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にほんブログ村 「安倍総理が安保法制を急ぐ理由」(3) ID:r8jas9 今日は長崎に原爆投下され70年を経た暑い日です。 日本は広島、長崎と核爆弾を投下され、無辜の市民が犠牲となりました。70年を経ても、日本の左翼は核のトラウマに苛まれています。 日本人として決して忘れてはいけない戦争の教訓ですが、そろそろ乗り越える時と思います。 世界は急速に変化し、戦争の脅威は世界中に拡散しています。 軍拡競争は烈しく、戦争を求める国やテロ組織が戦火を求めています。 戦後70年を平和に過ごした許が憲法にあると思う、平和ボケの左翼はそこに在る危機から目を逸らし、見ようともしません。 野党の国会議員もそうです。彼等の幼稚さは目を覆いたくなります。 平和を守る議論をせず、枝葉末節な議論に口角泡を飛ばしています。 まず領土と国民を守る、これが国会議員の努めです。 併し、そうした知識を持たない議員を選んだのは我々です。 中国の侵略の実態を学び、それを抑止するかを議論せずに安保法制を「戦争法制」などと呼び、憲法学者の意見を拝聴し反対するなどは、 亡国の道を辿ることです。 こうした議員は次の選挙で選んではいけません。落選させましょう。 危機を回避する道は戦争を仕掛けようとする、覇権国の野望を抑止する軍事力が必要となります。 こうした事が分かる議員に投票しましょう。 兵器の進歩、核兵器の拡散、生物兵器の開発。これは現実の問題です。 そのために安倍総理は安保法制の成立を急いでおります。 最近の調査では安保法制を容認する国民が増えています。 それに反対するサンデーモーニングは、したり顔の司会者と有識者 モドキで反核の議論を行っておりました。 一部の国会議員が核兵器を日本も保持し、抑止力の強化を図ろうとする問題を憂いべき問題だと分かりもせずに、心配そうに語りあっています。 こうした反日テレビ、反日新聞は観ないようにしましょう。 このテレビの親会社は反日で有名な毎日新聞です。 こうした状況を私は、秩序なき自由、常識なき世論と鼻で笑ってます。 私には安倍総理の心境が理解できます。日米同盟の強化は米国からの脱却の一歩と考えています。 もうそろそろ日本は米国の従属関係を解消し、真に自立した国家に成らねばなりません。これが戦後レジームからの脱却です。 米国のポチを辞め、自主独立国家に成らねばなりません。 最近は米国も変化しています。日本の武器輸出を容認し、第五世代のステレス戦闘機の開発に、反対意見を挟むことをしません。 どこの国も自国の国益が最優先です。米国も漸く気づいたのでしょう。 自国の経済業況の悪さを、それ故にTPPの決着も先送りになりました。 間違いなく米国も疲弊してきています。 日本は同盟関係を強化し、米国の信頼を得つつ従属関係から真の友好国とならねばなりません。 これが中国の脅威に対する抑止力なのです。 序に韓国とは国交断絶をしましょう。嘘、捏造、すり寄りの国家など、隣国としての付き合いは止めることです。
Aug 9, 2015
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にほんブログ村「安倍総理が安保法制を急ぐ理由」(2) 長い間、続きを書く意欲が湧いてきませんでした。 そろそろ書かないと、兎に角、平和ボケ左翼の煩わしい事。 まさに狂っています。集団的自衛権のなんたるかを知らず、今でも戦争法制と叫び、国会の回りを取り巻き気勢を挙げている亡国の輩。 民主党、共産党を主力とし、共産党の息のかかったシールズと名乗る若者。「僕達は戦争には行かない」「おう、結構だね。願ってもお断りだよ」 今の軍事組織は馬鹿では務まらないのだよ、昔とは違うよ。 そしてこうしたブログで相も変わらず、安倍総理の悪口を書いている、左翼モドキ。「戦争を抑止する」これが国土と国民を守る政府の努めと自覚する人物を、かくも、次々とこき下ろす根気だけは敬服するね。 よほど性根が腐っているのだろうね。「中国、北朝鮮、韓国(仮想敵国)の最近の膨張を脅威と感じないのかね」 こう問いたいね。感じないとしたら手の施しようもない不感症だね。 こうした輩は反日新聞の朝日、毎日、沖縄タイムス、琉球新報なぞを毎日、読んでその記事の内容を信じ切っているんだね。「あんた達に問いたい。国を守るにはどうしたら良いかね」 多分、友好関係を結び隣国と仲良くする。こんな答えだろうね。 友好関係を強固にし、善隣関係を大切にする。これは正解だよ。 併し、こうした事を理解しようせず、覇権を狙っている大国が日本の、隣にあることを忘れてもらっては困るね。 その一番の強国は隣の中国だよ。年々、国防予算を倍増させ巨大な軍隊を持った国。南沙諸島では日本のシーレンを脅かすように珊瑚礁を埋立、そこに滑走路を造り、沿岸諸国の東南アジアの国防に脅威を与え、平然と中国の領海と主張している。 今に防空識別圏も設定するだろうね。 大陸国家から海洋国家へと変貌する国だよ。 流石に腰の引けた米国のオバマ大統領も、これには反論し爆撃機を飛ばし、牽制にやっきとなってきたね。 更に前回に書いたが、東シナ海の中国の排他的な海域にプラットホームを12基も、日本に何の相談もなく建設してしまった。 あれは資源が欲しいのではなく、軍事施設として使用したいのだ。 こうした中国の覇権主義に我慢できず、米国は日米ガイドラインを四月に見直し、北朝鮮の脅威から中国の脅威と訂正する内容にしたね。 米国も中国を最大の脅威と認識したのだ。 この中国から日本を守る為に、安倍総理は安保法制を作り衆議院で議論した。 その法案が衆議院を通過する時の、民主党、共産党の大騒ぎは見ておれないよ。「戦争する国になる」「徴兵制度復活」「民主主義を無視して強行採決」などのプラカードを手にカメラに向かって群がっている。 あれが野党の国会議員の態度かね。強行採決は違法な反対意見だね。 我が国は立憲民主主義の国だよ、数で法案を通すことに何の問題がある。 反日メデアの反撃も凄いね。「違憲」憲法学者の大半が安保法制は違憲と言っている。冗談はやめてくれよ、象牙の塔で書物を読み国の脅威も知らない学者に、国の安全を任せられるかね。 そんなことで国が成り立つなら、議員なんて要らないよ。「さて質問だよ。国の安全を保つには二つの方法があるが知ってるかえ」 集団自衛権の意味も知らない輩が応えられる訳がねえよ。「個別的自衛権で守る。そう一国のみで他国の侵略を排除し国を保つ」 これは凄いほどのお金が必要だよ。中国の軍事費に対抗するには、到底、日本のみでは無理な相談だね。 その対案が数か国と同盟を結び、中国の侵略を同盟国で協力して守る。 これが集団的自衛権なんだぜ。そのために安倍総理は真っ先に米国と強固な同盟関係の構築を考えた。 日本には米国と自衛隊の基地が全国で130基地も有ることを知ってるかえ。 沖縄だけじゃないよ。これだけでも中国から見れば十分な抑止力となるが、安倍総理は更に深化した同盟関係の構築を考えたよ。 同時に東南アジアを歴訪し、豪州までも出向き同盟関係の構築を模索した。 インドへも足を延ばした。すべが中国包囲網の構築のためだよ。 こうした安倍総理の苦労も知らず、中国、韓国の妄言を真に受け、さらに反日メデアに騙され、安倍総理の悪口を言い募るとは呆れ果てた馬鹿者だね。 今日は広島に原爆が投下された日だ、こんな日だけは静かにしなよ。 本来なら各国の来賓を迎える為に、日の丸の国旗を半旗に掲げたいね。 米国のキャロライ大使は、どんな感慨を持つだろうね。
Aug 6, 2015
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にほんブログ村「安倍総理が安保法制を急ぐ理由」(1) 世界の警察官を自称していた米国はオバマ大統領が就任し、経済の悪化、軍事費の増加を恐れ、世界の警察官を辞めると宣言しました。 これが世界の情勢を一変させたのです。一極支配体制から多極化へと舵をきった瞬間です。まさに世界情勢はカオスに包まれました。 そうしたなか中国が米国の衰退に乗じ、覇権の野望を隠さずに蠢きだしました。東シナ海の日中中間線に沿って、中国がガス田を開発し、プラットホームの建設を急拡大している、この証拠写真を日本政府は初めて公開しました。 彼らが南シナ海で7つの岩礁を埋め立て、総計8平方キロの人工島を作った映像は世界に衝撃を与えたが、全く同じ時期にほぼ同様に急激な開発と構造物の建設が眼前の東シナ海で起きていたのです。 彼らはガス田と言っているが、もし軍事施設としたら日本の防衛にとり、脅威そのものです。 中国側が形の上だけ、中間線からわずかばかり中国側に入った海域に掘削設備を設置したことをもって、日本側は問題提起できないという声もあります。 ガスの開発ならば、海底のガス田が中間線をまたいで日本側にも広がっている可能性は高く、わが国の貴重な資源を奪っていないか、調査するのが当然です。 同時に日本の企業の試掘を可能にする方策を立てなければなりません。 一方で、中国の急激な動きに関する軍事的意味合いを懸念する声もあります。 プラットホームは、南シナ海の人工島同様、軍事転用が可能だと、専門家は指摘する。プラットホームの場所は中間線のほぼ真上、北緯29度東経125度の交点を中心にした60キロの円内におさまっているが、仮にここにレーダーを設置すれば、500キロ圏内のあらゆる通信波を拾い、沖縄、南西諸島全域の自衛隊と米軍の動きが全て探知されます。 現在中国沿岸部に設置されているレーダーでは、尖閣諸島周辺までの情報収集が精いっぱいだが、ここにレーダーを設置すれば中国の対日情報収集能力は格段に高まり、構造物の海面下に水中音波探知機を取り付ければ、日米の潜水艦の動きは全て探知されてしまうでしょう。 日本の誇る世界一の通常型潜水艦、「そうりゅう」さえ動きをよまれます。 資源獲得にも軍事情報獲得にも使えるプラットホームの一群を、中間線のごく近くに、日本国民が知らない間に建てられてしまったのです。 このようなことを許してよいのか。このことは国家安全保障にとっても深刻な問題ではないでしょうか。 米国統合参謀本部が4年ぶりに国家軍事戦略を改訂し、国際法や国際秩序を覆すとしロシア、イラン、北朝鮮に加えて中国を名指ししました。 国防総省も国務省も人工島の領有権を米国は断じて認めないと示すために、米艦船や航空機を島の12カイリ内に送り込むべきだとの考えを明らかにした。 一方、安倍総理はアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議に合わせ、北京で開催した昨年11月と、今年4月にジャカルタでアジア・アフリカ会議(バンドン会議)の際に行った日中首脳会談で、習近平国家主席に直接、新たなプラットホーム建設に抗議している。これは日本の安全を危惧した総理の強い思いであったと思われる。こうした総理が過去に日本に居りましたか? 幸いにも漸く安保法制が衆議院を通過しました、まさに慶賀の至りです。 欧州諸国は今さら何を、と容認しており。東南アジア諸国は大歓迎です。 反対は中国と捏造国家の韓国のみです。 その間の国会の野党の態度は見るに堪えないものでした。「戦争の出来る国にする」「徴兵制度の復活」「自衛隊に入隊する者が無くなる」 とりわけ民主党は中国の脅威を感じない、まさに亡国の議論でした。 彼ら野党の議員は、来るべき選挙の当選と安倍政権の倒閣にあります。 中国、北朝鮮がどれだけ危険な国か知ろうともせず、馬鹿な議論をしている。「説明不足」これは私もそう思いますが、国会で総理が日本を侵略する国は中国などと口が裂けても言えないのです。 国会での討論はテレビ放映されていますので、そんな事を言ったらあっという間に、世界中に拡散されます。 そんな事は露知らず、平和ボケの左翼人がブログで安倍総理の悪口を述べ、「戦争法案」などと反対を叫んでいる、これは憂いべき問題です。 この一派は中国の危機など欠片も感じてない輩です。反日メディアのニュ―スを信じ、GHQの押しつけ憲法を金科玉条としたボケた国民です。 彼らは一様に自分で学ぶ事をせず、新聞、テレビのみで世界を見ています。 こうした人達は一様に同じ思想を共有しております。脱原発、護憲派。 脱原発を唱えるならば、中国、朝鮮に渡り反対運動を遣って下さいよ。 中国、朝鮮の原発ほど信頼のおけない代物はありませんよ。 何時、事故が発生するか分かりません。 そんな災害が起こったら真っ先に偏西風に乗って日本に襲い掛かってきます。 話が飛びますが、今日のブログで面白い文章を読みました。『安倍政権の中国12基の写真公表』『姑息な世論操作としか思えない』 中国批判と思ったら、安倍総理を批判する内容には驚きました。 国際問題とは冷徹なものです。取り分け戦争の抑止力は難しいものです。 我が国は平和憲法を順守しております。もっぱら専守防衛でございます。 などの話は通りませんよ、抑止力は軍事力です。 今の世界では世界大戦などは起こらないでしょうが、局地戦争は世界中に広がっています。 中国に対抗し、東アジアの我が国の排他的水域にガス田などを建築したら、間違いなく尖閣諸島近辺で局地戦が勃発するでしょう。 また米国からも強硬な抗議を受けることになるでしょう。 平和ボケの貴方達には理解ができないでしょう。 脱原発を唱える貴方へ、これを読むと気絶するかも知れませんね。 中国は核兵器の保有国です、そんな国と対等に戦争ができますか? 一つだけ解決の道があります。 これは私の持論ですが、核兵器を日本は保有すべき。 これが抑止力なのです。今回はこれまで又次回に続きを書きます。
Jul 23, 2015
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にほんブログ村にほんブログ村 「日本は何時、韓国と断交するのか?」 5月13、14日に韓国・ソウルで開催された日韓の企業トップらが集まる日韓経済人会議。この会議で韓国の企業経営者からは、日韓の企業レベルでの連携強化を求める声が目立った。 日韓国交正常化50周年にあたる今回の会合では、採択された共同声明でも、資源開発やインフラ整備の分野で連携し、第三国へ進出できるよう情報共有を進めることや、医療や介護などの分野で協力関係を深めることなど、日韓関係の強化が盛り込まれた。その上で、経済界が民間の先頭となって、日韓関係の一層の強化のために努力することも確認された。 併し、一方では日本の歴史遺産に難癖を付け、朝鮮人の強制徴用を明記せよと高圧的な論調で迫り、遂に暗殺された伊藤博文が学んだ松下村塾までも難癖を付けてきたのです。 更に小学生のランドセルを軍隊を思い出させると文句を付けているのです。 何故、こうまでして日本に対し、歴史認識の捏造を迫るのでしようか。 彼等は長年の反日教育で日本に侵略され、戦争をしたと思い込んでいるのです。 日本は朝鮮と戦争はしておりません。ただ望まれて併合したのです。 日清戦争で勝利した日本は清国に朝鮮は独立国であると認めさせました。 こうして大韓帝国が成立したのです。これにより日韓併合へと進みました。 併し独立を果たしても大韓帝国には国家運営能力が備わっていませんでした。 国土は荒廃し慢性的な食糧不足の状態が続き、さらに併合に否定的であった伊藤博文総理が、朝鮮人テロリスト安重根によって暗殺されたことで、日韓併合への道は決定的となりました。 これにより朝鮮は日本の統治によって、ハングルが普及し、奴隷制度は廃止され、米の収穫は増え人口は倍増し、衛生状態も改善したのです。 日本は朝鮮に多額の国家予算を投入して、朝鮮半島を豊かにしたのです。 そうした事実を彼等は知らないのです。慰安婦の捏造を初め、事ある度に戦後賠償を要求してきます。日本が毅然とし、反論しないのかが不思議です。 だが我々は大東亜戦争に敗れ、韓国の憲法が反日で染められている事に気づかなかったのです。韓国憲法の前文には、このように書かれております。『悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に即して正義、人道と同胞愛を基礎に民族の団結を強固にし、全ての社会的弊習と不義を打破し、自律と調和を土台とした自由民主的基本秩序をより確固にし、政治・経済・社会・文化のすべての領域に於いて各人の機会を均等にし、能力を最高に発揮なされ、自由と権利による責任と義務を果すようにし、国内では国民生活の均等な向上を期し、外交では恒久的な世界平和と人類共栄に貢献することで我々と我々の子孫の安全と自由と幸福を永遠に確保することを確認しつつ、1948年7月12日に制定され8次に亘り改正された憲法を、再度国会の議決を経って国民投票によって改正する』 この前文は捏造の産物です。『悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民』とありますが、いきなり自国の賛美から始まりますが、悠久な歴史と言うのがそもそもおかしいのです。朝鮮半島には悠久などという歴史はないのです。『3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し』の部分。これは日本への当てつけのつもりでしょう。 そもそも抵抗の歴史がないのです。数人が上海で抵抗組織を作りましたが、活動の事実はありません。この前文が日本との戦争体験として書かれています。『外交では恒久的な世界平和と人類共栄に貢献することで我々と我々の子孫の安全と自由と幸福を永遠に確保することを確認しつつ』とありますが、竹島問題もそうですが自ら反日教育を行いそういった人材を育てておいて恒久的な世界平和に貢献できると思っているのでしょうか。 もしこれが日本なら間違いなく憲法違反だとして裁判になっているでしょう。 このように韓国は捏造された憲法を持つ国であることを知らねばなりません。 こうした国が真っ当な国である筈がありません。 書き出しにわたしは日韓経済人会議の件を書きましたが、韓国は無能な馬鹿女を大頭領に選んだ為に、経済的に立ち行かない状況に追い込まれております。 最大の貿易国、中国はバブル崩壊が進み、上海証券市場は最大の下げ相場となり、中国崩壊は眼の前にあります。 その影響を受けた韓国経済は、瀕死の状態なのです。 彼等、朝鮮人は必死で日本から、再度、賠償金をせしめ様と画策しております。 朴槿恵大統領は、父親の業績が正しく評価されていないとし、政治活動を始めた女性です。父親の最大の功績と言えば、1965年に日本と国交正常化し、それをテコに国の発展の基礎を作ったことです。それなのに、いまやっていることが父親の業績を否定することだと理解していない。困った大統領です。 国交正常化の時に締結した日韓基本条約に基づいて、日本から韓国に無償3億ドル、有償2億ドル、民間資金3億ドル以上を供与することにしました。 そのことで日韓は、植民地時代のあらゆる問題を、「完全かつ最終的に」解決したのです。ですが今まで韓国はそれを無視し、七万から八万の慰安婦を二十万と偽り、慰安婦を性奴隷とし、強制連行を捏造し世界中に告げ口外交をしました。 更に米国に性奴隷の像を建て日本を貶めております。 今は韓国は最大の経済危機を迎えています。それを解決する力がある国は日本です。その為に歴史遺産に文句を付け、強制労働の賠償金を獲ようと韓国の最高裁判所も動いています。なんと情けない国でしょうか。 安倍総理の米国の上下両院での演説の内容まで文句を言い募っており、 日本の集団的自衛権の問題まで、韓国の国会で反論しております。 又、安倍総理の戦後七十年の談話の内容まで嘴を挟んでおります。 まさに内政干渉を平然と行い、お金が欲しいとすり寄っています。 福澤諭吉は脱亜論をかきましたが、この際、韓国との国交断絶を宣言すべきです。世界の諸国は奇異に思うでしようが、朴槿恵大統領の告げ口外交に最近は米国でさえ、辟易してます。 日本はこれを機に、韓国の行ってきた捏造の数々を白日の下に晒し反論し、国交断絶の止む無き事を世界に発信すべきです。 平気で人を貶め、自分の行動を顧みない国民の韓国は今迄の償えをせねば成りません。自業自得と言うべきです。 恩を仇で返す国が韓国です。中国の属国に早く戻るべきです。 日本政府も親韓派の国会議員や、河野洋平などは外患誘致で処罰して下さい。 彼等は日本のODAを利用し、韓国の国会議員と癒着して私腹を肥やしているのです。国会議員を止めた老骨が政治に口を挟んではいけません。
Jul 9, 2015
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にほんブログ村にほんブログ村ID:ft3xbq 「日本を守ろうとする安倍総理を貶めようとするのか」 安倍総理は中国の脅威から日本を守る為に必死で闘っているのに、反日メディア、腐りきった民主党の国会議員は不毛の議論を続けるのか? 安全保障関連法案をめぐる国会攻防で、民主党が「徴兵制の復活」の可能性を持ち出した。 軍事的な観点からも合理性が低いとされる徴兵制が、なぜ議題とされるのか。 元陸上自衛隊イラク先遣隊の「ヒゲの隊長」自民党の佐藤正久元防衛政務官が一刀両断した。 「現代戦において、素人を加えた部隊で機能を果たすというのは、無理な話だ」 岡田克也代表は「徴兵制が敷かれるのではという議論がある」と指摘した。 山本モナさんと破廉恥な路上チュウした、恥ずべき国会議員の細野政調会長も、「徴兵制について考える」と題した文章を掲載し、徴兵制に真剣な警戒がある訴えた。 このような男に安倍総理の日本を思う心が分かる筈がない。 安倍首相は「憲法(第18条)が禁じる『苦役』にあたる」と徴兵制導入の可能性を明確に否定したが、民主党幹部らの国会での追及を続いている。 細野氏はブログに自身の娘を登場させ、「彼女たちにとっては現実」と指摘。 19日の衆院平和安全法制特別委員会では寺田学氏が妻の一番の心配とする処は1歳の長男が「将来徴兵制にとられるのではないかと恐れる」と紹介した。 まさに有り得ぬ不毛の論議が国会で延々と続けられている。 民主党は徴兵制度や、自衛隊員のリスクが大きくなる、日本は再び戦争に巻き込まれる、なぞと言い、日本の置かれた脅威から国民の眼を逸らしている。 安保関連法案の廃案に向け、世論の無知を利用し不安を広げることが有効な戦術と捉えている民主党は、かっての社会党の前例を踏もうとしている。 こんな政党が野党筆頭とは、日本にとって大いなる悲劇である。 また安倍総理と自民党にも意見具申を申し挙げたい。 何故、国民にもっと丁寧に今ある、日本の危機を説明しないのか? 何故、安保法制の審議が必要なのか。 何故、集団的自衛権の行使が必要なのか国民に語らないのですか? こうした事を説明しないから、不安に駆られた女性達の支持を失い、内閣支持が低下するのです。 日本の反日マスメディアを頼っていては、なにも国民には伝わらないのです。 記事の巧みな偏向、シナ、韓国への情報の垂れ流し、こうした問題が後々面倒を起こすのです。 現に今も左翼の平和ボケは戦争法制と声高に叫び、国民を惑わしています。 廃案にせよ。これらの者は中国の脅威が迫っている事を知らないのです。 彼等は押付け平和憲法を守っておれば、日本は安全と信じているのです。 彼等は東南アジアの南沙諸島で起こっている現状に眼を瞑っています。 尖閣列島を占拠せずとも、もう第一列島線は破れたのです。 台湾、沖縄は中国の手の届く範囲に迫って来ました。 安全保障上、手をこまねいている時ではありません。 その為の安保法制でしょう。その為の日米安保の強化でしょう。 ここで前回、掲載したブログで軍隊の持つ、「ネガティブリストとポジティブリスト」の真意がブロガーの皆様に伝わらないと思い再度、ここに詳しく書き加えました。「ポジティブリストに縛られた自衛隊」 国際法も各国の交戦規定もネガティブリスト(禁止規則)と言って、「~はしてはいけない」という禁止事項が書いてある場合がほとんどです。 だが自衛隊の場合は「~の場合は○○してもいい」というポジティブリストが、(根拠規則)の形になっているのです。 ネガティブリストの場合は「禁止事項はない」を原則とし、例外として禁止事項が決められております。 つまり「禁止事項を守りさえすれば何をしてもいい」となる訳です。 これに対し、ポジティブリストの場合は、「すべて禁止」を原則とし、例外として許されることが決められているものですから、「○○場合に限り△△していい」という形になってしまうのです。「憲法9条さえなければ」 こうしたおかしな話になるのも、結局は軍の保持や交戦権を認めないとしている憲法9条から自衛隊法や特措法が成り立っているからです。 そもそも憲法9条ができた時、自衛隊はまだ存在しなかったのです。 そして憲法9条を作成し押付けた米国が、憲法と矛盾する事を承知で自衛隊を創設したのです。これがそもそもの間違いであったのです。 米国らしいご都合主義のゴリ押しであった事が、後から色んな矛盾を、生じさせたのです。 本来ならば、朝鮮戦争に注力しなきゃいけないから自衛隊をつくりました、面倒を見切れないから日本は自分で防衛してくれ、と自衛隊をつくったのなら、GHQは憲法9条を改正し、日本に「軍を保持する」と書き換えるように働きかけるのが筋でしよう。 ところが、日本に再軍備をさせないために押し付けた憲法は変えたくないから、矛盾を正そうともせず、なし崩し的に自衛隊をつくってしまったのです。 そのおかげで自衛隊は、憲法と矛盾した存在として現在に至っているのです。「軍であり軍でない自衛隊」 その後、自衛隊はカンボジア、モザンビーク、東ティモール、アフガニスタン、イラク、ネパール、スーダン、ゴラン高原、ソマリアなどへPKOだけでなく、難民救援、国際緊急援助(地震などの災害救助)、海上警備(海賊の監視活動)、化学兵器処理など、さまざまな目的で海外派遣されるようになり、国際社会でも高い評価を得てきました。 併し、これらの活動はやはり憲法と自衛隊法によって制限されている為、不自由と身の危険を強いられる事に変わりはなかったのです。 こうした自衛隊の抱える矛盾とジレンマを取り除くため、安倍政権が掲げたのが、憲法改正であり自衛隊の国防軍化であります。 自衛隊は国内では軍隊と呼ばれていませんが、国際法は軍隊として扱われています。 このような矛盾を実態に合わせて改称することが必要なのです。 ですが安倍総理のこれまでの成果を知らせるメディアの少なさに私は驚きを禁じ得ません。安倍総理の悪口、戦争法制等々、下種な左翼かぶれのエセ平和論者の声のみが聞こえて来ます。 積極的平和主義を掲げ、世界中を駆け回り中国の脅威を喧伝し、その成果を反日メディアは報道しません。安倍総理は歴代の総理よりも海外の諸国は高く評価しています。東南アジアの諸国は安倍総理の唱える、集団的自衛権を 評価し、日本と共に中国の脅威を封じ込めんとしています。 米国の評価も一変しました。嘘と捏造国家の韓国さえ、最近は日本にすり寄っています。私はあんな韓国など相手にせぬ事が日本の為と思っていますが、安倍総理は条件を付けねば、対話の窓は開いているとした姿勢を貫いて居られます。見事な対応です。 安倍総理の悲願を叶えてやりましょう。彼の後を任せる人材は今の政界に居りますか? 日本の平和は安倍総理の肩に懸っています。皆さんも近現代史を学んで下さい。 そして何が真実か知って下さい。左翼やNHK、朝日新聞などの反日メデアに惑わされてはいけません。自分の眼で真実を観て下さい。 日本の国民と国土を守る為に、・・・・
Jun 25, 2015
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にほんブログ村にほんブログ村 「現憲法で中国の脅威から自衛隊は国民を守れない」 これも押付け憲法のお蔭です。全てに憲法9条が影響してます。 2項の前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 これにより自衛隊は日本の軍隊に成りえないのですが、海外諸国は自衛隊を正規の軍隊と認識しております。 それなのに軍艦を護衛艦、将校を一佐(大佐)などと呼んでおります。 まさに日本は諸外国の中で可笑しな軍事組織を持った国です。 いま国会では、集団的自衛権の行使について安保法制を審議しております。 朝鮮戦争時、米国は自衛隊を創設させたが、その際、第9条との関係で日本の自衛権はどこまで許されるか?という問題が起き、内閣法制局が米国の意向を伺い必要最小限という概念を使い始めました。それがいつの間にか独り歩きをし、「集団的自衛権は所有しているが行使はできない。必要最小限を越えるからだ」という解釈がなされるようになってしまいました。 政治家が内閣法制局に概念を支配されてしまったわけです。 こんな情けないことはない。こうした問題は法制局が解釈するのではなく、政治家が解釈すべき事なのです。 自衛隊が派遣されたPKOなどの国際平和協力活動のうち、最も過酷だったのが、イラク派遣(平成16~20年)であります。 隊員は黙々と任務をこなしたが、武器使用の制約で国際社会ではあり得ない、屈辱的な対応を余儀なくされました。 陸自はイラク南部サマワで給水や道路補修などの人道復興支援を行い、豪軍は治安維持を担っていた。 陸自が拠点の外に出る時は豪軍に警護され、豪軍が陸自を守る為の活動中に攻撃され、陸自は豪軍に何の救援も出来なかった事例がありました。「国際活動に参加できる組織ではない」「共に活動する相手として信頼できない」 豪軍の酷評が陸自の教訓レポートに残されているのです。 これが現在の自衛隊の真の姿であります。 日本には平和憲法があるから、戦争に巻き込まれるような場所に自衛隊を派遣するのことは間違いである。 これを国外の諸国から見ると、外国人は平和活動で死亡しても良いが、日本人は血を流してはならない。という驚くべき独善的な主張に映ります。 こうした自衛隊の現状を見た中国が、尖閣列島に民兵を上陸させ支配したら、政府はどうするのでしょうか?沖縄に進撃してきたら対応できるでしょうか? 世界182の成典化憲法のうち149ヵ国の憲法は、1990年以降に制定された84ヵ国の憲法のうち82ヵ国に、平和主義条項(平和政策の推進、国際協和、内政不干渉、非同盟政策、中立国家、軍縮、国際紛争の平和的解決、侵略戦争の否認、テロ行為の排除、国際紛争を解決する手段としての戦争放棄、自衛以外の軍事の禁止など様々)が盛り込まれています。 日本の憲法は護憲派が主張する世界の唯一の憲法ではなく、ごく当たり前の規定を備えた憲法なのです。平和憲法と殊更いうべきものでもありません。 彼我の相違は、日本が平和条項を謳いあげてそれで終わりとしているのとは対照的に、彼らは国民の生命や財産を守るために非常事態を想定し、国防に必要な組織、軍隊を持つことを明記し、国防を担う責任は全国民にあるとの自覚を促し、国防の義務を明確にしているこです。 皆さんの知っている中立国のスイスも、国民に国防の責任を科しております。 安倍総理はそうした普通の軍隊を持った国にしょうと、安保法制を国会で審議し、集団的自衛権の行使容認を目差しております。 それに対する野党の質問はどうでしょうか、正に軍事も知らない馬鹿議員が声高に、「徴兵制度の復活」「戦争をする国にする」「自衛隊員のリスク」等総理に明確に説明するように迫っています。 まさに世界の軍事、諜報活動の常識を知らない馬鹿者達です。 国会審議はテレビで放映されます、そんな機密を一国の総理がぺらぺらと話す筈はないのです。敵国に情報を提供するに相応しい行為ですから。 左翼の平和ボケの護憲派は、「戦争法制だー」と気勢を挙げて批難してます。 こうした方々に問いたい、違憲論者は地震で家や家族に何が起きようとも、自衛隊の救援だけは断ると宣言して欲しいものです。 存在を認めない者が協力を求めるなどは、最低の道徳違反ですから。 話が横道にそれました。 総理は戦後レジームからの脱却を目差し、米国との安保態勢を強化しました。 これは一里塚です。国力を強め最終目標は米国との従属関係を止める。 国力とは経済、軍事を強め国際的な発言権を強化するにあります。 これは平和憲法を破棄し、我国の自主憲法の制定が目標です。 審議中の集団的自衛権の行使容認でも、自衛隊は普通の軍隊には成れません。 最後まで押付け平和憲法が邪魔をします。 日本は法治国家であり、その政府機関の一つである自衛隊も法律に基づいて行動する組織です。 日本は第二次世界大戦の敗戦により、自衛隊は法的な制約が大きいのです。 一般に国際法的な面で軍隊の行動は「ネガティブリスト」方式であり、「行ってはいけない行動」を規定し組織を運営しております。自衛隊の行動は国内法的な面で「ポジティブリスト」方式で運営されております。「行って良いとする行動」を規定され、それ以外は出来ない組織なのです。 法に規定されていない行動は、行い難くなっている。冷戦期は、「災害派遣」「領空侵犯に対する措置」「機雷等の除去」以外の行動は、実施されなかったが、21世紀に入り米国同時多発テロや、ソマリア沖の海賊等の国際情勢の変化や、北朝鮮の不審船や弾道ミサイル等の安全保障環境の変化により、活動の種類が増えてきました。 自衛隊が行う行動は、主に自衛隊法第6章「自衛隊の行動」として規定が設けられています。(平成26年時点) また行動の際の権限については第七章自衛隊の権限に規定されています。 諸外国の軍隊の法律は『ネガティブリスト』で実施されていると書きました。 この内容は「やってはいけないことだけが規定されています」 反面、自衛隊の法律は『ポジティブリスト』で実施されております。 この内容は「やってもいいことだけが明記されています」 この意味は諸外国の軍事組織は、民間人の虐殺、捕虜の虐待、その他の禁止項目は軍隊として遣ってはならないと規定し、それ以外は何を遣っても構わないと成っています。 自衛隊のリストはXXXは遣っても構わないが、その他は一切しては成らない。 敵が発砲しても勝手に応戦しては成らない。いちいちお伺いをたて実行する。 故に自由な軍事行動がとれない組織に成っております。 尖閣列島に中国の漁船が何百艘も押し寄せ、民兵が武器を携行し上陸しても、応戦や反撃も出来ず、お伺いをたて許可さされ、初めて反撃できる組織運営をポジティブリストと言います。 まさに手足を縛られ、身動きの出来ない軍事組織が自衛隊なのです。 これでは膨張する中国の攻撃から、日本国民の安全は守れません。 まさに敵の侵略に対し、即応制のある自衛隊にしなければいけません。
Jun 21, 2015
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にほんブログ村にほんブログ村 「憲法学者に日本の安全を任せるのか」 国民の生命と財産を守る国家安全保障という観点で考えれば、憲法学者の見解が正しく、国益に沿うとはかぎらない。 選挙で選ばれていない憲法学者の違憲報告を信じ、国の平和と国民の安全を委ねるなど、在ってはならない事である。 国民に選ばれた国会議員ならば、違憲などで責務の放棄をしては成らない。 国際社会とは近隣関係も冷徹なものである。 迂闊に外国を信じてはいけません。諸外国は自国の国益を最優先するものです。 更に平気で国益の為には条約を踏み破り嘘を捏造します。 このような世界状勢下、安倍総理は戦後レジームからの脱却を目差し動きだしました。それは集団的自衛権の行使です。この内容は自国が攻撃を受けなくても自国と同盟を結んでいる国が攻撃を受けた場合に、同盟国と共に又は、同盟国に代わって反撃する権利を指します。この権利は、国際法上認めらた権利で国連憲章第51条です、日本は権利を保有しながら、憲法上その行使が認められていません。 諸外国は行使に関しては各国の裁量に委ねられており、行使するか否かは各国が独自に決めることができます。 現在のところ集団的自衛権を明確に否定する国は永世中立を国是とするスイスぐらいとなっており、行使を容認している国が圧倒的に多いのです。 さて何故、我が日本はこの行使が出来ないのでしょうか、その理由は憲法(第9条)にあります。 何故、日本は憲法第9条で禁止されているのでしょう。 それは大東亜戦争で敗戦した事が原因です。戦争の原因は諸説ありますが、一番の原因は有色人種の日本が、欧米各国の植民地であったアジアに軍隊を派遣しょうとした事でしょう。中国侵略、韓国侵略などの諸説もありますが、これが有力と私は思います。 それに怒った米国の大統領、ルーズ.ベルトが蒋介石の国民党をバックアップし、日本は中国で泥沼の戦争をする事に成りました。 一方、アジアでは怒濤の勢いで進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、マニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で籠城する作戦に持ち込んだ。 2ヶ月に渡って日本軍に善戦したが、捕虜を恐れオーストラリアに家族を伴い魚雷艇で脱出した。彼が態勢を建て直し日本を敗戦に追い込んだのだ。 この占領軍の最高指揮官がマッカーサーで、彼は連合国最高司令官総司令部で、大東亜戦争の終結に際しての、占領政策を実施するのである。 この連合国最高司令官総司令部をGHQと言う。 マッカーサーはコレヒドールの敗戦の復讐心があったと思います。 このGHQが日本国憲法を作成し、これが戦後、70年続く平和憲法と称され、この憲法に第9条が含まれています。その内容を記述してみましょう。 第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】 1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、 国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。 まことに変な内容の条文が書かれております。この憲法9条1項2項は集団的自衛権の保持は、もちろん行使も禁止する文言は一切ありません。 こうした憲法を押し付けた米国の思惑は、日本は太平洋戦争という侵略戦争を企て、それを実行に移したとんでもない犯罪国家であり、加害国である。日本の被害は因果応報でしかない。このような歴史を持ち、その残虐な民族性故に、二度と普通の国が持つような軍事力も法制も持ってはならない。日本はハンディキャップ付きではじめて、国際社会から国家として認められるのだ。 という「東京裁判史観」「太平洋戦争史観」が色濃く反映されたものである。 これが保守の言う「自虐史観」左翼の言う「平和憲法」の内容なのです。 以前、安倍総理と民社党の岡田議員が討論しておりました。「戦後、70年、日本が戦争に巻き込まれずに来れたの原因はなんでしょう」 と司会者が問うと、安倍総理は自衛隊の存在と日米安保のお蔭と答えました。 一方の岡田議員は憲法9条と日米安保の存在と答えました。 9条と日米安保、まさに奇怪な答弁です。そして9条の内容です。 陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 併し我国には軍隊でない自衛隊と言う、軍事組織が存在しております。 9条違反ですが、政府は自衛隊特措法でその度に乗り切ってきましたが、詭弁を重ねる事には無理があります。 更に国民は米国の暗い思惑に気付き始めました。日本を戦争に引きずり込んだのは米国です。更に陰から日本を従属国として支配してます。 平然と基地を日本領土に展開させ、日本には絶対に核武装をさせない。 尖閣列島に中国が侵攻しても、米国の若者の血を流させない。 こうした状況を打破しよぅと、安倍総理は米国の上下両院で演説し、集団自衛権の行使に言及し、安保法制に手をつけたのです。 まさに戦後レジームからの脱却。更に自主憲法の制定を目指すものです。 これ無くて中国の脅威から、国民の命と財産が守れない。 脱原発、護憲派、安保法制を戦争法制と叫ぶ平和ボケ。政治とは搔くも冷静沈着、先を読む能力、行動力が必要か分かる安倍総理の資質です。 NHK、報道スティション、サンーデイモーニクグ、朝日新聞、日経などの反日メディアの情報を信じて、分かったような反論は愚の骨頂です。「憲法があって国があるわけではない。国があって憲法がある。私達は『憲法栄えて国滅ぶ』の愚を犯してはなりませんね」 安保法制は最高裁判所に任せましょう。一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所でありますから。 これが「司法権」の範疇ですから。 今回、この辺りで止め、何故、自衛隊が普通の国のような作戦行動が出来ないのか、その理由を書いてみようと思います。 長い間、ご無沙汰しておりました。小説を終え何もしたくなく無聊の日々を過して来ましたが、漸くブログに向う気分となりました。これからも宜しくお願いします。
