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みなさんごきげんよう。私は病後の人生を、いかに生きるのか?と、毎日、心の中でかんがえているの。まだ、どう生きたらいいのか・・・・・・?結論は、出ていません。なんか、、、すぐに死んでしまいそうだな・・・・と思う時もあるし、なかなか再発はしないだろう・・・・と、思ったり・・・・無駄なことばかり思っていますねぇ・・・あっはっは毎朝家の外の15メートルの通路を速足で、300歩、歩いて、ちょっと体力をつけてみたいと思うのよ。長く書かなかったここのページも今日から書こうと思ったの。まだ皆さまのところにお伺いはできないなぁ・・・・ごめんね。
2024.06.21
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皆さまこんにちは!!ほんとうに、お久しぶりですね!私は2021年に、大病をして入院手術し長くこのブログを放置していましたが、やっと少し元気になって来たらしく今日からまたブログ記事を投稿して行きたいなぁと少し、思えてきました。書き込みの方法など皆忘れてしまったんじゃないかな?忘れてしまったから、書き込みできるのかどうか・・・・心配でもある。なんて・・・・ね。
2023.08.30
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ここもと体調が何だか、ほんのちょっと....少~~しだけだが・・・・良くなってきている感じがする。ちょっぴり・・・元気になって来る気配を感じ、気分もちょっと・・・・・・いい。春なんだから、このまま元気になれたらいいな~と、思う。思えば、長い道のりだった。手術は2021年の3月だったんだから、もう、そろそろ元気になったっていいと思うのに何だか全くダメなわたし。ある日の内科受診の時、先生が、「80才の人には絶対しない手術ですよ」と、「こんな手術を受けられたのは、貴女がよっぽどお元気だったからでしょうね?」とおっしゃるのだ。そうか、そんなに? ああ、良かったなぁ・・・・と、あらためて驚いています。
2023.06.04
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私も81才。大病後は、なかなか体力がもどらないから私が死んだあと、子供たちが私の荷物の整理をたやすくできるように少しでも荷物の整理をしないとね・・・と思いちょっとだけど、片づけに手をかけている。写真私の思い出の写真は長く長く一生涯ずっと持ちつづけていようと思っていたが写真が多すぎるから少し始末しないとねぇ・・・と思った。しかし、どれもこれも楽しい思い出ばかりだし絶対に自分では一枚も捨てられないと思ったので夫にまかせることにした。ふと見たらおしいれにぎっしりあった膨大な写真軍団がたった一個のダンボウルにまとまっていた。やられたぁ==!!!!!!!!!ショック・・・・・・・・・・・・・・・・・・でも、すぐに私は体力がもどらないからしかたがない、あきらめよう・・・・と、あきらめたのよ。それからは、恐ろしくて一度も写真を見たことはない。たしかめるのが怖いの。癌の手術後2年経ってもなかなか元の元気が出なくて毎日、ぼやぼやっと暮らしているが、ちゃんと荷物の整理をしておかないともし、私がまた入院となったら今度こそ世界と お別れになるという運命だからと思い、今日はやっと、夫が整理してくれた写真の入っているダンボウルを開けてみた。何んにもなかった・・・・・そんな感じだ。しかたがないな・・・・・・・・・・・・私は子供のころは、学校の先生から特別可愛がられて先生の《ひいきの子供時代》を送った女の子だからあの戦後の物質不足の時代にカメラなど、だれも持っていなかったが自分の写真は先生が撮ってくださったからけっこうあったが、一枚も無くなっていた。戦後、何も無い時代にひいきの女の子のかわいい私。(自分で言うか?)あの写真は一枚も無かった。あっはっはザッハリッヒの夫が捨てちゃった。ははははははいっそすがすがしいじゃないのさぁ~
2023.04.21
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子供たちが集まって快気祝いをするというので3カ月ぶりに美容院へ行った。美容院では、いかにも「ワダスは、老人だよ。」という見本の髪型にしてくれた。はははは もうちょっと優雅な老女って髪型が思いつかないんでしょうかね?私もそれなりにデザイナ-さんに「私はあらゆる髪の形をして生きてきた話をしたし、わたしが出来なかった髪の形は、丸坊主と、モヒカンだけだ」とおしえたのに、そのデザイナーさんは、さっさと《山の中に住んでるであろう80才のお婆さん⦆の髪型?に、ためらわず仕上げた。ちりちりパーマを全体にかけて後髪はバリカンで刈上げて、「ハイできあがり」だと?????わたしは、「どうもありがとう」とにっこり笑って店を出た。 ( おとなだねぇ。)
2023.03.18
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体調は少しづつ良くなって来ているようだ。一日おきに5000歩を目指して歩いているがとうとう昨日の朝は、楽に歩けた気がした。それに、食欲も少し出てほっとする。まだ仕事は何もしていないが、料理は少しできるようになってきた。夫がいつもはりきって作ってくれるけどやっぱり自分の好みでないものが多い。私は和食党だけど、夫はイタリアか、フランス系の料理しかしないから私はちょっとつらい・・・・・・・ わがままです・・はっははは
2022.10.26
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わたしの大好きなテレビ番組はNo1 断捨離 (だんしゃり) ものすごい物の量で部屋にはどこにも空きが無いほどの家の中が、断捨離 の指導者のもと、家具やごみを、めっちゃくちゃ捨てさせられて、 すっきり片付くのが、見てる私自身のカタルシスになるのね!No2 YOUは何しに日本へ? 外国の人々が日本を旅して自国との違いに、めちゃくちゃ驚くところが 面白い!特に、日本のトイレがどこでも清潔だと言っていて、 トイレのウオシュレットの機械を買って 帰国するひとが多いという。No3 野生動物の映像 特にライオンや、象や、キリンなどの大型動物が大自然の中で動く様が 楽しいNo4 宇宙科学の話、これは何が何でも、絶対好き!No5 芸術、美術、美術館、のことは当然好き!!No6 イタリアの小さな村の映像、 これはとても素朴で、イタリアの人々はみんな貧しいけれど隣同志が 仲良くて、人間らしい豊かなやさしいおつきあいのある暮らしを しているようで、美しいと思える。No7 そこまで言って委員会 この番組は面白くて決して欠かせない。 毎回面白い政治ネタを出してそこまで言うか? と、言いたい放題しゃべり、議論するところ。 (何だか最近は観ていません。終わったの かしら?)No8 劇的ビフォーアフター 古い家をいかにリフォ―ムし、いかに住み心地の良いデザインに変身 させるか!! 断捨 離もそうだが、これは、家自体を あちこちがんがん壊してリフォームできるので何ともすっきりさわ やかで、大好き!! まだまだあるけど、きょうはこのくらいで終わり
2022.10.09
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2016年の夏、引っ越しした。長男の家から2キロの場所だ。夫が癌の手術を受けた時は長男の世話になって心強かった。すると、2年ほどしてから長女夫婦が転勤となり、わりと近くに住むことになった。おかげで、長男長女がいろいろと助けてくれるようになって、有難かった。2021年に、私が癌の手術を受けることになり最も助けがいる時に、面倒をしっかりみてくれたので大助かりだった。手術後は、たまたま長女の隣の家が空き家になったので、引っ越しできて、ますます助かっています。長女は週6日、隣の私の家をのぞきに来ておいしいお料理を少し持ってきてくれたりあれこれ公的な面倒な手続きなどをしてくれたりありがたい。私達は子供たちと一緒に暮らすというあたりまえの暮らしを得ることが少ない一生だったが、こうして、2キロ以内に長男夫婦がいて、隣に長女夫婦がいてくれるなんて、幸せな人生のしまいかただと思える。感謝ですね!
2022.09.14
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今年に入って、テレビでは私の大切な時代を振り返るような番組が始まったので、録画して楽しんだ。それはアメリカなど、外国の音楽ですが、日本ではビデオデッキが発明されていなかった時代の26才の頃、《ウッドストック》の音楽祭のことは私の心には届いていたけれど、どういう物なのかは、まったく知ることはできなかった。それは私の中で何か知らないが夢中にさせられるような何かだとは、感じていた。それを今年2020年のお正月、テレビで観た。で、ああ、これだったのか・・・・と私は理解し、ほっとしたことです。アメリカのウッドストックに予想を越えた50万人の若者が集まってしまい、3日間、野外音楽祭を楽しんだのだった。ものすごいイベントだった。すすす・・すごいなあああ~~~~!!ちょうどあの頃はイギリスではビートルズが生まれて日本公演を果たし、日本の若者にはビートルズ旋風が起きて、それがもっと進化して行き、グループサウンズという楽しい音楽の世界が日本中を席捲して行ったのだった。バンドのグループは雨上がりのキノコのようにぞくぞくできて、女の子は夢中でファンクラブを作り大騒ぎをして、失神する者まで現れた。グループサウンズと呼ばれた多くのバンドグループの全部は、1972年ごろまで続いて、すっと消えた。みんな大人になってしまったのですね。それからは一緒に流行していたフォークソングが主流の時代があって、私が36才の頃は、皆消えて行き、突然、マイケルジャクソンが現れた。日本中の若い人々がのぼせていた頃、同時にクイーン(フレディーマーキュリー)も出現。一世を風靡した。しかし、 この二人に対しては、私はあまり夢中になるほどにはならなかった。なぜなら私は音楽の世界が大好きだったけれど、子供達のあれこれで、大忙しだったから音楽どころではなくなっていた。でも、今年のコロナ時に改めてフレディーマーキュリーの追悼番組に出会うと、もう、涙なしには観れないのだ。録画を就寝前に毎回泣きながら観て、ああ、今夜も一日が終了するというのが私の日課となってしまった。
2020.06.14
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《ジーザスクライエスト スーパースター》という舞台が すごいということを知ったのは1971年頃だった。まだ、PC などは見たこともなかったし、扱えない時代だった。色んな情報はテレビか本か、ラジオなどからしか知ることができなかった。気分は何かもどかしく、知りたい気持が胸の中で渦巻いていたものだったのに、何も知ることができなかった。 それから50年ほど経って、年を取り、老後の生活に入った。すると、2019年だったか、(2年前?去年だったかな?)テレビで映画化されたものが放映されて、うれしく観た。 ここに感想を書こうと思っていたが、なかなか書く元気が生まれない。そうこうしていたら、なんだかピントがずれてしまって、書くことが頭に浮かばなくなってしまった。 ごめんね~だはは・・・・ なんのこっちゃ!!
