全473件 (473件中 1-50件目)
昨日は心臓に続いて、肺にたまった胸水を抜くという処置をしたためた、金曜更新が出来なかった。 一方水抜きが非常にうまくいったため、どうやら今日明日中にも退院できそうである。この病気で一番いけないことは「一喜一憂」であるが、さすがに今回のずるずるとした状況はきつかった。反面今日は非常に希望に満ちているが、喜びすぎると必ず失望とぶつかる。 それにしてもどうにか三月上旬で一旦退院できるのは大きい。四月復帰にむけて若干の余裕がありそうである。また卒業式に出られるかもしれない。本当に今年の四年にはしっかり指導できなくて申し訳なかった。それでいながら学生たちで一生懸命がんばってくれた。その卒業に間に合うようなら感無量である。
Mar 7, 2015
コメント(11)
心臓など処置そのものは成功しており、あとは体力の回復待ちなのだが、そこがずるずる長引いていやな感じである。一時期は常時心拍数150越えみたいな状況で、これは安静にせざるを得ないのだが、安静はやがて気力を奪い、もっとも恐ろしい敵となることもある。 大学という業務の二月三月という日程に対する無意識の甘えもあるのだろう。しかしもう二月もあっという間に終わりである。四月本当に教壇に戻れるのか?何よりも精神力である。 放射線治療も終了し、特に南部に入院している理由は無くなった。月曜に中部に戻り、そこから社会復帰を目指すことになる。
Feb 27, 2015
コメント(1)
あれからもう一週間かという感じである。体調は劇的によくなっているのだが、相変わらず痛み止めの副作用でちょっと時間認識なんかもぼんやりした感じである。 もう一度確認すると心臓を包む心膜にがんが転移→膜の中に水がたまる「心タンポナーデ」(このメカニズムを私は十分理解していない)→心臓は大きな抵抗の中で働かざるを得なくなる→場合によってはここから心不全、死に至るという恐ろしい状況であった。 その後経過を見ながら心腔穿刺(しんこうせんしと読むらしい、要するに針である)を刺すことができたため、液体は体外に出すことが出来、病状は改善した。 もちろん本質的な解決にはなっていない。原因であるがんの部分には手つかずであり、これを収縮、停滞、最低でもゆっくりの進行までもっていかないといけない。その場合ここまでの感想だが、ネットで言われているのと異なり、近代医学や標準療法に批判的な意見は転移後の食道癌のように強力な増殖力を持つがんの場合にはほぼ無力だと思われる。要するにフコイダンのようなサプリ、免疫療法のような十分なエビデンスもたない医療は目の前の現象には無力である。「火事だー、ここに貯水場を建築するぞー」といった感じである。 まず当面は考えられる限りの強力な対処で時間を作る。話はそこからのようである。
Feb 20, 2015
コメント(0)
予定通りの放射線治療を終え、退院したところ、CTで新しい所見が出てきた。どうやら心臓を包む心膜というところに転移したとみられる。え?心臓?どうも心臓そのものには転移しないが、膜には転移するようである。あらためてどんなに恐ろしいものと闘っているのか垣間見えた気がした。放射線で攻めている気になっていたが、戦場は別のところに広がっていたわけである。ここしばらくの経緯をみていていえることは、やはり「食道癌」は数ある癌のうちでも強力な増殖力をもっており、現状副作用をおそれて抗がん剤などを緩める段階ではなかったということのようである。抗がん剤の抑制的な使用については、患者たる私の考えを大きく受け入れてもらったところなので、私の自己責任部分は大きい。心膜には水がたまっており、基本的にはこれを抜けばすぐさまどうこうというわけでもないようだが、しばらく計観察と言うことになる。一方次の抗がん治療も近づいており、次回はかなり強い対応になると思うが、それにどのくらい効果が出てくれるのかというところである。このブログを書くことに反対の親族もいるのだが、これを書いているから心を強く保てている部分がある。
Feb 14, 2015
コメント(0)
2、3日前にようやく退院したと思ったら本日突如の再入院。詳細は明日以降です。
Feb 13, 2015
コメント(2)
ようやく退院も見えてきた。今回の入院は患者としても徐々に経験を積んで来てる感じがする。まず痛さとのつきあい。痛さは本人しかわからないので、痛い痛いといっていればどんどん薬は濃くなる。しかし代わりに頭はぼおっとして何もできなくなる。従って患者は苦痛を訴えるだけではだめで、それをコントロールし、自分の生き方をコーディネートしなければならない。今回はちょっと初めての痛さだったため、ちょっと恐怖を感じていたのかもしれない。ここにきて大分、精神と身体とのコントロールができるようになった気がする。 ベッドで書くとこのくらいが限界になっちゃうなあ。
Feb 6, 2015
コメント(0)
現状。 想定通りとはいえ、ここ数日の現状は悪い。ここら辺が今回の底だといいのだが・・・痛みそのものは一応きっちり押さえているのだが、その副作用の吐き気。さらに抗がん剤のもたらす吐き気が加わってくる。吐き気を押さえるために経口と点滴で吐き気止め。そのうえで放射線をかけている。体調不良になるのも当然である。これに対してこっちの武器は生きる希望だけなのであるが、これはまだまだがんばりがきく。 今日の昼ぐらいまでは頭がぼーっとして何も考えられない状態であったが、今はこうしてこの程度の文章は書けている。金曜に数日のことをまとめようと決めていたからであり、決意が気力を支え、現実となっていく。今はこれしかない。 見通し。 成績判定がきっちり終了するまでは、今年度は終わらない。あとちょっとのところまで来た。前は全て書類だったからきわめて困難だったろうが、ネット化のおかげでこれは何とかなりそうである。修論の最終試験2/14が、退院の目標となるが、これは今のところがんばれそうだ。 その後は来年度に向けて完全静養になるのか、むしろ目標を設定し直してがんばるべきなのか、なんだか体のためにも静養型よりもがんばり型の方がよいような気もしている。
Jan 30, 2015
コメント(4)
早い時期から何人かに、授賞式で会いましょう、というたぐいのことを言っていたのですが、入院中ということになり、参加できなくなりました。 大野ゼミ関連では二人の漠賞詩人が選考委員になっている他、随筆佳作の二人の受賞者が卒業生です。台がかなり違うので初対面かもしれませんが、ぜひ進行を暖めてください。またわざわざこのブログまできてくれたakiさんに会えないのも大変残念です。 その他は西岡先生かw。それ以外当日正体を明らかにしておどかそうとかしている人がいたら早めに教えてください。
Jan 23, 2015
コメント(3)
かなりきつい一週間だった。サイズ自体は前回ほどではないのに、明らかに前回より痛い。「死というものはうんぬん」と偉そうにいってるくせに、批評家だの研究者というのはほんの少しの現実的な痛みにも耐えられない、とか揶揄していたのは三島由紀夫だったかな。 そこで麻薬系痛み止めが出てくるわけであるが、今回に関しては抗がん剤よりきつい。意識朦朧については前回は入院していたから気にならなかったのかもしれない。運転など論外である。で、女房に送ってもらうわけであるが、下の子がインフルエンザになってしまった。本当にほぼ春休みの状況で助かった・・・・・ 吐き気も初めて感じるほど強力で、痛みと天秤にかけてどっちの方が我慢できるか、考えるほどのつらさである。授業自体は、来週のゼミで終わり。ここは踏ん張りどころである。 また放射線医の説明もきつかった。実は既に前回40グレー照射しており、のこりは20グレーだということである。グレーというのは原発事故でよく知られるようになったベクレルやシーベルトなどと親戚みたいな単位である。ああ、そういう状況に自分はいるのか・・・・と改めて実感。これで痛みがとりきれない場合はどうなるか、というと今のところはっきりした対策はない。40でだめなやつがあと20でいけるとは思えないのだが・・・・ とまあかなりの苦境なのであるが、おそらくここら辺から「闘病」というのが、始まるのだろう。こういう局面で希望を持てるかどうか、真価が問われるところである。
Jan 23, 2015
コメント(0)