Jun 17, 2015
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「信玄の戦略」(最終章) (巨星、墜つ) にほんブログ村にほんブログ村 信玄は先遣隊の用意した本営に入り、すぐに臥所で横になった。 信玄は綿のように疲れきっていた。 武田勢は徳川勢の来襲に備え、警備を強化し夜を迎えていた。 伊那街道への備えには、甘利昌忠が騎馬武者で警護にあたっている。 そんな時、関東の要石、西上野の箕輪城主内藤修理亮昌豊が姿を見せた。 彼は信玄の上洛の陣に加わらず、関東の守りを命じられていた。「これは内藤修理亮さま、何処に参られますぞ」「御屋形のご容態が悪いと聞き、駆けつけるところじゃ」 内藤修理亮の言葉に甘利が畏まった。「御屋形のご体調が悪いとは真か?」「真にございます。御屋形さまが息災の内に、帰還して頂こうと思い、この田口で宿営しております」「判った。わしは先駆けするが、配下を頼む」 武田家四天王の一人、内藤修理亮は懸命に馬を駆けさせた。「御屋形さま、お休みにございますか?」 今井信昌が臥所に低く問いかけた。「眠ってはおらぬ」 「西上野より内藤修理亮さま、駆けつけて参られました」「なんと内藤修理亮昌豊が?」 部屋の外で微かな咳払いがし、静かに三人の宿老が姿を現した。 内藤修理亮が主人の変貌ぶりに声を失った。 「西上野より、馳せ参じてくれたか?」 信玄と昌豊の眸子が確りと交わった。 馬場美濃守と高坂弾正の二人も、信玄の枕頭に座った。「御屋形、甲斐は直ぐにござる。お気を強くお持ち下され」「死ぬる前に、そなたに会えるとは思はなんだ」 信玄の声がかすれて聞こえる。「そのようなお気の弱い事を申されますな」「丁度よい機会じゃ、山県が居らぬが、そちたちに相談がある」 信昌が部屋の不審な者が近づかぬように、無言で辞して行った。「昌豊、余は数日で死する」 信玄が明確な口調で断言した。「死んだのちの天下なんぞは興味がない、武田家の天下取りは終りといたせ、勝頼では甲斐一国でも難しい」「そのような事はございませぬ」 馬場美濃守が静かに反論した。「子の器量を見るは親の眼が一番じゃ。残念じゃが勝頼は、家康にも劣る」「・・・」 「余が死んだら、越後の謙信と和睦いたせ。奴は稀有の武将じゃ。良いの」「畏まりました」 三名の宿老が黙然と平伏した。「余の死は三年間秘匿いたせ。それまでに知れてしまうが構わぬ。余の存在が不明なだけ敵は用心いたす。三年後に余の亡骸を恵林寺に葬ってくれえ」 信玄の呼吸が荒くなってきた。「美濃、弾正、修理亮、勝頼がこと頼むぞ」 信玄が三人の名を区切るように呼び、四郎勝頼の将来を託した。 「畏まってございまする」「昌豊、余はそちの顔をみて安堵いたした」「御屋形、今宵はお静かにお休み下され」 内藤修理亮が頭を垂れた。 翌日、武田勢は田口を発ち、信州飯田の南西にある、駒場(こまんば)に宿営した。ここは天竜川を臨む伊那盆地の一角で、三州路と美濃路の分岐点にあたる山村である。 信玄の容態は悪化の兆しをみせ、一日中昏睡状態となっている。「馬場殿、二万の大軍を留める必要はありません。半数は帰国させましょう」 高坂弾正の意見で、軍勢の半数が勇んで甲斐に帰路についた。 残った将兵は信玄の宿営地を固めるように、山村の各所に駐屯している。 四月十一日の巳の刻(午前十時)頃、信玄は昏睡から目覚めた。 山野には桜が満開に咲いている。 信玄の枕頭には勝頼を筆頭に御親類衆の武田逍遥軒、武田信豊が顔を揃え、武田四天王の馬場美濃守信春、高坂弾正昌信、 内藤修理亮昌豊、山県三郎兵衛昌景等が顔を揃えていた。「皆うち揃っておるの、余は夢をみていた。京に武田の御旗が翻る夢じゃ」 信玄の顔色に赤みがさしている。「勝頼、余を起こせ」 「ご無理は禁物です」 信玄は勝頼に手を借り脇息に寄りかかり、一座に視線を廻した。「直ぐに別れが参ろう、名残り惜しいが仕方があるまい。命ある者は死す。皆々、勝頼の行く末を頼むぞ」 「承りましてございます」 全員が落涙して平伏した。「勝頼、余が死んだら三年間、喪を秘すのじゃ」 「何故、父上の喪を隠しまする?」「勝頼、余は天下に恐れられた武将じゃ。余の死が洩れたら叛く者も現れよう。それを恐れるためじゃ」 信玄が諭すように話しかけた。 今の信玄は、一人の父親として語っているのだ。「父上、それがしは叛く者も恐れませぬ。天下を望む事も諦めませぬ」 勝頼が顔面を朱色に染め叫んだ。「信廉や宿老達に申し渡す。余の遺言に違背はならぬ」 信玄の声が凛として響き、勝頼が不満そうな顔付をしている。「美濃、弾正、修理亮、三郎兵衛」 信玄が宿老の一人一人に声をかけ、「これが余の遺言じゃ」 死に行く者とは思われない眼光をみせ断じた。「ご違背は決していたしませぬ」 馬場美濃守が代表し約束した。この一言から彼等の悲劇が起こるのであった。「これで、思い残すことはない」 信玄の顔色が鉛色に変わり、冷汗が首筋を伝っている。 馬場美濃守が信玄を褥にそっと寝かした。 御屋形の死で武田は終りかも知れぬ、そんな思いが脳裡を過ぎった。 天正元年四月十二日、駒場を囲む山並は眩しい新緑につつまれ、山桜が満開となっている。 信玄の容態は誰の目からみても悪化している。 宿老は信玄の枕頭を離れず、荒々しい呼吸を続ける主を見守っている。 独り勝頼だけが、違った思いで父の容態を眺めているようだ。 天下に恐れられた信玄も、死すればただの男。瀕死の父と争った日を想いだしているようだ。 旗本の今井信昌が懸命に、信玄の額の汗を拭っている。「夢じゃー」 信玄が突然、大声を挙げた。「御屋形」 馬場美濃守が覗き込むように声をかけ、一座の全員が信玄を見つめた。「源四郎、京の瀬田に我が旗を立てよ」 源四郎とは山県三郎兵衛の幼名であり、彼はじっと次ぎの言葉を待ったが、再び信玄は声を発する事はなかった。 医師の監物が脈を探り、「ご臨終にございまする」 と、悲痛な声をあげた。 こうして武田信玄は、波乱にとんだ五十三才の生涯を閉じた。 夜の帳が落ち、駒場の本陣から荼毘の炎が燃え盛っている。 荼毘の炎の見える小高い丘に、老武士が草叢に座り落涙している。 老武士が笠を脱いだ、隻眼で老醜の顔が闇に浮かびあがった。 それは年老いた山本勘助の姿であった。「御屋形さま、無念に存じます」 勘助には言うべき言葉がなかった。 ひと際、炎が高くたち昇った。勘助が肩を揺すって闇に姿を没した。 信虎は信玄の上洛の軍旅を知るとお弓を伴い、信濃の伊那郡に移り住み、信玄の死去を知り落胆の日々を過ごし、翌年の二月三日にその地で没した。 享年、八十一才であった。 信玄の葬儀は遺言どおり三年後の天正四年四月十六日、恵林寺で行われた。 そこに出席した武将は高坂弾正のみで、あとの馬場美濃守、内藤修理亮、山県三郎兵衛の姿はなかった。 彼等、三名は長篠の合戦で勝頼の無謀な戦術で鬼籍に入っていたのだ。 この六年後に武田勝頼と武田一族は信長に破れ、甲斐の田野まで逃れそこで自害し、武田一族は滅亡した。 この原因は小山田信茂の裏切りにあったのだ。 (了)
May 30, 2015
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「信玄の戦略」(114章) (信玄、死を悟る) にほんブログ村にほんブログ村 武田忍びの頭領、河野晋作も信玄から直に聞かされ承知していた。 その為に塗輿を担ぐ人足は、すべて忍びの者に変わっていた。 信玄は戦塵のなかで病と闘うよりも、暖かい布団でゆっくりと療養したい、そうした願いでこの鳳来寺に来たのだ。 信玄は鳳来寺の客殿で体調の戻るのを待っている。 ようやく容態も安定し、顔色に血色が戻ってきた。「余は病魔をねじ伏せた」 それがつかの間の事とは分かっているが嬉しかった。 季節は三月を迎え、野鳥のさえずりが心地よく聞こ始めた。 天下の耳目は信玄の動向を注目している。昨年は遠江の三方ケ原で、徳川、織田の連合軍を完膚なく破り三河に進出し、徳川家の重要拠点、野田城を攻略し、ぴたりと動きを止めている。 信玄の次の標的は何処か、色んな憶測が飛び交っているが、武田勢は鳳来寺に滞陣し動く気配をみせない。 こうした状況下の京で二月十三日に将軍義昭が、信長打倒の兵を挙げた。 この背景には信長包囲網の完成にあった。 信長の本拠尾張、美濃は西に石山本願寺、三好三人衆、六角承禎(じょてい)、 浅井長政。南は長島一向門徒、北には朝倉義景、加賀一向門徒、東には天下最強の武田軍団が迫っていた。 義昭は浅井家、朝倉家に決起の御内書を発し、本願寺にも近江で蜂起するよう要請し、受けて、顕如は近江の慈敬寺に門徒衆の決起を命じた。 義昭は御所の強化の為に濠普請を行い、近江石山と今堅田に砦を築いた。 義昭の戦略は、信玄の発病で絵に書いた餅となっているが、彼は知らず、ひたすら信玄の上洛を待ち望んでいた。 信長は義昭を牽制し、岐阜で信玄の進攻を戦慄する思いで待ち受けている。 彼の膝元の東濃では武田勢に明知城を攻略され、彼等の動きは烈しさを増し、虎視眈々と岐阜城を窺がっている。 これが信長の置かれた情況であり、桶狭間につぐ最大の危機を迎えていた。 だが信玄は三河で動きを止め動く気配を見せない、それが不気味であった。 信玄の臥所に馬場美濃守と高坂弾正の二人が、忍びやかに訪れて来た。「両人、来てくれたか」 「御屋形、今朝は血色も宜しいようで」「心配をかけさせたの、信昌、余は起こせ」 信玄が起き上がり、脇息に身をあずけた。傍らには今井信昌が控えている。「御屋形、お聞き苦しいとは存じますが、ひとまず甲斐にお戻り下され」 馬場美濃守が強張った顔付で声を励まし、忠告をした。 病み衰えた信玄の眼光が鋭くなり、馬場美濃守を見据えていたが、「今になって引き返しては、何のために討ってでたのか意味を成さなくなる」 信玄の声に力が漲っている。「承知で申しあげておりまする」 「弾正、そちも同じ考えか?」「御屋形あっての上洛にございます。甲斐に戻り、お躰を治す事が先決かと」「弾正、それに美濃もよく聞くのじゃ。余の命はそう長くは保たぬ」 瞬間、部屋が凍り付き、三名が信玄を仰ぎ見た。「余は五年も一人で病魔と闘ってきた。余が死ねば上洛の意味はない」 信玄の普段と変わらぬ声に、馬場美濃守と高坂弾正が声なく俯いた。「余の薬湯を」 今井信昌が囲炉裏に掛けられた土瓶から、湯呑みに移し手渡した。「これは余が調合したものじゃ。すでに五年間も飲み続けておる」 信玄が湯呑みを掌に包み苦そうに、音をたてて啜った。「未練にみえるか?余は一日でも生き永らえ上洛を果たしたい。快癒せぬ事を承知で飲んでおる、妄執、・・・未練かの」 信玄の顔に自虐の色が浮かび、すぐに平常にもどった。「今の徳川家を見よ、もはや我等の敵ではない。我等は信長を討つ」 信玄が毅然たる声で命じた。「御屋形の決意、しかと心に刻みつけました」「二日後に軍勢を発する」 二人が平伏し拝命した。「信昌、少々疲れた」 信玄は褥に臥せ、手で二人に去るように合図し瞼を閉じた。 その夜、信玄は再び喀血し高熱にうなされるのであった。 鳳来寺の一室で勝頼を上座として、御親類衆と重臣達が全て集っていた。「勝頼さま、御屋形の病は益々悪化いたしております。ここは軍をお引き下され」 重臣を代表し、馬場美濃守が進言した。「馬場美濃守、そのように容態が悪化しておるのか?」 信玄の弟の武田逍遥軒信廉が、非難するように訊ねた。「最早、ご本復は無理かと」 「父上のご容態は、そのように悪いのか?」 勝頼が重苦しい顔つきで訊ねた。「鳳来寺に滞陣いたし、既に一ヶ月を経過いたしました。御屋形が少しでもお元気なうちに、甲斐にお連れいたしましょう」 高坂弾正が沈痛な声で勝頼に訴えた。「なれど、父上は二日後に出陣をお命じなされた」「御屋形はその夜に再び喀血され、意識がございませぬ。なんとしても甲斐を一目、お見せしたいものに御座います」 馬場美濃守と重臣達が、勝頼と御親類衆に頭を下げた。 だが信玄は再度起き上がった、倒れてから五日後の事であった。枕頭に勝頼と逍遥軒、さらに馬場美濃守、高坂弾正の四人が凝然と控えていた。「勝頼、余の命はあとわずかじゃ」 「父上っー」「狼狽えるな。余は甲斐に帰国いたす、すぐに用意をいたせ」 信玄は自分の死期を予感しているようだ。「信昌、例の箱をこれに」 信玄の命で今井信昌が、漆細工の小箱を勝頼の膝前に置いた。「勝頼、開けて中を見よ」 勝頼が箱の蓋を外し顔色を変えた。 部屋の者達の眼も釘付けとなった。箱には百枚ほどの白紙が治められ、白紙の左下に、信玄の直筆の署名と花押が記されている。「これは、余が数年前より用意しておいたものじゃ」 「父上っー」 勝頼の悲鳴を聞き信玄が、「余は死ぬるが、これがある限り余は生きておる」 信玄の直筆の署名があるかぎり、信玄存命の証しとなる。 「美濃、弾正、この書簡の意味は判るの?」 二人は信玄の覚悟の凄さを改めて知らされたのだ。「余を一人にいたせ」 一座の足音が途絶えるまで天を仰いでいたが、それが消えると瞼を閉じた。 「無念じゃ」 血を吐くように呟いた。 もう一歩で上洛が果たせたのに、岐阜を目前とし帰国せねばならぬとは。 武将としての恥辱をひしひしと感じていた。「父上、お赦し下され」 信虎の面影に向かい、詫びの言葉を呟き、目尻から一筋の涙が伝え落ちた。 三月末、突然に武田軍団が鳳来寺を発った。先頭には武田家累代の家宝である諏訪法性と孫子の御旗が靡き、本陣には騎馬に跨り、唐牛の白毛の飾りのついた諏訪法性の兜を深々と被り、伝来の大鎧の上から朱の法衣を纏った信玄が、見事な手綱捌きを見せ進んでいる。 これは影武者で信玄の弟の武田逍遥軒信廉が、務めていた。 軍勢から少し距離をおき塗輿が続いていた。見る者がみたら異様に映る光景である。 警護の武者が密集隊形で塗輿を取り囲んでいる。 いずれも凄腕の家臣である、更に武田の忍び集団が周囲を警戒している。 輿では信玄が憔悴した顔をしているが、眼光を炯々と輝かせ揺られていた。 すでに全国制覇は諦めたが、甲斐を見るまでは死なぬ、と心に決めていた。 武田勢は緩やかな速度で粛々と、伊那街道を北上して行く。 何も知らない足軽は国に帰れる喜びを隠そうともせず、眼を輝かせている。 その日は鳳来寺、北方八里に位置する田口の地に宿営した。
May 25, 2015
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「信玄の戦略」(113章) (三河、野田城攻略)にほんブログ村にほんブログ村 三方ケ原合戦の大勝利は、瞬く間に諸国に広まり、石山本願寺の顕如は、信玄と勝頼に太刀や虎の皮を贈呈し勝利を祝った。 更に顕如は遠江、三河、尾張、美濃の一向門徒衆に檄を発し、岐阜の近郊に要害を築かせ、信長勢の支配地に騒乱を起こさせ、信長に脅しを掛けたのだ。 さしもの信長も窮地に陥り、近江の軍勢を撤退させる必要に迫られた。 十二月三日、織田勢は突然、軍勢を返し本国に撤退した。 その時の越前の朝倉義景の態度が、反織田勢として不手際であった。 戦略的に見るなら、信長が撤退を行った時を見逃さず、小谷城の浅井長政と共闘し、織田勢に追い撃ちをかける。 これが兵法の常道であるのに義景はそれをせず、織田勢の撤兵を見送った。 更に信玄の忠告を無視し、大嶽(おおずく)から軍勢を越前へと引いたのだ。 その報告に接した信玄の失望は大きかった。 信玄が義景に大嶽滞陣を進めた訳は、織田勢が撤退する時の反撃を想定した為であった。凡庸な朝倉義景は信玄の真意を理解出来なかったのだ。 信玄は将軍義昭に再度、朝倉義景に出兵を促すよう書状を送ったが、義景は出陣が出来る事が叶わなかった。 ただ時期が悪かった、この季節の越前は豪雪に見舞われていたのだ。 折角、信玄が腐心した信長包囲網は、こうして脆くも崩れたのだ。 (妄執の果て) この頃、信玄は刑部の陣営で人知れずに病魔と闘っていたのだ。 武田の将兵も知らず、勝頼さえも知らない秘事であった。 織田信長も徳川家康も、動かぬ武田軍団を注視していた。 徳川勢は浜松城に籠城し、家康に従属していた豪族等は武田に降り、単独で攻めかかる戦力を失っていた。 信玄は本陣で愛用の土瓶をかき混ぜ、自分の余命を考え続けている。 恐らく京までは保たない、これが信玄の偽らぬ本心であった。 この刑部でも、何度となく喀血していた。 その度に全身から力が失せた、だが最近は徐々に力が漲ってきた。 病魔が小康状態となったのか、回復に向かったのか信玄もつかめずにいる。「人は死ぬ直前に一時的に元気を取り戻すと申すがな」 信玄が低く独り言を呟き、土瓶の薬湯を苦く啜っている。 上洛は自分一人の願いではない、父の信虎の宿願でもある。 越後勢と戦った川中島で討死を遂げたと偽った、山本勘助の願いでもある。 無性に勘助に会いたかった。「奴の事だ、どこぞで余を見守っておろう」 そんな思いがしていた。 二俣城攻略の策は、信虎と勘助の謀略であった事は承知しているが、あれ以来、一切、連絡が途絶えていた。 信玄が湯呑みを口にはこび、薬湯を飲み干し苦い笑いを頬に刻んだ。 快癒する見込みのないことを承知で、このように薬湯を飲んでいる自身への、自虐の笑いであった。 部屋は蒸すように暑い、信玄の肺は外気を受けつけぬほど弱っていたのだ。 早う、春になるのじゃ、余は春を待って美濃に進撃いたす。あの悪逆非道な織田信長を打ち倒し、京の瀬田に武田家二流の御旗を立てる。 戦国大名として武田信玄は、最後の夢を自分の余命に託していたのだ。「明朝を期して野田城攻略の軍勢を発する」 信玄の下知が下った日は、一月二十二日のことである。 待ちに待った進軍の下知で全軍から、歓声が沸き起こった。 野田城は長篠城の西南に位置し、刑部より六里ほど西に向かった地点にある。 城は豊川右岸の突端にあり、柔ケ淵の絶壁を防壁とし堅固で聞こえていた。 城主は菅沼定盈(さだみつ)である。 彼は初めは今川家に属していたが、永禄四年より徳川家康に仕えてきた。 翌日の二十三日は、風もない快晴の日和となった。信玄は愛馬に白鹿毛に跨り、軍団の中陣で馬を駆っている。 快晴にも係らず綿入れの頭巾を被り、眼だけを出し熊の羽織りを纏っている。 一時も早く片づけたい。これが信玄の願いで山県昌景の赤備えと勝頼の率いる、騎馬武者が先鋒隊として先駆けしていた。 二万八千の大軍が刑部を出発し、豊川の河原に集結を終えたのは正午であった。 蟻一匹、逃さぬ堅固な陣形で野田城を包囲した。 菅沼定盈は眼下に展開する、武田軍団の威容を眺め全滅を覚悟した。 城から見下ろせる南の日当たりの良い場所に、人夫たちが手際よく本営らしき建物を組み立てている。 「あれが武田勢の本陣か?」「強襲したいが、届くまでに全滅じゃな」 それほど見事で巧緻な陣形を持った武田勢であった。「籠城じゃ」 幸いにも兵糧は十分にある、二俣城と違い井戸水も豊富にある。 武田勢の攻め口は、城門の急峻な小道が一筋のみ、一年でも保てる。 その内に、徳川勢か織田勢の援軍も駆けつて来るであろう。 城主の菅沼定盈は覚悟を決め込んだ。 こうして対陣が始まったが、武田勢は包囲したたげで攻撃を仕掛けてこない。 家康は織田信長に救援の使者を何度も遣わし、隙をみては出兵するが、堅固な武田勢の防衛線に阻まれ、虚しく浜松城にもどるのみであった。 そんな時、東美濃の秋山伯耆守信友より朗報が届いた。岩村城に続き、 明智城をも攻略したとの知らせであった。 信長の足元の東美濃に火が点いたのだ。「信友、やるわ」 信玄は上機嫌でその朗報に接した。 野田城を包囲し半月が過ぎ、籠城する菅沼勢が仰天する出来事が起こった。 五十名ほどの人夫が、城の崖下を掘りはじめたのだ。「何事じゃ」 「崖を崩す算段とみた」 「馬鹿な、穴を掘って崖を崩す気か」 城内の将兵が笑いを堪えていたが、 人夫達の真意を悟り真っ青となった。 信玄は甲斐から、金掘り人夫を呼び寄せ崖の下を掘りすすめ、野田城の水脈を断ち切る戦術にでたのだ。これには城主の菅沼定盈も仰天した。 二月五日、とうとう水脈が切れた。籠城の将兵は絶望感にうちひしがれた。 菅沼定盈は城内の甕(かめ)等に、水を貯え十日ほど籠城を続けたが、水の渇望により、二月十五日に城を開き武田の軍門に降った。 またしても徳川の最重要拠点の野田城も、二俣城同様に水の手を断たれ落城したのだ。 野田城が墜ち、徳川勢は三河での合戦が不可能となり、武田勢は磐石と成った。 信玄は野田城を山県三郎兵衛に守らせ、自ら軍団を率い野田城の東に位置する、鳳来寺に軍を進めた。「御屋形さまは何処に向われるのじゃ」 将兵達は次の目標を岡崎城と思っていたので、全員が不審そうにしている。 鳳来寺は由緒ある山寺で、鳳来寺山の山頂付近に建てられ真言宗の寺院である。 本尊は開山の利修上人の作で、薬師如来が祀られてある。 寺の本堂に至るには千数百段の石段を登らねばならない、途中の参道は鬱蒼とした霊木の杉林に覆われ、大木は緑に苔むし尊厳な雰囲気が漂っている。 武田軍団は山裾や峰々の林のなかに宿舎を建て滞陣した。「御屋形さまに何が起こったのじゃ」 全将兵が不審を感じていた。 「いや、戦勝祈願と聞いておるぞ」 それぞれが密やかに語り合っている。 信玄は野田城攻略後、ほとんど誰にも姿を見せることがなかった。 寒気で風邪をこじらせ、労咳がいっそう悪化していたが強靭な気力で保っていたのだ。 「余は死なぬ」 何度となく信玄は気力を奮い立たせていた。 馬場美濃守と高坂弾正、警護頭の今井信昌の三名は信玄の病を知っていた。
May 19, 2015
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「信玄の戦略」(112章) (三河、野田城攻め)にほんブログ村にほんブログ村 大久保忠世の槍の柄で尻を突かれた馬が、狂ったように駆けている。 その鞍上で家康は、恐怖で身を強張らせている。 人間とはこうした生き物かも知れない、一度、恐怖に陥ると正常な精神に戻れないようだ。 後方から戦場のどよめきが追いかけるように聞こえてくる。 家康はその場から逃れようと必死で馬の首にしがみついている。「徳川家康殿、馬を返されよ。見参」 地鳴りと馬蹄の音で家康が振り向いた。後方から赤備えの一団が黒雲の如く追撃し、大兵の武者が大身槍を旋回させ、大音声を挙げて迫って来る。「奴が武田家の猛将、山県三郎兵衛昌景じゃな」 家康は瞬時に察したが、恐怖が先に身内を駆け抜けた。 家康の周囲を十数騎の警護の旗本が駆けていたが、その声に引き寄せられ、数名が馬首を返し猛然と穂先を合わせたが、瞬時に血煙と苦悶の声を漏らし、突き伏せられ、路上に転がり落ちた。 まるで赤子の手を捻るような手並みを見せられた。「馬を返されよ」 山県昌景が、羅刹のような野太い声を挙げ、家康の許へと接近して来る。「殿っ、早くお城にお戻り下され」 幸運にも前方から出迎えの騎馬武者が現れ、怒涛の勢いで赤備えの一団に、衝き掛かったが、手もなく馬上から突き落とされた。 家康は馬の平首に顔を伏せ、懸命に逃げ惑った。 漸く彼の目前に浜松城の大手門が見えてきた。「助かった」 心中で叫び声をあげ、必死の思いで城門に駆けこんだ。「殿っ、ご無事にございましたか?」 守備兵が群って出迎えた。「無念じゃ」 家康は馬から転がり落ち、大きく息を吐いた。「殿っ-」 騎馬武者が一騎、血槍を抱え駆け戻ってきた。見ると大久保忠世の弟の大久保忠佐である、彼も全身血塗れで蘇芳色に染まっている。 大久保忠佐は豪胆にも、武田の赤備えに交って城まで戻って来たのだ。「篝火を増やせ。城門は閉じるな」 家康はあとから逃げ帰る家臣を思い、慌しく命じ奥に引き上げた。 こうして居城に戻り、人心地がついた。同時に彼本来の姿に戻った。 続々と敗残の将兵が逃げ戻ってくる、その中に酒井忠次が加わっていた。「武田の赤備えが襲ってこようが、決して城に入れてはならぬ、大太鼓を打ち鳴らすのじゃ。その方等は城門の翳に身を潜めておれ」 酒井忠次が下知し、大久保忠佐と左右の闇に身を隠した。 浜松城の大手門は、大きく開けはなたれ篝火が夜空を焦がしている。 怒涛の勢いで浜松城に迫った山県昌景が、手綱を引き絞って騎馬を止めた。 彼の眼前に赤々と燃えた篝火に照らされた城門が見えるが、一兵の守備兵も見当たらない。ただ、大太鼓の音が規則正しく不気味に響いてくるだけである。 流石に猛者で鳴らした赤備えも急迫のために、武者の集まりが間に合わない。(迂闊には城内に突入はできぬ、敵になにか策がありそうじや) 数々の合戦を経験した、歴戦の山県三郎兵衛が剽悍の眼差しで城内の異様な、雰囲気に気付いている。「ここでの無理押しは成らぬ」 山県昌景は無念の思い抱き軍勢を引いた。 これが歌舞伎で有名となる、「酒井の太鼓」であるが、武田勢が軍勢を返し、家康の首級を取らなかった事が謎である。 これには信玄にとり、のっびきならぬ要因があったのだ。 信玄は城攻めに時を掛ける事に、疑問を持っていたのだ。 それは彼の体調の所為である。 こうして家康は辛うじて助かり、湯漬けをかき込んで大鼾をかいて不貞寝を決め込んだ。 こうなったら為るようにしか為らぬ。その間に続々と敗残の将兵が引きあげ、全員を収容して城門が閉じられた。 こうして三方ケ原合戦は終息した。徳川勢戦死千三百余名、一方の武田勢は三百余名の損害を出したが、一方的な武田方の大勝利であった。 勝利を確信した信玄は、三方ケ原台地で陣形を整え宿営を命じた。 浜名湖より吹きつける寒風が、容赦なく武田の宿営地を襲い、幔幕が風に煽られている。 信玄は篝火を増やし、躯を暖めながら思案している。 このまま浜松城を包囲し落城に追い込むか、軍勢を西に向け三河の野田城を落し、岡崎城に攻め寄せるか。 野田城は三河湾に注ぐ豊川の近くにある要衝で北には長篠城が控えている。 その野田城を落せば、尾張と三河の国境近くの岡崎城は簡単に落とせる。 それは織田領と三河領の国境を確保し、家康を遠江に孤立させる策であった。 信玄の額に冷たい汗が滲んできた、顕かに体調に変化が起きているのだ。 呼吸をする度にぜいぜいと異様な音がする。「敵襲じゃ」 突然、先陣から将兵のどよめきが起こった。「何事か?」 「敵の夜襲かと思われます」 旗本の今井信昌が、落ち着いた口調で答えた。 馬場美濃守と高坂弾正の両将が、草摺りの音を響かせ本陣に現れた。「御屋形、徳川勢もなかなか遣りますな」 「夜襲と聞いた」「左様ですが、既に追い散らし申した」 馬場美濃守が騒ぎの報告を述べた。「誰じゃ、夜襲の大将は?」 「大久保党の当主、大久保忠世との知らせにございます」 かわって高坂弾正が答えた。 「家康め、若いに侮れぬな」「報せでは家康は逃げ戻り、湯漬けを喰らい大鼾で寝込んでおるそうです」 馬場美濃守の言葉に、瞬間、信玄が暗い眼差しをした。 信玄は我が子、四朗勝頼と家康を脳裡で比較したのだ。 家康は二十九歳、勝頼は二十六歳の筈である。 同年代の武将であるが、武将としての器量は家康が数段に勝っている。 それが虚しく思えたのだ。 籠城もせずに果敢に出戦した覚悟も見事であり、敗北した夜に夜襲を掛けるとは到底、勝頼には真似が出来まい。 そう思うと自身の病魔が忌々しいのだ。 だが夜襲の件は、大久保忠世が独断で実施した事であった。(合戦に敗れ、おめおめと手をこまねいては居れぬ) 三河武士の誇りを見せてやる、これが大久保忠世を駆り立てたのだ。 武田勢も家康もそれを知らずにいたのだ。「御屋形、お顔の色が優れませぬな」 馬場美濃守が不安そうに訊ねた。「両人、済まぬが甲冑を脱がしてはくれぬか。些か疲れた」 二人が甲冑を脱がせ、寝衣装に着替えさせ眼を見つめあった。 逞しい信玄の体躯から肉が削げ落ちている、信玄を臥所に寝かせ足音を忍ばせ本陣を去った。 「馬場殿、御屋形はご病気かも知れませぬな」「高坂、今宵のことは二人だけの秘密じゃ」 信玄股肱の宿老は不安を胸に秘め、引きあげた。 翌日、信玄は軍団の引き上げを命じた。 武田軍団は三方ケ原台地を西に向かい、刑部(おさかべ)の地に宿営した。 ここで天正元年の正月を迎え、一月十九日まで滞陣を続けるのであった。
May 14, 2015
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「信玄の戦略」(111章) (三方ケ原の合戦 3)にほんブログ村にほんブログ村 家康が掌に汗を滲ませ武田勢の動静を注視している。 馬蹄の音を響かせ物見の武者が駆け寄ってきた。「申しあげます。敵はこの台地の北端に陣を構え押し寄せて参ります」 絶叫するような声で武田勢の動きを報告した。「祝田を背に陣を構えたと申すか?」 かの地の背後には深い崖がある。追い詰め逆落とすれば勝機はある。 そこは犀ケ崖という地名で、家康の脳裡に一瞬勝利の望みが湧いた。「各陣営に伝えよ。これより合戦に入る、鉄砲隊の射撃を合図に鶴翼の陣で武田勢を押し詰めるのじゃ」「鶴翼の陣形にございますか?」 物見の武者が不審顔で訊ねた。 鶴翼の陣とは大軍のみが取りえる陣形である。 徳川勢の兵力は武田の三分の一に満たないのだ。 小勢の軍勢が鶴翼の陣形で合戦に及ぶなどは聞いた例がなかったのだ。「二度と云わせるな、鶴翼の陣形で臨むと各将に念を押すのじゃ」 家康が口汚く再度、念を押した。「畏まりました」 物見の武者が後方の味方の陣を目差して駆け去った。 家康にとり、この合戦は賭けであった。絹糸のように細い軍勢で以って三倍の武田勢を包囲し、三方ケ原台地の後方に押し詰める。 当然、武田勢は魚鱗の陣形で対応する筈である。 まさに家康にとり、これ以上、心細い合戦を行うなど考えもしなかった。 だが家康に残った戦術は、どう考えてもこの戦術しかないのだ。 信玄は根洗いの松の本陣の前の、大木の翳に寒風を避けていた。 彼は諏訪法性の甲冑と緋の法衣姿で、寒さよけに熊の羽織りを纏って床几に腰を据えている。 地鳴りような歓声と鬨の声が湧き揚がった、両軍の先鋒隊が接近したのだ。 徳川勢の将達は家康の下知で絹糸のように軍勢を薄く配置し、鶴翼の陣形で臨んでいた。小勢ゆえ、その戦術は悲壮極まる光景であった。 一箇所でも陣形が破られるなら、この合戦の帰趨は完全な敗北である。「敵勢に包囲網を破られては成らぬぞ」 徳川勢の将達は配下に厳命していたが、彼等にもどこまで通用するのか分からぬ状況であった。 徳川勢、一千三百名の将兵を率いた石川数正と、三千名を擁する武田の先鋒、小山田信茂の軍勢との激闘の幕があけた。「鉄砲隊、前進せよ」 石川数正が塁代の甲冑に纏い、鞍上から塩辛声で下知を発した。 それを合図に石川勢の鉄砲足軽が火縄銃を構え膝を地面につけた。 対する小山田信茂の采配が降られ、二~三百名の軍兵が姿を現した。 全員が胴丸のみを着け、腰に小刀と小袋をぶら下げた異様な一団である。「なんじゃ」 石川勢の鉄砲隊が不審声を発した。 その一団が俊敏に散開し、猛烈な勢いで石川勢の鉄砲隊に迫ってきた。 彼等こそが郷人原衆と呼ばれる、投石隊の礫の名人達であった。 投石隊の接近で石川勢の鉄砲の火蓋がきられた。「ごうー」 白煙と銃声の轟く中、郷人原衆は一斉に地面に躰を伏せた。 銃弾が彼等の頭上を通過するや、一斉に立ち上がり手の礫を投石した。「あっ」「痛い」 石川勢の鉄砲足軽が礫を顔面や肩に受け、悲鳴をあげて苦悶している。 致命傷には成らぬが、その威力は侮れない。 郷人原衆は小袋の石を投げ終り、一斉に後方に身を潜めた。「掛かれや」 小山田信茂が見逃さず、攻撃の命を発し、自ら先頭で石川勢に攻め寄った。 二倍以上の兵力をもつ、小山田勢が押し気味に戦闘を続けている。 長柄槍隊が突撃し、血刀を振り回す軍兵と軍馬が狂奔する。 味方の不利を悟った右翼の酒井忠次と、左翼の本多平八郎と織田の三将の勢が、小山田勢を押し囲むように猛烈な攻撃をはじめた。 芋を洗うような混戦の中、小山田信茂勢のみで徳川勢と渡り合っている。 他勢は、その合戦の様子を静まり返って見つめている。 小山田勢は徐々ではあるが、巧妙に軍勢を後方に引下げている。「敵は怯(ひる)んだ、押し返せ」 本多平八郎が愛用の槍を抱え、本多勢が猪突猛進した。 信玄の本陣から、法螺貝が勁烈な音を響かせた。 同時に静観していた馬場美濃守と高坂弾正の勢が、左右から徳川勢を押し包むように合戦に参加した。 流石に武田家の誇る歴戦の両将だけはある。 一気に徳川勢を翻弄し、将兵が剽悍な勢いで本多勢を蹴散らしている。「怯むな」 家康も自ら合戦に参加し、後詰の大久保、内藤、鳥居、榊原勢が三河勢の意地をみせ馬場、高坂勢めがけ雄叫びをあげ殺到した。 徳川、織田の連合軍は全てが合戦に参加したのだ。 まさに阿鼻叫喚の呈をようし、両軍の将兵が死力をつくして戦っている。 一旦、引いた小山田勢が息を吹き返し、再び攻めに転じた。 徳川勢も果敢に信玄の本陣を目指しているが、三倍の大軍の壁に遮られ苦戦に陥った。押しても引いても、まるで硬い壁のように跳ね返される。 武田の三将は互いに連携を取り、大きく戦線を広げ徳川勢を包囲しはじめた。 徳川勢は全軍が戦線に投入され、控えの兵力はないが、武田勢の半数以上は控えに廻り、合戦の帰趨を見つめ動こうとはしない。 本陣の信玄は百足衆の報告で全てを掌握している。「鉄砲を放て」 傍らに控えていた鉄砲足軽の火縄銃が轟音を響かせた。 馬場勢と高坂勢が一斉に軍を引き、小山田勢も戦線から離脱を図っている。 徳川勢が不審に感じた時、天地が蠢動した。地面が揺れ動く馬蹄の音である。 満を持していた武田勝頼と、甘利昌忠の率いる騎馬武者が、雄叫びをあげ、左右から突風のような突撃を敢行した。 それは最早、合戦ではなく殺戮場であった。血が飛沫、兵が転がり、軍馬が斃れ、至る所から苦痛と悲鳴、嘶きが起こっている。 そんな中、武田騎馬隊が縦横に駆けまわり、徳川勢を突き崩し追い廻している。 家康は先陣で愛用の槍を捨て太刀で阿修羅のように奮戦していた。 「殿っ、お引き下され」 榊原康正と大久保忠世が駆けより、無理やり家康を鞍上に乗せた。「まだ負けてはおらぬ」 家康が血塗れた太刀を振り廻し、猛禽のような眼で戦場を見廻している。 周囲は最早、絶望的な情況となっていた。 鶴翼の陣形はずたずた寸断されている。「本多殿と石川殿等が兵を収容しております。一時も早く城にご帰還下され」 榊原康正が襲い来る騎馬武者を大身槍で突き伏、叫んだ。 「ご免」 何か言わんとした家康を無視し、大久保忠世が槍の柄で馬の尻を叩いた。 馬が狂奔し戦場から駆けだした。「織田の将、平手汎秀(ひろひで)討ち取ったり」 戦場から勝ち名乗りがあがっている。 この一戦で徳川、織田の連合軍は完膚なく破れさった。「わっー」 突然、戦場の一角から喚声が沸き、武田の誇る最強の軍勢赤備えが、家康の逃げ去った方向に向かい疾走をはじめた。 先頭は山県三郎兵衛が、自慢の朱柄の大身槍を小脇としている。 三方ケ原合戦は一刻(二時間)ほどで終った。厚雲の間から真っ赤な夕陽が戦場を照らし出し、折れた槍や旗指物が散乱し、将兵の死骸や死にきれない負傷者や、大刀や槍で傷ついた軍馬が無残な姿を晒している。 家康は馬上で生まれてはじめて恐怖を知った。 あたりは逃げ惑う兵が充満している。 突然、兵等が恐怖の声をあげ街道から逃げ散った。 馬蹄の音か迫ってくる、後方をふり向いた家康は声を飲み込んだ。 武田家最強の赤備えの一隊が、追いすがってくる様が眼に入った。 家康は不覚にも、鞍壺に脱糞した事も気付かなかったと言う。
May 9, 2015
