憂国愚痴φ(..)メモ  by  昔仕事中毒今閑おやぢ in DALIAN

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その2

非宗教性

非宗教性

ジャン・ボベロ*  2001 年1 月

非宗教性は半世紀以上前からフランス共和国憲法の一つの特徴となっている。この原則は第四共和国憲法(1946 年10 月)の中で初めて明記され、さらに12 年後、第五共和制の設立時に確固たるものとなった。1958 年10 月4 日に公布された現行憲法の第2 条では、『フランスは不可分の非宗教的、民主的かつ社会的な共和国である。フランスは、出身、人種または宗教による区別なしに、すべての国民に法律の前の平等を保障する。フランスはすべての信条を尊重する。』と謳っている。さらに憲法の前文では、『フランス人民は、1946 年の憲法典前文によって確認され、かつ、補充された1789 年の宣言によって定義されるような人の権利および国民主権の原則へのその愛着を厳粛に宣言する。』としている。ここで示されている2 つの文書は、フランスにおける社会的絆の基礎となるさまざまな価値観を含んだものであるが、非宗教性という言葉が持
つべき意味についても明記している。例えば1789 年の人権宣言の第10 条は『いかなる者も、その意見について、それが宗教的なものであっても、その表明が法律によって定められる公の秩序を乱さない限り、不安をもたないようにされなければならない。』と指示しており、また同じ第11 条では『思想および意見の自由な伝達は、人の最も貴重な権利の一つである。』と明記するなど、しばしば非宗教性について言及している。1946 年の憲法典前文は『何人も人種、宗教、信条による区別なしに侵すことのできない崇高な権利を持つ。』と宣言している。また同前文は、『我々の時代に特に必要とされる』ものとして、いくつかの政治的・社会的原則(男女平等、ストライキの権利等)を謳っているが、その中の一つに、『何人もその仕事および職業において、その出身、思想、信条を理由に侵害されることがあってはならない。』と、明らかに本文のテーマである非宗教性に関連した記述がある。また同前文は、『あらゆるレベルにおいて無償であり非宗教的な公教育』を組織することは『国家の義
務である。』という考え方を示し、さらに『共和国の法律によって認められる基本的原則』を典拠とするものとしている。憲法学者たちによれば、これらの原則とは、1905 年12 月11 日交付の政教分離法、教育の自由、そして当然、信教の自由を意味しているという。こういったものからフランスの非宗教性を定義することができるのではないだろうか。
まず1つめのアプローチとして、フランスの非宗教性は以下に述べる二重の「否定」により特徴づけることができる。すなわち信条と信教の自由に関して、市民に対する完全な平等性の保障を目的とする、国家の宗教性の否定(『共和国はあらゆる信条を尊重する』という記述により明確にされている)およびあらゆる公式の場における宗教の否定(非宗教的公教育、教会と国家の
分離)の二重の否定である。こうして定義されたフランスの非宗教性は、社会的絆を、普遍的なものであると認められた価値観と結びつける手段として捉えられている。今やほぼ合意が成立しているフランス的なものの見方からすれば、これこそが最良の手段と考えられるのであるが、しかしこれには議論の余地もあるだろう。ただ重要なのは非宗教性というものが、共通の価値観を体現化する特殊な手段となっている点である。また、非宗教性はそうした価値観の一環をなしている。フランスは欧州人権条約を批准しているが、同条約の第9 条では世界人権宣言第18 条の内容を踏襲して明確化している。フランスの司法では自らの基本的権利が満たされていないと考える全ての人にとっては、この第9 条が、今日、欧州人権法廷において不服申立ての拠所となりうるものである。この条項についてもう一度触れておこう。