金曜あんな書き方をし、今日まで続報がないというのはきわめて不用意でした。実際はそれほど悪いわけではありません。 現状 正月明けから痛みが強くなった胸部は、昨年九月に放射線治療をおこなった、気管支だと思われる。一度放射線+化学療法が奏功し、目に見えないほど小さくなったが、再びやや増幅し、小さいながら痛みをもたらせている。 今後の予定 当該箇所はまだ20回をこえる照射の余地があるため、次の入院は化学療法だけではなく、化学補助放射線療法をおこなう。これは今後の転移とは別物であるが、うまくいけば局部的な寛解は可能性がある。 まあ、要約してしまうと以上なのだが、現実的には事実はじわじわ判明していき、その途中ではもっと悪い可能性も頭をよぎったりする。痛み自体は昨年の九月よりきつい。昨年の痛み止めフェントスシールは最大8ミリグラムであったが、現在既に10ミリグラム。それでも足りなくてオキノーム(やはり麻薬系の粉薬)を追加している。今すぐさま命がどうとかいう状態ではないのだが、副作用で頭はボーっとし、気持ちはふさいでくる。今日は久々の学生指導で、気持ちに張りが出て、気力が回復した。ようやくここまで書けたという感じである。くそみそいうこともあるが、学生たちには気持ちの上では本当に助けられている。疲れたので帰ります。(続きはまた)
Jan 19, 2015
コメント(0)
あす受診なので、今週のレポートは明日にします。
Jan 16, 2015
コメント(0)
![]()
3男が6歳になった。兄ちゃん達が歌でお祝い。こいつらの成長が本当に心の支えである。
Jan 9, 2015
コメント(0)
年末あたりから胸の痛みが出て、ロキソプロフェンで止めていた。ロキソプロフェンは歯痛なんかにも出る一般的な痛み止めである。しかし今週に入り、こういう一般的な痛み止めが効かなくなってきた。こうなるとフェントスである・・・。 フェントスは必ずしもがん専用ではないらしいが、強力な麻薬であり、モルヒネの何倍もの鎮痛効果がある。これでやっと痛みが引くということは、腫瘍がいたんでいるのである。CTでははっきり見えない。PETでは影が見える、という状態で痛みは結構出ているということになる。ガンの場合、痛みと重篤さは必ずしも一致しないが、しかし「痛い」というのはそれ自体大変なことである。精神は身体の奴隷である。 その一方、いまのところフェントスシールを張っていれば、笑顔で卒論指導も可能である^^本日提出日だったのであるが、誰も激痛を乗り越えて来ていたとは気づくまい。最初に貼ったときは幻覚とか出たが、今回は大丈夫のようである。便秘は避けられないんだろうけど。まだ仕事を続けるには何の問題もない、そのようにポジティブにとらえている。
Jan 9, 2015
コメント(0)
年末の入院、その他のまとめ。 抗がん剤は「シスプラチン」「5FU」と従来通り。副作用は今のところ限定的。 胸部に若干の痛み。秋の放射線の後遺症の可能性もある。いまのところロキソプロフェンのような一般的な痛み止め。 「PET」をやってみた。転移部分小さくなっているが、まだ消えたわけではない。下半身の骨や、後頭部頭蓋骨に今後転移のおそれがあるようである。どうも骨転移の可能性が高いかもしれないということで、骨転移にともなう障害を防ぐ「ゾメタ」を投与した。 ・・・と要点だけをまとめると、専門用語が増え、なんだか大変な状況みたいな感じがするが、相変わらず大切なのは、生命や生活の質に対する深刻なダメージが生じないようにすること。しかもそれを長く続けることである。さらにはそのようにして得られた「命」を大切に有意義に使うことである。
Jan 2, 2015
コメント(1)
新しい年を迎えられたことを喜び、皆様のご多幸をお祈りします。
Jan 2, 2015
コメント(1)
特に報告すべき事はない。観察可能な腫瘍は現在無いから、いいのだか、悪いのだか分からない。ただスケジュール通りに淡々と抗がん剤を打ち続けている。 幸いにして強い副作用は出ていない。それどころか脱毛がなくなった。これは時期的には重水素減少水を飲み始めてから変化なので、それが効いたのかもしれないが、違うのかもしれない。 本当に分からないことばかりの世界である。抗がん剤の可否の議論も、まるで原発の賛否のような一種の神学論争になっている。 現在「観察可能な」腫瘍はない。従って抗がん剤の力であれ、重水素減少水やフコイダンなどその他のサプリの影響であれ、なんでもいいからこの状況が続いていけばいいのである。 いまのところ大きな問題はなく、正月は家で迎えられそうである。
Dec 26, 2014
コメント(0)
今年の「おきなわ文学賞」小説部門は「二十年の眠りと涙を一粒」久々に学部大学生の一席受賞となった。しかも昨日のべた「クオリティーオブライフ」と同一の作者である。全くタイプの違う二つの小説が、それぞれ第一位になるというのは前代未聞である。実は他のジャンルではセンスのある作者が詩や短歌、随筆などで同時受賞というのはあったが60枚近い短編を二作というのは、全く労力が違う。 選考は「二十年の眠りと涙を一粒」と「スクラップ-あるベトナム帰還兵の手記-」とに分かれた。一方は義理の父(母の再婚相手)と娘との心のつながり、もう一方は題名の通りベトナム帰還兵の物語である。部分部分のインパクトでは「スクラップ」の方が勝っているように思われた。実作者である田場美津子氏も同様な見解であった。 http://okinawa-bungaku.com/selection.html 反面「スクラップ」には傷も多いのに対して、「二十年~」は文章、構成、いずれも申し分のない完成度である。結局議論の結果「二十年~」の一席受賞となった。 「スクラップ」の場合、途中の傷や言葉の誤用はともかく、ラストに不満が残った。これが文学賞にしばしば生じる問題点である。60枚と言えば分類上は「短編」なのであるが、一般の方には相当の分量である。途中まではおもしろいのに最後でスタミナが切れてしまうという例が非常に多い。 その点「二十年の眠りと涙を一粒」は途中の伏線などを消化しながら、きっちり終わらせた。20歳と少しでこの完成度はたいしたものである。また秋沙美代という少しふざけたペンネームであるが、書き手が女性であることにいささかの疑問を持たないほど、こまやかな「娘」心の表現に成功した。 まだ学部3年生で多様な引き出しをもち、完成度が高いというのはまさに今後のさらなる飛躍が期待できる。若干の不安は完成度が高いがゆえに小さくまとまってしまうことくらいだが、そんな不安を吹っ飛ばして、中央に進出して貰いたい。
Dec 25, 2014
コメント(1)
「週明け」といいつつ、やっぱ入院してからになってしまった。 先週「琉球大学びぶりお文学賞」の授賞式があった。http://www.u-ryukyu.ac.jp/top_news/biblio2014122401/沖国のページの方が見やすいかも・・・http://www.okiu.ac.jp/topics/detail.jsp?id=791 行けないという程の体調では無かったのだが、夕方の院生指導は絶対休めないので、大事をとった。後で聞いたのだが、沖国の佳作の学生は、去年卒業したゼミの学生の弟だと言うことである。また詩の部門では日文の名嘉さんが佳作を貰っており、今写真をみるとちょっぴり行けば良かったと思う。 今年の小説部門は一作だけの受賞作が沖大生、佳作横並びながら実質的な二位が沖国生の作品と言うことになり、県内大学オープン化二年目にして、その効果が早くも出たといえるだろう。もちろんわれわれ選考委員には受賞者決定後までは、それぞれの属性等秘されており、純粋に内容だけで審査している。 この上位二者は、学部生の作品としてここ数年の中で突出しており、またタイプが違うため単純比較は難しいのだが、この二作品のうちでは「クオリティオブライフ」が受賞作であるというのが、三人の選考委員の共通した感想であった。 「クオリティオブライフ」は福祉施設実習に参加した大学生の体験を中心とした作品である。問題を先鋭化するために、本人の意識が全くなく、回復不能と判断された状態での安楽死・尊厳死が、合法化された世界を舞台としている。若い世代の一人として医療費の増加や家族の負担等の問題から、尊厳死に肯定的であった主人公だったが、非常に包容力のある施設長の判断で、実習生ながら尊厳死の現場に立ち会うことになる。単純にシステムとして許容してはいても、実際に生きている存在が死んでいくその瞬間何を感じるのか。ここらへんはぜひ作品そのものを読んでいただきたいところである。 この作品はモチーフそのものの重要性ということもあるのだが、モチーフによりかかって単純な意見文に陥ることなく、淡々と描写を重ねることで優れた小説表現となっている。しかも近年の若い世代に少なくない奇抜な比喩や、感性豊か(っぽく見える?)な警句などを用いず、それゆえかえって新鮮な印象を与えるのである。 作者が福祉文化学科3年次ということで、日頃の学習や貴重な実習体験を今回の作品で素材としたことは明かであるが、必ずしも体験重視というだけのタイプの創作者ではない。この作者は秋沙美代という女性的なペンネームで女性視点の作品を書き、今年の「おきなわ文学賞」を受賞しているからである。(つづく)
