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五十代 0
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高校で使う教科書や辞書を学校で販売した日に教科書以外は何を買ったらいいのか分からず「広辞苑」では無く「広辞林」を買ってみたが一度も使う事は無かった。合羽も買ったが自転車通学ではなかったのでこれは祖父がバイクに乗る時に喜んで着ていた。
2011.02.28
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高校の入学祝で思い出したが中学校の入学祝は「レコードプレイヤー」か「テープレコーダー」のどちらかと言われSONYの「テープレコーダー」を買って貰った。初めて聞いた自分の声が嫌だったが暗記や英語の勉強には役に立った。
2011.02.27
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中学の卒業式の後に「慰労会」があった。私は科学のY先生に頼まれて手品の助手をやった。本来なら壇上に立ったりするのは大嫌いなのだが最後のお勤めだと思って協力した。手品のネタは布に隠したスポイトに入れたフェノールフタレインで透明な液体をピンクに変えると言う物だった。
2011.02.22
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今考えると不思議なのだが文化祭の展示物として科学のY先生が出したものは「本物のニワトリの解剖」だった。勿論、文化祭が終わった後には美味しく頂いたとの事だった。
2011.02.21
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中学三年生の時に文化祭があった。我々科学部も展示コーナーを設け私は「電磁誘導」と「真空放電」のデモをやっていた。すると暇だった地学長のS君が来て、結線前の電磁誘導のスイッチを入れてしまい私は腰の辺りに6000ボルトの電圧を浴びてしまった。6000ボルトと言っても電流が少なかったせいかちょっと痛みを感じただけだった。
2011.02.20
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公立高校の合格発表の日の夜に「高専」から入学の打診が来たが面接の時に話したとおり「公立高校の方へ進学します」と断った。この時「高専」の補欠合格のシステムは不合理だと感じたが後に併願は出来ないシステムに変わったようだ。
2011.02.19
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高校の合格発表は親父の車で見に行った。発表時間になると合格者番号を書いたボードを二階の渡り廊下に提げたのだが私の番号「131」の辺りは提げきるまで柱の陰になって見えなかった。そんな余興もあって合格の感動も一入だった。
2011.02.18
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公立高校の受験は引率の先生の人数が足りずに私は親父と二人で電車で行った。昼休みに待機教室へ行くと姉も仕事の合間に差し入れを持って来て居た。ちょっと多目の昼食を食べ試験の方はトラブルも無く終了した。
2011.02.17
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高専の合格発表は見に行く事はなかった。発表の当日は自習の時間か何かで校庭に居たら先生が隣にやって来て「東郷君は補欠合格だったよ」と結果を教えてくれた。ガッカリする私に先生は「補欠合格は合格と同じなんだよ」と慰めてくれた。
2011.02.16
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何人かの同級生が「国立工業高等専門学校」を受けると言うので訊いてみたら電気科がある、授業料が安い、短大卒扱いになる、受験日が公立高校よりも早いとメリットだらけだったので私も便乗して受験する事にした。高専の雰囲気は高校とは違い如何にも大学のキャンパスという感じだった。試験で記憶に残っているのは体力試験で懸垂が7回しか出来なかった事と面接で「もし、公立高校と高専の両方受かったらどちらに進学しますか?」と訊かれて正直に「〇高の方です」と答えてしまった事だ。
2011.02.15
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高校は工業高校の電気科に進学希望していたので特に受験勉強をしなくても大丈夫だろうと思っていたがある時担任のN先生に呼び出されて「今年の学年は普通高校へ進学する人数が少なくて学年担任の評価が下がってしまうので普通高校へ進学してくれ」と頼まれた。普通高校へ進学すると言う事は三年後には大学受験が待っていると言う事だが映画で観た外国の大学生活にも憧れていた私は普通高校を受験する事にした。
2011.02.14
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高校受験で周りが悶々として憂鬱だったある夜家のTVで輪島のボクシング世界戦を観ていた。何ラウンドか目に輪島のパンチが相手の顎に奇麗に入ってKOした瞬間に今までモヤモヤしていた胸の痞えが一気に吹き飛んで何かに打ち込むことが素晴らしく感じられてやる気が湧いてきた。
2011.02.13
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中三のある夏休みの夜いつものように友達と夜遊びしていたが、同級生M君の家へ行こうと言う事になった。M君の家へ行くと一階の部屋の明かりが点いていたのでそーっと忍び寄って開いている窓から脅かそうと音を立てずに窓から覗いてみるとM君は勉強疲れのせいか机に突っ伏して顔を窓の方に向けて寝ていた。その「満足そうな寝顔」を見た時に私は衝撃を覚えた。その日から私は夜遊びを止めて受験勉強をする事にした。
