動隊を作るのだ
と説明したのに対して、板垣は「われわれを猟犬としてその獲物を取ろうとするのか、狡猾(こうかつ)も甚(はなは)だしい」と面罵(めんば)し、改進党側は一言もなかったといいます。
これが自由党と改進党、進歩党、後には
政友会と民政党の対立
の歴史的な源です。
板垣が自由党を解党した時、独り解党に反対し、その後も私財を投じて自由民権運動の火を細々と守ったのは星です。
また、第二回議会の衆議院議長として、大選挙干渉をした松方内閣を苛(いじ)め抜いて潰(つぶ)したのも星ですし、代わった伊藤内閣では内々陸奥と呼応して条約改正、日清戦争の準備に協力をしました。
隈板内閣ができると、駐米公使だった星は、東京の許可も待たずに帰国し、外相のポストを要求しますが、大隈が星を警戒して断ると、今度は旧自由党系を分離させて隈板内閣を潰します。
そして、その後の山県内閣では、政府と協力して日露戦争の準備をする中心的役割を果たし、次いで伊藤政友会内閣にも実力者として入閣しますが、汚職の疑いで辞職します。
星は庶民出身として反骨精神の権化
でしたが、他面金銭を卑しむ士道とは無縁の人で、臆面(おくめん)もなく金を集め、腐敗政治家の代表のように思われ、これを憤った
壮士に刺殺
されます。
しかし、かれの死後残ったのは借金だけで、私財は全く貯(たくわ)えませんでした。
あくまでも、主義と信念に徹した人でした
。
(18)【小村寿太郎の登場】
強烈な国権意識と度胸の良さ
(産経新聞2002年4月22日掲載)
小村寿太郎という人物を知ることは
戦前日本の指導者の一つの型
を知ることにもなります。
まず第一に
大秀才
でした。
かつての日本では、若い頃から周囲の誰もが「あいつにだけはかなわない」と思うような大秀才を皆が尊敬し、社会のトップになるまで皆が推すのが普通でした。
新井白石から、戦前の外相幣原喜重郎、重光葵、東郷茂徳までそうでした。
むしろ、
戦後日本の反エリート風潮
の方が、日本の伝統にも世界でも、あまり例のない特異な現象です
。
現在の東京大学の前身である開成学校には、全国三百余藩から推挙された若者達が集まりましたが、小村は
飫肥(おび)藩からただ一人
選ばれて入り、その中で
五十名選ばれた給費生
となり、また、
初めての省費外国留学生の中の法科四名の一人
に選ばれ、ハーバード大学に留学します。
開成学校時代に書いた英語の文章が最近アメリカの図書館で発見されましたが、
日本が血を流すことなく明治維新で封建制を廃したのは英仏の歴史と較べても特筆すべき成功であり、それは国民の
封建領主への忠誠心よりも愛国心の方が強かったからだ
と論じています。
英語といい、自らの体験に基づいたその論旨といい、二十歳前後の若者とは思えない立派な文章です。
第二は、強烈な
国権
意識
です。
(
国権 国家の権力。国家の支配・統治権
)
既述のように外務省の局長でありながら、クビを覚悟で国辱と思った条約改正案をロンドン・タイムズに洩(も)らして、これを葬(ほうむ)ったのは小村でしたし、日清戦争の際「よしっ、この俺が戦争を始めてやろう」と、訓令の到着を待たず北京の公使館の旗を降ろして引き揚げてしまったのも小村です。
そして常に近衛篤麿、杉浦重剛などの
国粋主義
者の支持を背後に持っていました。
(
国粋:その国家・国民に固有の、精神上・物質上の長所や美点
国粋主義:自国の歴史・文化・政治を貫く民族性や国体の優秀性を主張し、民族固有の長所や美質とみなされるものの維持・顕揚をはかる思潮や運動。超国家主義と結びつきやすい。
ナショナリズム:民族(国民)国家の統一・独立・発展を推し進めることを強調する思想または運動。民族主義・国家主義・国粋主義などと訳され、種々ニュアンスが異なる
)
政治思想も、民主主義よりも国家政策本位です。
当時は議会政治の勃興(ぼっこう)期ですが、「こう政党屋ばかりできては仕方ない。何か
中立のしっかりしたもの
」が欲しいと言い、当時高級官僚のお決まりのコースは政党入党(にゅうとう)でしたが、大隈重信総理からの誘いを「暑いのに入湯(にゅうとう)などは真っ平」と断っています。
第三に、これも江戸時代以来の日本知識層の風(ふう)として、辺幅(へんぷく)を飾らず、つまり
