鍋・フライパンあれこれ美味
100万ポイント山分け!1日5回検索で1ポイントもらえる
>>
人気記事ランキング
ブログを作成
楽天市場
000000
HOME
|
DIARY
|
PROFILE
【フォローする】
【ログイン】
憂国愚痴φ(..)メモ by 昔仕事中毒今閑おやぢ in DALIAN
「百年の遺産~日本近代外交史」(7)
(46)【2.26事件の発生】 歯止めない軍国主義化への道
(産経新聞2002年5月25日掲載)
二十世紀を生きてきた日本人に何が最も強烈な記憶かと聞くと、二・二六事件と答えた人が多数でした。
その間、真珠湾攻撃もあり、原爆の投下も、米軍の占領もあったのですが、それは日本人全部が共通の立場で直面した危機でした。
日本人が自分達の住んでいる社会自体が足元から崩れる予兆に脅(おび)えたのは、同じ春の雪の日、桜田門で井伊大老が暗殺されて以来のことだったからでしょう。
昭和11(1936)年二月二十六日、
第一師団の歩兵第一、第三連隊を中心とする青年将校、兵約千五百名
が、
昭和維新
を呼号して首相官邸、警視庁などを占拠し、重臣達を襲撃するという
日本近代史に空前絶後のクーデター
を敢行します。
≪日本の
革新思想
とは≫
昭和維新の思想的背景である革新思想とは何だったのでしょうか。
二・二六事件のイデオローグとなり、死刑に処せられた
北一輝
などの思想を、それが打破したいと思っている対象に沿って整理分類してみると次の通りです。
まず第一は、白人帝国主義に対するアジア主義です。
アジア主義は近衛文麿の父で、公家の俊秀として西園寺公望と並び称されながら早く逝った
篤麿
、犬養毅などの伝統があります。
「現状即ち正義ではない。英国がインド人を犬馬の如く扱い、豪州がアジア人を締め出し、レーニンがシベリアを独占するのも正義ではない」として、「無産階級が流血に訴えても不正義なる現状を打破するならば、日本が戦争に訴えても国際的不正義を匡(ただ)すこともまた是認さるべきだ」と、北は、その「日本改造法案大綱」で論じています。
これが近衛文麿の「英米本位」の世界平和秩序反対、「持てる国」に対する「持たざる国」の抵抗の正当化にそのままつながります。
第二は、
社会主義の影響を色濃く受けた
平等主義
で、特権階級の廃止などを主張します。
また、自由主義経済下の資本の搾取に対するものとしての統制経済を主張しました。
満州に革新の社会を夢見た軍は、当初は資本家の満州開発参加を拒もうという未熟な発想もします。
いずれにしても満州は
計画経済
の下に置かれ、やがて日本でも、東条英機などの「統制派」は、
岸信介
、
和田博雄
などの
革新官僚
と組んで、革新中央集権体制の具体的構想を持つに至ります。
第三は、議会民主主義に対するものとして、革新派の専制体制であり、これを求めたのが昭和維新です。
しかし、結局日本の場合は、
戦時中はどの国でも多かれ少なかれとる
挙国一致体制
の一種としての翼賛体制
まではいきましたが、最後まで議会は存在しました。
(
「翼賛体制」とは、
戦時体制
の日本名であること
戦時中の議会でも、明治の自由民権、大正デモクラシーの伝統を継ぐ政治家が、敢然と発言している例は多々あり、
日本が独伊と同じ意味でファシスト体制だったというのには無理がある状態
でした
。
(
「日本ファシズム論」の大嘘。分析すればするほど収拾がつかなくなって最後は「沈黙した」丸山真男w
)
冷戦後の世代の人達には、もはや理解できないかもしれませんが、冷戦時はファシズムと言えば悪の権化、社会主義と言えば人類の未来の理想のように言われたものです。
それは一つには、第二次大戦で
米英がソ連と同盟し、独伊と戦った後遺症
です。
もう一つは戦後日本とドイツの軍事的弱体化が最大の戦略目標だった
共産国のプロパガンダ
の下で、日本の左翼が
ソ連、中国の社会主義体制を称揚し、日本の再軍備をファシズム化と呼んだ
からです。
しかし、冷戦も遠い過去になりつつある現在、むしろ、その前の時代の
吉野作造のいう、民主主義に対するものは「
旧式の専制的善政主義への復帰論
であり、(それはすなわち)イタリーのムッソリーニ独裁、ソ連のプロレタリア独裁である」という整理の方が的確
でしょう。
古来、人民の欲するのは良い政治ですが、権力をなるべく広く分散すれば、自(おのずか)ら良い政治になるという考え方は、そう簡単に人々の腑(ふ)に落ちるものではありません。
民主主義に失望した時に出てくる代替案は、真に国のため、あるいは人民のためを思う
優れた指導者による善政の待望
となるわけで、その点、左も右も変わりません。
≪革新的な政治を期待≫
昭和維新の
青臭いイデオロギーによる二・二六のクーデター
は失敗しました。
しかし、もう民心は政党政治を離れ、何らかの革新政治を期待していることは明らかでした。
とくに軍内部では、反乱に対する同情が圧倒的に強く、二・二六当初の陸軍大臣の告示は、その行動を国家を思う至情に基づくものと認め、その趣旨は天皇にも伝えられた、とむしろ反乱に呼応するようなものでした。
もしあの時に、「朕(ちん)自(みずか)ら近衛師団を率いてこれが鎮定に当たらん」という昭和天皇の強いご意思がなければ、おそらく形式的な処分があっただけで、反乱軍の思想に沿った政府ができていたでしょう。
現に二・二六事件直後成立した
広田弘毅
内閣に対し、陸軍は、自由思想を排すること、人事については自由主義的傾向を有する者の排除を陸相就任の条件とし、組閣後は
軍部大臣現役制の復活
を要求して通しています。
(
