オキナワの中年

オキナワの中年

「滅びゆく琉球女の手記」論



「滅びゆく琉球女の手記」論
沖縄国際大学日本語日本文学研究
                               大野隆之
一、はじめに
 昭和七(一九三二)年『婦人公論』六月号において久志芙沙子(1)の「滅びゆく琉球女の手記」の連載が開始された。が、直後に「沖縄県学生会」(2)および沖縄県人会から抗議を受け、「『滅びゆく琉球女の手記』についての釈明文」(以下「釈明文」と表記する)という一文を残し、連載は中断される。以後四〇年間にわたりこの作品は一般の目から姿を消すが、岩波新書の『沖縄』(3)や大田昌秀『沖縄の民衆意識』(4)に取り上げられ、そのような筆禍事件が存在したことは知られていた。復帰直前の七〇年、岡本恵徳により「釈明文」の大部分が紹介され(5)、復帰後の七三年、地方誌『青い海』二六号に、作品および「釈明文」の全文が再掲される。また『青い海』二七号では久志本人がインタビューに応じ、「四〇年の手記」と題される手記を発表した。(6)
 その後「釈明文」にみられる独特の思想が川満信一らに注目され(7)、現在では例えば『社会運動史人物大事典』に「久志芙沙子」の項目があるし、県内紙では思想的な先達という位置づけで、今なお時折言及されている。しかし広津和郎の「さまよえる琉球人」(大15)に関わる筆禍事件にくらべるとはるかに知名度が低いため、残念ながら作品そのものについての言及はほとんど無く、「釈明文」についても踏み込んだ分析が行われているとは言い難い。以下戦前の沖縄において、きわめて特異な一面をもつこの作品について論じていきたい。

二、〈同化〉意識と筆禍
 沖縄をめぐる筆禍事件とその背後の意識の問題については、既に多くの先行研究があり、最近では小熊英二の『〈日本人〉の境界』(8)がよく知られている。が、ここでは久志の特異性を浮き彫りにするための背景という位置づけで、その基本的な構図を簡単に整理しておきたい。
 河上肇講演事件(明44)、方言論争(昭15)など、戦前の沖縄をめぐる舌禍筆禍事件は、基本的に同一の構造を持っている。例えば河上肇講演事件の概略を示すなら以下の通りである。
 明治四四(一九一一)年、当時京都帝国大学助教授だった河上肇が、沖縄県教育会の招きで「新時代来る」との講演を行った。その中で沖縄の歴史・文化が持つ独自性を強調し、その独自性に根差す沖縄の非国家的性格を称賛し期待する、という趣旨の発言を行った。これに対し『琉球新報』が忠君愛国の国家主義を賛美し、日本に対して全面的な信奉を強調するなど河上批判を繰り広げた。
 それから実に三〇年近くの時間が経過した方言論争も、登場人物が河上から柳宗悦にかわっただけで基本的には同一の構図を示している。沖縄を訪れた知識人が、沖縄の固有性、独自性を強調・賞賛し、それに対し〈同化〉を強く志向する沖縄の側が反発する、というものである。
 この固有性を拒否する〈同化〉意識の背後には、もう一つの本質的な問題があった。それが二つの事件に先立ついわゆる「人類館事件」に現れている。明治三六(一九〇三)年、大阪で開催された内国勧業博覧会で、「学術人類館」が設置され、「北海道アイヌ五名、台湾生蕃四名、琉球二名、朝鮮二名、支那三名、印度三名、ジャワ三名、バルガリー一名」が、「陳列」された。この事件について論じられる際、近年セットと言っていいほど頻繁に引用されてしまうのが、当時『琉球新報』の主筆だった太田朝敷による次のような論説である。

   特に台湾の生蕃北海のアイヌ等と共に本県人を撰みたるは是れ我を生蕃アイヌ視し  たるものなり我に対するの侮辱豈これより大なるものあらんや(中略)人類館の如き  は劣等の婦人を以て貴婦人を代表せしめ(後略)(9)

