・・・・ 0
20 0
全23件 (23件中 1-23件目)
1
2015/04/10…雨上がり…四葉ニンジンの、四枚の輪生の葉の中心に光るもの見っけ!え!?っと思って、そっと触ってみる。 明け方落ちてきた雨露…。いくつもの葉の中心に、大きなもの、小さなもの…。 淀みなく透き通ったこの玉は…スワロフスキーよりもクオーツよりもはるかに明るく、 何処までも深く遠くを見通せる…宇宙空間を想わせる玉。…春になれば、全てのものが一気に芽を出すというものではない。その一つ一つが自分の時期を知っていて、その時が来て初めて芽を出し花が咲き、そして実を結ぶ。 隣の木が芽を出したからといって、自分もそれに合わせて芽を出せば…寒いか暑いか…合わない周りに振り回されて枯れてしまう。…人も、自分に合った時期が来るまで歩き出してはならない。そして、自分に合った時期を逃がしてはいけない。ひたすら力を蓄えて、その時が来たら速やかに歩きだそう。…そう…アイリーン・キャディの言うように、 『常に自分の中に答えを求めなさい。 周りの人や、周りの意見や、周りの言葉にまどわされていはいけません。』ただ、やむを得ず世間に放り出される事がある。これまでの人生で、自分も何度放り出されたことか。…そんな時生き残る術は…ドイツ出身の哲学者ゲオルク・ジンメルの言葉に、 『至上の処世術は、 妥協することなく適応することである』…と。 『適者生存』という言葉がある。…家の庭でも直ぐにこの『適者生存』…生存競争が始まる。…プランタにワサビとツルニンジンが…と思ってたら、 庭は今年も青ジュウタン。 確かに去年も、種が粉雪の様に降り注いでた。 少し経つと、生存競争…生き残りゲームが始まる…毎年の事だけども。…生まれるという事は、即時順応するか勝つかしなければ生き延びられない。 確かに、暖かな春の陽射しは喜ばしい。けれども、裏を返せば弱肉強食の世界をも生み出している。 戦いはカエル、ヘビ、カナヘビの世界だけの事じゃない。どんなもの、どんな世界も裏表、陰陽両面から出来ている。…植物も同じ。 少しでも成長が遅れれば他のものに陽の光を遮られて、その明るく温かい恩恵を受けられなくなる。 寝坊して顔を出さなければ、芽が出る前に雨で流される…。 強い根を張らなければ、より強いものに養分を取られてしまう…。 種が落ち、冬を越し、暖かくなった途端…熾烈な戦い。その環境に適応できるものだけが…先取りしたものだけが生き残る。…自然淘汰 / 優勝劣敗…いろんな言葉があっても、 結局は適合能力を持ったものしか生き残れない。 言い換えれば、適合能力さえ在れば生き残れるって事。 例えば、戦いに敗れた魚の一部が海に逃れ、 川より餌が多い海で大きく育ったなんて言う事もある。サクラマスは…言わば戦いに敗れたヤマメの仲間。 進化なんてものは、 言い換えれば、究極の困難に勝ち残ったものにだけ与えられる称号。…植物、動物、人間…全てのものにおいて、 自分で自分を見限らなければ…諦めなければ…何とかしようと努力している間には…「負け」なんてものは存在しない。 人は、進化した??それとも退化??…自然の法則の中で生きようとしなければ、いつかは滅ぶんだろう。 『どの一片の落葉も、舞い落ちながら宇宙の最大の法則の一つを満たす。』ライナー・マリア・リルケ リルケ…繊細な人。
2015.04.10
コメント(0)
2015/02/14晴れたり曇ったり…向こうが見えないほど粉雪が舞ったり。最近ややこしい天気ばっかり。学ぶこと…たいていの人は、自分の知りたいことだけを学ぶ。それはそれで間違いとは言わない。現代人は合理主義だから仕方のないことだけど、それは本当に合理的なんだろうか。何かを追及することは良いことだと思う。けど、その、自分の知りたいことは知らなければならないことか…自分のしたい事には必要なことでも、自分のしなければならない事に目を向けたときに、それは果たして必要な事か…知りたいことだけを学んでいても、それがホントに大きい意味で役立つんだろうか。何をするにも、どこかで飛躍する…殻を破らなければならない時期が来る。発明発見で、[道具]であれば限定されてる考え方でも使える。だけれども、「機械」。特に現代の科学、航空宇宙学とか原子物理学の世界では、根本的考え方自体変えていかなければ…広い知識を総合しなければ進化はない。前に進もうとすれば知りたいことだけでなく、まったく関係ない様な事の中からも学ぶことを見つけないと。個々を学ぶことも確かに好い事だと思うけども、それを進化させるためには、可能な限り広く学んでそれぞれを応用することも考えないと。行き当たりばったりで学ぶのではなく、先ずは、何を学ぶかという事を学ぶこと。関係ない世界…知らない世界…そういう世界が多いという事は、それだけ自分の世界が応用の利かない役に立たない…小さな、狭いものだと言う事になる。今、植物とか自然とか科学、哲学とかに興味を持ってるのは…生け花をやってると生ける形をいくら勉強しても、なんか不自然に思うことがあったから。池坊専応の言葉に、『器用でなくもいい 心があれば』っていうのがあるけど、送る心…迎える心…それを生けたいのに、壁に突き当たった時、所謂『なんでだろ…』と、思う。習ってるとき、課題以外に、別にハランの一種とかも視てもらった。毎回これを3枚、5枚。7枚、9枚と練習した。型はなんとか様になってるのに…何かが違う。以前、自然の花だけを持参して習い、本部に越前の国…ていう席を持つまでになった人に出会って、その時初めて『花』というものが、少し解りかけてきた今の心境。全ての事物は単独でなく、全ての事、全ての物が…全体で全てが成り立っているという事を学んだ。人間一人一人も…全体から成り立ってる。一人一人が、全体を成り立たせている。
2015.02.14
コメント(0)
2015年2月8日いつもの冬なら、コタツに入って眺める雪景色。今日はそんなに寒くない。エアコンを止めて、窓をいっぱいに開けて空気の入れ替え。側溝に聴こえる水音は、本来なら雪解けの音。今は雨だれの音と重なってうっとうしい感じ。部屋ではカランコエの黄色がささやかに明るさを保っている。玄関のウオーターマッシュルーム。新しい細かな葉になって世代交代完了?なんの飾りっ気も無く、花は咲いても、サンスベリアの花よりも目立たない。カランコエみたいに、赤とか黄色の花はないけれど…地味さを代表しているかも知れないけれど…そこにも命が在る。自分としては、こういう生き方が好きだな。可憐な花を咲かせるものには無意識に、心惹かれるし和みも生まれる。ウオーターマッシュルームにはそんなものは無い。けれども、その丸く可愛い小さな葉が、少しの風にそよぐだけで何かを語ってくれているような…ただそのしぐさだけで心魅かれる。見た目の美しさより、派手な行動より…一所懸命生きてる細やかな心くばりの方が、何故か心の奥深く刻まれる事を知らされた今回の誕生日。暗くなるにつれ、横殴りの雪が降ってきた。明日の朝までにはかなり積もるんだろう。やっと冬らしく(?)はなったが…何が[らしい]というんだろ。らしい…らしい…雪が無くても冬は冬でないかい!?