2011.02.12
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中三になっても夜遊びやバイクの無免許運転は止めなかった。特に夏休みは夜中に学校のプールで泳いだり友達の家に泊まって深夜まで遊んだりしていた。
2011.02.11
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暗唱大会のスピーチでは、出場者は皆慣れているのか「My title is」なんて話し始めるので驚いた。しかし、私はそんな言い回しは練習してなかったので「Lesson 〇〇」と練習通り普通に話し始めた。三年生の中で私は準優勝になり目出度く県大会には進まずに済んだ。三年生の出場者の中に小学生の頃からずっと英語塾に通っていたI君も居たが入賞はしていなかった。
2011.02.10
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「英語の暗唱大会」の地区大会の当日各学年から一人ずつ代表が出場したが二年生の代表は顔見知りのSさんだった。Sさんは暗唱の途中で閊えてしまい頭が真っ白になってしまった様だった。でも暗唱の内容は当人しか知らないので私たちにはどうする事も出来なかった。そういう意味ではとても残酷な大会だった。
2011.02.09
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「英語の暗唱大会」なんて見た事も聞いた事も無かったけれど取り敢えずストーリー性のある話がいいだろうと思い「J・F・ケネディ」の伝記を暗記することにした。家にいる時や通学の途中に暇さえあれば暗唱していた。
2011.02.08
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中学三年の時だったと思うが英語の暗唱大会があるという事で放課後集められて出場者を決めた事があった。人前に立つのが大嫌いな私は代表を固辞してなんとか出場を免れた。しかし、その後、科学部室で遊んでいると英語のO先生が来て「東郷君、代わりに暗唱大会に出てくれ、代表になった女の子が出来ないって言うんだよ」と、困った様な顔で懇願されO先生の頼みでは断り切れずに出場する事になってしまった。
2011.02.07
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いつも長髪だった私は家庭裁判所へ行く前に床屋へ行った。「スポーツ刈りにしてくれ」と言ったのに何故か「五分刈り」にされてしまい私の卒業記念写真は人生最初で最後の五分刈り頭の写真になってしまった。経緯を知らない同級生達は高校受験に向けて気合を入れたのだと勝手に勘違いしていた。
2011.02.06
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家庭裁判所では面談者が五、六人横一列に座っていて順番に事情聴取された。中に一人だけ女性の面談者がいたので私はそこに並んで面談した。気のせいか女性の面談者は優しく感じた。私の後から家裁に行った同級生には女性と面談するように勧めた。
2011.02.05
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「家庭裁判所」からの呼び出し状は忘れた頃にやって来る。春休みに捕まって呼び出し状が来たのは初秋だったと記憶している。中学三年生で前科が付くのかと落胆したが担任のN先生に話すと内緒話をする様な感じで高校進学も心配は無いからお勤めして来いと励まされた。その後、同級生が何人か無免許運転で捕まったがN先生は「家裁の事は東郷に訊いてから行け」と言ったらしくみんな私に訊きにくるので私は家裁の相談役のようになった。
2011.02.04
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当時の派出所というのはお巡りさんが家族で住んでいて地域の生活に溶け込んでいたものだったが新しく赴任してきたO巡査は農作業している人の免許不所持まで捕まえるような警官だと言う噂があった。当時、親父が夜帰ってくると「家の裏通りにO巡査が立っている」と不思議そうに言っていた。私の再犯を期待して張り込んでいたのでしょう・・・。
2011.02.03
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無免許運転している時に出会ったお巡りさんは「家の人には内緒にしておくから住所と名前を教えてくれ」と言うので私の住所と名前を告げてその場を釈放された。確かにその時は家の方に連絡は無かったが半年位後に自宅に家庭裁判所から呼び出し状が届いた。
2011.02.02
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中三の春休みのある夜地学長のS君が遊びに来てうちのカブ号で二人乗りドライブに出かけた。カブ号はパンクしていたがお構いなしで暫く走り回っていたがS君が運転を交代しようと言うので交代してまた走り出した。しかし、走り出して間も無く右の路地から出てきた派出所のO巡査と鉢合わせしてしまった。
2011.02.01
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中学校の三年になると高校受験と言う壁が立ちはだかってきて周りもだんだんと暗く張り詰めたムードになって来た。私は楽に入れる工業高校の電気科を希望していたのでプレッシャーも全く感じることなく夜遊びに興じていた。
2011.01.31
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中学二年生になると中学生活の緊張からも開放され中弛みする。私の場合も暇があれば地学長のS君と将棋をして自転車で遊び回ったり夜は時々、家にあったカブ号でドライブした。
