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東京駅付近の三菱一号館美術館で開催中の「シャルダン展 静寂の巨匠」に行ってきました。 シャルダンが無名と言ってよい存在であること、三菱一号館美術館もあまり著名でないこと(私は初めて行きました)、それにしては油彩38点の展示で1500円とお得感がないこと、そして私が平日に行ったことの条件が重なっているためでしょうけど、すいてました。平日に行っても人だかりの美術展ばかりで辟易していましたので、それだけでうれしくなりました。 三菱一号館美術館は初めて行きましたが、小部屋に区切られ、全体の展示数が38点と少ないこともあってでしょう、一部屋に2点とか3点とかずつのゆったりした展示。それにもかかわらずというか、主催者側では絵を守るために当然ではありますが、一部屋に一人は監視員がいますが、観客が少ないので手持ちぶさたにしていました。絵の前には多くの場合柵かここから入るなというラインが引かれていますが、他の美術館のように1メートルも離されることはなく50センチくらいの感じで、脚は入らなくても上体を寄せるとかなり間近でまじまじと見ることができます。まぁそうすると監視員が観客が触らないか見えるような位置に移動するのがちょっとプレッシャーになりますが、注意されることは一度もありませんでした。立ち止まることさえ許されないマウリッツハイス美術館展とかとは大きな違いです。 一部屋ごとに自動ドアで仕切られているのは、空調(湿度?)を維持して絵を保護する目的なんでしょうか。福島原発震災後の感覚としては、ちょっと電気の無駄遣い感がありますが。 シャルダンの静物画は、かなり写実的ですが、しかし写真のような緻密さを売りにする静物画とはちょっと違う感じがします。私には、銅や銀、鉄などの金属系の食器(鍋やゴブレット)の描写や陶器の描写に味わいのある画家だなと思えました。 静物画のモチーフが似たようなものが並べられ、ちょっと見飽きる感じもありましたが、今回の展覧会の目玉になっている「木イチゴの籠」と隣の部屋に展示された「水差しときゅうりとさくらんぼ」で、同じ人が同じ時期に描いたさくらんぼの透明感が全然違うのはなぜとか、桃の色やぼかしぶりの微妙な違いとか、同じ素材を描いた絵が並ぶ故の楽しみ方もありました。 風俗画では、人気作品の「食前の祈り」のまなざしや肌の描写に魅せられます。事前には知らなかった作品ですが、「病後の食事」(別名「思いやりのある看護人」)のすっきりとしたたたずまいもちょっと拾いもの感がありました。 絵の性質からも、画家の知名度からも、その結果としての空き具合からも、地味な展覧会ですが、絵自体の趣味のよさとゆったりじっくり見れる気持ちよさで割とよかったかなと思います。
2012年11月03日
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久しぶりに映画以外で書きたくなったので、こちらに書きます。 東京都美術館リニューアルオープン記念のフェルメール「真珠の耳飾りの少女」が売りの「マウリッツハイス美術館展」に行ってきました。平日の夕方を狙って行きましたから、待ち時間はゼロでしたが、「真珠の耳飾りの少女」の前だけは行列と人だかりが絶えませんでした。 公式サイトでの説明では、「マウリッツハイス美術館では、本展を開催する2012年から大規模な増改築工事がスタートします」とあり、「マウリッツハイス美術館から、名品約50点を選りすぐって紹介します」とされています。こう書かれると、改修工事中だからマウリッツハイスの代表作がそろって来るかのように読めます(公式サイトでは、そういう苦情に対応できるようにか、そう明言はしていませんけど)。例によって「主な作品」(12点)だけしか紹介してなくて、出品目録もネット上公開されていませんしね。 実際の出品目録を見るときには既に入場してますが、マウリッツハイスのフェルメール作品で「真珠の耳飾りの少女」と並んで有名な「デルフト眺望」は来ていません。まぁ、これはもし来るなら思い切り宣伝するでしょうから、「真珠の耳飾りの少女」しか宣伝しない以上、来ないとわかりますが。レンブラントも6点も来ると誇らしげに書いていますが、マウリッツハイス所蔵で一番有名な「テュルプ博士の解剖学講義」は来ていません。アーフェルカンプの「氷上の遊び」も来ていませんし。 マウリッツハイスからフェルメール2点借りてくるならどう考えたって「真珠の耳飾りの少女」と「デルフト眺望」でしょう。「ディアナとニンフたち」なんて真作か贋作かずっと議論されている代物ですし、2008年に東京都美術館が第一生命・朝日新聞社という今回と同じ組み合わせでやった「フェルメール展」でも展示されてたものじゃないですか。前回に味を占めてフェルメールと名のつく物さえ並べれば客が来ると踏んでのことでしょうか。実際、前回同様に自ら主催の朝日新聞が記事か広告か判別しがたい広告を大量に掲載して煽り倒して既に(2012年8月16日で)入場者40万人超えですからもくろみ通りになっていますが。 展示は、全部で48点のうち美術館の紹介用の作品が6点、風景画が8点、物語画が6点、肖像画が13点、静物画が6点、風俗画が8点という17世紀オランダ絵画の盛り合わせ。いろんな分野をちょっとずつアリバイ的に並べた感じで、私には全部中途半端でポリシーが感じられませんでした。私の感覚では、17世紀オランダ絵画を紹介するということなら静物画と風俗画に集中した方が見応えがあると思いますし、どうしてもフェルメールとレンブラント(の今回出品作)で売りたいなら肖像画に特化した方がいいと思います。 そして、「真珠の耳飾りの少女」。宣伝では、これが間近に見られるかのようにいわれていますが、全面ガラスの向こう、柵の1m以上先上方にある絵を、行列したあげくに「立ち止まらないでください」と係員に急かされながら通り過ぎるだけ。こういうパンダでも見せるような感覚(パンダはそれでも写真が撮れるけど、美術展では撮影厳禁でその場で目に焼き付けるしかないのに)で美術作品を見せる人々に美術展なんか主催して欲しくない。目があまりよくない私には、まじまじと見る余地なく歩きながら見るだけでは実物を見たという感覚は持てません。こういう見方なら、映像なり写真集で見る方がいい。実物を見て感じたのは、映像に比べて色があせている(17世紀の絵であることを考えると色あせしてない方と評価すべきでしょうけど)なというくらい。もっともそれも全面ガラスと照明の仕方の関係かもしれませんが。 主催者の美術展ビジネスの道具のフェルメールはおいて、17世紀オランダ絵画の小規模作品展としてみると、いつもながらに17世紀オランダの画家たちの緻密な描写と繊細で柔らかいタッチ、草木や毛の筆遣いや布などの質感に心を奪われます。私が知らなかった画家ですがヴィレム・ヘーダの「ワイングラスと懐中時計のある静物」など、よくぞここまでという感じです。その前後の静物画も素晴らしいのですが、じっと見ていると壺・食器類の形が歪んでいるのは、当時の食器等の製作技術の問題でリアリティの追求なのか、それともデッサン力の限界なのか。風俗画ではピーテル・デ・ホーホの「デルフトの中庭」ですね。前回(2008年)の「フェルメール展」の中ではデ・ホーホは迫力不足に思えたのですが、今回の展示では光って見えました。 ルーベンスの「聖母被昇天」の下絵(完成品はアントワープ大聖堂所蔵)が展示されていて、「フランダースの犬」でネロがどうしても見たかった絵がこれなのかとわかったのが一番の収穫だったかも。
2012年08月21日
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2011年11月23日に嘆いたように、楽天ブログは不条理な制限が多いので、2011年11月26日にココログに引っ越しました。伊東良徳の映画な週末http://weekendmovies.cocolog-nifty.com/blog/まぁ、こちらでも映画以外の記事を気が向いたら書くかもしれませんけど、映画の感想は今後ココログで書きます。ココログに引っ越した後の記事は以下の通り。レ・ミゼラブル(2013年1月5日)大奥~永遠~(2012年12月30日)ブレイキング・ドーン Part2(2012年12月29日)恋のロンドン狂想曲(2012年12月24日)鍵泥棒のメソッド(2012年12月22日)ボス その男シヴァージ(2012年12月16日)砂漠でサーモン・フィッシング(2012年12月15日)007 スカイフォール(2012年12月9日)ねらわれた学園(2012年12月8日)HICK-ルリ13歳の旅(2012年12月2日)のぼうの城(2012年12月1日)ふがいない僕は空を見た(2012年11月25日)人生の特等席(2012年11月24日)ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q(2012年11月23日)ゲットバック(2012年11月18日)リンカーン/秘密の書(2012年11月11日)伏 鉄砲娘の捕物帖(2012年11月10日)アルゴ(2012年11月4日)声をかくす人(2012年11月1日)終の信託(2012年10月27日)あなたへ(2012年10月21日)毎日がアルツハイマー(2012年10月20日)天地明察(2012年10月14日)エージェント・マロリー(2012年10月13日)ボーン・レガシー(2012年10月8日)よだかのほし(2012年9月30日)ライク・サムワン・イン・ラブ(2012年9月29日)最強のふたり(2012年9月23日)白雪姫と鏡の女王(2012年9月22日)夢売るふたり(2012年9月16日)踊る大捜査線 THE FINAL(2012年9月15日)アベンジャーズ(2012年9月2日)プロメテウス(2012年9月1日)トガニ 幼き瞳の告発(2012年8月26日)セブン・デイズ・イン・ハバナ(2012年8月25日)桐島、部活やめるってよ(2012年8月16日)テイク・ディス・ワルツ(2012年8月14日)トータル・リコール(2012年8月13日)あの日あの時愛の記憶(2012年8月12日)おおかみこどもの雨と雪(2012年8月11日)The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛(2012年8月5日)ダークナイト ライジング(2012年8月4日)ル・アーブルの靴みがき(2012年7月22日)リンカーン弁護士(2012年7月16日)崖っぷちの男(2012年7月15日)BRAVE HEARTS 海猿(2012年7月14日)それでも、愛してる(2012年7月7日)臨場(2012年7月1日)ブラック・ブレッド(2012年6月30日)ワン・デイ 23年のラブストーリー(2012年6月24日)アメイジング・スパイダーマン(2012年6月23日)ホタルノヒカリ(2012年6月16日)ケイト・レディが完璧な理由(2012年6月10日)ジェーン・エア(2012年6月9日)君への誓い(2012年6月3日)メン・イン・ブラック3(2012年6月2日)ダーク・シャドウ(2012年5月27日)ガール(2012年5月26日)ビターコーヒーライフ(2012年5月20日)レンタネコ(2012年5月19日)幸せの教室(2012年5月13日)孤島の王(2012年5月12日)宇宙兄弟(2012年5月5日)テルマエ・ロマエ(2012年5月4日)裏切りのサーカス(2012年5月3日)ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン(2012年4月30日)篤姫ナンバー1(2012年4月29日)ももへの手紙(2012年4月28日)名探偵コナン 11人目のストライカー(2012年4月22日)BLACK & WHITE(2012年4月21日)ドライヴ(2012年4月15日)ヘルプ 心がつなぐストーリー(2012年4月8日)ルート・アイリッシュ(2012年4月7日)スーパー・チューズデー 正義を売った日(2012年4月1日)マリリン 7日間の恋(2012年3月31日)マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙(2012年3月20日)ヤング≒アダルト(2012年3月18日)シャーロック・ホームズ シャドウゲーム(2012年3月17日)しあわせのパン(2012年3月11日)トワイライトサーガ ブレイキング・ドーンPart1(2012年3月10日)麒麟の翼(2012年3月4日)51 世界で一番小さく生まれたパンダ(2012年2月25日)人生はビギナーズ(2012年2月5日)J・エドガー(2012年2月4日)ALWAYS 三丁目の夕日’64(2012年1月29日)ニューイヤーズ・イヴ(2012年1月15日)ひまわり デジタルリマスター版(2012年1月9日)サラの鍵(12月24日)ミッション・インポッシブル ゴースト・プロトコル(12月23日)クリスマスのその夜に(12月18日)三銃士 王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船(12月11日)源氏物語 千年の謎(12月11日)50/50(12月4日)モテキ(11月27日)イチゴ白書 デジタルリマスター版(11月26日)
2011年11月26日
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心を閉ざしてしまった青年が遺品整理業で働きながら再生して行く姿を描いた青春映画「アントキノイノチ」を見てきました。 封切り5日目祝日、12月25日での閉館が決まりこれが最後の上映作品となる見込みの池袋東急、午前11時の上映は4割くらいの入り。予告編なし(この先上映作品もないし)に魅力を感じる客は少ないでしょうか。 高校時代、生まれつき吃音がある永島杏平(岡田将生)は、級友の山木(染谷将太)が松井(松坂桃李)のいじめを受けて松井にナイフを向けたのを止めたところ、山木からおまえだけは味方だと思ってたのにと言われ、目の前で山木が飛び降り自殺、その後は松井から陰湿ないじめの標的とされ続け、登山部での登山中のできごとを契機に、学園祭のさなか松井のいじめを知りながら黙っている周囲に激高し、松井に刃を向け、心が壊れた。3年後、父親の紹介で遺品整理業で働き始めた杏平は、先輩の佐相(原田泰造)、久保田ゆき(榮倉奈々)に教えられながら、死者の生前の生活と思い、遺族の思いを感じつつ仕事を覚えていく。そんな中、ゆきから過去のことを打ち明けられ、ラブホの部屋で迫られた杏平は・・・というお話。 吃音がありスムーズに話ができず、いじめや級友の自殺から心が壊れて立ち直り切れていない青年とレイプ・妊娠・流産の過去から立ち直り切れていないリスカ少女という、かなりヘビーな設定のもどかしくもすれ違う恋愛が1つの軸になっていますが、この不器用さぎこちなさが切ないというところ。 思わせぶりに紹介したラブホのシーンも、リスカの跡のある人からレイプされてその後男の人から触られるのが怖くてと打ち明けられた直後のシチュエーションで、そりゃないだろうって思う。そういう状況が見えずに迫ってしまうゆきの不器用さがちょっと切ない。 観覧車の中で、いきなり立ち上がって窓を開けて大声上げる(それもただウォーって)杏平も。そんなことされたら一緒にいる相手はかなりびびると思うんだけど。 2人の恋の行方の方は、終盤はとにかくアントニオ猪木になってしまうので、私にはちょっと不完全燃焼の思いが残ります。そっちに行くなら「燃える闘魂」で迫れ・・・というわけにも行かないか。 2人の心の傷が、どちらも高校生活、高校の級友から受けた傷というのも、学校の荒廃というか陰湿ないじめの蔓延を背後的なテーマとしているといえるでしょうか。 もっとも、杏平は両親が離婚して父親と2人暮らし、「お父さんも浮気していたから、お母さんを責められない」「そんな話聞きたくない」なんてやりとりをしてますし、ゆきもレイプの後母親が理解してくれなかったことにも触れていますから、家庭環境の問題も気にしてるでしょうか。 遺品整理業とその中で描かれる孤独死と死者の生活と思い、遺族の思いというあたりは、考えさせられますが、同時に映画としては、「送り人」の2番煎じ的な印象を持ってしまいます。 杏平らが遺品を整理する孤独死した人の部屋の様子を見ていると、私の場合は、自宅はまだしも、事務所の散らかりようからして、私が死んだらこういう業者さんにお願いすることになるだろうなと、そちらに思いをはせてしまいました。
2011年11月23日
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「90年代、日本で騒然となったエリート女性の昼と夜の二重生活。渋谷区円山町ラブホテル街で実際に起きた殺人事件から、インスパイアされた未知なる禁断の世界」(公式サイトのイントロダクション)だとかいう「恋の罪」を見てきました。 封切り2週目日曜日、全国19館東京で4館の上映館の1つテアトル新宿の午前10時30分の上映は9割くらいの入り。18禁映画に日曜日朝から長蛇の列ができているのにはビックリ。観客層は中高年男性が多数派でしたが、若い女性客もわりといた感じ。 本来、この後に作品紹介と論評を書いているのですが、文章が何度も書き直しても、楽天ブログから「 わいせつ、もしくは公序良俗に反すると判断された表現が含まれています」というクレームが付いて「入力エラー」とされて公開できません。楽天ブログはどの部分がそうなのかの表示もしてくれないので、書き直しているうちにばかばかしくなりました。文脈と関係なく言葉狩り的な制限をして、どこがそれに該当するかも教えてくれない不親切さにはあきれます。 もう何度目かの思いですが、楽天ブログなんてやめて別のブログに移そうかなぁ。
2011年11月23日
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野球界の常識を打ち破る理論でアスレチックスを常勝球団に変えたGMの物語「マネーボール」を見てきました。 封切り2週目土曜日、1064席の新宿ミラノ1、午前10時30分の上映は1割未満の入り。私がいつも人が少ない午前中を選んで見に行く(人が少ない方が見やすいし、午前に見るなら午後仕事できますし。土日が夜までずっと仕事だったから今ごろ書いてます。とほほ)ためか、このスクリーンが満席はもちろん、5割入ってるのも見た覚えがないんですが(同じ新宿でもピカデリーのNo.1スクリーン(580席)は土曜の午前中でもけっこう埋まってることが多いから、営業努力のせいかも)、それにしてもブラッド・ピット主演の娯楽映画でこれは悲惨。 かつて高校生時代5拍子そろった才能とスカウトに評価され多額の契約金に目がくらんで大学進学を諦めてニューヨーク・メッツ入りしたが自信が持てずに芽が出ないまま引退した野球選手ビリー・ビーン(ブラッド・ピット)は、引退後フロント入りし、現在はオークランド・アスレチックスのゼネラル・マネージャーとなっている。アスレチックスは貧乏球団で、ポストシーズンではヤンキースに勝てず、シーズン後には主力選手を次々と引き抜かれてしまう。翌年の補強計画もままならないビリーは、トレード交渉に行った相手方球団でイェール大学経済学部卒のピーター(ジョナ・ヒル)に目をつけて引き抜き、徹底的なデータ分析により、出塁率を重視してそのデータのわりに価格の安い選手をかき集めて新チームを編成する。野球の経験のないピーターの意見を重視し、キャッチャーの経験しかないハッテバーグ(ケリス・ブラッド)を1塁に転向させるなどして、周囲のスカウトらの猛反発を受けたビリーは、反対するスカウトを首にし、ビリーが入れた選手を起用しない監督(フィリップ・シーモア・ホフマン)に対しては監督が使っている選手を次々トレードで放出するという強硬策を用いて、突き進んでいくが・・・というお話。 貧乏球団がそれなりの工夫で金持ち球団を打倒するというパターンは、日本の映画ならまず間違いなく猛練習とか精神論がメインに据えられると思いますが、この映画ではそういう描き方は一切していません。ビリーはGMで権限としてはチーム編成で、練習や試合での選手起用は権限外ということもありますが、ただひたすら少ない予算でいかにして選手を獲得するかの理論と交渉が描かれています。そういう意味では、スポーツものというよりはビジネスものという印象を持ちます。 なんせビリーは試合は見ないという方針ですから、試合のシーンも多くはなく、見ていても、結局なぜビリーが編成したチームでアスレチックスが急に勝てるようになったのかは、わかりません。抽象的にデータ野球の勝利というだけで、具体的にそのデータがどう生きたのかもあまりわかりませんでした。まぁ、実話ベースで、現実にアスレチックスが勝ったから、因果関係が具体的に描かれなくても説得力はあるということなんでしょうけど。 離婚して、母親の下にいる娘のケイシー(ケリス・ドーシー)との面会が数少ない楽しみというビリーの私生活と、過去の高額の契約金のために人生を誤ったという後悔を持つビリーの貧乏球団で働く意地というあたりが、中年男には、ノスタルジーというか共感を抱かせます。その娘が歌う「バカなパパ」の歌を聴きながらドライブするビリーの表情が、ちょっといいかも。
2011年11月23日