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「信玄の戦略」(110章) (三方ケ原の合戦 2)にほんブログ村にほんブログ村 この三方ヶ原は浜松城の北西に広がる東西二里半、南北約四里の平原である。 そこは農民達の入会地として使われている原野であった。 そうした地形の為に大軍を展開するには絶好の場所であった。 その頃、徳川勢一万余は浜松城を出陣し、武田勢の追撃に移っていた。 家康は浜松城を無視され、武将の誇りを傷つけられ信玄の策略に思いをよせる、心の余裕を失っていた。 徳川勢出陣する。その報告が信玄の許に届いていた。 「矢張り家康、出て参ったか」 信玄の頬に血色がもどってきた、戦国武将としての血潮が滾るのだ。 信玄は蕭然(しょうぜん)とした物寂しい冬の原野を進み、祝田の坂の手前、根洗(ねあらい)の松と云われる場所で軍勢を止め、魚鱗の陣形で徳川勢を待ちうけた。武田勢は松林に囲まれ、寒風を遮る場所に本陣を定めた。 本陣の横には苔むした石地蔵が祀られている。「風で躰が冷える、幔幕を巡らせ」 信玄は自分の体調をおもんばかっている。 床几に腰を据え前方に展開する、我が兵の動きを魁偉な眼を和ませ見つめた。 将兵の声、軍馬の嘶き、馬蹄の音が心地よく聞こえてくる。 猛然と軍勢の前後を駆け抜ける伝令の騎馬武者、穂先を天に向け配置に就く長柄槍隊の偉容、火縄銃を肩にした足軽、それら皆が頼もしく見通せる。 あの場所で徳川勢を蹴散らしてやる。その思いを秘め眺めている。 百足衆の一人、諏訪頼豊が馬蹄の音を響かせ駆けつけて来た。「敵勢は小豆餅付近に押し出して参りました」 騎馬が興奮し足掻いている。 「うむ」 信玄が大きく肯いた。傍らには馬場美濃守と高坂弾正の両将が控え、周囲には旗本の今井信昌、真田昌輝等が厳重に守りを固めている。「美濃、敵の陣形はどのようじゃ」「物見の報告では右翼は酒井忠次、中央は石川数正、左翼は本多平八郎と援軍の織田三将との事にございます」 馬場美濃守が臆する事もなく野太い声で報告した。「いずれも音に聞こえた豪の者じゃ、家康はどうじゃ?」「家康の本陣は中央に置いておる模様にございます。更に大久保忠世、内藤信成、鳥居元忠(もとただ)、榊原康正(やすまさ)等が控えておる模様にございます」「御屋形、敵は全軍で出撃したと思われますな」 高坂弾正が物柔らかな口調で信玄に声を懸けた。「一万の小勢じゃが、油断は禁物じゃ」「心得ておりまする」 馬場美濃守が簡潔に応じた。 家康は三方ケ原の入口で十町の距離をたもち、武田勢の動きを見つめている。「わしの下知まで待つのじゃ」 飽くまでも家康は慎重であった。 彼の目前には三万余の武田軍団が、ひっそりと山の如く横たわり、旗指物が無数に翻っている。その中に獲物を狙う猛虎が牙を剥いてひそんでいるのだ。 それが判るだけに攻撃の糸口を見え出せないでいる。「よう粘るわ」 信玄が感心の声を洩らした、たかだか三十一歳の若輩の家康がである。「既に攻撃態勢は整え申した、一斉に押し出しまするか?」 戦機を感じとっ歴戦の馬場美濃守が訊ねた。 突然に猛烈な寒風が三方ケ原台地を吹き抜け、薄暗い空に浮いた雲が流れ、真っ赤な夕日が両軍の陣を照らしだした。「陣形を変える。先鋒は小山田信茂の三千、右翼は美濃、そちが受け持て」「左翼はいかが計らいまする」 「高坂弾正、そちの勢に任せる」 風が唸り声をあげて吹き抜け、残照が雲間に消えようとしている。「更に中陣は勝頼と甘利昌忠の騎馬武者といたす、余の合図で進退いたせ」「これは、面白い合戦となりまするな」 高坂弾正が嬉しそうな笑いをあげた。「暫くは小山田勢に合戦を任せる、頃合をみて余の合図で右翼、左翼同時に仕掛けよ」 信玄が厳しい声で命じた。 「拙者と高坂がかき回し、その後に武田騎馬武者が片を付けまするか?」「その前に小山田信茂に郷人原衆を使えと伝えよ」「面白うございまするな」 馬場美濃守と高坂弾正が顔を見合わせている。 信玄の言う郷人原衆とは、二百から三百名の投石隊のことである。 この頃の火縄銃の射程距離、殺傷距離は明確な資料が乏しく説明が困難である。また実戦での弾込めの煩雑は著しく火縄銃の評価を低下させ、当時の大名は火縄銃の使用に消極的であった。 因みに2005年頃に行われた実験では、口径9mm、火薬量3グラムの火縄銃は距離50mで厚さ48mmの檜の合板に約36mm食い込み背面に亀裂を生じしめ、また厚さ1mmの鉄板を貫通した。鉄板を2枚重ねにして2mmにしたものについては貫通こそしなかったものの内部に鉄板がめくれ返っており、足軽の胴丸に命中した時には、深刻な被害を与えるのではないかと推測されている。なお、距離30mではいずれの標的も貫通している。 こうした理由で信玄も火縄銃を重要視せず、投石隊を編成していたのだ。 信玄が厳かな声で下知した。「両人とも部署につけ」 「畏まりました」 両将が草摺りの音を響かせ本陣から去った。法螺貝が炯々と鳴り響いた。「百足衆」 「はっ」 信玄の声で諏訪頼豊が姿を現した。 「軍勢をゆるやかに北西に移す、小山田勢に後備えを命ずる。祝田の北端まで移動したら、攻撃態勢を整える。さよう各陣に伝えよ」 百足衆が、本陣から猛烈な勢いで四方に散っていった。「誰ぞある」 信玄の声に旗本の真田昌輝が本陣に顔をみせた。「昌輝か、ご苦労じゃが山県三郎兵衛を呼んで参れ」 そうしている間にも、武田軍団はじりじりと陣を移動させている。「山県昌景にございます」 赤具足の甲冑姿の山県三郎兵衛が精悍な顔を現した。「そちに特別な任務を与える。すぐに合戦が始まろう、二陣の騎馬武者の攻撃が終ったら、そちの出番じゃ、家康の首を刎ねるのじゃ」「はっ。武者とし一期の誉にございまする」 山県三郎兵衛が畏まっている。「首は冗談じゃが、家康を執拗に追い回せ、浜松城に逃げ帰るまでじゃ」「機会がござれば、徳川殿の首級頂戴いたしても構えませぬか?」「それは最善の戦果じゃが、なかなか難しいじゃろう。余り深追いはするな」「畏まりました」 三方ケ原台地に風が強まってきた、空も薄雲から厚雲に変化している。 そろそろ夕刻が迫っている、徳川勢は移動する武田軍団を追いつつ戦闘態勢を整えている。陽が落ちれば戦力の差など問題ではない。 思わず家康が兜の眼庇より空を仰ぎ見た、急速に空が鈍色に変化してきた。 家康が待っていた夜の訪れである。 三方ケ原台地に夜の帳が訪れ、家康が前方を見て身震いした。 何時の間にか武田の大軍団が小山のように、家康の目前に接近していた。
May 5, 2015
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「信玄の戦略」(109章)にほんブログ村にほんブログ村 (三方ケ原の合戦) 元亀三年十二月二十二日の卯の刻(午前八時)、遂に信玄は全軍に進撃の命令を発した。ここに浜松城攻めが始まったのだ。 武田軍団三万余が山が崩れるように動きだし、南下を開始した。 信玄は甲冑の上に熊の羽織りをまとい塗輿に乗っての出陣であった。 法螺貝が秋葉街道の夜明けの山並みに炯々と響き渡り、武田二流の御旗が風に靡き、騎馬武者を先頭に大軍が粛々と進撃して行く。 鉄砲足軽が武田菱の旌旗を差し、黙々と鋭気を秘め足並みを揃えている。 武田勢の先鋒隊として小山田信茂率いる三千名が威風堂々と行軍し、盛んに母衣武者が、背の袋を風に膨らませ物見のために山間に消えて行く。 東の山並みが旭日で真っ赤に染まってきた。 信玄は輿の窓を開けた。 気の引き締まる冷気を躰に受け、信玄が朝焼けの光景に見入いった。 先鋒隊が天竜川を渡河し、街道を南下しているさまが望見できる。 信玄は暫くその様子を眺め、満足の笑みを浮かべた。 武田軍団動くの急報が、浜松城の家康にもたらされた。「とうとう、動きおったか」 家康が天守閣から北東の山間部を眺めやった。 物見が次々と騎馬を駆って武田勢の動きを知らせてくる、家康は小太りの躰を城門に移し、逐一、報告を受けている。 こうしたところが家康の性格であった。 身が強張るほどの恐怖と闘争心が家康の躰を駆け巡っている。「申しあげます、武田の先鋒は西ケ崎の村を通過いたしました」「なにっ、すでにそこまで押し寄せよったか?」 本多平八郎が唐の頭の兜と自慢の黒糸嚇し甲冑姿で真偽を糺した。 西ケ崎から浜松城までは二里の行程である。「矢張り浜松城に攻め寄せる魂胆ですか?・・・・殿、いかが為されます」 本多平八郎が兜を跳ね上げ、家康を仰ぎ見た。「為されます・・・・平八郎、なにを狼狽えておるのじゃ」「狼狽えてはおりませぬ」 本多平八郎が家康に食ってかかった。「喚いておる暇があったら、手勢を率いて物見をいたせ」 家康の口汚い言葉に、かっとなった平八郎が手勢を連れて駆け出した。 このまま武田勢に討ちかかり討死してやる。と、猪突猛進し敵勢に近づき、その武田軍団の偉容に眼を剥いた。 重厚な陣形の武田軍団が遠方から寄せてくる。衝きかかれば一瞬にして反撃を食らう、すきのない陣形で山のようにひた押しに寄せて来る。「これでは犬死にじゃ」 彼は猟犬のように、物陰から翳へと忍び武田勢の動きを見張っている。「なんじゃ、あの動きは」 浜松城の北方一里あまりの、有玉付近で武田勢が方向転換を始めたのだ。 通常の戦術なら軍勢を叱咤し、南西の浜松城へと怒涛の進撃をするのに、武田勢は西へと方向を変えたのだ。(三方ケ原台地に向かう積りじゃな)と、一目で悟った。「使い番、敵勢は有玉から三方ケ原に向かうとみた、殿にそのように伝えよ」 その知らせを受け、徳川の武将達が呆然と成った。 彼等にも武田軍団の異様な陣形が望見できるのだ、戦慄するような光景である。 数千頭もの騎馬武者が、整然とした隊形で彼等の目前を横切って行く。 足軽の長柄槍隊の穂先が、折から昇った太陽の光をうけて鈍く輝き引きも切らずに続いている。 まさに壮観な眺めである。 続いて武田随一の戦闘力を誇る最強の赤備えの騎馬武者が密集し現われた。「あれが、山県三郎兵衛昌景の赤備えか」 どこから眺めてもすきがない、先頭の駿馬に大兵の武将が大身槍を抱えている。 その武将が武田の猛将、山県昌景である。「伝令をだし、本多平八郎に城に戻るように申せ」 家康の下知がとんだ。「はっ」 母衣武者が猛然と城門から駆け去った。 「殿、出戦は無理にござる」「徳川殿、籠城のお下知を願いたい」 織田家の援軍の三将も必死で籠城を勧める。「信玄入道め、わしを挑発しておる。誘い出して殲滅したいのじゃ」 家康は信玄の挑発は理解出来る。併し、浜松城の西を悠々と横腹を見せ、通過する信玄の戦略に、武将としての誇りを傷つけられていた。 一方、信玄は病を持つ身での籠城戦は避けたかった。 両者が智嚢を絞って駆引きをしているのだ。 本多勢が砂埃をあで帰還してきた。 「殿、我等には手が出ませぬ」 勇猛で聞こえる本多平八郎までが弱音を吐いている。「ひとまず籠城じゃ」 家康は籠城を覚悟し城門を閉じるよう下知した。 なおも、武田軍団は続々と浜松城の徳川勢に横腹を見せつけ行軍している。「おうー」 突然、武田軍団から挑発するかのような鬨の声があがった。 浜松城の大広間で家康が歯噛みをしている。 漸く三河と遠江を手に入れたが、このまま手をださず武田勢に勝手な振る舞いをさせるなら、わしの信用はなくなる。 家康は眼を据え、胸裡で考え続けている。 三河武士の意地をみせる、これなくては徳川家の威信は地に落ちよう。 この地の豪族の信を得る事が出来ずば、徳川家はこのまま滅亡するのみじゃ。 家康の身内に狂気が充ち、立ち上がるや凄まじい声を張り挙げた。「石川数正っ、わしは信玄入道と決戦に及ぶぞ」 「何を仰せになられます」 真っ先に織田家の三将が止めに入った。「ここは、われらが領土。合戦が出来ぬと申されるならばお帰りあれ」 初めて家康の顔が乾いて見える。「・・・・」 その家康の剣幕の烈しさに、三将は沈黙した。「良いか皆共、わしは叶わぬまでも出戦いたし、信玄入道の本陣に斬り込む、皆も覚悟を固めよ」 家康の狂気がこの場の武将連にも乗り移った。「おうー」 雄叫びが大広間に響き渡った。 まんまと家康は信玄の挑発に乗ってしまったのだ、たとえ自分への誘いと分かっていても、黙って西に向う武田勢を見過ごす事が出来なかったのだ。 武田軍団は浜松城を南にみて北西の、祝田(ほうだ)の地に向かって方向を変えた。祝田は浜名湖の最北端にちかい位置にあり、その南東から上り坂が続き三方ケ原台地に至るのだ。
Apr 27, 2015
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「信玄の戦略」(108章)にほんブログ村にほんブログ村 (信玄の戦略と家康の戦術) 十二月十九日、守将の中根正照は城兵の命と引きかえに武田勢に下った。 こうして堅城で鳴らした二俣城は落城したのだ。 中根正照は武田家に人質を送り、家康の居城、浜松城に引き上げて行った。 その一行の様子を小十郎が、そっと物陰から窺っていた。 部隊の将兵の交じり、撤退する川田弥五郎の姿を見つけたのだ。 弥五郎は鹿毛の駿馬に騎乗し、昂然とした態度で鞍上で揺られている。(あのお方は如何される、まだ武田の間者で働かれるのか?) そんな思いで小十郎は、川田弥五郎を見つめていた。 中根勢は寒風の吹きすさぶ山道を、重い足を引きずって去って行った。 信玄は依田下野守に五百名の手勢を与え、城の修復と守将を命じた。 信玄は久しぶりに合代島の本陣を引き払い、二俣城を本営とした。 彼の心身も限界にちかい疲労が蓄積していたのだ。 その晩は誰も近づけず、一人で酒を嗜み安眠した。 翌日、急報がもたらされた。 織田信長の救援部隊が浜松城に入城した、その報せであった。 城内の大広間には信玄をはじめとし、上洛軍の武将が全て集まっている。 信玄の体躯に鋭気が満ち溢れている、屋根のある部屋で安眠した所為だ。 「増援部隊の将と人数はどうじゃ?」 信玄になりかわって勝頼が訊ねた。「佐久間信盛、滝川一益、平手汎秀(ひろひで)の三将と三千名にございます」 報告の者が下座から織田勢の加勢の状況を述べた。「美濃を侵され、信長、臆したな」 信玄には信長の心境が手にとるように判る。 信長め、奴は四面楚歌の状況じゃな、たかだか三千の援軍で何が出来る。 せいぜい籠城いたし、合戦を長びかせる積りじゃ。「これで浜松城には、一万一千名が籠もる事になりましたな」 高坂弾正が不敵な面魂をみせ、信玄に語りかけた。「これが籠城ともなると些か面倒じゃ」 馬場美濃守が顔を曇らせた。 美濃守の言う通り、家康が籠城戦を挑むと落城まで数か月かかる。 信玄が広げた大地図を仔細に見つめ、巨眼を鋭く瞬かせた。「三河、遠江の徳川の支城はほとんど潰した。浜松城は孤城じゃ」 信玄が絵図から顔をあげ、野太い声を馬場美濃守に懸けた。「はい、健在な城は遠江では高天神城、三河では岡崎城と野田城のみ」 馬場美濃守が素早く答えた。 「浜松城の抑えには、六千も配置いたせば家康動けぬな」 信玄が馬場美濃守を見つめ含みのある事を述べた。「御屋形は、浜松城を攻めずに素通りいたすと申されますか?」 流石は歴戦の将、馬場美濃守である。信玄の言葉の裏を読み取った。 「美濃、余の戦略は三策ある。ひとつは浜松城を素通りいたし野田城を攻める。いまひとつは秋葉街道を北上し東美濃から一気に岐阜を衝く」「それは、・・・」 馬場美濃守が唸った、満座の武将達も唖然としている。 野田城は豊川の上流の西にある城で南下すれば三河湾に至る。 そこを我が勢が占拠すれば三河と遠江を分断出来る。 そうなれば家康は遠江の浜松城で孤立してしまう。 もう一策は直接、家康など気にせずに信長の本拠地の岐阜を攻めると御屋形は云うのだ。 信長が援軍を三千しか出せぬと言う事には訳がある。彼は近畿の信長包囲網で身動きが不可能と成っているのだ。 これはこの場の武将達にも理解は出来る。 三河、遠江を放って信長の居城、岐阜城を直接攻撃すれば天下は望めるが、あまりにも無謀過ぎる戦略である。 それを遣れば物資の補給が途絶える恐れがある。「して、最後の策は」 信玄が薄い笑いを浮かべ、質問を発した勝頼を見つめた。 「家康次第じゃ。奴め若いに似ず強情、討って出るやも知れぬ。それなれば上策じゃがな」 「討って出まするか?」「勝頼、武将は信用が一番。弓取りとして諸国の武将に笑われては失格じゃ」 一言、父親として勝頼に薫陶を与えている。「叶わぬまでも家康は我等と合戦に及ぶと、御屋形はお考えに御座いますか」「余が家康ならばそういたす」 信玄が強い口調で言い切った。 勝頼はじめ諸将連も、信玄の洞察力に勝る者は居ない。全ての者達が信玄の答えを待っている。「今宵はこれまでじゃ」 信玄の顔に疲労の色が濃く滲んでいた。 馬場美濃守と高坂弾正が顔を見合わせた。二人は信玄の顔色の悪さで何事か察したようだ。 武田軍団は二俣城から、動く気配もみせず山のように不気味に居座っている。 一方、浜松城では織田家の三将を交えた軍議が開かれていた。「徳川殿、信長公のお考えをお伝えいたす」 援軍の佐久間信盛が、信長の考えを告げた。「このまま籠城をお願え申す」 これが信長の伝言であった。 信長の真意は徳川勢が、浜松城に籠城する事にあった。遠江を席巻した武田軍団は、三河に進攻するか本国にもどるかだろう。戻るなら戻らせる。 万一、武田勢が三河領内に進攻するとなると浜松城の籠城が生きてくる。 今、信長は必死で態勢を建て直している、これが完了した暁には総力をあげて三河に討って出る。そうなれば浜松城と連携し武田勢を挟撃できる。 そうした事態となれば武田軍団に勝利する可能性の目がでる。 それは家康とて十分に判っている事であった。 だが、徳川の領土を信玄の思うままに蹂躙され、三河の諸城は戦わず降伏するなどは、なんとしても避けたい。 武将の意地をみせ、家康の存在を示さずば男がすたる。 家康は信長の要請と自分の意地との狭間で、迷いに迷っていた。 今朝の物見の知らせでは、武田軍団は二俣城から動く気配がないという。 家康の決意が固まった。「存念を申す。武田勢が浜松城に攻め寄せよせるなら、三河武士の誇りかけて決戦をいたす」 家康が甲高い声で叫び、一座に異様な空気が流れた。「徳川殿、それは出戦という意味にござるか?」 滝川一益が鋭く訊ねた。「左様、叶わぬまでも武田勢に打撃を与え、素早く籠城いたす」 織田の三将は籠城策を聞き、家康の戦術に乗ることに決した。
Apr 22, 2015
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「信玄の戦略」(107章)にほんブログ村にほんブログ村 (弥五郎の伝言) 翌日、城攻めがはじまった。武田の鉄砲足軽が物陰を利して接近した。 城内の将兵も気づき、武者走りで鉄砲の標準をあわせている。 山県勢の赤備えが銃弾の届かない地点に待機している。 山県三郎兵衛が采配を手にし、大手門を鋭く見つめている。 傍らに小十郎の貧相な姿があった。 「小十郎とやら、川田弥五郎から連絡があったら直ぐに兵を退く」「畏まりました。顔さい覚えれば結構にございます」 相変わらず、抑揚のない声で応じ、「山県さまは川田さまをご存じにございますか?」 小十郎が低く訊ねた。「逢うてみなければ分からぬ」「それは面倒にございますな」 そう小十郎も答え、内心は三郎兵衛門さまと同じじゃ、と思った。(今川家に居った時の川田さまの顔はすっかりと忘れてしもうたわ)「大殿を駿河に追放した時に顔を見た。まだ年端もゆかぬ少年であった」 山県三郎兵衛の脳裡に、川田弥五郎の幼い顔が浮かんだ。 あれは天文十年であった、既に三十年も経ているのだ。「生きておれば、何か動きがあろう」 小十郎の相手をしながら、三郎兵衛が前方の武者走りを鋭く見つめている。 寒気と共に風向きに変化が生じ始めた。 山県三郎兵衛の采配が振られ、待機していた鉄砲足軽が前進を開始した。 物頭が素早い動きで先導し、その後を足軽が追走している。「放てー」 山県三郎兵衛が大音声で叫んだ。 凄まじい銃声が、二俣城を囲む山々に響き渡り白煙が湧き上がった。 それに呼応するかのように二俣城内からも応戦の火蓋がきられた。 双方とも射撃戦となり、大手門前は硝煙が充満し視界が遮られている。 今が好機じゃ、そう山県三郎兵衛は瞬時に感じた。「者共、攻め寄せよ」 山県三郎兵衛が潮時と見て、大身槍を手に白煙の中に向って馬腹を蹴った。 喚声と軍馬の嘶きと馬蹄の音が入り混じり、あっという間に大手門に接近した。 流石は剽悍で聞こえる赤備えの山県勢である。 双方の銃撃が、益々、烈しさをましている。 山県三郎兵衛が、小十郎を従い大手門を横切った。 突然、彼の肩先を一本の矢が空気を切り裂き飛来し掠め去った。 山県三郎兵衛が手綱をしぼり兜の眼庇より、きっと矢の飛来した方角を見据えた。城内から渋い声が懸かった。「山県殿とお見うけいたした。仕留める事が出来なんだとは些か残念」 城門の上に一人の武者が現われた、その兜のなかの顔に笑みがある。「何者じゃ」 三郎兵衛が剽悍な眼差しをみせ吠え、小十郎がじっと武者を見つめている。 「徳川の軍監、川田弥五郎。この顔忘れるでない、今度会ったら命を頂く」 喊声の轟く中で武者が名乗りを挙げた。 紛れもなく川田弥五郎と名乗った。「小十郎、しかと見たか?」 「はっ、今宵、城内に忍び込みます」(矢張り面影は残っておる)と小十郎は確信した。 山県三郎兵衛が片手を大きく振って、引きあげの合図を送った。 赤備えが一斉に馬首を返した。 弥五郎に違いない、三郎兵衛は先刻の顔を懐かしく思い浮かべていた。 日没ともなると、二俣城は寒気に覆い尽くされる。谷底から風が吹きあがってくる所為である。暗闇をぬって小十郎の躯が、素早く城内に消え失せた。 周囲に人気がないことを確認し、彼は大手門に向って疾走した。 この寒気の夜に一人の武者が闇にまぎれて立ち尽くしていた。「川田さまに御座いますか?」 物陰に潜んだ小十郎が武者に声を潜めて訊ねた。 「信虎公の使いの者か?」 「小十郎に御座います」「わしは、そちを知らぬな」 そっけない返事が返ってきた。「お弓殿の配下に御座る」 「近くに寄れ」 慌しい会話を交え弥五郎の声が途絶え、小十郎が傍らに寄り添っていた。 「驚くほど身軽じゃな」 「忍び者に御座います」 小十郎の答えに弥五郎が不審げな顔をした。「川田さま、それがしをお忘れか?」「・・・どこぞで逢うたか?」「駿府城で何度かお会いいたしましたぞ」 小十郎の言葉に弥五郎は何の反応も見せず、短絡に訊ねた。「何が知りたい」 「城の井戸の数」 「水の手を断つか、笑止」 風が吹きぬけ、城内の各所には篝火が焚かれ、火の粉が舞っている。「我等の計略が可笑しゅうござるか?」 小十郎が怒気を含んだ忍び声で訊ねた。「この城に井戸なんぞあるものか、城の下は川じゃ。大櫓を組んでそこから毎日汲みあげる」 川田弥五郎が周囲を警戒し小声で告げた。「成程、その大櫓を壊せば城は干しあがりますか。その手立てを教えて下され」「その前に聞く、大殿の信虎公はお元気か?」 弥五郎の声に懐かしさが込められている。「八十才を越えらましたが、お元気で京に暮らして居られます」「そうか、京に居られるか。お会いしたいものじゃ」 川田弥五郎の声が湿って聞こえた。「川田さま、武田家にお戻りには為られませぬか?」「わしは信虎公の家来じゃ、今更、戻れぬ。良いか上流で大筏(おおいかだ)を組んで何艘も流すのじゃ。必ず大櫓に追突いたし壊れる筈じゃ」「有り難し、早速、明日から掛かりまする」 小十郎が嬉しそうに言った。「小十郎、信虎公にお会いしたら、漸く大殿のお下知が果たせたと伝えてくれえ」「畏まりました。して貴方さまは如何成されます?」「徳川家に留まる、そうすれば信玄公のお役にたとう」「承知、そのようにお伝い申し上げます」「小十郎、見つかると不味い、去れ。お弓さまに宜しく申してくれえ」「分かりました。お礼を申しあげます」 抑揚のない声と同時に、小十郎の姿が闇に溶け消えた。 それを確認し、川田弥五郎は甲冑の音を響かせ持ち場にもどって行った。 数日、何事もなく武田軍団は山の如く静まり、厳重な監視の将兵が風を避け屯している。 その様子を天守から眺めた、城主の中根正照は安堵の笑みを浮かべた。 流石の信玄も、この城には手を焼いておるなと感じたのだ。 そうした膠着状況の中で武田勢は、城の水の手を絶つ準備に追われていた。 城方の将兵が仰天する光景が、唐突に目前に起こったのだ。 何艘もの大筏が上流から押し寄せるように、天竜川の激流を流れ下ってくる。「敵の策略じゃ」 知らせを受けた守将の中根正照は望楼から眺め唇を噛んだ。 あの大筏が大櫓に激突すれば、大櫓は破壊され水の手が断たれる。 二俣城は大櫓から、釣瓶でもって飲料水を汲みあげていたのだ。 城を包囲する武田勢の将兵も、息を飲み手に汗を滲ませ見守っている。 白く泡立っ激流が岩にあたり、烈しく牙を剥く急流を大筏が流れるさまは、壮観、壮大な眺めである。 筏は激流にもまれ、岩に当たり砕けるものもあるが、何艘かは大櫓に激突し、大櫓がきしみ音を響かせ、今にも崩れそうである。 信玄は熊の羽織りを着込み帽子を深く被り、その光景を凝視している。 容赦なく天竜川の冷たい川風が吹きつのってくる。 これも父上の策と思うと自分の病魔に憤りを覚えていた。「わぁー」 大筏を見つめていた武田勢の将兵が歓声をあげた。遂に大櫓が崩れ水飛沫を挙げ天龍川に雪崩落ちたのだ。「これで二俣城は陥ちたな」 信玄は満足し本陣に戻った。 総大将の四朗勝頼と、援軍の山県三郎兵衛は一ヶ月以上も苦戦を強いられ、漸く水の手を絶つ事に成功したのだ。
Apr 16, 2015
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「信玄の戦略」(106章)にほんブログ村にほんブログ村 (武田勢、二股城に集結す)「御屋形、このまま一気に浜松城を攻撃いたしますか?」 馬場美濃守が本陣に駆けつけ、信玄に性急に訊ねた。「我等は一言坂より天竜川を北上し、合代島(ごうだいじま)に軍勢を進める」 信玄が気負いなく応えた。 「この機会を逃し、また北に戻りますのか?」 馬場美濃守は不審そうな顔付で信玄を見つめた。 襲い来た徳川勢を一言坂で一蹴したのだ。そのまま目前の天竜川を渡河し、軍勢を西南に進めれば、家康の本拠、浜松城は目と鼻の距離にある。 徳川勢は逃げ戻り、襲い来る武田勢への備えで城に籠っている筈である。「家康は肝を冷やしておりましょう」 馬場美濃守が浜松城を攻めよと暗に勧めている。「機会は何度でもある。天竜川の東北へ全軍を進め合代島に向うのじゃ」 信玄が濃い髭面を厳しく引き締め下知した。「眼の前に浜松城がございますのじゃ。このまま見逃すのは惜しゆござる」 馬場美濃守が納得できずに浜松城の攻撃を主張した。「美濃、わしは勝頼の将器を確かめたいのじゃ」「その為に二股城に退き返しますのか?」「二俣城を陥せば甲斐からの軍勢も合戦に必要な物資の搬入にも困らぬ」 信玄の言葉で美濃守は納得した。武田の輜重隊は秋葉街道を南下し、青崩峠、兵越峠を利用し誰はばかる事もなく物資を遠州に運べるのだ。 更に御屋形は跡取りの四朗勝頼さまの器量が見たいのじゃ。 漸く馬場美濃守は合点した。「二股城を落せば三河の豪族は我等に恭順いたそう。浜松城はそのあとでよい」 信玄は武田の全軍でもって徳川家を滅ぼす腹であった。「戦略とは面白きものにございますな」 戦わずに三河一帯を手に入れる、戦略を改めて美濃守は感心の面持で聴いた。 武田本隊は浜松城を目前にし、全軍が横腹を見せ天龍川の東の街道を北上し、遠ざかって行く。何千頭の騎馬武者を先頭に、真ん中に武田二流の御旗が風に靡き、輿が担がれている。そこが信玄の本陣であると誇示している。 武田勢の行軍を見事な光景であった。先頭から後尾まで余す事もなく見せ、徳川勢と家康は呆然とした思いでそれを眺めていた。 武田勢は途中で遮る、徳川の支城、匂坂城を包囲し瞬く間に攻略し神僧を越え、二十日に合代島に着陣し、そこに信玄の本陣を構えた。 ここから北西、約一里半に二俣城がある。武田、徳川にとり二俣城は重要な城である。 家康は危険を犯し何度も救援の軍勢を繰り出すが、途中ですべて遮られる。 それでも一向に苦にせず、何度でも兵を繰り出してくる。 若いに似ず合戦を知っておる、信玄が感心するほど執拗であった。 二股城の将兵の士気も盛んで、攻城の総大将勝頼を大いに悩ませているが、力攻めで陥せるほど簡単な城ではない。 天然の要害に護られた堅城であった、大手門へは坂道が一本あるのみである。 山県三郎兵の赤備えも何度なく攻撃したが、急坂の小路で思うように騎馬が操れずに、攻撃が頓挫していた。 日増しに冷気が厳しくなって来た、既に十二月を迎えているのだ。 信玄の本陣から見える景色は、常緑樹と落葉樹の木々が見られるだけである。 まさに殺風景な光景が広がり、寒気のみが烈しくなっていた。 そんな折、東美濃の秋山信友の使者が到着し、朗報がもたらされた。「秋山伯耆守の家臣、磯辺盛信にございます。遂に岩村城を攻略いたしました」「岩村城を手に入れたか」 信玄にとってはまさに快挙の知らせである。「我等は岩村城に籠もり、信長の出方を窺がっておりまする」「よく遣ったと伯耆守に申せ。こののちは慎重に行動せよ、なんと申しても信長の膝元じゃ。機を見て明智城をも攻略いたせと伝えるのじゃ」「畏まりました」 使者の磯辺盛信が、荒武者らしい面構えで答えた。 東美濃の岩村城が我が手に陥たならば、足元に武田勢がひそんだことになる。 益々、信長の奴は三河への救援部隊を出し難くなる。「軍兵が必要となったら、内藤昌豊に相談いたせ。余から内藤に申しておく」「判りましてございます」 信玄は使者に引出物を与えて帰した。 流石は、秋山信友じゃ、奴が暴れるほど信長は岐阜から動けぬ事になる。 信玄は使者を返し思慮している。 この秋山信友は猛将として知られていた。岩村城主は信長の叔母が、信長の末子、勝長を養子として守っていたが、秋山信友が城を攻略し、勝長を養子とすると偽って女城主を妻とした。 信玄死去後も岩村城に籠もり、明智城ほか数城を陥し、長篠合戦後も信長と攻防を繰り返した武将であった。 ようやく信玄の考えが纏まった。「誰ぞ、二俣に使いを出せ。勝頼と山県三郎兵衛に直ぐに参るよう伝えよ」 一人となり信玄が咳き込んだ、また病魔が蠢きだしたな。あと二年じゃ。 なにとしても命を永らえる、信玄は祈る思いで心に決した。 勝頼と山県三郎兵衛が騎馬で駆けつけて来た。二人は深刻な顔付をしている。 また叱責を受けると覚悟した面魂である。「馬場美濃守と高坂弾正を呼んだ、暫く待て」 「はっ」「勝頼、そちに訊ねる。二俣城は飲料水の確保をいかがいたしておる」「しかと確かめてはおりませぬが、二股城は二つの川に囲まれておりまする。飲料水には事欠かぬと考えておりまする」 勝頼が当然至極とした顔つきで答えた。 山県三郎兵衛がはっとした顔つきを見せた。「馬場美濃守、高坂弾正入りまする」 野太い声と同時に二人が姿をみせた。「皆、揃ったな、これから申す事を良く聞くのじゃ」 信玄が四人の顔を見渡し、河野晋作から聞いた川田弥五郎の件を語り聞かせた。「これは驚きましたな、大殿はこの事あるを予測し、川田弥五郎を徳川家に潜らせておられましたか」 馬場美濃守と山県三郎兵衛が驚いた顔をしている。「余と美濃に三郎兵衛しか弥五郎の事は知らぬ。弥五郎は父上の小姓として駿河に参った、生きておれば幸いじゃ。早速、明日にでも城攻めをいたせ。 河野の忍び者を差し向ける」 「拙者が、城攻めを行いまする」 山県三郎兵衛が剽悍な眼差しで請負った。「あの少年が二股城に潜みおるとは、思いも及ばぬことにございます」 馬場美濃守が往時を偲ぶ眼差しをしている。「父上の為にも二股は直ぐにも陥せ」 信玄の下知が四人の腹に凛として響いた。
Apr 13, 2015
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「信玄の戦略」(105章)にほんブログ村にほんブログ村 (一言坂の合戦)「これで二俣城への兵力は、一万四千と成ったか」 宿舎の中で信玄が独り言を呟いた。 山県三郎兵衛昌景が戻ったことは心強い。あの男の事じゃ遮二無二、敵城を落さんと攻撃いたすであろう。 武田勢、最強の赤備え隊が戻って来たのじゃ。 信玄が囲炉裏の炎を見つめ、薄く破顔をした。 翌日の十月十三日、武田勢は陣形をととのえ、太田川を渡渉(としょう)し、見附方面に進撃を開始した。 先鋒は歴戦の猛将、馬場美濃守信春の軍勢である。 徳川勢との遭遇戦を予期した陣形で、襲いくれば一気に壊滅を計る戦術をもってのことであった。 一方、徳川勢は、その日の早朝三千の軍勢を浜松城から東に向け出撃させた。 目指は見附の地に滞陣する武田本隊の主、信玄の首級である。 総大将は大久保党の党首、大久保忠佐(ただすけ)が指揮を執っていた。 副将として本多平八郎忠勝が従っており、内藤信成の勢も加わっている。 朝日が昇り空が茜色に染まってきた、真っ向から陽を浴びての行軍である。「急がねばならぬ」 大久保忠佐が空を仰ぎ見て騎馬を急がせた。 この態勢で敵に遭遇すれば勝ち目はない。朝日の為に敵勢の動きが見えぬ。「一言坂を越え、見附に近い地点に布陣ですな」 若い本多平八郎が、黒糸嚇しの具足に唐の頭(からのかしら)を付けた鹿角の兜姿で騎馬を寄せて訊ねた。「平八郎、主は内藤勢と見附方面の物見をしてくれぬか」「承知いたしました」 本多平八郎が自慢の大身槍を抱え、すぐさま物見の為に先行して行った。 本多、内藤率いる偵察隊が一言坂の難路をのぼり終えた時、武田勢の先鋒と遭遇した。 それを見た偵察隊は干戈を交えずすぐに退却したが、馬場勢は素早い動きで徳川勢を追撃し、太田川の支流の三箇野川や一言坂で激戦が始まった。 前方には武田本隊一万九千名の精鋭が、山のように静まり布陣している。 それは朝日を背にし黒々とした小山のように見えた。 その鋭気が、ひしひしと徳川勢に感じとれる。 喊声と鋼の音が響き、後方の大久保忠佐は敵勢と合戦が始まった事を知り、全軍を急がせ一言坂に軍勢を集結した。「見事じゃ」 大久保忠佐が、栗毛の駿馬に跨り、鋭く敵陣をみつめ呟いた。「後れをとりました」 本多平八郎が自慢の大身槍を抱え駆け寄ってきた。「打ち破られると、天龍川の手前で全滅ですぞ」「平八郎、ここは引けぬ。三河武者の意地をみせるのじゃ」 大久保忠佐が陣形を固める下知を下した。一気に戦機が盛り上がった。「内藤信成(のぶなり)一千で押し出せ」 「心得申した」 内藤勢が長柄槍隊を先頭に、整然と足並みをそろえて押し出した。 徳川勢から士気を鼓舞する、法螺貝が朝の冷気を破って鳴り響いた。 信玄の本陣から百足衆が駆けだし、先鋒の馬場勢に駆け込んだ。 馬場美濃守が采配を振った。鬨の声があがり、一斉に先陣が動き出した。 先鋒の馬場勢のみが前進し、武田本隊は山のように静まりかえっている。 まるで隙がない武田軍団の前で、内藤勢の足が止まりかけている。 「仕掛けよ」 見逃さず馬場美濃守の戦場焼けした下知が響いた。「おうー」 三千名の武田勢が雄叫びをあげ、内藤勢に突きかかった。 長柄槍が交差し、怒号、喚声、悲鳴が沸きあがり混戦となったが、瞬時に内藤勢が崩れたった、まるで赤子の様に鎧袖一触で蹴散らされた。 馬場美濃守が、黒糸嚇しの甲冑姿で騎馬を駆けさせ、巧に徳川勢を押し詰めている。「内藤勢を見殺しにするな」 大久保忠佐が栗毛の馬で混戦に割り込んで行った。 三千対三千の戦いとなったが、武田勢の本隊は攻撃する気配も見せない。「おのれ」 本多平八郎が歯噛みをし、自慢の大身槍で武田の足軽を瞬く間に、三名突き殺し血ぶるいし荒れ狂った。 気がつくと本多勢は、一言坂近辺まで押し詰められていた。 まるで兵士の強さが違う、武田勢は全て歴戦の猛者であり、戦いを足軽一人一人までが知っている。 お互いに連携したり、一人となって突きかかり、自在に動いている。 敵将の馬場美濃守の巧みな采配で、徳川勢は散々に討ち取られ、混乱のなかで敗走に移った。「掛かれ。掛かれや」 馬場美濃守の声が戦場に鳴り響いている。「我等が殿軍をいたす」 本多平八郎が手勢を集め、叫ぶと同時に一斉に討って出た。 大久保勢と内藤勢の敗残兵が顔を蒼白にし、坂道を転がる様に逃げ下っている。この合戦で本多平八郎の奮戦は目をみはるほどであった。 彼の働きで辛うじて徳川勢は、全滅をまぬがれたのだ。 本多平八郎は大久保忠佐と内藤隊を逃すために殿軍を務め、一言坂の下という不利な地形に陣取った。 急戦で陣形も固まらぬ本多勢を、武田先鋒の馬場美濃守は容赦なく突撃し、三段構えの陣形のうちの第二段まで打ち破った。 また信玄の近習である小杉左近は、本多勢の退路を阻むため本多勢の後方、一言坂のさらに下に先回りをし、鉄砲を撃ちかけた。 武田本陣から法螺貝が鳴り響き、馬場勢が一斉に軍を止めた。「無念じゃ」 本多平八郎は手勢をまとめ、一言坂を下り敵勢の様子を眺め切歯扼腕した。 虎が猫を弄ぶように、先鋒の馬場勢は動きを止め、我が勢を嘲笑している。 天地が沸騰するような勝鬨があがった。「最早、これまでじゃ」 覚悟を定めた本多平八郎は大滝流れに陣をとり、坂下で待ち受ける、小杉勢が攻め寄せて来た、平八郎は兵を督励し敵中突破し逃走を計った。 これは無謀な突撃で本多勢は死兵であったが、左近はこれを迎え撃たず、道を空けるよう下知して本多勢を見逃したのだ。 死兵と化した軍勢に当たる馬鹿はいない。左近はそう見極めての事である。 このとき平八郎は、小杉左近に名を聞き感謝の言葉を残したと言われる。 こうして徳川勢は死傷者六百名をだし、ほうほうの呈で浜松城に逃げ戻った。 完全に緒戦は完敗であった。 だが本多平八郎忠勝の奮戦は敵味方の目をひいた、武田家の小杉左近は、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭と本多平八」と一言坂に、この狂歌を書き記した表札を残したと云われる。 唐の頭とは、中国から渡来した、ヤクの毛で高価で知られていたのだ。 こうして本多平八郎の働きで徳川勢は無事に天竜川を渡り切ることに成功し、撤退戦を無事に終了させたのだ。
Apr 4, 2015
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「信玄の戦略」(104章)にほんブログ村にほんブログ村 (二股城に山県勢が合流する) この辺りは真冬でも遠江で聞こえた温暖な気候の一帯であった。 武田勢は宿営地の中で特に日当たりの良い場所に信玄の宿舎を建てた。 わざわざ甲斐から運んだもので、簡単に組み立てられるものである。 内部は四畳半ほどの広さで、囲炉裏も設えてあった。 その宿舎で休息した信玄の体調もいくぶん回復した。 翌日の昼過ぎに、信玄の思惑どおり武田水軍が太田川を遡り、駐屯地の近くに兵糧、武器弾薬の類を満載した五十艘の軍船が到着し、盛んに物資の荷揚げを行っている。 その日、勝頼の使い番が駆けつけ、只来城を陥落させ二俣城を包囲したとの知らせが届いた。「御屋形、四郎勝頼さま遣りましたな」 馬場美濃守が満面に笑みを浮かべている。「美濃守、浮かれるな。甲斐を出てから九日ぞ、御旗通り速く動かねばな」 信玄が不機嫌な顔付をしてたしなめた。『疾きこと風の如く、徐かなること林の如し、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し』 この言葉が武田家の戦訓である。「御屋形、それがしは合戦で浮かれた事なぞございませぬぞ」 馬場美濃守が、いつもの厳つい面魂で信玄に噛み付いた。彼は勝頼の緒戦の勝利が嬉しかったのだ、それは信玄の胸裡を知る、美濃守だけに分る喜びであった。それを浮かれるなとお叱りを被とは解せぬ。「美濃、余が悪かった。許せ」 信玄も馬場美濃守の胸中は分る、それ故に率直に詫びた。「御屋形が、詫びられるなら、なにも含むところはございませぬ」 馬場美濃守信春が、具足の草摺の音を響かせ足早に宿舎を去った。「ご免っ」 代わって小荷駄奉行の浅利昌種が、箱を抱えて姿を現した。「何かございましたか?・・馬場さまが顔を赤くされておられました」「余の軽率な言葉で気を悪くさせた、浅利、何か急用かの」「水軍は荷を降ろし帰還いたしました。これを、御屋形さにとことづかりました」 信玄が箱の中を見ると、熊の毛皮で作った羽織であった。 「これは、有り難い」 信玄が手にとり眺めている、ご丁寧にも大きな頭巾が付いている。「浅利、礼を申すぞ、これなら鎧の上からでも羽織れるな」「滅相な、これは古府中のお麻さまからの、差し入れにございます」「お麻が余のために縫ってくれたのか」 信玄の顔に血色がもどった。「ささ、羽織ってくだされ」 促され羽織った。「これは暖かい、お麻に礼状を書かねばならぬな」 信玄が上機嫌で熊皮の羽織を纏っている。 お麻が腹違いの妹であることは、信玄のみが知っていた。 楚々としたお麻の面立ちと母親似の眸子が懐かしく思いだされた。(お麻は父上とお弓の娘じゃ) かって躑躅ケ崎館で遭った、女忍びのお弓の容貌が過った。 そこに高坂弾正が緊張した様子で姿をみせた。「御屋形、家康、動く気配にございます」 「-・・・動くか?」「浜松城に不穏な動きがあると、物見より報せがございました」 高坂弾正が信玄を見つめた。この人物は信濃で越後勢と睨みあいの時期に海津城城代を務めた、無類の戦上手の武将である。「今宵は夜襲に気をつけよ、明日は見附まで進出いたす」 信玄が驚く様子も見せず、明日の戦術を告げた。「見附にございますか?」「そうじゃ」「見附から一言坂を下れば、眼の先に天竜川がございます。それを渡河すれば家康の本拠、浜松城は直ぐにございます。決戦を成されますか?」 高坂弾正の眼が生き生きと輝いている。「浜松城の攻略は、遠江、三河全土を手に入れた後と決めておる。まずは 二俣城を攻略いたす、それが片付かぬと兵糧が続かぬ。余は見附から天龍川の東を北上し神僧(かんぞう)を経て、合代島(ごうだいじま)に本陣を構える」 信玄は逸る高坂弾正を制し、自身の戦略を披露した。 これには信玄自身の考えがあった、二俣城は徳川の本拠、浜松城と支城の掛川城、高天神城を結ぶ要所で、家康にとって遠江支配の要であった。 家康は三河への対処などもあって、支城の兵力を集中出来ずにいる。 故に浜松城防衛の軍勢は八千人余しか動員できずにいたのだ。 信玄は家康の胸中を知り尽し、このまま二股城を攻撃すれば徳川勢は我等の動きを眺める以外は、ないと見通していたのだ。 それ故浜松城を目前にしながらも、二股城の攻略を企んだのだ。 「見附は天龍川を渡河した地点、徳川勢は必ずや、襲ってまいりましょう」 高坂弾正が厳しい眼差しをみせ断言した。「余は、それを待っておる。明日は臨戦態勢で進撃いたす」「見附の西に一言坂がございます。襲いくるには格好な地形にございます。恐らく徳川勢はその辺りまで押し出して来ましょう」「一言坂か、覚えておこう」 信玄が炯々と眼光を光らせ肯いた。「御屋形、今宵は篝火を増やし警戒を強めまする」 高坂弾正が足早に立ち去って行った。「いよいよ、合戦にございまするか、気が昂ぶりますな」「浅利、二俣城を陥せば、我等はこの地に居座り続けることができる。甲斐の残存部隊や兵糧、武器も秋葉街道を使えば補給も可能と成る」 信玄が満々たる自信を示している。「早く陥さねばなりませぬな。小荷駄奉行の務めは合戦より、気が重いものにございます」 浅利昌種の言葉は本音であった。「明日、勝頼に督励の使者を差し向けよう。それまでは気張れ」「はっー」 浅利昌種が強ばった顔つきで宿舎から去った。 本陣の幔幕の外は、信玄の旗本衆が厳重に警護し、さらに河野晋作配下の忍びも闇にまぎれ警戒している。 信玄は囲炉裏に手をかざし、何度も浜松城攻略の図上戦略を練っていた。 突然、馬蹄の響きと馬の嘶きが聞こえ、「何者かー」 と、警護の旗本の誰何(すいか)する声が響いた。「それがし、山県昌景が配下の海野信高にござる。火急の用で罷りこした」「馬場美濃守じゃ、火急の用とは何事じゃ」 馬場美濃守の戦場焼けした声が、宿舎まで聞こえてくる。「山県勢、先刻、長篠城より戻り、勝頼さまのご陣に加わり申した」「ご苦労、我等も二俣城付近に出る。それまでに城を陥せと三郎兵衛に申せ」「判り申した。御屋形さまには、よしなにお伝い下され」 慌しい、遣り取りが交わされ、馬蹄の音が遠ざかった。 山県勢は降伏した奥三河の山家三方衆を加え、六千名で勝頼勢と合流した。 これにより勝頼の軍団は一挙に一万四千名に膨れあがったのだ。