1. すべて人は、思想、良心及び宗教の自由に対する権利を有する。この権利は、宗教又は信念を変更する自由、並びに単独で又は他の者と共同して、公的に又は私的に、布教、行事、礼拝及び儀式によって宗教又は信念を表明する自由を含む。
2. 宗教または信念を表明する自由は、法律で定める制限であって公共の安全のため、公の秩序、健康もしくは道徳の保護のためまたは他の者の権利および自由の保護のため民主的社会において必要なもののみに服する。各国がこの条項に記された原則にどのように従うかは、それぞれの国の歴史的経緯によるとこ
ろが大きい。従ってフランスにおける非宗教性を保証する司法的ならびに社会的措置、および非宗教性にまつわる議論を進める前に、フランスの非宗教性が構築されてきた歴史的経緯を簡単にまとめておきたい。

フランスにおける非宗教性の形成

非宗教性というものは決してフランスに限られたものではなく、他の国々でもそれぞれのやり方で多かれ少なかれ取り入れられており、この原則に基づいた思想の潮流は複数の大陸において見受けられる。ただ、概ね言えるのはこれが「フランス的発想」であるということだ。非宗教性は幾つかの段階を踏んで実現されてきた。

フランス革命

フランス革命は、フランスにおける人権にかかわるあらゆるものの基準が形成された時代である。1789 年のフランス人権宣言が、かなり似通った内容を持ったアメリカ独立宣言の直後に起草されたことは良く知られている。だが作成された経緯は全く異なっていた。プロテスタントの文化を持ち、多くの教派を抱えた若い国において、人権は「創造主」から与えられたものであり、そのことが一つの宗派のもとに大きな紛争の引き起こすことはなかった。これに対しフランスでは、カトリシズムによる宗教的独占状態(1685 年のナント勅令廃止以降)や、これに結びついた、啓蒙哲学からの「狂信」に対する告発といった要素に特徴づけられており、アメリカと同じ展開にはなりえない。人権宣言は『至高の存在の面前で、かつその庇護のもとに』宣言されたが、教皇によって非難されることとなる(数多くの聖職者が推敲に携わったにも関わらず)。アメリカでは協議に基づいた分離が宗教的自由の条件となったのに対し、フランス革命では即座にカトリックとの衝突が起こっている。こうした対立の中で、フランス革命はカトリシズムを支配しようとし(1790 年)、自らの神聖化を試み(政治的宗教的迫害を伴う1793 年の革命信仰)、一時的な政教分離策を打ち出したが(1795 年)、この政教分離は革命に対する宗教的感情が維持されたこともあって、こうした衝突を静めるには至らなかった。結局、革命は非宗教性の原則を宣言したものの、それを実現することはできなかったのだ。この革命の遺産は、その後長きにわたってアンビバレントな形で存在していくことになる。

19 世紀―非宗教性の制度化

政教分離に終止符を打つことによって、ナポレオンは革命がもたらしたいくつかの変化を確固たるものとし、それによって非宗教化の最初の動きは安定を得た。国家の基盤は非宗教的であり、ナポレオン法典に宗教的規定は全く含まれていない。身分は非宗教化され、民法上の結婚が、宗教的結婚(自由かつ任意に行われる)の儀式を行うために必要な前提条件となった(注1)。カトリック教会はコンコルダ(政教条約)の恩恵を受けたが(1801 年にローマ教皇との間で調印)、その他の「認定宗教」、すなわちルター派や改革派のプロテスタント、ユダヤ教と、明らかに対等と見なされる立場を受け入れなければならなかった。こうしてこれらの宗教は不可知論的法律に従いながら、「宗教による救済」という公的業務を保証し、共通の倫理を共有することになったのである。こうしてフランス社会は、公式には多元宗教の社会ということになった。この多元主義は1815年からは、歴史家たちが「2 つのフランスの対立」と呼ぶ、二元的対立へと集約されていく。一時的な沈静状態や、数多くの調停の試みがあったものの、聖職者至上主義陣営と反聖職者主義陣営の対立は1 世紀にわたって続いた。前者はフランスが、いわば「ローマ教会の長女」として、再びカトリック国家となるべきであると主張し、カトリシズムを国のアイデンティティをなす不可欠な要素であるとした。これに対し後者は「1789 年の価値観」に立脚した現代的なフランスを目指していた。この「革命の娘」ともいうべきフランスでは、宗教的従属が国のアイデンティティとなることはない。
こうした対立は、学校の非宗教化の実現(1880 年)に特色づけられるように共和派が初めて勝利をおさめた後、19 世紀から20世紀の転換期に最高潮に達した。強硬なカトリック主義者の一部が、マイノリティであるユダヤ教徒、プロテスタント、フリーメーソンに対する憎しみに満ちた誹謗中傷活動(こうした動きがドレフュス事件に発展する)を行ったのに対し、宗教団体に対する例外的措置がとられたのである。宗教団体の布教活動は禁止され(1904 年7 月)、このような空気の中で、政教分離が行われることになった(1905 年12 月)。