そしてそれを何の抵抗もなく認めた広田弘毅の評価は、頗る低い。特に渡部昇一先生w
)
まるで、二・二六のクーデターに成功したと同じような結果になっています
。
もう軍国主義化の潮流は歯止めのない状態になっていました。
(47)【迫る戦雲 昭和10、11年】 戦略家蒋介石の千慮の一失
(産経新聞2002年5月27日掲載)
当時日支関係が外交面で小康状態だった理由の一つは、蒋介石は剿共(そうきょう)に集中し、対日関係は
行政院長の汪兆銘
に委(ゆだ)ねられていたからでもあります。
汪兆銘は、日露戦争時代の日本の情熱にうたれて親日派となったアジア人世代の一人です。
汪兆銘の父は陽明学を好み、汪兆銘が十四歳の時に死ぬまで、毎晩伝習録(王陽明の語録)を朗読させる日課を怠らなかったといいます。
汪は明治三十七(一九〇四)年留学生として来日しますが、それはまさに、日露戦争の真っ最中でした。
後年汪は、当時「中国国民のこぞって願ったのは、日本の勝利だった。今日の現状をみて中日両国はとうてい心から相和することはできないという説をなすものがあると、私はその度に、
昔東京で過ごした日露戦争当時のことを想い起こす
」と記しています。
そして汪は、西郷隆盛と勝海舟に深く私淑し、当時康有為(こうゆうい)などの穏健派が革命による中国国内の分裂を危惧(きぐ)したのに対して、西郷、勝のことを考えれば、そう心配はない、と信じていたといいます。
≪汪が信じた東洋思想≫
優れた人間同士が理解し、信頼し合えば、いかなる困難も克服できるという東洋思想を最後まで捨てなかった人です。
しかし、
帝国主義日本を憎悪の目でしかみない澎湃(ほうはい)たる
中国のナショナリズム(?...は、あったのか?)
、目的のために手段を選ばない共産主義イデオロギー
、単純な拡張主義を信奉する日本軍人の独断専行の前には、汪兆銘の夢見た東洋的理解は行われるべくもありませんでした。それが汪の悲劇でした。
昭和十(一九三五)年十一月に、汪は抗日派に狙撃されます。
生死を見ること昼夜を見る如し、という王陽明の教えのまま、かねて覚悟のある汪は、逃げもせず従容(しょうよう)として三弾を受けましたが、そばで見るに見かねた
何応欽
(かおうきん)が汪を突き飛ばして一命を救いました。
しかし、重傷を負い、昭和十一年の危機の時期に日支関係は汪を欠くことになります。
蒋介石は戦略家です。昭和九年の論説では、日本軍は強大で、今中国軍が起(た)つことは自殺行為だ、しかし、日本は米国、ソ連を相手にいずれは負ける大戦争を起こすから、その時こそ中国にとって最善の機会だ、と先の先まで見通しています。それは今は戦うなということです。
そして、日本に向かっては、中国は辛亥革命以来ナショナリズムの国家となったのであり、四十年前に台湾を失っても何も感じなかった国とは異なる国と認識してほしい、また、革命期の国家は、指導者や民衆がいるかぎり、たとえ首都を征服されても、それは二義的な問題に過ぎず、戦い続けるから解決にならない、と正確に警告しています。
そして同時に「二十一カ条以来の対日悪感情」というが、中国には百世不変の仇恨(きゅうこん)などというものはない、今日本がやっていること、つまり
北支工作
が中国の感情と尊厳を傷つけているのだ、と日本が考え直して中日友好を築くことを切々と説いています。
たしかに、当時の軍の北支工作のやり方をみていると、それがいかに中国にとって屈辱的なものか、汪兆銘など親日家にとって挫折感を抱かせるものか、そして共産党剿滅を優先したい蒋にとって障害となったか、同情の念と、そして孫文、蒋介石と、相次いで日本の理解を期待した人々の言に耳を傾けなかったことへの悔恨を禁じ得ません。
昭和十一年春、陝西省延安に逃避していた中共軍は、山西省に進出しますが、迎え撃った国府軍に痛撃され、その後方針を転換して、抗日統一戦線の結成を呼びかけます。
蒋はもとより、これは「
抗日全面戦争を引き起こさせ、その背後で軍備増強して、機を見て政府を乗っ取り、全中国を支配する企図
」と読み切っていますから、剿共の手を緩めません。
しかし、
満州を逐(お)われてきた張学良の軍
は、満州望郷の念が強く、共産側の抗日の宣伝工作に脆弱(ぜいじゃく)でした。
張学良に戦意がないのを心配した蒋介石は、自ら張と話し合うため、張の根拠地だった西安に乗り込みますが、逆に早朝、宿舎を張の部下に襲われて軟禁され、学国統一戦線結成の圧力を受けます。
戦略家蒋の千慮の一失でした。
≪
主導権は共産党へ
≫
ここで主導権は共産党に移ります。
中国共産党から相談を受けた
スターリンは、
毛沢東の「殺蒋抗日」に反対し、
連蒋抗日政策
と蒋介石の釈放
を指令
します。
これは資本主義国と社会主義国との戦争は、いずれ不可避と認めつつ、なるべく長く資本主義国同士、つまりここでは、国民党と日本を戦わせ、お互いが疲弊するのを待つという、スターリンとコミンテルンの一貫した基本戦略です。
共産党の戦略などは、複雑なようで実は単純明快なものです。
蒋の釈放に、いかなる条件がついたかはいまだに歴史の秘密です。
ただ、その後共産党は、あたかも国共合作が既成事実のように行動し、国民党側にはもう剿共を継続する気分は失われました。
そして、
昭和12(1937)年3月1日
、国民党と共産党の間に、内戦の停止と抗日のための一致協力が合意されます。
盧溝橋事件を四カ月後に控えて、共通の敵は日本に絞られたのです。
(48)【盧溝橋事件以降】 不拡大方針阻む相次ぐ事件
(産経新聞2002年5月28日掲載)
★ 支那事変
の発端である