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穏やかで幸せな生活を送る初老の夫婦とその家庭を訪れる人々の明暗を描いた映画「家族の庭」を見てきました。 封切り2週目土曜日、全国で唯一の上映館銀座テアトルシネマの午前10時10分の上映は5割くらいの入り。 心理カウンセラーのジェリー(ルース・シーン)と、地質学者のトム(ジム・ブロードベント)は、ともに仕事をしながら、家庭では料理やワインを楽しみ、休日には家庭菜園で野菜作りにいそしむ、仲むつまじい初老の夫婦。ジェリーの20年来の同僚メアリー(レスリー・マンヴィル)は男性関係で失敗しては落ち込んでジェリーを訪ね、トムとジェリーは温かく迎えてきた。友人が集まったパーティーでは、トムの友人で肥満した独り者のケン(ピーター・ワイト)がメアリーにモーションをかけるが、メアリーは一回りは年下のジェリーの息子のジョー(オリヴァー・モルトマン)に猛アタックをかける。ジョーはメアリーを適当にあしらい、その後知り合った恋人ケイティ(カリーナ・フェルナンデス)を連れてトムとジェリーの家を訪れるが、その日にもメアリーはやってきた。トムの兄ロニーの妻リンダが亡くなり、2年も音沙汰がないまま突然やってきてロニーを罵る息子のカール(マーティン・サヴェッジ)の様子を見てトムはロニーをしばらく家に逗留させるが、トムとジェリーが家庭菜園に行き、ジョーがケイティを連れてくる日にまたメアリーがやってきて・・・というお話。 トムとジェリーの夫婦は、打ち込める仕事を持ち、しかしワーカホリックではなく家庭生活も楽しみ、鷹揚でユーモアに富み、寄り添い慈しむ様子がほのぼのとして、こういうふうに老いていきたいなぁとしみじみ思わせるモデルになっています。 他方において、メアリーは典型的な困ったちゃん。20代で結婚して失敗し、30代で幸せな結婚をしたもののやはり離婚にいたり(500ポンド払わせられたっていっていますが)、64歳の既婚者と不倫しては捨てられ、貯金をはたいて車を買って一時は満足していたけど盗難や事故で廃車、病院に20年も勤めているのに同僚の医師タニヤの赤ちゃんの前で煙草を吸い始めてみんなが避難してしまう(このあたりはケンと同じ)、一回りは年下の男それも同僚の息子に言い寄る(あぁここでもセカンド・ヴァージン症候群?)といった具合。 エンディングは、ジェリーを完全なパーソナリティと描きたくなかったためでしょうけど、これだと幸せになりたければいつまでも友人の好意に甘えずに自分で努力しなさいといっているみたい。それはそれで私もよくわかりますけど、ただ同時にそれほど努力しなくてもうまくいく人も、努力してもうまくいかない人もいることも事実。メアリーにしても、本人が心機一転して努力すればうまく行くとは限らないし、本人がどんなに努力しても襲ってくる不幸もあります(まぁその不幸を弱めて乗り越えていく、その対応に人柄や努力がまた現れてくるわけですが)。このエンディングは、ちょっと救われない思いが残りました。 原題は“Another Year”で、春、夏、秋、冬と、それらしい心象風景を伴う場面展開ですが、また来る春につなげずに冬で終わらせたところが特徴的でもありエンディングの寂しさにつながっている感じがします。 ストーリー展開は地味目で、全体に静かに進んでいき、トムとジェリーの生き方に穏やかに共感するという映画ですから、素直に共感できる観客にはしみじみと広がる感動とかいえるでしょうけど、そう思えない観客には起伏に乏しい退屈な映画と感じられるでしょう。エンドロールに入った瞬間にバタバタと立ち上がって帰る客が目に付きました。 冒頭、タニヤとジュリーの質問にろくに答えず、不眠だから睡眠薬をくれという患者がわりと長時間登場します。最初は、この患者が何か重要な役割を果たすのかと思いましたが、その後登場しませんでした。エンディングからすると、メアリーの末路を暗示しているのかもしれませんが。 専門家側からするとこういう人は、困りもので、具体的な状況を話してくれないときちんと対応できないというか問題を解決できません。弁護士のところにも、さすがにお金を払って相談するのにこういう態度は稀ですが、こういう相談者がたまにやってきます。法律相談の場合は、メディアでやっている誌上法律相談とかの、実際には法律相談ではなくて法律の一般論のお勉強レベルのものが法律相談の名前でメディアに載っているために、抽象的に質問をすればいいと思っている人が出てくるためでしょうけど(そのレベルのものは、それこそメディアで、インターネットでいえばYahoo知恵袋とかでやってて欲しい)。専門家からの質問にきちんと答えないことで、問題を解決できないのは、自業自得でまぁしかたないとは思いますが、それでまた不愉快な思いをするのもばかばかしいと思います。 「トムとジェリー」という主役の名前は、やっぱりそのアニメをリアルタイムで見た世代をターゲットにしているのでしょうか。イギリス映画だからそれは意識していないか・・・。息子のジョーは30歳だからトムとジェリーは50代半ばから後半といったところでしょうか。でも、ビートルズの話題も出てくるし・・・
2011年11月12日
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サンダンス映画祭グランプリ・アカデミー賞作品賞ノミネートのインディペンデント映画「ウィンターズ・ボーン」を見てきました。 封切り6日目祝日、全国9館、東京2館の上映館の1つ新宿武蔵野館の午前10時50分の上映は7割くらいの入り。観客層は中高年一人客が多数派でした。 コカイン(字幕は「覚醒剤」ですが)密売で生きる一族の父親は製造役で長らく家に寄りつかず、母親は心を病んで引きこもり、17歳のリー(ジェニファー・ローレンス)は、弟のソニー、幼い妹のアシュリーを守りながら、一家の支えとなり、ミズーリ州の山の中で暮らしていた。ある日、保安官(ギャレット・ディラハント)が訪ねてきて、逮捕されて保釈中の父親が失踪している、この家と森が保釈保証金の担保になっていて、1週間後の裁判に父親が現れなければ家を出て行かなければならなくなると、伝えた。リーは父親を捜し出そうと、父の兄のティアドロップ(ジョン・ホークス)を訪ねるが、ティアドロップは、探すのはやめた方がいい、家に帰れと反対する。リーはさらに一族を訪ね歩くが、従兄は明白な嘘を言い、一族の長は会おうともせず追い返す。保釈保証業者から、父親が裁判に現れなかったことを伝えられ、1週間後に明け渡すことを求められたリーは、一族の長を追いかけるが、一族の者に囲まれて納屋に連れ込まれ・・・というお話。 17歳にして一家を支えなければならないリーのりりしさというか、生きる意志の強さ、次々と訪れる試練にも折れない心のたくましさが、涙ぐましくも感動的な映画です。 単純な正義ではなく、一族がコカイン密売で生きていることを受け止めつつ、自分も「ドリー家」の一員と認識し、保安官には協力せず、自らはコカインはやらず煙草も吸わず、母や弟、妹の世話をしながら、けなげに生きるというリーの生き様が、地に足が付いた感じです。 ひもじさに隣の人にお裾分けをせがみたいという弟に、プライドを持てとたしなめたり、弟や妹にライフルの撃ち方を教えて自立の術を伝えていこうとする姿も(リスを撃って皮を剥ぎ内臓を取ってシチューにするあたり、ちょっとつらいかもしれませんが)、共感しました。 スタートやラストで弟と幼い妹(アシュリー、かわいい!)が無邪気に遊ぶ姿が効果的に使われ、本当は自分もそういう側であってもいい17歳のリーが大人にならざるを得ない境遇にさらに涙してしまいます。 ど派手なシーンはなく、見てすっきりするという映画でもないですが、こんな子ががんばってるんだから自分もしっかりしなきゃねと素直に思える映画です。 いかにもお金がかかってないよねって映画でアカデミー賞作品賞・主演女優賞・助演男優賞ノミネートっていうのも快感だし。でも、そういうの日本では興行的には厳しいでしょうけどね。 ラストで、リーがソニーから聞かれて、字幕で見る限りでは弟と妹を荷物と言って荷物がないと気が抜けちゃうという台詞がありますが、my bag は「荷物」なんでしょうか。文脈はいいんでしょうけどちょっとニュアンスが気になりました。 保釈保証業者が、実質は高利貸しで担保の丸取りを図るというあたり、日本でも金貸しが不動産を仮登記担保と代物弁済予約で丸取りして暴利をむさぼり庶民をいじめていた時代を彷彿とさせます。 コカインの製造で逮捕された父親が、「10年の懲役」が怖くて一族を裏切ったという設定。日本では覚醒剤はたいてい外国製で密輸ですから(本来の意味での)製造事犯はあまり聞きませんが、もし摘発されたら、どれだけの量を製造したということかにもよるでしょうけど、今どきの日本の刑事裁判の情勢では懲役10年では済まないでしょうね。アメリカは刑事裁判の量刑が厳しいという感覚でしたが、日本の方が厳しいかも。
2011年11月03日
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失敗続きのダメダメ弁護士が落ち武者の幽霊をアリバイ証人に呼ぶ法廷コメディ「ステキな金縛り」を見てきました。 封切り初日土曜日、キネカ大森の午前10時15分の上映は3~4割の入り。観客層は圧倒的に中高年でした。新宿や渋谷だとだいぶ違うかもしれませんが(新宿ピカデリーなんか、一番大きな1番スクリーンが予約でかなり埋まってますし)。 失敗続きのダメダメ弁護士宝生エミ(深津絵理)は、ボス(阿部寛)から、「最後の事件」として妻殺しの容疑で逮捕された矢部五郎(KAN)の弁護を任される。面会に行ったエミに五郎は事件当日は奥多摩山中の旅館「しかばね荘」で落ち武者の幽霊に一晩中のしかかられて金縛りにあい動けなかったというアリバイを主張した。公判前整理手続で担当の小佐野検事(中井貴一)から、そのアリバイ主張を鼻で笑われ、その落ち武者の幽霊を証人として連れてきてもらうしかないですねといわれたエミはしかばね荘に行き、落ち武者更科六兵衛の幽霊(西田敏行)に出会った。自らが北条家の家臣として豊臣側への内通の濡れ衣を着せられて首をはねられた悔しさから成仏できずにいる六兵衛は、五郎の冤罪を知り、証言に同意したので、エミは六兵衛を連れ帰る。しかし、六兵衛は日没後しか姿を現せず、大半の人には姿も見えず声も聞こえない。エミは六兵衛の姿が見える人の共通点を探して誰に六兵衛が見えるかを探るとともに、姿の見えない六兵衛に法廷で証言させる手段を思案するが・・・というお話。 38歳の深津絵理の、ドジだけど一生懸命やってる新人弁護士の初々しい演技と時折見せる会心の笑顔が染みる映画です。阿部寛のボスと中井貴一の検事もまじめそうに見えながらひょうきんなところもあり、外れた言動をまじめな顔で演技し続けてきちんと固めています。ハチャメチャな展開が続く法廷シーンでは、裁判長(小林隆)の腰の低い柔軟というか飄々とした演技が、締めているというかいい味を出していたと思います。 法廷シーンは、日本の刑事裁判ドラマ・映画にありがちなように基本的にアメリカの法廷物を見て作っている感じで、私自身ここ数年刑事事件をやっていないので断言はしませんが、日本の裁判所等の実情とはかなり違う感じがします。今どきあれだけ法壇の高い法廷はないと思いますし、裁判員裁判なら裁判員は職業裁判官と並んで座るはずですし、拘置所の面会室で被疑者と弁護人が電話を使って話すというのも日本ではないと思います。 裁判長の訴訟指揮は、もちろん、幽霊が証言するとかいうど外れた設定ですから考えられない展開とはいえますが、近年は民事部の裁判官には、率直に内心を示しつつ腰が低い裁判官も増えてきていて、予想外の展開になったときに裁判官がこういう選択をすることもありそうな気がして、私にはそういう点でもおもしろく見ることができました。たぶん、刑事事件では裁判官は威厳を示す必要が強いと考えられているのでそうはいかないのだろうとも思いますけど。 主演の深津絵理に限らず、役者の表情がいい映画だなと思います。見得を切っているわけではないけれど、勘所で表情が決まっているという感じがします。「自然さ」はもともと要求されない映画ですから、いかにも演技してるぞって感じともいえますが。 ちょい役(それも登場するのが1分たらずの)に主役クラスの名前が並んでいるのもゴージャスな気分になれます。深田恭子のファミレスウェイトレスとか(「恋愛戯曲」の公開前記者会見では「もう胸の谷間は見せません」と言っていたはずですが・・・)、篠原涼子の金髪のチャラいねぇちゃんとか(ストリッパーと言ってますが、もちろん、そういうシーンはありません)、佐藤浩市のチャンバラ切られ役とか。 原作はないから、名前が呼ばれないちょい役は名前がなくてもいいんですが、公式サイトでは、深田恭子のウェイトレスは「前田くま」。篠原涼子の金髪ねぇちゃんは「悲鳴の女」。何だろう、この違いは。本人にはどっちがいいんだろう・・・
2011年10月29日
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ニューヨークのライターが実践したゴミ排出ゼロの電気を使用しないエコライフのドキュメンタリー映画「地球にやさしい生活」を見てきました。 封切り3週目日曜日、現時点でたぶん全国唯一の上映館の新宿武蔵野館の午前10時からの上映は、トークイベントとクッキーのお土産付きで5割くらいの入り。 ニューヨークの五番街に住むライターのコリン・ビーヴァンが地球環境に負荷をかけない生活の計画( No impact project )を実践すると宣言し、ゴミ排出ゼロ(食物の包装は拒否、近隣の青空市場で購入し、残飯はミミズコンポストで堆肥化)、輸送による二酸化炭素の排出を減らすために自らは自動車はもちろん、航空機、地下鉄にも原則として乗らないのみならず、食べ物も原則として400km以内で生産された物のみにし(地産地消)、食品以外の新たな購入はせず、消耗品の使用も最小限にとどめトイレットペーパーも使用しない、6か月後からは電気も使用せずローソク暮らし(途中からソーラーパネルでパソコンは使えるようにする)といった徹底的なエコライフを、「ビジネス・ウィーク」記者の妻ミシェルと幼い娘を巻き込んで1年継続し、エコライフの伝道者、エコロジカルテロリストなどと言われながらテレビ出演や妻との駆け引き・摩擦・共感、友人たちとの交友を続けていくというお話。 極端なエコライフの提唱と実践が、あそこまでやらなければならないと思うと普通人にはついて行けなくなりかえって環境保護派の主張に非現実性、嫌悪感を感じさせるというリスクを持ちつつ、ニューヨークの真ん中で全くの素人がやろうと思えばやれてしまうことを見せ、それぞれがやれる範囲でやればいいというメッセージが繰り返されることで、生活の見直しのきっかけにはなるかなという感じの作品になっています。 必ずしも完全な実践ではなく、電気については途中でソーラーパネルを導入したり、冷蔵庫についてはポット・イン・ポットタイプの陶器(素焼きのワインクーラーのような原理)を試して失敗し、クーラーボックスに下の階の友人からもらった氷を入れてミシェルから他人に電気を使わせてそれに依存することを皮肉られ、ミミズコンポストは夏になるとハエの生産機と化し、といった失敗と試行錯誤が紹介されていることも、実践のリアリティを感じさせます。 買い物中毒でテイクアウト中毒、カフェイン中毒の妻ミシェルが、当惑し、時に反発しながら、1年間の実験に協力を続け、青空市場を通じての生産者との交流や友人との交流が増えたことなどを評価し、実験が終わった後もテレビはもう見ないとか青空市場での買い物は続けたいなどと語っている姿は、全部は無理でも一部ならできそうという印象を与えます。 コリンに意見している知人が、個人の努力よりも、現在の大量消費社会を維持しているのは会社資本主義でおまえさんの妻はビジネス誌で会社資本主義を広めてるんだろと言うシーンがあります。そんなことを言っても、とも思いますが、コリンがそれを軽く受け流すところも、コリンが原理主義者ではなく、やれることだけやればいいという立場であることを示しているように思えました。 翻って自分の生活を考えると、いろいろ目に付くところはありますが・・・コメントは控えておきます。
2011年10月23日
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1941年に産まれたアメリカン・コミック界最初のスーパーヒーロー漫画を映画化した「キャプテン・アメリカ」を見てきました。 封切り2週目土曜日、運営会社の東急レクリエーションから12月下旬閉館が発表されている(でもなぜか「映画ナビ」のサイトには書かれていないけど)池袋東急の午前11時50分からの上映は2割くらいの入り。観客の多数派は一人客でした。 北欧の神オーディーンの伝説のパワーストーンを得たナチスの極秘科学部門「ヒドラ」は、ヨハン・シュミット(ヒューゴ・ウィーヴィング)の統率の下で強力な光線銃を大量生産し、世界制覇を目指していた。対するアメリカ軍は、かつてシュミットに超人化の血清を注射して悪しき心も増幅させてしまった失敗を悔やんでアメリカに渡ってきたアースキン博士(スタンリー・トゥッチ)の下でスーパー・ソルジャー計画を進めていた。病弱で貧弱な肉体だが正義感が強く平和をもたらすためにアメリカ軍への入隊を強く望み入隊検査で不合格となり続けていた青年スティーブ・ロジャース(クリス・エヴァンス)は、アースキン博士に見いだされ、強い意志と勇気を買われて超人化をもたらす血清を注射され、強靱な肉体と超人的パワー、再生能力を得る。その実験成功直後にナチスのスパイが博士を射殺して血清を盗み、スティーブの活躍で犯人を捕らえるが、犯人は自殺し、博士は死亡、スーパー・ソルジャー計画は中止される。超人になっても一人では戦力にならないと判断されたスティーブは、ナチスのスパイを追う映像で市民のヒーローとなったことから、「キャプテン・アメリカ」と名付けられ、カバー・ガールらとともにステージでアメリカ軍への寄付と入隊を募る役割を課せられて各地をまわり人気者となるが、軍人からはバカにされていた。そうした中、スティーブの親友バッキー・バーンズ(セバスチャン・スタン)が属する部隊がドイツ軍に敗れバッキーは行方不明と聞いたスティーブは単身、ドイツ軍の施設に侵入し、捕虜を解放しドイツ軍施設を壊滅させる。これを見たアメリカ軍はスティーブに特殊な戦闘用スーツと楯(シールド)を開発して与えるとともに他のドイツ軍基地の破壊の任務を与えるが・・・というお話。 良くも悪しくも古き良きアメコミヒーローものの香りが強く漂っています。敵は赤く爛れた化け物ふうの容貌で、ヒーローはイケメンの優男という、顔で善悪が決まるかのようなつくりが、わかりやすいけど、今どきの感覚ではあまりにいやらしい。ヒドラ部隊がマスクをしてバトルスーツを着て光線銃を持っているあたりはスター・ウォーズみたいですが。 スティーブが撃たれるシーンがなかったのでわかりませんが、血清のパワーによる再生力・不死身の力とオーディーンパワーの光線銃はどちらが強いんでしょう。見ていてそこ教えて欲しかった。 スティーブが憧れる将校のペギー・カーター(ヘイリー・アトウェル)との恋愛も、古風でなかなか進展しませんが、そのあたりのじんわりしたペースがおじさんには心地よく思えます。アクション部分を除くとスティーブとペギーの会話がしゃれた感じで楽しめます。 その中で、ヒドラ部隊の基地に先に乗り込んだスティーブがピンチに陥ったところに援護部隊でやってきたペギーに対し、スティーブが「遅い」(たぶん Too late )というシーン。予告編ではペギーは「そうかしら」(最初が聞き取りにくいのですが、たぶん、Probably perfect または I think perfect )と応えているのに、映画では「何のこと?」( What about ? )となっていてニュアンスが違います。私は予告編の方がしゃれていると思うのですが。こういうとき予告編の音声はアフレコで作るんでしょうかね。 ラストはややトリッキーですが、これは続編のため(冒頭もそれに合わせたもの)。続編なしならもっと味わいのあるエンディングにできたかも・・・
2011年10月22日
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2010年6月、7年間、60億kmの宇宙の旅を経て小惑星イトカワから微粒子資料を持ち帰った無人探査機はやぶさのプロジェクトに関わった人々を描いた映画「はやぶさ / HAYABUSA」を見てきました。 封切り3週目日曜日、新宿ピカデリーの午前9時40分の上映は7割くらいの入り。 幼い頃の兄の夢を引き継いで惑星研究を志したが研究者になれずに書店でアルバイトを続けていた水沢恵(竹内結子)は、惑星探査をめぐる宇宙科学研究所対外協力室長的場(西田敏行)の講演を聴き、感動してマニアックな質問をしたことをきっかけに、相模原の宇宙科学研究所で対外協力室兼サイエンスマネージャー直属で様々なチームの手伝いをするようになって、無人探査機はやぶさのプロジェクトに関わることになった。はやぶさは低予算のため極限までの軽さと電気による運行(燃料がほとんど積めないため)、自律性など困難な課題を多数抱え、開発が難航していた。部品の開発が間に合わないために打ち上げが延期され、予算の延長や打ち上げをめぐる漁協の説得(打ち上げ時には周辺の漁業が停止されるため)を経て、2003年5月9日、はやぶさは打ち上げられた。当初は順調に運行していたはやぶさも、部品の故障や、燃料漏れ、エンジンの停止など数々のトラブルに見舞われて、最大のミッションのサンプル採取にもいったん失敗し、2度目の採取もサンプルが採取できたという確信を持てぬまま帰路に就き、姿勢(太陽光発電パネルの方向)が維持できなくなって通信が途絶えてしまう。これまで通信が途絶した探査機の再発見の例はなく絶望視される中、プロジェクトマネージャーの川渕(佐野史郎)は最大限の努力を続ければ1年以内に通信が回復する可能性は6割あるとスタッフを鼓舞するが・・・というお話。 唯一の架空の人物(と思われる)水沢恵の視点で語られ(そのため水沢はあらゆるチームの手伝いとしてあらゆる場面に立ち会っている)、映画紹介的には竹内結子・西田敏行主演なんですが、私の目には、文科省からは予算打ち切りを常にちらつかされるのをのらりくらりとかわし、各チームの利害が対立した時やトラブル時にはその場で判断を迫られて苦悩を見せながらも基本的には淡々とその場を仕切っていくプロジェクトマネージャー川渕の物語に思えました。 トラブル時の復活のために部品1つだけ積ませてくれと迫り拒絶されながら、こっそりメーカーに頼み込んで載せてもらってたエンジン担当チーフ(鶴見辰吾)のとぼけた味とか、ポケットに挿した定規を使って食堂でホッケの骨を外してそのまままたポケットに挿すカメラ担当チーフ(高嶋政宏)とかのキャラもそれなりに楽しめますが。プロジェクトには関係ない引きこもりのはやぶさファンのおっちゃん(生瀬勝久)とか、濃いキャラが多すぎるきらいもありますが・・・ 全体としては、プロジェクトに多数の人々が関わり、途中で去らざるを得なかったり見届けることなく亡くなったり、そういう多くの人々の熱意と希望と創意と妥協の中でプロジェクトが進んでいく、群像劇になっています。 実話であり、JAXA(宇宙航空研究開発機構)の全面協力なしには映画化不可能なテーマですから、JAXAの広報映画的な側面も感じられます。公式サイトで書かれている「月以外の天体からサンプルを採取して持ち帰るという、NASAでさえ成し得なかったミッション」とかも、そう書けばそうなんですが、マスコミが無理無理に条件をつけてでも「初めて」と書きたがるような印象を受けてしまいます。無人探査機によるサンプルリターンは、1970年にソ連がルナ16号で月から土を持ち帰っていたのにその時はほとんど評価されず、2006年にはNASAがヴィルト第2彗星の噴出物を持ち帰っていますから、「月以外の天体」に、「着陸して」あるいは「数メートル圏まで近接して」サンプルを持ち帰るという条件をつければ、人類初めてで、またNASAにも成し得なかったことになります。でも、あえてそういう条件をつけなくても、プロジェクトの困難性を素直に見ればいいと私は思ってしまいます。