Mar 31, 2015
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「勝頼勢、二股城を攻撃する」(103章)にほんブログ村にほんブログ村 (武田勢、南下を開始する) 犬居城の城内外は武田勢の軍勢で埋め尽くされ、旌旗、幟、指物が風に翻っている。その光景は壮観そのものである。 軍勢の間を騎馬武者が砂塵を巻き上げ、連絡に駆けまわっている。 甲冑の音、兵士等の声、馬の嘶きが交わって潮騒と成って城内に聴こえる。「壮大な眺めにございますな」 天野景貫がその光景を天守から眺め、思わず感嘆の声を洩らした。「天野、励んでくれよ。余は馬場美濃守と話がある、座を外してくれえ」 信玄が天野景貫を退け、馬場美濃守と今後の話し合いを交わしている。「美濃、余は本隊を東南に向ける」 信玄が濃い髭跡をみせ断じた。「周智郡の天方城、飯田城を陥して南下為されますか?」 馬場美濃守が信玄の胸中を見透かすように訊いた。「我が本隊は袋井から見附に進撃いたす。そこに水軍も来る筈じゃ」「十分な補給を行い、家康を葬りまするか?」 馬場美濃守の言葉に信玄が頬を崩した。 馬場美濃守の推測通り、信玄は補給物資の搬送を陸路は少なくし、水軍を活用する戦術であった。これなら小荷駄の数も少なく、それに要する人足、牛馬の数も少なく出来る。 家康の居城の浜松の東には、天下に名高い天竜川が海へと繋がっている。 武田水軍が天竜川を遡れば、見附の手前で本隊と合流できる。 その見附と天竜川の間に、一言坂と言う合戦に適した場所がある。「浜松の若造、城から打って出てるかの」 と、興味深い顔つきで美濃守に訊ねた。「家康のこれまでの合戦を見ますれば、必ず、打って出ましょうな」 馬場美濃守が、すかさず断言した。「余もそう思っておる、若いが合戦を知っておる」 信玄は思う、家康という若い武将は合戦の何たるを承知しておる。 奴が我が武田勢に一戦もせずに、浜松城に籠城するようなれば奴の将来はない。武将として生きる覚悟があれば、必ず我が軍勢に牙を剥くはずである。 三河、遠江の諸豪族も、全国各地の豪族も家康の行動を興味深く見ている。 敗北を覚悟して戦いを挑むことこそが、家康という武将の将来が拓けるのだ。 二人は、なおも語らっている。 「美濃、わしは勝頼に只来城と二俣城の攻略を命じた。勝頼の器量がいか程か見たいのじゃ」 「御屋形、二俣城は面倒な城にございますぞ、天龍川と二俣川との合流点、その崖上に築かれた堅城にございます」「承知の上じゃ。徳川にとり遠州平野の北の要の重要拠点、城主の中根正照(まさてる)は、なかなかの武将と聞いておる。じゃが二千の兵に手こずるようでは、勝頼の将来も先が知れよう」「恐れいりました」 馬場美濃守信春は勝頼を思う、信玄の親心を知らされたのだ。 信玄は一人となり、一心に書状をしたためている。京の将軍義昭、近江の浅井長政、特に念入りにしたためた相手は、越前の朝倉義景であった。 信玄は信長包囲網の強化を図っていたのだ、これが成功すれば、信長は家康への後詰が不可能と成る。 徳川勢が浜松城に籠っている間に、南方に点在する徳川家の支城を簡単に陥せる、それが信玄の上洛の戦略であった。「御屋形さま」 低い忍び声がした。 「河野か、姿をみせよ」 何時の間にか、河野晋作が部屋の隅に影の様にうずくまっている。 信玄は書状を丁寧に封をしながら、 「何か急用でも起こったか?」 と、かすれ声をかけ咳き込んだ。「京の大殿さまと山本さまの、言付けをお知らせに参上致しました」 信玄は、さり気ない素振りで懐紙で口を拭い、河野晋作に顔をむけた。「余になにを成せと仰せになられた?」 河野晋作は、二俣城に信虎が放った川田弥五郎の存在と、小十郎を伴ったことを告げた。 「・・・父上は恐ろしいお方じゃな」 信玄が、ぽっりと呟いた。数十年も前から、この事あると予測しての万全な手配りに、眼の覚めるおぼえがした。「まず、勝頼の力量をみる。余りにも損害がでるようなら父上の申された通り、そなたの伴った忍び者を使う」 「はっ、畏まりました」 返答した河野晋作には、信玄の顔色が蒼白にみえた。「河野、余がしたためた三通の書状を至急、義昭公と朝倉義景殿、浅井長政殿の許に届くよう手配いたせ」 蒼白な顔色の信玄が眼光を炯々と輝かせている。 河野晋作は何も問い質すことも出来ずに部屋を出た。「ふうーっ」 信玄が、大きく吐息を吐き、懐中から懐紙をとりだし眺めた。 微かに血糊が付着している。 「京に辿り着けるか?」 信玄が低く呟き、愛用の土瓶を使い、何時ものように薬を調合しだした。 この薬で、余は織田徳川の連合軍を破る事が出来るのか、黙然と考え続けた。元亀三年(一五七二年)十月十二日、武田軍団が山のように動きだした。 城内から陣太鼓の乱れ打ちが轟いた。 法螺貝が、びょうびょうと山々に響き渡り、武田本隊が整然と東に向かった。 先鋒は小山田信茂、原昌胤、高坂弾正、馬場信春。二陣は武田信廉、 武田信豊、土屋昌次、駒井昌直。脇備えとし、小山田昌辰、小宮山昌友、 真田信綱、原隼人。後備えは、浅利昌種、跡部勝資。 武田本隊は南東に大きく迂回し、破竹の勢いで天方城、飯田城、各輪城を一気に攻略し、軍団を西方に向け久野城を包囲した。 この地点は、現代の東名高速の袋井インター近くである。 その勢いは朝に一城、夕に一城を抜く勢いであった。久野城主の久野宗能は守りを固め、討って出る気配がない。「軍勢を袋井と太田川の中間に進めよ、そこで露営する」 たかだか五百名ほどの城を奪ったとて、何の益もない。信玄の下知を伝えるべく、本陣から百足衆が先陣に疾走してゆく。 武田本隊は、信玄の下知した場所に軍団を止め休息した。 更に十四日、二十七歳と成った勝頼は、八千の軍勢で犬居城を出陣した。 案内役として天野景貫が、緋縅の鎧に武田菱の前立兜を被った勝頼の傍らに寄り添っている。 従う武将は、穴山信君、歴戦の猛者、甘利昌忠である。百足衆も二騎従っていた。この勢は犬居城の西の光明山の裾を通り、南下し第一目標の只来城に向かうのだ。それ故に勝頼は逸っていた。 一気呵成に只来城を陥とし、遠州平野の北の要の二股城へと迫った。 時に元亀三年十月中旬の事であった。
Mar 24, 2015
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「上洛軍出撃す」(102章)にほんブログ村にほんブログ村 (武田勢、秋葉街道を南下する)「御屋形、ご本陣の配置はいかように成されます?」「馬場美濃守、心配はいらぬ。余の本陣は旗本に守らせ変幻自在といたす」 信玄が珍しく巨眼を和ませている。「そうなりますと先鋒は、矢張り山県殿にございますな」 代わって高坂弾正昌信が訊ね、甘利昌忠が興味深く聞き入っている。「いや、途中で三郎兵衛には別命を与える積りじゃ」 「はて合点が参りませぬな」 馬場美濃守信春ともあろう武将が首をひねっている。「本隊の出陣は基本通り高遠城といたす。全軍は秋葉街道を南下いたし、青崩峠の犬居城に向う。犬居城の天野景貫(かげつら)が我家に降った」「何とあの天野景貫が味方と成りましたか?」 秋山信友が驚いた顔付をした。「犬居城から三郎兵衛は三河の東を狙うのじや。長篠城、野田城が当面の目標となろうが、無理は禁物じゃ。三河の豪族を牽制する事が目的じゃ」 信玄が床几を廻し、肘を載せ一座を見廻している。「これは壮大な戦略ですな」 高坂弾正が唸った。 この天野景貫と言う武将は今川家に属していたが、義元の死を契機とし、徳川家康に属し、武田家の信濃の押さえとして犬居城で睨みを利かせていた。 併し、武田勢の上洛の噂を聞き、景貫は武田家に与力をし三河侵略の先導役として活躍する事に成るのだ。 まさに信玄の戦略は壮大で巧緻なものであった。 当面の攻略地の遠江を視野に入れながら、三河、美濃までも含めた信玄の上洛戦略を、初めてこの場の武将は知らされたのだ。 元亀三年(一五七二年)十月三日、仏法の庇護者でもある信玄は将軍、足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じ、甲斐の躑躅ケ崎館を出陣した。 諏訪の高遠城に入り、各地の軍勢の集結を待って西上の征途に就くのだ。 黒鹿毛の駿馬に跨り諏訪法性の兜をかむり、鎧の上から緋の法衣を纏っての出陣であった。 十月の冷気が信玄の身内を引き締め尊厳な想いがする。 信玄の本陣は軍勢の最先端に位置し、諏訪法性の御旗と孫子の御旗が強い風をうけ靡いている。 本陣には旗本の今井信昌や真田昌輝、岩手信盛等の猛者が守りを固めている。 後続する軍勢は甲斐の躑躅ケ崎館の直属部隊で、旗、幟、旌旗が威風堂々と翻っている。 これが甲斐を見る最後かも知れぬ、信玄は兜を深く被り眼庇より、見慣れた風景に惜別の視線を這わせた。 長い合戦の場面が蘇ってくると同時に、病魔への恐れが胸中を過った。 これからは寒気で震える真冬の季節に向うのだ。 己が病魔に打ち勝ち、家康、信長を蹴散らし上洛できるか、それは疑問であるが、成し遂げねばならない。 信玄が無意識に館にむかって片腕を突き上げた。 これは己自身を鼓舞する無感覚の動きであった。「御屋形さまが手を振っておられるぞ」 躑躅ケ崎館に残る留守部隊と行軍の将兵が雄叫びを挙げた。 館の門前には留守居の者に交じり、煌びやかな衣装姿の女衆も見送っている。 そこには信玄の愛妾達の姿も見えるが、正室の三条の方は見えない。 彼女は三年前の元亀元年に病没していた。 信玄は万感の思いを振り払い愛馬を急がせた。 百足衆も代替わりし、若い精悍な面魂をもった武者に代わっていた。「笠井頼重」 「はっ」 百足の指物を背負った黒具足の武者が、見事な手綱さばきで寄ってきた。 彼が百足衆の組頭である。「しばらく皆の疾走する英姿が見たい、騎馬を駆けさせよ」「心得ました」 笠井頼重が大きく騎馬を旋回させるや、百足衆が猛然と疾走を始めた。 背の武田菱の指物が折れんばかりに風を受け撓(いな)っている。「見事じゃ」 信玄が遠ざかる六騎の英姿を眺め満足そうに呟いた。 軍勢は棒道に入った。この道は若い時期に信玄が信濃攻略の為に作った軍事道路で、信玄の棒道と云われていた。 紅葉真っ盛りの道を進み佐久に向かった。諏訪、高遠城は甲斐から最も近い場所に位置している。「見事な紅葉じゃ」「左様にございますな」 旗本の一人が目を細め紅葉を愛でている。 信玄は高遠城を上洛の為の兵站基地として使う考えであった。 城代の秋山伯耆守信友は、信玄が入城すると直ちに配下の伊那衆を主力に、東美濃に軍勢を進めていった。目指すは信長の膝元、東美濃にある岩村城と明智城の攻略である。 続々と各地から上洛の将兵が集まり、二千名の北条家の援兵も到着した。 夕刻と同時に無数の炊飯の煙が高遠城の上空を漂っている。 信玄は各将を大広間に集め上洛の意義を語り、檄をとばした。 翌朝、山県三郎兵衛昌景率いる、赤備え勢五千が粛々と出陣した。 この軍勢は先遣部隊とし、降った遠江の犬居城を一路目指しているのだ。 遅れて信玄率いる本隊二万七千名が高遠城から出陣した。 軍勢は基本方針通り秋葉街道を南下した。先鋒は小山田信茂勢が当たった。 秋葉山は紅葉の盛りであった、信玄は輿に乗って中陣にいる。 出来るだけ躯を休める、寿命と時の経過との鬩ぎ合いと信玄は考えていた。 延々と武田軍団は山間の街道を進んでいる、甲斐と遠江の国境を越え目的の犬居城の天守が樹木の間から見えてきた。 ここから浜松城までは約二十里の距離である。 前方に平服姿で騎乗した一人の武士が武田軍団を出迎えていた。 犬居城主の天野景貫であった。「お初にお目にかかります。天野景貫にございます」 中年の武将が緊張した様子で丁重に挨拶を述べた。「ご苦労じゃ」 信玄が声をかけた。 天野景貫の案内で信玄をはじめとする、武将連が犬居城に入城した。「余に与力いたし感謝しておる」 信玄が緋の法衣を纏い天野景貫に労いの言葉をかけた。 「恐れいりまする。これより遠江、三河の領土をご案内仕ります」「天野殿、馬場美濃守にござる。ご助勢かたじけない、数日休息いたし、軍勢を分けます。一軍は四郎勝頼さまが指揮いたし只来城を陥とし二俣城に向かいます。ご貴殿には先導をお願いいたす」「畏まりました。ご貴殿が鬼美濃と異名される、馬場殿ございますか?」 天野景貫が慌てて平伏した。 信玄は無言で座布団に腰を据えているが、圧倒する気迫を漲らせている。 天野景貫は信玄や馬場美濃守の前で、自分の器量の小ささを思い知らされた。「山県昌景の軍勢がここを発ったのは何日にござる?」 馬場美濃守が戦場焼けした野太い声で糺した。 「五日前にございます」 「何か申し残した事は御座らぬか?」「間者の報告によれば長篠城は、徳川から離脱した由にございます。山県さま は長篠城に押し入り、真偽をお知らせ致すとのお言葉に御座いました」「左様か」 「いかにも三郎兵衛らしき言葉よな」 信玄が笑みを浮かべた。
Mar 17, 2015
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「信玄の陣形」(101章)にほんブログ村にほんブログ村 (武田勢の上洛の戦略) 信玄はそんな信豊の張り切った初々しい態度に頬を緩めた。 川中島合戦で討死した、直ぐ下の弟の典厩信繁の温顔が過ったのだ。 信玄が最も頼りにした弟の嫡男、信豊は父親似の顔つきをしていた。 信玄が内藤修理亮を見つめ下知を下した。「内藤修理亮、そちは小幡信貞と和田業繁(なりしげ)の西上野衆を伴い、直ぐに帰還いたせ。余も軍勢を整えすぐに来援に向う」「はっ、畏まりました」 内藤修理亮が素早く主殿から立ち去った。 信玄は大軍を発し西上野から利根川に軍勢を進め、北条勢と合流し利根川を挟んで、上杉勢と対陣した。しかし合戦に至らず両軍は兵を引いた。 三月にも謙信は関東に進攻し、信玄も再び出馬したが、上杉勢は突然に関東から兵を引きあげた。再び越中で騒乱が烈しくなっていたのだ。 こうした出陣が信玄の体力を消耗させていが、本人の信玄も気付かずにいる。 春とは言うものの、この季節は寒い日々が続いていた。 労咳という病は冷たい空気が最も肺に悪い影響を与えるのだ。 (征途) 古府中は猛暑のなかにある。七月となり信玄の体調も回復に向かい、彼は慎重に越中の様子を窺がっていた。越中は予想通り混乱の極みとなっていた。 謙信は甲相同盟の復活を知り、関東攻めを視野におさめていた、その為には越中を静謐にする必要から、鯵坂長実(あじさかながざね)を新庄城の城代に任じ、一向門徒衆への備えとしていた。 一方の門徒衆は信玄の要請を受けた、石山本願寺門主顕如の命で総大将に、豪勇で聞こえた玄任を差し向け、六月に一斉に越後勢に対し蜂起したのだ。 彼等は上杉家の属城の日宮城を攻略し、救援軍の鯵坂勢を神通川で撃破し、援軍の山本寺定長の軍勢も破り、越後に雪崩れ込む勢いを示していた。 上杉謙信は関東出兵を目論んでいたが、急遽、大軍を越中に出撃させた。 それが八月十八日であった。新庄城に入城した謙信は一向門徒衆の烈しい攻撃に眼を剥いた。 加賀の一向門徒衆までが富山城に籠城しており、三万とも四万とも言われる大軍団であった。 彼等は今迄の謙信が戦った門徒衆と違い、大量の鉄砲を保有していた。 謙信は制圧まで二ヶ月と値踏みしたが、門徒衆の抵抗が烈しく、越中から軍勢を引くことが叶わなくなっいた。 信玄が待っていた機会が、漸く訪れたのだ。 久しぶりに甲斐盆地から狼煙があがった。上洛の準備を促す狼煙であった。 各地の武田勢は、一斉に小荷駄に軍需物資を積み込んでいる。 それは膨大な物資であった。軍兵の糧食、騎馬隊の馬の餌、さらに人夫と、小荷駄を引く牛馬の食糧、そして最も重要な武器、矢弾の量は見たこともない膨大な貨物であった。「こたびの合戦は京の都までじゃ、積み残してはならぬ」 小荷駄奉行達は懸命に人夫等を督励している。 躑躅ケ崎館の主殿に股肱の重臣が集まっていた。馬場美濃守信春を筆頭に高坂弾正昌信、山県三郎兵衛昌景、甘利昌忠、秋山信友等の五将であった。 彼等はいずれも戦塵に明け暮れた歴戦の猛者であり、信玄がもっとも頼りとする武将達であった。「御屋形、内藤修理亮殿が居られませぬが、いかが為されました」 馬場美濃守が不審そうに訊ねた。「こたびの上洛には親類衆すべてを引き連れる積りじゃが、我が留守中に何が起こるか判らぬ」 信玄が静かに口をひらき、股肱の五人に視線を這わせた。「いらざる斟酌を申しました。内藤殿なれば安心いたし留守に出来まするな」 高坂弾正昌信である。 「そうじゃ、念願の上洛。何としても連れて行きたいが仕方があるまい」 信玄の言う通り念願の上洛である。武将として一期の誉れであるのに、あえて内藤修理亮を残した信玄の、心の奥を全員が理解した。「徳川家康を一蹴し信長の息の根を止めねば成りませぬな」 馬場美濃守が戦場焼けした声を張りあげた。「上洛の軍略を申し聞かせる」 信玄が普段と変わらぬ声で一座を見渡した。「上杉謙信は来年まで越中より動けまい、又、わしの留守に甲斐を襲うような事もなかろう。謙信はそうした男じゃ、従って後顧の憂いなく軍勢を進められる」 数年間の合戦を通じて信玄は謙信の気象を見切ったようだ。「左様に心得まする」 馬場美濃守が賛意を示した。「よって余は上洛を果たすまでは甲斐に戻らぬ覚悟じゃ」 御屋形の覚悟を聞けばそれでよし、一座の五将は黙して平伏した。「まず、当面の陣構えを申し聞かす」 信玄が自ら立ち上がり、傍らの衝立を動かした。 一斉に五将から感嘆の吐息が洩れた。「先鋒」 馬場信春、山県三郎兵衛昌景、甘利昌忠。「二陣」 高坂弾正、小山田信茂、原昌胤。「三陣」 武田四郎勝頼、 武田逍遥軒信廉、武田信豊、穴山信君。「脇備え」 土屋昌次、小山田昌辰、小宮山昌友、駒井昌直、真田信綱。「後備え」 原隼人、 浅利昌種、 跡部勝資。「これは、見事な陣形ですな」 馬場美濃守と高坂弾正が顔を見合わせて唸った。「余もいささか頭を痛めた」 信玄の顔に満足感が浮かんでいる。「申しあげます」 「何じゃ三郎兵衛、不服でもあるか?」「原隼人の後備えは勿体ないと考えます。原は陣場奉行にございまする」 余は途中で拾った豪族たちに道案内をさせる積りじゃ」 信玄の言う、道案内とは糧食や武器弾薬の補給を指す言葉である。 小荷駄の全責任者は陣場奉行の原隼人の勤めであるが、信玄は彼の任務を軽くする事を考えていたのだ。「これは迂闊なことを申しました。お許し成されませ」 赤備えの山県三郎兵衛が顔を赤らめた。「あとは何か申すことはあるか?」「拙者の名がございませぬ、訳でもございますか?」 高遠城代の秋山伯耆守信友が憮然とした顔つきで訊ねた。「伊那高遠城の城代を忘れはせぬ。余の前に立ち塞がる最強の敵は織田信長じゃ。そちは伊那衆を率い東美濃を侵略いたせ、まずは岩村城を陥せ、 信長はそれで岐阜城から動くことが叶わぬ。それをそちに頼みたい」「これは有り難い仰せ、つつしんでお受けつかまつります」 三郎兵衛と肩を並べる、猛将の秋山信友が厳つい顔を崩した。「岩村城を攻略いたしたら、次ぎは明智城じゃ東美濃一帯を脅かすのじゃ」「ははっー」 「伯耆守、羨ましいのう。お主の斬り取り放題じゃな」 山県三郎兵衛が心底から羨ましげな声をあげた。 両人とも飯よりも合戦が好きな武将であった。「何を申すか、京が拝めんのじゃ。その腹いせに大いに暴れまわってやる」 その様子をみて一座から哄笑が湧いた。
Mar 14, 2015
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「信玄、病魔を捻じ伏せる」(100章)にほんブログ村にほんブログ村 (信玄、上洛を宣言する)「大殿、何故に今年の秋とお考えにございます」 河野晋作が不審そうに訊ねた。「河野、そちは春でも良いと思っておろう。信玄は越中の一向門徒衆の動きを見る積りじゃ。彼等が蜂起致せば上杉謙信は武田に手がだせなくなる」 信虎が河野に諭すように語り、皺深い瞼を閉じた。「成程、それならば後顧の憂いなく上洛の軍勢を動かせますな」「河野、心して聞くのじゃ。御屋形は信濃の高遠城から軍勢を発すると考える、武田勢は真っ先に手強い城を落さねばならぬ」 勘助が信虎の後を継いで口を開いた。「山本さま、それはどの城にございます?」 その言葉で河野晋作の顔が引き締まった。忍び者の血が騒ぐようだ。「二俣城じゃ。あの城は難攻不落の堅城、御屋形とて手を焼こうな」 勘助がずばりと核心を突いた。「二俣城にございますか、あの城を陥さねば浜松城の攻略は不可能ですな」 河野晋作は漸く二人の考えが腑に落ちた、確かに二俣城は手強い。 攻略が長引けば、上洛戦に支障が出る。 二俣城は天竜川と二俣川が合流する地点の丘陵に築かれた城である。 位置的には浜松城と掛川、高天神城の中間地点に位置する遠江の諸城の中でも特に重要な拠点であった。 武田勢が補給路を確保するためにも、徳川勢の連絡網を断ち切るためにも、この城は落としておく必要がある。 併し、二俣城を囲む急流が文字通り天然の濠を成しておる堅城であった。 城将は中根正照で城兵の数は少なく一千二百名ほどであるが、この城の攻め口は北東の大手口しかなかった。 その大手口は急な坂道になっており、攻め上ろうとする武田勢の進撃を阻止し、力攻めをすれば損害は甚大となる厄介な城塞であった。「小十郎を連れて行け、二俣城には大殿の隠れ忍びが居る。川田弥五郎と名のる男じゃ、彼は二俣城に籠もっておる筈じゃ。その男と接触するのじゃ」「驚きでものが云いませぬな」 河野が禿げあがった勘助を見つめ仰天している。 山本さまも山本さまじゃが、大殿も大殿じゃ。 二人の謀略に河野晋作が驚嘆している。「小十郎、そちがその川田弥五郎に会うのじゃ」「山本さま、判りましたが手づるがございますか?」 小十郎が例の抑揚のない声で訊ねた。「城を包囲した時に生きておれば合図があろう。それを確認し忍びこむのじゃ」 勘助が往時を偲ぶように隻眼を光らせている。「流石は勘殿じゃ、わたしは弥五郎の顔を忘れてしまいましたぞ」 お弓が感嘆の面持ちで懐かしそうに呟いた。「わしも忘れた。わしの許におった頃は未だ若者であった。今は中年となって おろう。勘助の申す通り、生きておれば必ず弥五郎から合図がある」 信虎までが懐かしそうな顔をして断言した。 「これは全て大殿のお考えじゃ。武田の上洛が始まったら、わしも遠江に出向く、河野、その時は頼むぞ」 深夜となり三人がそっと信虎の棲家から去って行った。 お弓が影法師のような勘助の後姿を見送っていた。 今度は何時会えるか判らない、物憂い月が雲間から覗いていた。 甲斐に異変が起こっていた。各地の豪族との年賀の儀式は済んでいたが、恒例の重臣達との祝宴が催される気配がないままに日が経っていたのだ。 重臣等は何事もない素振りで、任地先の城で信玄の呼び出しを待っている。 その頃、信玄は病の床に就いていたのだ、予期はしていたが喀血と高熱が信玄を襲ったのだ。 近侍の者数名が知るのみで他の者には一切秘事とされた。 信玄の寝所は武田の忍び衆で厳重に警護されていた。はからずも河野晋作の危惧が現実となったのだ。 信玄は高熱にうなされながら、寿命が長くはないと悟っていた。 だが何としても上洛を果たすまでは死ねぬ、あと三年は命を永らえると強靭な精神力で病魔をねじ伏せ起き上がった。 恒例の年賀の式典が行われたのは、一月の十日であった。躑躅ケ崎館の主殿には常と変わらぬ信玄の姿があった。 彼は厚い綿入れの羽織姿で上座に腰を据えている。 右に武田四郎勝頼を筆頭に、武田信廉、武田信豊、仁科信盛、穴山信君等のご親類衆が居並び、左には馬場信春、内藤昌豊、高坂弾正、山県昌景、小山田 信茂、秋山信友、甘利昌忠等の御譜代家老衆が並び、その他の武将連が連なっている。庭先にも幔幕が張られ畳が敷かれ、そこにも武田家の主だった者が控え、今年は海賊衆や百足指物衆も招かれていた。 今年こそ上洛のお下知があろう。全ての強者達が上座を見つめている。 信玄の背後には、新羅三郎義光の鎧と武田家二流の御旗が飾られている。「皆の者、余は訳があって年賀を遅らせた」 何時もの信玄の声音である。「年内に我が武田家は上洛の軍勢を発する」 信玄の声が主殿に凛と轟いた。「・・・-」 一座の者達から声にならないざわめきが起こった。「その為に大勢の者達を年賀に招いた。本日は大いに飲め、堅苦しい話は抜きじゃ。行き先は遠江の浜松城じゃ、上洛の時期はおって皆に知らせる」 信玄が大杯を片手に一座を見廻し、満足そうな笑みを浮かべた。 余は病魔に打ち勝った、その事が嬉しいのだ。 するすると旗本奉行衆頭の今井信昌が信玄の傍らに寄り、何事か囁き素早く主殿から去った。「静まれー」 信玄の声で一座に静寂が支配した。「西上野より火急の使者が参った。上杉謙信、我が属城の石倉城を陥し厩橋城に籠もったとの知らせじゃ。北条殿も軍勢を利根川に進めておられるとの事じゃ」「しゃっー、またしても関東に乱入いたしましたか?」 武田逍遥軒信廉が顔を染めて吠えた。「御屋形、我等も早速にも軍勢を進めねばなりませぬな」 内藤修理亮である。彼は西上野郡代として箕輪(みのわ)城を任されていた。「上洛までに手を打たねば越後勢煩くて叶いませぬな」 武田信豊が声を荒げた。 「信豊、余が阿呆に見えるか?」 信玄の問いに信豊が顔を赤らめた、御屋形が手をこまねくような事はなされぬ。 一座の重臣連が顔を見つめあい失笑を浮かべた。 ちなみに信豊と言う若者は、川中島で討死した武田典厩信繁の嫡男である。
Mar 10, 2015
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「上洛への布石」(99章)にほんブログ村にほんブログ村 (信玄、徳川領内を席巻す) 一方の信長は三万の大軍を擁し、浅井家の本拠地、小谷城を包囲していたが、大嶽に滞陣する、朝倉勢の存在が邪魔となって動けずにいる。 信長の許にひんぴんと信玄の動きが伝わってくる、遂に甲斐の猛虎が牙を剥き咆哮したのだ。 信長は戦慄し、横山城の守将木下藤吉郎に小谷城包囲を命じ、直ちに軍団を引き払い、岐阜に帰還した。 これ以上、近江の地に止まっている訳にはいかない、信玄の上洛を阻止せねばならないのだ。 岐阜城に帰還した信長は、自分の置かれた情況を改めて思い知らされた。 織田勢は各地で足止めをくらっている。積年の敵である石山本願寺は摂津に、近江には浅井、朝倉勢が滞陣し、更に足元の奥美濃にも敵がいたのだ。 信長により追放された元美濃の国主、斉藤龍興(たつおき)の一党が反抗し、それにも軍勢をさいていた。 南近江では六角承禎の残党が蜂起し、福島野田には阿波から戻った三好一党が、石山本願寺と協同で戦線を構築し織田勢に叛いている。 まさに四面楚歌であり、一兵の増援も期待できない情況に陥っていたのだ。 頼むは浜松の徳川家康のみ、併し、それも信玄が上洛の軍を起こせば真っ先に餌食となる。 家康がせいぜい集められる軍勢は九千余名と冷静に読みきっていた。 強兵で聞こえる甲州勢と信玄の采配なれば、鎧袖一触で敗れるじゃろう。 我が軍勢が集結するまでは捨て殺しじゃ。と、信長は非情な決断を下していた。 流石の信長も打ち手を失い、苛立ちのなかで岐阜城に居座っている。 元亀三年(一五七二年)の波乱にとんだ年が明けた。 京の菊亭大納言の荒れ果てた庭の片隅に、信虎の棲家がある。 落ちぶれたとはいえ、大納言の庭には樹齢何百年の松の大木が茂り、信虎の部屋の丸窓の前の、大木の影に万両がひっそりと花をつけている。 信玄から送られる金子のおかげで信虎は、悠々自適の生活を送っていた。 貧乏公卿の大納言も信虎からの生活費で裕福に暮らしている。 その信虎の棲家に三人の男が訪れてきた。 真っ先に山本勘助と小十郎が姿を現した。「勘助、久しく逢わぬ間にそちも老いたの」 妖怪のように痩せ細った痩躯の信虎が、勘助の顔をみて揶揄した。「大殿にはお変わりもなく祝着に存じます」 勘助が祝いを述べた。「世辞はよい、わしも八十となった。いささか長生きをいたしたが、ようやく念願が叶うかと思うと生きて参った甲斐がある」 信虎が妖怪じみた顔でにたりと笑みを見せた、声だけは往年の気迫がある。 お弓が酒肴の用意を整え姿をみせ、陰気な部屋がぱっと明るくなった。「お弓殿は変わりませぬな」 勘助がお弓の姿を眩しそうに見つめた。「勘殿、年の話はなしにございますぞ。小十郎も酒(ささ)を飲みなされ」 小十郎の躯も一回りちぢんで見える。「遅くなり申した」 野太い声と同時に、河野晋作が鍛えた躯を現した。 五人は暫し久闊を祝し、黙したまま酒肴に舌鼓をうった。 庭先から風の音が寒そうに聞こえてくる。 「京は甲斐に劣らず寒い」 信虎が厚い綿入れを着込み、しんみりとした口調で杯に視線を落とした。「本日は何事にございます。こうして集まるのも久しゅうございますな」 お弓の声に誘われるように勘助が、信虎の魁偉な容貌をみつめ口を開いた。「大殿、いよいよ御屋形は上洛を決意なされましたぞ」「甲斐を捨て三十一年となるが、信玄の奴、ようやった。矢張りわしでは甲斐 一国が精々と最近になって悟った」 信虎が魁偉な眼を細め呟いた。「だが、それがしには心配な事がございます」 河野晋作が低い声で応じ、彼の顔色が冴えない。「いかがいたした?」 信虎が顔をもたげ河野に視線を向けて問いかけた。 「これは内密にござるが、御屋形さまは病んでおられるようです」「河野、その話は真か?」 勘助が思わず鋭い声をあげた。「忍び者の我等は御屋形さまの私生活を垣間見る時がござる。何となくそんな感じに捉われます、心配にございます」 河野晋作の顔に心配そうな色が滲んでいる。「お元気がないのか?」 勘助が性急に訊ねた。「いや、常とお変わりございませぬが、気にかかります」「ならば心配ないは、上洛の軍を起こせば元気になる。のう勘助」「御屋形に限っては心配ござらん。人一倍お身体に気を配っておられる」 勘助は十数年前の信玄の面影を瞼の裏に思い描いていた。「拙者の取りこし苦労ですかな」 河野晋作が笑い声で杯を干した。「昨年の三河進攻なんぞを見ますと御屋形には、微塵も焦りがございませぬ」「勘助もそう見たか。わしの見立ても同じだ、余裕を持って甲斐に引きあげたの」 信虎の答えでほっとする空気が部屋に漂った。「左様にございますな、あの家康が反撃できぬ素早い動きを成されました」 勘助が嬉しそうな笑みを浮かべ、お弓の顔を見つめた。 二人の眼と眼が合い、躰を許しあった和やかな雰囲気が漂った。「して上洛の時期は決しておるのか?」 信虎が河野晋作に視線を向けた。「御屋形さまからは未だご沙汰はありませぬが、最近は公方さまや越前、近江と我等の出番が頻繁にございます」「河野、そちは何処に行って参った」 勘助がお弓から視線を移し訊ねた。「越中、富山城からの帰りにございます」「富山城は越中における一向門徒衆の巣窟じゃな、勘助」 「左様に」 おうむ返しに勘助が答えた。「信玄は秋に上洛の軍勢を起こすとみたが、どうじゃ?」 信虎が相貌を歪め、自信をこめて言い放った。 「拙者も同感にございますな」 勘助が隻眼を鋭く光らせ、頬に微かな笑みを浮かべた。「武田の軍師と意見があえば間違いはあるまい」 信虎の妖怪じみた顔に満足そうな笑みが刷かれた。
Mar 6, 2015
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「上洛への布石」(98章)にほんブログ村にほんブログ村 (信玄、徳川領内を席巻す) 信虎が将軍、義昭の許で信長に反抗している事を信玄は知らずいる。 更に最近、父である自分に逆らい、若くして切腹を遂げた嫡男の義信が、しばしば夢に現れるのだ。 義信が健在ならば、こうも苦しむ事はなかっただろう。 武田家の当主を約束された、四男の勝頼は武将としては申し分ないが、国主として客観的に見ると、その資質には大いに問題がある。 それ故に自分が健在のうちに武田家の二流の御旗を京に翻すことが、信玄の悲願と成っていた。 何としても命のあるうちに遣らねばならない。 その一念で命を刻んできたのだ。 信玄は自分の死期を感じはじめていた、最近の躯の疲労は異常である。 軽い咳払いをしながら、信玄は自分で煎じた薬湯を苦く飲み干した。 信玄は病魔を抑え合戦に明け暮れることになる。まさに執念である。 元亀二年(一五七一年)二月、信長の盟友である徳川家康を討つべく、大規模な遠江、三河侵攻作戦を実行したのだ。 信濃の高遠城から武田の精兵八千名が出撃し、伊那街道を南下し、鈴木重直(しげなお)が守る、徳川の足助城(あすけじょう)を包囲した。 総大将は武田信玄で四郎勝頼も加わっていた。 伊那街道にある足助城は三河を結ぶ要衝の地にあったが、瞬く間に攻略された。この城は徳川にとり武田勢の押さえとして重要な城であり、真弓山城とも言われ、三河加茂郡足助庄(現在の愛知県豊田市足助町)の真弓山に聳えていた。 足助城を陥した信玄はその勢いで五月までに小山城、田峯城、野田城と、徳川家の諸城を次々と落とした。 この伊那街道とは信濃の松本と飯田を結び,さらに根羽を経て三河の吉田(豊橋)に達する街道を言う。 この街道も当時は塩の道として有名であった。 信玄は病魔を隠し、誰にも悟られず数ケ月の長期遠征を行ったのだ。 その知らせが浜松城の家康にもたらされた時は、すでに遅く徳川勢が動く間もない、素早い奇襲攻撃を信玄は見せ付けたのだ。 家康が岡崎城から浜松城に居城を移した訳は三河地方は安泰と感じ、遠江支配を重点とする目的で、浜名湖の東の浜松城に拠点を移したのだ。 それを嘲笑うかのような信玄の戦略であった。更に十日後には浜松城近郊の吉田城に攻撃を仕掛け、二連木の地で徳川勢を叩きつぶし兵を引いて行った。 この二連木城は、朝倉川南岸の三河の渥美郡の北の端にあった城塞で、これだけでも武田勢が、長駆の行程を奔りぬけ攻撃した証拠である。 まさに風林火山の御旗どおりの、素早い攻撃を三河と遠江の二ケ所にみせ、武田勢は疾風のように本国に引きあげて行った。 家康の気持ちは何となく浮かなかった、信玄のこの軍事行動が何を示す事なのか理解出来ずにいたのだ。 それに頼みの織田信長が未だ、近江の地に留まっている事にも理由があった。 その訳が唐突に知らされ、全国の諸大名の間に戦慄が奔りぬけた事変であった。 九月十二日、突然に比叡山に悲劇が襲った。織田勢三万の大軍が夜明けと同時に坂本に火を放ち、京の巨刹、比叡山延暦寺になだれ込み、老若男女を問わず、容赦ない殺戮が行われたのだ。 高僧、学僧、僧兵、それに三千の堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰した。 先年に浅井、朝倉勢に味方をした延暦寺に対する、信長の報復であった。 四方を敵に囲まれ、身動きの出来ぬ織田勢の困窮を知りながら、延暦寺は山頂の堂塔伽藍に浅井、朝倉の連合軍を籠もらせた。その犯した罪は重い。 信長からみた延暦寺は既に腐りきっていた。古い権威にすがり、僧俗の身で刀槍を携え弱者を苛め。肉食をなし妻帯なんぞをする者に、なんの庇護がいる。 玉石混淆ともに砕く、これが信長流の思考法であった。 ここに八百年の伝統を誇った延暦寺は、この地上から完全に消失したのだ。 当時の比叡山の主は正親町天皇の弟である覚恕法親王であった。 そうした天皇の件も承知で信長は、この暴挙を行ったのだ。 更に比叡山は天下を狙う者にとり、北陸路と東国路の交差点になっており、山上には数多い堂塔が建ち、数万の兵力を擁する事が可能な戦略的な重要な拠点である。 信長包囲網で各勢力から包囲された信長にとり、近江の平定と比叡山の無力化は戦線打破の重要な課題であった。 これを知らされた信玄は怒りに身を震わせたという。「おのれ信長、天魔に化けよったか」 と非難した。信玄は比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図った。 彼は古い形の武将で権威や信仰心には忠実であった。 謂れもない口実で比叡山全土を焼き払い、高僧や老若男女を一人も残さず、殺戮した信長を仏敵として憎んだ。「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」 これは信玄の有名な軍法の歌で、彼の一面が偲ばれるものである。 こうした思考を身につけた信玄には、信長の行動は理解を超えていたのだ。 この年の十月に信玄の好敵手であった、北条氏康が五十七才の生涯を閉じた。 彼は死に臨み上杉家との同盟を破棄し、武田家と再び同盟を結ぶよう倅の氏政に遺言した。上杉謙信頼りにならず。 信玄は曲者ではあるが一旦同盟すれば裏切る事はない。 この甲相同盟の修復で武田家は念願の北条家の脅威が解消したのだ。 ここに信玄は心置きなく西上に意をそそぐ態勢を固めたのだ。 この北条家の方針転換で一人の男の人生が狂う事になる。元今川家の当主の氏真であった、彼は信玄に追われ北条家の庇護の許で暮らしていたが、甲相同盟の復活で北条家に居られず、今川家の人質であった家康に庇護を求めるのである。 皮肉な巡り会わせであるが、武将失格の男の末路は憐れである。 信玄の上洛に向けた外交が積極的となった。近江の浅井長政に対しては信長の挑発にのらず、籠城の継続を勧め、越前の朝倉義景には浅井家の救援部隊を大嶽(おうずく)から撤兵せすに滞陣するように、義昭から密書を発してもらった。 信玄は朝倉義景が弱腰の武将と看破し、その動向に不安を抱いていたのだ。 朝倉勢が引き上げないかぎり、信長の小谷城攻撃は不可能と踏んでいた。 更に越後にも調略の手を伸ばしている。 上杉謙信の牽制として一向門徒衆の蜂起を石山本願寺に申し送っていたのだ。 こうして武田家は背後に気を配る事なく、ようやく上洛できる態勢となった。 併し、人生は皮肉なものであった。信玄が北条家と袂を分かち、悪戯に浪費した日々が信玄の躰に病魔が宿り、過酷、苦悶な上洛を強いいる事と成るとは、信玄も宿老も誰一人として気づく事がなかったのだ。