Dec 24, 2014
コメント(0)
『がんが自然に治る生き方』(ケリー・ターナー 著、長田美穂 訳 プレジデント社 2014/11/13 )という本がある。非常にありふれた題だが、全米でベストセラーになった本の邦訳で、絶望的と言われた状況からRADICAL REMISSION(劇的な寛解)に至った患者たちの9つの共通点を抽出したことで話題となった。9つとは以下のとおり。1抜本的に食事を変える2治療法は自分で決める3直感に従う4ハーブとサプリメントの力を借りる5抑圧された感情を解き放つ6より前向きに生きる7周囲の人の支えを受け入れる8自分の魂と深くつながる9「どうしても生きたい理由」を持つ このうち具体的・実践的なのは1と4のみであり、他の7つは精神的な問題である。これらについてはいろいろ考えることがあったのだが、今日は最後の9「どうしても生きたい理由」を持つ、について。 私のような微妙な年齢だと、なにかあまりにも命に執着するのも見苦しいような気がして、「潔く運命を感受しよう」などと思わないこともないのだが、そんなこと考えるとやはり長生きしないようである。どうしても生きるという意思は基本の基本である。 実は私には理由があるのである。一つは3男。まだ5歳である。もう一つは今までサボっていたのがいけないのだが、沖縄文学研究のあまりにも中途半端なことである。本当は自分のやってることの意義がようやく明確になったのは今年の首都大学での発表であった。沖縄の文化はすべて「政治」に食われてしまい、表現の多様性など全く知られていない。当たり前であり、戦後沖縄文学の葛藤など沖縄県民自身の関心の外なのである。じゃあ消え去っていいのかといえば、絶対にそうではない。日本の文化・文学の中でも例外的な特色をいくつももっているのである、とこの問題を書き始めると長くなるので別な機会にする。 とにかく私にはまだ時間が必要である。次男から9年も経って授かった命。彼が私の家をどんなに明るくしたか。私の人生に意義をつか加えたか・・・やはり成人、もしくは大学卒業くらいまでは見守ってやりたい。また心を入れ替え変えてちゃんとやりますので、研究時間をもう少し下さい。 というわけで私は70才まで生きることにした。
Dec 19, 2014
コメント(4)
自分がかかるまでは「がん」という一種類の病気があって、それが単にどこに出来たかで「肺がん」とか「胃がん」とか呼ぶのだと思っていた。しかしどこに出来るかで「がん」は全くその性質を異にするのである。 その中で「食道がん」は厳しいがんであるうえ、なかなか新しい治療法が出てこない。例えば白血病などはかつては不治の病の象徴だったが、現在ではかなりの割合が助かるようになった。食道がんの場合、早期の治療は進歩し、私の場合も手術は成功したのだが、これが転移していると非常に厳しいのが現状である。基本的には1950年代に発見された5FU(フルオウラシル)とシスプラチンという抗がん剤が今でも主力である。 これらは副作用がきつい上に、治療法も厳しい。特に5FUは24時間×5日の点滴を基本としている。故に絶対入院が必要なのである。さらに標準治療の場合、これを中二週で行う。月によっては第一週と第四週がまるまる入院ということになってしまう。実際には中二週とはそれ以上詰めると白血球が戻らないという基準のようだが、患者がはっきり意志を示さないと医師としては標準療法に従わざるを得ない。なぜなら医師が標準治療を守った上で患者が死亡した場合、医師としてはやむを得ないが、勝手に治療法を変えた場合責任を問われる可能性があるからだ。体が耐えられるぎりぎりの濃度で、二週おきにがんがんやっていけば、たしかに一年持たないような気がする。 私の場合は主治医と話し合いの上、最終的には私の合意のうえで、標準療法の半分の濃度を経過を見ながら投与すると言うことになった。冬休みまでは卒論指導をしたいので、22日までは仕事。祝日を挟んで、クリスマスから入院である。気の毒に思う人もいるかもしれないが、あくまで私が主体的に決めた日程である。
Dec 12, 2014
コメント(2)
なんで食事療法にこだわるかというと抗がん剤では治らないからである。 どうして根治できないかは諸説あるが、抗がん剤は単なる延命に過ぎず、人によっては抗がん剤で体が痛めつけられる分を差し引けば、延命にもならないともいう。がんは次第に抗がん剤に耐性をつけていく。体は次第に弱っていく。やがてアウトである。この夢も希望もない治療?が現代医学で承認された標準療法である。生き延びた人には抗がん治療をやめた人も多い。 一方私の場合、今のところ副作用は極めて限定的である。退院した翌日から学生を見たりできる。ということはしばらく抗がん剤で様子を見るというのが、まあ無難なような気がする。しかしいつ治療に困難が訪れるかわからない。それゆえ元気なうちに可能性のある療法、厳密なデータは存在しないが、完治もしくは一種のがんとの共生状態で何年も生きている人の仲間入りしようというわけである。 明日また病院であるが、今のところ観察可能な腫瘍はない。しかし血液の中にどのくらいがん細胞があるのかわからない。いくつかのマーカーという数値があり、人によっては参考になるのだが、私の場合ほとんど健康と同じ数値しか出ない。PETという目に見えないがんも測定できる検査も今月中に受ける予定である。 外見だけをみるとほぼ治っている。元気そうですね、といわれると複雑な心境である^^
Dec 5, 2014
コメント(1)
あれこれ本とか読んでいて、樹状細胞だのPD1抗体だのに関心がいきがちなのであるが、いずれも現状では決めてにかけており、もっとも高い効果を持つのは「食事療法」のようである。しかも驚くような内容は一切なく、昔から「体にいい」とされているスタイルである。 「肉や脂肪は控えめにして、なるべく野菜や果物を中心にしましょう」・・・それでいいんですか。 ガンの場合には特記事項もある。 まず「砂糖をとらない」。がん細胞はブドウ糖をえさにしている。実は退院後妙に甘いものが欲しくなったりしたが、これはがん細胞の命令かも知れない。 当然、すぐブドウ糖になってしまう白米、精製された小麦などもダメで、うどんやラーメンなどとんでもない。 また議論もあるのだが、乳製品も控えることにした。 このように書くとかわいそうに感じる人もいるらしいが、私にとって「禁煙」ほど凄まじい修行はなく、それに比べれば甘いものを食べないなど、どうってことはないのである。 すし×ラーメン×うどん×はちょっとつらいかな^^ 食事療法は戦うための土台を作る基礎である。
Nov 30, 2014
コメント(0)
誕生日を病院で迎えるという体験をしたが、これは大学祭期間を利用するためでやむを得ない。化学療法はどうしても五泊六日はかかってしまう。 現在どこかに腫瘍があるわけではないので化学治療は考え物だが、結局やることにした。化学療法はそれによってガンの増殖を防ぐ効果と、副作用で体を痛めてしまう効果の差し引きで延命するのかどうか微妙なのであるが、今のところ副作用が軽いので、やってみる価値はあると思った。 しかし少なくとも食道がんの転移は化学療法で治すことはできない。以前はガンというのはどれも同じだと思っていたのだが、最初にどこにできたかで全然性格が違う。食道ガンは厳しい部類である。したがって一般的な抗がん剤だけに頼るのではなく、いろいろやってみるわけである。 この後はどちらかと言うと、知人向けではなく、私がそうしたように何とかヒントを求めようとする患者向けかもかもしれない。1,食事療法を中心とする体質改善 これは肉や油をへらし、野菜中心にするというようなありふれたものであるが、長く生きた人の多くが取り組んだものである。特に私の場合、たばこ、きつい酒、カレーなどの刺激のある食品、ラーメンという毒のかたまり・・・まあガンになるべくしてなったようなところがあるので、かなりの効果が期待できるかも。2,メラトミン 抗がん作用があるとされるサプリの一つ。この種のものでほとんどコストがかからない。元々体内にあるものだから、副作用もほとんど無い。3,重水素減少水 今のところ非常にマイナーだが、ハンガリーでの実績が全くの嘘だとも思えない。またマイナーなだけにアンケートに答えると各種割引きもある。 実は昨年の抗がん剤でははげになったのだが、この夏は一本も抜けなかった。断定はできないがこの水の効果かもしれない。4,フコイダン アガリクスだとかシイタケだとかいろいろあるなか、これにしてみた。今のところ始めたばかりなので何ともいえない。5,各種免疫治療 NX細胞系やら樹状細胞系やらいろいろあり、いずれも数百万単位である。能書きは立派だが、エビデンスは乏しいのが現実。最近効果が認められ始めたPD1抗体など現在検討中。
