今日は大いにのろけるから。(笑
3月11日、夕方4時
「私は大丈夫。しばらく連絡できなくても心配しないで。ここガスのにおいがひどい!
余震もあって怖い。お母さんのとこへ行く」
の電話を最後に、初めて丸3日間連絡ができなかった私たち。
JJはその後、ひたすら日本のニュースを見て過ごした。
ヨーコがそこにいるかもしれない。
あの電話が最後だったかもしれない。
生きていると思う。でも怪我したのかもしれない。
ゾンビみたいに、次々チャンネルを変えて、私を探した。
寝ることもなく、おなかがすいたら出前を取って。
ときどきかかってくる友達や家族からの電話を、
ヨーコが電話するかもしれないから電話しないでとあしらった。
友達のチンゴンさんがやってきて
彼を外に引きずりだした。
「あそこに行くなら準備しないと」
このまま連絡がないなら、
何としてもそこに行かなければ。
俺が行かなければ。
お母さんの家は木造だから倒壊したかもしれない。
逃げられなくて介護してるかもしれない。
彼は、登山の用品店へ行って
固形燃料やほっかいろ、コンパス、フィルター付き水筒、山用の靴を買った。
行っても荷物になるかもしれないから、10日分の食料も用意した。
自分が一人でも10日生きられるように。
そして、日本語の私からのメールが届いた。
「電気がないので避難入院しました。無事です。」
病院の位置を確認した。
山形から笹谷峠を越えればいい。
ヒッチハイクしてもいいし、軍隊の時より大変じゃない。足でも行ける。
日本人の友達が止めても聞かなかった。
留守電には「俺が行くから、心配しなくてね。サランヘ」と
聞いたことないような声が入っていた。
そして月曜日。
病院から初めて電話した。
「来なくていいから。ホワイトデーのプレゼント待ってるね」
あるんだよ!俺ちゃんとあるんだよ!
福島経由で行くからと言われたものの
その時は本当に原発が怖くて絶対に来ないでほしいといった。
それから4月2日に彼はやってきた。
白馬じゃなくて白いタクシーでアパートまでやってきた。
私はすっかり震災で変になっていて
ずいぶんひどいことも言ったし
ひどい喧嘩もした。
うなされてひどい寝汗をかいて飛び起きる私を
彼は朝まで見守った。
熱が出たら、自転車で拙い日本語で薬を買ってきてくれた。
ママンのために文字盤を作って
非常電源のマニュアルも作って
大きな余震の準備もした。
いや、ほんっとにひどい彼女だったと思う。
週に一度くらい荒れてた。
そんな私を少しでも助けようと努力してくれた。
本当に感謝してる。
頑張って二人で願書も書いた。
約束通り、こっちの大学の試験のために
JJは帰国しました。
昨日、近くの公園に秘密のルートで忍び込み
蛍を見た。
「俺に試験の力をー!」って言ったら
一匹の蛍がJJに向かって飛んできた。
奇跡みたいだった。
二人で感動した。
ママンは「早く帰ってらっしゃい!」と言った。
息子か。(笑
「みんな俺の人生はドラマだっていうけど
もうおなかいっぱいです。
彼女のお母さんがALSになって、
彼女の住んでいる町が被災した。
もう充分です。」
じゃああとはいいことしか起きないね。
これはきっとサクセスストーリーのドラマでしょ?
韓国ドラマじゃないでしょ?
韓国ドラマなら次は・・・・と想像して二人で笑った。
試験は八月。
あと2カ月。たったの2カ月。
7年も繰り返してきたのに今でも別れはとっても辛い。
「毎回こんなにつらいのはもう嫌だ。もう充分充分だよ」
「ヨーコはちゃんと自分を大事に生活してね」
と言って彼は今、日本海の上です。
次の未来のために、ちょっとだけ離れる。
今まで一人でどうやって過ごしてきたんだろう。
母を介護して、学生やヘルパーや近所の人に囲まれて生活するのは
とても素敵なのだけど
私はたいして強くもないのに強いふりをする。
でもやっぱり、
本当は今でも小さな余震すら怖い。
黄色い札が貼られた古いビルで仕事するのも
また来るかもしれない大きな余震に震えるのも。
もう今日はめそめそして過ごします。
大学の授業準備しないとなー。。。