2020.06.14
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こんばんは!やっと新しいPCを買いました。いままではNECの10万円~20万円のを買っていましたがあまりにも皆さんのブーイングが激しいから(5万円くらいのでいいよ)ってね?決心して4万円のを買いましたよ~それが、大変なの、もう、PCじゃないみたい。どうやってもどこに何があるのか??どうやったら動くやら?わからんちゃんちゃこじゃ~~ん~~涙毎日、格闘技出しまくり‣・・・・・・もう、知りませんからね~~やっとここに座ったけど、明日も開くのか?解かりませんから~~~~~涙
2019.10.12
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あのね、いろいろ周りのことを考えて、100話くらいの記事の削除をしたことがあった。まだ、RINちゃんがお元気だったころ・・ね。けれど、皆様のコメントがすばらしくて、やはり、削除したのは、残念過ぎました。そのまま今年まで来たけれど、やっぱり、私の記事は全部削除しよう・・・と、再び思いつめた。みなさまのコメントを読めば削除できなくなるから、いちいち読まないで、昨夜、ざ~~っと、あと100話ほど削除したけど、途中でちょっと読んでしまったら、さあそこからどうしても削除できなくなったのね。そして、どうして200話も削除してしまったか・・・と、残念無念の心境。バカね・・私の記事はどうでもいけど、みなさまのコメントが素晴らしすぎるんです。それが消えたのが惜しかったなと・・、心から悲しくなっちゃた。で、そこからまた、削除ができなくなりました。私は、ここからは、死ぬまでここに置いておきますことを決意しました。ごめんなさい。だはは・・・
2019.04.10
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あまりにもなれない仕事をしたら、数日前から腱鞘炎になって、利き腕の指が動かせないのよ。でも、今朝、ちょっとPCを開いたら人差し指だけが、動いた・・・涙しばらくお休みです・・・
2011.11.10
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最近、夫は、ちょっとした旅行を計画していたのですが、出かける前日になって、私が、あることを思い出しました。 それは5年ほど前になるでしょうか・・ある日、私が夫に私の夢について話をしたことがありました。 私の母は亡くなる前に、生まれ故郷を夢見ていましたが、 「一度、△△線に乗って、ことことことこと故郷に帰りたい」と、 しばしば言っていたのです。 ですから、 「私が△△線に乗って、お母さんの代わりに、 ことことことこと母の故郷に帰ってあげるのが夢なのよ」 と言うと 「あ、、涙が出るじゃないか・・・」と、夫も声を詰まらせたことが あったのです。 でも、私達はこの年齢に至っても、なかなか暇もなく時はどんどんうち過ぎて行くだけでした。母の故郷近くに旅行するにあたってふとそのことを思い出したのです。急いでPCに向かいました。 実は、私は、母の里の住所も番地も全く知らなかった事に気がつきました。長年親類のお付き合いを全くせずに、引越しばかりする生活で、ばちがあたったようです。 覚えていることは、戦時中に母と共にその家に疎開したこと、 私は3才か4才でしたから、何も覚えていないのです。 △△町って、どこかな?と思ってネットで探しました。すると、 Googleマップに、それらしき町の駅名。 そして、その駅を中心に古い町並みが、そのまま残っている写真が出ました。 その写真を見て、ピンと来たのです。 「あ、これがお母さんの家じゃないのかしら・・」 どう表してよいやら判りませんが、鋭い勘が働いたのです。そのGoogleマップの古い家の写真を頼りに、母の里に行くことにしました。 旅行の第一目的を果たし、一日を延長して最後の日に、△△線に乗って、いよいよ母の里に向かいました。 車だったら楽だったのですが、 △△線に乗って訪れることが母の願いだったからです。 △△線に乗ると、電車はどんどん山に登っていくのです。 一度乗り換えたりして、2時間も乗っていましたら、 急に夫が 「次は○○駅だって!!」と言うのです。 「え=?○○駅だったらお父さんのお里だ=!」私は驚いて、 目を皿のようにして父の昔の家を探しましたが、分かるはずはありません。涙 母の夢を叶えてあげたいと思っていたけど、△△線上に父の里もあるとは 考えてもみませんでした。ほんとうに、ほんとうに馬鹿ですね。 やっと目指す駅に到着しました。 母の町が、分からなくても、ネットに古い町並みの写真が出てるくらいだから、 タクシーで聞けばつれて行ってくれるだろうと、かる~く考えていたら、 なんと!とんでもない駅でした。山の中の藪の中の駅は、駅とは名ばかりで、 待合室もたった1畳程度のへなちょこの、雨をしのぐだけの屋根と木の長いすひとつでした 出来た当時から、 全く進歩していないのだろうと推察できます。 もちろん無人で、トイレも無く、飲み物もなく、タクシーなどあろうはずも無い。 私達は、びっくりしながら細い山道を下った。 右の山の下の田園方面と左の山道のどちらに行ったら良いだろう? と迷っているところに、 ちょうどスクーターに乗ったお婆さんが通りかかった。 「もしもし、古い町は、右ですか?」 「ああ、そっちは田舎ですよ、町は山を登ります」だと~! 山の方が町とはね? それに相当の山の田舎で、「そちらは田舎」と言われてもねぇ。^^ぼっつりぽっつり山道を歩いて30メートルも登ると 急に目の前にGoogleマップの写真にあった古い町が開けた。 近所のおじいさんに目指す家の主を聞きただすと、 やはり、私の思ったとおり、 ばっちりそれが、母が生まれ育った家だった!何故、するすると行けたのかは、判らない。母が導いたのかもしれない。50年ほど前に売却した屋敷は 20年以上も前から、だれも住まない廃屋になって、荒れ放題だった。 私が裏に回って、確かめたら、うわあ~~~~~~~~ 昔のままの間取りが見えた。懐かしい~~~~~!!!! あの周りで遊んだ直径2メートルほどの大きな井戸の跡もあった。 蔵は無くなっていた。 私達が遊んだ庭に4軒続きの長屋が建っていて、 かつて人が住んだらしい跡があったが、そこもすっかり荒れていた。 大きな母屋は2階建てで、昔のままに、ひっそりたたずんでいる。 100数十年前に庄屋さんだった曾爺さまの建物は、 丈夫に出来ているのだろう。 「お母さん、とうとう△△線に乗って帰ってきましたよ」 と、心の中で語りかけた。 お母さんの思い出の△△山が、北西の方角に光っていた。 「ああ、お母さん、△△山の見える家に帰ってきましたよ」 と、空を吹く風にも伝えた。
2011.10.28
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1941年12月8日 第2次世界大戦に突入して、 日本は散々な目に遭った。だから、我が家にも、 色んな苦労があった。 母は子供5人を連れて東京から母の実家に疎開した。 実家には、母の兄夫婦も住んでいたが、兄は母を見るなり、 「おい、おまえさんは、日本が勝つとでも思ってるんかい? あのな~アメリカは平和産業をしながら片手間に戦ってるんだぞ~」 と言ったので、非常に驚いたそうだ。 やはり、アメリカの事情をよく知っている知識人は 皆、そう思っていたのだろう。 でも、 何故?初めから負け戦に挑んだのか? わからない。 私達は、戦後の学校で、戦争周辺の歴史を学ぶことはなかった。 日本の大人は、戦争に負けて、教育に自信喪失していたのだろう。 最近では、テレビ放映で、戦争周辺の事実が明らかにされているが 私はちゃんと観たことはない。私は戦争の話を聞くと 苦しくなってくるのだ。戦争映画も決して観ない。いや、観れない。 しかし、 イギリスに留学されておられたかどうか定かではありませんが天皇陛下はイギリスの国力を熟知されていらっしゃった筈。 どうして、資源もない小国が、イギリス、アメリカを敵に回せたのか? 私には理解できない? 天皇陛下は、戦争を回避できた唯一の人だったと思うのだが・・ 大きな時代のうねりに、どうするすべもなかったのか・・ 日本人犠牲者の数 310万人 (by Wikipedia) こんなに多くの若者が死ぬなんて・・・
2011.10.16
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こんばんは~ごめんなさいね。ちっとも記事書かないでお許しくださいね。訪問もせず、ごめんね。同窓会に行ってきました。今回は、みんな70才になるので、もう、(しわやしみの顔を見たくない)と思ったかどうか知りませんがこれで、最後だからといううわさが立って、出席者が多かった。でも、そんなことは正式には発表されなかった事項らしく次の同窓会の件がスムーズに話し合われ、合意を得て、終わりました。何じゃ?そら。あっははは・・・・何故か、今まで常連だった人達の数名が不参加だったそうだ。これは、健康と、財力とがからんでいるらしい。人生、何が起きるかわかりませんね。私は20年も欠席していたので、大勢の級友から今回「出席せんか!!おりゃ~~!!」と叱られたし、絶対行かないぞ、という頑なな気持ちを崩されて20年ぶりに参加しました。そうしたら、20年の歳月は、非常に重かったらしく、その長い年月を、思い知らされました。全員玉手箱を開けた人になってしまったのでした。涙・・・涙・・・20年前は、まだまだイケテたクラス1番の美人だった子リスのような目の☆さんは、みるも無残な鬼婆になっていたし、クラス2番の美人だった取り巻きを従えて歩いていた○さんは死んだし、クラス3番の美人だったおじさまキラーの△さんは、来なかった。クラス4番の美人だった大店のお嬢様の▼さんも、クラス5番だった医学博士のお嬢様◎さんも顔が崩れ切っていた。クラスで男性徒から怪人というニックネームで陰口されていたほど不細工なAさんは、なんと!垢抜けて美しくなっていた。それに、普通だった人々は、ふつうのまんま。不思議ね~~?神は平等なのかしら?(♪自分のことは棚にあげておきます~♪)思いがけず男性軍は、何故か、それほど醜く落ちていなかったのが不可解である???いやいや、やはり苦労しているらしき一人の男性が、それなりに、醜悪な顔つきになっていた。しかし、皆、体力だけは、大変強く、若く、初日は、一晩中飲み明かし、次の日は、隣の県の街を徘徊し、次の日は、別の山々と温泉地を徘徊し、ついに夜になって解散しました。嗚呼、なんという体力でしょう古希人達よ。私といえば、初日だけで、皆とお別れして家路を急ぎましたが、疲れ切ってしまって、ばたりと倒れて3時間、こんこんとねむり、夕方ごはんをたべたら、7時から朝までねむりつづけていました。そして、朝になりましたが、芯からのつかれが取れず、体が、非常に重いのです。一体全体皆様は何を食って生きてるんだい?それから、私が在学中もらったラブレターの発信者は、欠席だった。精神を病んでいるらしい。20年前に出会った時は、まるで、デブ蛸ぼうずのように変身していてちょっと・・いや、すごく驚かされたけど、それは忘れよう。あの、高校で一番頭が冴えて、スポーツマンだった真っ白な体育服のひょろりとした君よ。私にラブレターを書く勇気があったんだったら元気を出せ=ばかやろお=少しさみしいね・・・涙
2011.09.25