非宗教的和平

このように非宗教化の流れは対立の要因をはらんでいたが、共和派による非宗教性の制度化が進むにつれ、徐々に対立は静まっていった。そこには明らかにパラドックスが存在していた。対立の論理から言えば反聖職者主義は厳格な措置へと向かうはずだが、これを突き動かしている価値基準となる理想は、自由の尊重や民主主義への愛着といった要素を含んだものだった。学校の非宗教性を定めた法律、および政治と宗教の分離について定めた法律の法的規定は、この2 番目の側面が優先されたものとなった。
こうして1905 年、特定の宗教を認定する制度は廃止されたが、宗教の自由はより完全な形をとることになった。コンコルダ(政教条約)では、司教の集会はすべて禁止されていたが、1906年5 月からは司教は自由に集会を開くことが出来るようになった。さらに、フランスのカトリック教は政教分離法に屈しないようにとの教皇の回勅を受けたが、大臣A.ブリアンが『カトリック教会が執拗に適法性から逃れようと望んだとしても、それは不可能である』とした、1907 年1月の新法により、フランスのカトリック教は法を拒否することによって被る必然的結果をまぬがれることになったのである。
この和平政策は次第に成果をあげることになった。法王との間で合意が成立したのである(1923-1924)。1946 年の憲法案策定の際には、フランスは共産党、社会党(SFIO)、フランス人民共和派(MRP、キリスト教民主の流れをくむ)の3 つの政党の連立政府であったが、ここでも逆説的な結果が生まれている。キリスト教民主が重要な影響力をもつというフランスの政治史の中でも希な時代に、非宗教性が合憲的なものとなったのである。しかし、フランスのアイデンティティの概念をめぐるあからさまな対立が姿を消したとはいえ、緊張関係が完全に消滅したというわけではない。非宗教性という考え方の解釈、特に国家と私立学校との関係にかかわる解釈は、依然、民主主義的論争における争点の一つとなっており、1984 年から1994 年にかけては、これに反対する大規模なデモが行われている。