Mar 2, 2015
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「上洛への布石」(97章)にほんブログ村にほんブログ村 (病魔に侵された信玄)「内藤修理、そのように心配せずとも良い」 信玄が濃い髭跡を見せ、苦笑いを浮かべた。「先年、上杉、北条、徳川が同盟を結びましたが、北条氏康殿は中風との噂がございます。高坂殿の申されるよう、上杉も北条も出ては参りますまい」 西上野郡代の内藤修理亮が気をとり直し、再度、賛意を示した。 信玄が珍しく瞑目して思案に耽っている。 信玄も三国同盟の件は承知しているし、越後勢が越中で苦戦している事も知っている。仕掛けた者は信玄自身である。「御屋形、我が武田家は今がもっとも充実した時期と存じまする。まずは、徳川家康の力を削ぐために、徳川領内を混乱させる必要ありと勘考致します」 馬場美濃守が戦場焼けした声で出陣を促した。「判った。余は信長の真意が分からずに迷っておった」 信玄が一通の書状を取り出し、四人の前に広げた。「これが信長の書状にございますか?」 馬場美濃守が、しげしげと書状を眺めている。「奴め、恥も外聞もなく余に擦り寄って来る。そこに疑念が生じておった」「何が書かれておりまする?」 かわって内藤修理亮が興味を示した。「甲斐の漆が欲しいと申して参った」「信長の領内にも漆は採れましょうに、漆が欲しいとの願いにございますか」 信廉が呆れ顔をした。「織田の版図は我が武田領内を凌駕するほとじゃ。書状の真の意味はなんじゃ。 甲州漆は品質が優れておるので、三千樽ほど注文したいと申しておる」 「三千樽も」 四人が息を飲み込み書状に視線を移し、驚き顔で信玄を仰ぎみた。「余は送ってやる積りじゃ」 信玄が四人の顔色を見つめながら断言した。「余は信長の真意が読めた。暫くは我が武田家とは事を起こさぬ方針とみた」 信玄が語り巨眼を細めた。 「我が武田家を恐れての事にございますか?」「そうじゃ。信廉、今の織田家を良く見ろ、四方に敵を受けておる。信長の魂胆は徳川を見殺しとしても、包囲網を突破する考えじゃ。それまでの時間稼ぎじゃ」「成程、信長にしては悠長な考えと思いましたが、的を得ておりまするな」 高坂弾正が端正な顔を緩めた。「併し徳川家康という男は稀有の武将にございますな」 馬場美濃守と高坂弾正が感心の面持ちをしている。「律儀者(りちぎもの)としては当代一じゃな」 信玄が苦い笑いを浮かべた。「岡崎衆とは恐ろしい、結束が固く家康を頂点として一丸となっております。 家康が斃れても徳川家は存続致しますな」 高坂弾正がぼそっと呟いた。「余も羨ましく思う」 信玄が乾いた笑い声をあげ、四人の重臣に視線をうつした。「新年にあたり存念を申し述べる。田植えが終り次第に徳川領に討って出る。 家康の心胆を震いあがらせる、浅井朝倉、石山本願寺との連携を強め、信長包囲網を強固にいたす。それに松永久秀を篭絡いたす積りじゃ」 「なんと梟雄で聞こえる松永久秀を」「美濃守、松永久秀は信長が油断いたすと反逆を企てるほどの男じゃ」 信玄の言葉に誰も異議を唱える者はいなかった、既に信玄は軍神に等しい読みをもっていた。 「信廉っ」 「はっー」 逍遥軒が兄の信玄を仰ぎみた。「そちは年内中に水軍を完成させよ。土屋貞綱と計って織田水軍に負けぬ水軍を作るのじゃ」 「畏まりました」 弟の信廉が低頭し畏まった。「美濃守、そちは原隼人に命じ、上洛に必要な物資とその確保を万全といたせ」 信玄の言葉に四人の背筋に戦慄が奔りぬけた、とうとう上洛を決意なされた。 信玄の許を辞し、四人は黙々と長廊下を歩んでいる。 それぞれの脳裡に信濃攻略、それに続く川中島の苦しい合戦の日々が過った。 一人となった信玄は自室に戻った。部屋には囲炉裏がきられて炭火が赤々と燃えている。そこに小さな土瓶を乗せ、薄い羽織を身に纏った。 部屋は春のように温かい、異臭の香りが入り混じった匂いが充満する部屋で彼は時折、蓋をあけ中を慎重にかき混ぜている、信玄が軽い咳払いをした。 信玄が懐紙で口を拭った、微かに紅色が懐紙に付着している。 彼は痰を吐き出し、仔細に眺めた。 「矢張り進んでおるか」 独り言を呟き懐紙を囲炉裏に放った、瞬く間に懐紙が灰となった。 信玄は病んでいたのだ。数年前に喀血し秘かに自分で薬湯を調合し飲み続けてきたのだ。何としても京に武田家の二流の御旗を立てる、それまでは生き永ら える。そう心に決め、長く孤独な闘病生活を送ってきたのだ。 数十年前に三国同盟を結んだ三人のうち、今川義元は討死し北条氏康は中風で倒れ、残った自分は労咳を患っている。「皮肉なものよな」 またや自虐的な独り言が口をついて出た。 信玄にとり病魔と闘う日々は、合戦よりも辛いことであった。 彼は強靭な精神力で、誰にも悟られずに今日まで過ごしてきた。 なんとしても生きながらえ上洛を果たす。 そんな自分が妄執に囚われた生き物のようで堪らない想いがする。 だが遣り遂げねば成らないのだ。父、信虎と親子で謀った事とは謂え、父を国主の座から引きおろし、甲斐から放逐し、駿河の今川家に預けるとは、いくら上洛する為の方便であったとしても許されるものではない。 最近になって信玄はそう考えるように成った。 未だ父は京に隠れ住み、余が上洛して来ることを夢見て待っているのだ。 その信虎は八十に手の届く年齢となっていたが、将軍、義昭の命で甲賀郡に派遣され、反信長勢力の六角勢とともに近江攻撃を企図していた。 傍らに控えるお弓が感心するほど元気を保っていた。
Feb 26, 2015
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「上洛への布石」(96章)にほんブログ村にほんブログ村 (信長という武将) 信長は思わず天を仰いだ。我が軍の先鋒は明智光秀で木の芽峠を猛進中であり、次いで応援部隊の徳川勢がそれに続いている。 このまま時が過ぎれば、我が軍は全滅する。「殿軍を努める者は居らぬか?」 そう下知を発しながらも、信長は京への道筋を思案している。「殿、それがしにお命じ下され」 大声で小柄な躰の木下藤吉郎が信長の前に転がりでた。「猿か・・・死ぬるぞ」「承知にございます。この藤吉郎に殿軍をお任せ下され」 木下藤吉郎が必死の顔つきで信長を仰ぎ見ている。 これまでは才覚のみで今の身分と成ったが、これという武功がなかった。 何としても武功が欲しい、家中の武将は彼を真の武将として見ていなかった。「おべっかい者」 これが木下藤吉郎の評価であったが、この一件から彼を見直した。「猿、金ケ崎城に籠り、撤退する光秀と徳川殿を無事にお逃がせ申せ」「畏まりました。殿、ご無事にお戻り下されませ」 藤吉郎の声に押され、信長は十数騎の旗本を従い二十八日に京へ向け撤退を開始した。 退路は危険な琵琶湖岸沿いではなく、朽木越え(のちの若狭街道、琵琶湖の西側の山道)が選ばれた。 信長は若狭街道を一気に駆け抜け、朽木谷の間道から京に逃げ戻った。 この際に信長は同盟者の徳川家康にさえ、何の連絡もしなかったのだ。 それほど危機感を募らせていたのだ。 これは織田信長という武将の面目躍如を物語る行動であった。 己が生き残る限り織田家の再興は可能である。これが信長流の発想である。 主人の信長の撤退を機に織田家の武将達も、撤退を開始した。「無事にお戻りを」 木下藤吉郎が一人一人に声を懸けている。「そこもとも無事に戻られよ」 それぞれが声を懸けつぎつぎと、配下の鉄砲足軽を藤吉郎に預けて行った。 藤吉郎にとり、鉄砲足軽の増加は嬉しいことであった。 彼はそれらを率いて金ケ崎城に籠り、最後の味方が通り過ぎるのを待った。 信長の撤退を知らされた徳川家康は、その逃げ足の速さに驚いたという。 「はや、お逃げなされたか」 と一言呟いたと言う。 京に戻った信長は反撃の軍勢を整えるため本拠の岐阜に戻る必要があった。 その途中の千草越えの地で、鉄砲の名人と謳われた杉谷善住坊に至近距離から狙撃されるが、運良く命中を免れた。弾は信長の羽織を射抜いたという。 信長は態勢を建て直し、六月末に姉川を挟み浅井、朝倉勢の連合軍と激闘し辛うじて勝利をおさめた。これが有名な姉川の合戦である。 併し決定的な勝利には至らず、浅井、朝倉勢は九月に南近江で織田勢と対決できるまでに力を回復したのだ。 そうした時期、摂津の石山本願寺が決起した。彼等は紀州、雑賀衆の鉄砲集団を傭兵とし、三千挺の火縄銃で織田軍団に挑んだ。 この銃撃戦は日本史始まって以来の大規模な銃撃戦となり、信長は窮地に追い込まれた。 九月二十日には完全に勢力を回復した浅井、朝倉の連合軍が大津の宇佐山城に猛攻を加え、城主の森可成(よしなり)が戦死した。 この森可成の三男が本能寺の変で信長と共に戦死した森蘭丸である。 この戦況をみて摂津方面では、阿波からもどった三好一党が福島、野田に砦を築き兵力を集結させた。 さらに十一月には信長の本拠地の咽喉元の長島で一向一揆が蜂起した。 この戦いを支えきれず、信長の弟の信興が小木江城で自害して果てている。 まさに信長にとり最悪の年を迎えたのだ。 これらの騒動の翳に勘助、信虎さらに将軍足利義昭が暗躍し、それが効果を顕してきたのだ。 浅井、朝倉勢の連合軍二万八千は宇佐山城を攻略し、信長が主力軍団を率い反撃の気配を見せると、一斉に比叡山に登り山々の峰々や谷、堂塔伽藍に籠もり眼下に琵琶湖を見おろして対峙した。 四面楚歌の情況下で信長は、焦りに焦ったが手の施しようがない。 比叡山の延暦寺までが浅井、朝倉家に味方をし、織田信長を敵に廻したのだ。 比叡山の三千の堂塔伽藍は十六の谷に建ち、一山が巨大な城塞と化したのだ。「おのれ、叡山の坊主共。女子を引き入れ酒を喰らう奴等は皆殺しにしてやる」 信長は比叡山延暦寺を呪った、そうしながら降雪を祈っていた。 冬将軍の訪れと共に真っ先に動揺したのが朝倉勢であった。 彼等の本拠地の越前は、豪雪地帯で知られた北陸地方である。このままでは帰還が不可能となる。 これを待っていた信長は、将軍、義昭に拝謁し比叡山に籠もっている浅井、朝倉勢は補給が途絶え全滅すると脅し、和睦の斡旋を頼んだ。 驚いた義昭はまんまと信長の策に乗せられ、和睦を斡旋したのだ。これは自らの首を絞める行為であった。 浅井、朝倉勢が比叡山を動かない事が軍事的な意味あいをもっていたのに、将軍、義昭は軍事の何たるかを知らなかった。 十二月十三日に和議が成立し、浅井、朝倉勢は雪を掻き分け帰還した。 こうして信長は、ようやく虎口を脱したのだ。 信長は軍団をとどめ単身で岐阜城にもどり、元亀元年の波乱に富んだ年が暮れたのだ。 (武田勢、動きだす) 元亀二年(一五七一年)波乱ふくみの年が明けた。躑躅ケ崎館の主殿で信玄は股肱の、馬場美濃守信春、高坂弾正昌信、内藤修理亮昌豊等三名と実弟の武田信廉(逍遥軒)と密談を交わしていた。「父上から、信長の動きは全て余の許に伝えられてくる。信長いささか慢心いたし、今は孤立無援と聞く」 信玄の声がいくぶん風邪気味に聞こえ、濃い髭跡の顔色も優れなくみえる。「御屋形、お風邪にございまするか?」 高坂弾正昌信が心配顔で訊ねた。 弾正は信玄の寵童であった人物で、それ故に信玄の身が案じられた。「もう良くなった。話の続きじゃが、奴の味方は三河の徳川家康のみと聞く。今年は三河地方を挑発しょうと思うが、皆の存念が知りたい」「家康、いささか図にのっております。それがしは賛成にございます」 信玄そっくりの面立ちをした信廉(のぶかど)が賛意を示した。「そちは親類衆じゃ、口を挟むでない」 信玄が手で制し、信廉が不機嫌そうに口を閉じた。 この信廉が世に言う、信玄の影武者である。「公方さまと信長の軋轢は修復不可能と聞き及びまする、信長は四面楚歌の情況とか、我家の上洛のためにも家康を痛めつけるは良策かと存じまする」 馬場美濃守が簡潔に答えた。 「高坂はどうじゃな?」「上杉謙信、再び一向門徒衆の蜂起で越中に兵を繰り出しておりまする。 今年も信濃は安泰と心得ます、徳川領に進攻いたし我家の威をみせる事は徳川に加担いたす豪族にとり脅威かと存じます。その意味で結構かと存じます」 信濃郡代の高坂弾正が柔和な口調で断言した。「内藤修理はどうじゃ?」 言い終えて信玄が咳き込んだ。「大丈夫にございますか?」 宿老の三人が心配そうに信玄を見つめた。「御屋形、それがしも高坂殿と同意見にございます」 内藤修理が心配顔で賛意を示した。
Feb 19, 2015
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「上洛への布石」(95章)にほんブログ村にほんブログ村 (浅井勢謀反で信長窮地に立つ)「直ぐにも京に出発いたしますか?」 小十郎が例の声で勘助の乾いた顔を見つめ訊ねた。「そちなら、美濃から京は一っ走りの距離じゃ。明朝に発て」「畏まりました」「最初はわしが将軍公にお目通りいたそうと思ったが、異体の知れぬ牢人者では将軍公も会っては下されまい。大殿ならば将軍義昭さまも喜んでお目通りを許そう。義昭さまより浅井家、朝倉家や諸大名等に、信長包囲網の御内書を発して頂く」 勘助が驚くべき事を口にした。 「信長包囲網にございますか?」 小十郎が反復し訊ねた。彼もこの使命が重大と知っての事である。 二人の会話をお弓が眸子を輝かせ見つめている。「そうじゃ、恐らく信長は浅井家に相談もせず、朝倉攻めを強行いたすと思う。その退路を絶つ為に久政殿にも、御内書を発して頂くのじゃ。もうひとつある」 勘助が言葉を止め隻眼を宙に遊ばせ、一気に語りだした。「小十郎、石山本願寺の蜂起もお願いいたすのじゃ」 「・・・-」「これは万が一の策じゃ。信長が命を永らえたら真っ先に浅井家が狙われよう。 石山本願寺が蜂起いたせば、近江の門徒衆も決起いたそう。信長に追放された六角承禎(じょうてい)も息を吹き返し、浅井家と手を握るだろう。信長にとり四面楚歌となるじゃろう。わしが申しておったと大殿にお伝えいたせ」「大殿から将軍さまにお願いして頂くのですな」 「そうじゃ」 勘助の返答を聴き、小十郎は京の状勢を掌のように差すことに驚嘆した。「河野さまには?」 「暫し待て、お弓殿、大殿の伝言とはどのよう事にござった?」 勘助がお弓に視線を移した。 「何も申すことはありませぬ、勘殿が全て言うてしまわれましたぞ」 お弓が艶然と微笑みを浮かべ、勘助の異相を見つめた。「小十郎、河野には今の話を残らず申し聞かせよ。わしから御屋形への伝言じゃ、今が武田家にとり上洛の絶好機、このように御屋形にお伝えするよう河野の申せ」 「畏まりました。明朝に京に出向き大殿にお会いした後に甲斐に行きます」 小十郎の小柄な躯が音もなく部屋から消えうせた。「勘殿は益々冴え渡って参りましたな」 お弓がしげしげと勘助を感心の面持ちで見つめ、勘助がお弓の濡れた眸子に圧倒され視線を外した。 勘助は織田家を巡る、信長包囲網を仔細に説明した。 岐阜を巡って近江の浅井家、越前の朝倉義景、近江一向衆、越前一向衆、摂津には一向衆の本山、石山本願寺が信長と敵対関係にあった。 そこに越後の上杉家、甲斐の武田家も虎視眈々として上洛を狙っている。 こうした状況で信長が越前の朝倉義景の討伐の軍勢を起こせば、蜂の巣を突いたように紛争が激化することは目に見えている。 これは武田家にとり願ってもない状況に成るのだ。「お弓殿、わしも大殿も年老いた。武田家の御旗が京の都に翻る光景がみたい」 勘助がしみじみとした声で訴えた。「勘殿はまだまだ若い、今宵、わたしが慰めてやりましょう」 お弓が挑発するように勘助の節くれだった手を握りしめた。「もう、わしは女子は無用じゃ」 勘助が苦笑で応じた。「わたしはまだ女盛りじゃ。好いたお方に最後に抱かれてみたいのです」 お弓の顔に若々しい色香が漂っている。 「わしは知らぬぞ失望されても」 身内から微かに欲情が湧くような気分と成っていた。「良いのです。今生の別れかも知れませぬ、夢を抱いた一生が送りたいのです」 この言葉は女としてのお弓の本音であった。 その夜、お弓の手練手管で勘助は久しぶりに猛々しい雄と化していた。 男の妄執を感じながら、勘助はお弓をかき抱いた。「あれ、勘殿、そのような」 勘助がお弓の敏感な箇所に手を這わせたのだ。 まだまだ若い身体じゃ、お弓の膚は滑らかで贅肉ひとつない。その豊満な肉体が勘助の腕のなかでうねり、甘い歓喜の声を途切れ途切れにあげている。 勘助は全てを忘れ、お弓の豊潤な肉体に溺れていった。 烈しい営みが終り、勘助が疲れでお弓の胸に顔を埋め泥のように眠った。「勘殿、許して下され。今夜は薬を用いましたぞ」 お弓が愛おしそうに勘助の寝顔を食い入るように見つめた。 豊満な乳房は昔どおりで小粒な乳首が隆起している。 まだわたしは女子じゃ。そう合点し、お弓がそっと褥から抜け出した。 「おうー、寒い」 矢張り年には勝てぬな、それが彼女の実感であった。 元亀元年(一五七0)四月二十日、義昭の名で上洛を勧めた越前朝倉義景が、その命令に背いたのだ。 そのことあると知っての信長の計略であった。 信長は徳川勢を加えた三万余の大軍を率いて京を出撃した。幕命に叛いた若狭の武藤上野介を討つとの名目であるが、真の狙いは朝倉攻めであった。 越前敦賀平野に進攻した。織田徳川勢は瞬く間に手筒山城、金ヶ崎城を陥し、越前に向かう険路な木の芽峠を越え、義景の本拠一乗谷に猛進中、予想だにしない、北近江の浅井家の反旗の知らせを受けたのだ。 信長は耳を疑った、妹のお市の嫁ぎ先の浅井家の当主は浅井長政であり、彼は信長に忠実であった。その浅井勢が寝返ったのだ、瞬時に浅井久政の顔が脳裡を掠めた。 朝倉攻めの通達を怠ったことが、浅井家の挙兵の理由であったが、久政が翳で動いていたのだ。 浅井久政は朝倉攻略後の信長の標的が、我家にあると倅の長政を説き伏せての挙兵であった。 その久政の心を動かしたものが、将軍義昭の御内書であり、甲斐の武田家の書状であった。 義昭の御内書の内容は、甲斐の武田家の上洛も近い、ここで信長包囲網の一角として越前、近江は信長に反旗を翻せ、これが義昭の密命であった。 また信玄の書状には、国を挙げて上洛の準備中で近々には上洛の軍勢を発する旨の内容であった。 越前の敦賀平野はいたって狭い平野である、そこに三万余の織田勢が充満している。腹背から挟撃すれば浅井朝倉連合軍の勝利は間違いない。 これが浅井久政の心を揺るがした因(もと)であった。
Feb 15, 2015
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「上洛への布石」(94章)にほんブログ村にほんブログ村 (信長の戦略)「いかん、自分の年を忘れ妄想逞しくしておっては」 勘助がお弓の狂態を想いだし、自分の浅はかさを恥じた。 廊下に人の気配がした。「小十郎、ただ今戻りました」 微かな声が洩れ小柄な躯が部屋に現れ、驚きの声を挙げた。「お弓さま、お弓さまではございませぬか?」「小十郎、そなたも元気そうじゃの」 お弓が懐かしそうに声をかけた。「はい、山本さまと全国を巡り面白く生きております」 こうして三人が集ったのは何時であったか、それぞれが別の生き方をしながら、御屋形と信虎さまの手の平で躍っていたのだ。 勘助は一瞬、そんな事を思った。 夜の帳が城下を覆ったころ、粗末な食膳の前で酒を酌み交わしていた。「小十郎、信長の動きが判ったか?」 勘助が杯を置き隻眼を光らせ訊ねた。「春になりましたら、越前攻めを企んでおる様子にございます」「矢張りの、朝倉攻めの軍を起こすか?」「左様、越前を制すれば天下を二分出来ます」「いよいよ御屋形と決着をつける覚悟を固めよったか?」 勘助の異相に興味の色が浮かんでいる。「勘殿、武田勢の上洛の時期は何時頃と思います?」 それまで勘助と小十郎の話に耳を澄ましていた、お弓が興味を示した。「まず、一年近くは掛かりましょうな」 「悠長な、信長は畿内を全て支配下に置いてしまいましたぞ」 お弓が珍しく気色ばんだ。それには彼女自身の考えがあったのだ。 京に隠遁している信虎の健康が気がかりであったのだ。 信虎は年を取り、今は枯れ木のような痩身となっていた。 念願の武田の上洛を見ることもなく亡く成られては、傍らに仕える者にとっては、堪え難い事である。それ故の心配事であった。「わしは、将軍公にお会いしょうかと思っておる」 勘助が杯を口に運びながら、低い声で二人に語りかけた。「将軍さまに拝謁なさる申されますか?」 お弓が驚きの声を挙げ、小十郎と顔を見合わせた。「信長が将軍義昭さまに、五ケ条の条書を突きつけた事を存じてござるか?」「昨年、殿中の掟とし将軍さまの権限を抑え込みましたな、大殿から聞いて知っておりますぞ」 お弓も信虎から、その辺りの話は聞いているようだ。 殿中の掟とは義昭が余りにも将軍職の権力を振り回し、諸国の大名等に信長に内緒で密書を出すので、義昭の権力を牽制するために信長が押し付けた掟状である。発端は信長の力により、第十五代将軍の座に就くことが出来た義昭が、自分が信長の傀儡と気づいた事から始まったことである。 信長にとり義昭は御輿であり、彼の名で天下布武を押し進めようとの計画であったが、あまりにも将軍面をする義昭にうんざりしたのだ。 それは義昭も同じであった、将軍の権威を蔑にする信長に憤りを覚えたのだ。 だが信長には自分の力で義昭を将軍とした自負があり、副将軍の座や加増なぞをちらつかせる、義昭の行動に愛想が尽きていた。 元々、足利将軍の義昭には一片の直轄地もないのだ。 これは両者の言い分の違いで、いずれ起こるべき問題であった。 信長は義昭が勝手な行動に走らないよう、彼に手かせ足かせをかけたのだ。 それが前年に起こった殿中の掟であった。 元来、権謀術策に長けた義昭は信長に反抗し、各地の大名に御内書を発行し、信長牽制の協力要請をしていたのだ。 西は毛利家、石山本願寺、北は浅井家と越前の朝倉家、更に越後の上杉家と甲斐の武田家にも及んでいた。 これに気づいた信長は、元亀元年一月二十三日に五ケ条の条書を義昭に認めさせた。内容は義昭のこれまでの命令の破棄。今後は義昭が出す御内書には信長の添え状を付けること、天下の仕置きは全て信長に任せること。 信長の一存で誰でも処罰が出来る事、天下静謐のために義昭に朝廷に抜かりなく奉公いたすべく事を強要した。 これにより義昭の政治的な活動は完全に信長の制約下に入った。 こうして信長は義昭の名の許で畿内、北陸、中国の諸大名に上洛を命じた。 この真の狙いは織田家の味方と敵を分別する目的が込められていた。 その標的が越前の朝倉義景であった。 奴は必ず上洛を断ると明確に察していた。 これで朝倉攻めの口実が出来るとほくそ笑んでいた。それを阻止すべく義昭も蠢きだし、将軍義昭と信長は水面下で凄まじい暗闘を始めたのだ。 勘助はお弓と小十郎の二人に、事細かに説明を終え杯を置いた。「流石は勘殿じゃ、して今後の武田家はどのように動きます?」 それがお弓の最も知りたい事であった。 勘助はお弓の問いに答えずに、小十郎に乾いた声をかけた。「小十郎、甲斐に走れ、今の話を河野晋作に伝えよ」 「判りました」「さらに信長の越前攻めじゃが、そこで織田信長の息の根を絶つ」 勘助が隻眼を光らせ鋭く断じた。 「策はあると申されますか?」 小十郎が例の抑揚のない声で訊ねた。「小十郎、織田と浅井は婚姻関係にある。じゃが、浅井家と朝倉家はそれ以上に深い同盟関係にある。特に長政の父、久政(ひさまさ)は大の信長嫌いじゃ。 武田家から使者を遣わし、織田勢が越前に進攻いたしたら、浅井家に信長の背後を衝かせるのじゃ。これで近江の地が信長の墓場となろう」「そのように巧く事が運びまするか?」 お弓が心配そうに呟いた。「浅井久政と朝倉義景は盟友関係にある、しかも久政は希代の食わせ者じゃ。必ずや久政は、倅の長政を説得いたし寝返る」 勘助が断定した。「じゃが、勘殿、久政殿は父の亮政が死去したため跡を継いだが、勇猛な父親とは対照的に武勇に冴えなかったと聞いておりますぞ」「左様、武勇も外交も弱腰と云われた武将。なれども朝倉家への恩義は決して忘れぬ男じゃ。必ず、倅の長政殿を説得されると思いますぞ」 勘助が言葉を止め、何事か思案する様子を見せている。「直ぐにも甲斐に参り、今のお言葉を伝えますか?」 小十郎が勘助の乾いた顔を見つめた。「甲斐に行く前に京の大殿の許に行け」 「大殿に?」 勘助の言葉にお弓が怪訝そうな顔をした。
Feb 10, 2015
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「上洛への布石」(93章)にほんブログ村にほんブログ村 (京の状勢) 信玄と父、信虎の上洛への執念で武田家は愈々、上洛に向うことになるが、その戦略の前進に大きく係ることに成る人物が、織田信長である。 ここで物語を進める上で、信長の動きを書き記すことが必要と思い、年代が上下するが、筆者の勝手で物語の進行を変更する事としたい。 岐阜城下に再び山本勘助と小十郎が姿をあらわした。城下町は斉藤家が支配をしていた頃の面影はまったく感じられない。 稲葉山城あらため岐阜城と改名した信長は、城下町の拡大に努め建築工事が至る所で行われていた。 同時に岐阜城の改修も実施され、四階建ての南蛮風の居館が建築中であった。「豪華絢爛たる巨城にございますな」 小十郎が例の抑揚のない声をあげ、巨大な城郭を見上げている。 二人とも昔と異なり、身形も立派と成っていた。 これは信玄の好意であり、京の信虎も潤沢な資金を送られ悠々自適の生活を送っていた。「信長が天下を取るかもしれぬ」 山本勘助がぽっりと呟いた。 二人は工事の雑音と人々の喧噪に包まれている。 ここ数年間、信長の行動のみを眺めてきた勘助は、信長の発想力と才能に驚かされてきた。 とり分け彼の行動力の凄まじさは衆人をはるかに抜きんでていた。 三好三人衆と松永久秀の担ぎだした、足利将軍十四代の義栄を押さえ込み、足利将軍家の家督相続者以外の子とし、慣例により仏門に入っていた覚慶と名乗る、一乗院門跡となっていた人物が、後年の将軍、足利義昭である。 彼は兄、義輝が松永久秀に暗殺されると、幕臣の細川藤孝等の助けで奈良から脱出し、還俗し義秋と名乗っていた。 義秋は流浪の末に、越前の朝倉義景を頼って助けを乞うた。 併し凡庸な朝倉義景は、将軍後継者の義秋の価値を知らず持て余していた。 その話を耳にした信長は、足利義秋を美濃に招き、名前を義昭と改めさせ。上洛し第十五代将軍の座に就けた。その力量は注目に値する出来事であった。 その頃の織田家はさほど軍事力もない時期であったが、彼は成し遂げたのだ。 更に遡って永禄七年には美貌で名高い、自分の妹のお市の方を、近江の浅井長政に嫁がせ浅井家と同盟を結び、北伊勢までも平定したのだ。 いずれも京に出る道筋に当たり、その戦略眼は目を見張るほどであった。 上洛の際の織田軍の軍律の厳しさは、猛烈と言うよりも峻烈と表現したほうが適切であろう。違反する軍兵は自ら手に懸けた。 尾張の大たわけ者と言われた小童が過去の天下取りに失敗した事例を知り、その轍を踏まぬ事に勘助は仰天していた。 木曽義仲でさえ、京に軍勢を入れるや配下の将兵が京の人々に乱暴狼藉を行い、京都の人々に嫌われ天下を逃したのだ。 今の京都は平穏である。将軍義輝を殺めた松永久秀を許し摂津攻めに使い、三好勢を山城から駆逐し阿波に追い落とした。 昨年は但馬を平定し南伊勢の豪族北畠具教(とものり)も信長の前に膝を屈した。 これで伊勢全土の平定を終え、近畿地方のほとんどが織田領となったのだ。 だがこの美濃の地だけが、二人の眼から見ても慌しく感じられた。「小十郎、信長またもや何事か策しておると思われる、探って参れ。わしはいつもの旅籠におる」 「はっ」 小十郎が短く答え雑踏に消えうせた。 勘助は常宿の二階から街道の雑踏を見つめている。「うん」 思わず首をひねった、雑踏に雑じり一人の尼さんの姿が隻眼に映った。「お弓殿じゃ」 尼さんは笠を差し上げ、宿の前で二階を仰ぎ見てニッと笑みを浮かべた。「矢張り、お弓殿か?」 「あい勘殿、お久しぶりにございますな」 お弓が声をかけ暖簾をかき分け、すぐに部屋に尼姿を現した。「良くここが判りましたな」 訊ねながら、かわらぬ美貌をもつお弓に勘助が声を枯らしている。 「小十郎は、わたしの配下ですよ。お忘れですか?」 お弓の声が優しくく耳朶に響いた。「・・・-、じゃが少しも変わりませぬな」「もう婆ですよ。勘殿は少しおつむが薄くなりましたな」 お弓が勘助をからかい、一時、昔話に花が咲き久闊を懐かしんだ。「そうじゃ、わたしは数年前にお麻に逢いましたぞ」 唐突にお弓が話題を変え、お麻の事を告げた。「達者でおりましたか?」 勘助の胸中に幼かったお麻の顔が走馬灯のように駆け抜けた。「あい、御屋形が余の妹に逢って参れと仰せられ、心の臓が凍えましたぞ」「なんと、御屋形はお弓殿の娘子と知って居られたましたか?」 この言葉は勘助にとり驚くべきことであった。 御屋形は大殿とお弓殿の間に産まれた事を承知されていたのか。「脇差から察しられた模様です」「・・・・」 勘助が言葉を飲み込み、お弓の顔をまじまじと見つめ訊ねた。「左様か、流石は御屋形さまじゃ。ところでお弓殿は何才になられた?」 勘助の問いに、お弓の顔にふっと恥じらいの色が浮かんだ。「別れて九年になりますぞ、四十六才となりました。互いに年老いるも仕方がありませぬな」 お弓が遠くをみる眼差しをしている。「まだ若い、お弓殿が羨ましいわ」 勘助が往事を偲び隻眼を細めた。 お弓は肉が付きふっくらとした姿と成っているが顔つきは昔のままである。「何度も、勘殿はわたしを抱いて下されましたな」 お弓の眸子が濡れぬれと輝き、勘助の異相にそそがれた。「もう、わしは女子の用はなくなり申した」 勘助が自嘲を込め、お弓に告げた。 お弓が暫く思案しニッと微笑みを浮かべた。「小十郎が戻りましたら甲斐に向かわせますが宜しか。戻るまではわたしが勘殿の面倒はみます」 「なにか御屋形に急用でもござるか?」「今宵は三人で飲み明かしましょう、その際にお話いたします」「そうじゃな、わしも信長の事で話がござる」「ところで勘殿、お麻の事じゃが、御屋形さまが忍びの者にはさせぬと仰せられました。わたしは諦めましたぞ」「女子の身で修羅場は酷い、ましてお麻殿は御屋形の妹にござるぞ」 「正直、わたしも安堵いたしておりますぞ」 二人が黙して顔を見つめあった、無言の裡でも心が通いあっていた。 「男と女子とは不思議な生き物」 お弓が小さく含み笑いを洩らした。 「わしはそなたが好きじゃ。逢えて良かった」 勘助が、尖った左肩を撫でさすりしみじみとした口調であった。「わたしもです」 喧騒の中で二人だけの世界に浸っている。 勘助の隻眼に、お弓の胸の隆起が眩しく映った。
Feb 5, 2015
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「上洛への布石」(92章)にほんブログ村にほんブログ村 (疾(と)きこと風の如く) 信玄は甲斐に戻り、次々と謀略の手を関東に伸ばしていた。 既に駿河はほぼ武田家が支配し、遠江は徳川家康が治めるだろう。 三国同盟で均衡を保っていたが、今川家の滅亡により武田家は、背後の関東の覇者、北条家対策が急務と成ったのだ。 現に今川氏真の要請で北条家は大軍を発し、駿河を取り戻そうとし、武田勢と干戈を交えたのだ。 その為に信玄は関東の諸大名に武田に味方をするよう働き掛けていた。 真っ先に常陸の佐竹義重が信玄の呼びかけに同意した。 その為に北条家は常陸の佐竹義重、下野の茂木治清に背後を襲われ、その打開策として長年の宿敵であった、上杉家との同盟を進めていた。 まさに奇怪な暗躍が水面下に行われ始めたのだ。 なんとしても上杉家と同盟を結ぶ、武田家に敵対したからには仕方のない事である。併し、これは北条家にとっては屈辱的な同盟であった。 北条家の当主の氏政は父の氏康の命で三国峠に近い、上野の領土の割譲と、人質まで上杉家に出し、ようやく越相同盟を成立に導いたのだ。 それが元亀元年(一五七0年)四月のことであった。氏康の三男である北条三郎を養子に迎えた輝虎は、三郎のことを大いに気に入り景虎という己の幼名を与えるとともに、一族衆として厚遇したという。 十二月に上杉輝虎は法名の不識庵謙信を称する事になる。 信玄の関東侵略と北条家に対する圧力は烈しさをましていた。 既に信玄は永禄十一年に信長の斡旋で将軍、足利義昭を通じ上杉家との和睦を試みていたのだ。同年八月には上杉家との和睦が成立した。 まさに権謀術策を絵に描いたような手並みを見せたのだ。 一方、越後の上杉家も関東侵攻に飽き飽きしていたのだ。 雪解けを待って三月に豪雪を掻き分け、関東に進出し北条家に降った、豪族に攻め寄せると、彼等はこぞって上杉家に恭順を示すのであった。 その彼等を先鋒に北条勢と合戦に及ぶと北条勢は、堅城で名高い小田原城に籠り、亀が首をすくめたように合戦を回避するのだ。 こうして対峙し秋が深まる時期、越後勢が降雪を恐れ国許に引き上げると、待っていたかのように、越後勢に降った豪族は北条家の傘下に入るのである。 こうした事が毎年繰り返されていたのだ。 謙信も家臣達もこのような状況の関東攻めに呆れ返っていた。 武田勢は四月に駿河から甲斐に引き上げ、六月には北条領土である伊豆の三島攻めを行い、休む間もなく八月には信濃佐久郡から西上野を経由して、北条領に進攻し鉢形城、滝山城の二城を瞬く間に陥し、二万の大軍で北条勢の居城である小田原城を包囲した。 北条勢が常套戦略である籠城策をとったために、信玄は城下に火を放つよう下知し撤兵を開始した。 武田勢が小田原から相模川に沿って撤退中、北条勢に追い撃ちをかけられた。 これを信玄は待っていたのだ。 追撃する北条勢に対し、甲斐との国境にある三増峠の要地に数千の軍兵を隠し、待ち伏せ戦術を策していたのだ。 そうとは知らず北条勢が攻撃を仕掛けるゃ、埋伏していた軍勢が俄かに立ちあがり反撃し、これを粉砕し意気揚々と甲斐に撤退を完了したのだ。 まさに信玄は見事な陽動作戦を演じてみせたのだ。 この時期に北条家は救援の使者を何度となく、謙信の許に差し向けていたが、上杉勢はいっこうに動こうとはしなかった。 これは上杉家の戦略転換の所為であったが、北条家は知らずにいたのだ。 時を同じくして上杉家は、関東から越中制圧に戦略転換をしていたのだ。 越後勢、頼むに足らず。これが北条家の思いであったろう。 この時期、武田家は充実の時を迎えていた。国力が富み兵は最強と成った。 甲斐、信濃、西上野、東美濃と版図は拡大し、軍制改革を進めはじめた。 信玄は本格的な水軍の編成を考え始めたのも、この時期であった。 前年に伊豆に進攻した際、旧今川家の海賊衆が武田勢を大いに助けた。 義元の時代には、今川家は三人の海賊衆で水軍を編成していた。信玄はその三人を武田家に帰属させたのだ、岡部忠兵衛、伊丹大隈守、興津摂津守の三名である。信玄は岡部忠兵衛を海賊衆の頭に命じ、改名させ土屋貞綱と命名した。更に伊勢、北畠家の遺臣を召抱えた。 小浜景隆、向井正勝等の伊勢海賊衆が武田水軍に加わったのだ、これは織田信長の率いる、九鬼水軍に対抗するための施策で、強力な水軍完成を信玄は求めていた。 大安宅丸(おおあんたくまる)一艘と軍船五十艘が武田水軍の編成であった。 信玄の威勢は将軍、足利義昭の知るところとなり、信玄の動向は天下注視の的となっていた。その原因は武田軍団の精強さにあった。 武田信玄の声望が高まるにつれ、織田信長の評判が悪し様になっていった。 将軍家を蔑ろにし、神仏を信ぜずに一向門徒衆との抗争を繰り返し、伊勢長島一揆の鎮圧では、人とは思えない残酷な仕打ちで門徒衆を殺戮した。 併し確実に勢力を伸張させ、将軍義昭の政治活動に制約を加えていたのだ。 更に姉川の合戦で織田徳川の連合軍は、浅井朝倉の連合軍を完膚なく叩き、北近江も織田家の勢力圏となっていた。 元亀元年九月十二日に顕如が信長が本願寺を破却すると言ってきた。 と、本願寺門徒衆に檄を飛ばした。三好三人衆攻略のために摂津福島に陣を敷いていた織田勢を突如攻撃し、そのまま本願寺勢は石山本願寺を出て、十四日に淀川堤で織田勢と直接激突した。この戦いは織田勢優勢に終わり、本願寺勢は石山本願寺に返り、本格的な籠城の構えを見せた。 一方の謙信は越中の富山城その他の城を陥し、関東制圧に乗りだし始めた。 この時期に三河も信玄にとり見逃せぬ形勢となってきた、徳川と姓を変えた家康は、居城を岡崎城から浜松城に移し、本格的に遠江支配を目論み始めた。 その一環として武田家との関係を絶ち、上杉謙信に起請文を送り、同盟を結び、武田家と駿河支配をめぐり、完全な敵対関係となった。 いよいよ天下の覇権をめぐって世の中が騒然となってきたのだ。 そうした情況下の元亀二年一月十六日、信玄は大軍を発し電光石火の勢いで北条家の属城の深沢城を葬り、完全に駿河一国を制圧してしまった。 ここに武田家二代の念願が果たされた年となった。信玄五十歳の時である。
Jan 30, 2015