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10年も歯が痛かった。4つの歯科医では、 「どこも悪くないですが・・」とて、原因が分からなかったが、 去年、 とうとう腕の良い歯科医に出会ったと思っていた。 半年もかけての治療が終わって、あれから、半年経ったが、どうしても痛みがとれない。 とうとう、久しぶりに歯科医に行く。 仕方が無い、 温存していた神経を、遂にとることになった。 最終的な治療は、またしても、がりがりのごりごりのぎ==ぎ==で 1時間かかった。結果、痛みの元凶がわかった。 3本の神経のうちの1本が腐っていたそうだ。 もっと早く見つけてよ~。涙 去年は、どんなにレントゲンを撮ってみても、 歯茎を切ってのぞいてみても、分からなかった。 そんなことも、あるものですかね? 神経は、10年という長期に亘って、すこしずつ腐ったのだろう。 ずいぶんがまんしたものですね?かわいそうな私。 神経を取るということになって、歯の中心の根元に穴を開けて 初めて発覚したのだから・・・・・・・ 10年という長い間、あまり良く噛んで食事ができなかった。 特に、1年前からは、ずっと丸呑み状態。 噛んで食事をしないと、脳が退化しちゃいますよね。 私もこの10年間で、海馬の神経新生細胞が激減したにちがいない。涙 だから、とうとう、ブログもあまり書けなくなったではないか。 まだまだ続く治療。今度こそ、完全に治りたい。 いつも言葉が出てこなくて、10才も年上の夫様に 「あれなんでしたっけ?あれ、あれは~~?」と聞いてばかりの私。 で、 今朝は、夫様との会話。 夫「あの人の名前なんだったかな?」と聞いて来た。 私「スーさんかな?」 夫「何族だったっけ?」 私「マウイ族よ」 夫「すごい~記憶力いいね!」 私も我ながら驚いた。なんだろう。不思議ねぇ~ さっと答えが出るなんて、最近なかった。 あれが、最後だったね・・・なんて言われないように、 今度こそ完治したい。
2011.08.25
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ボランティアのワークショップ 22才の孫を連れてワークショップに出向く。 勾玉作りである。 暇な日らしく、お客さんが少ない。 勾玉用の石と砥ぎ石とをもらってはじめる。 鉛筆で形を書いて ごしごしと砥ぎ石にこすりつけて石を削る。 暇をもてあまして退屈したひとりの係員が 私達のところにやってきて、ちょっと手を入れてくれる。 慣れたもので、あっという間に 美しい形になった。 もう、どこも自分でするところがないほどだ。 こういうのをラッキーと言ってよいかどうか 判断しかねる処ですね。う~~む。 こんどは、紙やすりを渡されて、勾玉の表面をつるつるにみがく。 うむ、これでよし。なんだ、簡単だ~ 首からつるす為の良い色の紐を選びに係りの人のところに行く。 係りの男「まず、この布巾でよく拭く!」 拭いた勾玉をじっと見る男。 やおら、 「駄目!やりなおし!」と、声を荒げてノタマウ。 私「まあっ!駄目ですって?」 男「駄目!やりなおし、もっとつるつるに磨きなさい!」 私は、非常にびっくりした。たかが遊びの勾玉作り、 お客さんがこれで良しと思っているんだから、 だめな事なんかあろうはずがないじゃないの。 私は急に腹の底から笑いがこみあげて来た。 わっははははははははははは はははははははははははははははははははは 不謹慎にも、むっちゃくちゃ笑った。 私は子供のころから、周りの大人に何かにつけて 「あなたは器用ですね!上手!よくできました!朱鷺子さんを見習いなさい」 などと、言われつづけてきたものだ。 特に手芸や、工作などと言う物で、「駄目!」という言葉は、 私の人生の中で一度も聞いたことがなかった。 それなのに、こんなどうでも良い場所で 「駄目!」と否定されたのだ。 非常に、驚いたし、その突然の事態が、何故かめっちゃくちゃ面白かった。 腹の底から、抑えようもなく笑いが飛び出してしまった。 その後も2度も「駄目!」と言われて、紙やすりで磨かされた。 ちょっとカラカイたくなって、 私「あのお、この白い髪に免じて、合格させてくれませんか?」 男「貴女の勾玉には、まだ、小さな傷があるんです。 私だって、頭はほら、禿げてるし、髭も白いでしょ! 貴女と違うところは、私は、頭を使っているところです。 貴女ももっと頭を使いなさい!」 だとおおおおおお~~~~~~ まじっすかぁ~~~~~~ その後、私達は、係りの男がちょっと席をはずしたすきに「あ!今だ!」と思い、孫をさそって 急いで違う係りの人に、紐をもらい、勾玉を首にかけ店を出た。 なんでしょうね?紙やすりで石を磨くのに、どんだけ頭を使うって言うのよ。 あっははは 面白い一日だった。
2011.08.02
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孫が遊びにきててPCをのぞく暇もなし・・・また書きますからごめんなさいね。どなたさまも、お元気でお過ごしくださいね。
2011.07.29
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1998年「ちょっと、パソコンでも触ってごらん」 と言って、windows98を買ってくれたが、 私はこんなものが私の脳みそにマッチするわけがないと、 最初から相手にしなかった。 ほったらかしにしたまま、約1年ほど経過した。 ある日、 ちょっとデスクトップに近寄って、スイッチを入れてみた。 なんとなく、でたらめにやってみたら、 ネットで、私の青春時代の映画に関する掲示板にであった。 思いつきでメールを送ってみたら 非常に真摯なメールが来たので、うれしくなった。 面白い。 パソコンが面白いと思った最初の出来事だ。これで、たとえ一人ぼっちになっても、パソコンさえあれば、ネットで元気になれる もう、決してさみしくない、大丈夫だと快哉を叫んだ。 後年 母にPCをおしえてあげていたら、 母はもっともっと長生きできただろうな~と思ってくやしかった。 でも、遅かった。 私がブログを作って、楽しめるようになった頃 母の命は風前の灯だった。
2011.07.15
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この前からずっと持ち物の整理に余念が無い私です。 いつ死んでも良いようにとがんばってるのよ。 まあ、日常のルーチンがあるのでそうそうやっておれませんが・・・ 多くの懐かしいカセットに入れた音楽は、 捨てがたいけれど 全部捨て去りました。ふっふっふ でも、 お金を出して買った、大好きなテープは捨てられないな~~と 思っていた。 どうしても捨てられないな・・・・と、思っていたのよ。 でもね、今日は キャスリーン・バトル(Kathleen Battle)の、 オンブラ・マイ・フ(Ombra mai f?) を、you tubeで、発見!!!!!! まったくすばらしい!!!! 美しい=====!!!!! すごおおおおお~~~~~い!!!!! 美しい姿といい、声といい。 完璧です!!!! かたくなに保存していたこの2800円のカセットテープは 何だったの? じっと、手の中のカセットテープを見た。 その瞬間 ポイっとゴミ箱に吸い込まれて、消えた。 良い時代になったものですね!!!!!! you tube ばんざ~~~~~い!!!!
2011.07.09
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PCが壊れていた1ヶ月間は、いろんな事ができた。いつもしたいと思っていたことを片っ端から実行したら、あまりにもすべき事柄が多くあって、私はいったい今までこの仕事をせずに、何をしていたのだろうか?と愕然とした。ある日、夫を誘ってお散歩に出てみた時だった。5分歩くごとに立ち止まって、街路樹の幹に手をあてて、ふう~っと息を吐いたりする夫を初めて見た。私は内心、ものすごく驚いていた。元気印の夫だったから、私のほうが早く死ぬだろうと思いこんでいたのだったがこれは・・・・・と、深く心配になってしまう。だったら、家の荷物の整理を早くしなくっちゃ!!と、決心した。いつも引越しの人生だったから、ついつい荷物を箱から出さない癖がついている。10年も開いていないダンボールの箱などは、何があるのか、開けて調べよう。いらない物か、必要な物かを区別して処分しよう。カビくさい絹の反物は、いちど洗濯してみよう。切り抜いたちょっとした記事をスクラップブックにちゃんと入れよう。あああ、それはそれは膨大な量です。こんな大きな仕事を何もしないで、PCばかりのぞいていたなんて!一大事だ。今しなかったら、いつできる?母が晩年、引越しした時のことを思い出すとつらい。あの時は、くたびれ果てて、判断判別能力が低下した。あういうことになってはならない。多忙な子供達に迷惑をかけたくないし。ビデオカメラに収めた家族の楽しい映像はDVDにおとすことにする。これは、昔のビデオカメラを得たことで、一番簡単に終わった。カセットテープに収録した、声だけの家族の語らいなどは、CDに落とそう。それが終わるのには、数ヶ月要することだろう。カセットテープをCDに焼くのは、CDとカセットテープの入るデッキがあるから難なくできるにちがいないと簡単に考えていたのは、間違いだった。まず、5000円で、小さな盗聴器のような録音機を買う。(モノラルで入るから注意)。その機械に、カセットの声をダビングする。それからその機械をPCにつないで、ハードディスクに取り込んでそれからCDにおとす。ふたてまも、いるのだ。涙30年も経った昔のカセットを回してみたら、テープがひっついて、回らなかったり、延びて、ふよ~ふよ~という感じになっていたりするのもある。小さかったかわいい子供達の声の語らいは、何時間聞いてもうれしく、楽しく、笑ってしまう。私の声も若いじゃないの~~うふっ大好きな音楽は、これから新しいCDを買えばいいからカセットテープを100本ほど捨ててちょっとほっとする。ホームビデオで写したテープをVHSビデオに落としてしまっていた映像はいちばん悪い。こんなの、DVDにダビングする価値ある?っと思えども、やはり、DVDにおとしておこう。家族の記録だから。VHSをまず、半分ほど捨ててから、とりかかる。VHSは、直にはDVDにダビングできなかった。まず、テレビのHDDに入れてから、それをDVDに再びダビングするのだ。めんどくさい操作だ。そして、DVDを全部ファイナライズして、これからどんなデッキでも観れるようにしておくことが大切。1回だけコピー可のテレビ放送は、DVD-RWでしか録画できないのに、DVD-RWは、ファイナライズができない設定になっていて、PCなどでは、観ることができないので残念である。(メーカー様のバカ)こんなにがんばって作成した記録も、私達が死んだら、子供達は、そっくり捨てることだろう。だれも蔵を持っていないし。私自身も、父がどんなにこころを込めて作ったであろう家族のきちんとした記録、大きな茶箱にあった8ミリや、16ミリの映像、世界旅行した時のスライドの写真の数々がまとめてあった木箱、本にまとめてあった、多くの執筆。写真の入ったデカイ茶箱5箱を、母が亡くなる3年前に新しいマンションに引っ越した時、私が、全部、ポイと捨てた。広々としたマンションだったが、小さな倉庫しかなく、同居の兄夫婦が使用したら満杯になった。涙
2011.06.26
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おはようございます~梅雨ってこんなに毎日雨が降りました?ちょっとめずらしい梅雨でしょ?今年。すごく飽きずに降るのね。ちょっとツイッターみたいな書き込みしました。何も書かないよりいいかな?