昭和12(1937)年7月7日の盧溝橋事件
は、戦略的にも戦術的にも、
すべて中国側によって起こされたものです
。
(
もう言い切っておられますw
)
それは、日清戦争が、日本側が欲した戦争であり、日本側から先に発砲した戦闘で始まったのと、ちょうど逆のケースです。
こういうと司馬遼太郎史観などの影響で、日清、日露戦争までの日本は善、満州事変以降の日本は悪、と思っておられる方には違和感がありましょう。
もともと歴史に善悪是非を持ち込むべきではない
のですが、敢(あ)えて日本を悪としたいならば、その前の北支工作が中国側の忍耐の限度を超えていたから、というのならば、それなりに正確な史観です。
何も最初の発砲まで、いずれが射(う)ったか不明と、中国を庇(かば)う必要はありません。
むしろ、
現在の中国共産党政権としては、盧溝橋事件は日本を見通しのない戦争に引きずり込み、国民党軍を矢面に立たせて消耗させ、中国共産党勝利に道を拓(ひら)いた戦略的大成功
なのですから、誇りこそすれ恥じるところはないはずです。
あるいは、
そんなことは百も知りながら、日本側が意図的に
侵略
を開始したと言って、現在の日中外交関係で、日本側に負い目を作らせようという発想
ならば、この問題はまだ歴史として語るに早過ぎるということです。
(
「侵略」aggression とは、先制攻撃 first strike
支那事変勃発(ぼっぱつ)の経緯を巨視的に見るために、当時の日本で最も公正、あるいはむしろ、中国に同情的な観察者である石橋湛山の事変直後の論説を引用します。
「支那の抗日強硬論者は、この一戦によって日本を叩きつけ、日本の勢力を
北支、満州から駆逐し得ると考えているかもしれぬ。近年の支那の軍備の
素晴らしき充実と全国に沸き立つ抗日気運には、このような希望を抱かせ
るに十分であったかに見える。しかし、これは多くの公平なる、ことに支
那に同情をもつ外国の観察者がいずれも深く憂うるごとく、支那にとって
危険この上なき自惚(うぬぼれ)である」
≪変わってきた中国≫
盧溝橋事件の前年、昭和11(1936)年頃から中国の雰囲気は、たしかに変わってきました。
もう日本と一戦交えてもいいという雰囲気が瀰漫(びまん)し、それを背景に、日本の水兵、船員、在留邦人に対する殺害事件が相次ぎ、八月の
成都事件
では新聞記者二名を含む三人が群衆に殴打殺害されます。
事件処理の日本側の要求も強硬となり、蒋介石秘録は、十月にはすでに戦争を予感し、日本が中国を屈服させようというならば、「こちらは、戦いをもって、屈服せざるところを示し、これを打破する」と、西安事件を待たずして、すでにここまでの決意を抱いています。
それまでの張作霖爆殺、満州事変、第一次上海事変、各種の北支工作等の発端となった事件は、敗戦まではシナ側の挑発による事件と言っていましたが、敗戦後、ことごとく日本軍が仕組んだ事件だったことが白日の下に曝(さら)されています。
ところが、盧溝橋事件を含む昭和十一(1936)、十二(1937)年の諸事件には、日本側の秘密工作の気配もなく、東京裁判もこの点は何も問題にしていません
。
中国国民の感情の爆発か、共産党系の戦略によるものか、いずれにしても全部中国側からの挑発です。
日本軍の規律、過去における工作の手口からみて、盧溝橋で日本側から発砲した可能性は皆無と言えます。
そして、事件発生後、日本側は政府も軍も不拡大方針を明らかにし、現地でも停戦協定ができますが、その実施を次々に妨害し、戦争拡大を不可避にしたのは、満州事変の時とちょうど逆に、ことごとく中国側です。
昭和11(1936)年7月26日には、
広安門事件
があります。
それは日本軍が北京城内に還ろうとして広安門を通過中、中国側が通過半ばで門を閉じて、城外に残された部隊に銃撃を加えた事件で、これでは
戦争にならない方がおかしい
事件です。
そして昭和11(1936)6月9日には、上海で大山中尉が保安隊の一斉射撃で殺されます。
上海に飛び火すると、現地の戦力比からいって、在外邦人の生命が危険に曝されるので、その場合、陸軍二個師団派兵が陸海軍の間で決まっていました。
しかし、それは上海周辺の強力な中国軍の力を考えれば、全面戦争を意味します。
これを要求しなければならなかった米内光政海相は、その苦衷を緒方竹虎に洩(も)らしています。
≪衝撃走った通州事件≫
上海事件
(
大山大尉惨殺事件
)のもう一つの深刻な問題は、それが
本来日本の居留民を守るのが目的の保安隊の反乱
だったということであり、もう日本人の安全を保障するものがなくなったということです。
それより前の
昭和11(1936)7月29日の
通州事件
こそ在留邦人を恐怖のどん底に突き落とすものでした。
通州は長城以南では、日本支配が最も安定した地域
として多数の日本人が安心して暮らしていました。
ところが、
日本軍隊が盧溝橋事件で町を離れた留守に、三千人の中国保安隊が反乱
しました。
日本人の死者二百名、とくに現場に遺棄された女性の死体に残る意図的な凌辱(りょうじょく)のあとは、目を蔽(おお)わしめるものがありました。
これでは、全中国の在留邦人が皆殺しにされるか、多年の事業を全部投げ捨てて日本に帰るか、あるいは戦争か、それ以外の選択肢はない状態となってしまいました
。
(49)【近衛、広田の無為】 ドイツの仲介も一夜で反故に
(産経新聞2002年5月29日掲載)
昭和10(1935)年から昭和12(1937)年に至る極東の危機の時期、日本の政治と外交は何をしていたのでしょうか。