バンカラ
でした。
小村の貧乏は本人の責任でなく、親の借金を引き継いだため
でしたが、家具のほとんどない家に住み、夏も冬も着古しのフロック・コート一着だけで、昼食時には袖のほつれ糸を鋏(はさみ)で切るのが習慣でした。
夏は暑いだろうと訊(き)かれると、貧乏していると暑さを感じないと答えたといいます。
小村の度胸には天性のものもありましょうが、これ以上失うものはないという環境もあった
でしょう。
小村が日本外交に登場する頃、東アジアの情勢は激変期を迎えていました。
その引き金は日清戦争で、それまで「
眠れる獅子
」と思っていた清国が
小国日本
にあっけなく負けたことです。
これをみた
帝国主義列強(強大な国々)
が、これは東洋史では何度も使い古された言葉ですが、それなりに正確なので使いますと、「死屍に群がる禿鷹(はげたか)のように」清国に襲いかかったのです。
日清戦争の翌年、ロシアは李鴻章を買収して、
シベリア鉄道の満州通過と鉄道を守る駐兵権
を獲得し、その翌年ドイツが膠州湾を占領して租借権を認めさせたのに乗じて、
大連、旅順を租借
します。
ウィッテの回想では、もし清国が同意しなければ、ロシア軍は行動を起こしてどのみち占領しただろうといっています。
するとフランスは
広州湾
を租借し、英国は
(山東半島突端の)威海衛と九竜半島
を租借します。
日本はまだ、とうてい列強と争う力はなく、わずかに
台湾の対岸の福建省を他国に割譲しないことを約束
させます。
ちなみにアメリカは、その年の大統領選挙のスローガンとして清国の領土保全政策を掲げますが、選挙後は列強と競って
三又湾
に貯炭所を求めます。
しかし、それが日本の勢力圏である福建省なので、日本に婉曲(えんきょく)に断られて、かえって米国の原則の一貫性を傷つけないですんだ、という経緯があります。
ここに至って、ついに清国も目覚めます。
光緒帝
は明治維新にならった
変法運動
を始めますが、これは「百日維新」に終わって、かえって政治の実権は西太后に移ります。
他方、民衆による排外運動も当然起こって、団匪(だんぴ)が跳梁(ちょうりょう)し、外国人の生命財産を脅(おびや)かしたので、列強は軍艦から水兵を揚げて、これを救おうとしますが、これに対して西太后の朝廷は、こうなっては「かりそめに生き延びて恥を万古にさらすよりも戦って雌雄を決する方が良い」と諸外国に宣戦を布告します。これが
北清事変
です。
(
1900(明治33)年 義和団の乱
)
この時、孤立無援の北京城内の外国人は、日本の(
戊辰戦争後移封された会津斗南藩
出身)
柴五郎
中佐の指揮するわずかな数の義勇兵で生き延びました。
(「
北京篭城記
」)
そして、連合軍が北京に入城した際、「北京篭城(ろうじょう)の功績の半ばはとくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである」と公正な発言をして日本に讃辞を送った
マクドナルド英国公使
は、後に駐日公使となり、日英同盟の推進のための力となります。
地理的に最も近い日本は、一個師団をおくりますが、
白人兵の暴行掠奪(りゃくだつ)が横行する北京市内で、日本軍は規律厳正で日本軍管轄区に大勢の市民が流入し、また、北京の家々には暴行を避けるために日の丸が掲げられ、師団長がこれを禁止しなければならなかったほどでした
。
(19)【ロシアの東進と日本】 意図見抜いて行動する小村
(産経新聞2002年4月23日掲載)
当時の日露の国力の差を考えると、日本がロシアと戦争するなどは狂気の沙汰(さた)でした。
鉄や鋼の生産は、日本はロシアの三十分の一ぐらいでした。
真珠湾の前にウィンストン・チャーチルが松岡洋右外相に対して、鋼の生産が七百万トンしかない日本が合計二千万トン生産する英米と戦争できるだろうか、と忠告したのと較べても、そのまた十倍の較差です。
陸軍の兵力は、ロシアが日本の約十倍でした。
それでも、開戦に慎重だった明治天皇や伊藤博文まで、最後には皆、もう戦争するしかないと覚悟を決めたのは、結局はロシアの意図を正確に把握していたから
です。
(
窮鼠猫を噛む?w
)
北清事変を機に、ロシアは満州に進撃します。