2015.02.08
コメント(0)
昨日は待ちに待った日で、私の中では一年の疲れを癒す時間が持てた。前にも書いたかも知れないけど、福井ソァーベ児童合唱団の定期演奏会。ハーモニーホールふくいの大ホール・・。高校生から乳児まで居るから、楽しいというか・・約2時間があっという間に過ぎてしまう。今年もまた、東京から来てくれた新八王子ウインドオーケストラの演奏も聴けた。やっぱり・・私としては好きな演奏スタイルだから楽しめたし、合唱との共演も、どちらも生き生きとして素晴らしかった。海外でも結構人気がある合唱団。上手っていう事もあるけど、それよりも楽しいっていう事。県内外は勿論の事、遠くは台湾からもお客さんが来るくらい楽しいですよ。この合唱団・・早退、遅刻、欠席なんでもあり。叱らない。それでも、怠けて休んだりはしないんだそうです。まだ言葉も話せない・・音楽っていうものを理解してない・・自分で動けない・・そういう生まれたばかりの子も入団してくるし、少々天真爛漫な子も・・。それがいつしか一緒に歌い踊れるようになるし、皆と協調できるようになってくる。先生曰く、生まれた時からみんなの中で歌声を聴き、楽しい雰囲気に包まれる事で、人として大きく育つ・・とか。年長の団員は下の子を可愛がり、後輩は年上の子に懐く。知らず知らずのうちに人としての自分のあり方っていうものを見につけていってるんですよ。大人は、子供に教える・・って言うけど・・いろんな方法でコミュニケーションをとろうとしてるけど、先生はそんな事しない。一緒に楽しんでるだけ。音楽を通して会話してるって感じかな。人間の行動は思考の最上の通訳者だと、哲学者ロックが言ってるように、教えるのも、育てるのも・・行動でしか伝えられないと思う。解ってもらえないと思う。躓いたら・・それを隠さずにそのまま見せること。なんとかごまかそうなんてするから・・その行動が強調されて伝わってしまう。非行・・犯罪・・。その度に国も学者もやっきになって方法を論じ理論上の環境を作り出す。統計から結果を導こうとする。・・・そんな暇があったら、行動する事だと思う。人に見せられるような行動が出来ないのなら、まずは自分から正さないと。子供が・・教えを請いたい者が求めているのは、体裁で繕ったややっこしいものではなくて簡単な・・『そのまま』のものなんだと思う。・・・と言う私も、人様に見せられるような人生を送っていないし・・どうしたものか。こういう先生方と子供の頃に出会ってたら、もう少しましな人生を・・なんて。出会いも、結局は自分の心が招くんですけどね。今回のは、去年入院中知り合った人のお孫さんもソロで歌ってました。その人同様に、なんか・・優しくて・・って感じでした。環境は人を育てるんですよ。環境って言うのは自然だけじゃなくて、我々大人の行動も話す言葉も、育てられてる本人さえもその一部だと思う。人を暗くする言葉は自分自身も傷付けてしまうし、一番恐ろしいのはそれに気付くことが出来ない。その反対に明るくする言葉は自分をも楽しくさせてくれる。一日一善というけど、一つの良い事は無限に広がっていくものですからね。今回もなんか、奇跡に近い出会いが多くて・・。一つの繋がりが無限に繋がってく思いのひと時でした。
2008.11.16
コメント(6)
夏バテもなんとか治まリかけて・・やる気が出てきたのか、そろそろ散らかり放題の部屋が気になってきた。片付ける基本は、やっぱり思い切りって事になるんだろうけど、そう簡単に思い切れるものばかりではない。有ると便利なもの。有った方がいいもの。憶い出の有るもの。ほかのものでは代用が出来ないもの・・・・。こうやって考えてると、捨てたら後悔するんだろうなァっていうものばかり。・・・・・・・・で、考えました。何が一番大事なのかを。そして、その次に大事なもの・・・・。・・・・・・場所を広く使う。合理的に使う。きれいに使う・・・。自由に動けるように・・。・・・・・・・これって、良く考えたら人生にも当てはまるんじゃないのかな。余分なものを一杯背負い込んで、身動き取れずに苦しんでる人。今にも押しつぶされそうな人。余計なものまで持ってるから、それに振り回される人・・。昨今の事件、出来事を省みてるとあの人たちは何を一番に思ってるんだろ・・とか、何を大事に考えてるんだろ・・って思ってしまう。なにも、深い意味を追求しなくてもいい。私にはこれが一番っていうものを決めたら、次はそれに必要なもの・・付随するものを加えていけば良い。例えば、友達が大事だとしても、家族が大事だとしても・・仕事を一番に選んだとしても、次にくるのはそれに見合う自分って言うことになる。好かれるために、守るために・・成し遂げるために自分を育てなければならない。次にくるのはその手段って事になる。一番大事なものを選ぶ事、何にするかをさえ間違わなければ、余計なものを持つことも無く、邪魔される事も無い。本当に必要なものが見えてくるから。だけども・・やっぱり捨て難いものってありますよ。合理性だけを追求すれば、確かに身軽にはなれるけど・・躓いて始めて気が付く事も有るし・・。人の弱いところって・・躓いてもまだ気が付かないというか、気が付く事自体を不安に思うというか・・。現状に甘えるところかな。今までの生活の流れに愛着が在るのは誰しも同じ。けど、執着しては、折角気が付いても何にもならない・・というか繰り返しになってしまう。・・・・・・・・・部屋の片付けも、心の整理も同じだと思う。残すのは一番大事なもの、それに必要なもの・・付随するもの・・。憶い出に浸るのもいいけど、過去にしがみ付いていては進歩が無いばかりか、折角のチャンスも無駄になってしまう。一気に整理するなんて、辛い判断を強いられて当然なんだから、出来れば気が付いた時・・その都度片付けなおしたり整理したりするのが一番。一度整理したらその上には物を置かないこと。つい、一つくらい・・は、いつの間にか山になってしまう。いつしか・・下になったものは忘れ去られて・・・・ある日突然思い出し、それを引っ張り出そうとすれば、上に積み重ねられたものが音をたてて崩れ落ちる。部屋では片付ければ済む事だけど、心の中ではそうはいかないと思う。いつでも手が届くように。いつでも見ることが出来るように・・整理したいです。・・・・・・・私の心の中は・・・雪崩寸前・・・かもね。私の一番大切なもの・・・一番大切にしているもの・・・間違ってはいない・・・と、私は思う・・けど・・・・・・・・・・きょうも良い日・・・私の周りの人(メールくれる人も来てくれる人も)にとっても良い日でありますように・・
2008.09.04
コメント(9)
この頃の事件を見ていると、呆れるというより情けない思いとか悔しさ、憤りで胸がつかえる思いで一杯になってしまう。なんなんだろう・・。昔・・戦国時代に下克上という、身分の上下も親兄弟という関係も無視。権力を手にするためには、邪魔になるものは全て薙ぎ払う・・という社会の風潮があった。そういうのは良い事とは言えないまでも、野望というか目標があった。動機というものがハッキリしていたし、手段も短絡的なものではなかった。だから、曲りなりにも防御・・という手段も取れた。・・・突然、憂さ晴らしというか、自分の感情を他人にぶつけてくる。突発的な行動に対処出来る人なんてそんなにいない。以前までは、自分の問題は自分の中で処理して、人を傷付けるという行動に出る事は少なかったのに、最近は衝動的に・・人もやってるから・・という考え方で行動する。それにつけて思うことは・・。真実はこうだった・・という報道が多すぎる。我先に、新しい情報として伝えてくる。確かにそれは真実かも知れない。けど、家庭の事情、交友関係、利害関係・・・そして事件までの経緯。いろんな情報の中で、たった一人でもそれと似通った状況に置かれている・・意志が弱いというか思考能力の乏しい者が、それに共鳴して行動をとった時どうなるか・・全く考えてない。・・常識で考えたらそんな事はないでしょう・・と、思ってるんでしょうが、事件は常識から逸脱したところに在るって事。