オキナワの中年

オキナワの中年

01年 沖縄文学回顧



 今年の沖縄の小説を簡単に概観するならば、非常な困難の中に、わずかな希望の灯がともった、というところであろうか。

 困難といっても小説の質自体が低下したというわけではない。それどころか、今年も見るべき作品は少なくなかった。例えば崎山多美の「水上揺籃」は幻想文学史上重要と思えるほどの、文句なしの傑作だし、大城立裕は「クルスと風水井」において日常生活の中の異文化接触に新たな問いを発した。また、長堂英吉の歴史小説集「海鳴り」は近代沖縄を生きた民衆の経験を積み重ねることで、人間愛に満ちた、切実な歴史観を提示している。又吉栄喜「落とし子」は久しぶりに基地問題に取り組んだためか、ややこなれないところがあったが、これは過渡的な現象と考えたい。小説内部の問題として強いてあげるなら、現在おそらく沖縄文学を代表すべきはずの目取真俊が、政治への傾斜により、目立った作品を発表しなかったことくらいである。


 困難の内実とは小説の質そのものではなく、それをとりまく環境である。ここ二十年ほど文学の危機が言われて久しいが、いよいよ小説が読まれなくなった。文学不毛の地と呼ばれた沖縄に大城立裕がまいた種が、ようやく豊かな実りをむかえる時期に、小説自体が危機的な状況になったというのは、非常に残念である。今年一年を振り返るならば「沖縄」に関する表現は、文学からドラマや軽い読み物へと大きくシフトしたことは否定し得ないのである。この現象については沖縄文化の商品化、深刻な沖縄問題の回避、といった批判も出ている。確かに文芸というジャンルにこだわるなら、現在の状況はきわめて困難である、といわざるを得ない。


 そんな中、琉球新報短編小説賞を受賞した「てふてふP」や、今年ようやく二号を発刊した「沖国大文芸」の若い同人たちは、一つの希望である。若い世代においても自己表現への要求は小さくない。ただ多くは生まれたときから、本土発のメディアに拘束されており、描くべき自己の問題がはっきりみえていないだけである。一部には「沖縄」という自己の原点に再び関心をもつものも出始めてきた。そのきっかけが「ちゅらさん」であっても一向にさしつかえないように思う。単に状況を悲観するだけではなく、沖縄表現の多様化、再発見という一面もみるべきであろう。今のところまだ小さな希望であるが、これら若い世代から一人でも二人でも新しい書き手が出現することを期待したい。


 若い世代の静かな胎動に加え、「大城立裕全集」の発刊決定は今年の重要なトピックであろう。先に述べたような出版の困難にあって、これはひとつの挑戦である。出版不況の中でも、個人全集は特に厳しいからである。しかしこの全集は、必ずしも単純な個人全集とはいえない面がある。なぜなら大城に膨大な原稿を書かせたのは、戦後沖縄の状況そのものだったからである。戦後半世紀以上に及ぶ沖縄とは何であったのか、そしてそれがどのように表現されたのか、そのひとつの成果がここに問われている、と見るべきである。


 二十一世紀というひとつの区切りをこえて、沖縄の文化が今後どのように継承されていくのか、また新たに創造されるのか、今年は非常な困難の中で、しかし新たな一歩が踏み出された年として記憶されることを祈ってやまない。



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