一九〇〇年八月にはチチハル、九月には長春、吉林、十月一日に奉天を占領して全満州を制圧
します。
ロシアは、満州を永久占領する意図のないことを公式文書で声明しますが、
小村寿太郎駐露公使
は、早くも九月二十四日の電報で、「ロシアは完全かつ永久に満州を管理することとなるであろう」と分析し、報告しています。
実は、小村はそれよりも早く行動を起こしています。
ロシアが満州進撃を開始した七月二十日
に、この際日露両国で、韓国と満州がそれぞれの勢力範囲であることを認め合うべきだと、本省に意見具申して、十月には自らヤルタに保養中のウィッテを訪れて、それを説得しようとします。
つまり、ロシアはどうせ満州を取る気なのだから、取ってしまう前のこの時期に、それを認めてやって、代わりに日本による
韓国(李氏朝鮮)の自由裁量権
を取ろうということです。
小村の冷徹なパワーポリティックスとそれを実現しようとする思い切った行動力の面目躍如
たるものがあります。
日露戦争の後になってみれば、それはロシアにとって良い取引だったでしょうが、当時のロシアは弱小日本など相手にしません。
ウィッテの反応は、平たく言えば、ロシアは満州を取ろうと思えば何時でも取れる、日本の承認など必要としない、
むしろ満州を併合すると韓国は隣接地域となるのでロシアの方が日本より大きな利害関係を持つようになる
、という返事でした。
ここで
割り切りの早い小村
は、ロシアと話しても無駄だ、
満州を取らせたら、次は韓国を取りにくる、と見極めてロシアと戦うしかないと臍(ほぞ)を固める
のです。
これが「満韓交換論」から「満韓一体論」への転換です。
戦後の史論の中には、ロシアにそこまでの侵略的意図はなかったという論もあります。たしかにロシアの公式発言だけ引用すればそういう立論も可能でしょう。しかし、そういう作業は無意味です。ロシアの中央アジア侵略の歴史では、英国から咎(とが)められる度に永久占領の意図もなく、それ以上進む意図のないことを確約しつつ、結果はどんどん進撃して併合しています。
ロシアの意図は、普通の帝国主義的発想と、極東の地図を見ればわかる話です。
ロシアという国はよくよく因果な国で、西も東も大洋への出口が閉ざされています
。
ピョートルがやっとバルト海に出ても、その先にはデンマーク海峡があり、黒海北岸、東岸を制圧してもダーダネルス海峡があります。
東は千島、北海道から対馬に至る日本列島に出口を抑えられています。
ウラジオストクの出口を扼(やく)する朝鮮半島は絶対に日本に渡せない
、というのはツァー(ロシア皇帝)も含めてロシア側が陰に陽に洩(も)らしているところでした。
日本の心配はそれだけではなかったでしょう。もとより文書に残るような公式発言にはあり得ないことですが、口伝に残る当時の雰囲気では、
朝鮮を取られたら、次は北海道も対馬も取られる
と思っていました。たしかにロシアが朝鮮半島を完全に制圧すれば、その後は、いずれそれが正確な判断となったでしょう。
もちろんロシアは、英国が干渉してくることは十分覚悟していたでしょう。しかし、すでに日英同盟も結ばれ、日露戦争も始まった後で、ウィッテは英国に対して、対日講和条件として、満州、朝鮮の併合はもちろん、「日本は永久に戦闘力を失わねばならず、太平洋沿岸のロシアの優越は保障されねばならない」と探りを入れています。
強国ロシアの隣で無防備となるということは、問題の決着でなく、始まり
です。「太平洋沿岸のロシアの優越のため」必要な北海道、対馬などの運命は、ロシアの手に委(ゆだ)ねられるわけです。
この強大かつ危険なロシア
に勝つためには、極東がロシア中心部から遠く離れているというロシアの弱みをつくしかありません。
それは
完成間近で輸送能力も限られているシベリア鉄道
で遥かに送られてくるロシア軍が十分に増強される前にたたくことです。
事実、もし開戦が半年遅れていたら、日本の勝ち目はなかった
でしょう。
開戦時の小村外相の粒々の苦心が、早く交渉を打ち切って戦争に持ち込むことにあったのはこのためです。
(20)【日英同盟英国の思惑】 英国海軍の負担軽減が狙い
(産経新聞2002年4月24日掲載)