私は真実を伝えただけ・・・と。それも仕事かも知れないけど、私が言いたい事は、真実を暴く事、伝える事は簡単だけど、それが果たして正解かどうかって言う事。いつも何かあると、真実はこう・・。だからこうなった。それならこうした方が良い・・と、討論もやり、評論もする。けど、それなら類似した事件が増えているのは何故?一人の加害者を作るのには十分すぎる程の、真実という名の情報。それに引き換え、被害者になりうる人を守るのには不十分な、答えになるべき情報。均衡をとろうとするならば、多い方を控え、少ない方を補わないと使い物にならない。此処で言う真実は、人の作り出した真実。事実を支えるためのものだから、いかに真実でも、どんな場合でも正解を生み出す万能薬ではないと言う事になる。情報に振り回されて不幸になる・・とはこの事だと思う。人が喜ぶ事なら・・それが裏切りでない限り、真実より方便をとりたいと思う。真実を教えるより、真実に近づくための力を与える方が正解・・かも知れない。尤も、何でもかんでも知りたがるこの風潮自体がおかしい話。自分で消化出来ないものを受け入れても、自分のものになるどころか身体を壊すって言う事さえも解かっていないのかなァ・・。欲しかったらそれなりの力を付けないとダメだと言う事に気が付かない限り・・これからもこういう事件は続くと思う。人との会話、家族との会話・・いろんな会話の中で、真実よりもっと力のあるものに気付いた時、言葉の力を知ることになる。・・・人を褒める事・・本当はそれが真実を言ってる事なんですけどね。・・・・地蔵祭り・・去年は何にも見れなかったけど、今年はいろんなものが見れた。初めての参加で、一生懸命習ってる子。訳が解からずきょろきょろしている子。慣れた手つきで教えている子・・。本当は、この子達の方が本当の真実って言うものを知ってるのかも知れない。余計な事は何も知らないから振り回されない・・。大人は余計な事ばっかり知りすぎて真実を見ようとしない。目の前の・・偽りの真実に振り回されて、きょうものたうつ・・かな。
2008.07.24
コメント(5)
雨は降るし・・予定が変わってしまったので、材料でも・・って思いながらショッピングセンターとかをウロウロと。この頃は大抵の所にキッズコーナーっていうのが在るけど、その側で暫く楽しそうに遊んでる親子を眺めてた。子供って・・気持ち良く眺めてられるんですよ。しばらくして、飽きてきたのかな・・それとも興味が無くなったのか・・思うようにならないからか・・物に当たるようになった。物を叩きつけるように投げる。独り占め同様にして遊んでて、思うようにならないからと・・また投げつける。親は、それを子供のストレス解消・・とでも言うかのような目で眺めてるだけ。・・・この間テレビで観た『キングコング』を思い出した。人は・・好奇心とか、金儲け、名誉とかいったもののために、自然の中で育まれてる生命を文明というものの中に引きずり出してくる。ただ、珍しい・・お金が儲かるかもしれない・・他に何かに利用できるかも知れない・・そうなれば名声も思うまま・・。探検・・という美名に名を借りて、したい放題。その結果は、キッズコーナーで見かけた子供同様、興味が無くなれば放置するし、金儲けできなければ・・思うようにならなければ・・人に害を及ぼせば、虐待と惨殺。人は大人になっても変らない。自分の身勝手だけで自然界の秩序・・生命を壊してしまう。形あるものは、何故にそこに存在するのかという疑問を持たない限り・・いつまでも大人にはなりえない。自然界に生きているもの・・。知りたければ、なにも連れてくる事は無い。自分がそこまで行くべきだと思う。敬意をはらって教えを乞うべきものではないのかな。人の思い上がりは、子供の時に作られるものではないんだろうか。何をやっても叱られない、何でも思い通りになる育て方。生きるもの同士は平等だと教えない限り、形あるものはそこに存在する意味があると教えない限り・・自分に物を合わせようとする子供は大きくなって・・いつの日か必ず自分自身を傷付ける事になると思う。そこに自分が存在する意味すらも知らないんだから。父親は、生き方を教えるかも知れない。けど母親は、その根本になる在り方を教えられると思う。高いレベルの話でなくてもいいと思う。アリが列を作ってたら、殺虫剤をかける前に、アリはきれいに掃除してくれるんだよ・・って話す事も大事。洪水の場面を見たら、水の恐ろしさだけでなく、水もコップ一杯くらいが良いね・・って、物事の適度さも教えないと・・。・・・私も考えてます・・私の存在ってなんなんだろうって。聖人君子になるつもりはないですよ。普通に楽しく生きていけたらそれだけでいいです。なかなか道の真中(ずっと前にブログに出てきた言葉だけど)を歩く事は難しいですけど。時にはきれいな花に心奪われても、それを引き抜くような事はしたくないですね。眺めたり・・いい香りを楽しんだり出来ますからね。
2008.06.22
コメント(10)
この間・・7日・8日・9日と華展を観に行ってきた。・6日から始まったそうだけども、今回は知らなかったから、、偶然鑑賞出来た事になる。3日間とも偶然というよりは、何かに引っ張られた出来事のような気がする。初日・・。用事があって神明まで行ったのだが、何故かそこの店で親戚の注文した商品を預かって親戚へ。親戚で足止めされてロスしたが、その後時間的なロスを取り戻すためにシピイまで戻って買い物・・と・・2階まで上がったらなんと華展をやってるではないか。で、入り口まで行くと、そこには入院中知り合った南越支部の幹部の方が居るではないか。まだ身体が本調子ではないからと、顔だけ出しに来たのだけど、もし・・親戚にも行かず、ロスもなかったら、行き違いになるところだし、シピイにも行く必要が無かった。お茶席の券まで貰ってしまい・・話しにも花が咲いた。次の日、後半の花になるというので午後から行こうと思ってたら、昼から知人の家に行かなければならない用事が・・。どうしても今日来てほしいと言われて、午前中に鑑賞・・と、早い時間にと思ってたら、一階の靴屋でつかまり(最近靴買ったから)その後メール着信。メール読んでたら声かけられた。聞き覚えのある声に、え!?って見たら、入院初日と退院の前日にも世話になった看護師さん。暫く話してて、伝えたかった事とか聞きたかった事・・完了。最終日・・さっと見流して帰ろうか・・と思ってたら、写真撮ってない事に気付いて携帯で撮ってたら、また後で声が・・。京都の華展で知り合った人・・。そして今日華展も終りその疲れが少したまったので(私は鑑賞しただけですが)病院に。通院している所でも良かったけど、時間が無いので近くの病院へ。そこで腰掛けてたら・・あら、○○さん・・と、声かけられた。この人も入院中に知り合って、元気が無い時に励ました人の中の一人。この4日間の出来事・・偶然と言えば偶然。親戚へ行った事から始まり、どれをとっても人為的には不可能なタイミングの出来事。この四人の人とは連絡をとる手段がないから、長い間気にはなってたんですけどね。時々こういう事があるけど・・これは誰にでもあることだと思う。モノ、人、物事・・強く求めれば、必ず巡り逢うことが出来る事を知らされた4日間だった。華展・・あの雰囲気は大好きです。以前は私も教授席に出した事があるけど、観る側から生ける人の心を汲み取るのも勉強。ただ・・ここ数日の間に嫌な事件、事故が相次いだ事には心が沈みます。面白くないというだけで人を傷付ける。人や物に当る前に、何故そうなったか、何故そう人に思われるのかを考える心のゆとり・・現代の教育には欠けてるんではないのかな。人としての基礎を、3歳までに教えなければならない事を・・七歳までに教えなければならない事を・・親そのものが知らない現代ではムリなのかも知れない。・・五年間は王子のように、十年間は奴隷のように、そのあとは友のように、息子を扱え・・という言葉があるけど、今の親は、最初っから友達感覚。それでは年上を敬う事も、人の意見を聞くことも学べない。まして命の尊さなんか考えた事もない子供に育ってしまうのは当然。もう少し・・触れれば散ってしまいそうな花を労わるような・・優しさがほしかった数日だった。
