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斎藤茂太(2003):「なぜかやる気が出ない人へ」成美文庫.気の持ち方で自然体になれる秘訣やる気が出ないとか落ち込みやすいという原因には,人生が自分の思い通りにならないから,どうすればいいかわからない,というものもあります。これこそ「広い視野」で見なければなりません。いったい,この世の中のどこに「思い通りの人生」を送っている人がいるでしょうか。人生は思い通りにならないのが当たり前なのです。思い通りにならないものを,背伸びをしたり,虚勢を張ったり,無理なことをしてきたから,やる気もなくなり,落ち込みやすくなっているのではないでしょうか。思い通りにならないのだから,なるがままに人生を過ごしてみたらどうでしょう。こうでありたい,という気持ちは机にしまって置いて,このほうがよかった,という思いはゴミ箱に,こうしたいという気持ちは少し謙虚に,「こうなればいいな」くらいにしてみるのです。すると,それまでの「こうでなければ」という義務感が薄れて心に違ったエネルギーがわいてくるはずです。だれかから責められていると感じても,謝って済むのならさっそく謝りましょう。なにも格好をつける必要もありません。「こうでなければ」ではないからです。誰かの提案があれば早速やってみましょう。失敗してもいいではありませんか。どうせ思い通りにはいかないのですから。けれども決して無責任になるのではありません。責任も自然に受け入れます。責任逃れをする必要もありませんから。なにも起こらなかったら,のんびりしましょう。あわてて,次の企画を考えても,いいものなどでてきません。しばらく心を放牧しておけば,これまでとは違ったものが湧き出してくるでしょう。周りの人が急かしたら,適当に合わせましょう。急いでいるふりをしてもいいし,「まあまあ,そうあわてずに」と自分のペースに巻き込むこともできます。かつてないような大失敗をしてしまったら,これからはそれ以上の失敗がないだろう,とひそかに喜びましょう。もっと大きな失敗が起こるだろうか,と心待ちにできるくらいになれば,自然体の心の出来上がりです。-------------------------------いい意味での諦めや妥協は必要です。こんなはずではないのに。と思うときはだいたい,自分の理想が高すぎることが原因です。失敗を恐れて実行する前の段階で壁を作っていることも多いです。やってみてできなかったら,できる範囲でやらなければしょうがないです。こうしたことは言ってみるのは簡単ですが,やっぱり失敗は恐いですね。まずは一歩を踏み出してみて出た結果を見て自分ができそうなところからゆっくりやっていくしかないですね。
2008.11.07
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生きる「生きているということ」その続きの詩ですてきなものがありました。「泣きながらでも歩いていくこと」by こりん「わかりあえないということそれでもなおわかりあおうと懸命になるということ」by さるすべり「答えはいつも自分の中にあることどんな苦しみにも光は差すということ」by ヒロシ「欲しがって 手に入れてでも大切なものはそこにないと気づくこと」by うーやん「『さよなら』じゃなくて『またね』と言って別れること」by Bass5-------------------------一般の方の生きることの数々。自分だけじゃなく皆が苦しみながら日々自分の生と向き合っているのが分かります。「生きる」ことと「生きている」こととも別のことかとも思えました。「生きる」ことを考えるのは少し哲学的な気がしました。あるいは人生の意味を考えることにつながりそうです。一方,「生きている」ことは何気なく送っている日常ではないかなと思いました。「生きる」ことを考えること自体が「生きているということ」ですね。
2008.11.06