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「上洛への布石」(91章)にほんブログ村にほんブログ村 (疾(と)きこと風の如く) この永禄十一年から、元亀三年までは四年の年月があるが、信玄はこの間、関東に出兵し、北条氏政と激戦を繰り返し、北条勢は武田勢の鋭鋒の烈しさに押され、小田原城に籠城して守り切った。 こうして数々の合戦を行いながら、信玄は織田信長の養女を勝頼の正室に迎え、織田家との友好関係を強め始めた。 この間の信玄の動きは激しく、また謀略も凄まじいものがあった。 こうした動きを見せながら、彼は上洛を視野においた施策を打っていた。 今は駿府城を占拠し、氏真の使っていた書院で今後の事を熟慮していた。 信玄は脇息を躯の前にうつし、両肘を乗せて思案に耽っている。 このまま駿河に居座っては危険である。万一、北条勢と徳川勢が手を結ぶというような事態とも成れば、武田勢は袋の鼠となる。 なんせ補給線が伸びきっており、そこを腹背から衝かれることになる。 そうなれば我が軍の難戦は目に見えている、信玄が意を決し声をあげた。「誰ぞある」 「はっ」 警護の士がすかさず廊下に姿をみせた。「馬場美濃守と内藤修理亮の両人にすぐに参るよう伝えよ」 間もなく廊下に草摺りの音が響き両名が姿を現した。 馬場美濃守は黒糸縅の甲冑で、内藤修理亮は浅黄縅の甲冑を身に纏っている。「御屋形、何事にございます?」 馬場美濃守が戦場焼けした声で主に声を懸けた。 信玄が北条勢の予測と我が軍勢の弱点を述べた。 「御屋形は北条勢が出て参るとお考えですか?」「それで如何成されます」 両人とも当然という顔つきで疑問を呈した。「年明けと同時に、一旦、軍勢を引き上げる」 「甲斐に戻ると仰せになりますか?」 内藤修理亮が柔和な口調で念を押した。「このまま居座っては不味い、軍勢を引いても駿河は既に武田家の領土じゃ。 何時でも出撃できる、じゃが、一戦もせずに引くは業腹。薩唾峠で北条勢を叩き甲斐に帰還いたす」 信玄が語り終え、二人の宿老を見廻した。「良きご思案かと存じまする」 内藤修理亮昌豊が笑みを浮かべた。 北条勢に一泡吹かせて兵を退く、此れこそが我が御屋形じゃ。「両人に異存がなければ、撤退の下知をいたせ」 「ははっー」 長年、信玄と戦塵を潜り抜けた二人には、信玄の考えが手にとるように判る。 北条勢が駿河に進攻してきても、滞陣を続ける事は可能であるが、御屋形が仕掛けた、越後の内乱も年明けには終る筈である。 本庄繁長は上杉輝虎に降伏するだろう、そうなれば上杉勢が再び関東制圧に乗り出す事は目に見えている。 北条勢は即刻、駿河から軍勢を引き関東で越後勢と対決せねばならない。 既に越後の状勢は刻々と信玄に伝えられていたのだ。 本庄繁長も上杉家から離脱し、戦国大名と成る目算は十分にあった。 輝虎が信玄に通じ謀反を起こした、椎名康胤の居城松倉城を攻撃する為に越中に軍勢を発した機に、繁長は輝虎に不満を抱く豪族を味方に付けようとし、密書を送った。その密書を送った主な人物は次の通りである。 鮎川盛長一族、揚北衆の色部勝長、黒川実氏、黒川清実の近親者。 更に揚北衆の重鎮、鳥坂城主の中条景資であった。 だが、これが裏目に出たのだ。中条景資はそのまま密書を輝虎に提出した。 こうして繁長の謀反は発覚したのだ。驚いた輝虎は、即座に陣を引き払い春日山城に帰還し、繁長の居城である本庄城攻略の準備を進めた。 それを知った本庄一族の鮎川盛長が忠誠を誓うと、揚北衆は次々と上杉方に寝返った。 こうして本庄繁長は信玄の援軍が来るまで籠城を続けたが、武田家の援軍は豪雪の影響で間に合わず、彼は輝虎の軍門に降った。 こうした情報は越後に潜む、忍び者から逐一、報告を受けていた。 それ故に武田家の主従は驚く様子も見せなかったのだ。「美濃守、秋山信友に余の下知を伝えてくれえ」 信玄が何事か思案し、馬場美濃守に言葉を懸けた。「伯耆守に?」 馬場美濃守と内藤修理亮が顔を見合わせた。「急ぎ伊那高遠城にもどり、伊那衆を率い遠江に進攻いたせと申せ」「なんと徳川家と事を構えまするか?」 両人が驚きの色を浮かべた。「威嚇じゃ。家康、いささか図にのっておる。我等を甘くみると何時でも天龍川沿いから、見附方面に大軍を送り込み遠江を占拠するぞとの脅しじゃ」「これは驚きましたな、早速、そのように伯耆守に伝えまする」 この一事は駿河から武田勢が引きあげても、調子に乗って駿河を奪おうなどと思うなよ。との信玄の家康に対する威嚇の伝言であった。 秋山信友は余の武将ながら、一人でこの戦国の世を乗り切る器量がある。 信玄は小姓から従ってきた信友を信頼していた。事実、彼は信玄没後も美濃に勢力を張り、長篠合戦後も信長の十万の軍勢と戦い一歩も引かなかった猛将として名を轟かした武将である。 また美濃の岩村城の攻撃では無血開城させ、城主の未亡人を自分の室としている。彼女は織田信長の叔母であった。秋山信友は豪胆な武将であった。 永禄十二年(一五六九年)、武田勢は駿府から一斉に軍勢を引き、薩唾峠に布陣した。一月、今川氏真の要請で北条氏政率いる一万五千名が駿河に進駐するために薩唾峠で武田勢と対陣したのだ。 信玄は合戦の帰趨も気にせず、甲斐に一隊を率いて戻って行った。 武田勢の総大将とし馬場美濃守が指揮し、初春の四月まで睨みあったが、両軍とも仕掛けず、何も得るものもなく双方は軍勢を引き払った。 別命を受けた秋山信友は、伊那衆を率いて天龍川を南下し、今川の属城を陥とし遠江の引馬城の東の見附に進攻し、徳川家の武将、奥平貞能(さだよし)と合戦に及んだ。そこは遠江の中間地点にあたり、家康は信玄の盟約違反とし、抗議を申し送ってきた。 信玄は自分の知らぬ事と抗弁し、秋山信友に軍勢の引き上げを命じた。 十分に威嚇が出来たと信じたのだ。だが、この強攻策が裏目となった。 武田信玄信じられぬ、いつ背信するか判らぬ。家康はこの疑惑で信玄を恐れた。いかに今川家の属城を攻略中といえども、遠江に進攻した事は許せぬ。 家康は掛川城包囲網の本陣で、信玄の本心を考え続けていた。 未だに掛川城は屈せず、五月を迎えていた。家康は今川氏真に使者を送った。 この城を開城し遠江を引き渡せば、武田から駿河を奪い氏真殿に献上いたす。 と説き、五月六日に講和を結び掛川城を開城し、家康に引き渡したのだ。 氏真夫婦は宿老の朝比奈泰朝等と共に、伊豆の戸倉城まで退き北条家を頼った。ここに東海の覇者、今川家は事実上滅亡したのだ。
Jan 26, 2015
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「駿府城攻略)」(90章)にほんブログ村にほんブログ村 (侵略すること火の如く) 武田勢の攻撃が始まるや、前衛に大鎧の将が現れ采配を揮っている。「怯むでない。相手は騎馬武者じゃ。鉄砲で射とめよ、配置に就け」 野太くしわ深い声を張りあげている。 その下知で今川勢の鉄砲足軽が狭い峠道の柵内に、散開し筒先を揃えた。「まだ早いが、流石に今川家じゃ。まだあのような男が居ったか」 信玄が鋭い眼差しで今川勢の様子を眺め、低く呟いた。 信玄は鉄砲を重視しない武将であった。当時の火縄銃は音だけが大きく、命中精度は極めて悪い武器であった。 武田勢には鉄砲隊に代わって礫隊があった、投石で鉄砲に対抗したのだ。 山県三郎兵衛が鉄砲隊をものともせずに、猛然と騎馬を駆けさせている。 恐れを知らぬ猛将の性(さが)である。 喊声と蹄の音が轟き天地が揺れ、赤備えの騎馬軍団が後続している。 今川勢の鉄砲が一斉に轟音を響かせ火蓋が切られた、銃声が峠に木霊した。 その硝煙の中を物ともせず、赤備えが猛進し、敵の前衛に衝きかかった。 一瞬に敵の前衛が砕け散り、山県勢の騎馬武者が裂け目を広げた。「今ぞ、騎馬隊に続くのじゃ」 その命で長柄槍隊が一団となって敵の前衛に砂塵を巻き上げ突撃した。 混戦の中、三郎兵衛を頂点とし騎馬武者が遮二無二、敵勢に突き進んで行く。 悲鳴をあげ峠から崖下に転がり落ちる敵兵の姿が見える。 百足衆が猛然と駆け戻り大声で戦況を報告した。 「敵勢、退いております」 真っ先に総大将の庵原安房守が逃げ去る姿が望見される。「突撃の法螺貝を吹け」 信玄の下知で冬空に法螺貝が鳴り響き、二陣の黒備えの甘利昌忠の勢が動きだした。武田菱の指物を背に足軽勢も一斉に喚声をあげ、追撃に移った。 本陣より乱れ太鼓が打ち鳴らされ、武田勢が小山のように進撃を開始した。 峠の中ほどで怒号と悲鳴、喚声と地鳴りの音が聞こえてくる。 峠を下れば駿府城は目と鼻の先である。「御屋形さま、あれをご覧下され」 陣場奉行の原隼人が驚きの声をあげ指をさした。今川勢は駿府城に入らず、素通りして潰走している。「駿府城を奪うのじゃ」 信玄が鋭い声で命じ、百足衆が各陣営に駆けて行く。「おうっー」 雄叫びをあげた武田勢が駿府城の大手門に急行している。 城門はわけなく十文字に開けられ、一斉に将兵が突入しているが干戈の音が聞こえてこない。 (氏真、逃亡を計ったな)と信玄は悟った。 「各勢は城を包囲いたせ」 信玄の下知で武田勢が駿府城を包囲した、その勢一万八千名の旗指物が冬空に翻っている。 「これが音に聞こえた今川勢か」 信玄を囲んで馬場美濃守信春と内藤修理助昌豊の両将か唖然としている。 既に駿府城は無人と化していたのだ。 国主の今川氏真は緒戦の報告を聴くや、二千の兵を伴い裏手の搦め手より逃亡していたのだ。戦う意地も勇気もない男であった。 このような男が名門、今川家の当主であることが悲劇であった。 氏真は大井川を渡河し、遠江の掛川城に向かって逃走していた。 掛川城の守将は、今川家で猛将の誉れの高い朝比奈泰朝(やすとも)であり、三千の兵力で守りを固めていた。 氏真が駿府城を逃亡した時には二千の兵が付き従っていたが、途中で逃亡離散し、掛川城に着いた時には、百名ほどに減っていたといわれる。 この逃亡時、氏真の正室早川殿(北条氏康の娘)や侍女らは輿の用意もなく、徒歩で逃げるという悲惨なものであったと伝えられている。 こうして今川勢は本格的な合戦を行わずに敗れ、十二月十三日に武田勢は駿府城に入城した。 さらに駿府城の支城である愛宕山城や八幡城も武田勢に落とされた。 信玄は北条家に対し、「上杉と今川が示し合わせ武田家を滅亡させようとしたことが明らかになったので今川家を討つ」と説明していたが、娘が徒歩で逃げる羽目になったことに激怒した隠居の、北条氏康は武田家との同盟破棄を決意した。北条氏政は氏真の援軍要請を受けて十二月十二日に駿河の援軍に向かったが、時遅くなり伊豆三島に対陣するに留まった。 信玄は念願の駿河を手に入れ、直ちに塩を確保し岩淵より富士川を利して甲斐に運び入れた。時に永禄十一年十二月のことであった。「御屋形さま」 駿府城の信玄の許に、河野晋作が緊迫した顔をみせたのは、年も押し迫った晩の事であった。 「北条勢、動きよったか?」 信玄が驚きもせずに訊ねた、これは予期したことであった。「はい、氏真殿の要請を受けた北条氏政殿、軍勢を繰り出した模様にございます」 「氏真め、妻の実家に助けを求めたか」 信玄にとり驚くことではなかった、武田家の駿河進攻で長年に渡る三国同盟が、これで破却をみたのだ。 「掛川城はいかがじゃ?」「流石に朝比奈泰朝、老練にございます。徳川勢五千名に対し、一歩も引かず籠城いたしております」「ご苦労であった。引き続き北条勢から目を離すなよ」 信玄は一人となって今後のことを熟慮していた。下手をうてば北条勢と徳川勢を敵に廻すことになる、補給路も伸びきっている。まずは塩を確保したことで上出来か、ここは一旦、軍勢を引くか。 併し、徳川家康め、若いが遣ることが早い。信玄が感心している。 信玄が駿河攻略に出るや、徳川勢はすかさず浜名湖と天龍川の中間地点にある引馬城を陥し、掛川城を包囲した。 掛川城が陥ちたとしたら、遠江一帯が徳川家康の支配地となる確率が高い。「五月蝿い男が尾張の前に居る」 信玄が思わず独り言を呟いた。 上洛は信玄の夢である。その最強の敵となる人物は織田信長に成ろうと信虎と勘助からも、知らせがもたらされている。その信長の盟友である三河の徳川家康が、遠江まで押さえる勢いで東進しているのだ。「何か手を打たねばなるまいな」 信玄は徳川対策を思案していた。 信玄が再び北条家と仲直りをし上洛を目指す、西上作戦の開始は甲相同盟を回復した後の、元亀三年年(一五七二年)十月まで大きく遅れることになる。 この事が信玄を苦難に貶める原因と成るとは、誰も知る由もないことであった。
Jan 22, 2015
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「信玄、動く(1)」(89章)にほんブログ村にほんブログ村 (武田勢出撃す) 信玄が一座のざわめきを制し言葉を継いだ。「余は、上杉勢が信濃に出兵せぬよう、考えうる策を考え尽くした。 我が武田は近々のうちに徳川家とも手を結ぶ、大井川を境とし東の駿河は我が武田家が支配いたす。家康には西一帯の切り取りを任せるつりじゃ」「お待ち下され、ただ今のお言葉には納得が参りませぬ」 最早、押されもせぬ堂々たる武将に成長した山県三郎衛が反論した。「反対者は山県昌景のみか、余の考えに不服な者は他には居らぬのか?」 信玄が脇息に身をあずけ、一座の武将達を眺めまわした。「不服に存じます。徳川家に三河を平定され、遠江までくれてやるお積りにございますか?」 山県三郎兵衛が髭面をみせ反対し、知将でなる内藤修理亮も反論した。「内藤昌豊も余の策に反対いたすか?」「左様、山県殿の仰せられたとおり、徳川に遠慮はいりませぬ」「何故にそう申す?」「恐れながら、徳川家康は織田信長と誼を通じております。これ以上、勢力を拡大させては、我が家の脅威と成りましょう」 内藤修理亮昌豊が、柔和な口調で自身の考えを述べた。「そうじゃ。昌豊の言う通りじゃが、我等には海が必要じゃ。まずは駿河を支配下に置く、これで塩の心配はなくなる」 信玄の口調に断固たる決意が込められている。 「なれど」 山県三郎兵衛が口を挟もうとした。「申すな、余は何度も申した筈じゃ。我等、武田家は上洛いたすとな。 我等の前に居る大名は誰か? 真っ先に餌食となるのは徳川家康じゃ。嫌でも三河、遠江は我等武田の領土となる」「これは、迂闊にございました」 山県昌景はじめ全ての武将が顔を染め、己の至らなさに顔を伏せた。 彼等は信玄の深慮遠謀な軍略の才を、改めて知らされたのだ。「重ねて申し聞かす。我等の最大の敵は織田信長じゃ。これを忘れるでない」 信玄の声が凛とし、諸将の耳朶に響き渡った。 この時期に信玄は自分の最大の敵が、織田信長と解っていたのかも知れない。 だがこの年の九月に信長は、義輝の後継の十四代将軍、義昭を奉じて上洛を果たすとは、神ならぬ身の信玄にも予想もつかない出来事であった。 (駿河攻略) 永禄十一年二月、信玄の使者として山県三郎兵衛昌景が岡崎城に赴き、家康と駿遠(すんえん)分割の誓紙を交わした。 武田勢は駿河進攻を十一月と定め、その準備に謀殺された。 信玄は父の信虎が内部崩壊を画策した、今川家の重臣の瀬名駿河守、関口兵部、葛山備中守と接触を開始した。 彼等を利でもって内応を促し、信玄は彼等の手なずけに成功したのだ。「何時でもお味方としてお役にたちます」 三人の今川家の重臣は、主人の氏真の行状に愛想を尽かしていたのだ。 義元の弔い合戦もせずに、酒と女に現つを抜かし、輪をかけ流行しだした風流踊りに熱中するようになった。 心ある者は唇を咬んで憂え、今川家の将来を危惧した。 駿河全土の領民までが家業を疎かにし、風流踊りに熱中した。 国主の氏真が真っ先に熱中しているのだ。 三月には越後に動きがあった。輝虎が信玄の読み通り越中に軍勢を発した。 それを待っていたかのように、上杉家の武将の岩舟郡本庄城の本庄繁長が挙兵した。これで上杉輝虎は武田家に手が出せない情況となった。 武田勢は満を持し、十一月に躑躅ケ崎館から一万八千名の大軍が颯爽と出陣した。 諏訪法性と孫子の御旗二流が冬空に翻り、鈍空の空に舞っている。 先鋒は山県三郎兵衛の赤備え、甘利昌忠の黒備えの騎馬武者の群れが行く。 中陣は馬場美濃守信春、内藤修理亮昌豊が続き、本陣は陣場奉行の原隼人、旗本奉行の今井信昌が配置され、その後に総帥、武田信玄が続いている。後備えは小山田信茂、武田勝頼が受け持ち、予備隊として武田信豊、秋山信友の率いる三千名が後続している。 既に先発部隊として駿河、三河の一騎合衆の波合備前、平屋玄番の五百名が一日前に出陣していた。 信玄は武田菱の前立兜に、武田重代の鎧に緋の法衣を纏い、黒駒の駿馬に跨っての出陣である。 軍勢は甲斐と駿河の国境の富士川沿いに南下し、十三日には由比に進出した。 今川勢も武田勢の出撃を知り、庵原安房守(いはらあわのかみ)を総大将にし、一万五千名の軍勢が授け、薩唾峠(さったとうげ)で陣を構え対峙した。 併し、全く戦意のない軍勢である。 国主の氏真が駿府城で恐怖に身を震わせているのだから仕方がない。 更に宿老の三名が武田家に内応し、軍勢を動かそうともしないのだ。 信玄が法衣を翻し前線に現われ、敵勢の陣営を眺め頬を崩した。 これが海道一の弓取りと言われた今川家の軍勢なのか、戦意の欠けらも見られなく、今にも崩れそうな陣構えである。「憐れなり、義元殿」 信玄の胸中に公卿姿の故義元の顔が過った。 これなら、山県三郎兵衛の赤備え一隊で突き破れる。 併し、信玄は慎重であった。長年の念願であった今川勢との合戦である。 ここで逸って齟齬(そご)をきたしては何にも成らない。 信玄は本陣を構え対陣し、各地の様子を盛んに気にしていた。 十二月六日の早暁、信玄が陣頭に現れた。 そろそろ潮時と決意した信玄であった、目前の今川勢の様子は相変わらず、戦意に乏しい。 信玄が軍配を軽く振った。法螺貝がびょうびょうと冬空に響き渡り、百足衆が猛烈な勢いで先鋒の赤備えに駆け寄って行った。「おおっー」 薩唾峠に雄叫びの声が轟いた。ゆったりと山県三郎兵衛が騎馬で現われ、輪乗りをはじめた。小脇には自慢の大身槍を抱えている。 武田勢の本陣から太鼓の乱れ打ちが、峠の全域に轟き始めた。「かかれー」 山県三郎兵衛が野太い声で檄を飛ばし馬腹を蹴った。彼を頂点に三千の赤備えが、一斉に峠道を駆け上って行く。 馬蹄の響き、馬の嘶(いなな)きと軍兵の喚声が湧きあがり、両軍の距離がみるみるちぢまった。 先頭を駆ける山県三郎兵衛の鋭い眼光に、敵兵の慌てる様子が見えた。 眼が血走り、腰が引け、今にも崩れそうな様子である。
Jan 18, 2015
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「乱世激化す(2)」(88章)にほんブログ村にほんブログ村 (信玄、駿河今川攻めを決意す) 将軍に反抗する一味が堂々と反旗を翻し、将軍を殺害する世の中の動きを知りながら、勘助は小十郎を伴い岐阜に足を踏み入れていた。 城下は喧噪につつまれ、至る所で工事が行われている。新な道普請や武家屋敷が新築され、岐阜城には新しい居館の工事も進められている。「小十郎、そちは信長という人物をどのように思う?」 勘助が工事現場の傍に佇み、職人達の動きを眼でおって訊ねた。「わしには判りませぬが、この繁盛は只ならぬことですな」 小十郎の眼からみても、この町の様子は異様な光景と映っているようだ。「古来から天下を制するには、美濃を制せよと言われておる。信長はこの岐阜に拠点を置く積りじゃな」 勘助は信長の野望を、岐阜の町の変貌と空気で見抜いたようだ。 美濃からは京は近い、織田家は尾張からこの岐阜に移り住むだろう。 それで天下を望む信長の野望がありありと判る。 これらの情況は逐一、信玄の許に知らされていた。 信虎が信長には得体の知れぬ臭いがあると言っていたが、事実と確信できた。「信長に先を越される」 勘助の脳裡にこのことが過ぎった。 考えてみれば織田家は永禄七年に北近江の浅井長政と同盟を結び、その際、信長は妹のお市を輿入れさせた。 一方では信長は永禄八年に一介の牢人であった、滝川一益を大将に抜擢し、伊勢地方に進出し当地の諸豪族(北勢四十八家)と激戦を繰り返している。 信長の戦略は顕かに天下制覇の野望が見えるが、勘助の恐れは信長の人材登用の妙であった。 百姓から成りあがった木下藤吉郎もその例であった。 話が飛ぶが、三河の松平家康は永禄九年十二月に、信長の斡旋で勅許を得て松平から徳川家と改めた。これにより正式に徳川家康を名乗ることになる。 この意味は今川家からの離脱を宣言したもので、家康は本格的に三河遠江の地に触手を伸ばすことに成る。 こうして永禄十年が暮れ新年を迎えたのだ。 古府中の躑躅ケ崎館に、甲斐、信濃、西上野の諸豪族の主が続々と年賀の祝いに訪れて来た。 信玄は一人ひとり謁見し、魁偉な眼を細めて言葉を与えている。 この新年の式典を甲斐の領民達は驚きの目でみていた。 それらの式典が終り信玄は股肱の重臣を集め、年賀の祝宴を行った。 主殿には宿老や若き時より苦労を分かちあった者達が一堂に介していた。「御屋形さま、我が武田家も大きうなりましたな。こうして各地の豪族達が恭順の意をもって年賀に訪れ、祝着に存じます」 馬場美濃守信春が一同を代表して祝辞を述べた。「武田に恭順いたした豪族は二百三十八名となった。これは昨年の起請文で判ったことじゃ、じゃが浮かれてはならぬ」 信玄の魁偉な巨眼が炯々と輝きを増し、馬場美濃守信春に注がれた。「余は各地に忍びを放っておる。尾張の織田信長は美濃を制し、岐阜城を改築いたしておると聞く。一方、岡崎の徳川家康は三河一円を平定いたし、遠江を侵略せんといたしておる。余は年内に駿河を平定することに決めた」 信玄がはじめて明確に駿河攻めを宣言したのだ。 「おおっー」 一座の武将連から喜びの雄叫びがあがった。 そんな武将の姿を見た信玄が手で制した。「我が武田家の力が弱まれば、起請文なんぞただの紙切れじゃ。驕るでない。余の目的は上洛にある。併し長年に渡る越後勢との戦いで西上おぼつかない情勢であった。だが西上野が安泰となったこの時期、駿河平定を成し遂げたい」 信玄が神妙な口調で述べた、些かも驕りがみえない。「塩どめをいたした報復じゃ」 武田四郎勝頼が満座の中で声を強め叫んだ。 彼も今年で二十二才となり、猛々しい猛将に育っていた。「勝頼、合戦は報復で為すものではない。合戦で家臣、領民達を苦しめる事は悲しきものじゃ。合戦は心して為さねばならぬ、浮かれるな」 そう勝頼に忠告を与えた信玄の胸裡に、切腹した義信の顔かよぎった。「ですが父上、塩どめで領民は苦しんでおります。この山国にとり漬物でも塩は必要にございます」 勝頼の言葉に信玄の顔色が変わった。「愚か者め、合戦ともなれば勝たねばならぬ。その為に犠牲の少ない策を練る、これが武将としての努めじゃ。そちにそのような思案があるか?」「・・・-」 勝頼が不満顔で口を閉ざした。「まずは越後勢の力を削がねばならぬ。そのために余は石山本願寺と軍事同盟を結んだ。輝虎が信濃を窺がえば、越中の門徒衆が決起いたす。さらに関東でも北条氏政殿が軍勢を動かす。それだけでは心許なく本庄繁長と手を結んだ」「御屋形さま、真にございますか?」 真田幸隆が仰天して訊ねた。 そも本庄繁長とは如何なる人物か、天文八年、越後の豪族の本庄房長の子として誕生。幼名は千代猪丸と言う。 彼は初め上杉輝虎と対決していたが、永禄元年に輝虎の家臣となり、川中島合戦や関東攻めなど、輝虎に従って各地を転戦し、武功を挙げた。 併し本庄家等越後北部の領主達は揚北衆と呼ばれ、守護や守護代としばしば対立し、自立の傾向が強かった。永禄十一年に輝虎の命を受け長尾藤景、景治兄弟を謀殺したが、これに対しての恩賞がなかったことに不満を持った繁長は、信玄の要請に応じ、上杉氏からの独立を目論み、尾浦城主で大宝寺家の当主、大宝寺義増と結んで上杉家に対する謀反を承諾したのだ。 それだけ繁長は勇猛で聞こえた武将であり、彼は越後岩舟郡にある本庄城主で、秘かにに戦国大名となるべく画策していた。そこを信玄が巧く調略したのだ。 それだけ本庄繁長の武田家への恭順は心強いものであった。 「輝虎は雪解けを待って越中に兵を繰り出そう、その隙に本庄は寝返る」「これは驚きました」 内藤昌豊と高坂弾正が顔を見つめあった。「三国同盟が破綻したと申しても、甲相同盟は有効じゃ。じゃが北条勢を全面的に信用はできぬ。その為の布石じゃ」「参りましたな、我等には到底思いつかぬ策にござる」 一座の武将連がざわめいた。「良いか、余の決心は固い。何時でも出陣できるよう準備は万端に成せ」 主殿の大広間に信玄の声が響き渡った。
Jan 11, 2015
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「乱世激化す(1)」(87章)にほんブログ村にほんブログ村 (足利義輝の死) 永禄八年(一五六五年)五月十九日、京の都が震撼する出来事が勃発した。 それは日没とともに将軍御所の二条館に、三好義継(よしつぐ)と松永久秀の軍勢が押し寄せたのだ。 これは二人が示し合わせた反乱であった。御所には六十名ほどの幕臣等が詰めていたが、門扉が破られ反乱軍が御所の敷地内に乱入してきた。 第十三代将軍足利義輝は剣の達人で知られた人物であった。 彼は大広間に累代の名刀を数本抜き身とし、畳みに突き立て反乱軍を待った。 御所の内部では怒号、悲鳴、歓声。鋼の打ちあう音が聞こえてくる。 反乱軍と幕臣が将軍の命を巡って、必死の攻防戦を繰り返す物音である。 どっと足音も荒々しく甲冑姿の武者が大広間の義輝を目差し乱入してきた。 義輝は甲冑のすき間を狙い、大刀を替えては凄まじい働きを示したが、衆寡敵せず、三十才の若さで壮烈な最期を遂げた。『五月雨 露か涙がほととぎす わが名をあげよ雲の上まで』 足利将軍、義輝の辞世の句である。 彼は何度も上杉輝虎率いる越後勢を上洛させ御所に呼んでいた。 その際に一言「三好、松永を討て」と命じたなら、輝虎は喜び勇んで二人を誅殺したであろうが、義輝は遠慮して命ずる事をしなかった。 それが義輝を不幸な死に追いやったのだ。 彼の死でまさに絵に画いたような、壮絶な下克上の世が訪れたのだ。 この乱により将軍不在の年が、三年間も続くことになる。 この反乱を信虎は謀略で生き延びた嗅覚で察していたのか? 止まれ、河野晋作はこれを見る事もなく京を去っていた。 こうした混沌とした時代背景のなか甲斐では婚礼の式が行われていた。 この年の十一月に、武田家の四男、四郎勝頼と織田信長の養女で姪にあたる娘との結婚式が執り行われた。 この目出度い婚儀の席で信玄の胸中は、苦悩で揺れていた。 信玄は婚儀を決めるまで悩みに悩んだ、それは嫡男の義信の事であった。 謀反が顕かとなり、義信は甲斐の東光寺に幽閉されてる。 信玄は何度となく足を運び、今川家との手切れの意味を説明したが、義信はがんとして受け付けようとはしなかった。。 あれほど柔和な眸子の倅の眼の奥に、狂気のような光が宿ってきた。「義信め、気鬱に成りおったな」 信玄は義信の精神状況が悪化した事に気付いた。 これでは武田家の当主には成れぬ、そう信玄は感じとった。 そうした時期に信長から、婚儀の話が持ち上がったのだ。 信玄は義信の廃嫡を決意し、勝頼を武田家の跡取りと決めた。 この背景には武田、織田、両家の思惑の一致があった。 武田家は今川氏真の腑抜けに眼を付けた、三河松平家の進攻を恐れ、今川家との手切れを想定した新たな同盟者が必要であった。 一方の織田家は三河の松平元康の勢力圏が安定せず、安心して美濃攻略が出来ない情況にあり、それを埋める為に両者の利害が一致したのだ。 これは信玄の遠交近攻策の一環として意義深いものであった。 更に関東では北条勢が有利に戦いを進めていた。氏康から氏政(うじまさ)に代替わりた北条勢は、上杉勢の勢力圏である下野、常陸などの北関東での戦局の主導権を握り、上杉勢を圧迫していた。 関東では北条勢に押され、越中では事ある度に本願寺門徒が決起し、上杉勢は東奔西走していた。上杉輝虎の受難の時期であった。 信玄がこの情勢をみて動き始めた。武田家の上野地方の侵略を阻止せんとし、上杉輝虎と手を結んでいた、西上野の中小豪族の盟主である長野業政(なりまさ)に対し、信玄は西上野の国峰城主の小幡信貞(こばたのぶさだ)を味方につけ、長野氏に対する包囲網を構築していたが、この年に上杉家の慌ただしい動きを知り、厩橋城の北条高広、新田金山城の由良成繁(なりしげ)が上杉から離脱した。 九月二十九日、信玄は二万の精兵を率い長野氏の居城である箕輪城を包囲し、落城に追い込んだ。 さらに翌年の二月に内藤昌月(まさつき)を城代として総社城をも攻略し、念願の西上野一帯を完全に手中に治めたのだ。 こうした背景をもとに信玄の駿河進攻が現実味をおび始めたのだ。 それは三国同盟の一方的な破棄であり、今川家はその現実を知ったのだ。「おのれ信玄、三国同盟を一方的に破るとは、駿河を敵にする積りか」 今川氏真は八月に武田の進攻を止めるべく塩どめを強行した。これは信玄に対する報復処置であり、山国の武田家に深刻な影響を与えたのだ。 この今川家の策は裏目となった、武田家は一丸となり本格的に駿河進攻を画策しはじめたのだ。 それは信虎の口癖であった、塩の道と海の道を確保するのじゃ。 武田家の上洛の為には、どうあっても避けては通れない道である。 一方、塩どめで甲斐の民衆の困窮を知った、上杉輝虎は宿敵の武田家に塩を送ってきたのだ。松本市の初市はそれを記念したものだと言れている。 戦国乱世の時代のひとつの美談である。 十月十九日、二年間幽閉されていた義信が自害して果てた。毒殺とも言われ るが信憑性は乏しい。信玄は義元の娘である義信の寡婦を今川家に送還した。 ここに信玄の駿河、遠江への進攻策が具体化に向かって行くのであった。 この年にはさらに乱世の時代を大きく変える事変が起こった。長年に渡り美濃攻めを繰り返していた、織田信長が美濃三人衆を味方につけ、斎藤家の居城、稲葉山城を攻略し名を岐阜城と改めたのだ。 これは信長にとり長年の宿願であり偉業でもあった。 これにより本格的な全国制覇に向かう記念すべき年となったのだ。 信長は尾張から美濃に居城を移し、楽市楽座を奨励し城下は繁栄の一途を辿った。これは誰もが自由に商いが出来る仕組みで、これにより織田家は豊富な軍資金を得ることになった。 この楽市楽座とは如何なるものか、初めは近江の大名の六角定頼が楽市楽座を発令した事が初見と云われていた。 当時は座という商人たちの組合のようなものがあったが、新しく商をしたい者がいても、なかなか新規参入が厳しいという難問があった。 そこで座を廃止し、城下町では自由に商しても良いと言う触れをだした。 しかも税金も安いと宣伝した楽市楽座が、織田信長の考えた構想であった。 現代風にいえば規制緩和と減税を岐阜城下町で行ったわけである。 これにより城下町に人々が集まってきて城下町が潤うという訳である。 また信長は商人達に城下町に宿泊することを義務づけたりもした。 こうして楽市楽座により流通を集中させて、町を繁栄させ人を集めたのだ。 まさに経国済民ともいうべき施策であった。
Jan 6, 2015
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「変貌する戦国乱世(7)」(86章)にほんブログ村にほんブログ村 新年明けましておめでとうございます。今年も皆様にとって良い一年と成るよう祈念いたしております。 現在の日本もこの小説の如く混沌とし、隣国の中国、韓国などの反日が益々、強まる事と思います。世界経済も予断を許さず、我々はそこにある危機を政府と共有し、安倍政権の国内政策と外交政策が本当に日本国と国民を守るものか、冷静に注視する必要があります。 (下剋上の世) 勘助は軽く足をひきずってはいるが、肩を大きく振ることはなくなっていた。 渋茶色のくたびれた羽織りに野袴姿で街道を歩んでいる。 街道は収穫した野菜を担いだ百姓や、大八車に満載した荷物を運ぶ商人等で混雑している。そんな風景の中で隻眼の浪人は嫌でも目に映る。「あのお方が山本勘助さまか」 小十郎が松林の翳から、そっとその様子を窺がっている。 何度となくお弓の命で勘助の許に使者として訪ねたが、不思議と直に会った事はなかった。 お弓からは肩を左右にゆすり、足をひきずる隻眼の男とは聞かされていた。 先刻から勘助は、物陰から自分を見つめる視線を感じとっていた。 小十郎という忍び者と気づき、路傍の端に腰をおろし竹筒を口にした。「山本勘助さまか?」 微かな忍び声が流れてきた。「そちが小十郎か?」 勘助の問い、目の前に風采のみすぼらしい小男が現われた。 腰に小刀を差した姿が、なんとなく滑稽に映る。「小十郎か?、山本勘助じゃ。これからはわしと一緒いたせ」 否を言わせぬ口調で勘助が小十郎に命じた。「判りましたぞ」 全く感情もなく抑揚もない声の持ち主である。「そちも飲むか?」 勘助が水筒を差し出した。 「頂戴いたします」 素早く水筒が勘助の手から小十郎の手に移っている。「河野晋作から金子を預かって参ったか?」 「はい、ここに」「そちが持っておれ」 「わしが?」「そうじゃ、宿の払いもそちがいたせ」 初めて小十郎の細い眼に笑みが浮かんだ。 信じて貰える。忍び者と蔑まれてきた小十郎にとり嬉しい事であった。 この方なら信じて就いて行ける、小十郎はそう直感した。「山本さま、これから何処に行かれます?」「尾張じゃ。織田信長の治世がいかほどか、わしの眼で確かめたい。その後は京に向かう」 「はっ」 小十郎は何も訊ねずに従った、何となく勘助の人柄に引かれたのだ。 二人はゆったりとした歩調で尾張に向かった。 その頃、京の菊亭大納言の屋敷の離れで、河野晋作は二人の人物と会っていた。 その人物とは駿府城から逃れた、信虎と腰元で忍びのお弓であった。 信虎の風貌は歳とともに怪異となり、妖怪のような雰囲気を醸しだしている。 この薄暗い部屋で二人だけで対面したら、と思うと河野晋作を以ってしても薄気味の悪い事であったが、幸いにも傍らのお弓の存在が救いであった。「大殿、お久しゅうございます」 河野晋作の挨拶に、信虎はいきなり怒声でもって応じた。「倅の太郎義信を幽閉いたし、宿老の飯富兵部に切腹を命ずるとは信玄は何を考えておるのじゃ」「大殿、御屋形さまのお考えは分かりませぬが、それは誤解にございます」 河野晋作が、父、信玄に対する義信の謀反と飯富兵部の死の真相を述べた。「因果は巡るか」 信虎がぽっりと呟いた。 往年、自分が行った信玄に対する仕打ちを思いだしたようだ。「河野殿、どうして大殿がこに居られることを知りました?」 昔と変わらぬ容姿のお弓が不審そうに訊ねた。 河野晋作は勘助の存在を語らねばならなくなった。 「勘助め、奴は生きておったか?」 信虎の怪異な貌に薄い笑みが浮かんだ。「勘助殿はお元気ですか?」 すかさずお弓が訊ねた。 「お元気にございます」「それで今は何処に居られます?」 お弓が切れ長の眼を輝かせ興味深く訊ねた。「小十郎と旅を為されておられます」 傍らで信虎が苦い顔をした。彼には勘助の考えと行動が判るようだ。 「信玄の奴、何時になったら動く積りじゃ」 矛先が信玄に向けられ、お弓が助け舟をだした。「大殿、信玄さまは駿河攻略の為に、本願寺と同盟を結ばれるお積りです」「お弓、そのような事は見通しておる。勘助は尾張に向かっておる」 信虎が怒声を挙げ、途中から含み笑いに転じた。「大殿は全てお見通しにございますね」 お弓が妖艶な眸子で信虎を見つめた。「判らいでどうする。河野、勘助が使者となり本願寺と軍事同盟を結んだの、遠交近攻策の一環じゃな」 河野新作が驚きを隠さずに訊ねた。「その遠交近攻策とはいかなる策にございます?」「判らなくてもよい。戻って信玄に伝えよ。今川家と手切れをいたし、義信の室を氏真が許に帰せとな」 「義信さまのご正室を?」「そうじゃ、氏真の奴め、どう出るか見ものじゃ」「今川家から手切れを申して参りますよ」 お弓がしらっとした顔つきで意見を述べた「お弓、そちが女子であることが勿体ないは」 河野晋作が二人の会話を憮然とした表情で聴いている。「駿府を退く際に小林兵左衛門を失い、今はお弓一人が面倒を見てくれる。 それにな菊亭大納言家も貧乏公卿じゃ、酒を飲むにも苦労いたしておる。わしにも遣る事がある、信玄に伝えてくれえ、金子を送るようにとな」「はっ、ただ今のお言葉、間違いなくお伝えいたします」 信虎が感極まって涙をこぼしている、年を経て涙もろくなったようだ。 「更に、いまひとつある。今川の三人の重臣どもは武田に内応の心を抱いておる。即刻、調略いたすか、応ずる気配がないなら氏真に洩らせとな」 「お言葉たしかにお伝えいたします」 答えつつ河野晋作は信虎の謀略の烈しさに驚嘆していた。「ついでに京の町を確りと見てゆけ、近々には大荒れいたそう。わしはそれを楽しみにいたしておるのじゃ。古い権威が没落いたす様子をな」「この京の都が荒れますのか?」 河野晋作が不思議そうな顔をみせている。「河野、去る前にいくばくかの金子を置いて参れ」「はっ」 拝跪した河野晋作が、巾着をお弓の手に渡した。「確かに」 お弓がニッと微笑み、金子を懐に仕舞った。
Jan 1, 2015
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「変貌する戦国乱世(6)」(85章)にほんブログ村にほんブログ村 (石山本願寺と軍事同盟成立) 追加の酒を飲干し、勘助が真正面から河野晋作を見据えた。「あの合戦は酷かった。あの越後の小童にしてやられた」 勘助が異相を歪め、悔しそうな顔付をした。「・・・・」「わしも最後かと思ったが、良く逃れる事が出来たものじゃ」「あの首なし遺骸は影武者にございましたか?」 「そうじゃ」 勘助が河野の前の徳利に手を伸ばし肯いた。「何故に貴方さまの存命を御屋形さまは、ご存じにございます?」「わしが御屋形にお知らせいたした」 「・・・-」 武田忍びの頭領、河野晋作が眼を丸くしている。 なんという謀略を成さるお方じゃ、と内心で驚嘆した。「まず書状を貰おうか、わしが石山本願寺に参る。そちは京に行け」「京に?」 「大殿の居場所は判っておる。そちは大殿にお会いして甲斐に戻れ」 勘助は河野の意向を無視し、有無を言わさずに言い放った。「大殿はご無事に京に居られますのか?」「菊亭大納言さまのお屋敷に客分として暮らされておられる」「菊亭大納言さまと申さば、御屋形さまの正室三条の方さまのご実家ですな」「そうじゃ、本願寺の顕如さまの正室は、三条の方の妹にあたられる」 またもや河野晋作は勘助に驚かされた。「本当にございますか?」「嘘を申してなんとなる。まず大殿の近況が如何なるものか確りと見て、そのご様子を御屋形にお知らせして貰いたいのじゃ」 「判り申した。ほかに拙者に用はございませぬか?」 河野晋作がみすぼらしい恰好の勘助の姿を眺め訊ねた。「このような尾羽打ち枯らした浪人姿では何も出来ぬな」 勘助が我が身を眺め、自嘲しながら口を開いた。「一人では何かと不便じゃ。誰ぞ一人あずけては貰いまいかの」「小十郎はいかがにございます」 どうだと言わんばかりに河野晋作がにやりとした。「なにっ、小十郎が一緒か?」 勘助が身を乗り出した。「今頃は暇を持て余しておりましょぅな」「三月末には石山本願寺を去る。それまでに摂津に参るよう伝えてくれえ」「承知いたしました。ところで山本さま金子はお持ちにございますか?」「それが無くて困っておる」 勘助が無精髭をさすって隻眼を瞬かせ、河野晋作を見つめた。 河野晋作が懐中から巾着を引き出した。「半分だけ置いてゆきます。あとは御屋形と相談し、小十郎に預けましょう」「有り難い、明日の糧にも困っておった」 勘助が珍しく剽軽な態度で粗末な巾着に金子をしまった。「武田家の軍師殿が無一文にござるか」 河野晋作が揶揄した。「仕方があるまい、自分で蒔いた種じゃ」「山本さま、御屋形さまは何で本願寺と軍事同盟を結ばれます」 河野晋作は未だに全国規模の戦略が理解できないようだ。 勘助の隻眼が強い光を放ち、静かな口調で語りだした。「今の戦国大名で天下に号令する一番乗りは、織田信長ではないかと感じておる。勿論、御屋形の力量は抜きん出ておられるが、なんせ地の利が悪い。西に上杉輝虎、南に向かえば駿河、三河と尾張が控えておる」「そうですな、北には北条家がございますな」「北条は関東制圧が目的で直接、武田家の脅威ではない。むしろ上杉勢を押さえ込んでくるれる味方じゃ。しかし上杉勢が関東に進攻せねば積極的な味方とはなりえぬ」 そう語り終えて勘助が酒を飲み下した。「・・・・・」 河野晋作も、そう砕いて聞かされると勘助の恐れも理解できる。「このような状況で上洛する為には、本願寺との軍事同盟が必要不可欠じゃ」 「成程、流石は軍師殿じゃ」 河野晋作が感心の面持ちで異相な勘助を見つめた。確かに甲斐の四方は有力大名がひしめき、何時、敵に廻るやも判らぬ情勢下にある。「信長と申す男は恐ろしい。権威や黴臭い仕来りや神社仏閣なんぞ信じておらぬ。幕府や宗門も然りじゃ、そちにもおいおいと判って参ろうがな」「本願寺も漸く織田信長という武将の正体が分かってきましたな」「その為にも、武田家との同盟は歓迎する筈じゃ」「山本さま、吉報をお待ち申します」 河野晋作も勘助の説明で、本願寺の思惑と勘助が遣ろうとしている事が、朧気ながら解ってきたようだ。「わしは死人じゃ、大手を振って現われる訳にはいかぬ。小十郎が使者じゃ」「御屋形さまには、そのようにお伝え申しあげます」「頼むぞ」 勘助の言葉に合点した河野晋作が今後の行動を述べた。「京に上り大殿にお会いして甲斐に戻ります、必ず小十郎を差し向けます」 その言葉を聞き勘助が無言で立ち上がった。「ややっ、その足は可笑しい」 河野晋作が眼を剥いた。勘助の足の引きずりが小さい。 「これが本来のわしの足じゃ、武田の軍師の時は大げさに化けておった」 山本勘助が呵々と高笑いを残し姿を消し去った。「驚いたお方じゃ、正体が何処にあるのか判らぬお人じゃ」 河野晋作が驚き顔で勘助の消えた戸口を見つめた。 石山本願寺。それ自体が巨大な城郭であり、淀川と大和川に挟まれた要害の地にあった。門徒衆四万余が籠城できると言われる程の規模を誇っている。 一向宗とは浄土真宗のことで本願寺は真宗の本山である。本願寺第十一代の法主(ほっす)、顕如(けんにょ)の妻が、信玄の正室三条殿の妹であることは既に述べたが、それ以外でも武田家と本願寺の関係は深かったのだ。 越中で事々に越後の上杉家に、一向衆が反抗してきたのもその為でもあった。 顕如と山本勘助が本願寺で正式に会談を行っていた。 顕如は二十三才の青年で紺の法衣を纏い、勘助の異相を柔和に見つめている。 流石は本願寺の法主だけある。若く端正な面立ちの僧である。「武田家の軍師、山本勘助入道道鬼にございます」「貴方は、数年前の川中島合戦で亡くなられたと聞いております」 顕如が柔和な眸子を勘助にあてがい不審そうに訊ねた。「はい、天下静謐を願うために偽って討死をいたしました」「ほう、生き返ったと申されますか?」「宗門の敵を討ち果たし、武田家が上洛を果たすまでは死ぬる事が出来ませぬ」 勘助が柔和に隻眼を顕如の眸子にあてがった。 「宗門の敵とは?」「今は越後の上杉輝虎、これからは尾張の織田信長に成ろうかと推測致します」「織田殿の事は聴いておりますが、そんなに宗門を目の仇にしますか?」「間違い御座いませぬ。奴は昨年の永禄七年に北近江の浅井家と同盟を結び、今年は伊勢攻めを行っております。これは美濃を制する魂胆にございます」 勘助は今の情況を詳細に告げ、武田家と本願寺との軍事同盟を申し出た。「信玄公は拙僧の義兄上(あにうえ)、よしなにお伝え下され」 この顕如の一言で全てが決した、ここに強力な軍事同盟が成立したのだ。「これで武田家は権威の象徴たる、将軍家補佐に傾注できまする。これも、御仏のご加護と法主さまの温情のお蔭と、感謝申し上げます」「この度は本願寺と門徒衆に大層な寄進をなされ、この顕如が大いに喜んでおったと義兄上にお伝え下され」 時に永禄八年三月二十七日の事であった。 勘助は本願寺あげての歓待をうけ、翌日に城郭のような門前をあとにした。