2008.06.11
コメント(9)
今日でちょうど事故から一年。色んな事がありました。そして、色んな勉強させてもらいました。そこにいて初めて解ることばかり。救急車で搬送されているあの時間の長かった事。自分が大怪我をして、初めて解ります。車が止まる度に思った事は、まだなのか・・まだ着かないんだろうか。このまま逝ってしまうんではないんだろうかと。実際は事故は大事故だったけども、そのわりに怪我は軽かったですけどね。手術の説明を受けたとき、それが何のためか解ったのも、手術と言うものを体験してからの事。如何に先生方が慎重に、全力でされても、危険は紙一重の所に在るという事。手術が終わって苦しい時、看護師さんがどれほどの気を使ってくれているかという事。苦し紛れにコールするんですよ、無意識に。けど、仕事とはいえ仮眠中でも飛んできて処置してくれる。夜中には、ベッドから落ちる人も居れば、徘徊する人もいるんですよ。それでもきちんと面倒見てくれる。リハビリが始まれば、どんなに汚れていても・・どんなにわけの解らない人でも、看護師さんと同じで、根気良指導してくれる。介護の人も同じです。仕事というよりも、人として扱ってくれるんですよ。半年居てやっと解る事ばかり。外からでは絶対に解らない、感じる事の出来ない貴重な体験でした。テレビのニユースとかドラマで見る様な、そんなものではなかったです。見舞いに行ったくらいで解る様なそんな生易しいものじゃない。生と死が同時に存在する空間なんですよ。患者は何かが欠けていて当たり前の世界なんですよ。けど・・仕事に対しての気持ちは、少しでも、ほんの一瞬でも欠けたらダメな世界です。良くなってくると、知らない者同士が話をするんですよ。自分の事、家族の事。悩み・・復帰してからの事・・。リハビリのやり方とか、いろんな事話すんです。年寄りも子供も女性も男性も関係なく、来る人全てと話ししましたよ。それまでの私は、そんなに行動的ではなかったです。けど、打ち所が悪かったのか良かったのか・・それとも、未知の空間を目の当たりにしたからか、変わりました。一生の間に、大きい怪我とか病気ををした事がない。或いは、事故に遭遇した事が無い・・。本当はそれが一番良い事だし、それが一番の幸せだと思う。生まれて・・順調に育って、何事も無く社会に出て、何事も無く一生を終れたら・・。一般に言う幸せってこういう事なのかも知れない。一度も躓いた事が無いなんて・・運が良いとしか言えないから。けど・・それだけが幸せかな。何かにつけて、自分は不幸だ・・と言う人が居る。事故、怪我とか病気も・・確かに不幸な出来事だとは思うけど、半年の入院、この一年を振り返ってみたら、これだけの貴重な体験をさせてもらって、尚且つ友達もたくさん出来て、退院してからでも行き来したり、メールのやり取りしたり、時にはTELしたり・・。それに、心の友っていうのかな・・。この人なら何とかしてあげたい・・っていう人とも出会えたし・・。これも考え方一つで幸せな事なんじゃないのかなって思うこの頃です。自分の身に起こる事は、心が招いた事だと前に言ったけども、ある意味、その人に必要な状況だからこそ起こるのではないのかな。必要でない人には何も起こらない。どんな事でも、自分が体験しなければならない状況になった時、こう考えたらどうだろう。仕事の訓練をするように、『これこそが自分だけの特訓なんだ』って。『とうとう自分にもチャンスが回ってきた』って。『やっと自分もここまで来たのか』って。前にも言ったけど、壁にぶつかった人は幸せですよ。そこまでも来れない人の方が多いんだから。神は、固いパンを与える時は、丈夫な歯を与える・・ってドイツの諺です
2008.05.06
コメント(24)
この間まで草のなびく姿で風を見てたけど、ここしばらくは水面のざわめきで知る事ができる。そろそろ田植え時期。子供の頃は大型の機械は見られなかった代わりに、家族での作業があちこちで見られたものだけど、最近そんな光景探はさないと見られない。時代の流れ・・なのかな。あぜ道とか裏山にはいろんな花が咲き、暖かい陽の光と共に心和ませてくれている。最近心和む光景とか、楽しい話・・少なくなった様に思う。なんなんだろ・・親子が殺しあうんですよ、戦国時代でもないのに。一生を共にするはずの夫婦・・我慢できないからと暴力を振るい、挙句の果てに命を奪い、バラバラにする。嫌なら、どうしても一緒に居れないのなら、別れれば済む事だと私は思う。世間では気の向くままに命を奪う人が横行している。そういう人たちを、人権がどうのこうのと弁護する人たちがいる。反面、被害者をかばう人って・・。被害者の人権はどうなるの?ここ数日、花のニユースが多い。確かに、花自信被害届を出す事は無いし、傷付けた人に仕返しをしようともしない。けど、そこに佇むだけで心和ませてくれる花を・・逃げる事も出来ない、なんの抵抗も出来ない花を・・無残に切り捨てる人、なぎ倒す人。些細な事として見る人、受け止める人、そういう人達の心の延長線上に、命というものを軽く見てしまう心の持ち主がいるのではないのかな。弱いものを慈しむ心、美は美として受け入れる心、100人いれば100の考え方が在ると知る心、どんなものの中にも、必ず他に負けない美と善が在ると知る心・・持って欲しい。いや、誰にでもある筈なんですよ、在るんです。ただ、気が付かないだけ。小さな動物の目・・見たことありますか?何とも言えないきれいな目ですよ。そういうものを見た時一瞬でも可愛いと思ったら・・花を観て一瞬でもきれいだと思ったら・・その心大事にしてほしいです。それだけで全てのものが救われるんですから。きょうも良い天気。陽の明るさ、暖かさは、人もものも区別する事無く行き渡ります。厳しさと暖かさを込めて・・・
2008.04.29
コメント(7)
今年初めてウグイスの声を聴いた。去年の今頃もこんなんだったんだろうと憶う。もうすぐとんでもない事故に遭う事なんて、夢にも思ってなかった喉かな日々。ブログを書き始めて3ヶ月目で、人生の岐路に立たされたあの日がもうすぐ来る。けど・・なんなんだろ。こうやって振り返ると、それは起こるべくして起こった様に思えてならない。事故の少し前から、不意に心というか頭というか・・過ぎるものがあった。見たことも無い光景・・見たことも無い人たち・・。その光景が浮かぶ度に、あまりの非現実的な出来事を、心で否定し続けていた事を覚えてる。それと同時に、こうあったら良い。こうあってほしい・・こういう人に出逢えたら・・という思いもあった。今・・その全てが結果として、そして進行している。本当なら出逢うべくもない人たち。考える事も、思う事さえないはずの事柄。置かれている状況。けど・・どこかで、そうありたいと思ってた事ばかり。周りには迷惑かけていると思うけど・・。以前のブログで、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う」というブッダの言葉を載せたけど・・自分で体験してしまった。私は今・・険しくても満足してます。自分が大切と思える人達にも巡り合えたし、自分の出来る事にも気が付いたし・・。尤も、これが全てではないし終りでもない事は解ってるつもりだし、良い事ばかりではない事も解ってる。通り過ぎれば・・済んだ事は過去。済んだ事に拘ってはだめなんですけどね・・。私もやっぱり多少は拘ってしまう。本当なら・・今此処に居るのも奇跡なんですから。過去に拘る人へ・・朝からウグイスの鳴き声・・。あれも口癖・・かな、人って、一歩前に進もうとする時何をするかな。高いところに登ろうとする時は、それだけの準備をするし、ものを掴もうとすれば、今手にあるものを放さないとね。タバコを止めようとすれば、タバコを運ぶ手のクセ、淋しくなる口のクセ・・。そういうものから離れないと、いつまで経っても過去はついてくる。いつまでもそれにすがってる・・それが無いと生きられないのかな?今のままでも自分を傷付けて・・そのうち一歩も進めなくなってしまう。過去を消しなさい・・とは言はない。書き換えなさい・・とも言はない。けどね、過去はしがみつくものではないですよ。その上に立って遠くを見るためのもの、高く飛び出すためのジャンプ台、踏ん張るための、自分だけの足場。いつまでも住む所ではないですよ。償い・・それは自分を惨めにすることかな?いつまでも謝っている事?いつまでも悔やんでいる事?そんなのは自己犠牲、自己満足でしかないですよ。反省は大事だけど、そこから立ち直る事が一番の反省の証明になるからね。・・今から前だけを見ようね。これは・・私が、あるブログでコメントとして書かせてもらったものですが、私の事故も含めて・・過去は過去。くよくよしてる暇なんて無いですよ。あ・・私の事故は単独でしたから・・償いは無いです。・・と、自分では思ってる。