2011年10月16日
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往年の名画「猿の惑星」シリーズのエピソード1「猿の惑星:創世記」を見てきました。 封切り2週目土曜日、上野東急の午前11時45分の上映は7割くらいの入り。 巨大製薬会社「ジェネシス」でアルツハイマー新薬を研究しているウィル(ジェームズ・フランコ)は、開発中の新薬112を投与したチンパンジーの知能が異常に発達していることに気がつき、新薬承認申請に向けて社内でのプレゼンを始めるが、その最中に被験者のチンパンジーが暴れ出してプレゼンルームに乱入し射殺されてしまい、危険だと判断されて開発にはストップがかかってしまう。そのチンパンジーの部屋の片隅に産まれたばかりのチンパンジーがいるのを見つけたウィルは、自宅に連れ帰り、「シーザー」と名付けで育て、アルツハイマーに悩む父親(ジョン・リスゴー)との共同生活が始まった。3年後シーザーは人間の子ども並みの認識能力を持ち、言葉を理解し、手話でウィルと会話できるようになっていた。新薬112の効果を実感したウィルは、父親のアルツハイマーの症状が進んだのを見て、会社の研究室から新薬112を密かに持ち帰り、父親に投与した。父親は翌朝には劇的に回復し、ウィルはシーザーのけがの手当をきっかけに知り合った獣医のキャロライン(フリーダ・ピント)と仲良くなり、幸せな日々が続いた。しかし、5年後、父親のアルツハイマーは急激に悪化し、隣人とトラブルを起こし、父親が隣人から罵られるのを見たシーザーは隣人のパイロットに飛びかかり、檻に収容されてしまう。ウィルは父親のために新薬112の強力版の新薬113を開発するが、父親は投与を拒否し死亡する。ジェネシス社は、ウィルが父親に新薬112を投与して効果があったことを知ったことから、新薬113の製品化を急ぎ、チンパンジーへの実験を矢継ぎ早に行い量産化する。檻の中で反目するボスや仲間たちを次第に説得し、檻の鍵を手にしたシーザーは、ウィルの就寝中に部屋に戻り新薬のサンプルを発見し、檻の仲間たちに投与した上、檻から脱走し・・・というお話。 地球が猿の惑星となった経緯を描くという映画で、結果が見えている上に、猿はCGですので、入り込みにくいかなと思っていました。猿の映像ではウォークマンのCM(こういうのネットですぐに見られるのが今はすごく便利だなと思ってしまいます。1987年だったんですね)を見たときの衝撃ほどではないだろうと。でも、多くのシーンではCGと意識することもなく、むしろ表情のつくりで猿の感情がよく表され、けっこう感情移入できました。特に終盤のゴリラがシーザーを救うシーンなど涙ぐんでしまうほど。ただ、四つ足で走るときの後ろ姿とか、ちょっと不自然な傾きというか癖があって、たぶんそういう走り方をする猿はいるだろうとは思うんですが、毎回同じ走り方で、しかも群れになってもみんな同じ癖で走るあたりが、CGだよなぁ、やっぱりと思ってしまいました。 「猿の惑星」へのつなぎ部分は、一応きちんと説明されていますし、悪役の隣人もうまく登場していますが、それは何か付け足しっぽい印象。 やっぱり、シーザーの表情と感情、猿たちの連帯感が主役ですね。 意地悪な看守(トム・フェルトン)の横暴さとか憎らしさとか、それでいて抜けているとかのキャラが、はまっていますが、これはハリー・ポッターシリーズでのドラコ・マルフォイのイメージがかぶっているせいもあるような・・・。それはそれで制作側にはお得感がありますが、こういう役ばかりやってると他の役が難しくなるんじゃないかとも。
2011年10月15日
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うつ病になって会社を辞めた夫と漫画家妻の闘病記を映画化した「ツレがうつになりまして。」を見てきました。 封切り2日目、渋谷TOEI1の午前10時40分の上映は6割くらいの入り。年齢層はばらけていましたが、カップルが多数派だったような。 自宅が仕事場で家事は苦手、朝寝坊の漫画家高崎晴子(高の字は本当は「はしごだか」。幹男があんなにこだわってたのに、「楽天ブログ」に「機種依存文字」ではねられました(T_T):宮崎あおい)と、自分のお弁当を自分でつくり曜日ごとにお弁当に入れるチーズとネクタイの色が決まっている几帳面なソフトウェア会社従業員の高崎幹男(堺雅人)夫婦は、年代物の家でイグアナのイグとともに平穏な日々を送っていた。しかし、会社で執念深いクレーマーの電話を受け続けていた幹男は、次第に食欲がなくなり不眠が続き、ある朝お弁当が作れなくなり、何にもできないと言い出す。渋る幹男を病院に行かせ、うつ病の診断を聞いた晴子は、幹男に会社を辞めるよう求め、「会社を辞めないなら離婚だからね」とまで宣言する。会社を辞めても幹男の症状はよくならず、少しよくなってもまた悪化する日々が続いた。連載を打ち切られてしょげていた晴子は、失業保険も切れ生活費も乏しくなり、担当編集者に、ツレがうつになりまして、仕事を下さいと頼み込む。自身がうつになって配置転換された単行本部門の編集者から、作家は書きたいものを書けばいい、書きたくないものを媚びて書いていると編集者にはそれが分かるとアドバイスされた晴子は・・・というお話。 映画が始まってまず驚くのは、ハルが夫のことを「ツレ」って呼んでいること。第三者に紹介する時じゃなくて、夫自身に対して呼びかけるのに「ツレ」って呼ぶんですよ。(それより先にイグアナに驚くかもしれませんが) 自宅でごろごろして仕事もそれほど熱心にはせず、家事も苦手で、夫の食欲不振や腰痛、いびき、性欲減退等の前兆にも気付かずにいた、普通にいえば理想の妻とは言い難いハルが、夫のうつ病や退職に大騒ぎすることなく自然体で対応し、悩みつつも「しんどいけどがんばらないぞ」と決意する、ある種の図太さ、開き直りと、度々登場するイグアナののんびり感が、この映画のテーマとなり、またいい味を醸し出しています。 映画を見終わって、カミさんに、そういえばここのところずっと肩が痛い、腰が痛い、いびきも時々かいてる・・・といいましたが、あっさりスルーされてしまいました。あんたのは歳(50肩)ってか。 ところで、幹男が通った加茂クリニック、扉には「内科/心臓科」って書いてあったような。うつ病の確定診断して、その後の投薬、診療を続けて大丈夫なんでしょうか。
2011年10月09日
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ど派手なカーチェイスが売りのワイルド・スピードシリーズ第5弾「ワイルド・スピード MEGA MAX」を見てきました。 封切り2週目土曜日、新宿ミラノ1の午前11時15分の上映は5%くらいの入り。いかに定員1064人のビッグスクリーンとはいえ、土曜日の午前中とはいえ、前週末興行成績1位の純粋エンタメ映画がこの入りは寂しい。 逮捕されて懲役25年の判決を受けて護送中のドミニク(ヴィン・ディーゼル)を脱走させた元FBI捜査官ブライアン(ポール・ウォーカー)は、ドミニクとともに指名手配されて、リオデジャネイロに潜行した。ブラジルで資金稼ぎのために誘われて行った列車からの輸送中の高級車泥棒の際に麻薬取締当局が押収した車を盗み出し麻薬取締官が2人死亡したことから、FBIは剛腕の特別捜査官ホブス(ドウェイン・ジョンソン)を派遣する。ホブスの指揮する武装警官隊の襲撃を危うく逃れたドミニクたちは、最後の稼ぎとして、麻薬取締当局が押収した車から得たメモリーチップを見て裏社会の顔役が貯め込んだ資金1億ドルの強奪を計画するが・・・というお話。 売り物のカーアクションの見せ場は、前半の列車強盗のシーンでの失踪する列車にトラックを併走させて貨物車の壁を切り取って輸送中の高級車をトラックに乗せては降ろして走らせ、気付いた捜査官との銃撃戦や仲間割れの中で迫り来る鉄橋を前に抜け出す場面と、後半の巨大金庫を引きずりながら町中を疾走するシーンです。後者は、カーチェイスではありますが、カーチェイスよりもハンドルを切る度に大きくグラインドしてまわりの物を破壊する金庫の動きとそれを使った追跡者への攻撃が見物です。 それ以外の部分では意外にど派手なアクションは少なく、FBIと地元警察の新人警察官、裏社会のボスに買収された警察幹部、ドミニクと仲間たちの人間関係の綾を見せながら展開しています。ブラジルではアメリカ以上に警察官が嫌われているのかも、さらにいえば日本ほど警察官が愛されている国は少ないかもと思わせられる場面も。裏社会のボスの方が悪いやつとはいえ、おいおいという場面も見られます。 後半の裏社会のボスからの強奪作戦は、むしろカーアクションの入った「オーシャンズ11」という感じがしました。計画をどんどん詰めていく「オーシャンズ11」と違って、ハプニングが続いて計画がどんどん変更されていって、この準備は、このシーンは何のためだったんだよと思うところが少なからずありますが。 ところで、公式サイトの「ABOUT THE MOVIE」、普通の映画の公式サイトのイントロダクション程度の内容だけしかありませんが、ここで「リオを牛耳る犯罪王から100億円を強奪する」って・・・1ドルが100円だった時代って、もう2年以上前。体感的には遙か昔のように思えてしまうのですが。
2011年10月08日
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人気テレビドラマシリーズの映画化第2弾「アンフェア the answer」を見てきました。 封切り3日目祝日の月曜日、シネリーブル池袋午前10時10分の上映は5~6割の入り。同時上映のアニメ「蛍火の杜へ」の方は長い列でしたけど(上映館数が全然違いますが:「蛍火の杜へ」は全国2館、東京では1館だけの上映)。 前作で警察病院占拠事件のどさくさの中で警察の裏金関係の極秘資料が入っているUSBメモリーを入手した雪平夏見(篠原涼子)は、その後警視庁から北海道警察西紋別署に異動になり、殺人事件も起こらぬ町で刑事課長の一条(佐藤浩市)との情事を重ねながら、平穏な・退屈な日々を送っていた。東京では前の殺人の事件現場の遺留品や指紋から容疑者とされた人物が次の被害者となる3件のネイルガンによる連続殺人事件が発生していたが、3件目の殺人事件の現場から雪平の前夫のフリージャーナリスト佐藤和夫(香川照之)の指紋が見つかった。雪平の元を訪ねてきた和夫は、調査を依頼されたUSBメモリは暗号の解読で開ける物ではなく特定のパソコンに挿したとき初めてファイルが開ける仕組みになっていると伝えてUSBメモリを行平に返し、自分は犯人ではないがほとぼりが冷めるまで高飛びすると言って雪平の前から去った。翌朝、自宅にいた雪平は殺人容疑で一条ら西紋別署員に逮捕され、和夫がネイルガンで殺害され現場に遺留されていたネイルガンから雪平の指紋が検出されたと知らされる。一条の取調中に東京地検から派遣されてきて一条を追い出して取調を始めた検察官村上(山田孝之)が雪平を焚きつけ、雪平は村上を人質にして脱走する。東京に戻り、秘密裏にかつての仲間の山路(寺島進)や鑑識の三上(加藤雅也)らと情報交換した雪平を、北海道から追ってきた一条や、連続殺人犯結城(大森南朋)が追尾し、交錯して・・・というお話。 争奪戦の対象が警察の暗部についての極秘資料で、関係者のほとんどが警察関係者ですから、誰が味方で誰が敵かわからないというシチュエーションが続き、それが売りになっています。 その部分では、巧妙に作られていると思いますし、見ている途中で「どうして?」と思う疑問点はほとんどが黒幕とその人間関係が判明した段階でそういうことだったのねと納得できるようになっています。 謹慎中の検察官村上が車で出かけようとするのを小久保課長(阿部サダヲ)が呼び止めて盗聴器・発信器を投げ込むシーンは、どうして村上が警視庁の地下に車を停めてるの?またはどうして小久保が東京地検地下で張ってるの?と、終わってもなおそう思いますが。
2011年09月19日
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韓国映画史に残る名作映画「下女」(1960年)のリメイク版「ハウスメイド」を見てきました。 封切り4週目日曜日、全国10館、東京2館の上映館の1つシネマスクエアとうきゅうの午前11時の上映は2割くらいの入り。観客は、韓流ファン層を反映してでしょう。中高年中心。 何不自由なく何でも手に入れてきた御曹司フン(イ・ジョンジェ)と双子を妊娠中の身重の妻ヘラ(ソウ)と6歳の娘ナミ、ヘラの母が住む超豪邸に住み込みの家政婦として働くことになったウニ(チョン・ドヨン)は、ナミに慕われつつ老家政婦ビョンシク(ユン・ヨジョン)の指示の下で夫婦の食事やヘラの身の回りの世話などをこなしていたが、一家で別荘で過ごした夜に身重の妻とのセックスで満足できなかったフンが寝室を訪れて誘惑されてフンと肉体関係を持ってしまう。豪邸に帰った後も寝室を訪ねるフンをウニも全裸で待ち、2人の情事は続き、ビョンシクは2人の関係を知るとともに、ウニの食事の嗜好や態度の変化からウニよりも早くウニの妊娠に気付いてしまい、ヘラの母に注進した。フンは平然と小切手を切ってウニとの関係をそれで済まそうとし、ウニもそういうものと落胆しつつ受け入れていたが、子どもを産まれて後から巨額の請求をされてはと不安に思ったヘラの母はシャンデリアの掃除中のウニの乗るはしごを押し倒してウニを階下に落下させ、それでもウニが軽傷で回復するとヘラがウニに毒を盛って流産を図り、ウニは復讐に燃え・・・というお話。 問題の発端となるフンとウニの関係のスタートですが、雇い主のフンが求めているけれども、ウニの側も割と能動的に描かれています。雇い主と家政婦という関係からの圧力と、御曹司への興味なり恋人のいない身での火遊び・欲望なりがウニの中でどう働いたか、読みにくい映像になっています。これを主従・上下関係での強制的契機を隠蔽・曖昧化するものと評価すべきか、女性の性的な自己決定が強くなっていることを表現したと評価すべきか・・・ いかにもご主人様が手をつけました的な構図が弱められた結果、ストーリー上は、女の戦い的な展開が軸になっていきます。特にヘラの母、怖い。 宣伝文句通り、「驚愕の結末」ではありますが、すっきりもしませんし感動もしません。文字通りラストが(ラスト前ではなく)一番ホラーでしょうけど。 映画のテーマは、むしろ上流階級の連中の傲慢さ・冷酷さ・非人間性・懲りなさ加減にあり、そちらの方がしみじみと感じられます。 迫害される庶民側としては、ウニよりも、陰で主人の悪口を言い愚痴をこぼし続け、しかしヘラの母にご注進し、ウニの境遇にも同情しと揺れ動くビョンシクの方に様々な思いが乗せられている感じがしました。 冒頭の繁華街での若い女性の飛び降り自殺と飲食店の調理場から出てきてそれを見るウニのシーンがけっこう長々と続き、これはどうストーリーにつながるのかと思いましたが、結局よくわかりませんでした。飛び降りた女性は誰だったのでしょう。ウニの前任者のハウスメイドだったとかなら話はわかりますが(それじゃ、「ゴーストライター」だって)、そうでもないようですし。 ウニが女友達と1つのベッドで寝ている(抱き合っているように見えましたが:それにしても友達のおなかが立派だった)シーンとか、別荘に向かう雪の中での放尿シーンとか、ウニの人物設定のディテールなのかもしれませんが、文化事情の違いかもしれませんけど、今ひとつ何のためなのか何を描きたいのかよくわかりませんでした。 そういうところや象徴として多用される入浴シーンも含め37歳のチョン・ドヨンの裸体が度々登場する映画ですが、口で・・・という言葉が多用される映画でもありました。久しぶりにビルとモニカの「不適切な関係 “inappropriate relationship”」を思い出してしまいました。そのあたりがR15+指定の理由かなと思います。
2011年09月18日
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「アース」「オーシャンズ」に続くBBCのネイチャードキュメンタリーシリーズ「ライフ いのちをつなぐ物語」を見てきました。 封切り3週目土曜日、午前10時55分頃上野東急にたどり着いた私の目の前には長蛇の列。封切り1週目週末興行成績1位、2週目週末興行成績2位とはいえ、土曜日午前中でこれは・・・と思ったら、その列は11時30分からのしたまちコメディ映画祭の「エノケン&笠置シヅ子に見る“音楽の世界”」の列。ライフの午前11時の上映は2割くらいの入り。 氷原のただ中で子どもを産むウェッデルアザラシ、生まれてすぐの子どもを連れて水場を求めてさまようアフリカ象、絶壁の上で子どもを産みえさ場まで駆け下りるアイベックスと子どもを狙うキツネ、雪の中を寒さに震えながらさまよい子どもと温泉に入るニホンザル、縄張りを守るニシローランドゴリラ、孵化したオタマジャクシを1匹ずつ背負って木の上の植物中の水たまりに運び上げそこに数日に1度無精卵を産んで食べさせるイチゴヤドクガエル、3兄弟で協力してダチョウを襲うチーター、えさの硬い椰子の殻を石で割るフサオマキザル、獣の骨を空から落として割って食べるヒゲワシ、カマキリを舌で捕まえるカメレオン、ハエを補食する食虫植物のハエジゴク、毒で水牛を倒すコモドオオトカゲ、トカゲから逃げるハネジネズミ、敵から逃げるときには水上歩行をするバシリスク、天敵タランチュラに遭遇すると崖を転がり落ちて逃げるオリオフリネラ(小石ガエル)、水底を尾で叩いて煙幕を作って魚を追い込むバンドウイルカの漁、群れることで危険を避けようとする小魚(ペイトボール)とそれを狩るバショウカジキや水鳥たち、飛んで逃げるトビウオ、魚を捕ったアカハシネッタイチョウを追い回して魚を横取りするグンカンドリ、食べられない葉を集めてキノコを栽培して食べるハキリアリ、カイツブリの求愛ダンス、チリクワガタの雌を求める雄の戦い、ザトウクジラの求愛、卵が孵化するまで守って死んでいくミズダコの母親などの生物がいかにえさを採り子どもを産み子どもを守っていくかという映像をつなげたもの。 どうやって撮ったんだろうと思う迫力ある解像度もよいきれいな映像が続き、手間暇かかってるよねと思わせられます。 しかし、さすがに特定の動物を追い続けるのは難しいのでしょう。継続的なフォローはありません。広告に使われている冒頭のウェッデルアザラシも、氷原で親子で転がる姿と氷に穴を空けて海中に入った後は2度と出てきません。撮影上の困難さのためですが、物語としてみるには、それぞれのエピソードが短くてフォローがないのでストーリー性がなく、単発・瞬間の感動に依存する作品になっていると思います。 「オーシャンズ」のときに私の隣で熟睡していた人が、リベンジを賭けて見に行くぞと意気込んでいましたが、やはり返り討ちにあいました。 私は、カイツブリの求愛ダンスとか気に入りましたし、コモドオオトカゲが水牛を狩る様子とかヘェと思いました(不気味ですけど)。 こういう作品って、私の子どもの頃は、「野生の王国」とかごく普通にテレビでやってた記憶があります。今どきはテレビ局はこういうのを製作したり流したりする余裕がなくなったということなんでしょうか(私は近年テレビほとんど見てないのでよくわかりませんが)。映画館で見るのもいいですけど、子どものためには、こういうのはテレビで普通にやってて欲しい感じがしますが。
2011年09月17日
