全7件 (7件中 1-7件目)
1
会社休んで3日目(2月9日時点)。いやー、明日から3連休なので、普通の人だったら「6連休?」という感じで、非常に感じ悪いのだけれど、休んじゃいない。有給とって自宅で1日中仕事ばかりしている。昨日も15時間労働だった(病院でスマホを持っては仕事してアホみたいだ)。食事もこの3日、豆乳とチョコレート2粒、アイスクリーム2個しか食べていないので、ずいぶん痩せた。この間(かん)、病院で検査したり車に乗せられたりしたのだが、自己判断では元気である。というか、仕事が楽しいなと改めて思うのである。時間を忘れるくらい没頭する、自分の時間をそこに思いっきり費やせる。そんなことが仕事にできれば、それはまさに「天職」だと思う。私は今の仕事がそうであって、ここ10年ちょっとくらいは特にそれが「行き過ぎる」くらい集中してやっていた。振り返ってみるとそこそこの結果は出せたし、失ったものもあるけれど、後悔はしていない。今も、やりたかった案件をやっていて、そこそこ大変なのだけれど、ちっとも辛くない。それなりにタイトなスケジュールを急に言われても、同じ話をループして説明することになっても、それでも楽しい。普通、こういう状況だったら「面倒だ」と愚痴をいう人もいるかもしれないが、それは仕事を「質草」、つまりご飯のための労働としか考えていないからだと思う。私の場合は相手のいろいろな都合とか理由もあるだろうし、倒れてもいいからいい商品を作るために一所懸命やろう、という気持ちの方が先立っている。それは、仕事をしている相手の「顔」が見えているからだと思うし、相手のことを信頼しているからだ。先方も私の職階にこだわらず、一仕事人として、人間として認めてくれているからだと感じる。それは、自分がどうしてもこの仕事をしたいんです、という熱意とか、嘘偽りなく仕事をしてきたことを認めてくれたからだと思う。私がどういう肩書だから、ではなくて「何を言って何をやるか」ということを見て、協力してくださったんだなと、相手の言葉の端々からそれが伝わってくる。信頼という言葉がどういうものかというのを、仕事を通して感じることができる。幸せだな、と思う。お金を積んでも決してできないような会いたい人に会って、自分の提案をぶつけて、そして最後は自社の利益になるのだ。こんなにわがままな仕事もない。好きを仕事にすると、お金以上の、精神的な何かを得ることができる。私はそう思う。お互いに連絡の取れるツールで密に連絡を取り、一番早くて効率的な結論をどうしたら得られるかを提案しあう。そこに決裁云々という社内ルールのいくつかは不要だと判断されればスキップされていく。こういうことが大きい会社でできてしまうことに圧倒されるし、ただただ感謝して頭の下がる思いでいっぱいなのである。決裁や報告云々というルールは事故を減らすためのリスクヘッジだけれど、多くは建前事である。何かあった時に自分の責任じゃないですよ、というための機能の方が大きい。それを時と場合によって臨機応変にやることが、会社や管理職の力量である。まずは結果を出すことがすべてであって、手順を踏むことで時間を無駄にしたり、クライアントの「ノリ」とか作業への集中を妨げてはならない。能力の低い管理職は、本当に建前や自分の体裁さえ繕えば良いってことしかしない。規則をふりかざして部下を締め上げてまとめようとする。本人自体も規則の奴隷なのだ。考え方が「お公家さん」なのである。ちゃんとやっているつもりでそうしているのなら本当に残念だが、マネジメントがわかっていないのだ。そして泥をかぶろうとしない、部下を守らない。逆をやればもっと利益も上がるだろうに。仕事も人間関係も「信頼」が一番大事である。肩書はすごいけど信頼できない人に対してはそこそこの対応でやりすごし、「察しのいい人」との時間を密にしていけば、どんな仕事でも天職になっていくだろうし、プライスレスな「歓び」も獲得できるようになるのではないか。好きな仕事だったら尚のことそれを「やり抜く」可能性がぐっと高まる。働き方改革は「時短」からではなく「信頼できる人と会う時間を増やす」ことから始まる。そうすれば面倒な雑用は減り、ストレスも減り、利益も増えるはずだ。