 既に屋嘉比収が指摘するように(10)、前半に見られる差別意識と、〈同化〉意識は明らかに重なっている。境界の外側に転落しかねない自己を、内部へと踏みとどまらせるために、外部に境界をつくる。これを社会学では「抑圧移譲」ととらえるが、そもそも〈同化〉運動を理論的に支えた、伊波普猷の「日流同祖論」の中に、論理的に差別性が内包されていた。「同祖」という概念が意味を持つのは、異なる他者が外部に存在する場合に限られるからである。
 また引用の後半部分は、太田の女性に対する意識を示すもので、「女流」作家としての久志を論ずる本稿にとっては欠くことの出来ない部分である。ただし未だ「他府県」並の国政選挙すら施行されていない状況で、懸命に近代化=本土化に精力を傾けていた太田を現在の位置から裁くのは容易ではない。あくまで当時の政治力学、構造が生み出した言説であって、太田個人に帰着しうる問題ではない。
 ここまで取り上げた出来事について、戦後の文脈においては、河上や柳を戦前における知識人の良心のようにみなす立場が多かった。が、近年では柳らにオリエンタリズムの眼差しを見るような立場も存在する。このオリエンタリズムという考え方は非常に難しい側面を持っており、実は戦後も復帰後も、そして現在ですら河上や柳の末裔である「中央の文化人」が沖縄を訪れ、その固有性を賞賛し続けている。もちろん現在では筆禍事件などにはならないが、その眼差し自体は、柳らのものと本質的には変わるところはないのであり、彼らにオリエンタリズムを見出し、一方で県側の対応の限界を指摘するような記述は、実は何も言っていないのと同じ事なのである。
 この微妙な問題を、花田俊典はきわめてクールな現実認識からとらえなおそうとした。花田は方言論争を取り上げ、文化的な対立に先立つ「具体的な政治経済上の利害関係」を指摘し、「差異を消去して差別を解消するか、差異を増幅して異化と連帯(コミュニケーション)の喜びを獲得するか」という二者択一しかあり得ないとし、言外に戦前の沖縄県の状況においては、結局〈同化〉という選択肢しかあり得なかったということを示唆している(11)。
 「政治経済上の」実効性という観点から言えば、花田の言うとおりだと思われる。しかし少なくとも観念の問題として、まがりなりにも〈同化〉に対する対案を提出した、戦前の沖縄における数少ない存在の一人が、久志芙沙子なのである。

   学生代表のお話ではあの文に使用した民族と云う語に、ひどく神経を尖らしていら  れる様子で、アイヌや朝鮮人と同一視されては迷惑するとの事でしたが今の時代に、  アイヌ人種だの、朝鮮人だの、大和民族だのと、態々(わざわざ)段階を築いて、そ  の何番目かかの上位に陣取って、優越を感じようとするご意見には、如何しても、私  は同感することが出来ません。(中略)本質的には、何らの差別もない、お互いに東  洋人だと信じて居ります。

 この後、就職差別つながるという指摘に対して「そんな事位で差別待遇をつける資本家の方へ」抗議すべきだと返し、結婚問題については、沖縄出身を理由に来てくれないような嫁なら断念せよ、という具合に非常に歯切れよく展開し、「釈明文」というより糾弾文という感じすらする。これに対し学生会の抗議は口頭だったようで、正確な内容はわからないが「釈明文」から逆算される内容は、先にあげた三〇年も前の太田の枠組みから、一歩も出ないものであったことは想像に難くない。
 ここで課題は二点ある。ひとつは〈同化〉もしくは〈同祖〉に強く規定された戦前の沖縄思想の中で、なぜ唐突に一人の女性において、このような思想が成立しえたのか。ふたつめは、具体的な反論が難しいと思われるこの思想が、同時代の反響を呼ばず、戦後まで埋もれてしまったのはなぜか、という点である。だがこれらの内実に迫る前に、久志芙沙子という人物について確認しておこう。