厳しく言えば、何もしていません。新聞と世論の大勢、それに乗った軍の突き上げの流れのままに漂っただけでした。
昭和9(1934)年にできた岡田啓介内閣の外相をつとめた広田弘毅が二・二六事件以降昭和12(1937)年一月まで総理となり、また昭和12年6月の近衛文麿内閣の外相となり、この間の外交を担当します。
広田は外相の時は、和協外交を標榜(ひょうぼう)しますが、さしたる具体策もなく、軍の北支工作はなすがままにまかせ、外相の時も首相の時も、これを追認し、推進する方針を決定しています。
≪破局への道を加速≫
また
首相になって早々
軍部大臣現役制
の復活を認め、また陸軍が独走して作った日独防共協定を、「国民の孤立感を緩和する」ため、薄墨色程度のものなら良いという意見を受け入れ、将来の枢軸同盟への道を開きます
。
広田内閣の後、西園寺は軍を統制する切り札として、宇垣一成を指名しますが、陸軍の反対で実現しません。
その時、
杉山元
教育総監は、宇垣に「これと申す確たる理由はないが、なにぶん軍の一部の連中が騒いで取り鎮めに困るから、大命を拝辞して欲しい」と言っています。
これが当時の雰囲気を象徴するものでしょう。誰も確たる政策も信念もなく、軍の若手の突き上げに抵抗しなくなっているのです。
近衛文麿となると、大勢順応どころか「軍人に先手を打つ」ことにより主導権を回復しようとして、軍より先走りして積極論を唱え、破局に向かってスピードを速めます。
昭和史を振り返って、大日本帝国を破滅させた責任者は誰かと言えば、自決、刑死した人の死屍(しし)に鞭打つことになりますが、
広田、近衛
、それから後に陸相、参謀総長となる
杉山
と、いずれも大事な節目に指導力を発揮せず、大勢順応した不作為の罪を責められるべき、この三人と断じていい
のではないでしょうか。
(
岡崎説「昭和の三悪人=
広田弘毅・近衛文麿・杉山元
」
)
それはまた、この三人にとどまらず、昭和前期の人々の通弊でもありました。
米内光政、宇垣一成のような骨のある人が、あまりにも少なかったのが悔やまれます。
此人等妥協を旨と心得て、風を避けつつ、濤(なみ)に押されて
此人等信念もなく理想なし、唯熱に附するの徒輩(とはい)のみ
此人等国を指導せしかと思ふ時、型(人間の幅、深み)の小さきに驚き果てぬ
狷介不羈(けんかいふき)の
東郷茂徳が獄中の仲間を痛罵(つうば)した歌
です。
事態の流れを食い止めようと、政府部内で頑張ったのは、外務省の
石射猪太郎
東亜局長と
石原莞爾
参謀本部作戦部長でした。
石射は、満州事変不拡大のための策を広田に進言し、現に広田さえしっかりしていれば、それが成功するところまで根回しするのですが、広田は閣議で妥協し、石射は辞表を出して抵抗します。
石原は、戦略家であると同時に稀にみる思想家でもあります。一旦(いったん)五族協和の満州国建設という思想体系を作った以上それは一貫させます。そのためには、漢民族に対し、優位でなく平等の相互尊重関係が基本であり、華北の主権が中華民国にあることを認め、華北特殊地域なる概念を清算すべしと主張しました。
折から、七月三十日に天皇より近衛に「このあたりで外交交渉を」というお言葉もあり、石射と石原が協力して和平案を作ります。
要は中国側が今後満州国を問題としないという黙約の下に、華北の諸協定は廃止し、その代わり中国側は反日運動を取り締まるという案です。
十月の
駐華ドイツ大使トラウトマンによる和平仲介
の際の日本案は、これに内蒙古の自治等若干の要求が追加されただけで、ほぼ同じ線でした。
これをトラウトマンが蒋介石に伝えたところ、
白崇禧
は、「これだけの条件とすると、何のために戦争をしているのか」と言い、他の列席者もこの提案を支持したといいます。
≪態度変えた杉山陸相≫
ところが十二月七日、この条件で交渉していいか、とトラウトマンがもう一度確認を求めた際、外、陸、海三相会議は確認しますが、翌朝杉山陸相が、この仲介は断ることにした、総理も同意している、と言います。
石原がすでに満州に転任させられている陸軍内における強硬派の部下の突き上げで
一夜にして約束を反故(ほご)にした
のです。
石射は、何とか復活をはかって、閣議に上げるところまで持っていきますが、閣議では、華北の諸協定は存続し、華北は特殊地域として行政権は国民党政府に返還せず、しかも戦費の賠償まで要求するという条件が付加されます。
つまり和平はしないということです。
しかも、その間、
原案を支持したのは海軍だけで、近衛首相も広田外相も、一言も発言していません
。
これだけの重要な内容に二人とも何の意見も見識もないのは驚くべきことです。
会議から出た傷心の石射の目に映ったのは、南京陥落を祝う提灯行列でした。
(50)【南京事件と日本軍】 宣伝用の誇大な被害者の数字
(産経新聞2002年5月30日掲載)
支那事変勃発(ぼっぱつ)に際しては、中国側も自ら恃(たの)むところはあったようです。
事実、中国軍と対峙(たいじ)した当初、日本軍は満州事変の時と、まるで別の国の軍隊のような士気の高さを感じたといいます。
しかし、いざ戦いとなると、全く問題になりませんでした。
日清、日露以来築き上げてきた日本の軍隊は、おそらく古今東西の歴史でも最強の部類に属する軍隊でした。
日本軍の一個大隊は、中国の一個師団に相当しました。
日本軍は朝(あした)に一塞(さい)を抜き、夕(ゆうべ)に一城を陥(おと)し、国民は熱狂しました。
戦後の史観では、こうした雰囲気を忘れようとするか、あるいは罪の意識で語ろうとします。