2011.06.21
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こんにちは~~やっとパソコンが修復しました。ああああああああ^^皆様お返事たくさんありがとうございました。私がどうしても自分でやってみたいという意見は10人ほどの人々に反対されて、ついにというか、やっぱり山田電気にお願いしました。送料3000円とHDDの取替えに新しく買った状態に戻すという作業で5万円と少し。PCを修理に出してからそうだ、あの遼銀河さんの意見をまだ聞いていなかったな~~と。で、今日はやっぱり思ったとおり自分でやってみろとの言葉でしたのね!!でもね、その言葉を読むまえに出してしまったからしかたないの。でも~~~読まなかったからよかったかも、6万円弱で新しいWIN7を手に入れたと思おう~~思える?思う?思った?思いたい。思うのだ!!あっはっはっはっは。さあ、新しく出直そう~~~~~~~で~boubonusさんったら新しい言葉を教えてくれてありがとう。← (ふてた声色で言ってます)
2011.06.18
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こんばんは~今日からツイッター感覚で書いてしまうのだ。私のNECのノートパソコン、Windows7が出た直後の2009年10月に買ったのよ。それが、壊れそうなの。悲しい======スイッチを入れると、画面が真っ暗になって「TOSHIBA MK5055GSX警告すぐに、データをバックアップして、ハードディスクドライブを交換してください。故障が発生する可能性があります」と、白い文字で出るのよ。(F-1)キイをたたくと一応パソコンは起動するけど、何だか、この画面も不安定。涙ほんとうに、くそくらえなのよっ!わ~~~~~~ん涙わ~~~~~~ん涙わ~~~~~~ん涙では、そろそろおやすみなさいませ。
2011.05.26
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1993年に、私達は引っ越しをした。82才の母をひとり残して、他県へ赴任するけれど、所詮、私達はそれまでもずっとそういう人生だった。母は、ひとりで、私のすぐ上の姉、植物人間の夏子姉さんを看病をしながら、自分も度々入院をくりかえしていたので、私はしょっちゅう5時間かけて、母の見舞いに帰っていた。その頃、「母の年令なら、いつ亡くなってもしかたがない。そうだ、ビデオを撮っておこう」と思いついて、帰る度に撮った。そのテープが20本くらいあるので、それをDVDに移すことにした。ビデオカメラがないとダビングはできない。でも、すでにあのビデオカメラは処分したし、ダビングを業者にお願いすると、数万円もかかるそうだ。古いビデオカメラは日々進歩してしまって、どこにも売ってはいないし、いろいろな人に聞いても、だれも持っていない。出入りの電気屋のお兄ちゃんに聞いても、どこにもありませんだと~涙そこで、10年前の知り合いのカメラ好きの人に、電話で聞いたところ、大掃除して、もう、捨てようかと思っていたから送ってあげると言ってくれた。よかった~~!間に合った。それから毎日毎日DVDにダビングをしている。疲れました。母の88才の誕生会を盛大にした日から、ずっと元気でいてくれたから、うれしかったが、亡くなる一ヶ月前にお見舞いとお世話をしに家に行った時に撮ったビデオが、最後になった。急に、兄嫁からの電話で、「もう、助からないから、早く来て」と言うのだ。びっくり仰天した。汽車の中に、何度も電話があって、「もう、だめかもしれないから、早く!」と言われる度に気が気じゃなかったが、母は、「明日は、貴女の誕生日だから、ハッピィーバスデイの歌をうたってあげる」と言って、歌ってくれた。その夜、母のベッドの脇に一人で、一晩中一緒にいることができた。次の日、母は、一日中目をつぶって、ベッドの枠をぎゅっとにぎりしめて寝ていた。夕方、6時半ごろ、母は、力尽きた。前の月にビデオを撮った時、3時間も自分と夫の人生を語りつづけた母。すさまじい気力だ。もっともっとしゃべりたかっただろうに、私のほうが疲れてしまって「お母さん、もう、これくらいにしましょうよ」と言って終わった。あんなに強い強い母が逝ってしまった。ビデオを整理していると、こころから、母の尊いまっしぐらの生き方に感嘆する。こんな母を持って生まれた私、感謝の念でいっぱいだ。私は長く、ビデオを見ることができなかった。何故なら、あまりにも母が恋しくて、つらすぎて、泣いてしまい、もとに戻れないような気がしたからだ。あれから、10年経ったし、早くDVDにダビングしないと、テープが劣化して、再生できなくなっちゃうし、もう、再生のビデオカメラも手にはいらないと思い、やっと始めた。ダビングしながらおそるおそる見たら、泣かずに見れてよかった。お母さんありがとうございました。
2011.05.22
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私の高校時代の絵を飾ることにしてまず、私の自画像を飾ってみた。それは、自分自身の大きな絵だからその辺に掛けるのも気が引ける。だから、ひっそりと自分の部屋の壁に飾った。そしたら、やたらに絵が強すぎて、壁にしっくりなじまない。ふ~ん。しょおもない絵を描いたもんだとがっかりしたが、何度も見ていたら、それは、私の最高傑作だと気がついた。高校生の絵だから、ひどく稚拙であって、巧みではないのだがぐいぐいと自分を浮き出させて強烈である。純粋に自分の絵を描いているのだ。何にも囚われていない。誰かによく見せようとも思っていない。良い構図とか、より良いポーズなどにも配慮がない。ただ、真正面をぐいぐいと描き、自分自身の内面が露出した純粋な絵だ。つたない絵だが、残っている絵は他にない。私の絵画人生は未完で終わったのだから、これは、私の人生の最高傑作であろう。夏子姉さんの絵にも想いが行く。夏子姉さんの絵は誰にでも喜ばれるだろう。 けだし、どんな家や、壁にでも、ぴたりとマッチして 家や壁を上等に引き立ててくれるだろう。 クールで垢抜けている。 100歩譲って、飾ってあってじゃまにならない作品だ。 それは、私のように、自己顕示欲が全くない ひそやかにその壁や室内で輝く作品なのです 私の絵はどろくさくて、 どうかすると絵だけがめだつ。部屋にしっくりこない。 部屋を身奇麗に引き立てない。 私の絵を掛けたらその辺がださくなる。どなたかの何かに役に立たない作品なのです。 私の絵が似合う場所は、アトリエなのです。汚れたアトリエの隅に無造作に置かれるか、イーゼルにちょんと忘れられたようにキャンバスが残っているそんな場所か、薄墨いろに汚れたアトリエの壁にポツンとちょっとゆがんで掛けられたら似合うのです。変です。不思議です。 そういう絵は 、もしかしたら、その絵のために作った場所でなければならないのかもしれません。 (どやがお)えへへよく大きなホテルとか、大きな建築物の玄関ロビーなどに大画面の絵やタペストリーや、壁画が高名画家の名で描かれていたりします。また、緞帳に有名な画家による絵が織られていたりします。その大抵は、ダサ~~~イ!と、私はいつも思わせられる。何故こんなダサダサの絵を大切な緞帳などに用いるのだろう・・何故こんなダサダサの絵を大切な玄関ロビーの壁に描くのだろう・・いつも、がっかりするのです。でも、私は分かったのです。私があるとき、友人の詩集の挿絵を頼まれた時出来上がった本を開いて、あっ!と叫びました。私の絵が、あまりにも強烈で、詩がかすんでしまったからです。それは、明らかに失敗でした。友人は部屋にあふれた詩集の山を、誰にも売りませんでした。捨てたのです。私の挿絵は、私の絵であって、詩を輝かせる挿絵にはなりませんでした。私が高校の美術クラブで勉強した芸術は 芸術のための芸術なのです。純粋芸術なのです。 夏子姉さんの勉強は インダストリアルデザインでもあり ドレスデザインでもあり、 デザインイラストでもあったのです。 そして、イラストレーターとなり、デザイナーとなったのです。出発点が全くちがうのです。 私の勉強した純粋芸術は、夏子姉さんのめざした、何かの為に、誰かの為に心地よい好みの何かを引き立てるためのデザインとは、根本的に出発点で違うのです。不思議なことですね。 以前、友人から母親の写真を渡されて、肖像画を依頼されたことがあった。私は、写真の着物の着こなしが、変だなと思ったけれど不細工なものは、不細工に描いた。すぐに友人から描き直して~と言われた。2度とは、肖像画の依頼はなかった。 だはは::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ありがとうございました。皆様からの大きなコメントが私の支えとなりました。楽しかったです。この辺で絵は、削除させていただきました。ほんとうに、ありがとうございました。うれしかったです。
2011.04.29
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日本列島の北の方から、南のはしっこに引越してきて、体調が狂って病気ばかりしているが、少しずつ生活に慣れてきてもいる。若い夫婦がそばにいてくれて、よく動いてくれるし、私がこちらに来てから生まれた赤ちゃんは、私が世話をしなくてはならなくなって、一時は非常に大変だったが、離れて育っている自分の孫に感じたことがなかったほど一緒にいると、可愛くてたまらなくなってきた。すこしずつだが、ちょっとだけ心にゆとりが出来たらしい。そうこうしてあがいてるうちに何故か私が高校生の頃に描いた絵を額縁にいれて飾ってみようかなと言う気分が湧いた。その絵というのは、私が結婚する時、描いた絵や道具を全部ゴミ箱に捨てたんだけど母がこっそり拾って、しまっておいてくれていたものだ。41才のころのある日母の家の倉庫の中を片付けていたら油絵を4枚発見した。驚いた。懐かしかった。青春の忘れ物。お母さんありがとうございます!最近、これらを額に入れて飾る気持ちが湧いた。52年ぶりに、やっと、そんな心が起きたのが不思議だ。考えてみたら、今、この絵を飾ってやらなかったら死ぬまで陽の目をみないでしょ?今日、額を注文した。それに夏子姉さんの絵も額に入れて飾ってあげたい。姉の絵は5枚だったか・・持っている。3年ほど前に、姉の勤めていた会社がリニューアルをした。保管室から出てきた姉の絵を係りの人が見つけて人づてに送ってくれたのだ。姉は、だれかにあげようと思ったらしく、渾身の作品が2点ある。涙
2011.04.04
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まだ元気はないの。しばらく前から風邪をひいて、いつものように布団の中でごろごろしていた。とつおいつ色んなことを思う。まず、大震災。私の親類の一家が去年女川に赴任した、将来を期待される青年だった。妻と2人の子供と、元気いっぱいに任地に赴いていた。津波の警報を知って彼は妻と子供達を先に避難所へ逃がし、自分は、近所の80代のお年寄りを連れに行ったまま帰ってこなかった。妻と子供達が避難所について、ふりかえるとまさに自分の家が濁流にのまれた時だったと。私は無念だ。しのぶに耐えない。思うだに胸かきむしられるようだ。私の長女の下の女の子が中学校を卒業した。「それが、答辞を読んだのよ」「え”=========!!!!!」その娘は、あまったれで、いつもふにゃらふにゃらしていて家族の中では成績が抜群に悪いのを母親はいつも嘆いていたものだ。昔は、成績の1番の男の子が答辞を読むのが常識だった。何が起きたのか?しかも、紙を持たずに、そらで答辞を述べたそうだ。はあ?分かりませんが、名誉なことです。感心してお祝いを贈った。思えば、彼女は、小学校4年生の時にその学校に転校した。その学校に同じ頃転校してきた男子生徒がいて、その子がいじめられていた。ある日、彼がまた取り巻かれていた時、彼女はつかつかと歩み寄りボスの足を蹴飛ばして、「いじめないで!!」と叫んだそうだ。ボスの態度が一変して、いじめはなくなったそうだ。ああ、ああいうこともあったなぁ。
2011.03.26