2018年02月08日
コメント(0)
今週2回目の坐禅。京都から高名な師にお越しいただいて、坐禅の指導と法話をしていただいた。自分のような人間が、こういう場に呼んでもらえることは、本当にありがたいご縁のおかげだな、と思う。いつも通っているお寺では般若心経を唱えて、坐禅して、いちど足を解いて、またもう一度坐禅をして、公案を聞くという流れなのだが、今回は違った。法話を聞いて、坐禅して、いちど足を解いて、またもう一度坐禅して、般若心経を唱える。そのあと足のしびれなどをとる目的と、トイレ休憩のために、坐った人全員が、廊下を反時計回りにぐるぐると何周もするのである。これも修行のひとつで、終わると元の位置で正座してお茶を頂く。これが一連の動作になる。その「ぐるぐる」を行ったときのこと。縁側に出たときに、窓越しに美しい日本庭園が広がっていた。「美しい庭だな」と思った。都内のお寺なのに一面芝生で青々としていた。窓からの景色は不思議と高層ビルがまったく見えない。いい天気で、まぶしいくらい庭の緑と空の青のコントラストが効いている。趣は異なるが、京都の龍安寺の枯山水を見てため息をついたときと同じくらい、素敵なお庭だった。1周して、2周目に入るときに「ああ、またあの素敵な庭が眺められるのか」と思った。そうして縁側に出ると、一羽の雀が芝生の上にいた。「雀も気持ちよさそうだな。いい風景だな」と思った。そして3周目。今度は雀が増えて三羽いた。楽しそうに会話をしているかのように集まっている。そのときに「あっ」と思った。これが人の輪廻の姿を表しているのかもしれないな、と。昨日書いたことに関連するけれど、ニーチェの永劫回帰でもいいし、仏教の輪廻の考え方でもそうだけれど、同じことを繰り返していつか気づいて人は超人なり、悟りの世界に近づくわけで、まったく同じであればそれに気づくことはできない。だからこの庭のように、同じ風景でも、よく観れば少しずつ違う世界は恐らくあって、努力次第で人は気づき、その人生をちょっぴりよく生きることもできるのではないかと感じたのだ。坐禅が終わってから、場所を移動した。高僧と食事をご一緒することになった。立食スタイルで、ということだったのだが、師はご高齢なので、椅子に座っていらっしゃた。そのため目が合って挨拶しようとしたときに、私の方が見下ろしている感じになってしまうなと思ったので、思わず膝をついていた。目線がなるべく同じ位置になるよう、でも多少見上げるようになるようにするのが、礼儀だなと思ったのだ。師は私の坐っている姿を覚えていた。「坐相がいいですね」坐相とは坐っているときの姿形のこと。心や呼吸が整っていれば、坐相は乱れないといわれる。最近は心身が疲弊していたのだけれど、今回はものすごく坐った後が気持ちよかったし、高名な師にそう言われて、本当にありがたいことだと思った。ところで。食事はいつもよりも会費が高いのになぜ立食?と思っていたのだが、この後その理由が判明した。久兵衛の板前さんに出張してもらって、鮨を握ってもらうためだったのだ。ひとり5貫までだよ、といわれてそれを守っていたのだが、「ほら、最後食べなよ~」と周りが言ってくれて、なんかひとりだけ9貫もいただいてしまった(汗)うーん、これならめっちゃ得してしまったような…(ちなみに1貫1200円也)。ありがたいことだけれど、正直いつも食べているお鮨のほうがずっと美味しいなと思った。何が言いたいかというと、得難い経験の連続を送ってきて、そうやって比較できること、そして得難い良い出会いが続いていることに、心から感謝したのだった。<お酒メモ>6月9日金曜日イタリア ビアンコ 白 2/3本アメリカ ジンファンデル 赤 1/3本蒼空 美山錦 2合半荷札酒 1合亀齢 純米大吟醸 1合6月10日土曜日アサヒスーパードライ 瓶 コップで1つ白ワイン グラス1つ赤ワイン グラス3つ
2017年06月10日
