オキナワの中年

オキナワの中年

新川明『沖縄・統合と反逆』下


新報文芸/大野隆之//新川明『沖縄・統合と反逆』 「大城立裕論・ノート」/下/芥川賞受賞は評価/作品そのものに言及なし


 新川明の論旨はきわめて首尾一貫したものである。観念的に過ぎるという批判は、ほとんど意味をなさない。なぜなら新川が批判するのは「現実」によりそう発想そのものであり、「現実」の内部から「現実」を変革することは不可能である、という確信だからである。観念的であるからこそ、壮大な理想を語れるのであって、例えば「大城立裕論ノート」の末尾近く、「沖縄」の文学は「日本」に「貢献」するのではなく、「世界」に「貢献」するというような理想の前では、大城の「日本」志向はちっぽけなものに見えてしまうかもしれない。しかしそんな新川が、ふと「現実」に寄り添ってしまうのが、大城の芥川賞受賞に関する記述なのである。
 新川は「カクテル・パーティー」という作品そのものには一切言及せず、「芥川賞受賞という『出来事』が果たした歴史的意義と功績」を最大限に評価している。この部分の問題点は二点ある。一点目は新川の思想において「芥川賞」という特権的な文学賞の権威はどのように位置づけられているのかという問題である。二点目は批判的な文脈を除き、大城の文学的業績の内実に一切言及していないのはなぜか、という問題である。
 芥川賞のみならず、近代日本文学は、極端に中央集権的な体質を持っている。確かに日本の様々な地域が舞台にはなっているが、どこで執筆されたか調べてみれば、東京は楽々と九割を越すであろう。地方出身者は上京し、そこで認められ「文壇」というシステムに組み込まれていくのである。芥川賞は形式的には地方誌、同人誌にも開かれているが、現実的には著名な中央文芸雑誌以外から受賞するのはきわめて困難である。大城以前に後藤紀一という作家が『山形文学』から受賞しているが、それ以外受賞はおろか、候補作に上がることも難しい。後藤自身はその後これといった作品を残さず、歴史に埋もれていった。
 これは単に中央「文壇」だけの問題ではない。研究者も同様である。以前東峰夫について調べたとき、まともな先行論文は、岡本恵徳、仲程昌徳、そしてマイケル・モラスキーによるものだけであった。一般読者のみならず、「日本」文学の研究サイドからも完全に忘れ去られていたのである。その意味で、「小説琉球処分」が歴史小説年表から完全に排除された事に対する大城の危機感は深刻なものである。これは単に大城個人の問題ではない。近代文学研究の制度性をある程度知る立場から言うなら、おそらく故意に落とした訳ではないだろう。大城が中央の作家で無いから、うっかり失念したものだと思われる。
 新川は米須興文のアイルランド文学論をひき、大城の問題意識を過小評価しているが、英語と日本語とを同一視することは出来ない。一九世紀の時点で、英語は既に大英連邦という巨大な版図を有する「世界」言語であった。二〇世紀以降はその優位を、アメリカというこれまた超大国が引き継ぐ。すなわち英語で書かれているというその時点で、アイルランド文学は、そのままの形で予期せぬ他民族に読まれる可能性があった。中南米文学の場合も、英語ほどではないが、スペイン語あるいはポルトガル語という、ヨーロッパ諸語を経由せずに、果たして「世界」文学の地位を占め得たのかどうか、非常に疑問である。これに対し日本語は「世界」の中ではきわめてマイナーな地方語にすぎない。ノーベル文学賞が極端に「日本」に固執する川端康成と、極端に「日本」を忌避する大江健三郎に与えられたのはきわめて象徴的であろう。
 沖縄文学が「世界」に乗り込むためには、この日本語を経由し、さらに翻訳という処理を経なければならない。そしてそのためには「日本」文学の中で確固たる位置を占める必要がある。大城がしばしば普遍と「日本」を重ね合わせてしまうのは、理由のないことではない。「日本」が普遍への通路だからである。そしてその通路はきわめて狭隘なのだ。沖縄文学や在日文学が一定の地位を占めたのは、つい最近のことである。
 沖縄文学の困難はもう一つある。それは沖縄文学が、新川もまたそうしたように、文学的内実を無視して「出来事」化されてしまうからである。
 芥川賞にとっても、沖縄文学にとっても、最も「出来事」性が高いのは、先にも触れた東峰夫であろう。「オキナワの少年」は九〇年代以降の思想状況の中でこそ、新たな評価が与えられるべきであるが、少なくとも芥川賞受賞の時点では、そのような内実が理解されたのでは無い。選評を読む限り、まともに作品を読み込んだのは丸谷才一ぐらいのものであり、文学的内実が十分に理解されることなく、七一年という、復帰直前の空気の中で受賞した。そして復帰後、「出来事」の収束と共にあっさりと忘れ去られてしまった。文学が政治、社会問題の中で処理されてしまったのである。大城が戦ったのは、この閉鎖的な日本文学の領域であった。わずかでも気を抜けば政治問題として処理され、あるいはうっかりと忘却されてしまう。大城の「貢献」という戦略的な言葉にはこのような背景を読み取るべきであろう。
 新川の思想において、むしろ打つべきは「日本」文学の閉鎖性と制度性では無かったのだろうか。新二千円札を分析したような緻密さで「芥川賞」という装置を分析すれば、どうなったか。あるいは芥川賞受賞と並べて甲子園の活躍を評価しているが、その背後にある「高野連」という権力的な機構をどう考えているのか。
 個人的には大城の再反論は無いような気もするのだが、仮にこの論争が続くとすれば、問題は「あの時はこう言っただろう」というような、極端な些末主義に至るであろう。そしてそれは本質的な問題の隠蔽につながっていくと思われるのである。



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