Nov 21, 2014
コメント(4)
体調はいい意味で当分横ばいなので、別な記事。今回ここへの書き込みや、メール、見舞いその他で卒業生から随分励ましの言葉をいただいた。中には卒業以来かもという卒業生もいた。ありがたい限りである。 その一方私の中で、あれ、この学生と、こっちはどちらが上だっただろうかなど、さすがに20年ともなると混乱している。そこでこの20年のゼミをまとめてみた。各学年のゼミ長をあげたつもりなのだが、どうも一部自信がない。1期 96年卒 しずか2期 97年卒 やよい3期 98年卒 もとみ4期 99年卒 あきひろ5期 00年卒 たかし(S)6期 01年卒 りゅうた(ちがう?)7期 02年卒 りみ8期 03年卒 りょうま9期 04年卒 かずや10期 05年卒 なつこ(だったと思うが)11期 06年卒 じゅんや12期 07年卒 しょうかなあ?13期 08年卒 さくみ?14期 09年卒 こずえ?15期 10年卒 ゆき(はづきだったかも)16期 11年卒 しんや17期 12年卒 なつこ18期 13年卒 きえ19期 14年卒 みこと20期 15年卒 だいき(現) こうなってしまったのは、かつてゼミ論集の「編集後記」署名入りだったのに、ある年から「3年一同」になってしまったためである。気付かなかった。ダメだよ文責を明らかにしないと・・・・ というわけで「先生、違うよ」という人は、ここに書き込むか、ohno@okiu.ac.jpまでメールください。
Nov 14, 2014
コメント(4)
今週はゼミ一時間ながら授業を再開できたこと、「おきなわ文学賞」の選考委員に参加できたことという、個人的に大きなトピックがあった。四年生たちは(個人差はあるがw)しっかり、卒論を書き進めていた。「おきなわ文学賞」については発表後詳述したい。 よく「元気なうちに好きなところへ旅行など」とかいうが、全然そんな気にならないな。元気なうちは今の仕事を少しでも続けたい。特に研究実績はここで止まっちゃうとひどいね・・・
Nov 7, 2014
コメント(1)
退院。これはもちろん治ったということではなく、当面病院でやることがなくなったため。 しかし体調も悪くなく、本当に自分が深刻な病気になっているのか、信じられないほどである。 来週から職場復帰。無理しない程度にがんばりたい。
Oct 31, 2014
コメント(6)
1日に何回も体温、血圧その他計測しているのだが、数値だけ見るとまったく健康状態である。 抗がん剤点滴は既に終了。放射線治療もまもなく終了で、当初予定通り月末には一回退院の予定。 もちろん症状が治まっただけで何も解決はしていない。本当の戦いはこれから。
Oct 24, 2014
コメント(2)
当初の予定通り、気管支内部にできた腫瘍は、抗がん剤と放射線とにより順調に減衰していると思われ、様々な数値や実感としてはまるで直っているかのようである。本当にここで止めることができたらどんなにいいのか。 こういったブログだと小康状態を利用して、死生観や人生観を再検討したりするものだが、今の私にはそのつもりはない。これからしばらくは単純にこの状態が続くと思われるし、その間また書き込みが無いがどうしたんだろうと思われるのも思いの他のプレッシャーなので、以下なるべく週に一回、今日たまたま金曜なので、以下金曜の夜に簡単な定時報告をしたいと思う。まだ生きているのか、とか気になる方は、週末だけちらっとチャックしてみて下さい。 また体調が良くなると妙に暇なので、他のことを書くかもしれません。
Oct 16, 2014
コメント(3)
多くの人々に心配していただいていますが、単に精神的なものだけではなく、実質的不安にさらしてしまっている在学生の皆さんにお詫びします。人生の大切な時期に指導教員がこのていたらくで申し訳ない。一方私の書き方が分かりづらく、あらぬ誤解などもあるので、近々予定を含め、補足説明します。1,体調自体は、ほとんど健康体。 途中熱の出たことを書きましたが、あれ以降具体的な症状は恢復し、現在は非常に元気です。当初予定通り11月には退院できると思われます。現在みえている腫瘍はほぼ消えるとみられています。2,卒論はどんなにだめな状態でもいいので、早めに送って下さい。 体調良好、ベット固定という暇な状況の内、一人でも二人でも卒論の現状を見たいのです。誰一人送ってくれないって・・・・。そしてこれが年末一気に来ると、体に負担がかかります。現時点でそれほどの完成度がないのは分かっています。一人でも二人でもメール送信して下さい。書きかけの卒論は、今の私に対する最大の応援かも。3,3年指導については、冬休みの2コマ×2日とか、2月とか、変則的になるかもしれませんし、私以外の指導になる可能性もないわけではありません。しかしいかなる事になっても皆さんの不利にすることは、学科としてあり得ません。
Oct 13, 2014
コメント(2)
抗がん剤1サイクル目は難なく終わり、放射線も重粒子とかの最先端ではないが、強度変調放射線治療はからだにやさしく順調に進んだ。これならそれほど苦労せずに寛解も可能かもしれないと思った。 しかし10月8日突然異変が起こった。抗がん剤を点滴し始めたとたん制御できないほどの震え。人生の中でも中学まで記憶を遡らせるほどの滅多に経験しない悪寒である。すぐ40度超の熱がでた様である。投与は中止。一旦精密な検査が行われた。実は今日に至るもこの発熱の原因自体は分かっていない。私は「身体」からのメッセージなのか、あるいは逆にがん細胞からの警告だったかも、などと思っている(頭大丈夫です^^)。 検査の結果転移は気管支だけはなく、肋骨もにもあったことが発見された。この骨に転移しているということはきわめて重大である。なぜならこれはがん細胞が血管を経由したことをしめし、ステージ4、いわゆる「末期がん」を示すからである。今や体中をがん細胞は我が物顔にめぐっている。いつどこで再発するのか分からない。これが「余命1年」の意味である。 もちろん1年後死んでいるかもしれないが、現時点で余命1年はやや極端であるように思う。まず現在みえている転移は非常に小さい胸骨のものもふくめ、現在の治療で消すことができそうである。問題はその後再発がきわめて濃厚ながん細胞に対して、どのような予防措置がとれるのか、そこにかかっているように思われる。わずかな湿潤だけのステージ2のあと手術で寛解、一年後いきなりステージ4、これってどうなっているのだろうか。この状況はお医者さん、お願いしますじゃあ、行けないような気がする。NX細胞やメラトニン、一方漢方など視野に入れ、最善を尽くしていきたい。
Oct 11, 2014
コメント(8)
大変ご無沙汰いたしております。またご迷惑ご心配おかけしているみなさんには申し訳ありません。 3日前「余命一年」の診断をうけ、突然のこと故衝撃的でしたが、大分落ち着いたので記録を残そうと思います。 書きたいことは山のようにあるのですが、本日はなるべくストイックに事実だけを確認したいと思います。 2013年3月に食道がんが確認され、2回の化学療法の後、6月10日に切除手術。これは成功し、このときに切除した細かなリンパ節に一切の癌は確認されなかった。一般にこの状況を医学界では「寛解」とよぶ。これは世間一般が考えるようになおる(完全に元の通りになる)のではないが、「病気による症状が好転または、ほぼ消失し、臨床的にコントロールされた状態」のことである。たしかに私はそこまではいった。 その後食道が狭くなったことや、消化力の低下など後遺症に悩みながらも、徐々に仕事ができるようになり、月一回の定期検診にいったが好調であった。6月に手術後1年となり、定期検診まで3ヶ月明けることになった。ところがこの3ヶ月に異変が起こっていた。実は今思えば8月下旬あたりからのどの様子がちょっとおかしかったのである。本当に「ほんのちょっと」・・・人間というのはほんとに愚かなものである。一度癌を患っているのである。たしかに一年間出ていないが出ても少しも不思議ではない、というか相当に怪しいのである。しかし危機の記憶が風化した私は「まあ9月に行くんだから」 9月6日の再検診でそこに何かがあるのは確認された。しかし場所が気管支内部なので、別の専門医による再検査が必要だということなる。 9月11日気管支内視鏡による再検査。主治医の所見では残念ながら再発が濃厚しかし病理を確認する必要がある。 9月26日再発が確認され、即日入院の指示が出る。自覚症状からは既に一月以上がたっていた。 しかしながら転移は局所的であり、放射線照射の当てやすい場所なので再度の寛解も期待できるという事であった。(つづく)