コメント(0)
このところ自分の人生を見つめ直している。久しぶりにいろいろ考えて、夜も一睡もできなかったり、寝ても2~3時間で、よく身体が持っているなと思っている。食欲もわかないので、いい感じに痩せているので、さすがにこれではまずいと周りに指摘され、結構無理に食べているが、依然食欲は落ちたまま。吐き気と闘いながら食べている。1週間くらい食べなくても人は死なない。だから食べなくてもいいんじゃないかと思うのだけれど。いろいろ考えているうちに、ニーチェの哲学がふと浮かんだ。ニーチェ=ニヒリズムみたいに捉えられているけれど、私が思ったのはニーチェが遺した、永劫回帰とか、超人とか、運命愛とか、そういった概念の方だ。これらの言葉は、仏教の考え方の「結論」に近いところがある。つまり「輪廻転生」とか「業」とか、そういったモチーフを経て至る悟りの境地(涅槃)と、ニーチェが永劫回帰を唱え、それを経てたどり着く感覚は同じようなものではないかと思うのである。数年前に『超訳ニーチェの言葉』という本がブームになった。あれはニーチェの考え方と仏教の考え方で共通性がある部分を、うまく掬いとった内容だった。だから日本で流行ったのだと思っている。ニーチェのいう「永劫回帰」とは、『ツァラトゥストラはかく語りき』の中に出てくる。人は人生が1回だと思っているけれど、本当は何度も同じ「あなた」という人生を、カセットテープやDVDを何度も再生するように繰り返している、それは永遠に続くという考え方である。生きているときには苦しいことも、歓びも、哀しみも、楽しみもいろいろある。輪廻転生とは仮に一度目の人生で失敗したりつらい感情を持ち越して死んだら、次の人生はそれを回避したり、やり方を変えることでその業を解消できる。それができるまで生まれ変わってやり直せる。それを繰り返すことで、次第に業がなくなり、悟りの世界に至る。ざっくりと説明したが、これが仏教の考え方である。でもニーチェの永劫回帰は、永遠にループする世界の中に人は生きるという考え方である。もっとやるせない。救いがない。そこには非情な趣がある。それでも、あなたはそういうループする世界の中に生き続けることを「つらい」ではなく肯定的に捉えて生きることができますか?――それを受け入れ、その状態を愛するさまをニーチェは「運命愛」と呼んだ。そして、ループし続ける人生は虚しいけれども、その無意味さの繰り返しの中で恨みや妬みといったルサンチマンを持たず、生きていく強さを持つ人、それが「超人」だと定義している(ように思える)。超人は超越した存在だから、もはや何かにおびえたりもしないし、たぶん感情みたいなものはない。至高の存在であり、それはすでに無と呼んでもいい。信仰心がある人になら神と一体になった、という説明でもいいのかもしれない(ニーチェは教会の在り方を批判し、神は死んだと言っているが、ここでは我流の解釈なのでご容赦いただきたい)。自分のことを振り返ってみた。もし人生が永劫回帰だとしても、たとえどんなに過去のつらいことがあっても、同じ人生を生きたいと思う。仏教的な立場で考えるのなら、何度も経験してきた辛さや悲しみといった苦をいつかは受け入れたい。人生を何度もやり直して、やり直す原因の元となる「業」を小さくしていく。そのためには私(わたくし)である自分のことを優先して行動するのではなく、これまで生きて出会ってきた人、今も付き合いが続いている人、しばらく会っていない人、そしてご縁がなくなってしまった人も含めて、なるべく多くの人を思いやって動く。そうすれば(自分にとって不幸な)業が起こることは小さくなる。そして業がなくなればこの「輪廻ゲーム」は終わりなのだから、結果、悟りに入るんだろうな、などと感じている。 でも、今は結構みんなに迷惑かけてるから業はまだまだあるんだろうけれど。ニーチェの考え方も、仏教の教えも「受け入れる」が根っこにある。別に強くなりたいわけでもないし、高みを目指しているわけではないのだけれど、日々起こることは、自分が呼び込んでいることなので、どんなに大変でも、理不尽でも、時間がかかっても、すべて受け止めて、受け入れたいと思っている。