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加藤諦三(2008)「行動できない人」の心理学.PHP研究所自立していない人間は恩着せがましい他人の動きによって自分の感情のバランスを失うものは,他者の動きに要求が多い。他者の一挙一動が自分の感情を混乱させるのであるから,他者への要求が多くなるのも当然であろう。そして自分の感情が混乱するのは自分が自立していないからなどとは考えない。自分の感情を混乱させた責任はあげて他者にあると信じている。自立していない人間の心理のもう一つの特徴は,何かを独りでやったとき,虚しさを感じたり,幻滅を感じたりすることである。自立していない人は親とか上役とか誰かに命じられて何かをやった時には感じないむなしさや幻滅を,自分独りで何かをやった時には感じる。自分独りでやることを決めて自分独りでやったことには,何か納得がいかないのである。絵を描いても,映画に行っても,旅行しても,どうしてこんなことをやるのだろう,という気持ちが付きまとう。何かむなしくその行為に意味を見つけることができない。つまり自分独りでやったことには,どうしてもそれをやることの正当性の根拠が感じられないのである。自立していない人には内的な必然性というのがない。かつてザトペックという長距離走者は,「なぜあなたは走るのですか?」ときかれた。すると「ウサギに向かってなぜそんなに上手に走るのかと聞いてみたまえ」と答えた。そして「走らざるを得ないから走るのです」と付け加えた。ザトペックは誰に頼まれて走っているのでもない。走らざるを得なくて走っているのである。走ることがザトペックの内的必然性なのである。そして走ることの中で彼は意味を感じ生きている。走ることについて「なぜ?」という問いがザトペックには必要ないほど明らかなことなのである。間違っても「俺がここまで苦しさに耐えているのに」というように他人に恩着せがましい態度は取らない。日本のマラソンランナー君原氏は,新婚旅行で奥さんが汽車に乗っていくのに自分は走って行ったという。君原氏にとってもザトペックにとっても走ることは内的必然性をもっていることなのである。登山家も,なぜ山に登るのか?と聞かれて「そこに山があるから」と答える。自分が登りたくて登り,そして登ることに幻滅を感じない。ところが,このように強い内発的感情を持てない人間は恩着せがましくなる。自分でやった行動に自分が意味を感じることができないから,「おまえのためにやってやった」と他人に恩を着せることで,その行為の正当性の根拠を見つけようとする。「感謝を要求する父親は最低の父親だ」という言葉がある。それは恩着せがましい父親のことであろう。つまりこの父親は自立できていないということなのである。自立できていない親に育てられた子供はたまらない。父親は自分のやることに自分で意味を感じることができないから,「お前のために」と子どもに恩着せがましくなる。そのことで子どもの人格は親に吸収されてしまうのである。つまり子供もまた自立できなくなる。内発的感情を持てない人間,自分のやったことに自分独りでは意味を感じられない人間は,他人に恩を着せることで意味を感じようとする。「こんなにしてあげたのに,そんな態度をよく取れるものだ」などと常に恩を着せて不機嫌になっている人が自立していない人である。----------------------------何に対しても無気力になってしまったとき興味を抱けなくなってしまったとき。そんなときは自分の無関心の背後にある原因を探る必要がありそうです。なぜ自分の感情に目を背けるのだろうか。そこに自分が目をそむけたくなるような憎しみが閉じ込められているかもしれません。憎しみの原因が実はこれまで尊敬していたと思い込んでいたものかもしれません。しかしそれに気づいたときにはきっと自分の自然な感情に従って行動できる自分を見出せそうです。他人の期待は怖くないと思えた時に自分で自分を受け入れられるようになると思います。これまで信じてきたことが覆るかもしれないので,目をそむけたくなるかもしれませんが,この問題をクリアしなければ無気力感から脱することはできないかもしれません。みなが「あるがままに」生きられますように。
2008.10.31