2011.01.30
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赤城山でキャンプ中に黒桧山に登ろうという話になってみんなで登った事があった。あの時が私の初めての登山体験だったと思う。バスケット部主将のY君の健脚ぶりは人間とは思えないものがあった。あの頃「サッカーJリーグ」があったらきっとY君はスターだったろう。「黒桧山の高さは1,828m」・・・「一羽二羽」と覚えた。
2011.01.29
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キャンプ中にバスケット部のS君と商店街まで買い物に出た帰り道にS君がベンチの方を指差して「あれ!同級生が居るよ」と教えてくれたがメガネを掛けてなかった私には良く見えなかった。「Mさん、Oさん、Oさん、Tさん」だったかなぁ・・・?近視は本当に不便だった・・・。
2011.01.28
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キャンプは楽しさの余り予定よりも一日長くなってしまったが最後は食料が無くなってしまい、たまたま近くでキャンプしていた柔道部の先輩の食料が清水で冷やしてあったのを失敬した事もあった。テントの近くには清水が湧き出ていて水には困らなかったがその冷たさには顔を洗う時や米を研ぐ時には閉口した。一度だけ監視員のような大人が巡回してきたが焚き火の注意は受けなかった。
2011.01.27
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大沼のキャンプでは湖畔の反対側から毎日繰り返し歌謡曲が聞こえてきた「瀬戸の花嫁」「経験」今でもこれらの曲を聴くとあの時を思い出す。湖畔は夏休みの観光客で賑わい夏休みのリゾート気分が満喫できた。
2011.01.26
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中二の夏休みに赤城山にキャンプに行った。メンバーはバスケット部主将のY君、柔道部のK君、バスケット部のS君と当日まで親に反対されていた生物長のS君も集合時間に現れた。JR前橋駅からバスで赤城山の大洞まで行ってキャンプ場とは反対側の大沼の畔にテントを張った。
2011.01.25
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中二の時にスキー教室があって生まれて初めてスキーをした。クラスの中には家族とスキーに行った事のある同級生も何人か居たようだが我が家にはそんなゆとりは無かった。バスケット部主将のY君とお揃いの黒いジャケットを買ったが雪の中で転んでいると黒は目立った。両手でワイヤーロープを握るリフトにもすぐに慣れ頂上まで行った時にあまりの急斜面に愕然としていると校長先生が居て谷側の足に重心を掛ければ楽に滑れる事を教えてくれその通りにやったら気持ちがいいほど上手く滑れた。初心者は怖がって山側に重心が行ってしまうそうだ・・・。
2011.01.24
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中学二年の時生徒会の役員選挙があり無理やり立候補させられた。人前で話すのが苦手だった私は担任や同級生をとても恨んだ。立会演説会の前の日には体育館に放火してやろうかとも思ったがなんとか思い留まった。立会演説会では私の次の下級生がふざけてなのか計算ずくなのかドモった様な話し方で演説をして会場の笑いを取っていた。お蔭様で私は役員にならずに済んだ。
2011.01.23
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林間学校は榛名山で行ったが「みんなで漕いだカッターボート」「雨で出来なかったキャンプファイヤーの代わりのキャンドルサービス」「夜中まで騒いだ集団宿泊」等初めて経験するものは刺激があって面白かった。「櫂揚げ~、櫂下げ~」なんてね。
2011.01.22
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林間学校の夜は同級生との雑談で盛り上がったが友人には皆好きな女の子がいて「ニックネーム」で呼んでいたようだ。残念ながら私には「ニックネーム」で呼べる人が居なくて一人淋しい思いをした。
2011.01.21
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中学二年の時に隣の席になったMさんは映画「アパートの鍵貸します」に出ていた「シャーリー・マクレーン」に雰囲気が似ていてとても好感の持てる同級生だった。夜、科学部の部活をしている時に呼び出されたが、その頃は部活に夢中で断ってしまった。今思い出してもとても申し訳ない事をしてしまった。
2011.01.20
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中学二年の健康診断で近視になっている事が判った。その頃はメガネを掛けている中学生は少なくて私のメガネに対するコンプレックスは高校三年まで続いた。
2011.01.19
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「中一コース」か「中一時代」の英語テストの懸賞で一番になって名前が載ってシャーペンだかボールペンを貰った事があった。後で気が付いたのだがテストで満点ならば全員が一番だった訳だ。しかし、この時以来益々英語が好きになった。
2011.01.16