2017年06月09日
コメント(4)
役員が出席する会議に出て、プレゼンをすることになった。私が勤めている会社はそんなに大きい規模でもないし、役員がいるからと言って緊張することもない。社長から直電がかかってくるくらいだし。昼に呑もうと誘われれば、自分の業務が忙しくない限り、お酒を一緒に呑んだりもする。要は「酔ってても仕事ができればいい。仕事ができないくらい呑むのは止めなさい」という一種の自己責任で成り立っている部分がある。そういう会社の非常識さを私は気に入っている。だからこそ自分の生き方や価値観が、同じ世代の人たちと少し異なっているのかもしれない。ただ、少し気持ちが重たいのは、役員がいる会議の前に下会議をしようと言われたこと。私が持っている価値観の一つに「会議は極力しない」というのがある。会議というものはなかなか厄介な存在で、そこに集うメンバーの「準備」と「目的」が一致していないと、どんどん時間が奪われてしまう。また、参加者の中に「なるべく短く終わらせよう」とか「要点だけを整理して、必要な事だけ討議しよう」という意識が希薄な人がいると、そちらのほうに引きずられて、いつの間にか会議がただのブレストになったり、仕事ができない人のためのアイデアフラッシュの場になり下がってしまう。自由な気風があった会社の中でも、私は特に風変りだということは自覚している。数字を挙げなければ一気に叩かれることも知っている。だからこそ、後ろ指をさされない人の3倍仕事をしようと思ってそれなりにやっているつもり。そのために大切なのは「時間」。イケてない会議は私から一番大切なものを奪うから頭が痛いのである。仕事の進め方に支障をきたす。会議をより円滑に行うために下会議をする。これは私にとって苦痛にレバレッジがかかること。また、そういう個人的な感情よりも前に、「会議で話す内容を決めるための会議をやる」って、作業効率を下げるし、だいたいダメな会社のやることなのだ。百歩譲って、私が極度の緊張家で、事前に練習がなければ皆に迷惑をかける人物だったら、そうする必要はあるのかもしれないけれど。とにもかくにも、(上司に敬意は払っているけれど)必要以上にへりくだること、無駄なことは「致しません」という態度の私にそれは必要なのか、疑問に思ってしまう。だからこそ、会社は大丈夫かな?働き方改革に逆行してないかな?と心配になるのである。<お酒メモ>4月8日土曜日楯野川 純米大吟醸 一雫入魂(いちだにゅうこん)1合原田 特別純米 1合五橋 1合初亀 1合半小布施 エロティック 4号酵母 1合
2017年04月09日
コメント(2)
初のプレミアムフライデーとなった2月24日。15時に仕事を切り上げて…という触れ込みだが、15時って中途半端な時間だと思う。銀行が15時で閉まるから、というイメージで音頭をとったのかもしれないが、お役所的な発想だなと思う。民間大手では富士通が今回実施したそうだが、15時ではなく、午後に有休を消化しましょうと社員に推奨したそうだ。みんなが同じ時間に一斉休暇をとったら、空いた車内で座りながら帰るとか、呑み屋に行って貸し切り気分を味わうとか、そういうことはできなくなるから意味がない気がするのだけれど。「工場など、製造物の工程に労働者が合わせて働く仕事でない限り」という前提だけれど、労働者一人一人が一番集中できる時間帯に、仕事を一気にやってしまうというのが一番効率が良いと思う。脳機能で考えると、人間が集中できる時間は普通で90分、集中することが得意な人で約2~3時間だという。そして物事に集中しているときには、他人が話しかけたり、ふいに物音がしたり、他のことに気を取られない場所で仕事をするとパフォーマンスがあがる。言い換えると、それら「邪魔」が入ると、再び集中するまでに時間がかかるので、結果作業効率が落ちるのである(だから私は、スマホを持ち歩かないし、あまりそういう機械をいじらない。