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石川遼くんの勝負服は、赤いゴルフパンツだそうだが、以前 ある女性議員さんも赤いスーツが勝負服だとおっしゃっていた。 私の勝負服は、何かな?と考えて驚いた。 私はスーツを持っていない。 それよりも、着たこともないことに気がついた。驚きました。 スーツを着たことが無いなんて・・信じられないことだ。 ふ~む。これは一体、どうしたことだ?? 私は、お給料をもらうような職場で働いたことがなかった。 いつも働きすぎる傾向の自分だが、常に、夫の影で、 地味に助っ人をしているだけで、スーツを着て出るような 硬質な日のあたる場所には出て行ったことがなかった。 私の人生はエプロンのおばちゃんだったかしら? いやいや、 実は、スーツを着た人は大好きなのだが、 自分が着るのは、たまらなく嫌なのだろう。性格のゆえんだ。 ニューヨークでは、ベアトップドレス(肩紐なしのドレス) を買った。買う時から、「こんなドレス、一生着ないだろう」と 予測したとおり、あれから一度も手を通したことがない。 静かに、引き出しの奥で 私が時々ながめてくれるのを、じっと待っているだけだ。 私が、密かに心底にっこりして、「うふっ」というかすかな声を聞くだけだ。 薄い、ジョーゼットの白地に黒のドットの模様は 母の好きだった夏のドレスを彷彿とさせて 私をとりこにしてやまない。 大好きなのに、着るのは嫌なのだから仕方が無い。 私の勝負服は ピンクのカーディーガン。これかな?と考える。 そのピンクのカーディーガンは、燃えるようなばら色のピンクで 下品になるほど色濃くもなく、平凡になるほどに色薄くもなく 胸の所々に付いたラインストーンのきらきらは、 目立つほどでもなく、ひそやかなきらめきで、 私の女ごころをとろけさすに十分である。 だから、かれこれ、5年も着ているから、 友人達は内心「またそれかい、いいかげんに飽きたぜっ! もう、見たくない」と思っているだろう。 実は、こちらに引越してきて知り合った、夫の仕事関連の奥さんがまた、 勝負服ならぬ、勝負ネックレスをして来る。 そのネックレスは、木製の色とりどりの玉のネックレスで、 可愛い少女のおもちゃのようであり、 60代の奥様が、ちょっと気取った服につけるにしては カジュアル過ぎて、おかしい。 それを、毎回つけて来るのだ。よほど、お気に入りなのだ。 「奥様、少し、考え直してはくださいません?」 と、思ってしまう。お互いさまだ。あはは・・ 昨日は、こちらに来て初めて ピンクのカーディーガンをクリーニングに出すことにしていたが、 心配である。下手なクリーニングにかかると ピュアーな澄み切った色が台無しになることもある。 白の夏の帯が薄黒く変色して返ってきたことがあった。 ピュアなレモンイエローの綿のブラウスがやはり、薄黒くなって 捨てられるのを待っている。 これは、人に貸してあげたら、クリーニングに出されてしまったから。涙 遂に、カーディーガンを自分で洗うという暴挙に出た。 思いつきで、頭髪に使用する上等のダメージヘアケア用トリートメント液を 仕上げに使ってみた。 これが、大当たり。ビックリの助。 カーディガンは、ふわふわのモヘアが、より柔らか~く、ふ~わふわになって、 表面に頬をあてると、滑るようにすべすべの、つ~やつやの、 より軽い感触に仕上がった! めでたし、めでたし。
2011.03.06
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こちらに引越して来てからは、近所のお婆ちゃんで、しょっちゅう温泉に入り浸りの方が、おまけでもらったチケットを下さるので、私達もたま~~に車で30分走って、温泉に浸ります。ここで、塩サウナというのを知りました。体を洗ったあとに、サウナで、塩を体に塗って、10分ほどじっとして、それからさっとお湯で流します。驚いたことに、かさかさしていた肌が、しっとりお肌に変わり、老人性のカユカユの症状もさっと消えました。あまりにも不思議だったから、昨日も塩サウナにいましたら、小さなお婆ちゃんがヒョコヒョコ入ってきて、「わしゃ~この塩サウナに2度入ったら、湿疹がきれいになってね~~」とおっしゃるのです。びっくりしました。塩って、お肌に良いんですね?まあ、無駄にしっとりしてもねえ?という声もあるが。うふこの温泉は、去年倒産して、新しい経営者がリニューアルしたそうで、新しくて、気持ちがいい。真ん中に私の大好きな亜熱帯植物が小さなジャングルになっている。いつ行っても、がらがらに空いているけど、大丈夫かしら?でも、田舎って、ほんとうにいいな~~。
2011.02.24
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上顎の右の歯のどこかが痛くなって15年にもなる。前前任地の歯医者にかかった時は、どこも悪くない、3軒目の医者には、「もっと悪くなってからきてください」と言われる始末。次の地方に転勤してからも良さそうな医院をみつけてかかったけれど、どの歯が痛むのかは、解からなかった。最後に大学病院の口腔外科かなんかに行ったら「原因があっても痛くない病気もあるし、痛いのに、原因がない事もある」と、訳の解からん禅問答の説得をうけて諦めた。ところが4月に、こちらに引越して歯が強く痛くなって、ついに激痛が起きるようになって、ようやく、どの歯が痛かったかが分かった。それまでは、どの歯が痛いのか、自分自身も分からなかったのですね。今度こそと思い、友人お勧めの医者を紹介してもらって、さっそく行ってみたら、古い汚いビルの中の狭いところを借りての治療所だった。豪邸を建てていたら、ちょっと心配だが、こういう場所での仕事ぶりなら赤ひげ先生ではないだろうか?とも思う。しかし、半年にもなろうかというのに、激痛は治まったが、なかなか芯からの痛みが取れない。どういうわけか、痛みの原因が分からないのだった。遂に、痛みの原因をさぐる為に、かぶせてあった金の冠を取って歯茎を切ってみるということになった。執刀医は院長さんでなく、息子さんだった。20代か30代の若い先生だった。ちょっとパーマをかけたロン毛の男だ。あやしい。1時間半もかかった。最後には、5針ほど縫って終わった。すご~~~~く、大工事という感じで汗みどろという力仕事だった。全く痛くはなかったが音とか、力任せにがりがりやられるのが恐かった。じっと目をつぶって耐えていた。歯の治療が終わってから、その若い先生が私の横に座って、にこにこしながら言った。「奥歯にひびが入っていました。非常にめずらしい状態です。普通、神経のある歯は、ひびが入ったりしません。何か思いあたることはありませんか?」私「思いあたりませんが・・」若い先生「あなたは噛む力が非常に強い人です」私「じゃあ、これからは、食事の時は、やさしく噛みます」若い先生「いいえ、食事はしっかり噛んでたべていいのです。ただ、普段の生活の中で、歯をくいしばる癖があるのです。自分がどこで歯をくいしばっているかを、みつけてください。たとえば、私の患者さんで、ひとりいました。その人はトラックの運転手でしたが、自分で歯をくいしばる時をみつけました。いつもはリラックスしているのに、高速道路に入る時、歯をくいしばっていることに気づいたと言っていましたよ。朱鷺子さんも、どこで歯をくいしばっているのか、今日から意識して暮らして見つけてみてください」若いのに、しっかりしてはる~~「一応、元にもどしますが、痛みが取れないようでしたらその時は神経を取って、金をかぶせましょう。」1年ほど様子を見るそうだ。たったの3000円だった。5万円を覚悟していたのにやっぱり赤ひげ先生だった。( 豪邸の医院には、気をつけませう。)
2011.02.19
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今年のお正月休みは、体調も悪いし、どこにも行きたくないなと頑なに思っていたけど夫が、「折角だから、ハウステンボスに行こ」と言う。私達を頼りにして来た人を案内しなくてはならない事が起こるかもしれない。下見をしておきたいということだったので、腹を決めて2泊3日を、佐世保市のハウステンボスに行くことにしたのだ。20年ほど前にできた小さなディズニーランドというようなテーマパークです。オランダ村とも言って、オランダの街を再現したようなところです。20年間ずっと赤字だったそうですが、経営者が代わって、去年初めて黒字になったと言う。私達の行った3日間は、まあ、寒い冬で、シーズンオフで、ウィークデイだったから、だれもいないかな?というくらい、閑散としていて、ここ、もう、だめかも・・・という感じ。あんまり寂しくて、気の毒だった。それでも、帰る日は、金曜日で、駅には、続々と客が降り立って、皆、ハウステンボスに吸い込まれて行っていたので、よそ事ながら、ほっとした。一番驚いたアミューズメントは、まあ、10分ほどの子供用の、ちょっとしたアニメの上映だと思って入った映画館でした。これが非常に見ごたえがあった。3D映画のめがねを配られてみた映像がほんとうにそばに飛び出して見えるのです。ほんとうに、目の前まで飛び出してきて、手をのばせばつかめるといった立体感覚でした。その映画の中に自分が入りこんでいて、その中で動いている体感。私は、映画の「アバター」の3D映像を観たとき、3Dと言っても、何も目の前には飛び出して来ないのだな~と、ちょっとがっかりしたところでしたが、これは、全くちがいました。これこそが、3Dではないだろうか。あの、「アバター」は何だったんだろう?このアニメに比べたら、3Dに関しては、普通の映画となんら変わらないような気がしたもの。ネットで調べましたら、MEGA3D360-超立体3Dシアターというのだったらしい。世界中の映像システムでも類を見ない全周位立体映像(全周360度)スクリーンシステムを採用し、 平面+3Dシアターよりもさらに映像の飛び出し感を体感できるものだそうだ。上映時間は10分程度で短いのだが、すばらしい。
2011.02.17
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2010年の暮れには、こちらで出来た仲間6人で忘年会をした。お昼食を食べに行く。我が家の正面500メートルほどの場所に背の高いビルが建っているのだが、その屋上の展望階の一角にすてきなレストランがある。名前から受けるイメージは、古い日本情緒がうかがえるのだが、ガラス張りの合理的な雰囲気のレストランです。なんと言ってもわが家が、まっすぐ真下のほうに、全貌を現していて、うれしい。いちばん良い席を予約した。金額はたったの一人2000円。お昼にしても安い。(飲み物は別)私はスクリュードライバーを頼み、夫と、若い人々は生ビール。若い奥さんは、ノンアルコール飲料。ゆっくり、静かに、楽しく食べて飲んで終わり、展望階を一周して、町を眺めた。お料理は、田舎料理で垢抜けないものだった。我が家の夕食程度かな?ちょっとがっかり。↑(たった2千円で、文句言うな? ハイ)それでも、この田舎にしては、まあまあだ。なんと言っったって、私のきびしいおめがねにかなう料理なんかあろうはずがないじゃ~~~~~ん! あっはっはっ
2011.02.14