十九世紀の世界の覇権国英国は、そのほとんどの期間、「光輝ある孤立(スプレンディッド・アイソレイション)」を守ってきました。
その孤立を終わらせた最初の同盟国が、
非白人の弱小国日本
でした。
どうしてそんなことができたのか、これを英国の側からトラヴェリヤンの『英国史』は淡々と説明しています。
「トラファルガーの戦いから百年間英国に拮抗 (きっこう)する海軍を作った国はなく、ヨーロッパのバランス・オブ・パワーは英国の力を必要とせず維持されたが、二十世紀に入って、世界の軍事バランスは誰か確実な友人を必要とさせた。
米国が最も望ましいが、米国は孤立主義の国是があって不可能
であり、そこでロシアの太平洋岸への進出と中国分割を避けるために日本と同盟した。
それは太平洋に大海軍を配備する必要をなくした
……」
これをもう少し詳しく説明すると、英国はそれまで
世界のどの地域でも、英国一国の海軍力で他のすべての海軍力より優越
していました。それが光輝ある孤立の基礎条件です。
ところが、極東進出を目指すロシアが新鋭艦をどんどん極東に送るので、戦艦の数だけからいうと、英国四隻、ロシア五隻となってしまいました。
ロシア側にフランスの一隻が加わると全く劣勢です。
そこで、
臥薪嘗胆(がしんしょうたん)で営々と
戦艦五隻を買い揃えた日本
との同盟が解決策となった
わけです。
逆にここで、
日露協調を先に作られると、英国の覇権は極東では完全に失われる
ことになります。
日英同盟が英国の閣議で討議された時、ビーチ蔵相が「この条約の利益は、英国海軍の負担を軽減することにある」と言った通りです。
三国干渉の時に、大英帝国の防衛に貢献できない限り英国との同盟は無理だと言った陸奥の理論に伊藤が従ったのが臥薪嘗胆時代の大軍拡だと言いますが、それがまさに効果を表したのです。
戦時予算である明治二十八年の海軍費が千三百万円だったのが、平和になった二十九年には三倍の三千八百万円となり、翌三十年には、七千六百万円と、そのまた倍になっています。
大増税もしましたが、清国から取った賠償金の九割は直接間接に軍備に使っています。
清国が本来対日戦に使うべきだったお金を日本が使って、結果として、
ロシアの満州併呑、ひいては中国の分割
を防いだ
、ということになります。
外交の裏話としては、ドイツから日英独同盟の示唆があったのが契機となったのも事実ですが、大きな流れとしてロシアのアジアにおける膨張を抑えようという日英の国家戦略が噛(か)み合った結果でした。
問題は、むしろ日本側にありました。
英国の場合は、長い孤立政策の惰性を離れることに若干の心理的抵抗があったという程度ですが、日本の場合は
ロシアを仮想敵とする同盟を結んで、この恐るべき強大国とはっきり敵対関係に入るかどうかの問題
でした。
伊藤博文などの元老はとくに慎重論で日露協調
を主張しました。
これについて、桂太郎首相は「親露論はロシアに敵対することは不可能だという考えに基づくものであるが、それは
一時の平和論であってロシアは満州を取れば韓国にも手を出し、いずれは日本と衝突せざるを得ない。さもなくばロシアのいうがままに屈従するしかない
」と観察しています。
やはり、どうせ戦争せざるを得ないのなら、今するしかない、という小村の判断と同じです。
伊藤は日露協調を諦(あきら)めずロシアを訪問しますが、その留守に、小村は歴史的な文章である
小村意見書
を元老会議に提出して全員一致で合意させます。
意見書は、ロシアの侵略的意図を的確に分析し、他方大英帝国に同盟することの政治的、経済的、軍事的(とくに海軍力)の重要性をあますところなく説き、
幕末以来のアングロ・サクソンかスラブかの選択
に最終的な決着をつけます。
これはその後、大東亜戦争で中断されますが、
日本の親英米路線というオーソドクシーをはっきりと掲げた大論文
です。
日英同盟は一九〇二年一月署名され、二月にその内容が公表されます。
その頃ロシアは表向きは撤兵の代償ということを口実にして、満州を実質的にロシアの支配下におくさまざまな条約の締結を清国側に迫りますが、当時清廷はすでにロシアの脅威に目覚め、
ロシアの要求をその都度日本に通報し、小村はその度に助言してロシアの圧力に抵抗させています
。