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予告編によれば「ロマン・ポランスキーが放つ映画史に刻まれるサスペンスの傑作」とかいう「ゴーストライター」を見てきました。 封切り2週目土曜日、全国で8館東京で3館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町の午前10時20分の上映は満席。観客層は中高年中心で一人客も割と多め。 アメリカ東部の孤島に滞在中の元イギリス首相アダム・ラング(ピアース・ブロスナン)の自伝を執筆中の補佐官マカラが溺死体で見つかり、その後任者に選ばれたゴーストライター(ユアン・マクレガー)は、ラング滞在先でインタビューを始めるが、ラングの盟友の元外相ライカート(ロバート・パフ)がラングが在任中にイギリス軍にイスラム過激派を違法に逮捕させて拷問して殺害したことを戦犯として告発したことからラングの滞在先はデモ隊とマスコミに包囲される。ラングのインタビューの傍ら、マカラの原稿と行動を調べ始めたゴーストライターは、次第にマカラの死因に疑惑を感じ、また政治に興味を持たなかったラングが政治家となった経緯にも疑問を感じるようになる。マカラの資料を探りマカラの足跡をたどり始めたゴーストライターは追跡者に追われるが・・・というお話。 労働党のトニー・ブレアがなぜブッシュのイラク戦争に簡単に追随しのめり込んでいったのか、そのことに疑問を持ちあるいはイギリス人としてまたは労働党員・シンパとして誇りを傷つけられた人々が、溜飲を下げるというか慰めを求め傷をなめ合うようなニーズに合わせた映画かなというように思えました。ミステリーだから、さすがに謎解き・落ちを書いたら身も蓋もないという性質の作品だから、それ以上書きませんが、そういう骨格はちょっと安直な感じ。 ラング夫婦のかかあ天下ぶりというか、ラングの無能というか凡庸さも、ブレア嫌いの人向けにやってる感じがしますし。 そういう政治臭が、イギリス政治を身近に感じない身には、違和感を感じさせ、もう少し政治を背景に離して描いた方がサスペンスとして楽しめるのだが・・・と感じてしまいました。 ミステリーとしては、ラングとエメット教授(トム・ウィルキンソン)の関係が、ちょっとうまく整理・処理し切れていない感じがして、最後ストンと落ちない感じがしました。 ラストとの関係で、アメリア(キム・キャトラル)の位置づけも、私にはちょっとわかりにくいところが残りました。 落ちも、ちょっとブラックな感じはいいんですけど、その秘密の発覚のところはそこまで引っ張ったらもう少し気の利いた落とし方を期待したくなるんだけど、という感じがします。 雰囲気はいいんですが、「映画史に刻まれる」とか「現代最高峰」とかいうのは、無理があるように思います。
2011年09月03日
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超人的な登山家ラインホルト・メスナーが弟を失い登山隊長との訴訟に発展した1970年のナンガ・パルバットのルパール壁登攀の実話を映画化した「ヒマラヤ 運命の山」を見てきました。 封切り4週目日曜日、全国で5館東京で2館の上映館の1つシネ・リーブル池袋の午前10時10分の上映は3割くらいの入り。 北イタリアに育った若き登山家ラインホルト・メスナー(成年後フロリアン・シュテッター)とギュンター・メスナー(成年後アンドレアス・トビアス)兄弟は、ナンガ・パルバットで兄を失ったこともありナンガ・パルバットのルパール壁登攀に執念を燃やすカール・マリア・ヘルリヒコッファー博士(カール・マルコヴィクス)の登山隊に参加する。組織を重視するカール隊長の下、野心家のラインホルトは摩擦を起こし続けるが、初登攀の結果を出したいカールも妥協を続ける。悪天候での撤退と待機が続き、登山計画の期限が迫る中、ラインホルトは高地の第4キャンプからカールに好天なら予定通り3人で頂上にアタックする、悪天候なら自分一人でアタックすると通告し、天気予報を信号弾で知らせるよう求める。カールはためらいつつも、最後のチャンスと考えて承諾する。深夜に揚がった信号弾は悪天候の予報で、ラインホルトは一人頂上を目指す。ところが、頂上アタック隊に指名されず下山用のザイルの固定を指示されたギュンターは独断で兄を追って頂上を目指した。4時間後ラインホルトに追いついたギュンターとともにラインホルトはルパール壁初登攀に成功し、ナンガ・パルバットの頂上に立った。しかし、単独登攀を目指したためにザイルもなく装備もないギュンターが登りと同じルートでの下山はできないと判断し、好天候だったために頂上を目指していたフェリックス・クーエン(シュテファン・シュロダー)とペーター・シュルツからも距離が遠く登攀が困難だとして救助を得られず、ラインホルトらは別ルートの北側からの下山を目指す。その途中でギュンターは雪崩に巻き込まれ、命からがら下山したラインホルトは、カール隊長と対立することになる・・・というお話。 日本の登山映画にありがちな派手な滑落やクレバスに転落するシーンがなく、厳寒と体力の消耗がじわじわと迫ってくるような描写で登山の厳しさを感じさせていて、そういうところにリアリティを感じました。 ヒマラヤの映像の美しさと凄みに目を見張ります。 ストーリーについては、8000m以上の14峰をすべて登頂した唯一の登山家となったラインホルト・メスナーが、40年前、弟を失い、その責任の所在や初登攀がメスナー兄弟かフェリックス&ペーターか等をめぐってカール隊長との間で裁判になったナンガ・パルバットのルパール壁登攀について「真実を明らかにする」として語ったところによるものですから、どう評価すべきかはなかなか難しいところです。その裁判では、ラインホルトが敗訴しているそうですし、ギュンターはもちろんのことカール隊長も死んだ後で映画化されたのでは、死人に口なしなわけで、そういうことを考えるとちょっと素直には受け取りにくい。どうして40年も経った今頃か、については、2005年にギュンターの遺体が発見されたことを契機に企画が始まったと見ることはできますけど・・・ カール隊長が、頂上にアタックするラインホルトと無線でも連絡できないのに記録を勝手に想像を交えて書き続ける様子には、へぇ~っと思いますが、これもカール隊長は裁判の相手だから、記録がでたらめと言いたいという動機があるでしょうし。ギュンターがザイルの固定の役割を投げ捨てて勝手にラインホルトを追ったというあたりはギュンターが悪いと普通にこの映画を見ていればそう思いますが、ギュンターの死の責任をめぐって争われていることからすれば、責任を押しつけたい気持ちは出てくるでしょうし。フェリックスとペーターか救助を拒否した描写やナンガ・パルバット頂上でメスナー兄弟が残した物を隠蔽しようとしたかのような表現(最終的に隠蔽したかどうかはぼかされていますが)も初登攀をめぐって争いになったことを考えると・・・というようにこの映画のストーリーで目を惹く点は、ほとんどがラインホルトが相手を悪く言いたい動機があるがためにうがった見方をしたくなってしまいます。 私には、ラインホルトの主張とは逆に、8000m級の登山での組織というか、たいへんな数の人々の支援と協力の重要性と、それでも困難な大自然の厳しさといったものの方が印象に残りました。
2011年08月28日
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2010年度本屋大賞2位作品を映画化した「神様のカルテ」を見てきました。 封切り初日土曜日、ナンバー1スクリーン580席を充てた新宿ピカデリー午後1時10分の上映は8~9割の入り。今週末はハリーポッターと死の秘宝を追い落とせるかも。 観客層は、若い女性コンビが多数で、次いで若いカップル、次いで嵐ファンの中年女性層、宮崎あおいファンの中年男性層というところ。 長野の地方都市にある本庄総合病院の消化器内科医栗原一止(櫻井翔)は、当直で救急外来をほとんど断れず徹夜勤務を続け、休む間のない激務に追われていた。一止とともに2人だけで消化器内科を担当している先輩医師古狸こと貫田(柄本明)の勧めで信濃医大病院に研修に行った一止は、患者の診療方針について多数の医師が参加して協議するカンファレンスや手術を通じて高山教授(西岡徳馬)に見いだされセミナーへの参加を求められる。手術困難な部位の胆嚢癌を患った患者安曇雪乃(加賀まりこ)は信濃医大病院に手術を求めて来院するが、一止が担当して抗癌剤治療を選択したため、手術を拒否され、6か月の余命と宣告され、途方に暮れ、取り寄せたカルテの真摯な記載を見て一止を探し出して本庄病院を訪れる。大学病院への誘いと地域医療の激務・待っている患者たちの間で思い悩む一止は、妻榛名(宮崎あおい)や古い旅館で同居する仲間たちに温かく見守られながら過ごしていたが、安曇の病状は次第に悪化し・・・というお話。 救急外来の激務と、その現実の中で栄達の道よりも現場を選ぶ医師というパターンは、私のまわりでも見聞きしますし、そういう医師たちがいるから救急医療が回っているのだと思います。それ自体は、感動すべき話ですが、そういう個人の犠牲的精神に頼ることは制度としては問題で、本当はそうでなくてもやっていける制度を作らなきゃいけないのに、という部分が感動話の陰に隠れてしまう危険は常々考えておきたいところです。 それはおいて、大学病院での研究の名誉よりも苦しい現場を選ぶという点では、だってその方がおもしろいじゃないとかバカだねぇ後悔するよとか笑っていえる貫田医師の方がかっこよく見えるし、激務を淡々とこなす救急外来看護師長(吉瀬美智子)がまたかっこいい。もっともそこは、櫻井翔があえてかっこよく演じないでさえないふうに見せていると見るべきなんでしょう。 ことあるごとに漱石の小説の言葉を引用する一止の古い言い回しや、同期の主任看護師(池脇千鶴)が昼食に誘ったりいたわりを見せる度に「好意はありがたいが、僕は妻がある身なのでそういう申し出は・・・」とか言ってあきれられるズレっぷりなどで、激務の現場の映像の緊張をほぐし、人間味のある医師をイメージさせようとしています。古風な言い回しは、一止だけじゃなくて、榛名も古い旅館の同居人たちも同じ。病院の中以外はタイムスリップしたような感じです。そのあたりにホッとするか、違和感を感じるかで映画の印象がだいぶ違ってきそうです。 古い旅館の同居人たちについては、特に説明なく出てくるので、激務に追われる一止が妻のみならずそういうまわりの人々との関係で支えられているのねという印象は残りますが、やや唐突感というか蛇足感もあります。 メインストーリーの患者安曇の最後の幸せな時間の話。患者側の話としては、それはそれでわかるんですが、その充実感は、医師がもたらすべきなんだろうかという点に疑問を感じました。そこは、看護スタッフの方で担当し対応する領域じゃないのかなぁ。そこまで医師が対応すべきっていうのは、ただでも激務に追われる現場の医師に無い物ねだりをすることになるだろうにと思いました。
2011年08月27日
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カンヌ映画祭パルムドール受賞作「ツリー・オブ・ライフ」を見てきました。 封切り2週目日曜日、新宿ミラノ1での午前11時の上映は1~2割程度の入り。 実業家として成功し壮年に至ったジャック(ショーン・ペン)は、テキサスの街で成功のためには強い意志を持ち力を持つことが必要だと諭す威圧的な父(ブラッド・ピット)と優しい母(ジェシカ・チャステイン)の下で育った子ども時代を回想する。音楽家を目指しながら果たせず、特許をめぐる裁判でも敗れ、リストラに遭いながらも弱みを見せない父。その父の威圧的な態度に反発し、他人の家の窓ガラスを割ったり忍び込んで下着を盗んだりした少年時代のジャック(ハンター・マクラケン)。次男のR.L(ララミー・エップラー)が19歳で死に、悲嘆に暮れる母・・・そういったエピソードを時系列に沿わずに断片的に重ね、宇宙や海中などの大自然の映像を挟んで構成しています。 断片的な映像が主の前半では、神に捧げた生活では不幸は起こらないという母のナレーションで始まり、19歳の次男が死んで悲嘆に暮れる姿、不幸はどこにも訪れる、不幸から身を守ることはできないと説く神父の説教を通して、正直に生きても不幸を避けられないことの不条理と怒りをテーマとしているように見えます。ジャックの少年時代のエピソードが続く後半は、威圧的な父親への反発と反抗、しかし自分もまた他の者に対しては威圧的なジャックの姿と大自然の映像とを合わせて、親から子への伝承と繰り返し、その枠組みの中で人間が成長してきたことへの気づきをテーマとしているように見えます。 宇宙や海中、空からの映像は美しく、マリック版「2001年宇宙の旅」との紹介もされていますが、残念ながらすでにこの種の映像を見慣れてしまった現代の観客には、プラネタリウムか環境映像かとも思えてしまいます。特にそういう映像の割合が多い前半はそういう印象を持ってしまいました。ジャックの少年時代の映像が比較的長時間続いた中で挟まれる後半では、延々と続く人間・生物・地球の営みの中での親から子への引継をイメージさせているのだなと理解しやすかったのですが。 前半のテーマは、信仰心の篤い人々の多い欧米では観客に感銘を与えたでしょうけれども、無神論者というか神に守られているという意識の薄い日本人には今ひとつ琴線に触れない感じがしました。 最初の方で現れる19歳の次男が死んだ部屋の映像が、最後の方でジャックの父がリストラに遭い引っ越して行く前の家のように見えました(同じ家のように見えましたが、自信はありません。でも、かなり大きな家であることは確か)。引越のときジャックはまだ少年の姿でしたから、次男が19歳で死ぬのは引越後のはずなんですけど。
2011年08月21日
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99歳の日本最高齢映画監督新藤兼人が自らの体験に基づいて製作した反戦映画「一枚のハガキ」を見てきました。 封切り3週目土曜日、東京で2館の上映館の1つテアトル新宿の午前11時の上映は7割くらいの入り。観客層は圧倒的に中高年でした。 第2次世界大戦終盤の1944年、海軍から天理教本部の清掃に派遣されていた中年部隊100人は、清掃業務が終了し、次の派遣先を上官が引くくじで決められた。くじでタカラヅカ歌劇団の清掃に回された10人のうち1人の松山啓太(豊川悦司)は、くじでフィリピン行きの60人に入った二段ベッドの上側の戦友森川定蔵(六平直政)から、妻から来た一枚のハガキを託され、自分は死ぬことになるが返事を書こうにも検閲が厳しくて「後は頼む」とさえ書けない、生き残ったら妻を訪ねてこのハガキを確かに見たと伝えてくれと頼まれる。定蔵の戦死の報を受けた妻森川友子(大竹しのぶ)は、義父(柄本明)に頼まれて家に残り、長男が死んだら次男が後を継ぐのがしきたりだ、次男の三平と結婚して欲しいと言われ、承諾すると、すぐに三平(大地泰仁)がやってきて慌ただしく祝言が行われ直ちに初夜を迎える。しかし、ほどなく三平も召集され、戦死してしまう。その後、義父は心臓発作であっけなく死に、義母はその後を追い、友子は田舎の古家に取り残され、村の顔役の吉五郎(大杉漣)に言い寄られる日々を過ごしていた。タカラヅカで終戦を迎えた啓太は、自分は戦争で死ぬものと思っていたので妻にハガキを出さずにいたが、今から帰ると初めてハガキを書いて帰ったところ、家はもぬけの殻だった。近所に住む伯父(津川雅彦)の話では、啓太が戦死したという噂が流れ、妻(川上麻衣子)と父ができてしまい、おまえのハガキを見てびっくりして2人して大阪に逃げたという。呆然として仕事も手に付かずだらだら過ごしていた啓太は、ブラジルに行くことを決意し、身辺を整理しているうちに、忘れていた定蔵から預かったハガキを見つけた。啓太は、ハガキを手に友子を訪ねるが・・・というお話。 設定や映像には、今ひとつ切迫感とかリアリティを感じにくい。戦争末期で中年男子も召集されているという設定で定蔵が応召し戦死しているのに、それよりずっと若く健康な三平がそれまで召集されずに定蔵の戦死後に召集されるとか、終戦直後の食べることに必死の時代に啓太がつり上げた立派な鯛をそのまま逃がしてしまうとか、設定からしてずっと着たきりか洗いざらしのはずの友子の絣がいかにも新品できれいとか。 おそらくは、あえて全体に嘘っぽさ、安っぽさを漂わせ、戦争体制とか、国家とか、英霊とか、上官とか、村の顔役とかのうさんくささ滑稽さを際立たせようということかなと感じました。 戦争で引き裂かれた友子の定蔵への思い、定蔵を奪われた悔しさが胸に響きます。応召して周囲の人々の見送りも途絶えた後山道を行く定蔵をずっと追いかけていく友子、義父の頼みに従いながらときに大声で叫ぶ友子、三平にのしかかられながら心ここにあらずの友子・・・。三平も戦死した後、友子の口から出るのはほとんど定蔵のことだけで、中年おじさんとしては、友子が若いイケメンの三平よりも中年のおっさん丸出しの定蔵を思い続けている姿にホッとします。まぁ定蔵とは幼なじみで16年連れ添ったわけですから、これでほんのわずかな期間夫婦だったイケメン男の弟の方がいいって言われたら、悲しすぎますが。 戦争が、前線の兵士の命を弄び、その家族を引き裂き不幸にすることを、かなりストレートに主張した反戦映画で、リアリティを重視し主張は抑えて堪え忍ぶ姿から感じさせるというタイプを好む人には違和感があるかもしれません。しかし、あからさまな主張部分を置いても、大竹しのぶの耐える姿とときとしてぶつける激情に感じ入る映画でもありました。
2011年08月20日
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第2次世界大戦中のフランスで行われたユダヤ人一斉逮捕→絶滅収容所送り事件を描いた映画「黄色い星の子供たち」を見てきました。 封切り4週目土曜日、全国4館東京では2館の上映館の1つ新宿武蔵野館の午前10時45分の上映は4割くらいの入り。 第2次世界大戦中、ナチスドイツに恭順を示すビシー政権下のフランスでは、ユダヤ人は黄色い星を付けることを義務づけられ、娯楽施設や商店への立ち入りを禁じられていた。拝外主義的なフランス市民の支持もあり次第に厳しくなる迫害の中で、国外脱出を試みるユダヤ人は収容所送りになり、ユダヤ人たちの絶望が深まっていた。そんな中で、フランス政府はナチスドイツの要求に従い2万4000人のユダヤ人逮捕を計画し、1942年7月16日夜明け前、ユダヤ人一斉検挙を実施し、1万3000人の身柄を拘束してヴェル・ディヴ(競輪場)に5日間ろくに水や食糧を与えないまま収容し、その後郊外の収容所に移送し、さらに子どもたちを親から引き離してまず親を絶滅収容所に送り、次いで子どもたちを送った。そういう中での逮捕されたユダヤ人たち、収容所の中で医療を続けたユダヤ人医師、同行して医療活動を続けたフランス人看護師らは・・・というお話。 メインストーリーとしては、夜中に踏み込まれ逃げることもできずに逮捕収容されたユダヤ人家族たちが、着の身着のままで競輪場に収容されて水も食糧もなく戸惑いながら翻弄される様、収容所に移されて何とか家族で励まし合いながら運命に耐えていく様、そして男、女、子どもたちに分けられて家族を引き離すことに抗議し泣き叫びながら暴力で引き離されて絶滅収容所に送られる様といった、惨劇に涙します。 その中で、逃げようと思えば容易に逃げられたのに、若干名のユダヤ人を逃がしながら、自分は収容されたユダヤ人を見捨てられないとして医療行為を続け最後には絶滅収容所に送られるユダヤ人医師、その医師に同行し次第に思いを寄せつつ収容所でも献身的な医療行為を続けるフランス人看護師らの生き様に感動します。 そして、国策だからとユダヤ人検挙を実行し、暴力をふるい、身につけた貴金属の略奪に励むフランス軍人・役人らの醜さを見るに付け、怒りに震えます。国策を言い、それを口実にその推進のためにはどんなことでも平気でする役人の思考停止と保身、醜さはどこの国でも同じなのでしょう。 また、この映画では、ユダヤ人の排斥を主張し、喜ぶフランス市民も描かれていて、これまた、どこの国にも外国人を排斥したがる市民たちがいるわけで、ナチスドイツとフランス政府だけに特化して見るべきでないことが読み取れます。 しかし、同時にこの映画では、フランスの公務員でも政府の指示を無視して収容されているユダヤ人に水を配り、渡された手紙の投函を部下に指示する消防署長や、検挙予定のユダヤ人のうち1万人以上をかくまって検挙を免れさせたフランス市民たちの姿も描いています。 迫害されたユダヤ人とて、集団として見てしまえば、いまではパレスチナ市民を迫害し続ける暴虐の徒であることは否定できません。 そういうことも含めて、集団として民族として国としてではなく、現実に生き生活している個人として捉えなければ見えてこない、そういうことが言われているのだと、思いました。 翻って、我が国の役人には、国策推進のためには何でもやる官僚ではなく、個人として良心を持ちそれにしたがって行動してくれる人は、どれくらいいるのでしょう。
2011年08月14日
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ガザ地区に生まれた免疫不全症の乳児の命を救おうとイスラエル人医師とジャーナリストが奔走するドキュメンタリー「いのちの子ども」を見てきました。 封切り3週目土曜日、全国で2館、東京では唯一の上映館のヒューマントラストシネマ有楽町の午後1時の上映は8割くらいの入り。 イスラエルのジャーナリストエルダールは、医師ソメフから、ガザ地区から送られてきた免疫不全症で骨髄移植治療をしなければ1歳まで生きられない乳児ムハンマドを救うために治療費5万5000ドルの募金キャンペーンを依頼される。ムハンマドの母ライーダは、イスラエルのプロパガンダにすぎないと反対していたが、匿名の寄付者が現れ、治療が進められることになった。兄姉3人は骨髄の型が適合せず、従姉妹25人の型を調べることになったが、ガザ地区からの検問所通過はままならず血液サンプルをガザ地区で取って検査した結果、従姉の1人が適合者とわかる。自爆テロでの検問所封鎖で遅延した後、何とか入国を果たした従姉から骨髄の移植を受け、紆余曲折を経てムハンマドの体に従姉の骨髄が定着していく。ライーダと話すエルダールは、私たちにとって命は重くない、エルサレムは私たちの聖地だ、エルサレムに行ってみたい、聖地を守るために殉教するのは当然だ、一命を取り留めたムハンマドが成長して殉教してもかまわないと話すライーダに失望するが・・・というお話。 目の前の一人のパレスチナ人乳児の命を救うために懸命になっているイスラエル人と、そのパレスチナ人の自爆テロで時折イスラエル人が殺傷され、その報復などのためにパレスチナ人を毎日数十人単位で殺傷し続けているイスラエル国軍の存在という矛盾を、乳児の命を救われる側のパレスチナ人からと救おうとするイスラエル人側からどう受け止めていくかというところがメインテーマとなります。 イスラエル国軍に親族や知人たち同胞を日々殺傷されながら、その敵のイスラエル人に息子の命を救われるライーダは、より複雑な揺れる心情を見せ、その揺れる思いが更に踏み込んだテーマとなります。 また、一人の命の救済や個人間の交流では解決できない民族間紛争の姿の描かれようも、見せどころとなっています。 おそらくはソメフ医師の立場からは、自分は目の前の命を救うことが仕事で、それがイスラエル人の命であれパレスチナ人の命であれ関係ない、そして遠くで他人が行う殺戮は自分の手ではどうしようもなくそのことで思い悩んでも仕方ないと整理されることだろうと思います。自分のことを考えても、守るのが多くの場合「命」でなく「権利」とか被害の回復ということになるだけで、自分が担当した事件の依頼者はできるだけ何とかしようと思いますが、同種の被害者が多数いるということまで何とかしようとしても手に余るというか身が持たないですから。 しかし、映画では、ジャーナリストを語り手とし、多数の同胞を背景に語る母親との対話を入れることで、民族的な視点というか全体主義的な感覚と具体的な個人の交流をともに意識させて、簡単な整理を排しています。簡単な解決、さらにいえば完全な解決があり得ないことを認識させつつ、結局は個人レベルの顔の見える関係を取り結び信頼関係を重ねていくことで平和の大切さを少しずつ浸透させていくしかない、そういうアピールと読みました。