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去年、BSで怖い絵というシリーズがあった。「怖い絵」というテーマで古典の絵画を論じるのは、話を面白くする為に、やっぱりムリがあって、こじつけなども起きることだろう。私は絵は、ただ、偏見を持たず、まっすぐ見てほしいなと思うけれど、ちょっと録画するチャンスもあったので、気になるのだけをチョイスして見た。テレビでは、絵をちゃんと大きくアップで観せるからディテールまで、よく解かり臨場感があったし、なかなかしっかりした番組になっていた。ヘンリー8世(エリザベス1世の父)の絵がある。ヘンリー王って、まるで殺人鬼のようだ。側近を次々に処刑し、愛する妻でさえ、6回の結婚のうちの2人までも罪を捏造し、無実の罪のもとに処刑するのだ。あの頃の処刑は、斬首か、火あぶりだ。恐いね。しっかし、そういう大英帝国でも現代まで営々と続いておれるというのは、神様はどういう仕組みを創作なさっておられるんでしょうかね?わかりませんね。ほんと。特に私の選んで観たのは、断頭台に上る時のアントアネットの絵の回だ。私は自分の眼が正しく、絵を読んだことがうれしかった。つまり、この絵は、ギロチンにかける前でひどく憎しみを持って描かれたから、わざと醜く描かれているというのだが、絵の中のマリーアントワネットが私には、きりりと見えたからだ。毅然として死にに行くという気概があると見た。そうしたら最後に、研究者の人もそう言っていた。ここまではよかったんですが、刑場のクロッキーを描いた、ダヴィッドは、新古典絵画の中では私の好きな画家の一人だ。特に、若きナポレオンが白い馬に乗って、こちらを向いて金髪を風になびかせ馬は、後ろ足で立ち上がっていなないている。そんな美しい絵があるが私の大好きな美しすぎるほどの絵だ。まるで、現代のアニメ漫画のヒーローのように、CGで描かれたように、美しい絵だ。そんなかっこいい絵を描いた宮廷画家のダビッドが、以前は荷馬車に乗せられ、引かれていくマリーアントワネットに憎しみを持ち、貶めるような気持ちでクロッキーを描いたのだ。革命組織の一員だった。しかし、彼は実は、宮廷の中に取り入るのがうまい男だった。革命軍に加担したと思えば、ピエール・ダントンを平気で裏切ってしまう。それからは、ナポレオンに取り入って、宮廷画家になったそうだ。卑しい男だったらしい。それを知って、少なからずがっかりさせられた。 それと、私が小学生の頃から好きだったベラスケスの描いた「皇女マルガリータ」の一族の絵の話は、大変興味深かかった。スペインの王族の純粋な血を絶やさないようにたとえ病弱な人間が生まれてもいい、早世してもかまわないから同属の結婚をくりかえす変な時代だったということです。皇女マルガリータは、可愛い3才の時からずっと描きつづけられた。肖像画の本人が産んだ王子は、ひ弱に生まれ、ひ弱に育ち、早世する。こういう話は別に怖くはなくて、知識として面白かった。ただ怖がらせたいという話は、あまり好きではないから、テレビは、3話しか観なかった。 ある日、下の娘が私の誕生日に本をプレゼントしてくれたが、それが、「怖い絵」というテレビの放映のネタ元になった本だった。 (親孝行じゃな。うふ)
2011.02.11
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10年ほど前から、テレビで騒がれるようになった近所の迷惑者、嫌われ者の変人は、ゴミの家の住人で、家の中は勿論、家の周辺にまで、ゴミを重ね、悪臭をブンブン撒き散らし、漂わせて、近所中の顰蹙をかっているお話。3年ほど前からは、普通の主婦やOLさんが、部屋を片付けられず、部屋に、物をためこんで、にっちもさっちも行かない状態だという記事が賑わうようになった。今期ダンシャリという言葉ができたそうだ。断と捨と離、という文字をあてるらしい。片付かない部屋の物のほとんどをパシッと捨てて、さっぱりとした部屋によみがえらせるという意味らしい。しかも、講習会に3万円も出して、ダンシャリのテクを勉強しに行く女性が多いそうだ。全くばかばかしいが、その講師が、ある女性宅のダンシャリお手伝いをするところのドキュメントがあったので、ちょっとだけ見ていると、バッタバッタと勢いよく捨てさせられて、ついに、トラック一台分も捨てられていた。私はつい、「うちには来ないで~~」と叫んでしまう。(あほや)でも、ひとつ気に入った言葉があった。「それは、捨てなくていいんです」ときっぱりおっしゃった物。たとえば思い出の写真とか、見たら、元気が出る物は、捨てなくていいんですって。ははぁ~~~よかったぁ~~!なるほどね~~~1年も着ないものや使わない物は捨てなさいと言うからには、30年も開いたことが無いアルバムも、捨てなくっちゃならないのかな・・・・・とちょっと不安だったがこれは、捨てなくていいらしい。うふ (あほや)かくて、我が家も、物で埋まってしまうのでせう。涙・・・・・
2010.12.11
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4月の引越しで、北の端から南の端に羽をおろした朱鷺子は、大気の変化にはまだついて行けないのでしょう。体がよたよたです。喉が痛いなぁ~、しんどいな~で、激太りが心配される仲間由紀恵さんコマーシャルの「のどからくる風邪にベンザ゙」という薬を飲む。便座を連想させるベンザ゙だけは絶対飲みたくないと頑なに思っていたけれどtak_shonaiさんのブログを読めば日本に、洋風便器仕様がスタンダードになって、便座という言葉がしっかり定着する以前からベンザという薬はあったのだからしかたがないのだとおっしゃるので納得したのだった。ベンザを一箱飲んだけど、ひどくなった。とうとうやっこらさっと、医者に行く。「喉に増殖したばい菌をやっつける強力な抗生物質を出しましょう」迎えの車を待つ間、家の方向に向かって歩いた。歩いても歩いても車が来なかった。携帯を取り出す。「車、もう、出たかしら?」「とっくにでましたよ」私は、並木にもたれて待っていると待ちくたびれた頃、やっと車が来た。「奥様、正反対の方向にずいぶん長く歩かれましたね。どこにもおられないから心配しました。」だと~頭、どうかなったのね。徘徊老人、帰り道を喪失するの巻。次の日の新聞には載りませんでした。めでたしめでたし。今日は少し元気を回復しています。
2010.12.05
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友人の夫が病ということで、車で3時間かけて見舞いに行った。友人は、話の中で「○○おば様が90才で他界されたそうね?」と、聞いた。私はびっくりして、いつ亡くなったの?どこからその情報が?と思う。赤の他人の口から、近しい親類の訃報を聞くとは、驚きであったが、さりとて、私に正式に知らされていたとしても、どうしたものかと思わないでもない事でもあったから、知らされなかった事は、いたしかたがなかった。亡くなった女性の名を朝子としよう。朝子は母の長兄のたったひとりの娘であった。朝子の長い人生の中では、心を許せる人は、私の母ただひとりだった筈なのだが、10年前にちょっとしたことが原因で、母と袂を分かち、母の葬儀にも姿をみせる事はなかった。母の長兄は、若い頃、肺病を患った。その頃の肺病というのは、死に至る病だったが、母親の献身的な介護で完治した。入院中は、毎日毎日、体に良いという食べ物やおいしいものを届けて食べさせ、どこのお大尽かと思われるほどだったそうだ。彼は、ビロードのような眉毛と、二重の大きな黒い眼であったから、看護婦長さんが惚れてしまって、退院してからは、おしかけ女房におさまった。結婚してみると、家計は、姑がにぎっていたし、(私の祖母のこと)彼は、全く働かず、本ばかり読んでぶらぶらしている男だったので、愛想を尽かし、あっさり別れて出て行ったそうだ。しかし、また次にすぐ、2人目のおしかけ女房があらわれたそうだ。その女性が、朝子の母親だ。朝子の母親も朝子が18才になったころ、地方のやくざの親分の愛人になって、夫を捨てて出て行った。そして、日本舞踊の師匠となって暮らしたそうだ。朝子は、そんな母親を許さず、母親が会いにきても決して会おうとしなかったそうだ。朝子は、ある大きな会社の社長秘書になっていたが戦争が始まっても、実家には戻らず社長とともに会社を守っていたところ爆撃に遭い逃げ惑ううちに社長の2号さんの人生を生きることとなった。あんなに嫌った母親と似たような道を歩むとは・・・彼女の理解者は私の母、ただひとりだったのにね。強情な女だから・・・ダークマターの満ちた宇宙のどこかで、もう、母と再会しているかしら。 合掌。
2010.11.13
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台所の食卓テーブルを新しくして、お正月を迎えたいと思い何軒も何軒も家具屋さんをはしごして気分にぴったりの物を探しまわった。疲れ果てた。夫がいいかげんな中途半端な物を買うよりも家に合わせて、ちゃんとしたテーブルを作ってもらった方がいいんじゃないか?などと言い出し、やたらかっこいい話に発展。ドイツ人が工房にいる、いかにもそれらしいエプロンをつけた男の家具屋さんを尋ねる。いろいろと見積もりの前段階の話を聞きながら、2軒ほど巡る。一番安いものでも、それほど良い木を使っていなくても、どっしりとした、すばらしいクラシック。得意そうに「これでしたら、30年以上もつはずです。」と、おっしゃる。大いに感動し、気持ちがその方向に傾きかけたけれど私はつい、「家のほうが、もつかどうかわからないのに、30年もつ家具と言われてもね」と、自虐ギャグをつぶやいてしまう。レストランでお昼を食べて近所にある、xトリをのぞいて帰ろうと提案する。そこには、私らしい軽めの好みの、すってきな家具がぞろぞろあった。10分の1の安さですものねぇ。テーブルの条件のひとつは我々は、最近引越しして、お昼には、若い人と一緒に食事をする。その若い夫婦の赤ちゃんが座る椅子を、テーブルにくっつける事ができるか、ということだ。これなら良いと見定めた品物を別の日に若い人に、予約注文をするように店まで行ってもらった。彼から、電話が来る。開口一番「奥様、どうか、おちついて、しっかり聞いてください。」私は、何が起きたのかとどきりとする。事故でも?と思い、とりあえず、急激に暗い気持ちに落ちるのをおさえて 「どうしたの?」若い男「あのテーブルには、赤ちゃんの椅子を取り付けられませんでした」があ~~~~ん。(馬鹿にしないでほしい。私がそんなつまらないことで キイキイ騒ぐとでも思ったのか? どうか、落ち着いて、しっかり聞け?だと?失敬な!!)と、内心思う。しかし、すぐに私は反省するのだ。わざわざそんな言葉で、たしなめられるほどに、自分の日常は、感じたままを、あらわに言って騒ぐのだろうか。若い人は、私のおおげさな表現に、とまどい、憮然とすることが多々あったのであろうか。普通の68才のお婆さんならば、どんな事態が発生しようとも、静かに、落ち着きのある麗しい態度と言葉で、おっとり対応できるのが分別であろう、しかるに、日常が、いつでも、頭の中が空っぽのちゃらちゃらの女の子風におかまいなく騒いでしまう私なんでしょうかねぇ。少なくとも、その若い夫婦には、私は、変なばあさんだとそう思われているんでせう。ああ、なさけない・・・・・・・話がこんな落ちになってなさけない・・・・・
2010.11.02
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NHKで、認知症の人には、どう対応したらよいか?と言う番組があったので、少し観た。番組に出ていた老夫婦は、夫が介護する人で、妻が介護を受けていた。認知症の妻は、汚れた下着をベッドの下に隠し、風呂に入らず、夫を否定し、部屋の隅であっちを向いてかたくなになっていた。老いた夫のほうも、へとへとで、心臓を患っていた。心中しようかと思う人の気持ちがわかると言って声をつまらせた。行き詰った夫は、医療サービスによる介護の仕方を学ぶことになった。学んだ介護を実行するうちに妻の様子が、劇的に変化した。言葉を交わすようになり、料理をし、買い物に行き一緒に喫茶店でお茶するまでになった。妻は、ぼけていても「わたくし、お料理大好きなんですの」と、美しい言葉を話されるのでした。以前の痴呆医療では、いつも、薬品で凶暴を緩和したそうだが、現在の医療は、患者の気持ちを大切にするテクニックを使うそうだ。★文句をつけない★急がせない★否定しない★説得しない★誇りを傷つけない★怒らないこれは、その介護のテクニックのほんの一部分ですけど、私には、「説得しない」という項目が、驚きでした。説得されると、いつも、自分の要求を拒否されているという苦しみが脳に溜まり、それが原因となって、かたくなになったり、凶暴になったりするらしい。その妻は、窓を開けていたら、どろぼうが入ってくる、のぞかれる、と何度も窓を閉めてほしいと言ったそうだが、夫は、「大丈夫だよ、だれものぞきはしないよ。どろぼうも入らないよ」と、いつも説得をしていたのだった。介護の方法を学んでからは、「そうかい」と言ってカーテンを閉め、忘れたころに、開けるようにしたと言う。私の父がアルツハイマーで、入院していた時だった、「さあ、家にかえろうか」と、父は言った。私はやさしく、「お父さん、ここが家なのよ」とかなんとか言って、説得したものだ。父は、「あ、そうか」と、すぐに納得して、ベッドに寝ていてくれたからよかったし、全く凶暴にはならなかった。けれど、心の底で、家に帰れない哀しみが溜まっていたのかも知れない。お父さんごめんなさい。