三、久志芙沙子
 久志芙沙子の実像を見極めるのは現在では、きわめて困難である。現在見ることのできる本人の文章は、インタビューも含めて六件だけであり(12)、しかも「四〇年の手記」には不可解な点が多い。例えば「祖父は沖縄の廃藩置県で、なりたての総理大臣らしき役職から家老に格下げされ」とあり、これは先にあげた『社会運動史人物大事典』の記述にもそのまま取り入れられている。しかしこれはおかしい。琉球王府において総理大臣相当といえば、摂政を除けば三仕官であろう。いわゆる琉球処分前後の三仕官およびその周辺については、現在かなり明らかになっているが、「祖父」と思われる人物はいない。尚泰上京以降、祖父がそれに付き従った、という記述は事実だと思われるが『尚泰侯実録』では、それらしき人物を特定することは出来なかった。以上のことから、それなりの地位にあったことは否定し得ないが、少なくとも最上層ではなっかた、と見なしてよいと思われる。おそらく相当偉かったという親の比喩的な表現が、そのまま本人に受け継がれ、さらに何の検証も経ることなく事典の事項になってしまったものと思われる。また手記には「霊感」をめぐるかなりの記述が含まれており、「偉大な宗教家」との出会いもなど、理解しづらい部分が少なくない。が、本稿の目的は作者の正体探しではなく、特異な思想を形成したその背景なのであるから、個人史のわからない点は不詳のままにし、関連があると思われる部分についてのみ記述していこうと思う。
 琉球処分後父が糖業に失敗し、一家は没落したとされるが、このような経験をした琉球士族は稀ではなかった。明治初期、砂糖輸入超過に悩んだ政府は、沖縄の糖業の勧業事業に力を入れ、明治一〇年代には、何度も無利子の勧業資金を貸与している。特に一八年には士族に資金が貸与され、王府時代甘藷栽培が禁止されていた久米島、先島の開墾が始まっている。しかし日清戦争後の精製糖業の確立および台湾の領有以降、沖縄の糖業は困難な時代を迎える。明治三四年の砂糖消費税法の実施にともない那覇市場の砂糖相場は著しく下落した(13)。久志の父はおそらくこのような時代状況に翻弄されたものと思われる。その後糖業というきわめて不安定な基幹産業は、一九二〇年前後の暴騰と暴落を経て、いわゆる「ソテツ地獄」を形成することになる。
 母を介して伝えられた、没落の記憶は、経済というものの冷徹さ、また経済の破綻によってむき出しになる人間関係の脆弱さについての認識を形づくり、久志がやがて河上肇の思想やプロレタリア文学に接近する一つの土台を形成したものと思われる。ただしその貧窮がどの程度のものだったかについては疑問が残る。というのは久志が高等女学校を卒業しているからである。
 高等女学校は男子の中学校に対応する教育機関であるが、久志が在学していた大正中期、県内の入学定員は三百人前後だった。これは中学進学者についての資料であるが、冨山一郎によれば中学の教育費を負担するためには、最低一町歩の経営面積が必要だということであり、これは全農家の一割程度しか存在しなかった(14)。ましてや伊波普猷が女子教育の振興をライフワークの一つに位置づけたように、伝統的に女性の学問に対して忌避感の強かった沖縄において、高等女学校に進むというのは並大抵のことではなかった。すなわち久志は、同時代の沖縄女性の中の限られたエリートだったのである。この経験が後に、「沖縄県学生会」の抗議に対し、一歩も引かないという気概を作り上げたものと想像される。
 インタビューによれば、高女卒業後県内で教員を勤めた後、「文筆で立ちたい」という「野心」、および「いろいろな事情」で、昭和五、六年頃上京する。この間の事情は不明であるが、あえて詮索する必要はないだろう。後述するように、「滅びゆく琉球女の手記」はまさにこの間の事情を描いた自伝的な作品でだが、現在その部分はその部分は読むことが出来ない。

四、「片隅の悲哀」
「滅びゆく琉球女の手記」というタイトルは編集部がつけたもので、原題は「片隅の悲哀」というきわめて抽象的なものであった。編集部内には「沖縄県はうるさいから扱わない方がいい」という意見もあったということであるから、わずか六年前の「さまよえる琉球人」筆禍事件の記憶はあったはずである。それをあえて編集長が押し切り、大々的な宣伝付きで掲載した。
 編集長の判断については、想像の域を出ないが、まず広津の場合と違って、作者自身が沖縄出身である、という甘い見通しがあったのではないか。実際やはり沖縄の下層社会を描いて『解放』に掲載された、池宮城積宝の「奥間巡査」(大11)はこの種の問題も起こしていない。しかし「沖縄青年同盟」の広津に対する抗議文を読み直せば、少なくとも改題および、これまた編集サイドで作られた「地球の隅っこに押しやられた民族の嘆きをきていただきたい」というフレーズは避けられたであろう。抗議文は「さまよえる琉球人」というタイトルについて次のように述べている。