2011年07月31日
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2011年7月17日、「ハリー・ポッターと死の秘宝Part2」3D版を見てきました。 封切り3日目日曜日、丸の内ピカデリー1(定員802人)の午後1時30分の上映は1階席を見る限り7割程度の入り(2階席は見えなかった)。 以下、基本的には、ハリポタマニア向けのネタバレ解説です。 原作37章(36章+1章)のうち24章分をPart1でこなして残り13章を展開するPart2は、ホグワーツでの戦いが中心となり、映画ではそれを強調した流れになります。 ヴォルデモートの分霊箱探しとヴォルデモートとハリーの対決というメインストーリーでは、原作では後で明かされるグリフィンドールの剣なき後の分霊箱破壊手段が、最初から明かされてハリーとロン・ハーマイオニーの分担作戦展開となり、それに合わせてレイブンクロウの髪飾りの破壊手段も原作と変わっています。最後に残された分霊箱のナギニの破壊も原作と異なり観客の目の前で展開され、ロンとハーマイオニーも参加した作戦になっています。このあたりは、映像とわかりやすさを重視した変更ですが、映画の方が原作よりよかった感じがします。 原作のサイドストーリーというか読ませどころのダンブルドアとプリンスの物語は、Part1のときに予測したように、原作でさんざん展開されたダンブルドアの若き日の過ちなり否定的評価はほとんど登場せず、ホグズミードでアバーフォースがほのめかすだけで具体的な話は全部カットされ、プリンスの物語の方は描かれてはいますが2部構成で時間を使ったわりには端折られた感じ。まぁ、このあたりは読み物だから味わえるところで映像では難しいってことで削られたんでしょうね。 原作ではフル活用される透明マントが、映画ではPart2ではグリンゴッツに忍び込むとき以外はまったく登場しないのも、映像重視のためでしょう。ニワトコの杖(Elder Wand)の運命を変えてしまうのも、原作通りだと絵にしにくく説明が面倒だからでしょうか。 確かに、原作よりも、いずれの点でもわかりやすくなっているのですが、原作を先に読んでいる読者にとっては、やはり原作の味わいが損なわれるよなぁと思ってしまいます。 これは、この作品の段階の話ではなくて、そもそもシリーズの最初の時点で瞳がグリーンでない(青い)ダニエル・ラドクリフをハリーにキャスティングしたこと自体の問題ですが、ハリーが父親に生き写しだが目だけは母親にそっくりというときに、原作では緑色であることが明記されているのに映画ではそうは言えない。色の特色がないから、そっくりと言われても全然印象に残らないし、見てもそっくりと思えない。この作品では、そこがポイントの一つになるだけに、ちょっと締まらないなぁと思ってしまいます。 目に付きにくい変更ですが、グリンゴッツから脱出するときにドラゴンに乗ることを言い出すのがハーマイオニーに変更されています。これまで映画では、ほとんどの場合、原作よりもハーマイオニーの主体性を弱める方向で変更がなされてきただけに、ちょっと、おやっと思いました。 それから、マクゴナガル先生がりりしくてかっこいい。 ラストの19年後、17歳と36歳だからそりゃ髪が白くなるわけじゃないし、シワシワになるわけでもないでしょうけど、ほとんどそのままで出て来られてもなぁ。
2011年07月17日
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スタジオジブリの世襲宣言ともいえる宮崎息子監督第2作「コクリコ坂から」を見てきました。 封切り初日土曜日、9月11日閉館の決まったパルコ調布キネマの午前10時15分の上映は2割くらいの入り。 朝鮮戦争で船乗りだった父を失い、大学教授の母はアメリカ勤務で、かつて祖父が営んでいた病院の建物を改造して祖母が経営する下宿屋で勤勉に食事を作り事実上切り盛りする高校2年生の松崎海は、子どもの頃からの習慣で今も毎朝父の無事航海を祈願する旗を揚げ続ける。その旗を毎朝父が岸へ送ってくれるタグボートから見て返礼の旗を揚げる高校3年生の風間俊は、高校の古い部活棟、通称カルチェラタンでガリ版の「週刊カルチェラタン」を発行しつつ、生徒会長の水沼と共に、カルチェラタンの取り壊し(建て替え)反対闘争の先頭に立っていた。妹の空に引っ張られてカルチェラタンの俊を訪ねた海は、次第に俊に惹かれ、カルチェラタンの維持のために大掃除をしてきれいにすることを提案し、水沼の賛同を得る。大挙して女子が押しかけて、カルチェラタンの部活動を担う変人男子たちと共に大掃除と補修が続けられ、カルチェラタンは見違えるほどきれいになる。下宿人の研修医の引越パーティーに招かれた俊は、海と2人で下宿の部屋を見るうち、海の父の写真を見て青ざめる。それからつれない態度を取るようになった俊に海はいらだつ。そうした中、高校はカルチェラタンを夏休み中に取り壊すことを決定、水沼と俊は海を連れて東京の財界人である学園の理事長にカルチェラタンを見に来てくれと直訴に行くが・・・というお話。 東京オリンピック前の(まだ原発もない)日本(横浜)を舞台に、青年たちの蛮カラでまっすぐな思いと勤勉で誠実な生き様、カルチェラタン建て替え反対闘争と、愛し合う2人が兄妹だったという今どき口にするのも恥ずかしいほどベタな設定での純愛ストーリーが、特に木々の緑が際立つ爽やかなアニメで描かれています。そういうノスタルジーと爽やかさが売りの作品で、そういう作品が好きなら○、より複雑な陰影を求めるなら×でしょう。念のためにいっておきますが、私の感性は前者です。ものを書く段階では後者ですが・・・ 勝てなかった学園闘争を、「こうありたかった」なのか、「こうすればよかったのに」なのか、大衆の参加と共感とその結果による大人(支配者)の説得による円満な勝利の形に描き出すことをどうみるか。全共闘世代でない親子に言われるのは余計なお世話に感じる向きの方が多いように(そう思う向きはジブリのアニメなんて見ない?)。ましてや直接テーマになる学生寮闘争との関係では、これまでの負けた学生寮闘争は闘争側のやり方に問題があったといってるようで・・・ 船乗りの父を待つ子が丘の上の家から毎日信号を送り続ける姿や海のまっすぐな告白は「丘の上のポニョ」をイメージさせます(もちろん、海はでんぐり返りしたりしないけど)し、木々の緑の鮮やかさや最初に出てくるバスが猫バスっぽいのは「となりのトトロ」をイメージさせます。そういうジブリの遺産で食ってるアニメかなという感じもしました。 海は下宿でも高校でも、海のフランス語( mer )をあだ名にして、メルちゃんと呼ばれています。当時の高校生は、そういう知識への憧れというか背伸び志向があったんでしょうね。私も、映画の最初からメルちゃんと呼ばれている主人公が祖母からは海と呼ばれているのを聞いて、あっそういうことねとわかる程度には、一応頭にフランス語が残っていてホッとしました(で、空は何だったっけと考えると、出て来なかったりするのですが:正解は ciel )。
2011年07月16日
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スピルバーグ製作のSF映画「SUPER8」を見てきました。 封切り2週目土曜日、ヒューマントラストシネマ渋谷午前10時の上映は3~4割の入り。観客層は若者が多数派、次いで「未知との遭遇」とか「E.T.」とかを若い頃に見たと思われる中高年層という感じ。 1979年夏、事故で母親を亡くし、保安官の父親と2人暮らしの中学生ジョー(ジョエル・コートニー:新人)は、ジョーの父親の8ミリカメラで、友人たちとスーパー8ムービーの撮影をしていた。夜に家を抜け出して通り過ぎる列車を背景に映画の撮影をしていたジョーたちの前で、列車がトラックと衝突して大爆発をし、ジョーたちは命からがら逃げ惑う。トラックを運転していたのはジョーたちの中学の理科の教師だった。列車事故を知って軍が駆けつけてくるのを見たジョーたちは車を持ち出してきたアリス(エル・ファニング)の無免許運転がばれることをおそれ、慌てて撮影機材を回収して逃げ去り、見たことを秘密にすることを誓い合った。その日から停電が度々起こり、犬が町からいなくなり、行方不明者が出始めるなど不思議な事件が続いた。3日後にようやく現像できた列車事故の時のフィルムには、列車の中から脱出しようとするモンスターの姿が映っており、ついにはアリスが父親の目の前でモンスターに連れ去られ、ジョーはアリスの救出を決意するが・・・というお話。 うーん・・・SF映画なんですけど、映画少年たちの友情と淡い恋心を描いた青春グラフィティの部分の方がわかりやすくて、SFとしての部分は、今どきの感覚ではちょっと中途半端な気がしました。 ずっとモンスターを見せずに展開していって、最後の方で出てくるのですが、ここまで引っ張ったらむしろ最後まで見せない方がよかったかなという気がします。今は撮影技術のレベルが上がって観客の要求水準も高くなっていますから、ある意味でどんなモンスターを見せられてもそれほどの驚き・恐怖感はないと思います。なまじっかずっとほんの一部しか見せずにいると期待水準が高まるので、姿が出てきたところで、なんだこんなものかと思ってしまいます。 米軍も、軍の最高機密を守っているという設定なのに、素人が潜入して簡単に突破できたり、あまりにゆるい。 SFとしての部分で、列車に積まれていた謎のキューブがなんなのか見ていて最後までわからなかった(どこかで説明されたのを私が字幕を読み切れなかったのかもしれませんが)し、ラストも宇宙から来たのではないモンスターがどうして宇宙にサヨナラするのかもよくわからなくて、雰囲気を味わう(スピルバーグ映画へのノスタルジーを味わう)にはいいでしょうけど、どうもしっくり来ませんでした。 設定で、スリーマイル島原発事故の年のオハイオ州(ペンシルバニア州の西隣ですけど、距離は遠い。福島第一原発から東京くらいでしょうか)を選んだのはどうしてでしょう。人々の不安、暗い雰囲気を出す要素としてでしょうか。それとも原発事故後不思議な現象があると放射能と結びつけられがちだったけど、実は違う(でも、それがモンスターの仕業って・・・)という反原発派への揶揄的なメッセージでしょうか。
2011年07月02日
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外交官黒田康作シリーズ第2弾「アンダルシア 女神の報復」を見てきました。 封切り2日目日曜日、No.1スクリーンをあてがった新宿ピカデリー午前10時10分の上映は2~3割の入り。 パリで行われているG20財務相会議でマネーロンダリング規制機関の設立を訴える村上財務相(夏八木勲)に同行してアメリカへの根回しに腕をふるっていた黒田(織田裕二)は、アンドラで警視総監の息子の日本人投資家川島(谷原章介)が銃殺死体で発見された事件の調査のためにアンドラに赴く。第一発見者のビクトル銀行員新藤結花(黒木メイサ)を聴取する警視庁から派遣されたインターポール捜査員神足誠(伊藤英明)は黒田を排除しようとしたが、脱出した新藤が襲撃されるのを救った黒田は新藤をバルセロナの領事館に連れて行って保護する。バルセロナでも度々脱走を試みる新藤の危機を救い続けた黒田は、新藤からビクトル銀行のテロ組織との取引がアンダルシアの別荘で行われることを聞き出し、神足に協力を求める。神足は過去に警視庁の不正を内部告発したのを機にインターポールに飛ばされ長らく子どもとも会えない日々を送り、日本への帰国をちらつかせられながら川島の不祥事もみ消しを命じられていた。そして外務省からも黒田に調査中止が命じられるが・・・というお話。 投資銀行で巨額の取引を担当し、ライバル行への移籍を画策し、インターポールや外交官とも取引を持ちかける新藤結花は、もっと不敵なというか大人の余裕を感じさせる役どころかと思います。ポーカーのシーンとかもそういうお膳立てかと思うんですが。そのあたり、黒木メイサはまだ子どもっぽさが残るというか、なりきれてないものを感じました。まぁ脚本としても「女神の報復」の意味するところとか妹への感情とか、新藤結花の役どころに十分な大人のテイストを乗せていないきらいもあるので、これくらいでいいということかもしれませんが。 バルセロナの地元警察にもスパイを送り込み、取調室の中までお見通しのビクトル銀行。そこまでの凄みをきかせたわりには、その後新藤をフォローできずに、新藤が警察に聴取される前から持っている情報通りにテロ組織との取引をしてみすみす一網打尽って、すごくちぐはぐな感じ。 「衝撃のラスト10分!」の広告文句は、きっちりわかってましたとはいいませんが、驚きというのはちょっと無理。むしろ水戸黄門的なこうならないとねって展開で、納得はできますけど。 アマルフィ、アンダルシアと来て、ヨーロッパの観光地で「ア」が付くところがお好きのようですから、次作はアントウェルペンあたりでしょうか。
2011年06月26日
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特殊な宿命の下に生まれ育った男女3人の絆と揺れ動く思いを描いた映画「わたしを離さないで」を見てきました。 封切りから14週目土曜日、現時点で全国6館、東京では1館だけの上映館キネカ大森の12時30分の上映は2割くらいの入り。 緑豊かな自然の中にある寄宿学校「ヘールシャム」で、健康を管理され、創作活動に励む、帰る家のない子どもたち。彼らはクローン技術により生み出され、成人すると臓器を提供し続け、数回の「提供」の後「終了」を迎えることが定められていた。彼らにその運命を告知した教員は直ちに学校から消え去った。ヘールシャムで育ったキャシー・H(キャリー・マリガン)は、仲間はずれになっている切れやすいトミー(アンドリュー・ガーフィールド)に淡い恋心を抱き、慰め励ましてトミーの態度を変えていくが、それを見たかつてトミーをいじめる側にいたルース(キーラ・ナイトレイ)がトミーにアタックし、トミーはルースとつきあい始める。3人はヘールシャムを卒業し、農村の「コテージ」で同じ宿命の他の施設出身者らと共同生活をしながら「提供」の告知を待つ日々を送っていた。ある日、ルースのDNA提供者を見たという同僚に誘われた3人は、ヘールシャムでは真剣に愛し合っていることが証明されれば「提供」を数年猶予することができるんだろと迫られる。トミーは私のものという態度をあからさまにするルースに、落胆したキャシーは介護士を希望し、トミーやルースと離れ「提供」者に寄り添う日々を送る。ある日「提供」者に付き添った帰りに、ふとルースの画像を見つけたキャシーは、すでに2回の「提供」を経て衰弱したルースに出会い、ルースからトミーの消息を聞いて・・・というお話。 臓器移植医療のために、クローン技術で生み出され臓器提供を義務づけられ、成人して数年のうちに提供できる臓器を提供し尽くして死ぬことが定められているドナーたち。臓器移植を要する一部の人、あからさまに言えば臓器移植を要する患者を抱えた金持ちのために製造され(栽培され?)育てられ、殺される人々。そういった不条理と、その不条理な運命を押しつけられた人々の哀しみと怒りがこの映画のバックボーンとなっています。 ふつう、こういう設定では、近未来として描かれますが、この映画では、キャシーたちの子ども時代を1978年、「終了」を1994年という過去形で描いています。あったかもしれないパラレルワールドとしてなのか、いや報じられないだけで現実に秘密裏に行われているという主張なのか、刺激的な問題提起をしています。 キャシーのすべてを包み込むような諦念と悟りと、しかし同時に等身大の哀しさせつなさにも満ちた瞳と表情が実にいい。ルースに想い人を取られた、そしてトミーもあっさりとルースになびいた時の寂しさ哀しさも胸の内にしまい込み、再会後のトミーの語る「愛」が提供の猶予を求めてのものと気付きながら、また提供の猶予などあり得ないと思いながら、トミーと体を重ね猶予の申請に寄り添うキャシーの思いには涙してしまいます。怒りでも軽蔑でもなく、このような運命の下ではそう行動するのも無理はない、多くのドナーを見つめて経験を重ねてきたからこそ落ち着いた態度を取っている自分も、紙一重でそうあり得たはずという、その人間のもろさ弱ささえ愛しく思えるキャシーの心情を見るとき、そのキャシーを追い立てる運命の過酷さとそれを強いる連中への怒りに胸が震えます。 タイトルであり、主題歌の“Never let me go”。「わたしを離さないで」なんでしょうか。むしろ定められた道を行かせないで、ここにとどまり続けさせて、そういう意味合いに思えるのですが。
2011年06月25日
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現代社会の通説や建前を疑ってベストセラーになった”Freakonomics”を映画化した「ヤバい経済学」を見てきました。 封切り3週目日曜日、全国5館、東京2館の上映館の1つ新宿武蔵野館の午後3時45分の上映は7割くらいの入り。 映画は原作本の著者の大学教授とジャーナリスト2人の対談形式で進み、不動産業者と顧客の利害対立、人生に対する名前の影響、大相撲の八百長と日本の警察の殺人事件捜査、アメリカでの80年代末からの犯罪率減少の原因、高校生に勉強させるためにインセンティブは効果的かという5つのテーマが論じられます。第1のテーマは、30万ドルで売りに出した自宅に29万ドルの買い手が現れた、不動産業者は先のことはわからないからと確実な29万ドルでの売却をアドバイスし手数料は売却額で決まるのだから少しでも高く売りたいが顧客のことを考えて勧めているという、信じてよいかという問題。不動産業者が売却を延ばして売却価格を1万ドル上げたとしてもそれによって増える手数料はわずか150ドル、だから不動産業者は早く売って次の仕事をした方がいいから売却を進めている、もし不動産業者が自分の家を売るのなら30万ドルの買い手が現れるまで待つ。第2のテーマは、名前自体よりも子どもの将来を考えていい名前を付けようとする親の元で育つか、子どもの将来に無関心な親の元で育つかの方が影響が大きいが、多数の企業にまったく同じ履歴書に名前だけを変えて送りつける実験をしたら黒人らしい名前で出した場合は白人らしい名前で出した場合より連絡が少なく就職できるまでの期間も遅くなった。第3のテーマは、日本人は倫理観が強く不正は少ないと考えられているが、大相撲では7勝7敗の力士が同クラスの力士と対戦した時の勝率が75%もありしかも同じ組み合わせの次の対戦では結果が逆になっていることから八百長が行われていることは明らかだし、日本の警察の96%もの殺人事件検挙率は犯人がすぐにわからない事件を殺人事件扱いせずに死体遺棄事件として処理しているから。80年代末からの犯罪率の減少はニューヨークだけじゃなく全米の傾向だしジュリアーノの前から減少しているから重罰化や軽犯罪検挙の成果ではなく、原因の約半分は中絶自由化で望まれない(従って親から関心を向けられなかったり虐待されて育つ)子どもが劇的に減ったことが20年後に効いてきたため、現に1973年の中絶を合法化した最高裁判決よりも3年早く自由化していた州はいずれも3年早く犯罪率が減少している。高校生に成績が上がったら賞金を出す実験をしてみたら、成績が上がった生徒は5~7%、効果は見られるがかけたコストには見合わない・・・というようなお話。 全体を通じたテーマはインセンティブと因果関係。インセンティブは現実に人を動かしているが、しかしインセンティブで人を動かそうとしても効果は十分ではない。因果関係は、常識や建前とは違っていることが多く、統計的にきちんと論証すべき。というような教訓が得られる映画です。私には、アメリカの犯罪率減少が、政治家やマスコミが言いたがる厳罰化や軽犯罪の検挙(一時一世を風靡した「割れ窓」理論)の成果ではなく、中絶自由化の効果という話が、意外性もありまた説明されるとなるほどと思え、一番興味を引かれました。全体として、常識・通説を疑えという姿勢が売りで、こういう原作本が400万部超のベストセラーになったというのは、さすが。 大相撲の八百長問題を、今年になってからではなく、週刊ポストが報じていた頃にその材料で断言しているところがすごい。2011年になって力士による野球賭博事件の捜査で押収された力士の携帯メールで八百長の交渉が行われていたという明白で言い訳の余地ゼロの動かぬ証拠を突きつけられるまで、八百長は存在しないと言い続けてきた(今でも「八百長」じゃなくて「故意による無気力相撲」なんだとか)相撲協会の言い分が通って、日本の裁判所が八百長の事実が認められないと認定して週刊現代に数百万、数千万の賠償の支払を命じていた時期に作られた映画なんですが、よほど自信があったんでしょうね。