そして、満州経済を露清銀行の支配下におく執拗(しつよう)な要求を清国が断固拒否した次の日、ロシアは日英同盟締結の通報を受けています。
小村外交の勝利です。
ここでロシアは一応無条件で満州撤兵を約束せざるを得なくなります。
しかし、ウィッテが「撤兵は実際上不可能であり、自分ももはやそれを勧告し得ない。撤兵をゼロに等しくするまで曖昧(あいまい)にする便法がロシアにとって有利である」と言っている通り、
約束を守らず奉天に居座り、かえって兵力を増強
します。
ここに至って、日露間に外交交渉による満州問題解決の余地はほとんどなくなってきました。
(21)【いよいよ日露開戦】 英米が資金と情報で援助
(産経新聞2002年4月25日掲載)
日本は、初めから独りで、ロシアに撤兵を要求しようとしたのではありません。
英、独などと共同でロシアに申し入れを試みたのですが、両国とも満州については、もう打つ手はないと諦(あきら)めて乗ってこないで、日本が腹を決めて単独でロシアに撤兵要求をしている状態でした。
米国は清国の領土保全を宣言していたのですが、満州については、結局頼りになりませんでした。
実は、その宣言をした国務長官のジョン・ヘイ自身、
たった二年前の宣言を守る気はありません
でした。
ヘイはセオドア・ルーズベルト大統領への書簡で、「われわれは、満州については、ロシアにいかなる反対の態度をもとっていない。逆に、北清におけるロシアの例外的な地位を認めている」と書き、
ロシア側に「
米国の経済活動の自由が満州で保障されさえすれば、米国政府は満州に関するロシアの行動を妨げぬ
であろう」と明言
しています。
それから三十年後の満州事変では、日本が作る既成事実は一切認めないという強硬態度を取ったのと大きな違いですが、
しょせんは、当時のロシア帝国と満州事変当時の日本との力の差
でしょう。
国際政治は畢竟(ひっきょう)は力の世界です。
ただ、ルーズベルト大統領は、「満州におけるロシアの行動に、私が怒っていることを、ロシアが知ることに私は何も異存はない」「満州問題では、私は国民が支持する極限までいきたい」と洩(も)らして終始日本に同情的でした。
しかし、その「極限」は明らかで、ヘイが判断していた通り、領土保全宣言の実行はとうてい上院の支持を得られない状況でした。
もう日本は単独でロシアの進出を阻止するしかありません。
一九〇三年秋にはシベリア鉄道は普通貨物の取り扱いを停止して軍事輸送に専念します。
軍事常識では戦争秒読みの段階です。
十一月には
木材伐採という名目でロシア兵が韓国の
竜岩浦
を占拠
します。
(
この歴史事実を、ソ連史専門とかの東大名誉教授和田何某は「あれは木材工場造るってやったんだ」とテレビで抜かしておられましたw
ま、同席していた秦郁彦日大教授に即反論されてぐぅの音も出せずに苦笑いで誤魔化したという恥曝し状況が全国に放送されたがw)
これに先立ち、小村は長文の意見書で、万難を排しても韓国はその一部でもロシアに譲らないということを御前会議で決めていますから、もうそれだけで開戦理由はあるわけです。
一九〇四年一月のヘイの日記は「ロシアは日本に何も譲歩しないと決意し、今や日本を粉砕する時期がきたと考えている」と記しています。
一月末にはそれまで慎重派だった伊藤博文が、自ら筆を取って「ロシアの侵略的意図は明らかであり、一時的妥協をしても、いずれ衝突は避け難く、力不足と考えて一時の小康を得るか、国運を賭(と)してロシアの侵略を阻止するかの二者択一しかない」と判断を下し、ついに小村などと共通の認識に達します。
それでも明治天皇は「もし失敗したら(国民と祖宗の霊に)申し訳ない」と繰り返され、最後まで決断をためらわれますが、
ロシア艦隊が旅順を出港
したとの報もあり、ついに二月五日に海軍発進令をご裁可になり、同日交渉の断絶を電訓し、
二月十日に宣戦の詔勅
が発せられます。
交渉断絶と同時に、小村は対英米工作のため、米国にはハーバードの一年後輩で同じ下宿に起居した
金子堅太郎
、英国には伊藤の女婿の
末松謙澄
を送り、政府、世論の啓発を命じます。
しかし、戦争前はロシアの満州侵略に手の打ちようがないと傍観していた英米は、日本が戦争の決意を固めると、自(おのずか)ら全面的に支持します。