しかし、自分の国の軍隊が勝って嬉しいのは、オリンピックで日本人の選手が勝てば、日本人は誰しも嬉しいのと同じ、人類本然(ほんねん)の姿です。
ただ、国民がここまで熱狂すると、事変不拡大のような冷静な議論は、よほど戦略的な洞察力を持つ指導者が明確な指導力を発揮しない限り、かき消されてしまいます。
逆に近衛文麿は、軍に先手を打って国民の歓心を買うことにより、主導権を握ろうという持論にしたがって、九月には日比谷公会堂で「正義人道のため、東洋百年の大計のために、彼に一大鉄槌(てっつい)を加える必要に迫られるに至った」と大獅子吼(ししく)し、国民の喝采を得ました。
こうなると、事変不拡大の石原莞爾の声も通らず、参謀本部の
堀場一雄が提唱した「按兵不動論」、つまり敵の首都南京の前で、一旦(いったん)兵を止めて交渉に入るという案
も通らず、出先の軍は一番乗りを競って南京を攻略してしまいます。
かつてビスマルクはウィーン陥落を目前にして兵を止め、寛大な講和を結び、その後半世紀のドイツの安全と繁栄の背後を固める普墺同盟を作ります。
日本の参謀本部の中にさえ、同様の戦略論があったのに、近衛首相、広田弘毅外相、杉山元陸相が、これに一顧だに与えず、また同じ時期に石射猪太郎、石原の用意した和平案を葬り去ったのは、痛恨を通り越して、呆(あき)れ果てたとしか言いようがありません。
≪南京事件を検証する≫
ここでいわゆる南京事件が起こります。
南京事件はいまだにそれが実在したか否かさえ論争が続いています。
それは、南京事件を取り上げた東京裁判があまりにも、一方的な杜撰(ずさん)な裁判であり、平和時の有能な弁護士から見れば、すべて証拠不十分で却下するのが当然のようなケースだからです。
ただ、通常の占領で起きる以上の規模の越軌が行われたことは認めざるを得ません。
堀場は「一部不軍紀の状態を現出し、南京攻略の結果は十年の恨みを買い、日本軍の威信を傷つけたり」と書き、石射は「掠奪(りゃくだつ)、強姦(ごうかん)目もあてられぬ惨状とある。嗚呼(ああ)これが皇軍か」と日記に記し、事件後松井石根将軍は、「お前達は何ということをしてくれたのか」と嘆(なげ) いたといいます。
どれも
本人が、その場で見たわけではないので、裁判次元では伝聞に過ぎません
が、これだけ立派な人々の証言を無視して歴史は書けません
。
他方、被害者が二、三十万というような数字は、問題外で荒唐無稽(こうとうむけい)
です。
そんなことは、当時の国共両軍が戦闘の際の相手の虐殺の数と、その残忍さを誇大に報じ合っているのをみれば、宣伝上の数字であることは常識でわかります。
そんなものを真実のように取り上げた東京裁判の程度の低さを実証する何よりの証拠です。
実態は今となっては不明ですが、通常の占領より犠牲者の数が多かった一つの理由は、戦時国際法違反の便衣隊と疑われた人の処刑があり、もう一つには、これも明らかな戦時国際法違反ですが、どこの戦場でもその場の状況で間々(まま)あることとして「捕虜を取らない」ということがあったようです。
いずれも中国側の当局が逃亡して、占領を受け容れる者がいない事態から生じた混乱の結果ですが、数字は少なくとも一桁(けた)違いましょう。
その他、
いくら無礼講、越軌があっても、暴行など個人の犯罪的行為の民間人犠牲者が千単位を越したとはとうてい考えられません
。
≪蛮行ばかりは誤り≫
たしかに
南京事件
は、規模は東京裁判の判断より遥かに小さくても、実在しました。
ただ、
戦後の史観が伝えるように日本軍が全中国で、暴虐、凌辱(りょうじょく)のかぎりを尽くしたというのは誤り
です。
真っ先に占領した北京では、日本軍は寸毫(すんごう)も侵さず、三十六年前の北清事変の白人兵の蛮行を覚えている古老達から、日本軍司令官の銅像建立の議が上ったといいます。
南京の次の
漢口
では、
岡村寧次
司令官は、南京事件を繰り返すなと厳命して、暴行事件は皆無です。
岡村はその後、
焼くな、殺すな、犯すなの三戒
を徹底させ、その後占領した諸都市は、最後に占領した洛陽も含めて、歴史的文物は完全に保護され、今でも観光資源となっています。
敗戦後、日本軍が惜しまれながら去ったという話もあり、それは本当でしょう。
日本軍の後にどんな軍閥、土匪(どひ)が来るかもしれず、また共産軍が来れば、旧勢力は抹殺(まっさつ)されるわけですから、日本軍が去るのを不安な気持ちで見送ったのは、自然の反応で何ら驚くことではありません
。
★★★
(51)【枢軸同盟の締結】 目をおおわしめる知的頽廃
(産経新聞2002年5月31日掲載)
日独伊三国同盟は、日本を戦争に追い詰めた大きな原因の一つです。
真珠湾前の日米交渉でも米側が最後までこだわったのは三国同盟です。
ただ、この同盟のことを説明するのは、愉快な作業ではありません。その中身があまりにもくだらないからです。国が滅びる時は、こういう知的頽廃(たいはい)も起こるのかと思われるほどのくだらなさです。
その発端の日独防共協定は、まだ外相でなく個人的事務所を持っていたリッペントロップが、多分に個人的功名心から日独両国の外務省をバイパスして話を進め、半年経って両国の外務省が気づいた時は、ヒトラー総統も了承して、もう引き返せないところまできていました。
≪
松岡の
個人的独走
≫
仕上げの枢軸同盟もまた、多分に松岡洋右外相の個人的功名心による独走です。
1940(昭和15)年9月4日、松岡は事前の予告もなく四相会議にガリ版二十数枚の同盟草案を持ち出します。
そして、まあ交渉だけはしてよいという了承を得るが早いか、9月9日から交渉を始め9月19日には成文を上げ、9月27日にはベルリンで条約に署名します