   この作品の場合には特に『琉球人』と題を付さねばならなかつたでせうか。勿論我  々は目下琉球経済問題は、全國的興味を惹きつつある際とて、一つの広告的なトリツ  クを弄する卑劣なジヤーナリズム精神が崇高な文藝事業に没頭される足下の念慮にあ  つたとの野暮な憶測をするものでは些かもありません。(14)

 広津の場合はこれに当てはまらないが、「滅びゆく琉球女の手記」のケースはまさに「広告的なトリツク」以外の何者でもない。夕陽の中で感傷的になった主人公がふと思い浮かべる「滅びゆく孤島」というフレーズをタイトルにまで拡大し、「いち早く目覚めなければならない民族」というプロレタリア文学的な文脈で用いられた言葉を、前記のようなリードに書き換えているのである。この時期の『婦人公論』には毎号のように「~の手記」と題し、共産党関連や難病、その他ショッキングな事件が女性の手記という形態で取り上げられており、いわば売り物だったわけで、この件だけが特別だったわけではない。が、このタイトルが各紙の一面広告欄に非常に大きな活字で掲載されたことが抗議を招いたことは疑いない。これさえなければ粛々と連載が続いた可能性もあるし、また仮にそれでも抗議が来た場合には、それこそ久志と学生会とでとことん議論し、問題を深化させる可能性もあったろう。ところが編集サイドは「現実問題として、同地方人に迷惑を及ぼすところあるを認め」という、責任の所在のはっきりしない追記を付したのみで、掲載を打ち切っている。
 インタビューによれば「片隅の悲哀」は「四、五〇枚」で完成原稿を提出したということである。現在見ることができるのはほぼ一六枚分であり、全体の三分の一程度と言うことになる。三回分載の予定だったと推測される。作品はまず東京に住む沖縄出身の女性二人が、故郷の疲弊を語り合うところに始まる。友人と別れた後「妾(わたし)」は、東京に住む叔父に会いに行く。故郷との連絡を拒む叔父から、仕送りを預かるためである。
 この部分を金城朝永は「妾」が金策のために叔父に会いに行ったと誤読し(15)、その誤読がそのまま大田昌秀『沖縄の民衆意識』(16)に引用されてしまっている。確かに金銭を受け取る部分は曖昧な書き方がされているが、「妾は彼に対して何の依頼心も持っていないからそんなことは一向平気なのだが」と反発心を示す部分で、経済的依存関係がなかったことがわかる。大田の著書は本土でも広く読まれたものだけに残念であるが、そもそも金城の文章は戦災で焼けてしまった資料を、記憶に基づき後代に残そうという趣旨で書かれたものであり、大田の著書も作品再掲以前に書かれたものである。これは「誤読」というより、占領下沖縄における研究の困難を示すエピソードとしてとらえるべきだろう。
 以下作品では、沖縄出身であることをひた隠しにしながら、東京で成功を遂げた叔父の来歴と、そのたった一度の帰郷の場面が描かれる。それと平行し、すっかり落ちぶれた叔父の親族の様子、またそのような親族に対する叔父の冷淡な態度が、現存する部分のメインになっている。最後にまだ東京に出発する以前の、沖縄での回想部分で終わっている。この後「妾」が沖縄を立つ事情が描かれ、現在時に戻るという構成が推測される。
 文体は悲惨な状況を描きながらも、基本的に淡々として抑制が効いており、その中にしばしば鮮やかなイメージが挿入される。例えば貧しい生活の中で、老婦人が義理の孫を失った部分。

   その孫は、遂に泣き狂う彼女を残して死んで行った。暫くの間彼女は魂を奪われた  白痴のように放心して、虚空を見つめていた。道を歩く時は、常に目を足下に落とし、  長い事、結ばないまげががくりとうしろに垂れ下がっていた。

 内面的な苦悩の持続が「結ばないまげ」という視覚イメージによって印象深く表現されており、「琉球女」という物珍しさで売ろうとしなくても、相当の水準に達していると言ってさしつかえない。一方再掲時の座談会で大城立裕が指摘するとおり、プロレタリア文学の影響を露骨に示す部分もある。