信教と信仰の自由

政教分離法は、信教および信仰の自由、教会組織の自由(注2)、教会の非認定および教会の法的平等、公の場における宗教的信念の表明の自由といった、フランスの非宗教性に関する基本的な規定を定めており、さらに教育機関の非宗教性、特に学校および教育の自由についても触れている。多くの点については、法律を参照するまでもなく(例外的なケースを除く)社会的慣行の通りとなっており、コンセンサスが得られている。しかし一部の点、特にごく最近になって起こっている問題に関しては、非宗教性に関する法律と法解釈が社会的論争を呼んでいる。このような経緯を経て現れたのが、信教の自由の権利である。信教の自由の権利には、無神論や無信仰、複数の宗教の信仰、認定されている宗教の分派、あるいはそれ以外の宗教の信仰も含まれるという文化的な解釈がなされている。この権利は「内面」に関して自由であるというところから始まった。すなわち何人も自らの宗教的あるいは哲学的信念の表明を強いられることがあってはならないとする考えである。こうして国勢調査においてどの宗教に帰属しているのかを調査することは禁止された。動乱期(注3)には、国務院が、何人もホテルの宿泊客に対して、どの宗教に属するか明らかにするよう強制することはできないと注意を喚起している。
もし誰もが自らの信念を明らかにすることを強制されないというのであれば、社会的制裁を受けることなく、自由にそれを実行することができるはずである。法律では特に公務員を保護している。公務員が関連するあらゆる行政書類において、その「宗教的もしくは哲学的意見、あるいは活動」について記載させることは禁じられている。同様に他人に対し、「信仰を強制したり、信仰を止めるよう促すこと、あるいは宗教団体への参加を強制したり、参加を止めるように促すこと、宗教団体への寄付を強制したり、寄付を控えるよう促すことを目的として誰かを脅かすこと(例えば職を失うかもしれないと危惧させること)」も犯罪になる。
この一節からは、信教の自由がそのまま個人の信念の自由とはならないことを読み取ることができる。信教の自由は、理屈だけで言えば、信仰の自由を含んでおり、毎週末、静かに礼拝に参加したいと願う何百万もの人々に対しては、それを許可するということまでわざわざ保証している。ここでもまた、一般的にこうした自由の概念が共通の文化として溶け込んでいるために、今や信仰の実践を妨害しようなどと考える者はいないのである。だが、例えば1991 年の湾岸戦争のような紛争時に、万一の事態に備えて警察が礼拝の警備にあたるということもある。
教会組織の自由は、より解決困難な問題を投げかけている。というのも個人の
自由と集団の自由を両立させなければならないからである。問題は分離法の起草時から発生した。すなわち、公共の財産である礼拝堂の使用を誰に委ねるべきか、という問題である。アメリカ合衆国のいくつかの州における法律とスコットランド自由教会を規制する法律を例に取り、これらの財産は「その宗教団体が、実践を行う意志をもつ宗教の一般的な組織規定にかなっている」(第4 条)団体に委ねられることが決められている。これは、カトリックの小教区において、もはやそのメンバーの大半が司教の権威を認めなくなっているにもかかわらず、その教会は、カトリックのヒエラルキーにいまだに忠実な少数派に帰属するものと見なされるということを意味する。当時、これによってフランスのカトリック教会は解散を免れることになった。だが長期的には、このような原則の適用を均衡させなければならなかった。こうして、今日、いくつかの教会は「教会分離主義」的な伝統主義の流れに支配されているのである。非認定の原則により、4 つの認定された宗教が存在していた1905 年以前の状況には終止符が打たれた。教会は私法で構成される団体として存在するため、いかなる形態の宗教活動に関しても公法に基づいた制度は存在しないのである。