。
近衛文麿首相は「公爵にはお気の毒」と西園寺には事前に知らせず、「寝耳に水」で同盟結成の報を聞いた西園寺は、傍(かたわ)らの女性に「もう、お前達も畳(たたみ)の上で死ねなくなる」と的確に戦争を予言して、その年に死にます。
その時、天皇は「アメリカと戦って負けたらどうする。その時近衛は自分と苦しみを分け合ってくれるのだろうか」とご下問されています。
天皇と西園寺にここまで見えていた将来が見えていなかった
近衛の資質には、明らかに問題
があります
。
経緯もさることながら、その目的も支離滅裂(しりめつれつ)です。
東郷茂徳は、防共協定に猛反対しましたが、これと並行して英国と政治協定を結ぶという条件を陸軍に呑ませて、やっと了承します。
実はヒトラーも同じことを考えてリッペントロップに英国の参加を命令しますが、その使命に失敗したリッペントロップは「裏切られた恋人」への恨(うら)みから、英国を目標とする三国同盟を志向するようになり、日本陸軍もこれに同調します。
米内海相は、対象がソ連までは良いとしても、英国とすることには、「職を賭(と)しても」と頑強に反対しました。
ところが、
松岡となると、今度はソ連を同盟側として、日本、ソ連、ドイツが世界を南北縦の線に沿って分割するという
空想的同盟
となります。
しかもその間、
平沼騏一郎首相が反共の三国同盟を考えている時は、独ソ不可侵条約でドイツに裏切られ、松岡が日独ソで世界分割を夢見ている最中に独ソ戦が始まるという、同盟の信頼関係など全くない
支離滅裂な話
です。
結局は、防共協定の時「国民の孤立感を緩和する」と言った通り、誰も相手にしてくれないはぐれ者が集まる心理効果だけで、戦略的地政学的基盤のない同盟でした。
この破滅的な愚昧(ぐまい)さ
の中で、後世のわれわれに日本人に対する信頼と希望を持たせてくれたのは米内光政です。
≪
米内光政
の見識
≫
昭和15(1940)年一月にできた米内内閣は、組閣早々から「枢軸同盟反対の論功行賞」「対英米媚態(びたい)」外交と呼ばれ、軍や右翼の倒閣、テロリズムの対象となりましたが、米内はビクともしません。
四月までに政府部内を固め、グルー米大使に対して、「日本の政策は決定したから、もう心配無用である。ファシズムを望み、独伊との提携を求める分子は鎮圧した」と語っています。
ところが、一旦(いったん)気勢をそがれた枢軸派の勢いを盛り返させたのは、ヒトラーの成功でした。
五月にベルギーに侵入したドイツ軍は、英仏軍を粉砕し、六月にはパリに入城します。
しかし、米内は「
ヒトラーは一代身上
だ。身上を棒に振ったところでもともとだ。三千年の歴史のある日本の天皇と一代身上者とを、同じ舞台で手を握らせようとは、とんでもない話だ」と語り、西園寺は「ヒトラーが偉くても長くても十年続くか続かぬかの問題だ。ナポレオンもそうだった」と冷静に見ていました。
しかし、陸軍の倒閣運動は露骨でした。畑俊六陸相は組閣の時に、米内と協力するよう、とくに天皇から優諚を賜(たまわ)っていたので、最後までこの動きに加わりませんでしたが、ついに枢軸国との関係強化と内閣総辞職を求める文書を米内に突きつけます。
米内は淡々と自分の意見は違うといって拒否し、畑は辞職して、陸軍は後任を送らず、米内内閣は終わります。
その時の畑の表情が、あまりに深刻だったので、米内は畑が自殺するのではないかと心配したといいます。
実は陸軍の最長老閑院宮を通じてのご命令で、畑は抗し得べくもなかったのですが、畑はこの事情を誰にも語らず、東京裁判でも沈黙を守り、当時の参謀次長の証言でやっと真相がわかりました。
米内は、裁判で畑が突きつけた文書について証言を求められましたが、この忘るべくもない文書について、「記憶にない」と証言しました。
裁判長が新聞の縮刷版を示して「新聞にも載っているではないか」と追及すると、米内は「字が小さくて読めない」と言いました。
占領下の法廷で一個の男児たることを示した米内、畑の態度は、昭和前期の恐るべき知的頽廃の中で一服の清涼剤の感があります。
(52)【土壇場の日米交渉】 戦争を欲したルーズベルト
(産経新聞2002年6月1日掲載)
真珠湾攻撃は、ルーズベルト米大統領が仕掛けた罠(わな)に日本が嵌(は)まったものかどうか、今でも日米では、この論争が繰り返し行われています。
事前に知っていたかどうかなど細かい議論はさておき、
それはルーズベルトが望んでいたものだったことは間違いありません
。
キッシンジャーは『外交』の中で、ルーズベルトがアメリカをいかに巧みに参戦に持っていき、その結果自由世界を救ったかを、讃嘆の眼(まなこ)で観察し、ルーズベルトは、ハル・ノートが出た時、日本がこれを受諾する可能性がないと知っていたに違いないと書いています。
そして、もし日本が攻撃を東南アジアだけに限定し、ヒトラーが対米宣戦をしなければ、ルーズベルトの仕事はもっと難しかっただろうが、結局は何とかして参戦しただろうと言っています。
1937(昭和12)年支那事変勃発(ぼっぱつ)の三カ月後、ルーズベルトは、いわゆる
隔離演説
をします。
当時の米国の深い孤立主義の中で、用語には注意して、今や世界に蔓延(まんえん)している無法という疫病を隔離するという言い方をしていますが、その後のオフレコ発言等と併せて今読み直してみると、日独伊等に何らかの圧迫を加える意図を明らかにし、国民に対して来(きた)るべき戦争に備える覚悟を要求している演説です。
≪日本追い込む米国≫
ルーズベルトは、その後世論の啓発につとめ、三九年には