   妾達はいち早く目覚めねばならぬ民族でありながら、骨に迄しみついたプチブル根  性が災いして右顧左眄しつゝ体裁を繕いくその日暮らしを続けているのだ。

 インタビューでは河上肇「貧乏物語」の影響を受けたことを吐露しているが、衆知のように「貧乏物語」の表現自体はきわめて穏健であり「プチブル根性」というような語彙はでてこない。この部分および、叔父を待つ待合室で、みすぼらしい姿の男が不審尋問を受ける場面などは、河上というよりも、この時期なお一定の勢力をもっていた、というより追いつめられることで一層急進的な姿勢を現すプロレタリア文学の影響下にあるとみるべきだと思われる。昭和七(一九三二)年という時点は「三二年テーゼ」が出され、また翌年の小林多喜二虐殺を目前に控えた、プロレタリア文学における過酷な分岐点であった。
 末尾近く、沖縄で幌馬車に揺られながら、御者の歌う沖縄民謡を聴くという印象的な場面で、ポール・ブッシュの「幸いすむと人の言う」を挿入するなど、知に勝ちすぎた部分もみられる。具体的な実感、経験を描写した部分と、プロレタリア文学や西欧文学の知識に基づく観念的な部分が十分に融和しているとは言い難く、このような箇所が四〇年後の自らの「知ったかぶり」という自己批判につながったものと思われる。
 しかし以上のような欠点は、実質的な処女作であるという事実、また当時の時代状況を鑑みればそう大きな問題ではない。本稿の文脈において真に問題とされるべきは次の部分である。

   朝鮮人や台湾人のように、自分達の風俗習慣を丸出しにして、内地で生活できる豪  胆さは琉球のインテリに出来る芸当ではない。妾達琉球人は、この大きな都会の中で  も、常に茸かなんぞのように、かたまっていたい性質を持っている。

 ここでははっきりした差別性はないものの、展開されている論理は、明らかに太田朝敷らの言説に重なるものである。すなわち、学生会の抗議を受ける以前、少なくともこの作品を執筆する時点において、「釈明文」にみられるような論理は未だ明確には意識化されてはいなかった。それは、最初から「滅びゆく琉球女の手記」を背後から支える論理だったのではなく、抗議に反駁する過程で形成、もしくは明確化されたものだと考えるべきであろう。したがって「釈明文」は久志自身にも内在していた、「朝鮮人や台湾人」との差異性において自己を位置づけるという論理への反駁でもあったのである。

五「『滅びゆく琉球女の手記』についての釈明文」

 それではなぜ学生会達への反駁が「釈明文」の様な論理を生み出したのだろうか。一つはきわめて単純な、論理的必然と言うべきものである。すなわち〈同化〉の論理に対抗するためには、〈差異〉の論理が必然的に浮上する。〈同化〉はいわば「上昇」の論理であるから、階層的な序列構造を解体し、平面化すればよいのである。事実久志の論理は、そのように展開している。しかし仮に階層的な構造が絶対的な大前提になっていれば、この逆転の発想は難しいに違いない。その意味で久志が「沖縄人」であり、かつ女性であったということは無視できない要素である。
 久志は「釈明文」中で学生会を「社会的地位を獲得している方々」と呼んでいる。県外者にして見れば、広津を批判した「沖縄青年同盟」も久志に抗議した「沖縄県学生会」も似たようなものだっただろうが、内実は違っている。青年同盟の方は全日本無産青年同盟の沖縄支部という思想的な位置づけを持ち、もちろん中にはインテリ層もいたが、広範な職業・階層に及んでいた。これに対し「沖縄県学生会」は、東京に就学した県出身者の互助会的な組織である。学生会とともに抗議に訪れた県人会は、実質的には学生会のOB達による組織であった。先に久志や中学卒業者をエリートとしたが、そこからさらに選抜された、いわばエリート中のエリートによって形成されるのが、学生会、県人会だったのである。関東大震災以降急増した出稼ぎ労働者達は、別に「川崎沖縄県人会」を結成している。もちろん県人会の中には、社会主義運動と関わりを持つ比嘉春潮らもいたが、比嘉は事件後有志を集め、久志のために激励会を開いている。ちなみに比嘉は、先にあげた河上肇講演会事件の折、河上に共感した数少ない人物の一人として知られている。
 社会全体の改革という方向に関心を待たない場合、沖縄の男性エリートが最後にぶつかる壁が、「沖縄人」という自己のありようだったに違いない。エリートとはいっても沖縄出身という出自は、彼らに様々な不利益をもたらせたに違いないのである。いわば「沖縄」は彼らを縛る最後の壁であった。このような状況下では、沖縄対本土という対立は絶対的なものであり、それを相対化する視点を獲得するのは難しい。
 これに対して久志は「女性」という限界性を幾度も経験したに違いない。作品冒頭で母達の世代の女性を沖縄につなぎ止める「いれずみ」という旧習について触れているのは象徴的である。久志は事件後「叔父」から「純真な乙女だと思っていた」と怒られた、と述懐しているが、この「純真」とは明らかに従順と同義なのである。この点について宮城公子は「マイノリティー・グループ内でのジェンダー意識形成」という視点を重視し次のように述べている(17)。