2011年06月12日
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ベストセラーとなった「もしドラ」(もちろん、「もしドラえもんに4次元ポケットがなかったら」の略ではない)を映画化した「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」を見てきました。 封切り2週目、前田敦子が1位に返り咲いた第3回AKB総選挙の結果発表から2日後の土曜日、渋谷HUMAXシネマ午前9時20分の上映は1割くらいの入り。まぁ、雨の土曜日に朝9時台から映画見に行かないよね。観客層は、中高生とお子様連れがほとんど。 小学生の時リトルリーグで活躍したものの女子は高校野球もプロ野球もないからと野球をやめて帰宅部していた川島みなみ(前田敦子)は、小学生の時からの親友で程久保高校野球部のマネージャーの宮田夕紀(川口春奈)の代わりにマネージャーになる。野球部員たちも監督もやる気がないのを目の当たりにしたみなみは甲子園出場を目指すと宣言する。書店でマネージャーの入門書を探していたみなみは、書店のおじさん(石塚英彦)から、ドラッカーの「マネジメント」を勧められる。うちに帰ってから会社経営の本と知ったみなみは、いったんは放り出すが、マネージャーに最も必要な資質は真摯さであるというドラッカーの言葉に打たれ、野球部の定義と目標とあるべき姿を議論するうちにドラッカーオタクの野球部員を味方に引き入れ、次いで部員に人望のある夕紀の手を借りて部員の本音を聞き出してマーケティングを進めていく。こうして部員のモチベーションを引き出し、練習を積んで行ったが、それでもなおまだ予選のベスト16レベルと読んだみなみは、意欲に欠けるが野球理論には詳しい監督(大泉洋)を焚きつけて野球の技術革新を図り、効率の観点からノーバントノーボール戦術を打ち出させ、そのために必要な条件を作っていく。そうして迎えた3年夏の甲子園大会県予選だったが・・・というお話。 みなみがドラッカーの言葉を咀嚼しながら高校野球に当てはめていく過程の考える表情が、ちょっとかっこいい。「南を甲子園に連れてって」(出典は省略)じゃなくて、みなみが甲子園に連れて行くってところに、時代の進歩が感じられるのもすがすがしい。 セーラー服着た高校生が「マネージャーの勉強をしたい」っていうのにドラッカーがお勧めって言う書店のおじさん。浮いてるけど、切れてる。 台詞は棒読みっぽいし、野球のシーンは、腰が入ってないし、勘弁してよって感じのところが多かったけど、まぁこれはアイドル青春映画だからこんなもんでしょと、思っておきましょう。 でも、みなみに想い人の一人もいない上に、試合に勝っても抱き合うシーンはもちろんのこと、胴上げも、さらにはハイタッチさえなし。前田敦子には男は指一本触らせないぞって事務所の意向がギンギンに見えてるのが、しらけました。
2011年06月11日
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朝霞自衛官殺害事件にコミットしすぎて証拠隠滅で罪に問われ職を辞さざるを得なくなった朝日ジャーナル記者の自伝的ノンフィクションの映画化「マイ・バック・ページ」を見てきました。 封切り2週目日曜日シネ・リーブル池袋午前11時の上映は3割くらいの入り。この映画の時代を生きた全共闘世代はほとんど姿が見えず、むしろ若者が多数派でした。妻夫木・マツケン・忽那汐里ファンの世代ということでしょうか(だいたい私の世代で「マツケン」っていったら松平健だったし)。 東大安田講堂の籠城戦を安全な外部から見ていたことにコンプレックスを持ちながら週刊東都の記者をしている沢田(妻夫木聡)は、闘争に踏み込んでいく先輩記者中平(古館寛治)に、京成安保共闘を名乗る学生運動家梅山こと片桐(松山ケンイチ)を紹介され、自宅でインタビューする。中平はあいつは偽物だと判断し、気をつけろというが、沢田は梅山と意気投合し、接触を続ける。学生運動にのめり込みすぎて編集部が粛正された東都ジャーナルに移された沢田は、京都の闘争の理論面のリーダー前園(山内圭哉)と梅山を引き合わせ、対談させる。中平から聞かされた情報を元に京成安保じゃないんだってと聞く沢田に梅山は言いつくろいつつさらに過激な行動をにおわせ、用意した武器を見せる。自衛隊内の協力者を巻き込み自衛隊駐屯地に潜入して武器を奪取する計画を立てた梅山は、仲間の柴山と協力者を自衛隊駐屯地に送り込むが作戦は失敗し、自衛官を殺害してしまった上に武器を奪取できなかった。犯行を宣言することで立ち上げた組織赤邦軍のプロパガンダをもくろむ梅山は、沢田に殺害した自衛官の血に汚れた腕章を渡し、沢田は約束通り記事にしようとするが、東都新聞は単なる殺人事件と位置づけて記事は掲載せず警察に協力する方針を打ち出す。警察の取調に対して沢田はニュースソースの秘匿を主張して非協力の態度を貫くが・・・というお話。 過激派跳ね上がり学生の梅山が、いかにもうさんくさくて卑怯な人間に描かれているところ(う~ん、当時もそういう評価だった記憶だから文句言いにくいけど)が、学生運動を知らない世代に、学生運動を全否定する印象を与えそうで、今どきの風潮からもいやな感じが残ります。 全共闘議長唐谷(長塚圭史)の潔い態度や中平記者の姿勢に救われるところがありますし、忽那汐里演ずる週刊東都カバーガールの女子大生が感覚的には学生運動に親近感を見せながらそれでも「この事件はいやな感じがする」といわせるあたりに、この事件の特殊性を印象づけてはいるのですが。 論争相手から理屈で言い負かされてというか、その後も一貫して党派をつくり武器を奪ってその後どうするかの展望がない結局何がしたいのかわからないのに、運動のトップでいたくて居丈高な態度を取る、ジコチュウで尊大でしかし臆病な梅山という存在と、闘争には入れなかったコンプレックスを持ち今も中平のように確信を持てない沢田という、「本物」になりたいと思いつつなれない若者の焦燥と挫折を描いたという点では、当時の雰囲気を感じさせる映画です。 見終わって一番違和感感じたのは、実は、腕章の最後の扱いでした。ニュースソースの秘匿でがんばるんなら、そうじゃないだろって。でも、そのあたりも含めて、自分は本物になれなかったという沢田の悔恨なんでしょうね。 前年に最後の盛り上がりを見せた竹本処分粉砕闘争の終結直後に京大に入学した私は、「竹本処分粉砕」と白ペンキで描かれた時計台を写真では何度も見せられ、大学の不当処分の話はよく聞かされましたが、その元になった事件がこういうものというか、こういう目で見られてた事件なのねというのは・・・梅山が騙った「京成安保」の闘争も、すべてが終わって最高裁になってからその事件の弁護人として記録で読んだ私には、そういう話だったかなというと・・・どちらも時代に乗り遅れて残骸を見ただけの私には何とも言えないのですが。 梅山の危なさを感じながら離れられずにいて裏切られる茂子(石橋杏奈)の無念というか哀しみは、時代を超えて理解できる気がしましたが。
2011年06月05日
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ナタリー・ポートマンがアカデミー主演女優賞を射止めた映画「ブラック・スワン」を見てきました。 封切り5日目日曜日、ヒューマントラストシネマ渋谷の午後0時10分の上映はほぼ満席。 ニューヨークのバレエカンパニーに属するニナ・セイヤーズ(ナタリー・ポートマン)は、新シーズンの「白鳥の湖」で、監督のトマ(ヴァンサン・カッセル)がプリマドンナのベスを引退させることから、プリマに登用されるチャンスを獲得する。しかし、新作の「白鳥の湖」では、白鳥だけでなく、王子を誘惑する黒鳥ブラック・スワンの役もこなさなければならず、元バレリーナの母親の下でバレエ一筋に打ち込んできた優等生タイプのニナには、高いハードルとなった。同時に現れた奔放で小悪魔的な新人バレリーナリリー(ミラ・クニス)がブラック・スワンにふさわしい踊りを披露し、トマに近づく姿を見て、ニナは焦りを感じる。苛立つニナはいつのまにか背中に傷を受け、手が血にまみれ、近づいてくるリリーやトマに不審を感じ・・・というお話。 大役を張り、またその役を競い合う激しい緊張とストレスの下での恐怖と狂気を描いた映画で、見どころも、基本的にそれに尽きます。10か月に及んだというバレエの特訓をこなし、その過程を共にした振付師とできちゃった婚(まだ婚約らしいですが)してしまうほど役になりきったナタリー・ポートマンの演技は、さすがと言えるでしょう。 サブテーマとしては、母親の下で優等生として育ってきたニナが、心理的に母親から独立し優等生らしさを踏み越える成長物語としての側面もないではない、というところでしょうか。 しかし、王子を誘惑する悪魔的なブラック・スワンの表現について、ニナの演技の不足を指摘するのに、王子役の男性ダンサーに「おまえ、やりたくなったか?」と聞いて失笑させたり、監督が俺が王子と思えといってキスをし胸を揉みしだき股間をまさぐり固まっているニナにおまえが誘惑する側だろと言い捨てて立ち去り、とやりたい放題。アメリカでこんなことやってセクハラで訴えられたら懲罰的賠償いくらになるんだろ。だいたい、バレエで観客が「やりたくなる」ような踊りが要求されるのでしょうか? ブラック・スワンを演じるために命じられて一人Hするナタリー・ポートマン、リリーとの愛憎をめぐる妄想に耽るナタリー・ポートマンの、ヌードは見せないものの濡れ場が少なからずあり、そのあたりがR15+指定の理由でしょう。 基本は心理サスペンスで、アカデミー主演女優賞だし、メジャー作品なんですが、親子とか純情カップルで見るにはちょっとしんどいかなと思います。
2011年05月15日
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フィンランドで建設中の世界最初の原発の使用済み燃料の最終処分場をめぐるドキュメンタリー「100,000年後の安全」を見てきました。 封切り7週目土曜日、東京で2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町の午前9時50分の上映は2~3割の入り。 フィンランドのオルキルオトで岩盤を深く掘り抜いて建設中の世界最初の原発の使用済み燃料の最終処分場の建設計画と工事の映像に、関係者のインタビュー映像、イメージ映像+ナレーションで構成されています。 強い放射線のため近くに寄る者は放射線障害で死亡する危険があり、しかも放射線は五感の作用で検知できないので放射線に気付く前に致死量の被曝をする危険が高く、無害になるまでに10万年かかる使用済み燃料を岩盤深く埋めて埋め戻す施設について、主として何万年も後の人類に危険物の存在を、そして決して掘削すべきでないことをどうやって知らせるかが主要な論点として提示されます。 果たして10万年後の人類は、どのような文明を持っているか、現在の文字を解読できるか。10万年前と言えばネアンデルタール人の時代、今からそれだけの気の遠くなるような年月を経た後のことをどうやって予測するというのか。6万年後にはまた氷河期がやってきて文明は壊滅するかも知れない。この岩盤を掘削できる技術があれば、放射能も検知できるだろう。いや、掘削は高度の文明がなくても可能で、放射性物質を扱う技術がなくて掘削はできる文明の状態が最も困る・・・ 文字が読めたとして、危険だと告知されて掘削をやめるだろうか。ピラミッドは封印されていたが、盗掘を免れなかった。古代ルーン文字で「不届き者、触るべからず」と記載された石碑を学者はまったく無視して遺跡の発掘を続けている。 映画で議論されているのはこのあたりですが、そもそも数万年後の人類に原子力発電に関する知識が承継されている可能性はほとんどないでしょう。なぜなら高速増殖炉が行き詰まりプルトニウムサイクル技術の完成が絶望視されている以上、原子力発電はウラン資源に依存し、そのウラン資源は数十年程度で枯渇するのですから、原子力発電という技術は、大事故が起こってもなお反省せずに推進し続けたとしても今世紀いっぱいの過渡的な技術に過ぎないわけです。そのような過去の一時期になされた、成功したとは言えず控えめに言ってもその後の世界では有用性のない技術に関する知識を、何世代も語り継いでいくことはおよそ期待できません。 推進側の連中は、有用な資源のない最終処分地を掘り返す動機はないと主張しています。しかし、数万年後の人類にとって何が有用な地下資源か、誰にわかるというのでしょう。現在の原発推進派が有用と考えるウランが原子力発電(というより核兵器)に使えると人類が考えるようになったのはせいぜい数十年前です。岩盤を数百メートル掘削する技術ということなら、現在石油を得るためには数千メートルの掘削が行われています。数万年後どころか数百年後に、どのような技術が開発され、今は利用価値のない地下資源が貴重な資源と目されるようになるか、その頃の掘削技術がどのようなものか、今の知識でどうやって判断するというのでしょうか。わずか数か月前には、日本の太平洋側のプレート境界でマグニチュード9の地震が起こることはあり得ないと言っていた連中が、数万年後のことをどうして自信を持って予測できるのでしょうか。 ちょっと映画で触れていないことに話がそれましたが、原子力発電という技術が、仮に事故を起こさなかったとしても、いかに不毛でやっかいなものかを考えさせる、時宜を得た映画だと思います。
2011年05月15日
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人生の選択をめぐるたらればパラレルワールドノスタルジー映画「ミスター・ノーバディ」を見てきました。 封切り2週目土曜日、全国5館、東京23区では唯一の上映館のヒューマントラストシネマ渋谷の午前10時の上映はほぼ満席。観客の年齢層はばらけてましたが、なぜか同性の組み合わせが多く、若者カップルは少数でした。 2092年、人間が不死を獲得し、最後の「死ぬ」人間となった118歳のニモの最期に注目が集まっていた。ニモにインタビューするため病院に忍び込んだ記者を前に、ニモは過去を語り始めるが、ニモの話は、9歳で両親の離別に際して父親の元に残ったのか、列車に乗った母親を追いかけて列車に乗り込み母親に付いていったのか、幼なじみのアンナ、エリース、ジーンのうち誰と結婚したのか、夫婦生活の転機でどのような選択をしたのか、はっきりせず、それぞれの選択に沿った複数の物語が展開する。記者は、結局どちらの選択をしたのか、あなたの話は矛盾していると迫るが・・・というお話。 枠組みは、2092年、不死のテクノロジー、火星観光(しかし、90日で行けるなら人工冬眠までさせるか?)、バタフライ・エフェクト、ビッグ・バン宇宙と超ひも理論の9次元の宇宙、膨張する宇宙の終焉と、大仕掛けのSFで、こういう構想だとエンディングは、古い感覚でいえば、アインシュタインの舌を出した笑顔でも入れたいような気がします。 膨張する宇宙が収縮する宇宙に転換し、そのとき時間が逆行するとか、そのターニング・ポイントが2092年2月12日午前5時50分とかいうのは、SFとしてもちょっと厳しいかなという気はしますけど。 しかし、その大仕掛けな枠組みで語るパラレルワールドの分岐点というのが、9歳の時に両親が離別する際に父親を選んだか、母親を選んだか、幼なじみ3人のうち誰と結婚したかという点にほぼ限定されるのは、羊頭狗肉というか、ちょっと拍子抜けしてしまいます。もちろん、個人の人生では重大な選択で人生の分岐点というのは、重々、実感としてもわかりますけど・・・ それぞれの選択、それぞれの人生には同じ価値・意味があったというのですが、全然同価値には描かれていません。何が真実だと、記者は問いかけ、ニモはそれに答えませんが、私には見え見えに思えます。その点は人により見方が違うのかも知れませんけど。あえていえば、現実には父親の元に残り、介護に追われて鬱屈した青春時代を送り、わがままなエリースと結婚したものの家庭生活はうまくいかず、それ故にそうでない選択を空想するけれども、父親の元に残った場合の第2選択のジーンとは自分がそれほど好きだったわけではないから不本意な選択をしたという思いが残るだろう、やはり幼い頃憧れていたアンナが恋しいけれども現実には9歳の頃以降会っていないからどうなっているのかわからないために様々なパターンを空想してしまうと、私にはそう読めてしまいます。 誰もが感じている、もしあのときこうしていたら、という思いを扱うことでノスタルジーに浸る観客の共感を集めつつ、それを非現実的な過剰に大仕掛けの枠組みで扱うことであくまでも劇場限りの幻想なのだよと示すことで安心なエンターテインメントを目指したというところでしょうか。
2011年05月07日
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不倫相手とその妻の間の乳児を誘拐して4年間逃亡生活を続けながら育てた女性と育てられた娘の生き様を描いた映画「八日目の蝉」を見てきました。 封切り5日目水曜日祝日、池袋東急午前10時の上映は3~4割の入り。 不倫相手の男秋山丈博(田中哲司)から、いずれ妻とは別れるからそれまで待ってくれと中絶を求められ子どもを産めない体となった野々宮希和子(永作博美)は、秋山の妻(森口瑤子)が産んだ生後4か月の乳児恵理菜をひと目見ようと秋山の家に忍び込むが、希和子の前で笑った乳児を見て、この子は自分が守ると決意してとっさに連れ出してしまう。希和子は乳児を薫と名付け、友人宅や新興宗教団体のホームやそこで知り合った友人の実家を頼って逃亡生活を続けながら薫(渡邉このみ)に寄り添い愛情を注ぎ育ててゆく。4年後希和子は逮捕され、薫は秋山夫妻の元に戻されるが父母と実感できず、逃げ出したり、苛立つ母に脅え、人に心を開けないままに育った。21歳になった恵理菜こと薫(井上真央)は、アルバイトをしながら一人暮らしをしていたが、妻子ある予備校教師(劇団ひとり)の子を身籠もる。恵理菜に誘拐事件のことを聞きたいと近寄ってきたライターと名乗る千草(小池栄子)に、恵理菜は相談するが・・・というお話。 恵理菜=薫が育った秋山家は、父親は誘拐犯と愛人関係だったことがマスコミに報道されて会社を辞めざるを得ずその後も仕事ができずに酒に溺れ、母親は娘とうまく行かずにいらだち仕事を始めて遅くまで帰らず食事はスーパーで買ってきたお総菜ばかり、誕生日とかクリスマスとか楽しいお祝いをしてもらったことはない・・・そしてその原因は自分にあると幼い恵理菜は自分を責めて育った。 それ以前の逃避行の中も含め、私のように幼い子が哀しい目に遭うシーンには無条件で涙腺が緩む人はもちろん、ふつうの人にも泣きどころ満載の映画です。 幼い子どもが関係する場面で法律家業界では、「子の福祉」つまり子どもの幸せを最優先にというのですが、実父母の元に戻すことが子どもの幸せにつながらないことがままあるのが悩ましい。 妻子ある男の子を身籠もったことを、千草に向かって、希和子と同じことしてるって思ってるでしょっていう恵理菜。しかしこの映画のテーマは、虐待の連鎖から抜け出し、生まれてくる子どもには世の中のきれいなものをすべて見せてやりたい、それが自分の義務だと思える恵理菜の前向きな姿と希望にあります。それが、わずか4年間でも、誘拐犯でも逃亡生活でも、慈しんで育ててくれた希和子との思い出に起因するのか、実母の姿勢を反面教師としてかは、さておいても。 そしてその裏側では、「いつか妻と別れるからそのときまで待っていてくれ」と無責任な決まり文句を言い続ける不倫夫たちの情けなさと罪深さ。秋山丈博はそのために家庭を崩壊させ、自分はもちろん自業自得として、妻も愛人も娘も不幸にしてしまう。娘が父親と同じタイプを好きになるというのは、父親にとっては誇らしいはずですが、無責任な妻帯者の子を身籠もって「相手はお父さんと同じような人」って言われるのでは身の置き所もない。もしも子どもができたらと聞かれただけでうろたえ、恵理菜から見限られる予備校教師に至っては、存在感もない。「キッズ・オールライト」と続けて見て、男って、夫って、父親って何だろう、存在意義は・・・って考えさせられました。 陰のある大人の役に挑戦した井上真央の成長と、子役のけなげなかわいさが光っています。 永作博美も哀しげな表情がいいんですけど、最初の方の乳児が泣き叫んで乳房を含ませようとするシーン、別に永作博美の乳房が見たいって思ったわけじゃないけど、ああいうシーンはがむしゃらに人目を気にせずに(そもそもホテルの室内で人目はないという設定だし)胸をはだけないとそれらしくなくて、最初の方で気持ちがつまづいてしまいました。 魔法使いのおじさんみたいな写真館の主人も捨てがたい魅力がありましたが。
2011年05月03日