こうして導かれた結論は2 つある。すなわち教会に求められた「公的業務」の廃止と、国家の公的業務からのあらゆる宗教的要素の消滅である。だがこの宗教的要素の消滅には時間がかかった。1972 年になってようやく、重罪裁判所の陪審員の「神と人の前における」宣誓が廃止されたのである。
この公的分野における宗教的中立は、1905 年以降に建設された公共建築物には宗教的象徴が存在してはならないということを意味している。こうした制約は、単に聖画像破壊行為を拒むだけのように見えるが、実際はそれをはるかに越えるものだったのである。公式な宗教というものはもはや存在しなくなったが、フランスにおいて宗教が歴史的に果たしてきた公的役割の痕跡は維持されている。これは特に暦に見られ、第3 共和制では復活祭の月曜日と聖霊降臨祭の月曜日を、カトリックの4 つの「守るべき祝日」- 1802 年に祝日と定められたクリスマス、キリスト昇天祭、聖母被昇天祭、万聖節―につけ加えているのである。このように、フランスはその宗教的ルーツを切り離してはいない。しかし他の宗教―ユダヤ教、イスラム教、仏教―の祭典については、公務員や公的機関の係官、また生徒が、個人的に休みを取ることが認められている以外、考慮の対象とはなっていない。
この例は、認定宗教のシステムの終焉にあたり完全な理想を実現すること、すなわち多数を占める宗教から最も少数派の宗教に至るまで、すべての宗教間に平等性を持たせることの難しさを示している。
非宗教的学校の生みの親であるジュール・フェリーは、「信教の自由の問題は量的な問題ではなく、原則の問題である。」と強く主張している。だがこの平等の原則は、うまく機能している面もあるとはいえ、3 つの限界があることは認めなければならない。まず、すべての地方でこの原則が確立されているというわけではないということである。1871 年から1918 年までドイツ領であったフランス東部の3 つの県(注4)では、認定宗教の制度がそのまま保持された。この地方法は大きな例外ではあるが、実際にこれによって大きな対立が起こったことはない。次に、これまでの経験上の現実的な問題として、公権力は宗教団体の規模を考慮に入れざるをえないということが挙げられる。公共放送のテレビ欄には、カトリシズム、プロテスタンティズム、東洋キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、仏教にといった宗教に関する番組が見られるが、当然のこと
ながら、こういった類の番組への門戸を無限に開くことはできない。そして最後に、宗教団体は「信仰の実践のみを目的」としなければならないという点である。法解釈ではこの「のみ」を厳密に定義してはいないが、これは宗教活動を組織するだけでは、1905 年の法律の恩恵を享受できる団体と認められるのに十分ではないことを意味している。国務院は、製作、出版、病気の治癒を行う機能を持つ団体は、宗教団体とは認められないとしている。公の意見としては、多くの場合、こうした活動を行う団体は「宗教」とは認められないのである。ここでもまた「合法的宗教」が問題となる。非認定の態度をとる非宗教の原則からすれば、この議論は避けて通らなければならない。
いかなる宗教も公式なものとは認めないことを原則とする非宗教的中立は、教会に対して直接支払われる給与や補助金の廃止をもたらす。だがこの原則は、国家によって補助金を受ける施設付き司祭という存在、遺贈分や寄付への税金控除、および1905 年に教会に委ねられた宗教的不動産である庭園の維持に対する税金控除の可能性を含んだ大変柔軟な規定と一対になったものだ。最近、行政当局はモスクの建立を奨励するため、非認定の原則と、宗教の自由の原則を両立させる解決法を見出したことを指摘しておこう。