何より貴重だったのは同盟国としての英国の援(たす)けでした。
条約の規定で日本がロシア一国と戦っている間は、英国は中立でしたが、
戦争以外のあらゆる方法で日本を支援してくれました
。
戦艦の建造には年月がかかるので、完成した戦艦を日露どちらが買い取るかは直接軍事バランスの帰趨(きすう)を決します。
英国の造船所で建造中の二戦艦をロシアが買おうとすると、英国は即金で英海軍用に買ってしまいます
。
イタリアで重巡二隻建造の情報をつかんだ英国は、日本にそれを知らせ、日本はロシアよりも一日早く手に入れます。
これが日進、春日です
。
完成は一月八日で、ロシアの地中海艦隊は開戦と同時に撃沈か拿捕(だほ)しようと追尾してきます。
そこへ
英艦アルフレッド号
が割って入って日本艦を護 (まも)ります。
そしてスエズ運河では、英国当局が日本艦を優先的にインド洋に送り出しました。
日進、春日の横須賀到着は、まさに戦争開始の時で、まるで凱旋(がいせん)将軍を迎えるような国民的歓迎を受けています。
英米の援助で、とくにありがたかったのは資金と
情報
の援助でした。
高橋是清
日銀副総裁が起債のため英国に派遣されましたが、大国ロシアに挑戦する日本債が容易に売れるはずもなく、はじめは苦労しました。
しかし、ロシアのユダヤ人弾圧に反発していたアメリカのユダヤ資本が協力してくれて、英米の市場がそれぞれ半分ずつ引き受けて起債しました。
情報については、日英同盟が成立すると英国は
日英軍事協議
を提案し、情報の交換にとくに力を入れました。
七つの海を支配している英国の情報が、それまで孤立していた小国日本にとって、どれだけ貴重だったか想像にあまりあります
。
日本は、お金と情報という戦争に不可欠でありながら、日本の一番弱いところを英米に補って貰(もら)いながら戦争したのです。
★★★★★
(22)【
黒木軍の猛進
】 ロシア軍撃破、世界が興奮
(産経新聞2002年4月26日掲載)
日露戦争でなにより大事なことは、一日毎に増えていくロシア軍が増える前に早く叩くこと。
そのためには、日本軍を少しでも早く満州に送り込むことでした。
従って最初の作戦は
朝鮮半島西側の補給路
を確保することにあり、開戦早々海軍は
仁川沖、旅順沖
のロシア艦隊を攻撃し、旅順港内に退避させます。
その次は、旅順湾口の狭い水路に老朽船を沈めて出口をふさぐ
旅順港閉塞作戦
です。
湾口を守る重砲火の中をくぐる危険な作戦ですが、必要人員の
百倍の志願
があり、中には血書した者もいました。
兵の愛国心がここまで高かったのです。
また、回が重なると当然経験者を重用しようとすることになりますが、
東郷平八郎連合艦隊司令長官
は「将校は良いが、兵は同じ人間が行ってはならない」と
厳命
します。
危険な任務にはエリートがつくべきだという
ノーブレス・オブリージュ
(高い身分に伴う義務)の精神です。
閉塞作戦自体は失敗しますが、ロシア艦隊は敢(あ)えて港外に待機している日本艦隊に戦いを挑まず引きこもってしまうので、日本側の軍事輸送は順調に進み、三月には
黒木為●(ためもと)の第一軍
を仁川に、五月には
奥保鞏(やすかた)の第二軍
を遼東半島に上陸させます。
※●=木へんに貞 【木貞】
鴨緑江
の北岸に陣を築いたロシア軍
は、日本軍の到着は五月中旬、兵力は二万と予想していましたが、四月中旬には早くも四万の黒木軍が到着し、五月一日に渡河作戦を始めます。
そして、有利な地形に據(よ)って守るロシア軍二万を激戦の末
わずか一日で撃破
します。
この勝利は、有色人種が近代兵器を用いて正面から白色人種を圧倒した最初の戦闘としてたちまち世界的反響
を呼びます。
ロンドン・タイムズは、日本軍の勇気、組織、指揮は賞讃の言葉もないと讃えました。
黒木の名は世界中に轟(とどろ)き
、メキシコで最大の鉱山を「黒木将軍鉱」と名付け、カナダでは新設駅に「黒木駅」、新設郵便局に「黒木郵便局」と名付けました。
クロキはクロスキーというポーランド系だという噂(うわさ)も流れ、
ロシアでは、クロキは混血でロシア人の血が流れているから優秀なのだ、と宣伝した
といいます。
黄色人種は劣等人種であり、白人並みの能力を持つはずがないというのが常識だった時代