世論の圧力を受けた形で
、一月には航空機等の対日禁輸、七月には日米通商航海条約の廃棄通告までいきました。
石油禁輸
をすれば、日本は支那事変を続けられないことは、その頃から指摘されていましたが、これが四一年に真珠湾攻撃に日本を追い込む切り札となります。
米国世論も徐々に変わり、四〇年五月には、まだ国民の64%がナチ撲滅(ぼくめつ)より平和が大事だと思っていたのに、真珠湾攻撃直前には、32%と、完全に賛否が逆転していました。
ただ、それならば、ルーズベルトはどうせ戦争に持ち込む気だったのだから、何をやっても無駄だったと考えるのは単純に過ぎます。
ルーズベルトが内心何を考えていようとも、独裁者ではないのですから、内外の情勢、国民世論の制約があります。
たとえば、スペインのファシスト政権は第二次大戦直後の危機的な時期を生き延び、冷戦のお陰で同盟国扱いとなります。
ソ連はバルト三国とポーランドの半分を併せ、フィンランドを侵略して国際連盟から追放されますが、米国との衝突を避けつつ、三十六年後には、ヘルシンキ宣言で国境線の現状維持を認められるところまで漕ぎ着けています。
日本には、真珠湾攻撃を避ける方法があったでしょうか。
一つの機会は、米国の民間宗教団体が斡旋(あっせん)した四一年四月の
日米了解案
です。
この案に政府、統帥部両方の全員が賛成したにもかかわらず、ヨーロッパから帰った松岡洋右が、これを潰(つぶ)した経緯は、これも言うのも恥ずかしいような松岡の個人的こだわりでした
。
松岡洋右という人は、国際政治の判断の粗雑さからいっても、その性格の殆(あや)うさからいっても、その責任を問うのに価(あたい)しない低レベルの人物です
。
むしろ、こんな人間を国際連盟脱退以来、
虚名
を博しているという理由で外相に起用し、しかもそれをコントロールもしない
近衛文麿の責任が問われるべきでしょう
。
しかしこの調停案は、ハル米国務長官が日本側の主張ばかり取り入れているのに失望したといいつつも交渉の緒口(いとぐち)とすることを了承したもので、米国側から抜本的な修正案が出ることは必至で、当時の日米両国の事務当局の意見の相違を考えると、とうてい交渉でまとまるようなものではありませんでした。
≪潰れた日米トップ会談≫
唯一のチャンスは近衛・ルーズベルト会談だったように思います。
近衛は、グルー駐日米大使に対して、ルーズベルトに会えさえすれば、自分は彼が拒否できない提案を持っている、合意が成立すれば、自分は天皇陛下にお願いして陸軍に命令していただくつもりだ、と知日派のドーマンを通じて洩(も)らしています。
提案の内容はわかりませんが、それは当然、中国本土からの撤兵を中心とする提案でしょう。
陸軍大臣は
東条英機
でしたが、国威の発揚とか抽象的な理念に酔う人ではなく、詔勅が出れば、これを実施させるのには一番適任だったかもしれません。
しかし、この提案は、まず事務的に話を詰めてからという、ホーンベックなどの国務省の意見で潰(つぶ)れます。
撤兵などということは、詔勅なしで各省の稟議(りんぎ)でできるはずもないことですから、事務的になると交渉成功の可能性はなく、戦争しかありません。
その後双方が考えた暫定案は、戦争を数カ月先延ばしにしただけでしょう。
ちょうどドイツ軍の前進がモスクワ前面で阻(はば)まれた時なので、日本が政策を転換するチャンスだったという説もありますが、スターリングラードの破局まで、あと一年もあり、皆春季攻勢に期待していたのだから駄目でしょう。
あとは、
どうせ戦争しかないなら、真珠湾攻撃などせずに、もう少し賢い方法がなかったかという日本側の戦略の問題だけしかありませんでした
。
★★★★★
(53)【真珠湾攻撃の是非】 米世論の怖さを知らず開戦
(産経新聞2002年6月3日掲載)
戦争は真珠湾奇襲で始まります。
世界で初めての空母機動部隊
を編成して、太平洋を
六千キロ
横断してハワイを攻撃するという山本五十六の破天荒な計画が成功して、米太平洋艦隊は、出航中で不在だった空母と潜水艦を除いて、事実上全滅します。
これにも劣らない大きな影響があったのは、米艦隊の極東来援まで極東防衛の主力となるはずの英艦隊が、その二日後に、航空攻撃で撃滅されたことで、この報を聞いて、チャーチルは傍(かたわ)らに人がいなかったのに感謝するぐらい取り乱したといいます。
(
1941(昭和16)年12月8日と12月10日
)
もうこれで、日本軍の行動を海上で阻止するものは何もなくなりました。
(1)シンガポールは難攻不落の堅塁を誇っていましたが、日本軍はマレー半島のジャングルを突破し、背後を突きました。
ジャングル戦は夜襲と同じで、周りで何が起こっているかわからない中で、その場の
個人の勇気と義務感に頼る日本軍得意の戦闘
であり、
日本軍は連戦連勝しました
。
(2)インドネシアでは、伊藤正徳の表現を借りると、ジャワ五千万の住民は日本軍の味方であり、オランダ軍は敵地で行動しているに等しく、日本軍はたちまち全土を席捲(せっけん)しました。
(4)それはビルマでも同じでした。
(5)フィリピンでは、
マニラ
を放棄して
バターン
、
コレヒドール
に立て篭もった米軍の降伏までに時間がかかりましたが、開戦後半年で、西はビルマ、アンダマン諸島、東はラバウル、ニューギニア北岸までの全東南アジアは日本の手中に落ちました。
≪
日露戦争と同じ衝撃
≫
全アジアは熱狂し、三十七年前の日露戦争で、日本がロシア軍を撃破した時と同じ感激と興奮の波が全アジアに走りました。
問題は、この大勝利のあと、どうするかです。
