ラジオでは荒浜に200~300の遺体が浮かんでいると何度も何度も報じられる。
市内。
私が1時間半かけて通った高校から、おおよそ5キロほどの場所。
到底信じられる話ではない。
私は朝から来てくれたヘルパーさんと、一緒に昨日のカレーとおにぎりでリゾットして食べた。
すっげえうまい。
私は自分のアパートならもしかすると電気の回復が早いのではと思い
吸引器を一台持って行った。
つかない信号をお互い譲り合いながら曲がり、直進し、
混雑を避けて迂回迂回する。
やっぱり、電気は通っていない。
家に戻ると、ヘルパー事業所の責任者が来ていた。
「淑子さん、みんな自分のことで精いっぱいで、誰も他人のことなんか考えてくれないわよ!」
「早く入れる病院があるなら病院へ行って!」
彼女は、知り合いが津波に巻き込まれたと言う。
母は姉とまだ連絡が取れず、姉の旦那の会社も水没。
従業員が閉じ込められ爆発が起きていると言う話も。
母は姉がここに逃げてくるんじゃないかと思っていて、動きたくないのだ。
F兄貴もやってきて、市場で買ったパンをくれた。
幼馴染ヘルパーのお兄ちゃんもうちにやってきた。
埼玉から妹の粉ミルクを運びに仙台まで来てくれた。
「おばちゃん、俺来たよ!」
24時間が経過したバッテリーを車につなげてくれて
吸引器もコンセントを引っ張れるようにしてくれた。
「これは保険だからな。おばちゃん、頑固なのは知ってっけど。
英語の塾でよく怒られたからなー俺。」
母の塾の教え子とお父さんが「先生が気になって気になって」と来てくれた。
お父さんが車でうちの自転車と持って帰った吸引器を持ち帰るのを手伝ってくれた。
訪問看護師が来て、もう入院はできない。できたら奇跡だと
イルリガートル(流動食のボトルとチューブ)で吸引する方法を伝授してくれた。
みな、自転車で何件も病院をまわり、入院しているという。
119番したくても、私の携帯は使えない。
それを聞いた母の教え子が携帯が自宅のほうでつながったと言うので
救急車を呼んでくれた。
「もう電池がないんです!人工呼吸器が止まりそうなんです!」と叫んでくれたそうだ。
バタバタ準備をしていたら、きのこ隊の顧問の先生が来てくれて
準備を手伝ってくれた。救急車は一時間で来た。
「受け入れ病院はありますか?」
レスパイトをしていないから、入院病院などない。
「近くの病院(歩いて10分弱)まで行って交渉してきますよ!」と救急隊員。
みんな、本当にありがたい。
玄関に「●●病院へいます。お姉ちゃん、来たら○○さんの家へ」と書いて貼った。
いる人全員で移乗し、
救急車の中、アンビューで病院まで行き、
用意された部屋はICUの手術室だった。
・・・・ちょっとカッコイイと思った。写真を撮ったりした。
母の体温は33度まで下がり、手術室は暑く37度にまで上がった。
ここも水は出ないので、貯水から出しているそうで
水は必要最低限しかもらうことができない。
母の流動食+食間水だけで3Lになる。
当然洗いものはできない。なんだか胃が痛い。
お隣は、急性心筋梗塞のおばあちゃん。家族が代わる代わる付き添う。
息子さんと思しき男性が「みんないつかはそうなるんだ。大事にしてやれよ」
と言って、私に缶コーヒーをくれた。
おばあちゃんはつらそうで、何度も何度も動いて点滴を止めてしまっていた。
家族がいないときに、看護師さんを呼んだり、背中を掻いてあげたら喜んでくれた。
外に出たら携帯の電波がやっと届いたので、メールを受信。
何度も何度も何度も受信、エラー、受信、エラー・・受信
メール30件、メッセージ12件。メッセージはまだ電波が悪くて聞けない。
みんな心配してくれていた。みんな無事だった。よかった。本当に良かった。
姉は無事、旦那さんと2日後に避難所で再会したそうだ。
母の実家も無事。みんな心配していた。
気仙沼のおじさんおばさん、多賀城のおじさんおばさんはまだ連絡が取れない。
頑張って何人かにだけ、無事です。病院にいますとメールする。
海近くの患者さんは津波がくるからと
家族みんなで毛布にくるみ、車に無理やり乗せて
市役所まで避難したそうだ。幼馴染ヘルパーの携帯でお互いの無事を確認した。
ママは「明日には帰る。」と言う。
ママは本当に状況が分かってないなー。
ホントに33年前の宮城県沖地震をサバイブしたのか??
ここからは消耗戦だ。
椅子に座って、ベッドの手すりに寄りかかって寝ていたら
看護師さんが「寝てください。大丈夫です」と廊下に布団をひいてくれた。
ベッドも布団も足りないから、明日は分からない。
揺れる。叫び声がする。ママは眠れているだろうか。
頭がかゆくて死にそうだ。