時間はある程度の固まりで、ひとつのことをやっていったほうがパフォーマンスが上がるから)。というわけで、個人的には、月末金曜に一律で早く仕事が終わる、というやり方でなく、フレックスの勤務形態を増やせばいいと思う。コアタイムを昼過ぎくらいに設定して、会議はそこにぶち込んでしまえばいい。いくら早めに上がれたって、同じ時間にみんなが同じ行動をすればラッシュアワーはなくならないし、会社を離れてから行う「サラリーマンの行動」というのはある程度習慣づけられているから、みんなが行きそうなところは混んでしまうからだ。それが無理なら、せめて15時というしょっぱい時間から休みにするのではなく、昔みたいに半ドン、つまり午前で終わりにしてしまえばいいのになと思う。ちなみにプレミアムフライデー第1回目の日は、安倍総理は坐禅をしたとツイッターにあった。そのあと上野で博物館に行くとも書いてあったが、行動スケジュールから鑑みるとおそらく谷中の全生庵で坐ったんだろう。2年ぶりくらいなんじゃないかな。私は出張だったのだけれど、15時にはちょうど温泉に入っていた。いや、たまたまこれも業務だったのだ(汗)。クライアントを連れて地方におり、昼間に温泉に入るというのは流石に調子が狂う。時計ばかり気にしていて、ほっこりできなかった(^^;開き直って楽しんだほうが精神的にはいいかもしれないのだが、どうもできないんですよね。私の働き改革は、意識の転換を改革した方が早そうだ。
2017年02月24日
コメント(0)
正月に久保田の萬壽を両親と呑んだのだが、開けた箱に1通の手紙が入っており、次のような口上が書かれていた。いつの世でも、特にこのごろのように激しく動く時代では、古い世代と新しい世代との感覚のちがいが大きく、なかなか一致点が探しにくい。どんなに激しく変わっても、一貫しているだろう日本人の育てて来た感覚の本質みたいなものはないだろうか。わざわざ古風な造り方で若い人達にも向く香味を探してみたが……。この酒なら一致点が得られまいか。創業時の久保田屋の名を冠する萬壽久保田。嶋悌司嶋悌司(しまていじ)さんは日本酒界のレジェンドといってもいい人で、新潟県醸造試験場長を務めていた御仁。辛口日本酒の礎を築いた人と言われている。普段は旨口の酒がいろいろあり、そちらを摂取するのに忙しくて久保田を久しく呑んでいなかったのだが、正月に親と一緒というシチュエーションを考えると、ベタなチョイスだけれど、これはどうかな?と思って選んだのだった。1年ぶり以上かもしれないが、正直呑んでみると、(開けたては)なかなか、やっぱり美味しい。足の速さもゆっくりだし、辛口といっても途中からふくよかな味わいがきちんと主張してくる。久保田特有の花のような香りもほどよく漂い、たまにはいいなぁと改めて思い知らされる。ところで、口上の話に戻るのだが、これを読んで嶋さんの思いに非常に共感した。いつの世も、エルダー世代と若い世代とのギャップというのは必ずある。移ろいがあるから歴史があるわけで、変化がなければ人間社会はここまでこなかったからである。次の世代に渡すときに、今やっているやり方を次世代が受け入れられないのなら、頑固にはねつけるのではなく、一致点を見出す。根源(エトスといっていいかも)が変わらないのならば、それをどう伝えればよいのか。旧い世代には知恵と経験がある。だったら正しさや同じやり方を押し付けるのではなく、どうやったら若い世代に気づかせるのか。それが年輪を重ねた人間がとる賢い選択なんだと思う。これはどんな仕事でも、あらゆる人間関係にも言えること。だから「深いなぁ」と感銘した。久保田萬壽も美味しかったけれど、この口上に出会えて、「ああ、この酒を選んでよかったな」と改めて感じだのであった。<お酒メモ>1月10日火曜日シャトーポールマス 赤 ハーフボトル
2017年01月11日
コメント(0)