2010.10.28
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姉の友人の一人に深窓の令嬢がいた。彼女は、本物のお嬢様で、ちゃらちゃら銀座の和光に出向いては、あのころの1万円は、今の10万円の感覚であったが平気で、数万円の買い物をするのでした。彼女は、W大の仏文科だったから、私にもたまにボードレールの詩なんか読んでいただいたことがあって楽しかった。1950年代の終わりでも、おいしい物がまだまだ無かった時代だったがチャーハンとか、スパゲティーなどの食べ物が新しく巷に出回り始めていた。女子大生は、いつもお腹を空かせていたが、ある日、おいしい食べ物の話になった。私の父が、もう、おいしい物は食べつくした気がするから、それほど、おいしい物を食べたいとは思わなくなったと言ったことを思い出してうっかり話題にのせた。くだんの彼女は、「あら?お父様は、パリで、フランス料理のコースを召し上がって?」と即座に詰問。「それを食べていらっしゃらないで、そんな事をおっしゃるなんて・・・」と、スパリと切り捨てられてしまいましたとさ。まだ、日本では、外国に自由渡航ができない頃のお話です。
2010.10.16
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つらつら思うに、2012年の春が来れば、私達夫婦は、金婚式だ。結婚50年も経つのか~~~と、今更ながら、驚いてしまう。よくぞ、我儘者の私が、夫と一緒に生きて来たものだな~と感慨深く思う。若い頃は、いつもほんの些細なことで腹を立てもう、こんな人とは、一緒に暮らせない、別れてしまおう、別れます、出て行きます、子供を連れて出ます、ひとりでやって行きます、などと何度も思った。しかし、私がいなくなったら夫が悲しむだろうな~とか、両親が悲しむだろうな~等と思えばやっぱり、その言葉は、一言も口には出せなかった。こころの中で葛藤しては、気を取り直し、やっぱり落ち着くところに落ち着くのだった。どんなに腹をたてても、原因と来たら、あほらしいほど、些細なことばかりだったので夫は、まさか私が、別れようなどの思いを抱いている事などに考えが及ばないようだった。私を信用しきっていたのか、たかをくくっていたのか、まあ、どちらも本当だと言える。また、夫はがまん強い、ねばり強い男だったから、私のすねた態度にも、じっと嵐が過ぎるのを待っていたのだろう。夫が気が付かないふり?なので、私はひとりで考えたり悩んだりしたけど、やっぱり、思い直して、一緒に暮らすことを選ぶのだった。41才の時だった。ある日、とても晴れた空を見上げた時、忽然と「ああ、私にはもう、決して、一人で自立する運命に身をまかすことはできないだろう。そんな逞しさは、持っていない」と、コトリと得心した。そして、これからは、どんなことがあっても夫を捨てようとか、別れて暮らそうとか、自分の好きな生き方をしようとか思うまい。夫と肩を寄せ合って助け合って、ただ真っ直ぐに、一途に、生涯共に生きて行こうと、心底胸に誓ったのだった。自分ひとりの誓いだった。それは、何か事件があったからでも、誰かに言われたからでもなく、ただ、青い空を見上げた時に、忽然と思ったのでした。と、かっこよく決めたけど、反省していることがある。50年間私は夫を幸せにしてあげられたかということだ。私という女は、実は、自分がしあわせになることばかり考えてきたように思う。(私のように若くて、可愛くて、良く気がついて、元気で、何でもできて、助けになる人間は、そうそういないわよ)言葉には出したことはないけれど、内心はそう思っていた。↑(自分で言うな~^^)ずいぶん無理をしてがんばり、夫を助けているつもりだった。私達は、常に子供達の為に大真面目にがんばって来たけれどあまりにもたくさん夫婦の犠牲があったように思う。何か、人生を楽しんだだろうか?人生を面白がってきただろうか?私は、夫をしあわせにしてあげたのだろうか?そんなことを、今、じっと考える。いつも、夫の言う事する事をじっと見ていて、「それは、違うは、あれは、2年前のことよ!」とか、「そういう事を言ったら、プライバシーの侵害です!」とか、「そんな(クダラナイ)物を買ってどうするの?」とか、「そういうことを書いたら、著作権の侵害になるから!」とか、小癪にも、さかしらぶって、あれこれ言い過ぎたと思う。車の中ではいつもぷりぷりしている私。自分はそちらの方向に行くと思っているのに全く正反対の方向に行ってしまう夫に、腹が立つのだ。もっと泰然として、すべての道はローマに通じるさ と思い、夫を信頼してもよさそうじゃないか。私は50年間夫に本当の自由を与えていなかったような気がする。いつもひっついていて、つまらない小さな事に黄色いくちばしを入れたような気がする。どれだけ、小うるさい存在だっただろう。それに私はどういう訳か、夫がひとつの小さな提案を出すと即座に「それは、だめよ」と、あっと言う間に否定のこころが湧く。ちょっと考えれば、私も、同じ結論が出そうな件でさえ、なぜか、すぐに否定の意見が湧くのだった。私は夫を不幸にしたような気がする。夫は、もっともっと幸せや自由を感じて生きてもよかった筈だ。最近の私って、すごい。何でも、夫の言葉には、「あ、そうなの」と言うこころの準備をしている。「じゃあ、そうしましょ!」と言うこころの準備をしている。50年経ったら、少しは上等の夫婦になっていなければ息子や娘に顔向けできまい。我がまま者が最近反省しています。反省力がまだ残っているのかな?大きなことを言いましたがどこまでできるかわからないけれど、残りの人生は、もっと夫を自由に、のびのび表現させてあげたい。言いたいほうだい、やりたいほうだいの楽しい人生を送らせてあげたいと思っています。
2010.10.14
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昨日お布団の中で、ふと考えたこと。再来年には、私達の金婚式を控えているなぁ~と。私の両親が金婚式を迎えた時、父はもう、呆けが始まっていた。母も20才で結婚して、70才だった。母の発案で、マイクロバスをチャーターして旅行をした。父も亡くなって母は自分の77才の喜寿のお祝いを一人でひっそりとした。私達兄弟は、母と一緒に暮らしていた次女以外は、ずいぶん離れて暮らしていたので、つい、母の喜寿の祝いを、失念していた。後で知ったことだが母は地味な着物と帯をあつらえた。驚いたことに長じゅばんは、洗朱(あらいしゅ)という色合いを仕立てさせていた。それは、母の運命への静かな抵抗にも思えたし、これからひとりで生きるという意志にも見えた。新しい着物をまとうと昔から、夫婦で尊敬していた人の御後室様の家にひとりでご挨拶に行った。それから家に帰ってきたところで、たまたま長女の夫が仕事でふらりと訪れて、写真を撮りましょうという運びになったそうだ。つくばいに入るしおり戸の前で撮った写真がある。母は夫を亡くしたばかりで、あまり派手に動きたくなかったらしい。雑誌の編集者でイラストレーターだった次女にデザインさせたタオルを配っただけだった。
2010.10.10
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戦時中は、母方のお婆ちゃんの家に疎開した。4才の私は、時々お婆ちゃんにつれられて、戦時中ではあったけれど、映画を観に行った。映画の中の女性は、胸に大きなPという文字を編みこんだセーターを着ていた。英語が弾圧されていたのにね?お婆ちゃんは、お寺にも連れて行った。そのお寺は非常に力があったのか、村が裕福だったのか、戦時中にもかかわらず、賑やかな30人のお稚児さんの行列をした。すぐ上の夏子姉さんも、上等の着物を着せられ、お化粧をして、昔のお雛様が付けたような金色の冠をかぶった。ひらひらと、ほようの美しい飾りがぶら下がっている冠だった。お寺の和尚さんは、毎週、お説教をした。大きな広間に善男善女がたくさん集まって神妙に説教を聞いた。私はお婆ちゃんの膝にもたれて聞いていた。静かな中、入り口付近でがやがやと数名の女性が話をし始めた時だった。和尚さんはお説教を中止し、いきなり「やかましい!!」と怒鳴った。しんとなった。それから何事もなかったように、お説教は続いた。小さな私は、あの大きな叱責の声を忘れられない。 おしまい
2010.10.09
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私はゆうれいがこわい。68才にもなって、ゆうれいがこわいだなんて、馬っ鹿みたいだと思う。でも、ゆうれいなんか、この世にいないと知ってはいてもこわいという恐怖感は、消えない。特に、夜、ひとりで留守番はできない。ゆうれいが、そこここにいる気配がする。夜になっても電気を煌々と点けて、明るいと、何でもない。しかし電気を消した途端に恐怖が襲う。真っ暗でも、家のどこかにだれかがいれば少し、恐怖心が軽減される。暗い中でちょっとその辺がぼうっと白いとすぐに電気を点けて何が白いのかを確かめずにはいられない。特に、睡眠中の暗い部屋で、もしこの目を開ければ、私のそばで私の顔を、じっとのぞいている幽霊がいるのではないかという恐怖心が取れない。このバージョンが一番恐い。と、ここまで書いて思いだしたことがある。私が小学生の時だったある夏の暑苦しい夜のこと。真夜中にふと寝苦しさに目が覚めた。真っ暗の中目の前、50センチほどの上に何か黒いものがあった。どきっとして目をこらすとばさ~~っと長い幽霊の髪が浮かんでいた。私は恐怖に駆られて思わぬ行動に出た。反射的に手を伸ばし、ムズと髪をつかんだのだ。ドサッ 髪が、私の胸に落ちた。声も凍りついた。「何すんの~」と姉のねぼけた声。な~んだ、姉も目がさめて、隣でぼんやり座っていたのだ。あんなに恐かったことはなかった。あああ恐かった~~~これだ、これが私のトラウマになっている。今分かった。
2010.09.28
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msk222さんが銀行では、プチ緊張とおっしゃってるので、私もブログに書くことが決まった。引越し前の地方銀行の解約と残高取立て手続きに、近所の地方の銀行に行く。いつも、スーパーでは支払いのレジ前で、カードが出てこずにあたふたしてしまい、後ろで待っている方々に嫌な思いをさせている私だからこういう時もさっと、手続きがスムーズにできるよう、しっかり支度して出た。銀行には書類が足らないと言って、断られたりして数度、往復したから、今度こそと思う。銀行のコンシェルジュお姉さんの前で書類を出そうとしたら無い!もう、あせりまくりで汗が吹き出る。なぜ?ちゃんと用意してきたのにさ!バッグの大海原をがさがさがさがさ探し、がっかりしながらふと小さな封筒の中をみるとそこに入っているのを発見。(うそだろ?)で、ついでにカードも解約しようとしたら、無い!え?どこどこどこに?順番がきたので、あきらめて窓口に行く。「落ちてました~」とコンシェルジェお姉さんがカードを拾って持ってきてくださる。落とした?(よっぽど慌てているのだろう)人生百戦錬磨の朱鷺子さん、あまりにも、だらしがないじゃないの。何故、こんなに慌てるんだろうか?いいとこ見せなくてもいいのよ、髪も白いんだから、もう少し落ちつかれたらどうなんでしょうか?と不甲斐なさに、我と我が叱咤激励する。やっと手続きが終わって、ほっとしながら帰ろうとしたらコンシェルジュお姉さんが「あ、傘、お忘れですぅ~」とて最後の一撃。帰宅後、別の2つの用件を忘れ果てていたのを思い出したが、仕方ないや、別の日にまわそう。ボケまくりは、日常と化す老化な日々。涙
