オキナワの中年

オキナワの中年

船越義彰「小説遊女たちの戦争」




 タイトルから、全編にわたって苦痛と残虐にのみ満ちていると想像したのだが、いい意味で裏切られた感がある。船越義彰『小説 遊女(ジュリ)たちの戦争』(ニライ社)がそれである。仲井間憲児氏が「何とも物語がおもしろい」と述べているが、全く同感である。
 作品は「志堅原トミ」の一人語りを基調とし、随所に作者の解説、補足が加わるという構成になっている。このため一見するとドキュメントのようだが、「小説」と明記されているように、「六〇%は創作で、事実は四〇%」とのことである。が、創作とは言っても、作り話ということではなく、断片的な証言の数々を丁寧に構成し、より真実に近づける努力だったと想像される。この証言を提供したモデルがこの作品を読んだら、まさに自分の体験が書かれていると思うのではないだろうか。
 この作品を読んで初めて知ること、驚かされることは数多い。
 まず「辻」の持つ、独特の伝統と文化である。当時から賎業(せんぎょう)と卑しめられていたにもかかわらず、「ジュリ馬」を中心とする伝統行事、屋号の典拠となった伝説等は極めて優雅である。随所に挿入される写真からは、当時の雰囲気を偲(しの)ぶことができる。施設の性格上保存というわけにもいかないし、名護宏英氏によれば「ジュリ馬」に限ってもさまざまな議論があったようだが、かつてこのような文化があった、という記録は貴重である。
 本質的には金銭と性欲によって成立する世界であり、「あとがき」に記されているように、これは「女性虐待」の歴史なのだが、そのような女性たちがすがらざるを得なかった伝統は、もの悲しくも美しい。それゆえにこそ辻の壊滅と、慰安婦という選択肢は一層の悲壮感を伴うのである。
 ついで戦時の兵士をも含めた個人の生の細やかな記録である。戦争という大状況が語られるとき、しばしば人物は匿名化される。一人一人がそれぞれのたった一度の人生を生きているのにもかかわらず、それはしばしば顔のない存在と化す。質的な生が、兵数、死傷者数というように量化されてしまうのである。
 その点この作品では、「慰安婦」「日本兵」といったカテゴリーに回収されない、個々の生が存在する。殊に戦場における慰安婦と軍人との恋愛は意外の感に打たれる。遊女といえば、男などというものを商売道具としか見なかったのではないか、といった通念がある。実際辻では一人の客に引きつけられることを「イキガ・ブラー」(男狂い)としてタブー視されていたようである。その因習を乗り越える心理は、少女時代の恋を持たなかった事として説明されている。著名な作品になぞらえるなら、「たけくらべ」の時間をもてなかった「美登利」ということになるのだろうか。
 さらに戦争についての遊女たちの認識の多様性も興味深い。比較的早い時期からあった反戦思想から、軍属として靖國神社に祀(まつ)られることを夢見るものまで、極めて多様である。なかでも慰安婦と靖國の結びつきは、確かにある意味筋が通っているのだが、想像することもなかった。少し前、慰安婦をめぐる大激論があったが、このような視点は寡聞にして知らない。
 以上のような多様なモチーフが、「トミ」という極めて魅力的な女性に統合されている。この作品では昔語りという形式を用いているため、戦時とそれから半世紀以上を経た現在とに時間が二重化している。トミは毎回語りだす前に、少々の雑談をするのだが、初夏から翌年春までの、季節ごとに移り変わる自然の描写は極めて繊細である。
 こまやかな感受性によって切り取られた、ちょっとした自然の美しさや日常の些事(さじ)と、ついで語られる戦争との対比は印象的な構成となっている。小説である以上、戦時に視点を固定するという方法もあったはずで、その方がより迫真感が出るかもしれないが、作者はあえて平和な現在時において語る、という方法を取った。これは証言の再構成といったこの作品の成立事情にもかかわることだが、自己の視点では無く他者の視点、その語り口の雰囲気を再現しようという意味もあったと推測される。それほどトミという女性は優美である。
 この作品においては残虐性というのは、素材の性格上最小限度に抑えられていると言ってよい。これだけの経験をしながら、恨み言がほとんどない。故郷の家族を思う軍人や親切だった将校についてはつぶさに語られるが、「乱暴な兵隊」については口をつぐむ。「こうした兵隊の多くが故郷の人々に心を残しながらこの島に眠っておられるのです。このことを思うと、怨みつらみなどは影をひそめてしまうのです」。これがこの作品の語りの基調となっている。
 かつて同じ作者の「私も加害者だった」というエッセイにおける凄(すさ)まじいまでの自己凝視にも驚かされたが、トミの寛容さも尋常でない。戦争という状況が悪いのであり、個々の兵卒には責任がない、ということは、理屈では分かっても、現実の体験者がここまで達観するのは難しいと思う。この優しさと、トミ自身が今では幸福な余生を送っているらしいことで、この作品は過酷な現実を描きながらも、後味の良いものとなっている。ちょうど同じ慰安婦を描いた目取真俊の「群蝶の木」とは、対極的な作品といっていいだろう。どちらが良い悪いという問題ではない。
 この寛容の徳は沖縄文化の重要な一部になっているのと同時に、時として支配者に都合のよい状況を生みだしてきたことも事実である。近年沖縄の美風が失われていると嘆く声と、市場原理に打ち勝つためには仕方がないという主張が併存しているのと同様、極めて難しい問題である。
(沖縄国際大学助教授)



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