Oct 10, 2014
コメント(4)
四、多様性。沖縄戦とは何であったか。基地とは何であるのか。 以下の二篇はいずれも摩文仁、沖縄県平和祈念公園で朗読されたものである。 沈黙の渚 (1979.6.22) 中里友豪 空はつながっている(2014.6.23) 石垣市の小学校三年生○恒例の「平和の詩」今年の応募は一五〇八篇だった。 黒いもくまおう(2004,8) 當間弘子 (日本文化学科四年)○沖国大のヘリ墜落を素材にした作品である。 五、大和化、同化の最終段階。○「日本人として足下の日本文化を学びたいです」○「自分をまるっきり日本人だと思っていたので、大学でナイチャーに出あったとき戸惑った」・・・ ゆいまーるツアー 宮城隆尋 道 宮城隆尋 七月三十一日の手紙~静かな空の下で~ トーマ・ヒロコ 私でないもの 西原裕美
Jul 23, 2014
コメント(0)
この部分だけはそれなりの資料的価値がると思われる。別紙 山之口獏賞受賞者と生年沖縄、奄美在住もしくは出身の過去一年に発表された「詩集」に対して贈られる。現在の選考委員は天沢退二郎氏、以倉紘平氏、与那覇幹夫氏。1回 1978 岸本マチ子(1934)『黒風』*1932年生とする資料もある。2回 1979 伊良波盛男 (1942)『幻の巫島』3回 1980 勝連敏男 (1940)『勝連敏男詩集1961~1978』 芝憲子 (1946)『海岸線』 4回 1981 大湾雅常 (1930)『海のエチュード』 5回 1982 高橋渉二 (1950)『群島渡り』 船越義彰 (1925)『きじなむ物語』 6回 1983 矢口哲男 (1951)『仮に迷宮と名付けて』7回 1984 高良勉 (1949) 『岬』 与那覇幹夫(1939) 『赤土の恋』 8回 1985 市原千佳子(1951)『 海のトンネル』 9回 1986 八重洋一郎(1942)『孛慧(ばず)』10回 1987 松原敏夫 (1948)『アンナ幻想』11回 1988 佐々木薫 (1936)『潮風吹く街で』 12回 1989 進一男 (1926)『童女記』 13回 1990 大楠孝和 (1943)『夫婦像抄』 14回 1991 花田英三 (1929)『ピエロタへの手紙 』 15回 1992 上原紀善 (1943)『サンサンサン』 16回 1993 山中六 (1953)『見えてくる』 17回 1994 仲川文子 (1944)『青卵』 18回 1995 安里正俊 (1942)『マッチ箱の中のマッチ棒』19回 1996 仲嶺真武 (1920)『再会』20回 1997鉋浦敏 (1933)『星昼間』 21回 1998 中里友豪 (1936)『遠い風』 22回 1999 宮城隆尋 (1981)『盲目』 藤井令一 (1930)『残照の文化-奄美の島々』 23回 2000 宮城英貞 (1938)『実存の苦木泉』 山口恒治 (1940)『真珠出海』 24回 2001 山川文太 (1941)『げれんサチコーから遠く』 25回 2002 勝連繁雄 (1941) 『火祭り』 佐藤洋子 (1951)『(海)子、ニライカナイのうたを織った』 26回 2003松永朋哉(1982)『月夜の子守唄』 27回 2004 仲程悦子 (1949)『蜘蛛と夢子』 水島英己 (1948)『今帰仁で泣く』 28回 2005 大城貞俊(1949)『或いは取るに足りない小さな物語』 久貝清次 (1936)『おかあさん』 29回 2006 該当者無し30回 2007仲村渠芳江 (1953)『バンドルの卵』 31回 2008 大石直樹 (1960)『八重山讃歌』 32回 2009上江洲安克(1959)『うりずん戦記』 トーマヒロコ(1982) 『 ひとりカレンダー 』33回 2010瑶いろは(1978)『詩集 マリアマリン』34回 2011下地ヒロユキ(1957)『それについて』 新城兵一(1944)『草たち、そして冥界』 35回 2012 網谷厚子(1954)『瑠璃行』36回 2013 西原裕美(1993) 『詩集 私でないもの』 37回 2014かわかみまさと(1953)『与那覇湾―ふたたびの海よ―』 米須盛祐(1937)『ウナザーレーィ』1920代5人1930代10人1940代17人1950代10人1960代1人1970代1人1980以降4人 1950年代は、55年以降0であり実質的にはほぼ昭和20年代生まれという分厚い表現の層があるといえる。55年生まれのものは17歳で復帰を迎えている。沖縄戦後詩は占領下を生きた人々の表現という仮説が成り立つ。 一方60年代、70年代という空白期間をこえ、80年代以降の若い世代が、新しい層を形成していくのか、このまま尻すぼみなのかは、現時点で何ともいえない。
Jul 23, 2014
コメント(1)
今回のレジュメは沖縄戦後詩という多様な表現の紹介が第一目標だったため、詩作品の引用が中心となった。ほとんど大半が全国的にはうもれて終わるわけで、著作権より広く紹介するほうが重要なような気もするが、やはり法律は法律。ネットでは、作品についてはタイトルと作者名のみを記すのみにした。 沖縄・戦後状況と歌(うた) 大野隆之はじめに 大城立裕の「カクテル・パーティー」以降沖縄文学は小説を中心に論じられているが、沖縄の民衆にとって広義の文学とは芝居であり、「うた」であった。刻一刻と変化する沖縄の状況を、ウチナーンチュたちは、詩、短歌、琉歌とさまざまな形式でうたってきた。今回は簡単ではあるが、戦後沖縄の多層的で多様な思想、表現を、おもに口語自由詩を中心にたどっていきたい。 一、収容所からの出発、カンカラ三線とうた。 村 其の二 牧港篤三○生き延びた安堵感、新しい生活への期待、アメリカ文明に対する驚き、「人間」としての米兵、悪夢のような沖縄戦が反復されるのは、やや後のことになる。○解放者アメリカのわずかな時期。豊富な食料。文教政策、医療政策。これらは短期間ではあったが、あたらしい「世紀」として歓迎された。 コザ高校 詞 世礼国男 一九四八(昭和二三)年 1 中城湾頭緑の丘辺/橘薫り楊梅みのる秀麗の地に学徒一千/新しき世紀の学園 コザ高校2ああ千載の 封建破れ/丘上指呼す 遠近の島英雄の夢今はた何処/新しき自由の学園 コザ高校 3太平洋上 朝日は昇る/民主の波は 輝き寄する吾等謳わん人類の誉れ/新しき平和の学園 コザ高校4若き血潮の 燃え立つところ/希望は翔り 力地に満つ吾等築かん文化の楽土/新しき叡智の学園 コザ高校○アメリカが提示する「普遍」的理念、戦後を希望の新世紀とし、戦前の抑圧を暗示している。二番は神話の時代から琉球王国の伝統を歌っているとみられるが、それすら過去のものでしかない。○戦前に歴史をもつ旧制中学は、やや複雑な問題をはらむ。 最も長い伝統を持つ首里高校は戦前の校歌に若干の改変を行った。沖縄第一中学校歌を土台とし、現、首里高校校歌の改変部分は( )で表記した。 1仰げば高し弁が峰/千歳の緑濃きところ眺めは広し那覇の海/万古の波の寄るところこれ一千の健児(学徒)らが/気負い立つべき聖天地2それ海南の一孤島/世は濁浪のよせくとも自疆の巌永久に/進取の船に棹さしてたゆまず進め我が友よ/理想の岸は遠からじ3ああ果てしなき海原も/雲にそびゆる高峯も渡るに何か難からん。越ゆるに何か難からんわれに不断の勢力あり われに一如の至誠あり 4建国二千六百年(古城のほとり咲き匂う)栄えある歴史偲ぶれば(文化の華を偲ぶれば)我らが本務軽からずいで中山の健男児(若人よ)若き血潮のよどみなく奮い励めよ国のため(奮い励まん諸共に)○二中、那覇高校は全面的に新しい校歌を作った。一番全てが先の大戦を歌うという他に例を見ない作品である。那覇高校 校歌 (1949発足)作詞 真栄田義見 1 世紀の嵐吹きすさみ 故山の草木形変え千歳の伝統うつろいて 古ぬる跡も今はなし2東支那海水清く 空はなごみて地は静か乾坤ここに春に逢い 新沖縄の夜は明けぬ3城岳原頭空高く いらかはそびえ陽に映えてもゆる理想の二千余の 若き力の意気高し4雨にも風にも嵐さえ たゆまず進む学(ふみ)の道結ぶ心のゆたかにも 励まし励む那覇高校5沖縄の空狭くとも 心は通う五大洲世界に伍する高き道 いざおうらかに進みなむ○同じように大戦で大きな被害を受けた広島第一中学→国泰寺高等学校の校歌では「ああよみがえる 広島の」という非常に暗示的な形で表現されている。 ○以上の改変、新作に占領軍の指揮指導が行われた形跡はなく、それぞれの学校が独自に判断したものだと思われる。