2008.04.10
コメント(8)
暖かい・・というより、車の中は暑い気がする。久々にシピイ(ショッピングセンター)に行って、春を目で確かめてきた。これからの時期、転勤、就職、進学・・いろんな事が重なって、いつもとは違う賑わい方をしている。そんな中、女性の多いのが目に付く。とくに学生さんが多くて、友達ときているんだろうと思う。まだ暖かくなったばかりなのに、もうかなりの格好で歩き回ったり、ベンチで足を組んで話に夢中といった感じ。それはそれで良いと思うし、とやかく言うつもりは無いですよ。この間、東尋坊に行った時の事を思い出してみた。人って、目に見えて危ないと解ってれば、所謂崖っ縁には立たないし、近づきもしない。踏み外しても、ちょっとした追い風が吹いても・・まっ逆さまに落ちてしまうから。ところが、自分の今から行こうとしている所、、或いはもう立っている所が、危ないという見極めが出来ないでいると・・落ちるまでそこに居る事になる。そういう所は、いつもの生活の中では体験できない開放感もスリルもありますからね。楽しさだけを追い求めて自分の足元を見ようとしないし、例え立ち止まっても・・目では見ているのに心は先を見てしまってる。ゲームなんかでもありますよね。或るアイテムを取ろうとすれば、必ず失敗するという所。いろんな経験をして、力を付けないとそれは手に入らないんですよ。今の女の子達全てがそうだとは言いません。しっかりとした意見を持ち、行動している人も多いです。けど・・今居る所が崖っ縁だという事、崖っ縁に向かってるという事、見えていない人もかなり居ます。そして、そこに向かう自分の心も崖っ縁に立たされているという事に気付いていない。派手な格好もキワドイ格好も、そういったものを見極めた上でなら良いと思うし、ニユースになる様な事も無いと思う。なんの経験も無く、力も無く、行き着くところの見極めもしないで追い求める。いや、追い求めさせられているって言った方が正しいのかも知れない。これって心が崖っ縁に立たされているって事ではないのかな。女の子だけではないですよ。社会全体がそういう思考に傾きかけている。そういう崖っ縁に立たされないように。立たされた事に気が付いたら・・一歩引くだけの勇気がほしいです。勇気って、きわどい事をする事じゃないと思う。それが当たり前って見てしまうのは、目を閉じて崖っ縁に進む事、進ませる事だと思う。勇気って・・しっかり目を開けて見極める事。そして、待つことも、一歩引くことも・・勇気ではないのかな。諺に、鹿を追うもの山を見ず・・なんて言いますよね。欲しいものがあっても、したい事があっても、周りを見、足元を確かめながら進まないと、気が付いた時には戻る事も出来なくなります。心はいつも・・一歩引いて、物事見極めたいですね。
2008.03.16
コメント(15)
あの人は苦手だ・・上手くやれない・・とよく耳にする。私しにしてもそういう人が一人や二人・・なかなか近づけない人っていますよ。去年の夏頃だったと思う・・『今夜流れ星見れるよー』って看護士の○○さんが言ってきてくれた。2時頃・・屋上で空を見上げていたら、東の空にいくつかの星が流れて消えていった。久々の・・なんか、自分も宇宙と一体になれた様な・・そんなひと時・・。その人・・○○さんは、何故か私は苦手・だったんです。あるきっかけで、『あ・・この人って、こんなに可愛いとこあったんだ・・』って気が付いて、『ごめんね・・誤解してて』って謝ったんですよ。話し方もぶっきらぼう・・敏感に表情にでる・・冗談も通じなさそう・・そんな感じの女の子。けど・・容姿は良いし・・なんで??って思ってた。本当は・・ガラスの様に透き通って・・繊細で、素直過ぎるくらいの心の持ち主。多分・・それをカバーするためにとってたのかも知れない態度を、少々誤解し、傷付けたかも知れないのに『ごめん・・』の一言で・・『□□さん・・今夜流れ星見れるよー』って言ってくれた。見終わって・・部屋の外でソファーに座ってると、『見れた?』と、声をかけてきた。そして、傍の窓から見を乗り出して・・『あ・・流れ星・・』その後姿・・可愛かったですよ。人って・・本当の姿はみんなこうなんだと思う。そして、それを認める事が出来た時、初めて自分も認めてもらえる。苦手・・なら、まずその人の良い所探しから始めないと。必ず、どんな人でもあるんですよ・・良い所・・共通点。そして、それを認める事が出来れば、また、その人も自分を見直し認めてくれる。前に言った、ものを教える事、教えられる事。それも、やっぱり相手を認める事、受け止める事から入るんだから、苦手・・とか言う前にもう一度観点を変えてみるといい結果が出ると思う。話すきっかけが無かったら、無理に話す必要は無い。不自然な話し掛けは、もっとややっこしくするだけだと思う。素直に・・認めている心があれば、その機会は近いうちに訪れると信じます。それも・・予期せぬほどの素晴らしい形で。・・・頑張って!!
2008.02.14
コメント(16)
最近の人は・・要領がいい。けど・・これってどうなんだろ・昔は要領が言いと言えば、要領よく仕事をこなすっていう意味だった。最近のは、要領よく楽をする・・らしい。こういう考え方をさせる現代・・おかしいのかも。私は、いろんな集団も経験したし、職人の世界の厳しさも肌で感じた経験がある。そんななかで、こういう要領よく楽をする・・的な考え方だけでは到底生きていけない気がする。こういう考え方をさせた世の中って、言い換えれば・・一種温室なのかも知れない。温室育ち・・という言葉があるけど、今はその温室育ちが少なくない。だから・・要領よく楽できない所、場面に立たされると、すぐに切れたり、生きていけなくなる。何所の職場でも、陰口の無い・・優しい・・物分りのいい人ばかりとは限らないですよ。温室育ちというのは過敏症気味だから、何にでも反応してしまう。そして、逃げ出す。もう少し・・鈍い方がいいのでは?と思ってしまう。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない・・と、ブッダが言うように、陰口も非難もあって当然。要領よく楽出来なくても、鈍ければ逃げ出す事も出来ない代わりに、耐える事が出来るのでは?暑さ寒さも・・敏感なら居られない所でも、鈍ければ天国。痛さも何も、耐えると言うより・・それが快感に感じるかも知れない。はしかく立ち回るより・・すばしこく逃げ回るより・・どっしりと腰を下ろすだけの鈍さがほしいと思う。どんな嵐でも、頭を低くしていれば・・いつかは通り過ぎていくものですよ。確かに・・気が付かない事も生じるかも知れないけど、その代わり・・それ以上の収穫もあると思う。要領よく・・それは、お金儲けが上手いとか下手だとか言うのではなくて・・楽をするというのではなくて・・人と如何に上手くやれるか、如何に協力してもらえるか・・それだと私は思う。私は・・鈍過ぎるんですけどね。人間がこの世に存在するのは金持ちになるためでなく幸福になるためである・・だとすれば、少々鈍い方がいいのでは?鈍いと自分で思ってる人・・私と握手してほしいですね。それは、貴方の・・誰にも真似できない最高の武器であり、盾なんだから。鋭いが故に他を傷つけるのと違い、鈍いが故に・・誰も傷付ける事無く鈍いが故に・・自分をも傷付けない・・。これって・・最高だと思うんですが。私と握手してください・・自分をすばしこくないと思ってる人・・。自信もってください・・それが誰も傷付ける事の出来ない貴方の才能なんだから・・。
