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Mar 19, 2007
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カテゴリ: 小説 上杉景勝
「待たれえ、わしは徳川家の統領じゃ。助けを求めて参った者を殺されると承知

でお渡しできぬ、秀頼公の補佐役のわしが豊臣家の重臣を、承知で引渡したと

したら、豊臣家にたいし反逆」  家康が分厚い瞼から一同をねめ廻した。

  福島正則が蒼白となっている。

「春に喪を発せられ、まだ二ヶ月あまりじゃ。豊臣家の家臣が争いごとを起こす

なぞ、もっての沙汰。この様子をみて反逆者が現れたらいかが思しめす」

  家康は内大臣としての地位と、豊臣家の五大老筆頭としての執政官の務め

を、迫真の演技で演じてみせた。

「事を分けて話しても治部少輔殿を、手にかけると申されるなら、わしが相手を



  七将は凄まじい家康の威圧感と一喝で、悄然と徳川屋敷を辞していった。

  これは、考えに考えたすえの家康の行動であった。陰で本多正信が含み笑い

を堪えていた、上様の、あの灰汁の強さよと感心していた。

  この一件から世間は、家康が豊臣家の第一人者と改めて思い知る筈であ

る。  翌朝、家康は三成に会って一時的な隠退を勧めた。

「それがしに五奉行の職を退けと申されるか」

「左様、全ての争いごとが貴殿の存在より起こっておる、これは秀頼公のおん為

によろしからず」 言葉柔らかに諭した。

  家康が隠退を勧めることは、三成も当然に承知していた。現に佐和山城に

引き上げようかと、自らも考えていたところであった。

  わしが去ったら狸爺め、如何なる本性をみせる。それが楽しみに思われた。



  家康は七将の挙動に不審を強め、次男の結城秀康の軍勢に守らせ、瀬田ま

で三成を送らせた。この時、常陸五十四万五千石の佐竹義宣(よしのぶ)は、

三成の警護とし、隠密に二千名の家臣を護衛につけていたと云われる。

  彼は太閤検地のさいに三成の世話になり、肝胆相照らす仲となっていたの

だ。こうして石田三成は豊臣政権の奉行の地位を失い、ご政道にたいしての



  前田利家の死と三成の隠退により、政局はますます家康優位に展開した。

  大老は筆頭の徳川家康を除き、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝となり、

そこに利家の死去により、嫡男の前田利長が勤めることになった。

  家康は十三日に本格的に伏見城に移り、ここで政務をみるようになった。

  三成を欠いた五奉行や中老らは、誰も異を唱える者がいなかったのだ。

この意味は大きい、大阪城についで天下第二の城塞を家康が手にしたのだ。

         (直江状)

  八月を迎え景勝は、家康をはじめとする大老に帰国を申しでた。会津移封

となってから、藩主として領内統治のお務めがおろそかとなっていた。これが帰

国の理由であった。

「中納言殿には気の毒にござった、転封と同時に太閤殿下がお亡くなりになられ

伏見で政務をとっておられたが、一応の治まりはつきました。帰国なされ領民の

安堵をなされえ」

  大老筆頭の内府が承認したので、残りの大老も景勝の帰国を許した。

  景勝一行は、八月中旬に会津に到着した。同時期に五大老の独り前田利長

も大阪を発し、利家の遺骸をともない金沢に帰国した。

  景勝は大老筆頭の内府に、会津到着の日時を書状で知らせている。これに

対し家康からは、九月十四の日付で『御心、安かるべく候』と返書が届いた。

  だが家康に好機が訪れた訳である、二人の大老の帰国と三成の隠退で、

本格的に牙を剥きだすことになる。

  彼は篤実な豊臣政権の執政官として、秀頼の補佐を務めていた。これは

次ぎの、一手を打つための布石であった。

  景勝は道路建設と城の改修を急ぎ、神指原城の築城進捗に意を注いでい

た。さらに武器弾薬、兵糧の備蓄を進め、浪人の新規召抱えを行った。

  これは故太閤殿下の了解の上での施策の実行で、誰にもはばかることでは

なかった。百二十万石の大藩の体面を整える、領内統治の一環であった。

  季節は十月を迎え、会津の地に初雪が降った。

小説上杉景勝(66)





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Last updated  Mar 19, 2007 09:33:37 AM
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