二、占領政策の転換と抵抗の歌、『琉大文学』 一九五〇年朝鮮戦争が勃発するとアメリカの占領政策は「解放」から「抑圧」へと転換する。奇しくも同じ五〇年に開学した琉球大学にうまれた『琉大文学』は、当初は一般的な文芸活動をしていたが、徐々に思想的な運動となった。新川明や川満信一は現在にいたるまでの沖縄の言論にまで大きな影響を与えている。ブラック・アンド・イエロー(駐留黒人兵に捧げる歌の一) 新川 明島(2) 川満信一○大学卒業後に書かれたものだが、『琉大文学』の典型的といってもいい作品。 「空道」・・・清に朝貢するときには、どんな指示命令にも即座に対応するため、琉球王の署名捺印の入った白紙を持参した(とされる)。○生硬なプロレタリアリアリズムから、「反復帰」へ。沖縄独立ではなく、国家そのものを否定しようとする新川、川満らの「反復帰」論は、具体的な政治システムの提案などは無かったが、復帰前後の若い知識人たちを引きつけた。その後、たとえば目取真俊らは、その後継者と見なしうる。マスコミや知識人の指導的なポジションにいる彼らの声は、沖縄の多様な声の中で大きな声であり、中央のマスコミの単純化をへて、まるで沖縄には一つの声しかないような誤解を生み出している。三、沖縄における世代という「層」について。 世代というとらえ方は本質的ではないという見方もあるが、何度も不連続な激変を体験した近代沖縄県民は、世代によって全く性質の違う世界を生きたとすらいえる。たとえば「山之口獏賞」という一つの賞をどのような世代が受賞しているか、といった小さな事実をみるだけでそれが理解できる。(別紙資料)。
Jul 23, 2014
コメント(0)
![]()
かつてはバブルの残り香みたいな感じで反感もあったが、20年ぶりに行ってみると、木も伸びていい感じである。衰退するに違いないとか言われていた駅前も、いい感じであった。ここに凱旋できたかw さて県外で沖縄の話をする時には、注意事項がある。早稲田の沖縄文化協会とかの特殊な学会以外では、「参観者は基本的に沖縄のことを何も知らない、もしくは誤解している」ということである。これは例えば私が「山形の文学」について何も知らないことと同じことである。青森だと太宰と寺山修司がなんとなく思い浮かんだりするが、今調べたら葛西善蔵とか、三浦哲郎もそうなんだ・・・とか、まあ全然知らないのである。 要するに人々はよその県のこととか普通知らないのであるが、変なマスコミが持ち上げるために沖縄の自意識が高くなってしまう。「沖縄のことを私たちはもっと知らなければなりません」って、逆に四国の四つの県と県庁所在地をきっちり言える沖縄県民は非常に少数である。 福島の大熊町の人々のこととか関心はあっても、今現在人々はどんな状態か、私は知らない。何ができるのかもわからない。要するにそういうことである。沖縄のことも普通知らないし、知ってもらいたければわかりやすく発信すべきである。 さらに人々は楽しいことは知りたい。どこのお店がおいしいのか知りたい。どこの観光地が楽しいのか知りたい。どこの風景が綺麗なのか知りたい。今現在沖縄本島で一番綺麗なのは多分古宇利島である。だからドラマになる。 一方一番騒音きついのは、嘉手納のF15が入ってくるとこか、上大謝名のC130のルートか、住んでいるという点では上大謝名の方がきついかとか思うが、こんな情報知りたい人は滅多にいない。 私は沖縄のことを他府県の人々に知ってほしいと思う。沖縄独立などと主張してるのは、いかれた少数である。若い世代はアメリカより、中国の方が怖い、嫌いだ。そして今回のテーマでいえば、沖縄の詩というのは結構面白いですよ。それだけである。 詩というジャンルはかつては若者の自己表現の有り様として、それなりの意味があった。しかしまだ不十分な研究であるが、早い観点では1971年吉田拓郎の「旅の宿」遅くとも1973年荒井由実の「飛行機雲」あたりから、シンガーソングライター、すなわち詩だけではなく曲も作れて歌も歌えるという存在が主流となり、単なる言語表現である「詩」の役割は大きく後退した。しかしそのような時代にあっても沖縄の詩は大きな意味を持っていたのである・・・・と内容になってきたので続きは明日。
Jul 22, 2014
コメント(2)
![]()
今回の出張目的はいうまでもなく首都大学東京での発表だったわけだが、飛行機チケットがもったいないので早めに東京に入り、出かけたのが写真の松竹大谷図書館である。日本唯一のシナリオ図書館。東京にはなんでもあるなあ。 今回の目的は目取真俊の「風音」シナリオ、および中江監督作品の状況だったのだが、楽勝ですぐ出てきた。司書は非常に優秀で、かつ客が少ない(私がいた時間4人)ため、異常に親切である。私が「風音」シナリオをゲットしたのは入館後5分であった。閉架図書館でこれほどのスピードはほかに例がない。 ただ問題点としては、出版されて市場に出た資料のコピーはできるのだが、未発表シナリオのコピーはできない。例えば「ナビィの恋」のシナリオは出版されているのでコピーできるが、「風音」はダメである。小説版をコピーして持参するなど万全の準備が必要である。 その他例えば「遊星より愛をこめて」のシナリオとかもあるのかないのかチェックすればよかったなあ。
Jul 21, 2014
コメント(1)
![]()
長男が生まれた16年前以来、里帰り期間を除いては久々の夫婦二人のデートであった。ニイニイありがとう^^ さて、コンサートであるが、4000人収容の宜野湾海浜を埋め尽くすのは50代を中心に40から60代がメイン。30代以下もいないこともなかったけれどごく小数だった。おばちゃん、おっさんが総立ちの中、御年66歳の小田和正が信じられないほどの体のキレで会場を歌いながら歩き回るという、ある意味シュールな情景。けどファン層はユーミンとかサザンとかもこんなもんなんで、今や日本中あちこちで普通に発生している状況なのだろう。 構成は、序盤、ニューアルバム「小田日和」のプロモーションであった。正直大半の客はオフコースを聞きに来ているのであるwそれを承知で、軽妙なMCやイメージ映像を用いながら、多くのファンが初めて聞くナンバーを披露する。最近の小田和正の楽曲は、「君」という二人称で、クールでありながら倫理的な愛を語る、というのがコンセプトなので、初めて聴く曲でもどこか懐かしい。 後半になるとオフコース時代のナンバーを放出。時折観客にマイクを向けるタイミングは絶妙で、観客の合唱が結構上手。しかしその興奮の中でもニューアルバムのナンバーも折込み、決して懐メロ歌手ではなく、まさに今動き続けるアーティストであるというこだわりは凄かった。 観客の多くは私を含め「夫婦」であり、現在の幸福と、10代20代の青春時代に遡行するというコンサートであった。終了時の下手な祭りより豪華な花火も凄かった。40年以上トップに立つアーティストというのはさすがである。
Jul 6, 2014
コメント(0)
前回の早稲田大学に引き続いて関東エリア在住の方に告知です。今回首都大学東京で公演(正しくは講演なんだが、こっちをやってみたい)することになりました。日時 2014年7月19日午後1時30分より場所 首都大学東京 南大沢キャンパス5号館142教室スケジュール一、研究発表(午後1時30分~午後2:50分)(休憩)10分二、講演・大野隆之「沖縄・戦後状況と詩(うた)」(午後3時~午後4時30分)
Jun 10, 2014
コメント(2)
今週のゼミ発表は種田山頭火である。これってすごくね? この時代に沖縄という土地で、山頭火研究! 分け入っても分け入っても青い山
Jun 8, 2014
コメント(0)
厳密には6月17日で術後一年なのだが、検診は今週だった。胃カメラはもう慣れちゃったが、大腸はきつい^^結果、転移・再発の兆候なしをいただいた。心配してくださったみなさんのおかげのような気もする。ありがとうございました。 今年も大好きな4年生を無事送り出せそうである。 また、3年生とうんと仲良くなれそうだ。
Jun 7, 2014
コメント(0)
ちえが結婚するそうである・・・・ まあ無関係な人には申し訳ない。
May 29, 2014
コメント(2)
![]()