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日経夕刊より「こころのサプリメント」言いたいことが言えない多くの相談者の言葉として「(わたしは)~できない」がある。この言葉で立ち止まってしまうと,カウンセリングにおいて悩みの解決は難しくなる。30代のA子さんは,今の部署に異動してきて以降,上司から業務のことで繰り返し注意を受けていた。しだいに自信を失い,意欲や気力もなくなりカウンセリングに訪れた。業務に慣れないうちに上司から高度な要求を受け,注意を受けている状況が語られた。まず,上司の業務の与え方に無理があり,現在のA子さんに高度な要求をして注意するのは筋違いであることを伝えた。さらに,それにこたえられないからと言ってA子さんの能力がないわけではないことを理解してもらい,自信を取り戻してもらった。そのうえで,A子さんの気持ちを上司に伝えて改善を求めるよう提案した。しかし「私には無理です。上司が怖くて言えません」と弱々しい声で話す。そこで「でも,もしあなたが上司に言えたとしたら?」と問いなおしてみた。しばらく考えたいたが「言えたらとてもすっきりします。上司も多分びっくりするでしょう。今のように無理難題を押し付けて注意することはなくなるかもしれません」と表情が明るくなった。「本当はどうなりたいの?」と尋ねると,「ちゃんと言える自分になりたい。頑張ってみようと思います」と答えた。後日,上司に自分の気持ちを伝え,状況は改善された。これを契機にA子さんはこれまでの展望のない「できない」人生から,目的に向かってチャレンジする前向きな人生へと変わっていった。「できない」という言葉は無力感を引き起こし,自分の言葉で自分自身の可能性をストップさせてしまうといわれている。これに対して「もしできたとしたら?」という言葉は,今まで考えてもみなかった可能性を引き出し,自分自身の枠を広げていく。前向きな未来をイメージすることが,楽に一歩を踏み出す大きな力となる。(ピースマインド臨床心理士 三上道代)-------------------------------一回失敗した経験などを経ると,「できない」回路ができてしまいそうです。「できない」は自分自身に壁をつくっているだけかも。過去の失敗をもとに自分の未来が作られているとしたら悲しいことです。どうせなら「できる自分」を想像しながらやるべきことをやりたいです。負のスパイラルを断ち切って,正のスパイラルをつくって楽しい未来をつくっていければいうことなし。もし,過去の失敗に引きずられて自信をなくしているなら,一度心をリセットして,できなかったことができたらどんな未来が描けるかを想像したいです。
2008.10.23
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加藤諦三(2008)「行動できない人」の心理学.PHP研究所面白いから練習するのではない。練習するから面白くなるのだ『現代スポーツ心理学』という本を読んでいたら,国際競技の経験のあるコーチが,根性のある選手は次のような特徴がある,と語っていた。1.勝つためには,どんな苦しさや困難にも耐え,それを克服する努力をする。むしろ苦しさに耐えることに喜びや満足感をもっている。苦しさに耐える喜びというとまるでマゾヒズムみたいであるが,ここで言っているのは決してそうではないと僕は思う。要するに,練習しているうちに自分自身が変化してきて,困難がただ困難だけではなくなり,喜びにもなってきたということなのである。練習しているうちに,面白さが出てくるということであって,面白いから練習するというのではない。もちろんそういうこともあるが,それだけではないということである。2.一つのことに打ち込む行動傾向をもち,これが日常生活にも練習にも示され,ほかの人よりも少しでも多く練習しようとする態度があり,自己に対して極めて厳しい。これも初めから面白くて何かに打ち込んでいくというより,やっているうちに面白くな手打ち込むようになる,ということであろう。まず何かをやらねば打ち込むものも出てこない。何かをやっているうちに,そのことに打ち込むようになっていくのである。何かをやっているうちに興味がさらにわいてきたり,興味の焦点が変わってきたりする。3.苦しい練習に耐え,それを実行し続けたことから強い自己信頼感や自信を身につけている。ある人は,自信というよりもむしろ信念にまでなっている。何もしないで自信を持とうとしても,それは無理な話である。自信というのは何かをやった後の結果として出てくるものである。自信があるから何かをやるのではなく,何かをやるから自信がついてくるのである。