   本土と沖縄の抑圧/被抑圧の位相のみならず、沖縄の女としてのジェンダー役割を  強制する、現在にも通底する沖縄の男性への批判的言語が形成され得ていた。

 これ以外にも親族の没落、上京後の生活苦等多様な経験もまた、久志に様々な壁を見出させたに違いない。すなわち久志にとっても「沖縄」は大きな壁ではあったが、それは唯一無二のものではなかった。この困難の重層性が、久志の発想に自由を与えた。「釈明文」中の「妾みたいな無教養な女の魂の訴え」とは、率直な心情であると同時に、無意識の戦略性をも備えていたのである。
 しかし再発見後、現在に至るまでの「釈明文」の評価は、不当に高すぎる面もある。というのは、戦前の沖縄を呪縛した同化主義にばかり目が向けられ、同時代の他の言説が考慮されていないからである。「本質的には、何らの差別もない、お互いに東洋人だと信じて居ります」という発想は、当時、少なくとも「たてまえ」としてはそう珍しいものではなかった。次に示すのは、この筆禍事件が起こった当時に用いられていた、尋常小学校の地理の教科書の記述である(18)。

   国民の大多数は大和民族にして、其の数五千四百余万に及ぶ。其の他、朝鮮には約  一千六百万の朝鮮人あり、台湾には十余万の土人と支那より移り住める三百余万の支  那民族とあり。また北海道にはアイヌ、樺太にはアイヌその他の土人あり。民族は相  異なれども、等しく忠良なる帝国の臣民たり。

「釈明文」で繰り返される「今の時勢に」という表現は「現在流通する支配的言説」として読み替えられるべきだろう。それが孤立しかねない久志を背後から支えたことは否定し得ないと思われる。おそらく様々な葛藤のもとに紡がれた久志の論理は、一回転して、当時の「帝国」の公式的見解と、表面上重なってしまったのである。現代という時代から、「当時の沖縄の思想」という限られた枠組みにおいてとらえる時、久志の「釈明文」は驚異的なものに感じられる。しかし同時代、対立の外部にいた読者にとっては、おそらくごくありふれた言説と写ったに違いないのである。
 しかしもちろん両者の間には、決定的な違いがある。まず教科書の論理は、その平等が成立する根拠として「帝国の臣民」というメタレベルが不可欠であった。そして何よりこの教科書の記述には「沖縄」も「琉球」も全く現れていない。それは「五千四百余万」の「大和民族」の中にカウントされているのである。すなわち国家の「たてまえ」として、「沖縄」の問題とは解決済み、もしくはそもそも存在していなかった。
 観念的な論理構成の上においても、当時の正統的言説のレベルにおいても、おそらく学生会側の再反論は困難であっただろう。しかしあえて有効な反論を想定するならば、次のようになるだろう。すなわち、久志の発言はまったくの正論だが、その正論が現実世界において実現していないからこそ、自分達は苦しんでいるんだ、と。そして久志自身「本質的には、何らの差別もない、お互いに東洋人」が絵空事に過ぎないことを、やがて意識することになる。