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同性夫婦と子どもたちの絆を描いた映画「キッズ・オールライト」を見てきました。 封切り3日目日曜日、シネリーブル池袋午前11時55分の上映は3~4割くらいの入り。観客の多数派は若者層でした。 医師のニック(アネット・ベニング)と仕事がうまく行かずにいるジュールス(ジュリアン・ムーア)は、レズビアンカップル。精子バンクで同一人物の精子を買ってニックは娘のジョニ(ミア・ワシコウスカ)、ジュールスは息子レイザー(ジョシュ・ハッチャーソン)を産んで育てている。18歳になり大学進学を控えるジョニは、15歳のレイザーに頼まれて、精子バンクに連絡して精子提供者を知り、連絡する。ジョニとレイザーの生物学上の父親ポール(マーク・ラファロ)は、レストランのオーナーで、若い恋人と気ままな独身生活を謳歌していたが、ジョニとレイザーと会い、レイザーの母親ジュールスにジュールスが新たに始めた造園の仕事を依頼し、ジョニの家族に接近し、ジュールスと肉体関係を持ってしまう。家族に割り込んできたポールに対してニックは不快感を持ち・・・というお話。 レズビアン夫婦とその子どもたちという、「ふつうと違う」家族と、「生物学上の父親」という異分子を通じて、同性愛、家族の絆、(生物学上の)父親の存在意義といったことを考えさせられる映画です。 「ふつうと違う」家族については、すでに「ふつうの家族」というもの自体が少なくなり一種の幻想とも思える今日ですが、実子を育てるレズビアンカップルという設定には、まだこういうフロンティアがあったかという思いがします。その家族愛を描くことで、様々な家族のありようをあるがままに受け止めていこうという制作意図が感じられます。 同時に、そのレズビアンカップルに、ニックが長時間労働で家族を養いジュールスは定職に就かずすねをかじっているという関係と、エリートで厳格な性格のニックと仕事がうまく行かず拗ね気味でルーズな性格のジュールスという組み合わせで、男女の夫婦にありがちな関係を持ち込んだのは、レズビアンカップルも多くの夫婦に似ているという、親近感からも揶揄的な視点からも考えられる安心感を狙ったものでしょうか。 レズビアンのジュールスがポールと簡単に肉体関係を持ってしまうのも、レズビアンに対する、本当は男とやりたいんだろというような偏見からとも、その後のジュールスの選択を際立たせるための布石とも、まぁ読めます。 レズビアンのニックとジュールスのカップルがセックスのムードを盛り上げるために(レズビアンのではなく)ゲイのポルノビデオを見ていたのも、やはり本当は男が欲しいんだろという、レズビアンに対する抜きがたい偏見(というか男性側の願望)からなされた設定とも考えられますし、映画の中でレイザーの質問に対してニックとジュールスが答えているようにレズビアンのビデオは本物じゃない・レズビアンでない女優がやっている(つまりゲイのポルノビデオはゲイの視聴者のために作られ、本物のゲイが演じているが、レズビアンのポルノビデオはレズビアンの視聴者ではなく男性視聴者のために作られ、レズビアンでない女優が男性に裸を見せるために演じている)からむしろゲイのポルノの方が同性愛者にとって親近感を感じるからかも知れません。 このように一応レズビアンについて好意的な意図という説明も不可能ではない形にはなっていますが、私にはどうも制作サイドにレズビアンを扱いながらレズビアンに対する抜きがたい偏見があるように感じられる点が少なからずありました。それが「ふつうと違う」家族をあるがままに受け止めようという方向性とマッチしない感じがして、ちょっとすっきりしませんでした。
2011年05月03日
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フランスのファッションデザイナーイヴ・サンローランのドキュメンタリ-「イヴ・サンローラン」を見てきました。 封切り2週目土曜日、東京で2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町の12時10分の上映は3割くらいの入り。 1957年、クリスチャン・ディオールの急死を受けて弱冠21歳で後継者に選ばれたイヴ・サンローランは、その直後に生涯のパートナーとなるピエール・ベルジェと知り合い、生活をともにしながら、その後のオートクチュール・コレクションで大成功を収めトップデザイナーとしての地位を確立する。1960年にアルジェリア戦争の激化から徴兵されたイヴは神経衰弱となり、ディオールのメゾンを解雇され精神病院に送られる。1961年に独自ブランド「イヴ・サンローラン」を設立したイヴは、ファッションや香水で成功を続けるが、アルコールやドラッグに溺れて入院したり復帰したりを繰り返した。その間にイヴは美術品を買い集めパリの自室やマラケシュの別荘、ノルマンジーの城に所蔵していた。イヴは2002年に引退を表明、2008年に死去した。生涯をともに過ごしたピエール・ベルジェはイヴの死後美術品をオークションで売却したというお話。 全編、実写フィルム、写真とピエール・ベルジェのインタビューで構成されています。著名なファッションデザイナーの半生を描いた映画ということから予測されるファッションショーやモードの制作過程の映像は少なく、大部分がピエール・ベルジェのインタビュー映像です。ですからイヴ・サンローランに個人的な興味を持っている人には初公開映像とかが多くて貴重なフィルムなのだと思いますが、そうでない人にはかなり退屈。私が一緒に見に行った人は横で爆睡してました。終わってから、「これだけよく寝た映画初めて」って・・・ ストーリーとしては、トップデザイナーがプレッシャーからアルコールやドラッグに溺れる姿という、まぁありがちなパターンに加えて、なんといってもゲイとしてのイヴ・サンローランという点がポイントになるはずですが、実写フィルムの使用権やパートナーのピエール・ベルジェへのインタビュー中心ということからでしょう、批判的な要素やスキャンダラスな視点は排除され、若干の弱さはあったが国民的英雄として矜持を維持したイヴ・サンローランという路線が貫かれています。 ゲイという点からは、イヴ・サンローランを肯定的に描くためにも、またピエール・ベルジェの語り中心ということからも、むしろエイズ撲滅団体のトップに立ったピエール・ベルジェがエイズ被害の救済や患者の権利、ゲイの権利をめぐってアピールすることも考えられるのですが、そちら方向への展開もあまり見られません。 そして、ピエール・ベルジェへの取材とインタビューが中心のため、見た印象としてもイヴ・サンローランの半生よりも、ピエール・ベルジェの半生を描いた映画という感じがしてしまいます。特にイヴの死後に美術品をオークションで売却する様子がけっこう長々と描写されるのですが、これがイヴのコレクションを売却して巨額の利益(1点数千万ユーロ=数十億円とかで夥しい数の美術品が競落されていっています)を得たことについての正当化を図っている感じがして、なんかいやらしい。 ファンにとっては貴重なフィルムかも知れませんが、そうでない人にとっては、映像に華がなく、単調なインタビューが続き、その内容としても中途半端な自己正当化が続き、退屈で後味もよくない映画だなと思います。
2011年04月30日
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様々な問題を抱えた女たちが阪急今津線の中で出会い触れ合う映画「阪急電車 片道15分の奇跡」を見てきました。 東京での封切り初日(関西では4月23日から先行上映)の金曜日・祝日、TOHOシネマズ六本木ヒルズ初回上映は3割くらいの入り。 婚約者を後輩OLに寝取られた高瀬翔子(中谷美紀)は、2人の結婚式に当てつけで純白のドレスを着て出席し、途中退席して阪急電車に乗り込む。夫と息子と慎ましく生活している主婦伊藤康江(南果歩)は息子のPTAのつきあいでセレブ気取りのおばちゃん軍団に浪費を強いられ、また人の迷惑を顧みないおばちゃんたちの振る舞いに恥ずかしく思いながら断り切れずにいた。イケメンだがジコチュウのDV男に怒鳴られ暴力をふるわれながら別れられずにいる森岡ミサ(戸田恵梨香)は、渋る男と新しい部屋探しに向かうため、阪急電車に乗っていた。志望校の水準に届かない門田悦子(有村架純)は社会人の彼とつきあっているが、彼は悦子が合格するまでHは我慢している。悦子の志望校の学生権田原美帆(谷村美月)は都会風の同級生について行けず名前にコンプレックスを持ち、同じ大学でパンクファッションで軍事オタクの小坂圭一(勝地涼)は友達もできず孤立していた。友達にハブられた小学生は涙をこらえて通学していた。犬を怖がっていた夫に先立たれた萩原時江(宮本信子)は、孫娘の亜実(芦田愛菜)を連れて阪急電車に乗り込んだ。涙ぐむ翔子を亜実が声高に指摘したのをきっかけに時江が話を聞き始めたことからそれぞれの思いがつながっていき・・・というお話。 主人公が定まらない群像劇で、それぞれが抱えていた哀しみやコンプレックスを癒し、乗り越えて、そのそれぞれが他の登場人物を癒し勇気づけていくという連鎖が、見ている者を和ませ勇気づけていく、地味ですがしみじみと味わいのある映画です。 予告編の取り方とかからは、中谷美紀と戸田恵梨香を宮本信子が勇気づけるというエピソードが中心になっていますが、他の登場人物のエピソードも絡み合って全体で見せるという感じです。私の好みとしては、ベタですがゴンちゃんの純朴さと、悦子の「アホ彼」にほのぼのとした好ましさを感じました。 個人的には、この映画でほぼ唯一の憎まれ役の、反省しない迷惑なおばちゃん軍団の一人が小学校・中学校の同級生で、そういう動機で初日初回上映に駆けつけたのですが、それを置いても心がホワッとする後味のいい映画だったと思います。
2011年04月30日
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アカデミー賞受賞監督たちの日本では公開されにくい最新作を上映するという「監督主義プロジェクト」の第3弾「お家をさがそう」を見てきました。 封切り6週目日曜日、全国唯一の上映館ヒューマントラストシネマ渋谷の午前10時30分の上映は2~3割の入り。年齢層はばらけてましたが一人客が多数派。 コロラド州に住む非婚カップルのバート(ジョン・クラシンスキー)とヴェローナ(マーヤ・ルドルフ)は、マーヤが妊娠6か月となりおなかが目立ってきたところで、近くに住むバートの両親を訪ねたが、両親が出産予定の1月前にベルギーに移住する計画を立てていることを聞かされ、バートの両親が孫と住みたいだろうと考えていた思惑が外れ、家庭を築く場所を考え直そうとする。ともに会社勤めでない2人は、ヴェローナの元上司やヴェローナの妹が住むアリゾナ、バートの幼なじみが住むウィスコンシン州、大学時代の友人カップルの住むモントリオール、バートの兄の住むフロリダを次々と訪れるが、それぞれの家庭の裏側を見せつけられ、理想の家庭・隣人とは・・・と考え込まされ・・・というお話。 友達カップルのバートとヴェローナ。バートから結婚を申し込まれても意味がないと拒否し続け、どっしりと落ち着いている(おなかが大きいからそう見えるということもあるかも)ヴェローナが主導的だけども、時折見せるヴェローナの不安・悲嘆に対してなんとか支えようとする優しさを見せるバートとの関係はとってもいい感じ。予告編でも採られている「私たち34歳(バートが33歳と訂正)になっても基盤がない」と嘆くヴェローナをバートが1つの毛布にくるまって慰めるシーンとか、フロリダのバートの兄の家の庭のトランポリンでの会話とか、いいなぁと思う。 よそに理想を求めるストーリーは、言わずもがなの「青い鳥」パターンが予想されますが、しみじみと情が通じるこのカップルがよそに理想を求める必要があったのか自体、どうかなという気がします。 ただ、同時に、バートらが疑問に思ったカップルがすべて不幸かというと、それも疑問に思います。セクハラおやじそのものといえるヴェローナの元上司リリーと白けきって会話もない夫と子どもたちは、一番不幸そうですけど、リリーの豪快というか楽天的な素質で乗りきれるかも知れない(リリーは主観的には幸せかも)。新興宗教的な独自の価値観(子どもは抱きしめて育てるべきで子どもを押しやる乳母車は不幸の象徴とか)に生きる夫に共鳴して寄り添うLNも、人付き合いは難しいだろうけど大学教員として地位も確立してるわけだし、夫婦仲自体はとてもよさそう。大学時代の友人カップルは、流産を繰り返すマンチの哀しみを引きずっているとはいえ、トムの優しさと明るい養子たちに囲まれ、基本的には幸せな生活を送っているはず。 バートとヴェローナが他よりも幸せという読み方よりも、それぞれのカップルがそれぞれの事情を抱えながら生きている、隣の芝生は青く見えるけど、それぞれの問題点を認識しながら自分とパートナーのよいところを見つめて生きていこうよと読んだ方がいいだろうなと思います。 冒頭、ヴェローナの妊娠がわかるシーンが、Hだけど(PG12指定です)、このカップルの関係を示していていい感じ。でも本当にこれでわかるのかな?
2011年04月24日
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アカデミー賞作品賞・監督賞・脚本賞・主演男優賞受賞作「英国王のスピーチ」を見てきました。 封切り4週目土曜日、アカデミー賞受賞のために拡大公開されながら東日本大震災のため1日1回上映となっているヒューマントラスト渋谷の12時20分の上映は4割程度の入り。観客層は若者がやや多数派というところ。 幼少期から吃音に悩んでいた英国王ジョージ5世の息子のヨーク公(コリン・ファース)は、父の病状が悪化し、王位を継ぐ兄のエドワード8世(ガイ・ピアース)が離婚歴2回の人妻シンプソン夫人を離婚させて結婚する道を選んで王位を退き、やむを得ず王位を承継し、ジョージ6世となる。実権を失いラジオ放送技術が進んだために、国民に対する演説が主要な公務となった王位に対して、演説ができない自分が就くことに強い反発と無力感を感じるヨーク公を、妻エリザベス(ヘレナ・ボナム=カーター)は街の聴覚矯正師ライオネル・ローグ(ジェフリー・ラッシュ)の下に通わせる。王族に対しても往診を拒み自己の診察場に通わせ対等の態度をとり続けるローグに対してヨーク公はプライドを傷つけられ度々激高してローグの下を去るが思い直して通ううちに・・・というお話。 王族に対しても、へりくだらず往診を拒み自己のやり方に従うように求め、家族にしかそう呼ばれたことがないと激高するヨーク公を「バーティ」と呼び続け、自分をドクターとではなく「ライオネル」と呼ぶように求めるローグの専門家としての矜持と頑固さが、ヨーク公の怒りを買いながらも、結果を出すことで信頼感を得て診療を通じての友情の形成につながっていくということがストーリーの軸になっています。 ローグが、ドクターと呼ばせないことは、実は医師の資格がなかったことのためでもありますが、お互いの呼び名がそれぞれの場面での人間関係や心情をうまく象徴しています。 ヨーク公・ジョージ6世のプライドと人間味、特にコンプレックスと2人の娘に対する愛情が、主人公への共感をうまく引き出しています。 主要な登場人物の愛する人との関係、それが心の支えとなっている様子もしみじみと感じさせるものがあります。ジョージ6世の2人の娘に対する愛情も、妻エリザベスの気遣いと愛情も心を打つものがあります。さりげないキスシーンにもちょっと胸が熱くなりました。 頑固なローグが、妻(ジェニファー・イーリー)の「謝ってきたら」の一言で素直にヨーク公に謝罪に行くくだりも、ローグの人間味を感じさせる小道具になっています。 ストーリーの中で愚かさの象徴と位置づけられるエドワード8世のバツ2人妻への恋でさえ、愛する人の支えなしには生きていけないと宣言して王位を去る姿にある意味での潔さと人間味を感じさせます(もちろん無責任さも)。 この映画自体は、そのような境遇・宿命の中で努力し成長していく姿の尊さを描くものではありますが、同時に能力のない、またその意思のない者に特定の地位を強要する世襲制というものの不合理さを強く印象づけます。またジョージ5世がエドワード8世に王位を譲るくだりでは、読み上げられた文章に何のことかさっぱりわからんがというジョージ5世の手を持ってサインさせるなど、高齢・認知症の者を地位にとどまらせることの問題も感じさせられます。結果的にうまく行ったという描き方ですが、こういう仕組みは、王族にも国民にも不幸というのがふつうの感覚でしょう。 そして、王が幼少期に受けたいじめのコンプレックスから吃音に悩み続けたり(乳母から性の手ほどきを受けたとか・・・)、人妻の尻を追いかけ回したりというようすが平気で描かれているところも、日本の皇室と政府・国民の関係とは大きく違うものを感じさせます。 そういったことも考えさせながら、人間味と愛情の中に爽やかな後味を残してくれるあたりが、地味なテーマと展開のこの作品のよさかと思います。
2011年03月20日
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低視聴率にあえぐ朝の情報番組立て直しを迫られたワーカホリックチーフプロデューサーの奮闘と恋を描いたキャリアウーマンラブストーリー「恋とニュースのつくり方」を見てきました。 封切り2週目土曜日、シネリーブル池袋の午前11時からの上映は2割程度の入り。観客の多数派は若い女性とカップルでした。 ローカルTV局でリストラされ失業中のテレビディレクターベッキー・フラー(レイチェル・マクアダムス)は、必死の就活の末ニューヨークのテレビ局での朝の情報番組のチーフプロデューサーの職を得た。しかし、その番組「デイブレイク」は低視聴率にあえぎ、11年間でチーフプロデューサーが14人目、メインキャスターはエアコンの効いた部屋からは一歩も出ず打ち合わせにも出ずポルノサイトを見ている始末だった。番組の改革を目指すベッキーは、メインキャスターの首を切り、局と対立して報道番組を降りていた伝説の報道キャスターマイク・ポメロイ(ハリソン・フォード)を契約書を楯にむりやりメインキャスターに起用した。ベッキーの手腕に驚いた元マイク担当のプロデューサーアダム(パトリック・ウィルソン)からもデートに誘われ、恋人になって順風満帆に見えたベッキーだったが、プライドの高いマイクは報道以外の担当を拒否し、元ミス・アリゾナのキャスターコリーン(ダイアン・キートン)とも対立し、番組中にも罵り合い、視聴率はさらに低下、ベッキーは上司から6週間以内に視聴率が上がらなければ打ちきりと通告されてしまう。視聴率回復のために次々とおもしろネタを打ち出し、実はミーハーなコリーンは大乗り気で視聴率は回復の兆しを見せるが、低俗化への批判も出てマイクはますます激高し・・・というお話。 仕事にも恋にも積極的だが、職場では同僚からワーカホリックとあきれられ、デート中にも携帯を離せず恋人にもあきれられるベッキー。そのひたむきさと強い意志、決断力は、とても魅力的で、レイチェル・マクアダムスの多彩な表情もあって、私にはとてもチャーミングに思えるのですが・・・確かに、デート中に何度も携帯で中断され続けると恋人としてはつらいよね。ベッキーの携帯を冷蔵庫に放り込むアダムの気持ちはわかる。 伝説の報道キャスター相手に、あんたの態度がすべてをぶちこわしにしているとぶち切れて罵り、その際に私もようやく恋人ができてセックスもできるようになったのにとスタッフの面前で言い放つあたり(後ろで聞いてるアダムの方が顔を背けて逃げ腰)も、すごい(私の感覚では、ある種の憧れを感じるとともに、やっぱり少し怖い)。 ストーリーの軸は、名声はありプライドの高いマイクを、ベッキーが視聴率とスタッフのチームワークのために口説き落とし頑なな態度を溶かしていく過程にあります。これが、マイクとベッキーのラブストーリーなら、まっすぐなキャリアウーマンラブストーリーですが、年齢的にあまりに無理ということもあって、ベッキーの恋のお相手は別に置かれます。で、恋のお相手のアダムは、脇役っぽくコミカルな役回り。そのため、ベッキーの仕事と恋の2方向でのお話になり、キャリアウーマンの生き方とその悩みっていうパターンが前に出ています。 基本的には、若い女性が(若くなくてもいいけど)、ベッキーの生き様を見て、力づけられたり溜飲を下げたりする映画かなと思います。
2011年03月06日
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引退を余儀なくされたソフトボール選手がこれからの人生に迷いつつプレイボーイのメジャーリーガーと詐欺の疑いで起訴されそうになっている青年実業家の間で思い悩む恋愛映画「幸せの始まりは」を見てきました。 封切り3週目日曜日、新宿ピカデリーの午前9時40分の上映は2割程度の入り。 かつてはソフトボールのナショナルチームを率いて金メダルをもたらしたスター選手だったが31歳になりメンバーから外されて、今更ふつうの人生に魅力を感じられず行く末に悩むサラ(リース・ウィザースプーン)は、手当たり次第に女と寝ているプレイボーイのメジャーリーガーマーティ(オーウェン・ウィルソン)と成り行きで関係を続けていた。サラの友人からサラの携帯番号を知らされて慰めるようにいわれていた青年実業家のジョージ(ポール・ラッド)は、はじめはその気がなかったが、父親の犯した不正で自分が疑われて失職した上に刑事訴追の危機にさらされ、恋人にも捨てられてどん底に落ちて、サラを食事に誘う。サラは、一緒に住みプロポーズしながらも他の女と行きずりのセックスを続け、自分本位にことを進めるマーティと諍いを繰り返し、ジョージの優しさに惹かれていき・・・というお話。 金持ちのセレブのイケメン男と失職して刑事訴追の危機にある落ちぶれた青年実業家の間で、サラが後者を選ぶ展開は、さえない中年おじさんとしては溜飲が下がりますが、でも考えてみればどちらも金持ちの中での話なんですね。桁が違うけれども。 サラの選択は、マーティのあまりの不節操ぶりとわがままさに対して、ジョージのサラの話を聞く姿勢やサラを尊重して待つ姿勢というところ。それ自体はわかりますが、サラとジョージが話した時間って、携帯でのわずかな時間の間抜けな会話、イタメシ屋での「沈黙のデート」、マーティのマンション(ジョージの会社も入っている)での荷物持ち、ジョージの部屋でのたぶん数時間くらいの会話(これもマーティからの電話で中断してサラはマーティのマンションに帰宅)、ジョージの部屋を訪ねたがすぐジョージの秘書が出産して産院に駆けつけた後でのバス停での数分くらい、マーティの開いたパーティでの数分くらい。たぶん、これで全部。これで圧倒的なお金持ちのセレブとすでに肉体関係も持ち将来を考えている女性の気持ちを奪えるって、そこはちょっと無理じゃない?って思います。 ジョージの秘書が、冷酷な会社のやり口に悲憤慷慨してジョージの家を訪ねつつ、守秘義務で縛られ、ジョージの方も守秘義務のあることは一切いうなと厳命するあたりや、会社側のジョージに対する姿勢、弁護士の態度(ホワイトカラー犯罪とはいえ、弁護士費用30万ドルって・・・)とか、アメリカだなぁって思います。もっとも、日本の企業の労使関係も、だんだんアメリカナイズされてきていて、使用者側の冷酷さが目に付くようになっている気がしますけど。