数年前に仕事の縁で知り合った女性は、結構頑張り屋さんで応援したいなというタイプだったので、可愛がっていた。働きすぎで血を吐いたり、救急車搬送されたりと、たぶん自分の昔と重なるところがあったから放っておけなかったのかもしれない。仕事がない、あるいは働いても先方からの振り込みがないというときは、ご飯を奢ったり、彼女ができる仕事を発注したりして、生活費をアシストしていたこともある。ただ、ストレスからなのか、半年くらい前に倒れて死にかけたそうで、職を辞して一度実家に帰って休養した後、保険外交員に転職した。久方ぶりに会った転職後の彼女は、前とは趣が違っていた。外交員という職業から来るのかな?と思ったのだが、中身も少し変化があった。どうも私は、仲の良い知り合いから、お客さんになってしまったようだった。保険外交員は、まず身の回りの人に保険の勧誘をするのがセオリーなのはわかる。さりげなく営業をしているとなかなか契約がとれないからかもしれない。だからなのか、何となく普段のトークに営業が絡んでくるのである。私も「100%いいひと」ではないので、話の中で営業臭が何度かすると、「あれ?あれあれ?」と思って警戒モードになってしまう。呑み会で会ったのだが、それぞれの誕生日とか、年齢とか、ライフステージとか。「保険獲るぞー!」というやる気モードは結構だが、何かカモにされているようで白けてしまうのだ。この辺、議員さんが懇意にしている地盤の有権者をつい「1票」とカウントしてしまうのに似ているのかもしれない。営業に大切なのは、欲を見せないことである。私は職業上、営業をすることはあるが、賢くないので、欲を見せるなんて高度な芸当はできない。だから、なるべく正直に伝えるようにしている。相手にとって都合の良い点は話すが、リスクも話す。話は大盛りにしない。カマかけてホラを吹いたって、結果が伴わなければ信頼を損ねるだけだ。男と女で表現すれば「一夜限りの関係」みたいなもんである。結果がよければ、「周囲やあなたのおかげ」だと言うし(これはおべっかでなく本心。つくづく自分に能力がないので、運よくうまくいくことを何度か経験して、そういう考え方になってしまった)、そもそも運や「流れ」込みで大仰に営業をかける人は度胸があるなと驚く。それはリアル社会で「信用取引」しすぎのように見える。根拠はないが、欲が見えない営業をした方が、営業相手の人生経験が長い場合「あれ、この人って」と不思議な感覚を持ち、後で気になるのではないだろうか。世の中は、自分の欲を相手に押し付ける人の方が多い。営業で来ればなおさらである。追いかければ相手は逃げる、こっちが逃げれば気になって相手がやってくる(かもしれない)。これは駆け引きでよく言われることだけれど、下心(欲)なく、それができる人間は一番手ごわいんだと思う。というわけで、手ごわいを目指しているわけではないのだが、不器用な私は、「そっち路線」を志向したほうが生きやすいように感じているので、日々、あまりあれこれ考えずに人に会っている。考えすぎると欲が生まれることって、人間の「あるある」だから。サロンFUJIYAMAの講師をお願いすることも「下心なし」でやっているつもり。自分の懐には1円も入らない。だからこそ負い目なく「この人にこの時期話してもらうとタイムリーかもしれない」と思った人に頼めるし、会費も今のままでやっていくことができるのだと思う(この辺、主宰の吉野さんが被ってたら失礼しました!)。そもそも裏方的生き方が好きで、大義がなければ表に出たくないなーという性分なので、案外こういう役回りは合っているのかもしれないけれど――。お越しいただいた講師は、自画自賛で「当たり」だと思うのだが、ちっとも自分の運用成績は上がらない(笑)これって相場に対して欲望むきだしだからだろうか。もうちょっと分析をやらないとダメだなー。<個人的メモ>カテゴリに「生き方」を追加しました。とある人にアドバイスされたことがあり、それをやるためにあとで自分で見なおすためのタグ付けです。投資や健康ネタと重なるときもありますが適宜分けていきます。すみません。・過去の「生き方」カテゴリに追加:成り行き(2017年1月4日)
2017年01月08日
コメント(0)
全7件 (7件中 1-7件目)
1