元・天津駐在員が送る中国ビジネス・エッセイ

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人生で私たちが突き当たるいろいろな問題は、非常に複雑な物だから、それをただ、そのままながめて解決しようとしても難しい。それよりも、この複雑なものの中で何が一番簡単で、はっきりと、だれにもほんとうだとうなずけるようなものかをみわけ、この簡単なもの、だれにでもわかるようなものから、どのような関係で複雑なものができあがっているのかを知ることが大切だ。だから私たちには、複雑でちょっと見極めが付かない問題の中から、一番はっきりしたものを見つけ出し、これからだんだんに複雑なものを組み立て、もとのものに戻っていくならば、初めにぼんやりとして、よくわからなかったものもはっきりと知ることができる。



文藝春秋「教科書が教えない昭和史ーあの戦争は侵略だったのか? 」

半藤氏:
(前略)
日本民族は農耕民族だというのが一種の定説とされていますね。ところが、私は最近、疑問をもっていまして、本当は日本民族は海外発展民族ではなかったか、と思うようになった。つまり遣隋使、遣唐使の昔から室町、戦国時代の和冦や山田長政に至るまで、日本人は海外に進出し発展してきたのに、徳川政権二百六十年の鎖国政策によって国民を押さえつけて農耕民族にしてしまったという面があったのではないか。

それが明治6(1873)年には早くも征韓論争が起こり、翌七年には朝鮮に軍艦を派遣し武力衝突に発展した江華島事件を起こしている。つまり明治天皇の「五箇条の御誓文」にある「大いに皇基を振起すべし」です。

秦氏:
私も同感ですね。こうした日本民族の対外膨張路線というのは、幕末の吉田松陰ですら唱えているのです。日本はアジア大陸はもちろんのことオーストラリアまで征服すきだという文章を残している。征韓論も明治維新の前からあるし、幕末の思想的指導者であった橋本左内や佐藤信淵なども対外発展論者でした。ただ、これは後の侵略主義とは少し別物で、もっと素朴な膨張欲だったと思います。あえていえば、高度経済成長を果たした戦後日本が、事業規模をどんどん拡大し海外に進出していったのに似ているかもしれません。

半藤氏:
いずれにせよ、明治十五(1882)年には日本はすでに清国との軍備競争を始めて、対清国戦争の準備にはいっています。山県有朋が第一回の帝国議会で、有名な「主権線(国境)と利益線(朝鮮半島)」と共に防衛する必要があると演説したのは明治二十三年の事です。


岡本太郎著氏「日本の伝統」

東大寺の大仏を考えてご覧なさい。あのまだ生産力の発達していない時代に、五丈何尺という、今日でさえ度肝を抜かれるスケールの金色の仏像を鋳造したその度胸、その神経。

今では黄金の箔は落ち、千年の埃をかぶってどす黒くなっていますが、あれが真新しくて、あら金の色に燦然と輝いていた時代ーその周囲には、佐保山から掘り出した五色の土を塗ったという、極彩色の七堂伽藍がそびえ立ち、風鐸が風になり、前庭では奇怪な仮面をつけた、原色、金ピカの舞楽を奏して、唐風俗の文武百官がどよめいていた。このこってりとした壮大なスペクタクルを思うと、息がつまるようです。

だいたい、"青丹よし寧楽の都"と言いますが、あの時代の青丹の色というのは、やや緑がかった濁色で、奇妙に浮いた、いやったらしい色調です。それに暗い朱と、桃色、さらに金がはいったその毒々しい取り合わせ、不協和なえげつなさなんというものは、かく言う私でさえ、いささかコレハと思います。

この時代の人は、おそらく今日つきあったらやりきれないくらい無邪気だったに違いない。とてつもなく大きなもの、極彩色で光ったものを、すなお、単純に喜んだでしょう。てらいとか、ひねりとかいうような近世風な繊弱な神経は、影も見られません。さらにわが民族のもっとも古い文化である、縄文土器の美観はどうでしょうか。これについては、つぎの章で、くわしくお話ししますが、その強烈さと空間性の緊張は空前絶後であり、以後の日本文化のあらゆる時代を通じて、あの圧倒的な盛り上がりは見ることができません。また、安土・桃山から元禄の光琳にいたる伝統も、われわれにとって豪華な夢です。


光琳

このようにはげしく生き、爛漫と開いた文化の一方に、それとまったく反対な相貌をもった系列もあります。中世以降のわび・さびの文化です。鎌倉から室町にかけて、時代の精神的なバックボーンになった禅宗は、無を媒介として大乗的に現実を肯定する、当時きわめて斬新で積極的な哲学だった。そういう思想にのっとって芸術革命が行われました。繊細な表現はとっていますが、これも時代としての積極性があったのです。

今日では、枯淡・厳粛の見本みたいに考えられている能にしても、下賤な民衆娯楽であった田楽・猿楽を真正面から芸術として取り上げ、「乞食の所行也」とののしられながら、花伝書などにみられるような、高度な芸術的自覚、理論にまで高めた、能楽師らの積極性と現実的たくましさ。

また、お茶にしても、貴族のハイカラなすさび、遊技にすぎなかった闘茶を飛躍的に発展させ、「只湯を沸かし、茶をたてて呑むばかり」(利休)のお茶を中心に生活全体を芸術として盛り上げてゆくという、まったく思いもかけないところに新しい芸術を発見し、血なまぐさい戦乱の渦まく荒々しい時代の現実にぶつけ、確立した茶人のほろくはげしい意欲とその知性。

(中略)

不幸な事に中世文化の積極性は徳川三百年の閉ざされた封建世界においてしだいにゆがめられ、押さえつけられてしまった。芸術家の強靱な、逆説的な自己主張であった方法もようやく形式となり、観念化されてくるのです。そして素町人的、エゴイスティクな、現実逃避の雰囲気にすりかえられてゆきます。

すべての人間の表側よりも裏側だけに神経を集中し、強烈な生命力の奔出よりも繊細なひねりを「通」とする。芸術は洒落や、味や、型の世界に堕落してゆきます。



つづく





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Last updated  2009.03.18 22:31:20
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