2008.02.12
コメント(5)
何故か何年か前の今日、一般に言うこの世・・に、招かれました。antiheroineさんも私と同じ2月8日でしたね。今日までの間、何度か九死に一生という場面を経験した事がある。事故・・の場合、今頃天国(?)でパーティやってたかも知れないし、あと何ミリかで・・とか、あと1~2秒の差で命落としてたかも知れない経験がある。そのどれも、思い出すと・・身体が無意識に反応し、一瞬動けなくなる事がありますよ。トラウマって言うのかな・・一瞬ではあるけれど・・。けど・・だからそれが出来ないっていう訳ではないので・・軽症なんでしょうね。尤も自分なりに、克服っていう様な大げさなものではないけど、多少の訓練はしましたよ。ギリギリの所で耐えるのを・・。今憶い出すと、それも考えただけで怖い事なんですけどね。無鉄砲というか馬鹿というか・・信じれない事をやったものですよ。・・やれば出来る・・なんて信じて。その他にも、追い詰められた事もある。自分で招いた事もあるし、知らない間に身動き取れなくなった事とか。失敗したり・・浅はかな考えから自分も他人も傷付けて、自分を追い込んでしまった事もある。けど・・その度に反省もします、後悔もします。此処のブログのタイトル、人生愚痴有り後悔有り・・それでも前に進まねば・・。いくつになっても、これで良いという人間なんていないと思う。失敗しない人間はいないと思う。失敗とは、よりよい方法で再挑戦するいい機会である・・とは、ヘンリー・フォードの言葉。それぞれが前に進まなければならないんです。例え許してもらえなくても・・その上を行く自分が見付かるまで・・進まなければならないんですよね・・辛くても。多分・・明日は・・昨日の私よりは、少しはましな私でいたいと思っています。目に見えるような進化はないかも知れないけど・・今日の日を区切りにして、頑張りたいです。35億年の歴史が凝縮され、250兆分の1の奇跡的な確率で誕生した『あなた』・・という文章が目に入りました。人って・・一人一人が奇跡的な存在なんですよね。失敗・・後悔・・反省・・。歩きにくい道でも、不器用な私でも・・前に進まなければならないんです。歩かせてください・・私の足で。誕生日・・私の誕生日・・生まれ変わる日にしたいです、気持ちだけでも。毎日が勉強・・尽くの物事が反省の材料・・全てのものが私の師・・このことを忘れていたような気がします。ともすれば・・唯我独尊的自己に陥る自分。・・自己中心的な所・・すぐにとはいきませんが、少しずつでも治していきたい(生きたい)です。波風立てないで生きていけるといいんですが・・なかなか。なにもしなければ・・失敗もないんですが・・それでは生きている意味が無いし・・。
2008.02.08
コメント(7)
中風に効くというか、ご利益があるというお寺の住職が、何故か中風になったという話がある。シーズンだけ観光バスが一杯来るという有名なお寺だとか。全国医たるところにこのてのお寺、神社仏閣があるけど・・私は、参ったからといって、それだけで治るとも、思えない。確かに治った人も居る。そして、治らない人に向かって・・それは貴方の信心が足りないから・・挙句、お布施が足りないとまで言う所も出る始末。治るという事は、そこに参ったからだけではない。それなら・・そこに住んでる人、毎日お経まで挙げている人が、なんで病気になるの・・と言いたい。何を如何に・・どう信じるかが問題だと思う。そのものにご利益があるというより、そこまで足を運び・・これで治る・・そういう思いが身体に現れると思ってるし、それはそれで良い事だと思います。仏像といっても、只の木、只の石。形あるものを崇拝する事は、宗教上最もやってはいけない事なのでは?それは単なる偶像崇拝になってしまう。参って治るのは・・私が子供の頃、医者に行くと病気が八割治ってしまった事と同じだと思う。これで治る・・という思い。心が治してるんですよ。言い換えれば、自分が治してるんです。もっと言い換えれば・・病気は自分が作ってるという事になる。怪我も同じだと思う。私の今度の怪我にしたって、自分が招いた事。潜在意識・・とんでもない力を発揮するんですよ。暗示にかかると、できなかった事も出来、出来てた事も出来なくなる。フッと思う・・心に浮かぶ・・これって潜在意識の現れ・・。たまたまいつもと違う事をして・・怪我したり、病気したり・・。そういう時・・なにかとてつもない人生の岐路に立たされたり、出逢いがあったりする事がある。私は・・こうしたいっていう、こうなりたいっていう・・ある思いがあった・・。そんな思いを持っていたから、今回の怪我と言う事に繋がったのかも知れない。怪我が究極の・・到達点ではないですからね。その怪我によって・・本来出逢う事なんかありえない人と出逢い、また、以前の私には考えられなかった事態も・・・。その出逢いも・・事態も・・今考えると、心の何処かにあった。心の何処かで無意識に求めていた事が、怪我を通して、いくつもの現象が重なり合って・・現実になってしまった。人は誰でもそう見られたいと思っている人物像になっていくものだ・・・とは、能力開発研究家のデニス・ウェイトリーの言葉です。方法、手段・・課程は様々でも・・行き着くところは、自分の心に描いた通りになってしまう。怪我・・病気もそうだし、またそれも単なる課程かも知れない。全ての事は・・現象は・・心の現れ・・と信じます。・・もっと良い事、心に描きたいですね・・
2008.02.04
コメント(11)
入院中、何度も死というものを見た。運び出す前も、その後も・・空気が重い。ただ死を待つだけの人・・。刻々と、確実に近付いてくるその足音さえも聴き取れる様な人もいれば、ある日突然・・慌ただしく隣のビルに引っ越すかの様に、整理もつかないまま逝ってしまう人・・。いろんな人が居たけれど・・私を含めて、その時が訪れない人はいない。残りの命を告げらた人も、健康な人も・・明日の事は判らない。ある日、隣に座った人・・奥さんがあまり長くない。自分自身も通院の身で、自由が利かないらしい。奥さんは良い人で、私もよく挨拶したり・・話し込んだ事もあった。突然病状が悪化。酸素マスクを付けたり、血圧が激減したり。私との最後の会話・・内容はよく覚えていないが、椅子に座り・・ポカリスエットのボトルを手にして、四角い空を眺めていたのを・・今も忘れられない。何かを思っている様な表情は・・生きたい・・そういう思いで一杯だったのかも知れない。誕生日が後僅かというある日・・、私は何を思ったのか、そっとその部屋に行って、顔を見、家の人と話した。それからしばらくして、逝きました・・と知らされた。生きたい・・そういう思いも虚しく・・叶えられず・・逝かなければならない人もいるのに、毎日のように、人的な命というものに関る報道が流れている。死もそうだけど、行き詰まった時・・どう考えたらいいんだろう。人って・・一瞬一瞬のどれもがプロローグ。一瞬後の自分は解らない、今の自分ではないのだから。今行き詰まってるのは今の自分。一瞬後の自分なら乗り越える事が可能になるかも知れない。医学の様に・・過去には不可能だった治療も、、現在では可能になった様に、今不可能でも・・解決出来なくても、将来可能になる事だってある。自分も進化するんだから・・進化しなければならないのっだから・・。大抵の人は、今現在の自分で、今の状況を見て考える、判断を下す。状況なんて・・一瞬一瞬変化するんだし、自分そのものも変化している事に気が付かないと。もうダメだ・・とか、どうしょう・・なんて考えるのは今の自分だし、どうせなら・・もう少しやってみよう・・これではどうか・・と、次に来る自分に賭けるのも良いのでは?命というものは・・自分のも他人のも、人が決める事ではない。生かされている命・・もう一度と言わず、何度でも賭けていいと思う。奪う事は許されなくても、生きる・・生かすという事には、拍手をもって迎え入れたいです。壁にぶつかった人は、幸せだ。壁までたどり着けない人が、大勢いるんだ・・中谷彰宏の言葉です。子供の頃・・悩んだ事のない人はいないと思う。それでも今に至り・・悩んだ事を振り返ると・・あの頃の悩み・・今の自分でも解決出来ませんか?近い未来の自分・に、賭けたくないですか?いくつもの死と言うものを見てきて・・生きると言う事の素晴らしさ・・感じてます、今の自分だけでは解決出来ない事・・次に来るもう一人の自分に委ねる事も、人生の中では大切かも・・。
