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Jan 26, 2009
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カテゴリ: 直江兼続

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「上杉景勝と兼続の最後の合戦」 (四)

 家康本軍は下野の小山から関ヶ原へと去ったが、会津の背後の信夫(しの

ぶ)口には、伊達政宗が、米沢口には最上義光が虎視眈々とし狙っていた。

 先に動いたのは最上義光であった。彼は秋田実季(さねすえ)と組んで、

上杉領の酒田城攻撃の動きをみせたのだ。

 最上義光は庄内、米沢を己の領土としたい野望を抱いたいた。

 一方の上杉家は、会津、庄内、佐渡と領土が分れており、合戦ともなると

不利な状況であり、その為にも最上領を占拠し背後の憂いをなくしたいと思っ

ていた。酒田城の守将は志駄義秀で三千の兵力で守りを固めていた。

 直江兼続に最上進攻の命が景勝より下った。

 九月九日、直江兼続は三万の精鋭を率い、米沢城から出陣した。

 従う諸将は春日元忠(もとただ)、色部光長(みつなが)、水原親憲(ちかのり)、

上泉泰綱(やすつな)、前田慶次等の猛将であった。

 途中から酒田城の志駄義光が加わってきた。

 目指すは山形城の支城畑谷城である。九月十三日に上杉勢は畑谷城を

包囲し、鎧袖一触で攻略した。最上勢の首級三百五十余を討ち取っての大勝

利を揚げ、余勢をかって山形城の支城長谷堂城に迫り、瞬く間に包囲した。

 この城は山形城の要ともゆうべき支城で、義光の重臣の鮭延秀綱(さけのべ

ひでつな)が守りを固めていた。 時に慶長五年九月十五日であった。

 これが有名な長谷堂城の攻防戦である、この合戦が後年、東北の関ヶ原と

呼ばれることになる。

 長谷堂城包囲の知らせを受けた最上義光は愕然とした。長谷堂城が上杉勢

に降れば、本城の山形城は孤城となる。

 最上義光は伊達政宗に救援要請をしたが、政宗は叔父の留守正景を救援

に向かわせたすぎなかったが、最上勢の必死の抗戦で戦線は膠着した。

 そうした最中に曲者の伊達政宗が動いた。

 政宗は二万の大軍を擁し、福島城攻撃の為に飯坂に陣を布いた。

 福島城は謙信公以来の猛将、本庄繁長が守将として詰めていた。

 彼の指揮下には、あらたに召抱えられた蒲生家浪人岡左内がいた。

 直江兼続は伊達勢の攻撃の報せを受け、水原親憲、甘糟景継の二将に

六千の兵を授け福島城の援軍として派遣した。

 こうして松川合戦が始まった。この合戦での岡左内の活躍は目覚しいものが

あった。彼は敵の大将、伊達政宗に一太刀浴びせる働きを示したのだ。

 この合戦で伊達勢は千二百九十名もの被害を出して敗退した。

 だが依然として長谷堂城は健在であった。直江兼続が長谷堂城を包囲した

日に、関ヶ原で西軍と東軍が激突し、わずか半日で家康率いる東軍が勝利し

ていたが、ここでの両軍は知らずに戦っていたのだ。

 若松城で景勝が石田三成の敗戦の報せを受けた日が、九月二十八日であ

る。最上義光と伊達政宗の許に、この報せがもたらされた日が二十九日の

早朝であった。

 兼続は知らず明日に陣替えをして決戦場を北に移す軍議を開いていた。

 その晩に、景勝から西軍の敗報と軍勢の撤退命令を受けたのだ。

 こうしてみると運命の悪戯を感ずる。

 兼続は諸将を招集し、西軍の敗戦を伝え撤兵命令を下した。

「先陣は色部光長、そちは兵二千名でもって狐越街道を先行いたせ」

 と命じた。この狐越街道は狭隘で知られた難路である。

「水原親憲、前田慶次、両名は殿軍を命ずる。本隊が退くと最上勢の追撃は

烈しくなろう、心いたし殿軍の任務を果たせ」

 直江兼続の戦術は巧緻であった。まだ関ヶ原の敗戦を知らぬように構え、

最上勢が勢いを盛り返し攻め寄せることを予期し、前衛に馬防柵を連ね、

各隊から引き抜いた鉄砲隊、千名を配置につけていた。

 兼続の読みどおり、最上勢が息を吹き返し報復の勢いで攻め寄せてきた。

「放てー」 各隊の将の命令で千挺の火縄銃が一斉に火を吐いた。

 猛烈な銃撃をうけ、最上勢が総崩れとなり後退した。

 上杉の陣地は篝火が真昼のように焚かれている。そうした中で部隊は足音を

消して後退していた。翌日の十月一日、陣屋に火を放ち全軍が退却を開始し

た。猛追してくる最上勢を防いだのが、水原親憲と前田慶次であった。

 敵将の最上義光は、兜に銃弾を受け、ほうほうの呈で後方に退いた。

 こうして上杉勢は無事に十月四日、米沢城へと撤兵を終えたのだ。

 合戦においては攻撃よりも、数段、困難を極めるものは撤兵であるが、

直江兼続は見事に、その任務を果たしたのだ。

 この撤退作戦を見ても、彼の非凡な一面が知れる一事であった。

                              続く 






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Last updated  Jan 26, 2009 03:12:40 PM
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