2011年02月27日
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韓流難病もの恋愛映画「私の愛、私のそばに」を見てきました。 封切り4週目土曜日、全国3館、東京では唯一の上映館となった新宿武蔵野館午前10時40分の上映は6割程度の入り。観客は若い女性が多数派でした。 離婚して父親が経営する葬儀社で働くジス(ハ・ジウォン)は、依頼者である母を亡くした車椅子の青年ジョンウ(キム・ミョンミン)から幼なじみだったことを知らされて気づき、ジョンウから難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)に罹患していることを告げられ、ジョンウの中国での治療からの帰国後、交際を始め、2人だけの結婚式を挙げる。しかし、ジョンウの病状は次第に悪化し、思いあまってジスが連れて行った怪しげな鍼師の施術でジョンウの病状がさらに悪化して、ジョンウは入院生活に逆戻りすることになった。責任を感じたジスは病院に通い献身的な看護・介護を続けるが、ジョンウは病状の悪化につれて冷たい態度を取るようになり・・・というお話。 難病悲恋ものの典型的なパターンで、最近ではこのパターンでは一度は患者側が相手の将来を思って別れを決意させるためにことさらに冷たい態度を取るというのが恒例となっていますが、その点も含めて、いかにもの展開です。そういうあざとさというか、お涙ちょうだいの狙いが見え見えでもありますが、それでもなお、きっちり泣かされてしまうのが、私の単純さなのか(でも他の観客もたいてい泣いてたと思います)商売人の技なんでしょうね。 恋愛ものの割に、ジョンウの入院先の患者と家族の描写が比較的多く、筋萎縮性側索硬化症の患者の悲劇と看護・介護する家族の圧倒的な悲しみ・苦しみと少しの喜びが感じられます。 ジョンウが冷たい態度を取る前、医師の説明で病気の進行で感情がマヒして以前と違う態度・人格となることがあるというような説明が入り、そのような展開かなと思わされます。看護・介護する家族の側からすれば、愛情があればこそ続けていけると思えるところに、人格が変わってしまい傲慢な態度や冷たい態度が続くとなるとやりきれない思いが勝ちそうです。この映画の展開はさておき、そういう展開をたどる病気も現にあることを思えば、大変だなぁと考えさせられました。 ジョンウが法律を学ぶ青年(弁護士志望なんでしょうね)というあたり、個人的にはちょっと身につまされます。ジョンウが恋に落ちる相手がバツイチ(後で実はバツ2と告白しますが)という設定も今風でほほえましいですが、実はジスがバツイチで葬儀社で働いているという設定は、後のストーリーで巧みに効いてきます。 たいていの難病悲恋ものは、恋人になった後で発病しますが、この映画では、ジスは再会の時にジョンウから筋萎縮性側索硬化症に罹患していることを告げられていて、その上で交際を始めています。そのあたり、患者(患者団体)の心情に配慮されていると思いますし、そういう恋愛があっていいと思いますが、同時に本当にそういうことがあるだろうかという思いも持ちます。 自分がジョンウの立場だったら、病気を知って妻となってくれたジス、献身的に看護・介護を続けるジス、そしてピルを飲んでいると騙してまで(この騙してまでの点はちょっと引っかかるけど)自分の子どもを作ろうとするジスに、そんなに愛してくれることに感激してありがとうって涙ぐみ続けると思うんです。昨今の難病もので相手の将来を思って嫌われようという態度を取るのがスタンダードになってきているのは、どうもなじめません。ましてや最初はそれが珍しかったから衝撃的だったわけですが、今ではどうせそのパターンだよなと最初から見えてしまうわけですから、何か時間の無駄だよなとさえ思えてしまいます。まぁ、それで涙ぐむジスを見て、観客としてはますます泣かされるわけですが。
2011年02月26日
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東野圭吾のミステリーを映画化した「白夜行」を見てきました。 封切り初日、渋谷HUMAXシネマの初回午前10時20分の上映は4割くらいの入り。土曜の朝とはいえ、渋谷で封切り初日でこれって、テレビドラマ化されているものの映画化作品としては、寂しい。 密室となった廃ビルの中で質屋の主人桐原洋介(吉瀬良太)が凶器で背中から一突きにされ殺害された。洋介の妻(戸田恵子)は店員松浦(田中哲治)と不倫を続け夫婦関係は冷え切り、洋介は質屋の常連客の西本文代の下に足繁く通っていた。捜査が続く中、西本文代の恋人として浮上した寺崎が事故死し、そのポケットには洋介のライターがあり、次いで西本文代が自殺し、警察は被疑者死亡で捜査を打ち切るが笹垣刑事(船越英一郎)は納得できず、ひとり調査を続ける。事件当時10歳だった洋介の息子亮司(少年時代今井悠貴、高校生以降高良健吾)は母の元を出て行方不明となり、西本文代の娘雪穂(少女時代福本史織、高校生以降堀北真希)は遠縁の親戚の養女となり唐沢雪穂として新たな人生を歩んでいた。しかし、雪穂の周囲では、雪穂と対立する女性がレイプされ、雪穂につきまとう男が死体で発見される事件が続いていた・・・というお話。 被害者の息子と被疑者の娘の不可解な絆というテーマですが、もちろんミステリーですから単純にそういう話ではなくより複雑な要素を孕んで、子ども時代に負わされたあまりに深い傷と負い目が呪縛する2人の運命というような展開です。 雪穂の子役の新人の、あどけなさと大人びた視線の交差する危うい美しさが、後々わかる真相の残酷さを際立たせています。堀北真希のお嬢さん然としつつ時折見せる冷たい表情の演技が光っているのも、子役時代の印象が残ることが土台となっているように思えました。 しかし・・・雪穂の境遇には涙しますが、唐沢家の養女となって特に不自由なく生活する中で雪穂の心は戻らなかったのか、心が失われて(他人の)不幸に対して感覚がマヒしたとしても、他人の不幸に無関心になるというレベルを超えて他人を攻撃することへのためらいが失われるところにまではいくつものステップがあるはずですが、なぜ雪穂がここまでに至ったのか、今ひとつストンとは落ちませんでした。 同時に、いかに過去が重くても、亮司がいつまでも従い続けるのかも、今ひとつ納得できませんでした。 映画化でいろいろと説明を端折っている部分のためでしょうけど、雪穂の冷酷さなり攻撃性の継続や亮司の行動の他にも、あれだけ自信満々で嫌みな男だった部長がなぜ雪穂と結婚するや毒気を抜かれて引きこもってしまったのかとか、薬剤師の死の場面とか、雪穂が身籠もったはずの子どもはとか、見ていて不可解さの残るシーンが見られます。 昭和の頃の映像の古いイメージはよく表現されていたように思えます。当時実際に流行った「聖子ちゃんカット」が、今見せられるとずいぶん異様に感じるのは、ちょっとショックでした。
2011年01月29日
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癌で余命1年と宣告された妻のために毎日1話の小説を書き続けたSF作家眉村卓の実話を映画化した「僕と妻の1778の物語」を見てきました。 封切り2週目土曜日、パルコ調布キネマの午前10時10分の上映は1割程度の入り。封切り最初の週末、相棒2(時計文字の2が機種依存文字で楽天ブログにはねられました)を蹴落とし、ソーシャルネットワークも抑えて堂々の興行成績1位を獲得した本作も土曜日朝はこの程度というところでしょう。 ロボットオタクというかキッチュなロボット玩具オタクのSE作家牧村朔太郎(草なぎ剛:漢字で書くと機種依存文字で楽天ブログにはねられました。そのため以下「つよぽん」)は、高校時代からのつきあいの銀行員の節子(竹内結子)と幸せな結婚生活を送っていた。ある日、腹痛があり、これはおめでたかと病院に行った節子は、虫垂炎の疑いで緊急手術を受け、その結果大腸癌が方々に転移していることがわかり、朔太郎は担当医から節子の余命は1年、5年生存率はゼロと宣告される。節子には必ず治ると知らせた朔太郎は、家事を手伝うこともできないと痛感し、医師に笑いは免疫力を高めることもあると言われたことから節子のために1日1話笑える小説を書くと決意する。朔太郎の小説を毎日読み続け、抗がん剤治療を受け続けて、節子は1年どころか4年を超えて生き続け、行けなかった新婚旅行の代わりに北海道に出かけるが・・・というお話。 基本的に泣かせる話なんですが、そして竹内結子の表情での表現や台詞で、きちんと泣かせてはくれるのですが、浮世離れしたSF作家の設定のためではありましょうが、つよぽんメインの場面が現実感・シリアス感を外してくれて、まっすぐに入り込みにくい。その外し方がいいんだという評価もあるのかも知れませんが、私は、主として竹内結子の表情で見せている映画かなと思いました。 笑える小説を書いているはずなんですが、出てくる話は、どちらかというと、笑えるというよりはどこか切ないエピソードが多い。特に第50話(朔太郎が旧型ロボットを守ろうとするが、新型ロボットに攻撃されてほとんど壊滅する話)なんて笑いようがないし、1人残った旧型ロボットとサヨナラする場面なんて、癌で闘病中の妻のためという設定で書くか? 毎日1話ずつ書き続けてたら、1002話目の時は、作家なら当然、僕はついにシェヘラザードを超えたって感慨を持つはずですが、そういうお話は出てきません。癌と闘う妻にそういうおちゃらけた話は・・・ということなら、つよぽんメインの場面のおちゃらけは何だって思いますけど。 癌で闘病中の妻のために毎日1話ずつ小説を書き続けるって、美談だとは思うんですが、小説を書くために別室にこもったりアイディアを拾うために外出したりで、長時間その妻を一人で放置するのってどうなんでしょう。特に終盤で、僕が寝ている間に妻に何かあったらと思うと眠れないという朔太郎。そういいながら病室の妻から離れて食堂で小説を書いたり廊下で考えてるのはなぜ? 3年以上も抗がん剤治療を受けていて髪が全然抜けない節子とか、臨終シーンでなぜか竹内結子の腹部に心臓マッサージをしている主治医(胸を触るなって言われたんでしょうかね)とか、いろいろ不思議な場面はありますが、全体としてリアル感が少ない映画だからまぁ仕方ないですかね。 でも、原稿用紙に手書きで毎日小説を書き続けるというコンセプトの映画で、日々書かれる作品の筆跡と、最終回に朔太郎が書く文字の筆跡が全然違うの、白けるなぁ。最終回も書いている手だけで顔は写ってなかったけど、最終回だけはつよぽんが自筆で書こうとしたということでしょうか。それなら登場する原稿は全部書くくらいの手間をかけて欲しい。
2011年01月22日
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事故で弟を死なせて悲嘆に暮れる青年の再起を描いた青春映画「君がくれた未来」を見てきました。 封切り3週目土曜日、新宿武蔵野館の午前11時45分からの上映は4割くらいの入り。観客層は中高年がやや多数派ですが、若い女性2人連れやカップルもちらほら。 シングルマザーに育てられた高校生チャーリー・セント・クラウド(ザック・エフロン)は、ヨットでは無敵の成績を収め、スタンフォード大学の奨学金も得て、大学進学を待つばかりだった。慕い合う11歳の弟のサム(チャーリー・ターハン)が離ればなれになることを寂しがるのを見て、チャーリーはサムと大学進学まで毎日必ず夕方の大砲を合図に野球の練習をしようと約束する。卒業パーティーの日、寂しがるサムを乗せて車でパーティーに向かう途中、2人は交通事故に遭い、チャーリーは心臓が停止したが救急救命士フロリオ(レイ・リオッタ)に奇跡的に助けられて蘇生する。しかし、サムは帰らぬ人となった。サムの葬儀の日、グローブを棺に入れることを拒んで森に駆け込んだチャーリーの前に、サムが現れ、毎日夕方に森で野球の練習を続けることを約束する。チャーリーはサムとの約束を果たすために進学せずにサムが埋葬された墓地の管理人となって毎日夕方森でサムとの交流を続けていた。5年が経ったある日、ハイスクールの同級生だったテス(アマンダ・クルー)が、世界一周レースに出場するために戻ってきた。チャーリーはテスに心を惹かれ、ヨットの改良についてアドバイスする。嵐の夜、ヨットのテストのために航海に出たテスが行方不明となり・・・というお話。 仲のよかった年の離れた弟を、自分が車を運転していて死なせてしまったチャーリーの喪失感、自責の念と、そこからの再起がテーマで、またそこが見どころのシンプルな作品です。このシンプルなストーリーで泣いたり感動できればOK、複雑な展開が好きな人には物足りないということになるでしょう。 チャーリーの視点で描かれるチャーリーが主人公の映画ですが、サムの生きているときの愛くるしさと寂寥感、ゴーストになった後にチャーリーがテスに惹かれていくときに見せる哀感の表現がすごくいい。ゴーストの登場する非現実性を、その演技でカヴァーしている感じです。 サムがゴーストなのかチャーリーの想像なのかについて、公式サイトでは監督の言葉として「サムは魂なのか、それとも、チャーリーの想像の一部なのか? 私は、両方の可能性を考えた。恐ろしい事故でチャーリーは精神状態がおかしくなってしまったのか、サムが本当に見えるのかはわからない。映画を観た人たちがそれぞれに異なる見方をするだろう。」としています。しかし、この映画ではサム以外にもチャーリーの友人だった死んだ軍人や、さらには死んでいない人が(生き霊または幽体離脱した魂として)チャーリーの前に現れているわけで、チャーリーの喪失感や自責の念からの想像・幻覚という解釈は無理だと思います。 どうでもいいんですが、テスが乗るヨットのセイルに書かれているロゴが「CS」なのはなぜでしょう。Tess Carrollだと「TC」のはずで、CSだとチャーリー(Charlie)とサム(Sam:Samuel)かと錯覚してしまいます。
2011年01月08日
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ソマリアの遊牧民の娘からスーパーモデルに上り詰め、FGM(女性器切除)反対運動家として活躍するワリス・ディリーの自伝映画「デザート・フラワー」を見てきました。 封切り5日目役所と多くの会社が年末休暇の平日、全国で3館、東京では唯一の上映館の新宿武蔵野館の午後1時からの上映は、満席。観客層は中高年がやや多数派、次いで若い女性2人連れが目立ちました。 ソマリアの遊牧民として生まれたワリス(リヤ・ケベデ)は、3歳の時にFGMを受け、13歳の時に祖父と同年配の老人の第4夫人にされることになって逃走し砂漠を歩き通してモガディシュの祖母の元にたどり着き、駐英ソマリア大使の伯父のメイドとしてロンドンに渡るが、ソマリア内戦で帰国を命じられた大使に同行せずにロンドンに残り、不法滞在となりホームレス同様の生活を送っていた。ある日、ワリスは、ダンサー志望の店員マリリン(サリー・ホーキンス)と知り合い、マリリンの部屋に転がり込み、清掃の仕事を紹介してもらう。最初はワリスのことを疎ましく思っていたマリリンだが、ワリスの純真な人柄やFGMの過去などを知り、次第にワリスへの友情を深めていく。ファーストフード店で清掃作業中に高名なファッション写真家ドナルドソン(ティモシー・スポール)にモデルにならないかと声をかけられたワリスは、それを機にモデルとして成功し、不法滞在が発覚して身柄拘束されるがマリリンの知人との偽装結婚で労働ビザを獲得して問題をクリアし、世界的なスーパーモデルに上り詰める。その後、自らのFGMの経験を公にし、FGM反対運動の旗手となる・・・というお話。 ソマリアの遊牧民の娘で、ロンドンでホームレス生活を送っていた女性がスーパーモデルになるというシンデレラストーリーとして始まり、FGM反対運動の明確なメッセージを帯びた映画として終わっています。 シンデレラストーリー部分は、ソマリアの遊牧民の娘としてについては、それは事実なんですが、遊牧民としてはそこそこ恵まれた家族のように思えますし、それも単に母親が遊牧民の男と駆け落ちしたからで、元々は伯父が外交官(ソマリアの旧宗主国に駐在する駐英大使って外交官でもかなりエリートでしょ)という一族ということで、ちょっとニュアンスが違います。ロンドンで不法滞在でホームレス生活からという点で十分にシンデレラストーリーとして成立しますから、それでいいんですけどね。 硬くなりそうな映画を和らげているのは、ワリスの純真でひたむきな姿勢、おどおどした態度と笑顔の落差、そしてワリスのことを我がことのように喜ぶマリリンとのコンビネーションです。 前半のシンデレラストーリーの中で、親からすり込まれた風習の桎梏を解いていくことが後半への布石となっていきます。ドナルドソンにモデルにならないかと誘われても、写真を撮られるとよくないことが起こる(日本の迷信で言えば「魂を抜かれる」のたぐいでしょう)と信じていたために無視し続けたワリスがそれを踏み越えてドナルドソンのスタジオに現れる。FGMにより外性器をすべて切除されて縫合されたワリスが稚拙な施術のために痛みが取れずに倒れ込んでマリリンに連れて行かれた医者の下で医者が呼んだソマリア人にソマリアの言葉で民族の伝統に反してまで手術を受けたいのかと罵られて耐えかねて飛び出したが、思い直して縫合を解く手術を受けに戻る。こういうシーンの積み重ねで、ワリスが民族の風習の束縛から一歩ずつ自由になっていく姿が描き出されています。 終盤はメッセージが非常にストレートに出ていますから、政治性を嫌う人には受けが悪いかも知れません。しかし、前半からの積み重ねを読み込めていれば唐突感は和らぐと思いますし、問題の深刻さを受け止められれば、それほどの違和感はないかなという感じがします。 私が一つだけ気になったのは、3歳の時のワリスのFGMのシーン。何歳の子どもが演じているのかわかりませんが、下着も着せない幼児の両足を大人が押さえ込んであれだけ泣き叫ばせるのは、本人の意識的な演技とは思えませんでした。もちろん、傷つけたり性的なことをしているはずはないですが、かなり恐ろしい思いをさせたのではないかと思います。その子のトラウマになっていなければいいのですが。 日本では一般にはあまり知られておらず紹介されることもなかったFGMについて、議論を広げるためにも、たくさんの人に見て欲しいなという思いを持つ映画です。2011年から上映館が拡大していくようですので、ゆっくりと広がりを見せてくれるといいと思います。
2010年12月29日
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加賀藩御算用者猪野山家の家業とお家建て直しを描いた映画「武士の家計簿」を見てきました。 全国公開から4週目(地元石川県内で先行公開)日曜日、シネリーブル池袋での午前11時10分からの上映は6割くらいの入り。観客層は中高年者が多数派でした。 猪野山家は代々加賀藩の御算用者(経理係)を務めてきた。7代当主信之(中村雅俊)は、殿の嫁取りの儀式の時に建てる赤門の朱塗りを節約のために表側だけにしたことが自慢の種だった。その信之の下で幼少期から算盤の勉学に励んできた直之(堺雅人)は、頭角を現すが、周囲からは算盤バカと呼ばれていた。帳簿の確認の過程で不審な点を発見した直之は、御救済米が蔵出し通りに民の元に届いていないという訴えを契機に奉行の蔵米を調査して御救済米の横流しの不正を発見するが、上司の怒りを買い能登への左遷を言い渡される。しかし、その直前、横流しの事実が発覚して関係者は処分され、直之は藩主の秘書役に抜擢される。しかし、猪野山家の財政はいつの間にか破綻に貧しており、直之の息子直吉の4歳の着袴の祝いの直前になって直之の知るところとなった。直之は、自力での借金返済を決意し、徹底した倹約と家財の売却を実行することにし、嫌がる父母にも実行を迫った。こうして借金を返済しながら、直之は直吉に幼いうちから御算用者としてのスパルタ教育を施していくが・・・というお話。 浪費生活を見直して生活をスリム化して借金を返済していこうという志はすがすがしくも見え、特に破産できない立場を前提にすると再生は現実的にはそうするしかないということになるでしょうし、借金を返し終わって明るさが見えるという終盤から、希望の見える映画と見ることができるでしょう。 その時々の猪野山家の財政事情を、度々登場する食事のシーンで描いているところも巧みといえるでしょう。 家業を代々継ぎ、御算用者としての分をわきまえという猪野山家、特に直之の姿勢も、また食事の際の席の配置に見える家長と他の家族の序列の厳格さなども、時代劇である以上、まぁそういうものだと思っておきましょう。 しかし、直之の姿勢は、あまりにも官僚的で、ひょっとしたら森田監督が官僚制のパロディでやってるのかと一瞬思ってしまうほどです。幼い直吉に猪野山家の経理を担当させた上で、4文銭を落としたために帳尻が合わなくなったのを自分の責任で何とかしろと言い放ち、翌月帳尻が合っている理由が河原で4文銭を拾ったためと聞くとそれは乞食のすることだと直ちに元のところに戻してこいと夜道を一人行かせ、父信之が死んで通夜が執り行われ家族が涙しているときにも一人別室で葬式の勘定をしているというのは、かなり異様。これをいかにも暴君ふうに怒鳴るのではなく、堺雅人が平然と当然のように振る舞うところが、いかにも冷酷な官僚魂という感じで、寒気がします。 基本的には、スパルタで叩き込まれたことが後に身を助け、よかったというストーリーなのですが、ここまでやられると、素直にそれでよかったとは、思いにくいですね。
2010年12月26日
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