学校教育機関の非宗教性

公共の場における宗教的信念の自由な表明は、通常、特に問題を引き起こすものではない。宗教的信念の自由な表明は、確固として保証された思想の自由の中に位置づけられている。だからこそ1997 年の夏、世界青年の日(JMJ)に、カトリックの若者達が友好を表す象徴的な鎖でパリを取り囲むことができたのである。その他の宗教でも同様に、例えばイスラム教の団体がル・ブールジェで毎年開催しているように、大型の集会を定期的に開催している。宗教団体の代表と公権力との接触や、団体間で行われる会合が、宗教的な意見表明に平和的性格を与えるのに貢献している。
よく知られた例を挙げるなら、いわゆる「ヴェール事件」である。公立中学校でヴェールを着用していた生徒達の停学処分がきっかけとなり、学校教育機関における非宗教性をめぐって論争が巻き起こったのだ。学校でのヴェール着用に反対する者は、信教と学問との分離の必要性を強調し、また伝統的に女性だけのものであるヴェールの着用は男女平等を拒否する危険性もあると主張したのである。一方、着用を認める擁護派は、知識の伝達は独自性の存在を否定することなく普遍をめざし得るものであるとし、ヴェールには様々な象徴的な意味合いがあることを前面に主張した。こうした論争の高まりによって、民主主義社会の本質的な問題が公に明らかになった。
国務院は、宗教的意味合いのあるものを学校で着用すること自体は、非宗教性に反するものではない、との判断を下した。しかしそれが露骨に行われる場合には、不登校、宗教への勧誘、風紀を乱す行為といった問題の要因となるため、ケース・バイ・ケースで問題解決を行わなければならないとしたのである。
教育の自由は法律によって常に保障されてきたが、これも一つの論議を引き起こした。教育の自由には私立学校に対する公的資金の投入も含まれるのか否かが問われたのである。この問題は紆余曲折を経たが、ドゥブレ法(1959 年)を共通の基本原則とすることで解決をみた。すなわち多額の財政援助は国家との間で契約を結んだ私立教育機関に対して行うというものである。こうした契約を結ぶことで私立教育機関は、教育省の作成するカリキュラムを尊重し、信教の自由を保障するという条件の下で、「適格性」や独自の教育計画を持つことができるのである。このようにしていくつかの基本原則は確立されたものの、学校教育機関は依然として適用の仕方でさまざまな解釈が生まれる分野でありつづける。これはいわば当然である。というのは、非宗教性が、信仰の実践や宗教的信念の表明といった広い意味での信教の自由の尊重を意味するのであれ
ば、それは同時に思想の自由、つまり信仰を持つあるいは持たないといった権利の平等性や、独断的かつ全体的であろうとするシステムに対する批判的アプローチのツールとなる可能性をも巻き込むことになるからである。初等教育、中等教育、高等教育はこうした思想の自由を保障するものであり、それゆえ「無償で非宗教的な公共教育」を組織することは、フランスにおいて、憲法で定められた国家の義務なのである。
以上のように非宗教性とは、単なる法的システムではなく、文化であり、エトス(倫理的規範)であり、また、論議を拒否する既成の言説によって精神を支配するような「聖職者至上主義」からの開放の動きなのである。クロード・ニコレ教授は、非宗教性のこの本質的な(そして体系化できない)側面を次のような言葉でみごとに明らかにしてみせた。聖職者至上主義による支配の試みに対して非宗教性が歴史的に成し遂げた勝利を、今度は、人間一人一人、市民一人一人が『自らの心において、絶えず実践していかなければならないのだ。人は誰しも、他人や自分自身に対して強制的態度を取りたがる小さな「帝王」や小さな「聖職者」、小さな「重要人物」、小さな「専門家」に、いつでもなりうるのだ。それは強制されてかもしれないし、誤った理論からかもしれないし、単に怠惰や愚かさによってかもしれないが』。しかるに、非宗教性は『そのことから身を防ごうとする、困難ではあるが日常的な努力なのである。(中略)非宗教性とは、知性と倫理の厳密さを最大限に高めることで最大限の自由をめざすことであり(中略)、非宗教性には、自由な思想が必要である。真の思考と真の自由、これほどに難しいものがあるだろうか(注5)』。

参考書目一覧
『非宗教性』、M.バルビエ著、パリ、ハルマッタン出版、1995 年発行
『非宗教性、変遷と争点』、J.ボベロ編集、パリ、ラ・ドキュモンタション・フランセ-ズ、
1996 年発行
『フランスにおける非宗教性の歴史』、J.ボベロ著、パリ、PUF 出版(クセジュ)、2000 年発行
『フランスの非宗教性』、J.ブシネスク著、パリ、ル・スイユ出版、1994 年発行
『非宗教性の3 つの時代』、J.コスタ・ラスク著、パリ、アシェット出版、1996 年発行
『非宗教性』、CI.デュラン・プランボルニュ著、パリ、ダロ出版、1996 年発行
『非宗教性』、G.アルシェ、パリ、PUF 出版(クセジュ)、1996 年発行
(1) 1792 年の革命の動きの中でとられたこれらの措置は安定し、現実的なものとなった。これにより、フランスは他の欧州諸国
と異なっていく。
(2) 「教会」という言葉は、ここでは「信仰」あるいは「宗教」と同義語で、総称として使われている。
(3) 第2 次世界大戦時、差別的な法律によってユダヤ人弾圧が行われていた時代。
(4) オー・ラン県、バ・ラン県(=アルザス)およびモゼール(ロレーヌの一部)。
(5) CI.ニコレ 『フランスにおける共和制』 パリ ル・スイユ 1992
* ジャン・ボベロは高等研究院教授であり、またフランス国立科学研究センター (CNRS)の宗教・非宗教性社会学グループ主任を務める

この記事中の考えは、著者に文責があります。







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