です
。
満州に侵入するが早いか、黒木軍は、鳳凰(ほうおう)城、摩天嶺(まてんれい)と、まだ大本営が作戦を予定していない要衝を次々に占領します。
この速い動きは時間と競争のこの戦争で、敵の準備不足を衝(つ)く絶大な効果がありました。
でも遼陽(りょうよう)の前の
弓張嶺
には、
一万七千
の露軍が堅陣を布いていて、これを突破しないと
遼陽の大会戦
に間に合いません。
ところが、大本営からは砲弾の補給は当分見込みなしといわれます。
砲弾なしの攻城となると、夜陰にまぎれて敵の至近距離に迫って
白兵戦
をするしかありませんが、小人数ならともかく、
師団規模の夜襲
など暗闇で兵の指揮も困難で、個々人の義務感と勇気に期待せねばならず、世界の戦史でも例のないことでした。
黒木軍は各将校毎に分担を決め、
夜毎に持ち場に潜入して地形を覚え
込ませました。
攻撃の晩は群がる蚊を叩くのも控えつつ
一万二千の大軍
が粛々と敵の守る山頂を目指しました。
戦闘は
(真夜中の)三時半
に始まり、死闘の末、午前十一時半には山頂に日章旗を掲げました。
世界戦史に残る
弓張嶺の大夜襲
です。
黒木軍に従軍した英国のハミルトン中将
は、日本軍は
「
赤子(あかご)のように純粋でライオンのように勇敢で、祖先と天皇に対する義務を果たすことだけを考えている
」
「十回でも賞讃したい」
と言っています。そして
「
戦う国家以外から偉大な芸術が誕生したことは一度もない
。私が戦争が芸術の基礎だというのは、それが
人類の徳と魅力の基礎
だという意味である」という英国の芸術批評家ジョン・ラスキンの言葉を引用しながら、「良い鉄は釘にしない。良い人は兵隊にならない」と考える中国が、今どういう状態になっているかと考え、日本が武士を中心とした精緻(せいち)な文化を築き上げたことに注目して、
日本の文武の道の教育
に感嘆しています。
そして「英国の女性は日本の女性の十分の一も民族の伝統精神を子供に伝えていない」と祖国英国の将来を憂(うれ)いています。
戦後の日本の教育が、占領時代に制定された教育基本法以来、伝統精神を意図的に排除していますが、
かつては日本はこういう国だったのです
。
日露戦争で発露した日本人の愛国心をみて、自らの国を憂いたのは、英国人だけではありません。
「秋風秋雨人を愁殺す」の句で有名な秋▲女史は、
出征兵士を送る小旗を振る子供達の可愛らしさ
をみて「私はうらやましさのあまり死にたくなった」とまで言い、また同じく
日本の女子教育を讃歎(さんたん)
しています。
※▲=僅のにんべんを王へんに
そして
日本人がこんなにも団結して
軍人を大事にする
からこそ、軍人は生命を捨てて戦争に赴くのだ
と、兵隊が蔑視されている中国を歎(なげ)いています。
これもまた
人民解放軍に属することが誇りであり特権となった革命後の中国
を思うと今昔の感があります。
(
えぇ~っと、どういう意味の「特権」に成り果てたかは、...w
)
★★★★★
(23)【遼陽、旅順の戦い】
死闘の連続も涸れぬ愛国心
(産経新聞2002年4月27日掲載)
戦闘はすべて血みどろの戦いでした。
両軍の兵士とも、国と自らの名誉のために死を賭(と)して戦うのが
時代の精神
でした。
遼陽(りょうよう)の大会戦は、二十二万五千の露軍に対する十三万四千の日本軍の攻撃
で始まります。
(
露 225,000 VS 日 134,000 差引 91,000 人の軍隊の数的格差w
)
数からいって無謀な戦いのようですが、敵の数は時間と共に増えるのですから、日本側としては早期決戦以外に
選択の余地はありません
。
しかし、正面攻撃はことごとく失敗し、日本軍は次第に敵に押される形勢となりました。
軍神
橘中佐
の奮死
もこの時です。
この難局を救ったのは、再び東の方から駆けつけた黒木の第一軍でした。
黒木は敵の裏をかいて素早く
太子河
を渡り、要衝
饅頭山(まんじゆうざん)
に向かいます。
黒木渡河の報を聞いたロシア軍は、饅頭山の死守を命じると同時に主力を東に転じたので、これで正面の日本軍は救われます。
ロシアの大軍が麓(ふもと)に着いた時は、またも黒木は一足早く饅頭山を占領しています。