2008.02.02
コメント(7)
人にモノを教えるという事。そして習うと言う事・・ということで、この間こんな話が出た。上から見れば、こんな事まで聞かなければ出来ないのか・・という事があるらしい。けど・・私が思うのには、そんな取るに足りない事だからこそ、絶対に知っておいてもらわなければならない事・・ではないのか。そんな事も知らない・・では、世間に通じないのだから。用を言うのにも、つい出来る人に頼んでしまう・・とも言っていた。けど・・そんな事をしていたら、いつまで経っても人が育たない。習う・・というか、勉強する方にも考えなければならない事がある。答えばっかりを求めて、それにたどり着く課程を面倒くさいと考える人が多い。答えを言ってくれる人は親切。言ってくれない人は不親切・・だそうだ。例えば・・昔、中国に弓の名人が居た。そこへある日若者が弟子入りを申し出た。師匠は・・『では、先ず瞬きをしないようにしなさい』といった。けど、どうやってそその訓練をするかは教えない。次に、『ものが大きく見えるようになりなさい』という課題が出た。若者は・・思考錯誤の後、母親の機織り機の下に入り、織機が動く度に下に飛び出す針が、目に刺さる寸前のところで上を向いて、瞬きをしなくなるまで訓練した。初めは怖くて横を向き・・目を閉じてしまう。次の課題は、陽の差し込む窓に、蚤を髪の毛で括って吊るしそれを毎日見る訓練をした。最初は、眩しくて見えるものではないし、まして相手は只でさえ小さい蚤。そのうち睫毛に針が触れても瞬きをせず、蚤は車の輪ほどに見えるようになった。今の若者には、何かをするためにこういう工夫をするという気迫・・少ないように思う。そんなこと・・どうやれば出来るんですか・・っていう答えが返ってくる事の方が多いし、もしこんな方法を言っても、多分・・危ないとか、それは無理・・って答えが還ってくると思う。・・・ついに修行を許されて、これでもう自分も一人前・・もしかすると、師匠より上かも知れないと思うようなくらいの腕前になった。ある時・・野原を歩いていると、向こうから師匠が歩いてくるではないか・・。ここぞとばかりに若者は弓に矢を番え、師匠めがけて矢を放つ。師匠はこれに気付き、自分も矢を放ち、弟子の放った矢を空中で射落とした。若者は次々に矢を射る・・。師匠は悉く射落とす。けれども・・若者の方が、師匠より一本多かった。最後の矢が師匠めがけて飛んでくる・・。普通なら・・見をかわすか隠れると思う。けど・・この師匠は逃げなかった。とっさに生えているイバラの枝を折り、その枝で若者が放った矢を受け止めた。若者は、師匠のこの姿に自分の未熟さを知り・・平伏したと言う話しです。これは、私が小学校の時読んだ本の中にあった話しです。あの頃は・・名人ってすごい・・という事だけしか思わなかったですが、今思うと、この話の深さ・・底が見えません。人にものを教えるという事、それは、教えられるものの全てを見切り、決して逃げない、全てを受け止める覚悟っていうものが必要ではないのかな。教えられる方にも覚悟が必要だと思う。与えられた課題の意味。成し遂げるための方法を求め向き合うってこと。親子でも、師弟でも・・先輩後輩・・上司と部下・・・。今は、みんなが責任回避するのにやっきだし、人を蹴落とす事に努力を重ねる。こういう人間関係・・うまくいくはずが無い。受け止めるということ・・それが出来ないのなら、教える事も習う事もしてはならないのではないのかな。信じ合い受け止めあう。お互いが認め合い伸ばしあって、初めて前に進めると思っています。そんな事くらい・・は、言い換えれば逃げているのかも。またまたいつもの様に話がそれた・・ごめんなさい・・
2008.01.30
コメント(6)
スーパーで買い物をしていて・・入院中のある出来事を憶い出した。ある日・・どこのお嬢さんかと思うくらいに着飾った女の子が、親に連れられて見舞いに来た。親もかなり上等のものを着込んで、これ見よがしにあちこち歩き回っている。最初のうちは、『あのね・・あのね・・』とか『だからね・・』なんていう、私には到底口に出来そうもない言葉での、上品な会話が進んでいた。そのうち、食事の時間になって・・配膳。しばらくして、食事の様子を見ていた女の子・・。その女の子の口から、予想もつかない・・意外な言葉が飛び出した。『ねェ・・早くうちに帰ってママ(御飯)食おう』・・ですよ。雰囲気と、外見と・・言葉との不調和音というか・・ささくれだった部分が見えたような気がした。その瞬間、母親の顔が妙に引きつったのを覚えている。今思うと、なんか母親が可哀相・・というより滑稽だし、哀れなのは子供の方だと思う。見舞いに来るのに、お出かけ気分で着飾って・・子供までもそれに付き合わされて・・。挙句の果てに・・ママ食おう・・ですよ。どんなに着飾っても・・中身は家に居る時と同じで、それが当たり前だと思ってる。親は・・着飾る事より、もっと教えなければならない事があった筈なのに・・と思うし、こういう教育をされた子供は可哀相。これとは反対に、小さい子供を連れて見舞いに来た家族があった。子供は部屋の外で遊んでいたが、しばらくして同室の人にお菓子をもらった。子供は嬉しくて・・母親にそれを告げに行った。母親は・・くれた人に一礼して子供に向かって・・『ありがとうは・・』些細な事だけど、これが教育、これが躾というものだと思う。見ていて嬉しかったし、この子は幸せだな・・って思いもした。尤も、まだ・・ありがとうの意味も知らないだろうけど、先ずは形からでも教える事が必要だと思う。子供が何をしても・・なんにも言わない母親。それどころか、他人が注意でもしょうものなら目を剥いて怒りだす。前に、家庭教育について講演してくれる人居ないですか・・と聞かれた事がある。私は言いました『親を教育する事ですね』・・って。親が教育の仕方を知らないのに・・何を教えて良いのか知らないのに・・子供を教育できる筈ないんですよ。子供はしっかりと親を見ているんだから、教える・・というより自分を正し、行動して見せる事から始めないと・・と、思う。他人の子供にも同じです。子供は宝と言うのなら、皆で磨きあげないとね。
2008.01.20
コメント(7)
きょう・・リハビリ室の壁に掛けるのがまた一つ出来た。まだ気に入っている訳ではないが、とにかく花が飾りたいという思いから、気の向くままに飾っている。入院3ヶ月目から・・リハビリも兼ねてやり始めた。以前は売る事もあったし、作り方も教えてもいたけど、此処ではままならない。ワイヤーに模様を付け、いろんな形にして、それに花をあしらう。結構手間がかかるけど、見ている人が楽しんでくれるので、これも良いかな・・なんて。入院中は、作り過ぎて部屋が一杯になってしまって、廊下にも置く始末。他の階からも観に来てくれたり、院長さんには・・『全部の部屋に・・』なんて言われたこともあったけど、なかなか時間が足りなくて今に至ってる。お花のお部屋・・なんていう嬉しい名前まで貰って楽しかったですよ。花って・・なんなんですかね・・。白い壁に・・ぽつんと一輪あるだけでも和んでしまう。例えそれが造花でも何故か、心に空いた穴を埋めてくれる。高価な置物も良いかも知れない・・名の有る人の作品も良いかも知れない・・。けど、花はなんにも言わずそこに在るだけで、世界中のどんな人にも・・芸術の心得の無い人にも、子供にも、戦いの中に身を置く人にでも・・愛される。作りながら思うことは、心の片隅にでもいい・・ほんの一輪・・たった一輪の花を咲かせるだけでいい・・みんなが花を咲かせる気持ちになった時全ての人が愛し合う事の出来る世の中が来ると思う。騙しあい、いがみ合い、殺しあう・・鉄骨の世界、コンクリートの世界じゃダメなんですよ。花を咲かせる余地のある世界。それは、本来みんなが心の中に持ってるんですよ。私の言う事は・・奇麗事かも知れません。現実はそんなに甘くない・・そう言う人もいると思います。けど・・そう言う人にお聞きします。貴方は・・花を観てどう思います?憎いと思いますか?邪魔だと思いますか?もしそう思うのなら・・花に代わって言わせてもらいます・・それでも・・私は貴方を愛します・・と。