2010.09.25
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最近世情は厳しく、 幸せを絵に描いたような人でも、欝に陥る人々が こころなしか多いような気がする。 次女は小さな頃、私達が忙しかった為に、 お手伝いさんにまかせて、あっちこっち走り回っていたためか、 登園拒否児から、 登校拒否児となり、小学校を暫く休学した事もあった。 中学になってからも、 登校同時に保健室で寝ている娘になってしまったが、 2年生の時トランペットがうまくなって、クラブ活動が楽しくなったことと、 高校生の時、地域の小さな英語弁論大会に優勝したことが きっかけになって、 すっかり立ち直り、 大学時代には爆発的に寮生活をエンジョイし、 OL時代は、最も華やかに生き生き暮らした。 結婚してからは、 子供の幼稚園や小学校で、ママさん仲間とイベントなどを企画して、 元気いっぱいに人生を面白がれる人間になったことは 私自身ほっとしている。 病が、早く発症したから終わりも早かったのかどうかは 解からないが、精神的に健康になってくれてうれしい。 自分が苦しみから立ち直ったのが幸いしたのか、 私にも周りにも気をつかえる、愉快な人間になったこともありがたい。 長女は、 高校生の時、 全国の英語弁論大会で代表出場したり、 学校ではリーダー的存在だったので、 長女のひととなりには安心していたのだが、 ある日、 ダンボールいっぱいに入れてあったお菓子が、 一晩で空になっているのを、私は、発見した。 次女が、心配そうな、小さな声で 長女がひとりで全部食べて、トイレで吐いたらしい と、告げた。 それを聞いた私は衝撃を受けたが 長女に聞き正す勇気は無かった。 それからは、時々、我が家のお菓子のストックには そんな事件が起きたが、 私はやはり、長女には直接聞けなかった。 次女とふたりだけになった時、 ひそひそと長女の行動を語りあって、心配し合っていた。 しかし、 大量のお菓子を一度に食べて、トイレで吐いているという 明確な証拠も見つからないまま、 30年近い年月が過ぎた。 私は、長女には、 本当に、本当に、そんな病気だったのかしら?とは いまだに聞けないでいる不甲斐なさだ。 彼女のそうした状況も日のもとにさらされないまま、 長女は、 ますます元気そうに、楽しそうに、明るく、 周りの人々にちやほやされながら暮らした。 その長女の長女は今、留学中で、長男は医学生だ。 子供達の精神面に関する悩みは、 私ほどでは無いだろうとも思えば、 私も少しは安心している。 だが、 普段は、メールを家族中で出し合って、 お気楽に色んな問題を垣根なしにしゃべっていても 本当は、本当に、あの時の病気は無かったのかな? と、 まだ、気をつかって本人に聞けない私がいる。 もう、 忘れていいのでしょうか。 我が家の男どもは全く問題のないたくましさがあるが 女どもは、私に似たのか、 毛色の変わったのが3匹ほど。涙
2010.09.14
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最近、1960年に観たフランス映画、「勝手にしやがれ」を思い出してブログに書いたら例によって、いきなり、テレビで再放送がある。あんなにもう一度観たいと渇望していたのに、何故今まで、一度も、再見しなかったのかは解からない。私の青春に強い影響を与えた映画だから、自分の裏側を冷静に見るという行為が恐かったのだろうか。初めて録画する気になった。夜中にひとりで観る。ああ、気になる言葉、動き、ひとつひとつが懐かしい。覚えていないシーン、勘違いして記憶した部分、皆、おもしろい。長いシーンであった所が、以外に短いシーンだったのは、少女の私が、強いインパクトを受けた為だろう。前のシーンが後の伏線になっているところを発見する。あのしぐさ、まねしたっけ~など、思い出して、ふふと笑う。縞のTシャツに茶色のひだスカートのいでたちでのジーン・セバーグを懐かしみ同じかっこうの私の写真が、アルバムにあるのを思い出す。つぎの日は、お仕事のお休みで買い物に出かけた。私は何だかちょっと仮想青春ハイになっていたらしい。新しいショッピングモール、大型店が集まっている郊外に行く。夫 「今日のお昼は、2階のフードコート、○○ビレッジでお食事しようか?」私 「あら?ビレッジだなんて、嫌だわ!私はシティーガールなのよ、 もっとお洒落な処でなくっちゃ!」 だはは・・・お買い物が終わって、引越し前の街には無かったあこがれのスタバで、お茶をする。私 「昨夜、録画を観たら、ジーン・セバーグが着ていたのと 同じスタイルの服を着た私の写真があるのを思い出したの」夫 「君は、ずいぶん影響されて流行を追っていたんだね」私 「あら、違うわ、私が渋谷で、流行を作ったのよ~ん」夫さまは、あきれ果て、声なき声を発した。 だはは・・・・・
2010.09.03
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前の私の記事に対するbonbonusさんのReを読んでからシャルル・アズナブールのサイトに飛んだ。YouTubeの彼の歌を聴いたりして懐かしかった。彼が映画出演した時の監督ゴダールつながりで、私の大好きな「勝手にしやがれ」のサイトに、またまた飛んでしまった。以前、ブログ記事に書いたこともあったが、1960年に映画「勝手にしやがれ」を観て、ハイティーンの私はベルモンドとジーン・セバーグが大好きになってしまった。映画の中でのラストシーン。ベルモンドが撃たれて死ぬ時ベルモンドと警官とセバーグの3人の会話が、ず~~~っと長い間、気になってしかたがなかった。日本語字幕ではなく、本当は、何と言っているのか、知りたいと願ったが、なかなか叶わなかった。シナリオでもないとねぇ。ところがそのセリフ部分が、そのサイトにあったのです!!やはり、私が気になっているところは、皆も気にしているのだろうね。うれしかった。bonbonusさんありがとうございました。貴方のおかげです~~感謝しています!以下強烈なラスト・シーンでは、警官の銃弾に倒れ自分の手で目を閉じる時、こう言う、 「C'est vraiment DEGUEULASSE! (ホントむかつく、最低!)」 ここの声は、声になっていなくてベルモンドの口が大きく動くだけ。 (degueulasseは嫌悪感をおぼえる)☆Michel(ベルモンド) - C'est vraiment degueulasse サイテーだ Patricia (セバーグ)- Qu'est-ce qu'il a dit? 彼は何と言ったの?と警官に聞く Inspecter - Il a dit tu es vraiment degueulasse. おまえはサイテーだと、言ったよ Patricia - Qu'est-ce que c'est 'degueulasse'? サイテーって? やっと、解かった。49年前の胸のつかえが下りたみたい。あの字幕は、正しかったんだ。参考http://www.audio-visual trivia.com/2004/07/a_bout_de_souffle_breathless.html
2010.07.20
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忙しいのに、馬鹿なことを考えてみた。★女性は、なぜ結婚前に色んな男性と性生活を送ってはならないと思って 生きて来たのかと考えたのよ。 人間は本来自由な動物だから、他人に迷惑がかからないなら、 どんな事柄でも積極的に自由に行動して良いはずでしょ?★確かにそれをしたら大きなリスクがつきまとう。 リスクを取りたくなかったら、しなければいい。それも自分の人生である。 (私はいまさらバンジージャンプはしない。 一回で死ぬかもしれないリスクがある。)あはは★古今東西地球上の世界で、 娘達には結婚までは、色んな男性にすぐに体をまかせてはならないと 教えた理由は何だろうかと、今更だが考えてみた。 1 多くの男性経験が多ければ多いほど病気に罹患する率が高まるだろう 2 最初の男性の精子で、体質が変化してしまうということを聞いた ことがある。????? 3 前の男性が、忘れられなくなり、結婚した男性に対し満足感が薄れ、 夫婦円満が壊れるかもしれない 4 ただひとりの男性を生涯の伴侶と決めてかかれば何か起きても 二人が努力してレベル以上の深い愛を作り上げることが できるかもしれないだろう 5 大勢の男性の中には、社会的にも悪い人間がいたり 出会った男性に迷惑をかけられるような率が高くなるかもしれない 6 男性を全く知らない女性であれば、 夫が、あまり、がんばらなくても妻を自分の気に入るように 教育しやすいかもしれないから 7 結婚すれば子供を安心して育てられることが多いが、 別れるかもしれないのに子供を間違って生んだ場合のリスクは 計り知れないから 8 自由に色んな男性経験を積んでおもしろおかしく生きていけるのは 若い間だけで、すぐにレベル以下の相手にしか 出あえなくなるかもしれないし 相手がみつからない場合が生じ、子供も生むチャンスを失し、 老後を寂しくひとりで暮らすはめになるやもしれないから 9 男性のY染色体は、壊れやすく修復ができにくい為に、 男性は地球に少なくなりつつあるという。 だから、男性が結婚しやすいように、 女性にすばやい結婚出産をうながし、 女性はあまり自由に男を選び過ぎないよう 人類の無意識下で、 用心しているのかもしれない 10 人間は、純粋無垢というレベルを尊く思う動物であるから いろんな男性にまみれた女性を尊く大切に思えない人間も多い かもしれない 11 だから、こういう理由から結婚生活を安泰にさせ、 社会を安定させたいという政治的な動きも 世界中のこころある大人の社会で起きたかもしれない 12 これが一番重要な理由だが、まだ、結婚していなくても、 自分を心底愛してくれている男性を、ポイと紙くずのように捨てて、 次ぎの男の方に行っちゃったら、その男は苦しむよね? そうしたら 知らないうちにその男性を酷く苦しめてしまうというものだ。 ドラマのSATCのように、お互いにけろりとして、 一夜のSEXだけのおつきあいで~~す、という関係だったら、 それはただの不毛の愛でしょうが、苦しませることも無い。 何でも物事は、たとえば茶碗でも、 愛着のある大切な茶碗だったら、人に盗られたら くやしく、悲しいし、腹が立つ。 だから、人間様だったら、こころがあるぶん、 ただでは済まないだろう。 相手のこころを傷つけて長く苦しめることになるかもしれない。 それで、男にひどい目にあわせられるかもしれない その男性が自殺でもしたら、自分も傷を負うかもしれない 結婚前に女性がいろんな男性と性生活をしてはいけない根本的な理由は、まだまだあるだろうが、今、思いついた事はこれだけだ。★反面、結婚前に多くの性生活を経験した場合が良い理由はあるのかと、 考えてみた。1 最後にほんとうに自分に合ったすばらしい男性を 見つけることができるかもしれない2 色んな男性経験をして、知識をつけ、自分の能力を開花させることが できるかもしれない3 色んな男性を知ることで、おのずと男性に対する 気持ちのこなしが上手になって、 どんな男性ともうまく生活できるかもしれない 4 一人の男性しか知らないと、その男が最低だということが 見えなかったりし、我慢の一生をおくる女性は多い5 結婚できない多くの男性の子供を生んで、 社会に還元できるかもしれない6 結婚できない多くの男性や、女性が、 性生活を得られない為に起こすヒステリーを軽減させるということで 社会に貢献できるかもしれない7 性生活のバラエティーを知って、 面白おかしい性生活を楽しむことができるかもしれない8 いろんな男性を知ったから、人間はこんなものだという事が解かって 結婚してからもいつまでも、こんな筈ではなかった・・と 思い悩むことは少ないだろう。なんだか、いっぱいあるよね? あっはっは
2010.07.18
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