六、終わりにー「四〇年目の手記」
 管見の及ぶ限り「釈明文」に対する唯一の批判者は、四〇年後の久志その人のみである。久志のインタビューと手記は、ようやく所在を突き止めた編集者達にとって拍子抜けのするものであった。自己の「釈明文」を「大多数のものいわぬ方達は、けっしてそうは思っていないだろう」「小賢しい」と一蹴し、「例えば私の娘や息子達が朝鮮やアイヌの人を相手に選んだ時、果たして私は動じないだろうかというと自信はありません」と実も蓋もない。編集後記の筆者は、きわめて穏やかな文体ながら、年齢のせいか、宗教のせいか、と憶測している。確かにそういう要素がないとは言えない。特にやや明瞭すぎる反共意識には、ある種の背景を感じさせる程である。しかし当時の自分の思想が、状況に対して何らの実効性も持たなかったことを誰よりも痛切に感じているのは本人だったのではないか。「反戦だ、反戦だと内戦ごっこやっている学生衆」に、かつての自分を見出そうとしている。
 そもそも「久志さんの姿勢というか思想が、いまなお沖縄でも高く評価されているということは、どう思われるでしょうか」という質問自体が完全なミスリーディングである。「いまなお」というのは、それが実現された後に下す評価であろう。久志はしきりと「現実」を繰り返す。おそらく「釈明文」は四〇年間の「現実」の中で放棄されてしまった観念なのである。手記の前年久志が訪れた沖縄は「全部が日本の田舎の」のようであり、「アメリカのようでもあり」美しいのは「青い海」だけだった。一見取材内容に全く無関係であるにも関わらず、長々と描写される少女時代の「沖縄」はどこにも存在しない。
 あらゆる民族がそれぞれの個性を維持し、なおかつ何の差別もない世界。それが「いまなお」実現していないのはなぜなのか。久志を評価しようとするなら、まずその「現実」から謙虚に問い直されねばならない。

(1)作品発表時の名義は久志富佐子で、「釈明文」の名義は久志芙沙子になっている。近年久志が取り上げられる場合「芙沙子」と表記されるのが普通なので、本稿も「芙沙子」で統一した。
(2)学生会の名称は何度か変更されており、この時期の正式名称は京浜学生会だった可能性が高いが、久志の表記に従った。
(3)比嘉春潮、霜多正次、新里恵二『沖縄』岩波新書、一九六三、一。p26。
(4)大田昌秀『沖縄の民衆意識』新泉社、一九九五、一二。p328。ただしこれは新版の奥付であり、初版は一九六七年に刊行されている。
(5)発表時は池沢聡名義。「『滅びゆく琉球女の手記』をめぐって」『沖縄タイムス』一九七〇、一〇、二七・二八。
(6)作品および「釈明文」は『沖縄文学全集』第六巻で読むことが出来る。「四〇年目の手記」は採録されていない。
(7)『沖縄・根からの問』泰流社一九七八、六、p189など。
(8)小熊英二『〈日本人〉の境界』一九九八・七、新曜社。本稿では分量的な限界のため、先行の事件についてはきわめて単純化せざるを得なかった。詳細については同書を参照されたい。
(9)「人類館を中止せしめよ」『琉球新報』一九〇三・四・一一。
(10)「沖縄の二〇世紀(3)/人頭税/人類館事件/」『沖縄タイムス』二〇〇〇、七、一五。
(11)花田俊典「沖縄方言論争三考」『日本近代文学』第52集 一九九五・五。
(12)本文で取り上げた四件に加え、『婦人公論』昭和六年五月号「入選実話 年上の女・年下の男」の中に「日記の抜き書き」という手記があり、署名は単に「ふさ子(東京)」のみであるが、語彙や文体の特徴から、ほぼ久志の文章だとみてよい。また没後遺稿集『一期一会』が編まれている。しかしこれらはいずれも沖縄の問題とは関係していない。
(13)糖業については以下の論考による。金城功「明治期の沖縄の糖業」『近代沖縄の歴史と民衆』沖縄歴史研究会、一九七七、至言社)
(14)冨山一郎『近代日本社会と「沖縄人」』日本経済評論社、一九九〇、一二。p.220。
『那覇市史』資料編第二巻中三。この巻における広津の筆禍事件、および方言論争に関する資料は、通常の市史の枠組みをこえた、きわめて充実したものである。
(15)金城朝永「琉球に取材した文学」『沖縄文化』一九四八~四九。この時期の『沖縄文化』を閲覧するのは難しいが、『金城朝永全集(上巻)』沖縄タイムス社、一九七四、一、で読むことが出来る。なお初出ではタイトルも「滅びゆく琉球民族の悲哀」と誤っているが、全集、注で改められている。
(16)宮城公子「「滅びゆく」「女」の位相」『琉球新報』
(17)この教科書は一九一八から一九年にかけて発行されたものであり、一九三四年まで使用された。小熊英二『単一民族神話の起源』新曜社。一九九五、七。p160~。





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