外相
東郷茂徳
は、日本中が戦勝に沸き立って、いけいけムードとなっている
1942(昭和17)年元旦の講話で「
力及ばず戦争になってしまったが、この戦争を日本に最も有利な機会に切り上げるべく、外務省員は他の任務を放擲(ほうてき)してもそれに尽力して欲しい
」と述べ、そして議会でも同様の発言をして咎(とが)められ、その発言を速記録から削除
されています。
しかし、もはやいかなる和平のチャンスもありませんでした。
最終的な勝敗の帰趨(きすう)は明らかだったからです。
米英の指導層は真珠湾攻撃の報を聞いて、喜びに沸き立っていました。
チャーチルは、その日「ついにわれわれは勝ったのだ。ヒトラーの運命もこれで終わりだ。日本は粉々に粉砕されるだろう。これほどの喜びはない」と、その晩は感謝の気持ちで眠りについています。
ルーズベルト米大統領の腹心のホプキンスは、ホワイトハウスの閣議の模様を、「開戦の空気は意外に緊張したものではなかった。皆、いずれは参戦しなければならないのだが、日本がその機会を与えてくれたと感じていたからだ。日本人があのようなやり方で一息にそれをやってのけたので、
分裂し迷っていたアメリカの国論は一瞬にして完全に一致し確固たるものになった
」と記しています。
もし、和平を調停してくれる第三者がいたとすれば、それは日本が最後まで空しく頼ったソ連でなく、米国の世論だけでした。
石油禁輸は、たしかに戦争の引き金となりましたが、かつてムソリーニはエチオピア征服の時「石油禁輸は戦争を意味する」と言って、禁輸をさせませんでした。
もし日本が、ある段階でそれを明言しておいただけで、米政府は世論、議会から戦争を挑発した責任を咎められ続けた
でしょう
。
(
拉致被害者奪還のための「経済制裁」否定するのに、この論理を援用して北朝鮮は「経済制裁は宣戦布告とみなす」といっているてなこという連中がいるが、他国から他国民を拉致(ひとさらい)しておいてまたその生死もでたらめ抜かしてる北朝鮮には、その制裁について国論の逡巡なぞあるわけなく、ただ自分だけ危険な目に合いたくないというだけの極少数派しか存在しないわけだから、この当時の米国の状況とはまるで違うだろう
)
そして
真珠湾攻撃などせず
、ハル・ノートを公表して、期限つきの最後通牒(つうちょう)で石油禁輸の撤回を要求して後、堂々と宣戦していれば、米国は戦争できないか、世論が分裂したまま戦争に入ったことは明らかです
。
≪硫黄島の善戦も空し≫
その場合、
硫黄島で二万名、沖縄で六万名の被害
(
米国の若者の犠牲
)を蒙(こうむ)って戦争が続けられたでしょうか。
かつて筆者がベトナム戦争を指導したグエン・コー・タックに「ベトナム戦争は大変だったでしょう」と訊(き)いたところ、「いやあ、あんな易しい戦争はない。われわれはアメリカだけが相手だが、敵はわれわれと
国内世論の両方を相手に戦争した
。アメリカは人的被害に耐えられない国だ」と言いました。
そこで「米国は硫黄島では海兵隊二万を失った」と言うと、「二万人--」と絶句して何も言いませんでした。
硫黄島の善戦が米国世論に厭戦(えんせん)気分を生じさせて和平のチャンスを作ったのならば、玉砕した戦士達ももって瞑(めい)すべきものがあります。
しかしこれがソ連の参戦と原爆の使用を促進し、広島、長崎の市民、満州、樺太の邦人の言語を絶する惨苦をもたらしたのでは、戦死者達の霊も浮かばれません。
戦略
が良ければ、
戦術
の失敗は挽回(ばんかい)できますが、戦略が悪いと戦術的に成功すればするほど傷が深くなります
。
真珠湾攻撃という戦術的大成功は戦略的大失敗と断ぜざるを得ません
。
そして全ての戦略の基礎には、良質の情報と正確な情勢判断があります。
日本はアメリカという国、とくにアメリカ世論の怖さを知らずに戦いを始めたのです。
ジャンル別一覧
出産・子育て
ファッション
美容・コスメ
健康・ダイエット
生活・インテリア
料理・食べ物
ドリンク・お酒
ペット
趣味・ゲーム
映画・TV
音楽
読書・コミック
旅行・海外情報
園芸
スポーツ
アウトドア・釣り
車・バイク
パソコン・家電
そのほか
すべてのジャンル
人気のクチコミテーマ
気になるニュース&話題(Infoseekニ…
山田洋次監督 渥美清さんとの「忘れ…
(2025-11-22 09:00:05)
政治について
【速報】高市首相が記者団にコメント…
(2025-11-22 03:40:16)
株式投資日記
11月21日週末を終えて
(2025-11-22 06:45:58)
© Rakuten Group, Inc.
X
共有
Facebook
Twitter
Google +
LinkedIn
Email
Design
a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧
|
PC版を閲覧
人気ブログランキングへ
無料自動相互リンク
にほんブログ村 女磨き
LOHAS風なアイテム・グッズ
みんなが注目のトレンド情報とは・・・?
So-netトレンドブログ
Livedoor Blog a
Livedoor Blog b
Livedoor Blog c
楽天ブログ
JUGEMブログ
Excitブログ
Seesaaブログ
Seesaaブログ
Googleブログ
なにこれオシャレ?トレンドアイテム情報
みんなの通販市場
無料のオファーでコツコツ稼ぐ方法
無料オファーのアフィリエイトで稼げるASP
ホーム
Hsc
人気ブログランキングへ
その他
Share by: