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神秘家の庵

神秘家の庵

2009.01.25
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カテゴリ: 歴史・人物
写真の花は「紅梅」
紅梅


ことわざ
「隗(かい)より始めよ」
 大きな事業を始めようとする時は、まず手近なことから手をつけると良い。また、何事も言い出した人から実行すべきであるという時に用いる。


直江兼続 4

 直江兼続は家康追撃を強く主張したが、景勝はうなづかず、上杉軍は最上領へ侵攻した。
 そこへ関が原の西軍敗戦の報が届き、上杉軍は兵を退いた。


 家康に背いて挙兵した上杉景勝に対する処分は苛酷だった。しかしなおも、景勝、兼続の主従は、家康なにするものぞの気概は捨てなかった。
 家老には、御家の家名を存続する責務があり、最優先で家名存続を考えなければならない。
 軍議で多数の家臣が徹底抗戦を主張したが、景勝、兼続の主従は、上杉家存続のため、家康と和睦する道を選んだ。
 兼続は秀吉から賜わった米沢三十万石を差し出し、改めて景勝に与えられるように巧みな政治工作を行った。
 それは功を奏し、会津百二十万石から三十万石へと大幅な減封にはなったが、上杉家の取り潰しは免れ、兼続の思惑通り、景勝は米沢へ移った。

 兼続と石田三成が共謀した家康討滅計画は、景勝も承知はしていたが、実質的には兼続と三成の主導だった。
 敗戦降伏という屈辱を味わい、なおかつ減封にもなった戦争責任は兼続にあったが、景勝は一言も咎めず、兼続を執政軍師の地位に留めた。
 信頼関係に加えて、様々な困難に対処し得る人物は、兼続意外に居ないことを景勝は承知していたのだ。

 兼続は、景勝の温情に感謝しつつ、戦国乱世の終焉を自覚して、それ以後、上杉家の経営方針を転換し、殖産興業と街作りに一心を注いだ。
 治水事業、農業振興、商工業の保護、鉱山開発など様々な分野で多大な治績を残した。


 それは兼続が尊大なのではなく、徳川家に対する意地であって、上杉家家老としての誇りであった。
つづく

「霊界からの遺言」はこの前にあります 





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最終更新日  2009.01.25 11:51:13
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