a.60年後の旅立ち。非常に似た髪型と衣装。一見同じものだが、拡大してみると微妙にずれている。反復と微妙なズレ。b.トゥバラーマについて。 歌詞は『とぅばらーま歌集』(石垣市 1986.11.1)に掲載されている伝統的なものだとわかった。「いつぃゆ までぃん ままでどぅ ばなあうもーだ きゅうぬ ばがりや ぬちぃじゅーぬ うむいむぬ」解釈「いつの世までも 共にとこそ 私は思った 今日の別れは 生涯心に残る痛手だ」c.アブジャーマーについて これは非常に難しい。まず「アブジャーマー」と最後を長音にして検索すると、ほとんど「ナビィの恋」もしくは「パイパティローマ」関係になる。一般的な表記は「アブジャーマ」のようである。「アブジャーマ」といえばほとんど「山崎ぬアブジャーマ」以外発見できていない。これは黒島発祥の民謡であり、山崎は地名、「アブジャーマ」は「お爺さん」という意味である。ただし八重山方言の辞典では「アブジ」=老人、おじいさんとあり、「アブジャーマ」と「アブジ」が同じなのかどうか不明である。「山崎ぬアブジャーマ」という民謡は「山崎にすむ老人が二人の女をだまし、一人を本妻とし、一人を妾にした」という奇妙なものである。YouTubeで検索すると思いのほか数多くの映像を見ることができるが、大半はオジーとオバーが陽気に踊るというものであり、しかも面は「アンガマ」である。 波照間郷友会のものは女性が二人登場しており、歌詞に近いものと思われる。https://www.youtube.com/watch?v=FdUqecM5r0s 「アンガマ」とは八重山に伝わる芸能集団であり、オジーを「ウシュマイ」とよび、オバーを「ンミー」と呼ぶ。代表的なデザインは以下のとおりである。「ウシュマイ」と「アブジ」のどこが違うかというと、「ウシュマイ」は士族の言葉であり「アブジ」は民衆の言葉である。ただし祭りの時の「ウシュマイ」は単なる老人ではなく、「祖先神」という側面が強い。これとは別に「アブジャーマ面」というものが存在する。「ナビィの恋」の「アブジャーマ面」はどちらかというと「アンガマのウシュマイ」に近い。ただしこれほどヒゲの長いアブジャーマ面は、まだ見つけていない。
May 28, 2014
コメント(0)
![]()
結婚後の資料省略。基本的には赤いワンピースに向かう道。
May 27, 2014
コメント(0)
![]()
学生が指摘した画像。左がサンラーを追う若いナビィ。右がナビィを追う奈々子。明らかに意図された反復である。60年の時を経て、ナビィは追う人物から追われる人物になった。私の追加指摘。両者では片思いの相手が〈援助者〉の役割を演じている。若いナビィはここまで来るために恵達に紐をほどいてもらった。奈々子はここからさらに追うために、ケンジに船を出してもらっている。ただ大きな違いは、恵達は「援助」の結果、50数年にわたるナビイとの幸せな生活を得た。ケンジは何も得ていない。これは「援助」に対して条件を出さなかったことによる。ケンジは「結婚してくれるなら、船を出す」といえばよかったのである。
May 23, 2014
コメント(0)
いまさらゴジラなのか、という感じもしたが、ゴジラ2014はそこそこというかかなり成功しているようである。 反面東宝の「ゴジラファイナルウォーズ」はひどい映画だった。あれよりは「三丁目の夕日」のゴジラのほうが断然迫力あったな。 日本の怪獣映画のタブーは在日米軍である。自衛隊が壊滅した以上、在日米軍は安保条約5条に基づき助けてくれるはずなのだが、来てくれたためしがない。特にひどいのは「ゴジラ対メカゴジラ」である。戦場は万座毛。嘉手納基地は何をやっているのか。鳴り物入りで出てきたキングシーサーは思いのほか弱い・・・・。実はゴジラや、ガメラは実は在日米軍のメタファーなのである。 海兵隊なら通常戦力で十分ゴジラを倒せる、という作品が「Godzilla」1998であった。今回の新作は予告が思わせぶりでどんな作品なのか今のところよくわからない。
May 20, 2014
コメント(0)
授業の時うまく言えなかった点も含め、まとめておきます。1.音楽については最も解釈が容易な「ハバネラ」のみの考察となった。課題。「トゥバラーマ」の歌詞は無数にあるが、本編で使用される歌詞はメジャーなものとは言えない。オリジナルの可能性もある。この歌はナビィの気持ちを代弁しており、麗子に「いつもの歌」と言っているので、長いあいだ聴き続けていると思われる。最も重要な楽曲っだと思う。「ロンドンデリーの歌」も多くのバリエーションがあるが、本編で使用されているのはアイルランド独立戦争を歌ったものである。 奈々子が「はっちゃん、はっちゃん」と歌うが「はっちゃん」とは誰なのか?ちなみに美術助手の具志堅八栄さんが「八ちゃん」と呼ばれているようである。http://www.shirous.com/nabbie/tariki/tariki03.htm2. 映像、ブーゲンビリアの赤については、監督が述べるように青みがちな沖縄映像でどこに赤を使うのかという意味で重要。ナビィがヤギの前でつけるあかい櫛などにも言及して欲しかった。おそらくナビィは60年間この習慣を続けていた(墓が荒れていない)。3. サンラー・ナビィ・恵達、関係と 福之介・奈々子・ケンジとの関係が反復であり、微妙にずれているという分析はその通りだろうと思った。福之介や奈々子が十分描かれていない、という指摘は正しいが、描く必要がなかったとも言える。若い三人はサンラー・ナビィ・恵達の、ありえた別の可能性を演じているにすぎず、むしろしっかり書き込むと映画の焦点がぼやけた可能性すらあると思う。この映画は「ナビィの恋」であって「奈々子の恋」ではない。(このあとは「おい、おい、そこまでいえるか」である) とくに福之助は影が薄く、かろうじてタコをつかまえることで、サンラーの漁と重なる程度である。むしろ「福を助ける」といった機能的な存在であるのかもしれない。ここでの「福」とは子宝に恵まれることである。 恵達の家の床の間には「福禄寿」と大書きした掛け軸が飾られている。福は子宝、禄は財産、寿は長生きである。この三者のうち子宝こそが最も重要だいうのが福禄寿信仰の骨子である。 また福禄寿は大陸からわたってくる渡来神である。小浜島には「福禄寿」という歌が残っている。http://www.nhk.or.jp/churauta/database/data/434.html 結婚式では「福」と書いた中国風の旗が出てくる。ネットでは逆さの「福」の情報ばかりで、順置きの「福」はもうちょい調査が必要。4. 当初やるといってやらなかった、「なぜアブジャーマーは最後に面をとるのか」という問いかけは重要な感じがしてきた。そもそもアブジャーマーは黒島の伝承であり、八重山に広がっている。それがなぜ粟国にいるのか。「トゥバラーマ」も本来八重山の歌である。 先行する沖縄映画では今村昌平の「神々の深き欲望」1968であんなお面が印象的に使われていたが、もうずっと前なので記憶が曖昧である。また話はずれるが沖縄で白いスーツといえば大島渚「夏の妹」1972である。http://odakyuensen.blog.fc2.com/blog-entry-660.html 当然中江監督はこのあたりは全て見ている。次回の発表も楽しみしています。
May 20, 2014
コメント(0)
私は組踊の舞台を批評するほどの十分な観劇経験はないので、以下は個人的な感想・メモである。 まずやや誤解を招きかねないのは、今回の「義臣物語」はどこかの村で伝承されているものの再現ではないということである。「村々に伝わる組踊」という企画は当初、本当に地方に伝承されている組踊を公演する予定だったようであるが、それが流れた。私は後述するように「義臣物語」に非常に満足したので、いいのであるが、今回上演された「義臣物語」は高度に洗練されたプロの芝居であり、いわゆる「田舎芝居」とは縁遠いものである。 私の理解によれば今回の「義臣物語」のコンセプトは、地方に伝わる組踊や古い台本の再整理を通じて、王朝時代の組踊の再現を目指したものではないのか。だとすればタイトルはむしろ「王朝時代の組踊の再現へ」ぐらいの方が分かりやすかったのではないだろうか。 その一方「華風」(有料のパンフレット)を読むと、もう一つのコンセプトとして、「よりリアルな演劇としての組踊」というのが挙げられている。これは本来組踊の古形と矛盾するのではないだろうか。この辺の説明も十分でなかったような気がする。 だがそれゆえにこそ、私には非常に面白い舞台であった。私がこれまで見た舞台の中で最もおもしろかったのは大城立裕作の「遁ぎれ、結婚(ひんぎれ、にーびち)」である。どこがおもしろいかというと、復帰直前のコザを舞台とし、米兵相手の風俗、沖縄の伝統的な文化、やがて来るヤマトの文化という多様で雑多な、本来水と油のはずのイメージが並列され、独自の演劇空間を形成していたからである。「組踊」とされているが、当然伝統的な組踊を尊重する立場からみれば眉をひそめたくなる舞台だったかもしれない。 今回の「義臣物語」はそれほどぶっ飛んだ演出ではなかったが、やはり異質な文化的コンテクストの並列という要素があったように思う。玉城匠氏の身体に組み込まれた、伝統的な沖縄の所作。四人の童の着た緑の衣装という、もしかすると琉球王朝時代のものでありながら、現代ではむしろ新鮮な視覚イメージ。高宮城実人の演じる滑稽な夜回りではあるが、拍子木と太鼓との絶妙な聴覚イメージ。 まあ、多少屁理屈を述べているが、要するにとても面白かった、ということである。