Dec 27, 2014
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「変貌する戦国乱世(5)」(84章)にほんブログ村にほんブログ村 (義信幽閉と山本勘助)「いかが為されます?」 山県三郎兵衛が心配顔で質問を発し、信玄は暫し瞑目していたが、かっと眼(まなこ)を開き厳しい声で答えた。「北曲輪の一室にて謹慎を申しつける」「このご処置は厳し過ぎます。兄の死は犬死で御座いましたか?」 猛将で鳴る山県三郎兵衛が吠えた。「そうじゃ。余の命なく死する者は誰もが犬死ぞ、肝に命じよ」 山県三郎兵衛の逞しい肩が震え拳を硬く握り締めている。「余は父上を国主の座から引きおろし、甲斐から追放いたした」「それは、御屋形さまの責任ではございませぬ」「世間はそうは見ない。父親を追放した男が、またもや嫡男まで手にかけたと申すであろう。余は構わぬ。生涯、悪名を背負って生き延び、父上と余の念願の上洛を果たす」 仄暗い主殿で信玄の横顔が神秘的に見えた。「そこまでお考えにございましたか」 山県三郎兵衛が信玄を仰ぎみた。「余の心境は無念の想いで一杯じゃ、なぜ兵部は心のうちを打ち明けなんだ。 なぜ余を置いて先に逝ったのじゃ」 信玄の巨眼から涙が滴った。「御屋形さまのご心中も察せずに、勝手をいたし申し訳ございませぬ」 山県三郎兵衛が血を吐くような叫び声を発した。「三郎兵衛、余より先に死ぬことは許さぬ」 信玄の眸子に怒りと悲しみの色を見た、山県三郎兵衛が平伏した。 初めて信玄の心情に気付いたのだ。「馬場信春と相談し明朝に義信を捕らえ、北曲輪の一室に幽閉いたせ」 「それだけは、お赦し下され」「甘い、そちの兄、飯富兵部虎昌の冤罪を晴らすのじゃ」 翌日、飯富兵部の切腹が公表され、直ちに太郎義信と股肱の家臣八十名が捕縛され幽閉された。この処置により武田家の内紛は一瞬にして鎮まった。 その夜、信玄は孤独で苦い酒を飲んでいた。 太郎義信の背後に、自分の妻の三条殿が糸を引いておると看破していた。「己の妻子を御することが出来ずに、何が上洛じゃ」 信玄が小声で呟き自虐的な笑みを浮かべた。 問題は義信の仕置きである。今は幽閉の身としているが、その内に明確な処罰を命じなければならぬ。 なんせ父である余に謀反を起こし、家を簒奪せんとした嫡男である。 信玄は子沢山の武将であった。正室と側室の間に七男五女をもうけた。 併し、肝心の男子は三条との間に三人の男子をもうけたが、次男の信親は盲目で産まれ、三男の信之は十一歳で夭折した。 もし義信に厳しい処罰を科したら、馬場信春の恐れたように側室の子、四男の勝頼が武田家を継ぐことに成る。 信玄はぐぴっと酒を飲み下した。 親馬鹿と世間は云う。子の評価は親ほど甘くなるという意味である。 武将としての資質は嫡男の義信が勝っている。そう信玄には思える。 勝頼は勇猛ではあるが、言葉を代えれば猪武者に見えるのだ。 又、義信は情に厚くそれに流される風潮があるが、川中島合戦では余の為に、迫り来る越後勢の前面に手勢を率い見事に防いでみせた。「武田家の為に義信とは腹を割って話しあわねばならぬな」 そう決意し信玄は杯を伏せた。 永禄八年(一五六五年)一月、武田の忍びの頭領河野晋作は信玄の許に呼び出され、二人だけの密談が交されていた。 座敷の障子戸から外の雪明りが差し込み、部屋全体を明るくしている。「越後の動きはどうじゃ?」 信玄が火鉢を前にし綿入れの羽織り姿で訊ねた。「越中で一向門徒と争ったと思えば、関東に乱入いたしておりまする」 「そうか」 信玄が可笑しそうな笑い声を挙げた。「奴は何が目的で年中出兵いたす?」「判断がつきませぬ。合戦と酒が生甲斐かと勘考いたします」 河野晋作が困った顔付で答えた。「権勢欲も領土欲もない男じゃ、じゃが敵に回すと手強い男じゃ」「左様にございますな」 河野晋作が信玄の言葉に肯いた。「余は戦略転換を図る積りじゃ」 信玄の言葉に河野晋作の表情が引き締まった。「まずは摂津の石山本願寺と軍事同盟を結ぶ、他には織田信長という男をもっと詳しく知りたい」 「どういたせと仰せにございます?」 河野晋作が興味津々とした顔つきで訊ねた。 かって御屋形が織田信長の事に言及したことがなかったのだ。 今日の御屋形は明確な意図をもって信長の動静を探れと申された。「尾張と美濃に忍びを入れよ、信長の美濃攻めの詳細を知りたい」 信玄が簡潔に命じた。 「判りました、早速にも手配いたしまする」「そちにも役目を与える」 「請け賜ります」 信玄が手文庫から書状を取り出し、紫の袱紗に丁寧に包みながら命じた。「これを石山本願寺の顕如さまにお届けいたせ。我家から使者を派遣いたすと、お知らせしてある」 「畏まりました。これより出立いたします」「ご苦労じゃが頼む、じゃが河野」 「はっ、何か外にございますか?」「途中である男が現われる筈じゃ、そちも存念の者と推測いたす。その男が現れたら、使者の役目を譲るのじゃ」 「よく飲み込めませぬ」 信玄の含みのある言葉に河野晋作が不審そうな顔をしている。「多分、そちは仰天いたすであろう」 「御屋形さまはご存じにございますか?」「余は推測と申したぞ」 信玄が面白そうに、河野晋作の様子を眺めている。「ようするに、その人物に書状を託せば宜しいのですな?」「左様じゃ。だがこの事は余とそちだけの秘密じゃ」 なんとも合点のいかない心地で河野晋作は古府中を出立した。別に急ぐ旅ではないが、忍び者の習性で周りの旅人が驚く早さで歩んで行く。 彼は甲斐から美濃に抜け尾張領を通った、一目、尾張の様子が知りたかった。 その足で伊勢に着いて小汚い旅籠に泊まった。 その晩にその男が現われた。「河野晋作、入るぞ」 廊下より声がした。聞き覚えのある声と感じた時には、その人物が部屋に足を踏み入れていた。「貴方さまは、・・・・-」 河野晋作が呆然として絶句した。「久しいのう」 軽く足を引きずり、河野晋作の前に腰を据えた男は山本勘助であった。 以前と違い、浪々の浪人風情の姿で身形もみすぼらしい。「山本さま、・・・- 貴方さまは川中島で討死された筈」「わしが仕組んだ策じゃ」 勘助が徳利に手を伸ばし酒を咽喉に流した。「美味い」 手の甲であごの滴を拭い、「もう、一本頼んでくれまいか」 勘助が仰天している河野晋作を隻眼で眺め、酒の追加を頼んだ。
Dec 22, 2014
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「変貌する戦国乱世(4)」(83章)にほんブログ村にほんブログ村 (義信謀反と飯富兵部の死) 「御屋形さま、亡くなられた板垣信方さまが事ある度に申されましたが、国主の座は長幼の序でもって行う。これが領内安堵の道と、この度の一件まさにそのお言葉通りと心得ます」 透かさず信玄の考えを悟り諫止した。 信玄は絶句し素早く己の非を悟った。「余は間違いを犯すところであった。よくぞ諫言をいたしてくれた礼を申す」「恐れ多いお言葉に存じ奉ります」 流石は馬場美濃守信春、武田家四将と謳われた武将だけはある。『静かにいたせ。これからのわしの言葉は甲斐国主としての最後となろう、心して聞くのじゃ。家督は信繁に与える事とする』 一瞬、異様な雰囲気が流れ、信繁の鋭い声が響いた。『父上、信繁は反対にございます』 『甲斐の国主となることが不服と申すか』 十二年前の光景と父、信虎の声が昨日のことのように蘇ってくる。 あれは余が二十一歳の時であった。 余は信春が止めなんだら、父上と同じ過ちを犯すところであった。 信玄は寝所で悶々と寝付かれぬ夜を過ごしていた。 昼の会議の席で倅の義信の心情も考えず、一方的に座を下がらせ、甲斐、国主の座を側室の子の四朗勝頼に与えようとした。 その自分の浅はかさを恥じ、同時に父、信虎の事が心を乱していた。 信虎の謀略の詳細は、お弓から聞いて知っていた。その為に護衛の士と氏真に進物を届けたのだが、阻止できなかった自分の甘さに立腹していた。 その時、明りの届かない天井から、一枚の紙片が舞い落ちてきた。「うーん」 不審に思い手にした。鉄壁な警護を誇る館の屋根裏に忍び込むとは、よういならぬ曲者である。 信玄は曲者の手並みに感心し、紙片を手にして愕然とした。「大殿は、お弓殿を伴って京に向かっておられます。宿泊地が定まりましたら、お知らせ申しあげます。また、今の武田家を取り巻く最強の敵は織田信長以外なしと思われます。その対抗策は摂津、石山本願寺との同盟と織田信長との縁戚関係が望ましく思われます、この二件の熟慮こそ急務と存じあげます。鬼」 達筆な字体に見覚えがある。 「勘助かー」 覚えず低く呟いたが返事はなかった、信玄は燭台を引き寄せ読み下した書状を灰とした。 矢張り勘助は生きておった、信玄は義信の件を忘れ血潮が湧き立った。 義信の信玄への反発は日を追うごとに強まった。その背後に信玄の正室、三条殿の存在があった。 彼女は夫の信玄に愛されていないと誤解していた。それは信玄の女漁りの所為であった、この戦国期では側室を持ち子を為す事は、大名ならば当然の事であったが、公卿の娘に生まれた彼女はそれが理解出来なかった。 それは彼女の悋気によるもので信玄が閉口し、避けたことから始まった。 彼女は息子夫婦の睦まじい様子を目の当たりにし、夫の信玄の今川攻めを批判し、ことある度に義信をけしかけたのだ。「義信殿、武田家の嫡男として父君の今川攻めをお諌めいたすのじゃ」 更に彼女は義信の傅役の飯富兵部にも、宿老として今川攻めの中止を諫言するように迫った。 飯富兵部は剛直な武田家譜代の宿老であるが、信玄と義信の狭間にたって悩みに悩んでいたのだ。 そんな時期に信玄の正室、三条の方から信玄追放の陰謀を打ち明けられた。 事は隠密のうちに進行し、今川氏真までもが咬んでいたのだ。 それも正室、三条殿の嫉妬心から悲劇が起ころうとしていた。 何時の時代でも女の悋気は家の敵であった。 永禄七年六月、ツツジが満開と成った季節、飯富兵部は三条殿に呼び出された。「お方さま、拙者に御用とお聞き致し参上いたしました」「飯富殿、義信が世話に成っております。母として感謝いたしておりまする」 歳のわりに若々しい三条殿が華やいだ衣装で出迎え、世辞を述べている。「それが拙者の努めにございます。御用があると耳にいたしました」 そこで飯富兵部は腰の抜けるような話を聞かされたのだ。「飯富殿、義信が漸く決心を固めましたぞ」「若殿のご決心とは?」 三条殿が美しい横顔を見せ庭に視線を這わせている。「・・・・・」「御屋形が父、信虎さまを追放されたように、義信も御屋形に謀反を致すと覚悟いたしましたぞ」「げっー」 三条殿が謀反の段取りを語り、飯富兵部は痴呆のように聴いている。 義信を中心に側近の長坂源五郎、曽根周防守らが信玄追放の密談を交わしていると言う。その中には義信の直臣の若武者が八十名も加わっていると言う。「そこもとも義信の傅役として当然、お力を貸して頂けましょうな」 三条殿が嫣然と微笑んでいる。 飯富兵部は愕然とした、事がここまで進んでいようとは知らなかった。 もし、この計画を御屋形さまがお知りになったら、義信さまの命がない。 最早、詮なき。わしが全責任を負ってしわ腹をかっさばけば義信さまは救われる。老いの一徹であった。「御屋形さま、山県三郎兵衛さま火急の用で罷りこしておられます」 書見をしていた信玄に小姓が山県三郎兵衛の訪れを告げた。 瞬間、信玄の背筋に悪寒に似たものが走りぬけた。「主殿で待つように申せ、余もすぐに参る」 信玄の前に武骨な山県三郎兵衛が、仄暗い主殿に平伏していた。「この夜分にいかがいたした?」 信玄が努めて冷静に訊ねた。「兄が切腹つかまつりました」 「なにっー、飯富兵部が切腹とな」「御屋形さまの追放を目論んだ、謀反のお詫びと申されての切腹にございます」「馬鹿なー」 信玄は耳を疑った。 「山県っ、兵部の切腹に立ち会ったな」「突然に呼び出され、息絶えるまで見守り申した」 山県三郎兵衛が暗い顔つきで答えた。飯富兵部は義信の謀反の罪を一身に背負い、十文字に腹をかっさばき三郎兵衛の介錯を断り、苦悶の中で壮絶な最後を遂げたのだ。 「なにゆえ止めなんだ」「兄も拙者も武士、その兄の願いを無視する訳にはいきませぬ」「兵部は、余になにか遺言を申したか?」「はっ、義信さまの穏便なご処置と先に往くお詫びを申しあげるように言い残され、果てられました」 「馬鹿者が」 再び信玄が叫び声をあげた。「山県、兵部の介錯はそちが遣ったのか?」「いや、兄は介錯を断り苦悶の中で息絶え申した」「それが兄に対する態度か、腹をかっさばいた痛みは並大抵でないと聞く」「御屋形さま、兄は謀反者として見事に息を引き取りました」「義信は余に反逆いたす積りであったか」 「・・・-」「隠さずともよい、余は薄々と義信の謀反を知っておった」 山県三郎兵衛が武骨な顔をあげた。「御屋形さま、この企ては兄が行ったこと。謀反が洩れることを恐れ、兄は切腹いたしました。義信さまには何の罪もございませぬ、なにとぞ穏便なるご処置をお願い申しあげます」「山県、余は軟弱な倅のために飯富兵部を失った。これは全て余の責任じゃ」 信玄の魁偉な眸子に怒りの炎が燃えている。「義信さまには罪はございませぬ。我が武田家が何のために今川を攻めるのか、その意味がお判りにならなかった。ただ、それだけの事にございます」「山県、かばいだては無用じゃ。不肖の倅は父である余が始末をつける」「いかが為されます?」
Dec 13, 2014
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「変貌する戦国乱世(3)」(82章)にほんブログ村にほんブログ村 (武田家内紛の序章) 今年で四十三才となった信玄が、小太りの体躯を現し座所に腰を据えた。 眼がらんらんと輝き、眸子の奥に憤怒の色を隠している。「この暑い最中に大儀じゃ。先月は上杉勢と久しぶりに対陣いたしたが、何事も起こらず安堵いたした」 信玄が脇息を引き寄せ一座の武将達を見廻し、おもむろに口を開いた。「駿府におわす父上の事で悪い報せが届いておる」 一座の重臣達に緊張が奔った。かって大殿、信虎さまを話題とした事がない御屋形である。その御屋形が初めて大殿の件を口にされたのだ。「変事でもございましたのか?」 飯富兵部が真っ先に訊ねた。 この場の重臣達も代替わりをし、信虎を見知っておる者が少なくなっている。「父上が、今川氏真に命を狙われ、駿河城から姿を消されたそうじゃ」「氏真さまに?」 一座に集いし武将達がざわついた。「ここに集いし者のなかに父上のご尊顔を見知って居る者は少なくなった。 余が画策し、甲斐から追放したと信じておる者が大半じゃな」 信玄が主殿を見廻し、更に言葉を続けた。「それは誤りじゃ。飯富兵部や馬場信春、山県昌景ならば知っておろう」「はい、その経緯は存じておりまする」 飯富兵部虎昌の顔に不安な色が刷かれている。「父上は、ご自身で余に追放されたと偽って駿府城に行かれたのじゃ。この意味は駿河を武田家の領土にしょうとの存念があっての事じゃ」 事情を知らぬ重臣連が唾を飲み込み、太郎義信が蒼白な顔色となった。 初めて聞かされる真実であった。 信虎、追放劇のあった頃の武田家は、関東の北条、諏訪、信濃の諸大名に領地を侵食され、その対応に必死であった。 それ故に信虎は自分の長女の定恵院を今川義元の正室として嫁がせた。 いわば呈の良い人質であり、彼女は信玄、信繁、信廉らの姉であった。 こうした事は戦国乱世にあっては、ごく普通の出来事であった。 力なき者は力ある者に庇護を願い、秘かに力を蓄え取って変わろうとする。 それが戦国乱世の習いであった。 信虎には野望があった、上洛と塩の道の確保である。それは今川家を武田が支配する事を意味するものであった。 その為に自ら倅の信玄に武田家を追放され、義元に庇護を求めだのだ。 こうして哀れな老人として、駿府城で数々の謀略を成してきたのだ。「それが洩れたのじゃ。孫の氏真は実の爺さまである父上を殺めようとした。 これは断じて許せぬ」 信玄の声が主殿を震わせた。 「真にございますのか?」「飯富兵部、余がなんで偽りを申さねばならぬ。今年で七十歳を迎えられる老人に対する仕打ちか」 信玄の言葉が飯富兵部の肺腑をえぐった。「馬場信春、山県三郎兵衛」 「はっー」 「そちたちも同席しておったの」「はい、して大殿のご消息は?」 馬場信春が戦場焼けした声をあげた。「今のところは余も知らぬ、じゃがすぐに知らせが参ろう」 「・・・-」 馬場信春と山県三郎兵衛が不審そうな顔をした。「父上は何度も駿河を攻め取れと余に申しおくって参られたが、余はそのお言葉に従わなかった。併し、この一件で余の覚悟も定まった。武田家は駿河を平定しその領土を我がものとし、いずれは上洛いたす」「おおうー」 一座の武将達から喜びの声が挙がった。 今まで上洛を口にされた事のない御屋形さまが、初めて口にされたのだ。 戦国乱世に生きる武将としては、これ以上の喜びはない。「父上に申しあげます」 「義信か、何か申すことがあるか?」 信玄の強い視線に一瞬ひるんだ様子を見せたが、嫡男の義信が口を開いた。「氏真殿は父上の姉君のお子にございます。また義信にとり妻の兄、いわば義兄にあたります。今川家とことを構える事だけは、お止め下されませ」「若殿、お言葉が過ぎます」 飯富兵部がすかさず制止した。「・・・-義信、余の申すことが不服と申すか?」「・・・-」 何事か言いたそうにし義信が面を伏せた。 天文十九年(一五五〇年)義信が一三歳で元服した時、今川義元の娘を正室に迎えている。実名は不明で嶺松院殿と呼ばれた。 義信にとり彼女は従姉妹であった。義信は彼女を愛し今川家との軋轢は、好むことではなかった。 「重ねて申す、来年には西上野を盤石とし。その後に今川家を攻め滅ぼす。 今の世をみよ戦国乱世じゃ。武田が手をこまねいておれば三河の松平が今川を滅ぼそう、そうなれば父上と余の上洛の夢は泡沫となろう」「父上に申しあげます。肉親縁戚は無二のものと義信は考えます。なにとぞご再考をお願い仕ります」 必死の願いを面に表わし義信が嘆願した。「莫迦者、いずれは甲斐の国主となる身でありながら、何と愚かなことを申す。 国主の務めは領民の幸せにある、肉親縁戚ではない。飯富兵部、そちは義信の傅役として何を教えてまいった」 信玄の声が主殿を揺るがした。「飯富には関係ございませぬ」 義信が素早く兵部をかばった。 飯富兵部の実弟の山県三郎兵衛がそっと面を伏せた。「若殿、御屋形さまに謝りなされ」「飯富、もう良い。義信をこの場から退けよ」「はっ」 飯富兵部と近侍の者たちが躯を抱え込むようにして義信を連れ去った。「困った奴じゃ」 信玄が苦笑を浮かべた。併し胸裡ではほかごとを考えていたのだ、嫡男であってもあの器量では国主の座は務まらぬ。いっそ勝頼に国主の座を譲るか。 信玄ともあろう人物が父、信虎の轍を踏もうとしていた。 傍らの馬場美濃守信春が信玄の心境の変化に気付いた。
Dec 9, 2014
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「変貌する戦国乱世(2)」(81章)にほんブログ村にほんブログ村 (武田家内紛の序章) 隠居所で信虎が珍しく一人で大杯を呷っている。 「いまいましい」 孫の氏真に対する憤りが口をついてでる。 「大殿」 襖越しからお弓の緊張した声がした。「入れ」 声と同時に緊迫した顔つきのお弓が姿をみせた。 そうしたお弓の態度、顔付は信虎にとり、初めて見るものであった。 「如何致した?」 「このような書状が、わたくしの部屋に投げ込まれましたぞ」 お弓が小さく折りたたんだ紙片をそっと差し出した、一読した信虎の顔色が変わった。その変化をお弓は見逃さなかった。 「事が露見いたしたか?」 信虎が口中の酒を飲み下し、魁偉な相貌を歪め呟いた。「これは勘殿の書状ですね」 お弓がそんな信虎の様子を眺め、書状を置き去った者の名を糾した。 信虎も一目で分った、書状の片隅に道鬼と記されていたのだ。 信虎は無言で肯いた。「直ぐに小林兵左衛門殿と海野昌孝殿と警護の士が参ります、この城から逃れませぬとお命が無くなります」 お弓が普段の態度に戻り、冷静な口調でとるべき行動を信虎に述べた。「直ぐに旅の用意をいたせ。金子も忘れるな」「あい」 お弓が姿を消すと同時に、小林兵左衛門と海野昌孝が部屋に現われた。「大殿、いかが為されます?」 日頃、温厚な顔つきの小林兵左衛門の相貌が険しくなっている。 「騒ぐな直ぐにこの場から立ち去る、行く先は京じゃ」「京に上られますか?」 警護頭の海野昌孝が驚きの声を洩らした。「まずは駿府城下を逃れることが先決じゃ」 信虎が飲み残した酒をぐびっと咽喉に流し込み立ち上がった。「兵左衛門、わしの旅装の用意をいたせ」「はっー」 小林兵左衛門が素早く部屋から辞去した。「大殿、城下を抜けるまでは我等にお任せ下され。その後は甲斐に戻ります」 海野昌孝が、この先の動きを信虎に告げた。「わしの警護なんぞは無用じゃ。甲斐のために命を捨てよ」「御屋形さまにお叱りを被ります。城下を抜けるまではご一緒いたします」 海野昌孝は一言残し、忍び足で去った。 勘助め、何処からわしを見張っておる、信虎が闇を透か見た。 駿府城のあちこちに松明の明りが、慌ただしく動き廻る様子が見える。 「莫迦者め、わしを殺せるものか」 信虎がしわがれた声で嘯いた。 小林兵左衛門が旅装を持ってもどった。 「着替えを頼む」 信虎は愛用の兼光の大刀を手にし、旅装に替えさせている。「大殿、旅支度は整いました」 兵左衛門が乾いた声で告げた。「城下を抜けたら、お弓と三人で京に上る」「大殿、拙者はここに残りまする」 「兵左衛門、死ぬ積りか?」 信虎が平伏する小林兵左衛門を見下ろした。「大殿、良き機会が訪れました。どうか拙者をこの場にご放免下され」 「兵左衛門、いまなんと申した?」 「拙者も武士の端くれ、見事に死に花を咲かせたく思いまする」「そなた残って戦うと申すか?そうすれば万に一つも助からぬぞ」 「もとより覚悟のうえ、屋敷で今川の刺客と戦い時を稼ぎまする」「兵左衛門、無用じゃ」 信虎のしわ深い顔が奇妙に歪んだ。人の親切を素直に受けれないのだ。「長い間、大殿とご一緒で楽しゅうございました。ここでお別れいたします」 小林兵左衛門が信虎を見上げている。「兵左衛門、久しく見なかったが面(つら)が乾き良き武者顔じゃ」 信虎の言う面が乾くとは死を決し、見事に討死を覚悟した者の表情を言う。 お弓も初めて小林兵左衛門の武士としての覚悟をみた。 闇夜の彼方から追手の声が聞こえてきた、信虎が兵左衛門の肩に手を置いた。 「そなたも武士じゃの、武者働きもさせず許せよ。冥途で待っておれ」 「そのお言葉を頂き十分にございます。さらばにございます」 小林兵左衛門が軽く低頭した。 「武田武士として見事な働きを為せ」「はっ、お弓殿、大殿をお願いいたしますぞ」 お弓が切れ長の眼を見開き肯き、兵左衛門を見つめ直した。 見事に覚悟を定めた武士がお弓の前に居た。 「大殿、用意がととのいました、ご案内いたします」 海野昌孝と二人の護衛の士が旅姿で現われた。 「さらば、案内いたせ」「はっ、二人の配下は残り時を稼ぎまする。その間に城下を抜けます」「皆の者、命を粗末にいたすな」 一声のこし信虎が部屋から足早に去った、その背後に忍び装束のお弓が信虎を守るように続いていた。「小林さま、貴方さまもご一緒に行かれませ」 残った護衛の二人が兵左衛門に逃げるように勧めた。「いささか長生きをいたした。そなたらと武田武士の最後を今川の腑ぬけども に見せようぞ」 小林兵左衛門が信虎の飲み残した酒を口に含み、大刀の柄に吹きつけた。「さらばご一緒に戦いまするか、明りを消し夫々一人となって戦いますぞ」「判った」 三人は闇の中で最後を飾るべく備えについた。 漆黒の闇の中を信虎は海野昌孝の先導で進んでいる、背後はお弓が警戒しながら続き、五名は一団となって城下の軒下を駆けた。 無数の松明が隠居所に向かっている。「さらばじゃ」 信虎が再び低く呟いた、小林兵左衛門の温顔が脳裡を過ぎったのだ。 遠くで怒号と雄叫びの声が聞こえてくる。 小林兵左衛門と二人の警護の士は、襲いくる今川の刺客と壮絶な闘いを繰り広げ、身を朱に染め討死を遂げたのだ。 小林兵左衛門は最後まで奮闘し、身に数創の手傷を負い力尽きた。 一行は駿府城下を無事にぬけ漆黒の闇をぬって駆けた。「大殿、大丈夫ですか?」 お弓が信虎の老体をいたわり心配している。「大事ない行け」 「この先に古寺がございます、そこで少し休息を取りましょう」 海野昌孝が励ました。すぐに鬱蒼とした杉林の中に小さな寺が現われた。 一行は息を整え水で咽喉を潤し彼方を眺めた。松明の明りが動いている。 こうして信虎一行は忽然と駿河城下から消えうせた。 この知らせが躑躅ケ崎館の信玄の許にもたらされた。激怒した信玄は重臣を召集した。盆地の甲斐の八月は暑い。 主殿に集った重臣達が扇子で風を送り信玄を待った。
Dec 6, 2014
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「変貌する戦国乱世」(80章)にほんブログ村にほんブログ村 (武田家内紛の序章) この永禄七年は波乱を予感させる年となった。一月には関東の北条氏康は下総(しもふさ)で里見義広(よしひろ)、太田康資(やすすけ)、大田資正の連合軍と国府台で戦い、有力武将と多くの兵士を失いながらも大勝した。 里見氏は上杉輝虎と連携し、北条勢の房総進攻を阻む最大の敵であった。 この勝利で北条家の領土は相模、伊豆、武蔵の旧領に加え、東上野、下総、 上総の北部まで拡大し、旧領に倍する領土を支配下においた。 これは北関東へ進攻する足がかりであった。 それに対し上杉輝虎はすかさず下野(しもつけ)に大軍を発し、佐野城を瞬く間に攻略し、色部勝長(しきべかつなが)を城代として守りを固めた。 流石は音に聞こえた上杉輝虎、率いる越後勢の強さと強かさであった。 一方、武田信玄と北条氏康の関係は良好であった。 信玄は関東の西上野の支配のみを望んでいたが、氏康の考えは関八州を支配しょうとの思惑があった。 これにより両家は連合し上杉輝虎に対抗していたのだ。 ようするに西上野は武田家が支配し、その他の関東は北条家が領有する。 そうした基本方針が明確となっていたのだ。 何故、信玄は西上野を重視したのか、それは信玄の深慮な考えであった。 関東の肥沃の土地も欲しいが、武田家の真の狙いは上洛にあり、それを阻止する武将が、越後の上杉輝虎であった。 武田家が上洛を開始すれば、直ぐに越後勢が信濃に攻め込むことは冷徹な事実である。それを防ぐ手立てが西上野を武田が領し安泰とする必要があった。 西上野は越後の要衝の三国峠に最も近い場所にあったのだ。 越後勢が武田家の領土に侵攻する動きを示したら、直ちに西上野から軍勢を発し、三国峠から越後本国に攻め込む。これが信玄の策であった。 こうして武田、上杉、北条が三すくみの状況に置かれていたのだ。 そうした中で岡崎の松平家康に目を転ずると、彼は一向一揆を鎮圧し、本格的に三河攻略をはじめた。 六月に三河と遠江の国境に位置する、今川家の吉田城攻略戦を開始した。 この地は南に渥美半島、東に浜名湖を臨む要衝の地で、流石の氏真も座視できず、一万余の大軍を擁し出陣した。 更に信虎にも出陣の要請を乞い、五千の軍勢を与え家康の押さえとしたが、信虎は二千名の松平勢の進撃に、攻撃をするでもなく見送ってしまったのだ。「馬鹿馬鹿しい、このような戦が出来るか」 これが信虎の本音である。 これに疑心暗鬼した今川氏真は、行軍の途中から駿府城に逃げ帰ったのだ。 まさに将器なき情けない男であった。「甲斐の古狸、今川家に弓を引くのか」 しかし氏真も重臣の一部も、信虎を見る目がこの一事で変わった。 このような空気が漂う駿府城を見透かすように、松平勢の侵攻は止まらず。 六月から激戦を繰り返していた今川家の吉田城(豊橋)が、松平の猛将、酒井 忠次(ただつぐ)前に降伏開城した。 守将の小原鎮実(しずざね)は、酒井忠次の娘を人質として城を明け渡した。 まことに奇妙な戦いである。勝った松平家が人質を出すなどは考えられない事であるが、家康は早い三河全土の安定を望んだのかも知れない。 今川家は遠江を守ることに重点をおいた、政治的な決着なのであろうか。 虚々実々の駆引きの時代、松平家康は着実に乗り切っていた。 こうして松平家康は三河支配を強化していたのだ。 一方、尾張の織田信長も急激な勃興期を迎えていた。尾張の当面の敵は美濃の斎藤家であり、信長は執拗に出兵を繰りえしていた。 信長の武名は朝廷まで聞こえ、朝廷の御所の修理を命ずる正親町(おうぎまち)天皇の勅使として内裏(だいり)、立入宗継(たていりむねつぐ)が十月に尾張を訪れた。これにより美濃攻略戦に弾みがついた。 こうした世情の中、駿府城に帰還した信虎は氏真や今川家の重臣達に異心を疑われ、針の筵に座った心地で過ごしていた。 だが彼の謀略はいっこうに衰えず、瀬名駿河守、関口兵部、葛山備中守等と密会をかさねていた。 「吉田城救援のさいの氏真殿の醜態をご覧なされたか?」 信虎の問いを静止し、瀬名駿河守が厳しい声を挙げた。 「信虎さま、なにゆえに松平勢を見逃しましたぞ」 「老人のわし一人で戦えと申されるか?」 信虎のしわ深い瞼が見開かれ、往年の気迫が湧き上がった。「五千の大軍を擁されていた筈じゃ」「ふん、戦う気概もない武将や兵等と三河衆に立ち向かい何ができ申す」 信虎が三人の重臣等に視線を這わせた。「いかにも至極、御大将の御屋形があの様では合戦には成りませぬな」 葛山備中守が信虎のかたをもった、その一言で二人は口を閉ざした。 彼等の思いも同じであった。こうして内乱の密計が秘かに進められていた。 この策謀が洩れたのだ、かねてから信虎の行動に疑心を抱いていた重臣の庵原安房守(いわらあわのもり)の家臣が、信虎が信玄に送ろうと書き留めておいた密書を手に入れたのだ。 幸いにも加担する三名の重臣の名は記されていなかったが、驚いた安房守は書状を氏真の許に差しだした。 一読した氏真は顔面蒼白となり、身を震わせ怒声を張りあげた。「余の爺殿じゃが許せぬ。ひっ捕らえて余の前に連れて参れ」 仰天した氏真が信虎捕縛の命令を発したのだ。
Dec 3, 2014
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「三河一向一揆」(79章)にほんブログ村にほんブログ村 「三河、騒乱」 そうした情況のなか永禄六年十月下旬に、突然、三河に大事が勃発した。 その大事とは三河の一向門徒衆が三河一帯に一斉に蜂起した事である。 この争いは松平家康の家臣と領内を二分した大騒乱となった。 発端は松平家が、一向門徒の寺院に干渉した事から始まった。 かって三河は親鸞が北国行脚の途中、矢作の薬師堂で法話を説き、それが三河一帯に広がり、一向門徒衆を名乗るようになったと言われる。 三河の一向門徒の寺院は上宮寺、本証寺、勝鬘寺の三ケ寺が寺院を称し、守護不入を称え、独立国家の体勢をとっていた。 この守護不入とは、守護が罪人の逮捕や租税徴収などで院内に入ることを禁じたもので、寺院は勝手にそれを特権として称していた。 その野寺、本証寺に罪人が居ると家康の足軽が、勝手に寺院に押し入った事が今回の騒動の始まりであった。 その足軽達に武田の忍びの河野晋作と小十郎の二人が加わっていたのだ。 まさに信玄と信虎二人の策が効を奏したのだ。 現在の安城市、野寺の本證寺第十代の空誓(蓮如の孫)が中心となり真宗門徒に檄を飛ばし、三河の領主、松平家康に反抗した事が今回の騒動であった。 この一揆は三河の分国支配を目指す家康に対して、その動きを阻もうと試みた一向宗勢力が、一族や家康の家臣団を巻き込んで引き起こしたものである。 その意味では、松平宗家が戦国大名として領国一円の支配を達成する為に、乗り越えなければならない、一つの関門であったとも言える。 三河一帯を統べる家康も、守護不入を称える一向門徒衆をそのままにしておく考えはなかった。 家康は今川家の領土を侵略し、万全な備えをした後でと思っていたが、この騒乱に誘発された格好で彼等との戦いが始まったのだ。 家康の家臣の門徒衆は、主人と宗門の狭間で悩んだが結局は宗門につき猛烈に抵抗した。 更に松平家に対する不満分子の豪族も絡み、目もあてられない様相となった。「主人とは現世のこと、仏祖如来(ぶっそにょらい)は未来永劫。頼むところはご本尊のみ」 これが門徒衆の考えで目もあてられない、惨状を呈した。 更に日頃から鬱積した不満分子までが、門徒衆に続々と加勢したため三河一帯は荒れにあれた。 天下を取った家康が往時を思いだし、三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並び、わしの三大危機であった、と語っている。 三方ケ原合戦は武田信玄との合戦で、散々に敗れ馬上で脱糞して逃げ回った合戦で。伊賀越えは京に遊覧の旅をしていた時、織田信長が明智光秀の謀反で横死し、逃げ場を失い必死で伊賀越えをした時のことである。 三河一揆は敵から犬のように忠実と、揶揄され評価された三河家臣団の半数が、門徒方に与し、家康に宗教の恐ろしさをまざまざと見せつけた事件であった。 この戦いは家康も家臣たちも、もっとも辛い戦いであった。門徒方に付いた家臣等は、ご本尊を信じて主君である家康に本気で槍をつける者もいたが、 家康自身が軍勢の先頭に姿を見せると、大方の者は、「君が渡らせ給うては攻し(こうし)難し」 と逃げ散る者が多かった。 家康は反抗した家臣等の将来を思い、「良いか、家臣同士の戦で生死を賭けてはならぬ」 と厳しく従った家臣等に言い渡していた。 何れ、近いうちに蹴りをつける。そうした自信があっての事である。 信虎は久しぶりに隠居所から駿府城の大広間に向かった。 「これは珍しい」 すれ違う者が一様に驚きを示している。 義元が息災の時には頻繁に登城した信虎も、氏真が当主となってから足が遠のいていた。 併し、三河の一向一揆の騒動を見逃す手はないと勇んでの登城であった。「爺殿、いかが為された?」 氏真が驚き顔で迎えた。 それほど信虎は溌剌としていた。 「氏真殿、今が好機にござるぞ」「何を申されておるのか余には判らぬ」 氏真が困惑顔をしている。「三河の地が内乱じゃ、これを機に三河に軍勢を向け攻略なされ」 信虎が語調を強め説得するが、駿府城は腰抜けばかりが居座っていた。 ここに朝比奈泰能や三浦成常の宿老が居たなら事態は一変したであろうが、彼等は北条対策として前線の城塞につめていた。「三河の松平家康を滅ぼす絶好の機会にござるぞ」 いくらけし掛けても動こうとはしない。「この時に軍勢を出さずば、今川家は衰亡の一途をたどりますぞ」 信虎が懸命に説くが、まさに糠に釘である。「こうまで腑ぬけになられたか」 ついに言わでもない事を口走った。「爺殿と思い多少のことには目を瞑って参ったが、今の言葉は聞きずて難し」 氏真が蒼白となり躯を震わせ喚いた。 信虎は悄然として下城した。(矢張りうつけ者じゃ)と、内心で呟いていた。 こうして今川家は三河一帯を回復する絶好機を失したのだ。 一方の松平家康が最も恐れたことは、今川家の軍事介入であった。 併し、氏真の弱腰でこの急場を凌ぐことが出来たのだ。 家康は難戦につぐ難戦を制し、ついに一向一揆を鎮圧した。 これは約半年余を要しての苦い勝利であった。 これは翌年の永禄七年二月のことであった。 一揆勢は恭順し和解が成立した。 条件は一揆勢の本領安堵、道場僧俗の現状維持、張本人の助命なとで家康にとって不満の残るものであった。 だが家康は老獪な策を取った、和睦と共に三河の門徒寺、道場の破却を命じた。 これに対し門徒衆から違約であるとの抗議があったが、家康は平然と答えた。「現状維持と申さば、もともと寺や道場の前は原野であった。もとの原野にするは誓詞を違えた事にはなるまい」 と嘯き、この家康がおるかぎり三河には、一向宗を禁ずると厳命した。 こうして家康は家臣団を掌握し、三河一国の領有を保ったのだ。
Nov 29, 2014