これに対するロシア軍の
砲撃
は凄(すさ)まじく、ハミルトン中将は「饅頭山は平らに崩され、
弓張嶺の勇士達
は全員生き埋めになるかと思われた」と書いています。
その後は山頂を取りつ取られつの
肉弾戦
の繰り返しで、日本に再び取り返された時に、ロシア側は黒木の戦いぶりをみて大事をとって撤退します。
もし東部正面で敗れると、補給路が遮断される恐れがあったからですが、もともとロシア側の大戦略は
遅滞作戦
です。
敵に損耗を強(し)いながらチチハルまで引き寄せて殲滅(せんめつ)すれば良いという考えが基本にありますから、危ないことはする必要はないわけです。
日本側としては、負けたら後がない、薄氷を踏む勝利
でした。
日本軍の損害二万三千、撤退していく露軍を追う力はもう日本側には残っていませんでした。
仙台の第二師団
がガダルカナルで壊滅するまで、日本最強師団と言われるのは、この日露戦争と後の満州事変の勇戦のためです。
旅順の戦い
こそ最も悲痛なドラマでした。
(
映画「203高地」が描いた世界
)
日本国中が一喜一憂して見守る中で、
百三十昼夜の肉弾攻撃
が行われ、
死者だけで一万五千
、全部で六万の犠牲者を出した戦闘です。
あまりの悲惨さに与謝野晶子が、戦陣の弟に向かって『君死にたまふことなかれ』と呼びかけたのもこの時です。
当時の文学界でも、非愛国的という批判はありましたが、晶子に対する社会的迫害はありませんでした。
軍国主義時代や、すぐマスコミの非難にさらされる現代の日本に較べて、
いかに明治の日本が溌剌(はつらつ)としていたか驚くに価(あたい)します
。
他方
百三十日の死闘
を戦い抜くということは、前線の将兵や国民一般の間で最後まで愛国精神の泉が涸(か)れることなしにとうていできることではありません。
情理兼ね備う、という言葉があります。
「一(ひ)と足ふみて夫(つま)思ひ、ふた足国を思へども、三足ふたたび夫思ふ、女心に咎(とが)ありや」と歌った大塚楠緒子の詩こそ、情理二つながらに言い尽くしています。
与謝野晶子は、その後大正、昭和を通じて、その名を聞くだけですべての日本の男性が憧(あこが)れを持つような女性であり続けました。
そして大東亜戦争に際しては「水軍の大尉となりてわが四郎み軍(いくさ)に往く猛(たけ)く戦え」と歌って我が子を戦場に送っています。
硬直した社会の規範やイデオロギーなどに捉(と)らわれず、最後まで自分の心の赴くままに歌ったひとです。
苦戦の原因は日本側の戦略戦術の拙劣さより、むしろ
名将コンドラチェンコが築いた堅城と彼の指揮下の水も洩(も)らさぬ防備
にあったと言えましょう。
現に彼の死後、防禦(ぼうぎょ)側の士気は衰えたといいます。
名歌『水師営の会見』の中で、乃木、ステッセルの両将軍が「我は讃(たた)えつかの防備 かれは讃えつ我が武勇」と歌っている通りでした。
通常の方法で何度攻撃しても堅塁は破れず、そのうちにバルチック艦隊が刻々近づいてくるので、攻撃目標を
二〇三高地
に変え、
七昼夜の言語を絶する死闘
でこれを制し、山頂からの砲撃で眼下の艦隊を沈めて、連合艦隊にバルチック艦隊迎撃の準備の余裕を与えたのが戦闘の概略です。
乃木希典
は明治天皇崩御の時、見事に古来の作法通り割腹殉死して以来、
戦前日本の神、偶像
になります。
戦後はその反動で、乃木は妻に自決を強要したという偶像破壊的(アイコノクラステイツク)な説まで流れますが、乃木は自決後の夫人の身のふり方にまで配慮していたことは乃木の遺書に明らかで、夫人が慣れない手で自ら乃木の後を追ったことは疑いを容(い)れる余地はありません。
乃木の人格の高潔さは、生前からあらゆる証言が一致しています。
戦場では兵士と全く同じ生活をして、満州の厳冬に、他の部屋で暖房を焚(た)くのは許しても、自分の部屋では決して焚かせなかったと言います。
長男は南山で戦死し、二男は司令部勤務をさせようという幕僚の配慮も斥(しりぞ)けて、二〇三高地の戦いで戦死させます。
当時の市井(しせい)の庶民達は歌っています。
一人息子を と泣いてはすまぬ
二人なくした方もある
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