バックパッカーの旅Ⅰ(東京~アテネ)

バックパッカーの旅Ⅰ(東京~アテネ)

エーゲ海の怒り



                       *

   東京・上野公園での開会式直前、近くのパチンコ屋の景品で取った懐中時計のゼンマイが、壊れてしまって(made in USA)一日七時間ぐらいしか働いてくれないから始末が悪い。
 おかげで、いつも朝の時間がわからず、時計を合わせるのが毎日の日課となっている。
 シュラフを使わない生活、長かった旅が終ったと思った安堵感からか、このところ良く眠れるのだ。

   窓からは、きついエーゲ海の陽ざしが、カーテンを通して部屋の中に入り込んでくる。
 外を見ると、雨が降った様子。
 その雨が、これから来る嵐の前触れだとは、私だけではなく、この村全員の人達が全く予想だにしなかったに違いない。
 外は、相変わらず爽やかな空、そして青いエーゲ海が何事も無いかのように広がっている。
 しかし、そんな穏やかな時間は、ほんの暫くしか続かなかった。

                     *

   午前10時。
 チェックアウトを済ませて、外に出る。
 今夕、午後4時には、何事も無く漁船で、ギリシャ領である”CHIOS島”に、渡るはずだった。
 これから起こることさえなければ。
 私が、貧乏旅行しているのに、高級ホテルに宿泊した天罰としか思えないほど、状況が一変した。

   高級ホテルを一歩出たとたん、それまで何事も無かったエーゲ海に、突然風が吹いてきて、その風で運ばれてきた黒い雲は、あっと言う間に青い空を遮り、青く澄んでいたエーゲ海の海さえも、黒く大きく波立つ海に変貌してしまったではないか。
 それは本当に悪夢としか言いようが無い状態だった。

   海の上では、一筋の閃光が走ったかと思うとつかの間、ものすごい音を立てて雷が鳴り響く。
 雷に誘発されるように、黒い雲からは突然、地面を強烈に叩きつけるような雨が、激しく落ちてきたではないか。
 本当に、それは突然やってきた。
 黒い悪魔。

   この美しいエーゲ海に、これほどすさまじい怒りが隠されていたとは。
 何に対する怒りなのか。
 俺が高級ホテルに泊まった為?
 そうなの?

   風は大木を揺さぶり、昨日の午後座っていた、カフェテラスの天幕が旗のようにパタパタと大きく揺さぶられ、バケツをひっくり返したような大雨が、激しく地面を叩いている。
 現地の人達でさえ、何事が起こったのか、パニックに陥っているようだ。
 これこそ悪魔の雄叫びかと思えるような嵐が吹き荒れている。
 あの穏やかなエーゲ海に、繰り広げられた神話が今にも蘇ったかのように。

   慌ててホテルの隣にあるビルに逃げ込んだ。
 山の山頂にも稲妻が走る。
 寒い。
 いつまで続くのだろうか。
 雨と風は台風のように、私の思惑とはちがいさらに強くなる。

   カフェテラスの天幕に溜まった雨水が、強風に煽られて時折”ザー!!”と言う音をたてて落ちて来る。
 波は大きく、岸壁にぶち当たり波しぶきを上げて、上陸してくる。
 何とも言えない、恐怖の瞬間をこんな穏やかな村で迎えようとは予想だにしなかった事だ。

   女神のような美しいエーゲ海が、こんな姿を隠し持っていたとは、誰が予想した事だろう。
 それが今、現実のものとなって目の前に繰り広げられている。
 後で聞いた話だと、こんな嵐何十年ぶりのことらしい。
 それでも、何十年に一回はあるんだと、感心してしまう。

   どのくらいたっただろう。
 十分?
 二時間?
 時が止まってしまったような、出来事が今起こっている。
 異常に・・・寒い。

                         *

   嵐が衰えを見せ始め、初めて時計を見る。
 10時30分をさしていた。
 わずか、30分の出来事だった。
 あれほど強烈に拭いていた風と強烈な雨が、申し合わせたように弱くなる。
 黒い空と稲妻は今だに、空を覆っている。

   おかげで今日出航するはずだった船は不通になった。
 昨夜の甘い目算が音を立てて崩れていく。
 やはり、高級ホテルでの安眠がいけなかった?
 ゴールするまで、息を抜くなと言う戒めなのか。
 神のお怒りなのか。
 それとも、ヒッチハイク大会と言う旅の主旨を、完全に忘れてしまっている私に対する制裁だったのか。
 この何十年ぶりかの嵐で、完全に足止めを喰らってしまった。

                      *

   又、あの安宿へUターン。
 この足止めで、二人のカナダ人と一人の日本人と一緒になる。
 日本人は、グンゴーホテルで一緒だった”T君”。
 八王子に住んでいるとかで、話に花を咲かせる事となる。
 嵐で停電と断水が続く。

   村はかなりのダメージを受けたようだ。
 手も洗えないし、歯も磨けない。
 とにもかくにも、静かな夜を迎え、昼間の事が嘘のように、闇が全てを覆い隠してしまっている。
 エーゲ海の怒りをこの目で見、この身体で体感できた喜びは大きい。

   あの穏やかなエーゲ海が、こんな一面を持ち合わせているとは。
 想像すら出来なかった出来事を見ることが出来たのは、幸運だったのかも知れない。
 夜が更けていく。
 何事も無かったかの様に。

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