2008.01.18
コメント(5)
久しぶりに、夜の日野川を渡った。橋の名は万代橋。昔は木造で、足元は利道。所々あなが開いていて、そこから川の流れを眺めた記憶がある。今は鉄骨。隣には、歩行者専用のつり橋まで並んでいる。夜には・・オレンジ色の灯が燈り、何重にも重なった夜の帳を押し開ける。そこを渡り・・街灯の並ぶ道を走っていると・・いくつもの路地が目に入ってくる。しばらくぼんやりとその暗闇を眺めていて・・なにか物足りない事に気が付いた。寒い夜の風景・・。冷たい街灯の光・・。最近は、各家庭の玄関の明かりなんて、殆ど見た事が無い。それどころか・・窓からこぼれてくる暖かい明りも少なくなった。以前は夜ともなれば、どこの家からも温かな・・明るい光がこぼれていたんですよね。今は、そのわずかな・・隙間から漏れる光でさえも惜しむ時代になってしまった。それだけ、個々が区分され、灯かりさえも自分だけのもの・・一筋の光さえも漏らさない・・人には分け与えない・・。自分は自分、他人は他人。今の時代って、そういう考え方でないと生きていかれないのかも知れないけど、少し・・ほんの少しでも光が漏れれいれば、外を歩いている人はどれほど温かさを感じる事が出来るか・・計り知れないものを。光・・を例えにして今日感じた事を書いていて、ほんとに現代って温かさが少なくなったというか、周りの人に分け与えるっていう気持ちが少なくなった。一方では、物に埋もれんばかりに有り余り、他方では必要最低限も手にする事が出来ないでいる。多くとは言わない・・窓の隙間から漏れている光のように・・ほんの少しでも・・心を温められる分だけでも・・なんで分ける事ができないんだろう。省エネ、節約、倹約・・どれも立派な言葉です。しかし、それは何のためなのかと言いたくなる。人類だけ、裕福な人達だけが生き残るためのものなら・・そういう考え方をする人が多くいる限り、本当の温かさ・・無くなりますよ。今は正に氷河期・・それも、心という一番大切な部分の・・。
2008.01.16
コメント(3)
病院という所は、普通の人の生活思考と比べると、かなりのズレが在りますね。でも、その中で最大の問題は、怪我とか病気からくる不安だと思う。治るのだろうか・・で、それは何時。そして、どれだけ元に戻れるんだろう・・ってね。一人黙って四角い空を見て過ごす人。ベッドの上で限りなく落ち込む人・・・。リハビリもまともに手につかない人もいるし、特に女性は家の事とかも気になって、焦りまくってる人もいたりする。そんな中、入院してから退院するまで、私は一人の時間を過ごした事が殆ど無い。いつも誰かが傍に居て,いろんな事を話してくれる。家族の事とか、自分の病気の事。或いは揉め事から趣味の話しまで。だから・・同じ階の患者さん、看護士さんとか助手さんとかで知らない人は居なかったし、他の階の人ともかなり話し込んだ事がある。ある日・・5~6人の女性の患者さんと話し込んでいるうちに、『今、家の事がなんにも出来ないから、家族に迷惑かけてしまって・・』という話が出た。確かに男と違って、女性の家での仕事は膨大だと思う。家の中の事だけではない。町内の事・・それに無数の集金とか・・。そのうえ働いている人も多い。聞けば聞くほど心配するのも無理の無い話。心配・・これって身体に一番こたえるんですよね。病気にしても怪我にしても、まず心穏やかに・・が一番の薬。だから、こう言ったんですよ。『心配しても、家族の人の仕事が減る理ではないでしょう。毎日心配ばかりしていると、食欲もなくなるし・・治りも遅くなりますよ。それに・・私と話してて楽しくないですか?退屈?』・・って。私は毎日冗談を交えながらみんなと話すのが好きなもので、病院なのにいつもにぎやかだったんですよ・・やかましいほどに。『ここに来て話す事は楽しい・・だからいつも来るんです』という答えが返ってきたので、『だったら、今は一生に一度の長期休暇と考えたら?上げ膳据え膳で全館空調完備。風呂も入れてくれるし健康管理もしてくれる。おまけに、毎日私の漫才も聞けるし・・。』って言ったら、笑ってくれました。こんな調子だから、仲間がだんだんと増えていって、他の階からも来た事がありました。心配しなければならない現状がいつまでも続くという事ではないし、まず考えなければならない事は・・心配しなければならない現状を出来るだけ早く切り抜ける事だと思う。そのためには・・治る・・という事だけを考えないとね。『年寄り死んでも村絶えん』という言葉を母がよく言ってたのを覚えてます。自分が・・という考え方は自分中心に物事を考えている証拠。確かに、残った者は困るけども・・それで死ぬ事なんてないですからね。人は入院したら、『さァ大変だ・・治らないかも知れない。死ぬかもしれない』そう思う。これっておかしい。入院出来たら、『これで一安心。後は任せておけば助かる・・』でないとね。自分のやるべき事は・・早く治る事にだけ集中すること。挫折した患者を治せる医者なんて・・世界の何所にも居ないのだから。
2008.01.14
コメント(6)
やっとパソコンの前に座れる日が来た。怪我から8ァ月。入院してから6ヶ月・・長かったですよ。まだまだ本調子ではないから、思ったとおりに書けなかったり・・表現に不自然、無理な場合があるかも知れません。いや・・あると思います。そんな時は思ったとおり、感じたとおりの指摘をもらえれば幸いです。前にも書いたかも知れませんが、人とか物とかとの出逢い・・。今回はその不思議さというか、必然的というか・・教えられたような気がします。長い年月・・人は生まれ・・そして生かされ・・いつか大地に還ります。その繰り返しの中で・・いろんな人と出逢い、学び合い愛し合います。同じ時期に生まれ、ある日・・ある時、同じ場所に集う・・。偶然・・という言い方をする人もいます。けど・・私はそう思わない。そういう考え方が出来ないんです。出逢い・・その確率は1/∞に等しい事なんですよ。私は、本当なら死ぬくらいの事故にあって、本当なら違う病院に運ばれたはずなのに・・。何故か此処に来て・・掛け替えの無い人達に出会いました。場所も・・時も・・少しのズレで逢う事が出来なかったであろう人達。人は・・生きていくうえで、それぞれが主役を演じます。私の人生の中では私が主役でも、出会ったそれぞれの人達の人生では、私は脇役。出逢って・・それぞれが主役、或いは脇役を演じる。何故その人と出逢ったのか・・。それは、その人でしか・・その人にしか演じきる事の出来ない役割があるように思います。それぞれの人生と言う舞台の上で、それぞれが自分にしか出来ない役を演じる・・。それが、それぞれに必要な出逢いだと思います。この私のブログに来てくれている人たちの人生と言う舞台の上で、私に出来る・・私にしか出来ない脇役を演じさせてもらえる事・・その場を与えてもらえた事・・感謝の気持ちで一杯です。これからも・・いろんな出逢いがあると思います。その時は・・力一杯頑張らせてもらいます。それから、入院中に心の拠り所となってくれた人・・ありがとう!必ず返します・・心をもって・・。
2008.01.12
コメント(6)
全23件 (23件中 1-23件目)
1