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「土居まさる」の夕方のラジオ番組でリスナーから作品募集をする企画があった。一回目に応募したのは「回文」を作る物で私は「回文」の意味すら知らなかった。二回目に応募したのは「夏の風物を盛り込んだ駄洒落の暑中見舞いを書く」というもので私の作品は一位に選ばれ郵便為替で5千円の賞金を頂いた。その時の作品は今も覚えている「ゆうだち うちわ揉めして かいだんしたそうだね ゆうだちのゆかたはまだ沢山いるじゃないか ふうりん事は みずぎ流して 仲良くやってくれ せみしいよ」当時好きだった「ビートルズ」に宛てた暑中見舞いだったが中学生に5000円の賞金は嬉しかった。
2011.01.15
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乾電池式の次にAC100V電源のラジオを買った時もスリープタイマー機能が付いてなかったのか私は壊れた洗濯機のタイマー装置を外して電源のタイマーに使っていた記憶があります。今ならホームセンターでいくらでも売っているのにね・・・。
2011.01.13
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中学生の時に「5球スーパーラジオ」の製作には失敗しましたがラジオ放送は毎晩聞いていました。その頃は乾電池式のラジオでスリープタイマーなど言う機能は無く聞きながら寝てしまい電池を終わらせてしまう事がしばしばありました。私は電源の配線をラジオ本体から延長させて剥いておき手で持って寝ながら聞く様にしました。寝てしまうと握っている配線が外れて電源が切れるという仕組みです。
2011.01.12
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中学校へ進学した時は親に内緒で塾を辞めていたので成績を落とす訳にはいかなかった。塾でやっていた通りに英語と数学の予習だけは毎日していた。その後に待っている趣味のラジオ工作だけが楽しみで予習を済ませた。
2011.01.11
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中学生の頃は「電子工作」に興味があって今なら「パソコンの自作」とかをやるのでしょうが当時はラジオ全盛世代で「5球スーパーラジオ」の自作キットを作っていた。毎晩少しずつ設計図を見ながら組み立てていったが電気知識も無く初めてのハンダ付けはテンプラだらけで完成して初めて電源を入れるときは恐さで緊張した。「5球スーパーラジオ」は結局自力で完成する事は出来なかった。この時買った「はんだゴテ」は今でも使っている。
2011.01.10
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私は物理長だったが物理学のクラブ活動と言っても課題が思い浮かばず最初のうちは紙飛行機を使った「流体力学」の研究と称して部室の窓から紙飛行機を作って飛ばしていたが、やがて火を点けて飛ばしてみたりその頃興味があった電気の工作で「電気錠」を作って侵入者を制裁してみたりと物理長の研究課題が一番貧弱だったようだ。一番記憶に残っているのは「電磁誘導」や「真空放電」かなぁ・・・?
2011.01.09
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化学のクラブ活動では薬品を使ったものが多かったが「アルコールランプ」に使う「メチルアルコール」は「目散るアルコール」だから飲んでは駄目。「エチルアルコール」なら飲んでも大丈夫。「チョーク」にアルコールを染み込ませて燃やして遊んだり「ビーカー」でインスタントラーメンを作って食べたり「試薬」や「実験器具」の名前や特質を学んだ・・・としておこう。
2011.01.08
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生物学の部活では顕微鏡を使ったものが多かった。プランクトンを採集してスケッチしたり沼へ行ってプランクトンネットでプランクトンの代わりに魚を捕ったり寒天を作って落下菌の寒天培養をしながら寒天を食べたり顕微鏡やプレパラートの使い方を学んだ。あの頃は「日本光学」の顕微鏡が一番高性能だと言われていた。
2011.01.07
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流星観測は、なんと言っても空気の澄んでいる冬の夜ですがある夜中に田んぼの真ん中に寝転がって流星群の観測をした時は星の色の違いまで分かるくらい良く見えて今でもその宝石を散りばめたような星空が脳裏に浮かんでくる。流星の「痕(こん)」という物をこの時初めて見た。しかし、深夜のあまりの寒さは藁に包まって寝ても耐え切れずとうとう藁を燃やして暖を取ってしまった。今考えたら補導されても可笑しくなかったね。
2011.01.06
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顧問のO先生が宿直の夜に学校へ集合して天体写真を撮った事があった。三脚に望遠鏡とカメラをセットするとあとは待つだけだったのでO先生がマージャンをやろうと言い出し朝までマージャンを教えてもらった。徹夜明けの朝食べたインスタントラーメンは、とても美味かった。
2011.01.05
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天文長のS君は「天文ガイド」を定期購読するくらい天文が好きで天体写真も時々撮りに行ったが夜遊びの方が面白くてあまり綺麗な天体写真が撮れた記憶は無い。
2011.01.04
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我が家には「3センチ口径の屈折望遠鏡」しかなくて「月のクレーター」「土星の輪」「木星の衛星」「木星の大赤斑」などが辛うじて観測できる程度だったが天文長のS君が「10センチ反射望遠鏡」を買うまでは随分と活躍した。この時、望遠鏡の能力は倍率よりも口径の大きさの方が重要だと言うことを知った。
2011.01.03
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