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「信玄の誤算」(78章)にほんブログ村にほんブログ村「わたくしに・・・どなたにございましょう?」 お弓の胸に疑心が奔り抜けた、誰をわたしに逢せようと為さるのか、 「そのように心配いたすな、余の妹じゃ」 「・・・姫君さまに?」 今度はお弓が絶句する番であった。「奥で首を長くして待っておろう」 信玄が魁偉な容貌を和ませている。 お弓は近侍の若侍の案内で奥の一室に案内され顔色が変わった。「小母さま、お久しゅうございます」 豪華な打ち掛け姿の、お麻が両手をついて待っていたのだ。 「お麻殿か?」「はい、父上が川中島で亡くなり、御屋形さまが引き取って下されました」「美しく成長なされましたな」 途中、感極まって声が途絶えた。 躑躅ケ崎館を訪れお麻に逢えるとは、思ってもみなかったのに、こうして逢えるとは夢のようであった。 お麻に初めて遭ったのは二年前の、永禄四年の六月であった。 たった二年でも、少女の成長は目を見張るほど早い。「余の妹じゃ」 先刻の信玄の声を思いだし、身の縮まる思いに包まれるお弓である。 あの年の九月に第四回川中島合戦が勃発したのだ。 勘助ともあの時以来、会うことが叶わなくなった。「わたくしの母上さまと御屋形さまが申されましたが、本当にございますか?」 美しく成長したお麻が切れ長な眼を見開いてお弓を見つめた。「御屋形さまのご冗談ですよ。お麻殿の母親なんぞは嘘にきまってます」 いたいけな少女の問いに応ずる、お弓は汗の滲む思いでいる。「もう良いのです。こうして母上さまにお逢いできてお麻は・・・・」 涙ぐみ言葉を途絶えさせる娘を抱きしめ、束の間の幸せを味わった。 抱きしめながらも、娘がこのように美しく成長した事が嬉しかった。「この脇差が、わたくしの父上の形見だと御屋形さまが申されました」 お麻がそっと懐剣を差しだした。 お弓は目を疑った。お麻を勘助に託した時に渡した信虎の脇差であった。 これで訳が判った。この脇差を信玄さまがご覧に成り、お麻が父、信虎の落しだねと知ったのだ。 事実、お麻は信玄の実の妹である、それはお弓が一番に承知している。 信玄は山本勘助が突然に赤子を匿い育てた訳を理解したのだ。「母上さま、またお逢いできますね。お麻は待っております」「逢いますとも、わたくしは何度もこのお館に参ります」「良かった」 お麻が嬉しそうに笑顔で応じた。 しばしの語らいを終え、心を残し奥を去る時、 娘の声を背で受け涙が頬を伝った、女忍として初めて流した涙であった。 信玄はお弓の帰りを待ち受けていた。 「余の妹はいかがであった?」「勿体ないお言葉、身に染みまする」 「会いたくなったら、遠慮のう訪ねてまいれ」 信玄は何も詮索せず、短く言葉をかけた。「・・・-」 お弓が言葉を失っている。「父上の事じゃが結論から申す。今川家は武田家が武力でもって支配いたす。よってつまらぬ火遊びは、即刻お止め頂きたい。これが余の返答じゃ」 信玄が一気に述べ、お弓の反応を窺がっている。「駿府の大殿さまは、何方が申されましょうとお止めにはなりますまい」 お弓の反論で信玄が濃い顎髭をさすって考え込み、太い吐息を吐き出した。「余にも判っておる、こうと思われたら途中で投げ出される事はなされぬ。 そちに良き思案はないか?」 「三名の重臣達を脅したらいかがでしょう?」「それも考えた、併し、それも危険じゃ。奴等が父上の命を奪うやもしれぬ」 「・・・・-」 お弓が絶句した、全てを見通しておられる。「何としてもお止め申せ。聞けば父上の家臣は小林兵左衛門一人じゃそうな、警護の士を送ろう、そのために氏真殿に進物を贈ろう。虎皮十枚、豹皮十枚」 信玄が太い指を折って数えている。「縮羅(ちじら)二百反、黄金百枚、これで氏真殿の歓心を買おう」「大層な贈り物にございまするな」「何の、これで父上の命が助かるなら安いものじゃ」 こうしてお弓は屈強な護衛の家臣と共に駿府に戻った。 豪勢な進物を送られた氏真は感激し、信虎の隠居所を訪れてきた。「これは氏真殿、この爺になんぞ御用かの」「爺殿に警護の士が居らぬことを忘れておりました。早速、信玄殿お手配の警護の家臣をお使いなされ、信玄殿からは沢山の進物を頂戴いたした」「左様にござるか、じゃがこの老人には警護なんぞ無用にござる」 信玄の奴め、わしを監視する積りじゃなと信虎は信玄の心をよんでいる。 氏真は騒々しく騒ぎたち返って行った。「騒々しい男じゃ」 信虎が懐紙に唾を吐き出した。 信玄が信虎の護衛として送り込んだ男達は、精悍で屈強な男たちであった。「大殿、それがしは海野昌孝と申します。大殿警護を命じられ罷りこしました」 見るからに偉丈夫な男が進み出て挨拶した。「ご苦労じゃ、五名も参ったか。この年寄りには勿体ない」 信虎は一人一人に声をかけねぎらい、隠居所は一気に活気ずいた。「大殿、これは御屋形さまから与ってまいりました金子にございます」「ほうー・・これは大金じゃな」 海野の差し出す袱紗には五十枚の金子が輝いている。 「兵左衛門、この金子は仕舞っておけ」 信虎が満足そうな顔をしている。 その晩は警護の者たちの慰労をかね大いに飲んで騒いだ。 「古狸の舅殿も大層元気じゃな」 報告を受けた氏真が薄ら笑いを浮かべている。 彼は家臣等の心が離れている事を知らずにいる、それだけに悲劇であった。 今宵も進物の虎皮や豹皮を敷き並べ、腰元を侍らせ酒に溺れている。 「これは甲斐の武田信玄よりの贈り物じゃ」 と、悦に入って腰元たちを追い回している。 傍らの重臣、葛山備中守と関口兵部が憮然とした顔つきをしている。 この年の暮れに武田勢は武蔵の国に出兵した。これも北条氏康の要請に応じたことで、太田資正(すけまさ)の属城である松山城を包囲した。 これを受けた輝虎は豪雪をおして出陣したが、越後勢の進攻の知らせを受けた武田勢と北条勢は一斉に軍を引いた。 これにより越後勢は為すこともなく本国に帰還したが、翌年、二月に再び武田勢、北条勢は松山城を攻撃し守将の上杉憲勝(のりかつ)を降参させた。 越後勢はまたもや豪雪の中を押し出したが、松山城数里の地点で落城を知り虚しく兵を引いた。 まことに不思議な合戦が関東で繰り広げられている。 まるでいたちごっこである。 信玄は軍勢を引くと見せかけ、上野に疾風のように現われ松井田城、国峰城を攻略し本国に兵を引き上げた。 まさに孫子の御旗どおりの戦略を見せ付けたのだ。 これにより上杉輝虎は関東と越中に軍勢を繰り出すこととなり、輝虎は信玄と氏康の策に踊らされ、いいように振り廻されることになった。 信玄は上野の松井田城と国峰城を得て、西上野を完全に武田領としたのだ。 これで武田家は関東から手を引くことになる。 漸く念願の駿河平定戦の始まりであるが、唯一、信玄は大いなる誤算をしていた。それは松平家康の器量を安易に考えていたことである。 信玄が関東出兵で上杉輝虎と合戦騒ぎをしている最中に、松平家康は信長と結んだ清須同盟で着々と三河の地で勢力を伸ばし、今川領を狙うまで力を付けていたのだ。 信玄は駿河平定の前に、三河の松平家と対峙せねば成らなくなった。
Nov 26, 2014
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「家康自立と乱世の様相」(77章)にほんブログ村にほんブログ村 元康からの同盟の使者が、清須を訪れた時、信長は小躍りしたという。 今の信長の最大の脅威は、美濃の斎藤家であった。 信長は美濃に出兵し森部の戦いで勝利し、漸く織田家は優位に立ち、斎藤家は家中で分裂騒ぎが始まっていた。 この時期、信長は北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤家への牽制を強化しようと考えていたのだ。 そこに降って湧いたように、岡崎の松平元康の使者を迎えたのだ。 この同盟は元康が提案し、信長が了解したものであった。 元康は東に向え、わしは美濃、北伊勢に勢力を伸ばす。 信長の構想と元康の考えが一致したのだ。 この同盟で松平家は今川家に乗っ取られた領土の回復が出来る。 織田家は今川家の脅威を心配する事なく、美濃攻めにかかれる。 それが信長の構想であった。 信長と元康は不思議な縁で結ばれていた。 元康が六歳の頃、父の広忠は織田家に対抗するため、今川家に従属し、元康は今川家の人質として駿府へ送られる事となった。 この時の元康の幼名が竹千代であった。 併し、駿府への途中に立ち寄った田原城で義母の父、戸田康光の裏切りに遭い、尾張の織田家へ送られる事に成ったが、父の広忠が今川家に従属を貫いたため、人質として二年間、尾張に止め置かれた。 この時期に信長と知り合ったのだ。こうした従属的な信長との関係は、信長が本能寺で変死するまで続くのであった。 信虎の危惧が現実となったのだ。その証として信長は、元康の嫡男の竹千代と我が娘の、徳姫との婚約を約束した。 これで松平家は織田家と縁戚を結び、信長の軍事力を背景として三河、遠江へ軍勢を出兵させることが可能となった。 この年の二月に元康は今川家の上郷城(かみのごう)を攻め、城主の鵜殿長持を殺害し、その倅の長照、長忠を生け捕りとした。 その捕虜と自分の妻と嫡男の竹千代と娘の亀姫との交換を申しで、見事に成功させたのだ。 ここに念願の今川家との手切れが出来た元康は、それを契機に義元から貰った、元の一字を今川家につき返し、松平家康と名乗ることになった。 こうして家康は正式に今川家と断絶したのだ。 躑躅ケ崎館で会談中の四人は清須同盟の締結により、一ヶ月後にこのような状況が訪れとは思わずにいる。 「御屋形、北条の要請を受け関東で上杉輝虎と戦う事はお止め下され。このままでは領民の苦しみが増し、領土が疲弊いたします」 飯富兵部少輔虎昌が優れない顔つきで諫言した。「飯富殿は上杉勢との合戦を止め、今川領を攻めよとの仰せかな」 馬場美濃守信春が揶揄うように言ってのけた。「それがしは今川家と事を構えよとは、申しておらぬ」 飯富兵部が気色ばんで答えた。「飯富殿とは思われぬお言葉じゃ、今川氏真殿は暗愚の聞こえが高い。我等は矛先を転じ、駿河に討って出ることが先決にござるぞ」 珍しく馬場信春の言葉がきつい。「馬場美濃、この件は余に考えがある。しばし待て」 信玄が短い言葉で馬場信春を制した。 飯富兵部は信玄の嫡男義信の傅役(もりやく)を仰せつかっていた、彼の心中は、義信のことで一杯であった。 それと言うのも義信の夫人は義元の娘であり、義元の室は信虎の娘であった。 謂わば、叔母、従妹の関係で義信は、心から夫人を愛していた。 それ故に今川家の本拠地である、駿河進攻には日頃から反対を唱えていた。 信玄は義信の心境も判っている、それ故に余と義信の間で苦悩する飯富兵部が憐れに思えたのだ。「余の存念を申し聞かす。岡崎の小童が勝手な真似をせぬように今川殿に与力いたし三河、遠江の守りを固める。更に父上の申されるよう三河一帯の一向門徒衆を味方といたし、松平家に内紛を策す」 信玄が言葉を止め、三人の重臣の顔色を見て再び口を開いた。「暫くは関東で北条勢と共に、上杉輝虎との合戦に意を注ぐ」 信玄が毅然たる口調で断じた。「そのような悠長な合戦は無駄にござる、一日も早い駿河進攻をお願いいたす」「馬場、急くな我等には西上野(にしこうずけ)が必要なのじゃ。そこを確りと確保いたし駿河に討って出る」 飯富兵部少輔虎昌の顔に安堵の色が見える。「虎昌、それまでには義信を説得いたせ」 「はっ」 飯富兵部が平伏した。 翌日、お弓は再び信玄の呼び出しをうけた。濃い髭跡をみせ信玄が主殿で待っていた。お弓の顔を見て直ぐに質問を発した。 「よく眠れたかの」 「はい、お蔭さまで安眠できました」「織田と松平が同盟いたした」 「真にございますか?」 お弓の問いに信玄が大きく首肯した。 矢張り大殿の眼力は確かじゃ、改めてお弓は信虎の凄味を知った。「父上に伝えてもらいたい、書状の仰せ肝に銘じて忘れはいたさぬ。じゃが我等は、暫く関東に精力を傾注いたす」 「・・・-」 お弓が信玄を仰ぎ見た。「訳を申す。上杉輝虎、我等の上洛にとりいささか邪魔じゃ。まず北条勢と関東で上杉勢を叩く、これなくて上洛覚束ない。さらに今川家じゃが、縁戚の関係もあり、氏真殿の動きを暫く眺める積りじゃ。三河、越中については父上の申されるよう、一向門徒衆と手を結ぶ。このように父上に伝えてもらいたい」「判りましてございます」 お弓が言葉短く答えた。「尚、関東に執着する意味を申す。西上野は三国峠に近い要地じゃ、由って上杉勢を叩き、西上野を確保するまでは関東から離れぬ」 信玄が引き締まった顔付で言葉を選び、断言した。「そのようにお伝い申しあげます」 お弓が平伏して答えた。「お弓、茶所の駿河のような美味い茶はないが、甲斐の茶も良いぞ」 信玄が言葉をかけ、自ら茶を喫している。「さてー」 信玄が言葉を切りお弓を眺めみた、心の内を見通すような眼差しである。「そちにはまだ余に申す事がある筈じゃな」 お弓が肯き、信虎が策す今川家重臣への調略の件を述べた。「なにっ、まだ父上は身を犠牲とされ大それた策謀を為されておられるか」 さしもの信玄の顔色も変わった。「瀬名駿河守、関口兵部少輔に葛山備中守の三名じゃな?」「はい、今の今川家は累卵の危うき情況にございます。いずれ内輪から崩れるものと推測いたします、そこを利用しょうと為されておられます」「・・・-」 信玄が瞑目し、腕を組んで考え込んだ。 お弓は信玄の言葉を待った。漸く眼を見開いた信玄がお弓を見据えた。 身のすくむような鋭い眼差しである。「余は考えを纏める、そのような大事を聞いては見逃せぬ」 お弓が黙して面を伏せた。「お弓、そちに会わせたき者がおる。心置きなく会って参れ」 突然、信玄が話題を変え、声が平常に戻っている。「・・・・・」 声なくお弓が信玄を見上げた、これから何かが起こるような気がして、胸が高鳴った。
Nov 22, 2014
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「お弓、信玄と面会する」(76章)にほんブログ村にほんブログ村 永禄五年二月初旬に蓑笠を纏い、厳重に足拵えをし草鞋を履いた女性が、甲斐古府中の城下町に姿を現した。 女性の履物を現在は草鞋(わらじ)と云われているが、当時はわらぐつと呼ばれていた。雪の季節にはかかせぬ、便利に履物であった。 女性は城下町の繁忙ぶりを物珍しそうに、笠の下から覗き見ている。 三日月眉に切れ長の眼の女性は美しく、町行く人々が好奇な眼差しで振り返っている。権高に見える美貌が、少ししゃくれ気味の鼻がそうした感じを消し去り、温か味のある美顔に変えていた。 女性はお弓であった。彼女は信虎の命で信玄に会いに来たのだ。 この古府中には甲斐武田家の居館、躑躅ケ崎館があった。左程、要害の城郭ではなく、三方を山に囲まれていた。南は甲府の景観が一望でき、館の北東半里の山中に要害の城が築かれ、領内を治める館と館を防衛する山城を有する、典型的な城下町であった。 それ故に館の防備は簡素で外濠が、館の防衛線の最前線の役目をしているが、左程、深い濠でもなく石垣も体裁程度の規模であった。 この地に移ってから武田勢の合戦は常に、他領での戦いであった。 戦国最強の軍団を擁する、信玄にとり「人は石垣、人は城」と考え、厳重な城塞などは無用の長物であったのだ。 それ故に城下は商人や職人達が整然と軒を並べ、商いは盛況を極めていた。 お弓は物珍しくそれらを眺め、雑踏に身を任せ歩を進めている。 彼女は歩きつつ笠を持ち上げ、北の方角を見つめた。 城下町は南に面し、北側は家臣団の屋敷町である。 そこには山本勘助の屋敷もあった。 お弓は成長したお麻に会いたいと思ったのだ。 そうした思いを胸に秘め、彼女は館の門前に辿り着いた。 門衛の足軽に信虎より与った証拠の品を見せ案内(あない)を請うた。 驚いた足軽が慌てふたむき館に姿を消し、身形の立派な武士が現われた。「駿府の大殿の使いの者とはそちか?、御屋形さまがお待ちかねじゃ」 茅葺き屋根の館の内部に案内され、長廊下を伝って主殿に導かれた。 座所には中年の武将が脇息に身をもたせていた、まるで信虎に生き写しそのままである。 お弓が目を見張った。「余が信玄じゃ。遠路はるばる駿府よりよくぞ参った」 声に張りがあり、腹に響くような声をあげ眼に精気が漲っている。「お弓と申しまする」 「河野より聞いておる。そこは寒い、もそっと中に入れ」 信玄が豪放磊落に言葉をかけ、しげしげとお弓を見つめ驚嘆した。 死んだ勘助の娘に瓜ふたつではないか。「父上の書状を見せよ」 お弓が小腰を屈め丁重に書状を差し出した。「拝見いたす」 書状を手にし、深々と辞儀をして読み下している。 流石は信玄さま、お弓が信玄の態度に感心の面持で眺め入っている。「父上の書状、確かに信玄拝見した。・・・どうかいたしたか?」 信玄の眸子の奥に好意が感じられる。「余りにも大殿に似ておられますので驚いております」「似て当然じゃ、親子じゃからな。二、三質問いたす」「はい」 お弓が信玄の言葉に平伏した。「まず、本願寺の件じゃが、余はまだ時期尚早と考えておる」 弓が信虎との寝物語で聞いた事を述べた。 信玄は太い腕を組んでじっと聞き入っている。 「尾張の織田信長には、そんな臭いがすると仰せられたか?」 「はい」「余も今川義元殿を討ち取った力量には感服いたしておる」 信玄が髭跡の濃い、顎を擦ってお弓をじっと凝視した。「申しあげます。あの田楽狭間で今川義元さまが休息なされた刻限を、お知らせした者は、大殿さまの忍びにございます」「何とー、あれも父上のお指図か?」 お弓が黙して肯いた。 信玄は初めて父、信虎の謀略の凄まじさを知らされたのだ。 このような事を一腰元風情に洩らされるとは、この女子は父上の愛妾じゃな。 素早く看破した信玄である。「そちから、もう一度話が聞きたい。三日ほどこの館に逗留いたせ」 お弓は立派な一室を離れに与えられ、長旅の疲れを癒している。 先刻の信玄の顔が蘇っている。大殿に似ている相貌ながら、気迫の鋭さ、人に接する温かみの違いを悟っている。 海内一の弓取りとは、あのような武将を云うものじゃ。と感じ入っていた。 その頃、信玄は飯富兵部と馬場信春の重臣とで、父の信虎の書状を広げ語りあっていた。「驚きましたな、駿府の大殿が義元さまの討死に一枚咬んでおられたとは」 馬場信春が驚嘆の面差しをしている。 飯富兵部は信虎を甲斐から追放した時の様子を思い描いている。「父上の深慮遠謀は倅の余も叶わぬ」 信玄が太い息を吐き出した。 「両名に申し聞かす。西上野が強固に成るまでは関東から兵は引かぬ。じゃが、後は父上の申された通りに事を処すると決めた。良いの」「はっ」 二人の重臣が声を揃えた。 「申し上げます」 主殿の外から警護の家臣の声が響いた。「何事か」「真田幸隆さま、火急の用でお目通りを願って居られます」「なんと・・・幸隆が参っておるか。通せ」「はっ」 家臣の返答と同時に、柔和な顔付の真田幸隆が姿を現した。「如何、致されましたぞ」 飯富兵庫が訊ねた。幸隆は三人の傍らに腰を据え。信玄を見つめ、「御屋形、尾張に潜む忍びより火急の知らせが参っておりまする」 幸隆が緊張した口調で告げた。 「なんぞ悪い知らせにござるか?」 馬場信春が、もの柔らかく訊ねた。「さる十五日に岡崎の松平元康が、清須城を訪れたとの知らせにござる」「なに、真田殿それはまことの事にござるか?」 馬場信春が念押しした。「真のことであろう。織田信長と松平元康は何を話し合ったであろうかの」 信玄は先刻のお弓から告げられた話しと重ね合わせている。「元康が清須同盟を提案し、信長が受けた模様にございます」「父上の仰せどおりとなったか」 信玄が肉太い頬をなでさすって呟いた。「大殿の書状にも、織田信長が最大の強敵となると記されておりましたな」 飯富兵部が口をきり、何事か思案している。「三人とも良く聞くのじゃ、信長は美濃を支配いたすであろう。京への道じゃ」 信玄が信長の行動を予測し言葉を発した。「岡崎の松平元康、今川家に敵対し三河、遠江の地を狙いましょうな」 飯富兵部がずばりと核心をついた。流石は武田の重鎮である。
Nov 20, 2014
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「信虎の新たな謀略」(75章)にほんブログ村にほんブログ村 お弓が涙ぐむ信虎を見つめた。信虎の躰が一回り小さく見える。 頑固者で偏屈を絵に描いたような信虎が、人替わりしたように思える。「お弓、ちり紙をくれえ」 泣き終えた信虎がちり紙で鼻をかみ、背筋を伸ばした。「河野、信玄に伝えよ。時は待ってはくれぬとな」 「それはいかなる意味にございます」「信玄ならば判っておろう。一刻も早く関東から手を引き駿河を狙うのじゃ」 老虎が再び覚醒したのだ。「驚いたお方じゃ、よりによって今川家譜代の重臣を調略されるとは」 河野晋作と小十郎が驚いて隠居所から去って行った。「兵左衛門、そちも下がって休め。お弓に聞きたい事があるでな」 信虎が脇息を廻し、膝前に据え肘を乗せた。 小林兵左衛門が足音を殺し、座敷をあとにしていった。 それを待っていたように、お弓が口を開いた。「大殿、勘助殿はまことに討ち死なされましたのか?」 訊ねるお弓の顔色が真剣である。「お弓、まだあのちんばに未練があるか?」 信虎が口汚く勘助を罵り、お弓の顔色を窺っている。「あい、わたしが惚れたお方ゆえ未練が残ります」 お弓が平然とした口調で返事を返した。 信虎が魁偉な容貌を歪め、にやりとしお弓を見つめた。「死なれてはわしが困る、奴は生きておる」 その言葉を聴き、お弓の顔に生色が戻った。「何処に居られます?」「そう急くな。今は内緒じゃが、そのうちに会わせてやる」「本当にございますな」 念を押す、お弓に安堵の色が刷かれている。「勘助はわしと武田にとって大事な男じゃ、恐らく信玄も承知の筈じゃ。ところでそちに尋ねたき事がある、わしも心を引き締め尋ねる。そちも隠さず、真実を語ってもらわねばならぬ」 信虎が脇息から身を乗り出した。 「そのように改まって・・・・何事にございます?」 お弓がひたっと眸子を信虎の視線に合わせた。 信虎が眼をしばたたき、言葉を模索している。それが態度で分かる。 「実は、そちは内密でわしの子を産み落としたと聞いたが本当か?」 信虎の魁偉な容貌が引き締まっている。 突然の質問を受けたお弓が動悸を押さえ、信虎の顔を凝視した。「本当なればいかが為されます?」 何故、大殿が知っておられる。その疑問が真っ先に過った。「その子は何処におる?」 「古府中の山本勘助殿のお屋敷にあずけておりまする」「勘助に養育を頼んだのか」 信虎の相貌に形容できない不思議な色が浮かんだ。「あの子は勘助殿とわたしの子、養育を頼むに不審がございますか?」「うーん・・そちと勘助の子か」 信虎が半信半疑でいる。 「お弓は一度も大殿を裏切ったことはありませぬ」「それを信じろと申すか」 「信じて下され。じゃが誰がこのような話を大殿の耳に」 信虎がお弓を真っ直ぐに見つめ、自嘲気味に口許をひくっかせた。「胤が尽き果てた、わしに子が出来る筈がないの」 お弓は真実を告げたかった。だが高齢の信虎に、これ以上の気遣いをさせる事に戸惑いがあった。「その話をわしに告げた者は死んだ」 今度はお弓が驚く番であった。勘殿か?じゃが勘殿は死んではいない筈、心の中で自問自答した。「お弓、その子は男子(おのこ)か? それとも女子か?」 信虎が訊ね、お弓の顔色を覗っている。「娘にございます。今年で十二才となり、可愛い盛りにございます」 お弓がしらっと返事を還した。こうした嘘は女の得意技である。「判った、この話はうちきる。そちは甲斐に行け、わしの書状を持参いたし、信玄に直に渡すのじゃ」 「信玄さまに直にお会いしますのか?」 これには流石のお弓も戸惑いを覚えた。「そうじゃ、勘助無きあと誰が信玄に意見する。それはわしの努めじゃ」「ただ書状をお渡しすれば宜しいのですね」「それでは使者の努めが成り立たぬ、信玄の訊ねる事はわしに遠慮せずに述べるのじゃ」 「あい、判りましたぞ」 お弓が破顔した。四十才を越えている筈であるが濃艶な色気が感じられる。「大殿、今宵はご一緒に褥に入りますぞ」「阿呆め、わしの年を知っておろう」 「ただ、抱きしめて下され」 信虎は寝床でお弓の豊満で張りのある乳房を愛撫している。既に己の一物は全く用をなさなくなっていた。 併し、お弓の暖かい手でふぐりと一物の先端を柔らかく愛撫され、微かながらも快感が、余韻となって背筋にむかって駆け抜けた。「女子の躯は良いのう」 信虎がお弓の耳元に熱い吐息を吹きかけた。 そう言いながら信虎はお弓の秘所を嬲っている。(この女子はこの躰で勘助の子を産み落としたのか) そう思うと嫉妬に似た感情が湧きあがってくる。 「お弓はもう誰とも寝ませぬ、大殿の女として生涯を送ります」 この言葉も殊勝に聞こえる。「わしに遠慮はいらぬ。そちの躯はまだまだ若い」 げんにお弓の秘所はしっとりと濡れている、指がそっと差し込まれ、快感と共に吐息が独りでに洩れた。 「もう一度聞くが、甲斐に居る娘はわしの子ではないのじゃな」 お弓が、骨ばった信虎の躯をきつく抱きしめた。 暫し黙したまま、お弓の狭間に指を這わせていた信虎が口を開いた。「お弓、わしの考えを申し聞かせる。必ず信玄に伝えるのじゃ」 お弓は無言で秘所を弄(なぶ)らせ信虎の言葉を聞いている。「今後は尾張の織田信長が脅威となろう。奴の行動をみると得体の知れない臭いがする。奴は必ず上洛を画策いたしておる」 「あっ・・-」 お弓が敏感な箇所をまさぐられ悲鳴をあげた。「信長は三河の松平と同盟を結ぶじゃろう。武田の最大最強の敵は信長じゃ。 松平家は三河、遠江、駿河と今川の領土を狙って参ろう。信長は美濃、伊勢、さらに近江、越前を狙い、京の北方に勢力を拡大すると読む。今川家や北条、上杉なんぞに、係わってならぬ。そう、わしが申しておったと伝えるのじゃ」「判りましたぞ」 お弓が熱い吐息と一緒に返答をした。「これから申すことが大事じゃ。石山本願寺と強固な軍事同盟を結べと申せ、一向門徒衆の力は侮れぬ。彼等の力は日本全土に及んでおる。心して同盟をなせと、信玄に伝えるのじゃ」 信虎は語り終え、暫くお弓の躯をまさぐっていたが、微かな寝息をたて眠りについた。 お弓がそっと煙草の匂いのする、信虎の体臭の漂う寝床から滑り出た。(お麻は大殿の娘です) と、夢路を辿る信虎にそっと囁き、部屋から消え失せた。
Nov 14, 2014
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「新興勢力の台頭」(74章)にほんブログ村にほんブログ村 武田信玄と上杉政虎の雌雄を決する、川中島合戦は終わったが、その翳で戦国の世が、微かではあるが変貌を始めたのだ。 それは一国の衰亡を発端として起こった。 その国が東海一の大国、駿河の今川家であった。 上洛を目差した義元が桶狭間で討死し、倅の氏真が当主に座った時から、その衰亡が始まったのだ。 その原因は父、義元の弔い合戦もせず、女子と酒に現を抜かす、氏真の無能な所業の所為であった。 戦国乱世にあっての弔い合戦は、武将としての拠り所であったが、氏真は全く無能な男で遂に、父親の弔い合戦をせぬままに日を送り、その態度をみた多くの豪族が、今川家を見限り離脱して行った。 その影響が顕著に現れたのが三河の地であった。 ここは元々、三河松平家の支配地であったが、当主の非業の死で今川家が庇護し、そのまま属国とした一帯であった。 義元が織田信長に討たれた知るや、今川家の城代は三河の最重要拠点の岡崎城を、真っ先に放棄し、駿府へと引き上げて行った。 まさに戦略眼のない城代であった。 その空城となった岡崎城に松平元康が抜かりなく入城し、氏真に義元の弔い合戦を進言したのだ。 これは今川家への恐怖から出た進言で、こうしておけば元康は今川家の縁者として身の安泰が計れたのだ。 今川家がこのように衰退しても、その力は絶大で氏真が元康を討てと命ずれば、赤子の手を捻るように元康は簡単に討たれたであろう。 氏真からすれば元康の進言は煩わしい事であったが、元康は今川家の武将であり縁者である、そう信じきっていたのだ。 未だに駿府城には、元康の妻子が人質同然に捕らわれている。 それ故に岡崎城入城には寛大であり、宿老達も今川の為の行動と考えていた。 元康はこの好機を逃さず、三河を確りと松平家の領地として固めたのだ。 こうして大国、駿河の衰亡が、近隣諸国へ大きな影響を与えたのだ。 まさに駿河を巡り、三河、遠江、尾張、美濃の地が沸騰を始めたのだ。 駿府の隠居所の座敷に信虎を交え、五名の者達が集まっていた。 真冬というに座敷には障子戸を透かし、燦々と陽の光が差し込み、火鉢もいらないほどである。 信虎は六十七才となっていたが、一向に謀略の衰えもみせず益々、陰湿な策謀をめぐらすようになっていた。 座敷には信虎の股肱の小林兵左衛門とお弓の二人と、小十郎も同席し、武田家の忍びの頭領である、河野晋作と信虎の会話を聞いている。「河野、川中島の合戦では間違いなく山本勘助は討死いたしたか?」「左様、首級は発見できませなんだが、間違いなく山本さまの遺骸」 河野晋作にも忍びの頭領らしく貫禄も備わってきた。 お弓が顔色を変え唇を噛み締め顔を俯けた。「信玄はいかがいたしおる?」 信虎がしわ深い顔をみせ、鋭い口調で訊ねた。「信繁さまはじめ山本さま、さらに多くの武将を失われましたが、漸く心の傷を癒されたとお見うけいたします」「莫迦者が、駿河に軍勢を繰り出さずに関東に現を抜かすとはな」 信虎が口汚く罵った。「今は北条殿と手を結び上杉勢と対する、これが武田家の戦略にございます」「そちは越中の本願寺をどう見ておる。まさか調略を止めた訳ではあるまいな」「越中の一向門徒衆はお味方、ことある度に越後の背後を脅かしております」「甘いのじゃ」 信虎のしわがれ声に怒気が含まれている。「どうせよと申されます?」「輝虎が関東に出陣した留守に、一気に越後国境から攻め込むのじゃ」「上杉政虎は名を改めましたのか」 お弓である。「将軍足利義輝の偏諱(へんい)を受けてな、そのような些事はよい。何故に越中の本願寺と共に越後を攻めぬ」「留守居役の長尾政景は評判通りの武将、迂闊に攻め寄せますと痛い目にあいまする」 河野晋作が恐れる素振りも見せずに反論した。 「判った、暫くは眼を瞑ろう」 信虎がしわ深い顔を歪めている。「ところで本日、我等を呼んだ真意は何でございます?」 河野晋作が眼を光らした。 「そち達は世の中を見ておるのか?」 信虎のしわ深い顔に怒気が含まれている。「・・・-」 全員が答えに窮した。「尾張、三河をよく眺めよ、美濃では義龍が急死いたし、十四才の龍興(たつおき)が跡目を継いだ。それに乗じて織田信長め、奴は美濃攻略に奔走いたしておる。先年の五月には森部の戦いを仕掛け、今は墨俣に砦を築き小牧山にも築城しておると聞く、いずれ美濃は信長の手に落ちよう。一方の三河はどうじゃ?」「申しあげます」 それまで黙していた小十郎が、抑揚のない声を発した。 「申せー」「松平元康殿、岡崎城で勢力を張り三河の諸豪族の城を攻略いたしております。 このまま放置いたせば三河、遠江は、遠からず松平家が支配いたしましょう」「まずは三河じゃ、今川の倅は弔い合戦もせず女と酒にうつつを抜かしておる。このまま信玄が手をこまねいておれば、小十郎の申す通りになるじゃろう」「それは判っております」 「河野、そちは判ってはおらぬ」 信虎の怒声を浴び、河野晋作が顔色を変えた。「判っておるなら手をうて莫迦者が、三河も一向門徒衆の巣窟じゃ。特に野寺の本証寺は門徒衆にとり大切な寺じゃ、ここに調略の手を伸ばせ」「申し訳ございませぬ、我等は三河の一向門徒衆の力を侮っておりました。 彼等の力は小豪族や、松平家の家臣まで及んでおりますな」 河野晋作が感心の面持で応じた。「川田弥五郎は元康により、旗本に取り立てられておる。河野、その弥五郎を通じ、松平家臣達が元康に逆らうような工作を考えよ」 「承知いたしました」 「小十郎は地侍や門徒衆をそそのかすのじゃ。出来るか?」 「判ってござる」 小十郎が感情のない声で応じた。「大殿には驚きに御座います。駿河に居られ各地の様子を知っておられるとは」 河野晋作が驚きを隠さずにいる。「そちも武田の忍びの頭領じゃが気配りが足らぬ、これは全てお弓の働きじゃ」「お弓殿の」 お弓が口許をほころばしている。 成程な、武田家の軍師であった山本勘助さまを手玉に取ったお方じゃ。 河野晋作が一人、合点した。「いずれにしても標的は上杉輝虎と三河の松平元康じゃ、心して励め」「大殿は、他に何かをおやりになられますのか?」 河野晋作が尋ねた。「わしは駿府城を調略いたす」 信虎が乾いた顔で平然と答えた。「何とー」 「今川家は駄目じゃ、わしはの今川の重臣の中で瀬名駿河守、 関口兵部、葛山備中守を狙っておる」 河野晋作が一瞬言葉につまった。いずれも今川譜代の重臣達である。「成算はおありに御座いますか?」 「なくて話はせぬ」 再び怒声を浴びせられた。「大殿、お話しせねばならぬ事がございます」 河野晋作が威儀を正している。「なんじゃ?」 信虎が不審そうに河野の顔を見つめた。「信繁さまのご最後の様子にございます」「何とー」 信虎が男兄弟のなかで一番、可愛がった倅が次男の信繁であった。「どのような最期であった?」 信虎が眼を瞑っている。河野晋作が信繁の最後の模様を語った。 戦況、不利を悟った信繁は家来の春日源之丞を馬前に呼び寄せ、信玄直筆の法華経陀羅尼品(だらにほん)の経文を金粉で書いた母衣と、乱れ髪の一握りを切り取って渡した。「父の形見として吾子、信豊に渡してくれよ」 と遺言を残し、群がり寄せる越後勢の中に駆け入り、壮烈な討死を遂げた。「・・・・信繁、さぞや無念であったじゃろう。信豊に形見を残したか」 老いた信虎のしわ深い頬に、涙が伝っている。 四人が呆然と信虎の様子を見つめている。「信玄に伝えよ。政虎なんぞと合戦するから信繁を殺したのじゃ、武田の標的は今川じゃ。この言葉を伝えてくれえ」 涙が零れるままに、声を震わせる信虎であった。
Nov 12, 2014
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「激闘、川中島合戦」(73章)にほんブログ村にほんブログ村 (第四回川中島合戦) 信玄が黙然として佇んでいる。信ずる事の出来ぬ報告を聴いたのだ。 先刻は弟の典厩信繁の討死の報せを聴いても、顔色も変えずに耐えた信玄が、山本勘助の討死の報せで呆然自失となっている。 妻女山奇襲部隊の将兵が、本陣の前を駆け抜けて行く、黄備えの騎馬が一団となって猛烈な勢いで犀川方面へと疾走して行った。「はっー」 「はっー」 聞き覚えのある声を挙げ、馬場美濃守信春、飯富兵部虎昌、小山田信茂、 甘利昌忠、真田幸隆等が騎馬に鞭を与え、一斉に追撃して行く。 彼等にとっては満を持した戦であった。 馬蹄の響き、甲冑、草擦りの音が響き、その後から足軽達が笠をかたむけ、眼を剥いて、得物を手に何千名とも数知れぬ、兵士の群れが後続している。 今こそ本隊の苦戦を我等の手で晴らす。 その一念で越後勢の背後を必死で追いすがっていた。 暫く時が過ぎ犀川方面から銃声の乱れ射ちと喊声が聞こえてきた。 別働隊と越後勢が、本格的な合戦に入った合図である。 犀川の手前と対岸、更に犀川の半ばで激しい戦闘が繰り広げられた。 川水が泡立ち、血煙を挙げて川中に転がる彼我の兵士の血潮で川水が、真っ赤に変色したと言われている。 それほど激しい戦いを双方ともが繰り広げたのだ。 それは勝利の名分が、両陣営ともに欲しかったのだ。 戦国乱世には、その名分こそが家の誉れであり、武門の誉れでもあった。「別働隊が敵と合戦に入ったようじゃ。者共、仇討ちじゃ」 山県三郎兵衛が本陣前で部下を督励する声が響き、赤備えの騎馬武者が反転し、越後勢への追撃戦を開始した。 信玄は八幡原を見廻した。辺りには死骸が横たわり軍馬が斃れ、死にきれずに、苦悶の悲鳴をあげている。 彼我の兵士の遺骸は、我が軍勢の将兵が圧倒的に多い。 それだけ越後勢が精強であった証である。 そうした光景の中、空は真っ青な秋空を見せ。雲が悠々と流れ、朝日を浴び、この八幡原の北西に聳える、茶臼山の稜線が緑色に輝きだした。 信玄は床几に腰を据えた。躰が鉛のように重く感じられる。 越後勢の奇襲を受けた本隊の被害は、予想よりも甚大であった。 特に将の討死が多かった、その中に弟の典厩信繁、諸角昌清、゛初鹿野忠次、軍師、山本勘助の討死は武田にとり大きな損失であった。 信玄は一人、荒野に取り残された感覚の中に居た。胸にぽっかりと穴が開き、冷気が吹き込んでいる、そんな思いを味わっていた。(勘助、何故、余との約束を守らなんだ) 一人でに勘助に対する、恨み言が口を衝いてでる。 突然、母衣武者が駆け戻り、信玄に片膝をついて声を張りあげた。「山本勘助さま、お討ち死ににございます」「何処で討死をいたした?」 「東福寺近辺にございます」「・・・-遺骸は確かめたのか?」 「申し訳ございませぬ。、お報せが先と思い確かめてはおりませぬ」 東福寺は海津城の北に当たる一帯に位置し、武田勢が妻女山から駆け下る、その押さえとして越後の甘糟勢が、その東福寺の西に伏兵として潜んでいた場所である。 勘助め余をあざむきおったな瞬時に悟った。 政虎の本陣に突撃せんと出陣した勘助が、そのような場所で死ぬ訳がない。 信玄がぽつりと低く呟いた。「信繁の墓も勘助もここに葬ってつかわす」 信玄が重そうに床几から立ち上がった。 犀川方面からは未だに干戈の音と喚声が聞こえる。 上杉の本陣付近から法螺貝が一帯に鳴り響いた。引きあげの合図だろう。 一斉に越後勢は引き揚げを開始し、善光寺に向って撤退を始めた。 それは難戦中の難戦であったが、見事に越後勢は成し遂げた。 こうして戦国有名な川中島合戦は終りを告げた。緒戦は上杉勢が圧倒し後半は武田勢が追い討ちをかけ、合戦は午後四時頃に幕をおろした。 双方の損害は上杉勢が三千五百余名、武田勢が四千六百余名と伝えられて いるが、武田家は有力な武将を数多く失った。 この合戦で上杉家は川中島北部を辛うじて確保し、武田家は信濃の大半を領する事となった。 翌日、勘助の遺体が見つかった。いく創もの傷を負い、白の法衣は血潮に塗れ、首のない勘助の愛用の鎧を纏った武者の遺骸であった。 信繁は信玄により典厩寺を建立され、そこに葬られたが、勘助は千曲川の土手下に墓を立てられ葬られた。「山本道鬼居士墓」と碑面に刻まれている。 何故、勘助のみがこのような場所に葬られたのかは、永遠の謎である。 さらに三年後の永禄七年七月に両軍は、再び相いまもえるが、信玄には戦う意志がなく、両軍は睨みあいを続け兵を引いた。 十二年間も続いた、両雄の烈しい戦いは終りを告げるが、時代は確実に新興勢力として、織田信長、三河の松平家康が台頭してくるのであった。 (三河一揆) 武田信玄はこの年の暮れから、北条氏康との同盟をさらに強化し関東に本格的な出兵をはじめた。 信玄の関東での狙いは、西上野の支配と北条勢との強固な同盟の二つであった。 一方、上杉政虎は関東管領として北条勢、武田勢と関東で戦うことになる。 上杉政虎が謙信を名乗るのは、彼が四十一才となった元亀元年からで、彼の不幸は領国が雪深い越後であった事である。夏に三国峠を越えて関東に出馬すると、北条氏康は居城の小田原城に籠城し、謙信が折角、降した城を冬の季節に回復するという図式が何年となく続くのであった。 武田信玄の関東進出は永禄八年まで続くが、これは今川家に代わり駿河、遠江を支配する上には、北条氏康の力が必要であり、その為にも同盟を強化し、上杉勢を牽制する必要があったのだ。 しかし、氏康が晩年に家督を嫡男の氏政に譲った頃から、北条家との関係が怪しくなり、今川の領土をめぐり何度となく合戦騒ぎを起こす事になる。 こうした年月の浪費が後に信玄と武田家に、重大な脅威となるのであるが、信玄も武将連も気付かずにいた。こうして波乱にとんだ年が暮れた。
Nov 6, 2014
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