May 11, 2014
コメント(0)
鈴木耕太プロデュースといってよい国立劇場おきなわの企画「村々に伝わる組踊」を見てきた。鈴木氏は沖国の日文(たぶん国文学科時代)の卒業生なのだが、その後琉大と県芸大の大学院に行って、組踊の台本研究をしている。今回シンポジウムの基調報告はわかるのだが、後半組踊の「義臣物語」の演出まで務めた。研究者が演出って結構珍しいんじゃないだろうか。大したものである。いつもは「耕太」と呼んでいたのだが、今日のシンポジウムをみて、「鈴木氏」になった^^。 まず鈴木氏の基調講演。いつも学生に講義の後に作れと言っている講義サマリー風にまとめてみた。1.かつて王朝時代の組踊は王府に独占され、民衆からは縁遠いものと考えられていたが、現在ではかなり広い範囲(八重山等もふくむ)の村々にまで伝わっていたことが分かっている。2.伝承者・指導者は、当時の「科」(コウ、士族が出世したりするときに受けなければいけない試験)の講師が地方の指導に行ったときに伝えたものや、地方士族が首里に奉公に行った際持ち帰られたと考えられる。3.沖縄戦により中南部に伝わっていた組踊台本はほぼ壊滅してしまったが、北部や離島にはまだ貴重な資料が残っている。4.明治以降、商業化する中で、組踊の演出は多様化した。これに対し、村々に伝わる組踊は、伝統を墨守する傾向があり、むしろ古形を残しているとみられる部分がある。(重要)5.現在地方の演目に伝承されている、花火などの派手な演出や、鳴り物の激しい演出などは、王朝時代の演出を暗示している可能性がある。6.現在村落によっては、組踊の継承が困難になって、ただの舞踊にかえたところもあるが、恩納村では伝統を継承している。7.恩納村の組踊の撮影映像。衣装は軍事的な胸当てを再現しており、ちょっとロボットみたいな感じ。道行部分は背景が横スクロールしていく。すげえ。結構シュール。 学生諸君には一コマごとに、上記程度のサマリーを作成してほしいところである。 基調講演の後のデスカッションも興味深いものであった。 琉球芸能研究家、宜保榮次郎氏は現在「伝統」と考えられているものが、実は案外新しいものであることを指摘する。例えば「下手、上手」というのは大和的な呼び方であり、本来は南面(おもて)、北面であった。「執心鐘入」の多様な演出を例に挙げ、より高度になっていく部分を十分評価しつつも、本来の古い形態も伝承すべきである、と主張する。 琉球音楽の伝承者大湾清之氏の話も興味深かった。実は失礼ながら私は、地謡の人々は与えられた譜面を忠実に再現しているだけだと思っていたのだが、どのように各場面を音楽で盛り上げるか考え工夫していることが分かった。組踊が総合芸術であるという意味に対する理解が深まった。 司会の嘉数道彦氏は司会・コーディネーターとしての役割に徹し、あまり自分の意見は言わなかったのが残念である。嘉数氏は抽象的・幾何学的なセットを用い、場面ごとに多様な解釈が可能になるという高度な演出を実践しており、今回の古形の再現と、今生きる芸術としての組踊についての意見が聞きたかった。
May 10, 2014
コメント(1)
よく考えたら「ナビィの恋」は学生がレポートするから見直したのであり、発表前から私がつべこべ言っていたらやりにくくてしょうがないと思う。よってしばらくこの話題はお休みするのだが、昨日『沖縄映画論』(四方田犬彦、大嶺沙和 編 作品社2008年3月)が届いたので、そのメモ。 まず本自体は最後の作品リストだけでも貴重であり、沖縄の映画を勉強するなら必携である。定価は3200円であるが、ネットの古本で1000円強で買える。 中江作品を批判しているのは大嶺沙和「裏返すこと、表返えすこと 一九九九年以降の沖縄の表象」である。全体として非常に雑な論考である。まず「ナビィの恋」のあらすじが間違っている。「ナビィは家族や親戚の心配をよそにサンラーと密会をくり返し」とあるが、ユタの占いの後密会など一度もなく、「牛祭り」のときに窓越しに見つめ合うだけである。その次に会うのは最後の出発のシーンである。批評それもネガティブに批判する対象のストーリーを誤っている論文など他に見た記憶はない。また琉球史の典拠として高校生むけの副教材を上げるなど、極めてずさんである。批判に至っては、ほとんど妄想であり、議論の余地はないのだが、こういう書き方をすると、具体的な指摘もせずに誹謗しているとか言われるかもしれないので、ひとつ具体例をあげて検討してみる。 「ホテル・ハイビスカス」のラストに、アメリカ帰りの母親を「おかえりんご」と大きなリンゴの絵がかいてある旗で歓迎する。これを大嶺氏は日の丸であるとする。じつはこれはそう見えないこともない。そしてアメリカから帰るものを日の丸(大嶺氏は「国旗」という言葉が嫌いなようである)で迎えるので沖縄復帰の再現だというのだ。実はこれも多様な読み方の一つとして、そういう見方もありうるなあ、ぐらいの感じはする。 問題はその論証過程であらわれる奇妙な観念である。まず、国旗に見えないこともないリンゴはいつの間にか大嶺氏の中で確定事項となる。そして「辺野古で日の丸をかかげるということは、一体どういうことなのか」と展開する。「日本国家に従属し、日本のために、永久に辺野古に基地を引き受け、常にうちにあって外にあるものとして捨て駒にされる沖縄の役割を引き受けることと同義ではないか」。はあ?・・・・・・ そもそもリンゴは日の丸に見えない事もないのであるが、国旗を尊重する立場からいえば、リンゴの絵で国旗を揶揄したという逆の解釈もありうる非常に危険なかけということになる。大嶺氏が妄想するように、中江氏が完全に日本国家に抱き込まれているとすれば、国旗をリンゴにおきかえるなどという不敬な表現はありえないのである。逆にリンゴが国旗のメタファーであるとするなら、中江監督は国家と十分距離をとっていることの証明となる。 もともと大嶺氏は研究プロパーではなく、この後論文めいたものを書いた形跡はないので、これ以上追及する必要はないといえるが、この領域で第一人者とされている四方田氏がこの程度の論を採用したのは解せない感じがする。『沖縄映画論』所収の他の論考は非常に高度なものなので残念である。
May 8, 2014
コメント(0)
明日から渡嘉敷に行ってきます^^。粟国に行くべきなんだが・・・ さて小ネタではあるが今後の指針。実はここ数年沖国の大学院というのを担当していて、まあこんなもんかなあ、と指導していたのだが、琉大の大城貞俊先生企画の研究会に教え子を送り出してみて、感動。琉大や慶応の院生と互角以上の戦いをしてるじゃないか。 今年は修士修了の学生が立命館の博士課程に合格した。私的にはこれでいいのか!という思いもあるが、ゆとりは大学院まで及んでおり、80年代にはあり得なかったレベルでも十分一流大学に受かったりする。小保方さん問題なんかも同様であり、我々の世代ではありえないずさんさが、一流の研究施設でまかり通っている。 研究論文というのは無限に生産されており、自分の時間は限られている。その場合、やはり権威フィルターというのは強力である。先にあげた小保方さんなどの場合、国内最強の理研のチームリーダーでハーバードを出ている。ネイチャーに載ったからには、すごい業績だろう。まあそう思うわけである。 一方仮に高卒の方が、琉球文化の貴重な資料をこつこつと集め、非常に高い水準の研究をしたとする。たぶん現在の状況では、その実績を拾いきれないだろう。沖縄では「琉大ブランド」といのが非常に強力である。要するに発言内容よりも、出身大学がものを言ったりするのである。 うちの院生の修士論文など読むと、実は自分もやっていたのだが、極端な権威主義である。例えばオリエンタリズム。サイードは主に中東を分析したのであり、沖縄については何も知らない。 「サイードが述べるように・・・」沖縄のこと何も知らないサイードの意見なんて、あてにならないんじゃね?とか姜尚中のポストコロニアリズムは朝鮮半島の状況は説明できても、沖縄の状況は関係ないんじゃね?とか、なかなかいかないわけである。 おそらくこういう状況に異議を唱えなくてはならないのである。私は現在「ナビィの恋」について、それをくそみそに否定した琉大系知識人より、一般県民の感性の方がはるかに優れているとみている。まあ沖縄的には「所詮ナイチャーの意見」なのであるが・・・
May 4, 2014
コメント(0)
全473件 (473件中 1-50件目)