-------------------------------何かをやる前に自信を失って手をつけないでいるということがよくあります。その場合は,ただ座っているだけでは何の解決にもならない。少しでも自信をつけたければ,いつもとは違う行動をとらないと前に進まないように思います。スポーツなどは自分に打ち勝つことができるかどうかがポイントかも。オリンピックに臨む選手はこれまでの練習の積み重ねがあるから本番で自信をもって本番でパフォーマンスを発揮できます。これ以上ないほどつらい練習に耐えてきた,妥協せずに弱い自分に打ち勝ったという自信がみなぎっています。だから,結果が望んだものにならなくても,今の自分の結果を素直に受け入れることができるのだと思います。ここまでやってこれたということの自信そのものは揺るがないと思います。だから自信をつけるために,まず今までとは違う行動を起こそう。そして,練習や辛いことに耐えることの面白さを感じよう。
2008.10.17
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斎藤茂太(2000):「いくつになっても「輝いている人」の共通点」祥伝社黄金文庫.毎日が楽しく,希望に満ちている。病気にかかりにくく治りも早い。仕事が面白い。何を食べてもおいしい―「輝いている人」たちは,心と体のバランスのとり方がうまい!人生をどう生きるかについて書かれた一節なので紹介します。あなたの心がつらいのは自分のせいだあなたには自分の心を楽しくする義務がある心が晴れ晴れしない時は「どうして自分はこんなにクヨクヨしやすいのか」と自分を責めることで一層惨めな気持ちになってしまう。では,どうして心が晴れ晴れとしないのかと考えれば,確かにみんな,自分のせいなのである。自分のやり方や考え方を変えれば,この瞬間は楽しく過ごせる時間に変えられる。何があなたの心を悩ませているのだろうか。いやな上司だろうか,口うるさい周りの人間だろうか,失敗した仕事のことだろうか。それともうまくいかない人生や,お金の不満だろうか。ここであなたがどんなことを思いついたとしても,私はあえていう。それはあなたの心の問題でしかないのだと。いやな上司も,口うるさい親も,仕事もお金も家庭もあなたを不幸にすることができない。なぜなら,あなたの心の中を支配しているのはあなた自身なのだから。今,この本を読んでいるとき,少なくともあなたは人生の様々な問題に直面してはいないだろう。あなたは今,この時点では,誰からも文句を言われてもいないし,けんかの最中でもないだろう。失敗した仕事は過去のものであろうし,恥ずかしかった出来事もとうの昔に終わったことである。お金がないといっても,今サラ金にとりたてられているわけではない。なのに,なぜクヨクヨし続けるのかといえば,あなたが好んでそのことについて考えるからである。忘れたくても忘れられないというのは,間違っている。忘れたくないから忘れないのである。いやな出来事は忘れようと自分に言い聞かせなくてはならない。強く,言い聞かせるのだ。いつも心が安定して楽しく過ごすためには,過去のこと,未来のことを考えないことである。目の前にあることを楽しむことに没頭しなくてはいけない。簡単な例でいえば,日曜の夜の精神状態がそうだろう。せっかくの休みだというのに,明日から始まる月曜日のことを考えて憂鬱になる。これほど残念な日曜日の過ごし方があるだろうか。憂鬱になっても,楽しく過ごしても月曜日はやってくるのである。それならば,月曜日の朝にだけため息でもつけばいい。前の晩から長々とため息をつき続ける必要はない。前の晩の不幸の原因は,あなたの心が考えてしまったことにある。朝,妻や夫とけんかをする。家を出て電車の中でもまだむしゃくしゃしているとすると,むしゃくしゃしている原因はあなたがいまだに考えているせいである。けんかのせいではない。強いていうなら,あなたの頭の中で再現されているけんかのせいかもしれないが,けんかをした時も場所もすでにそこにないことを忘れてはならない。失敗した仕事だって,次に気をつければいい。いつまでも考えて落ち込んでいたのでは,ますます失敗も増えるというもの。あっけらかんとしてるために,「何と無責任な」と言われてもかまうな,かまうな。いつまでもクヨクヨすることで,誰に何の得があるというのだろう。すぐ忘れて,目の前の仕事に没頭した方がよほど能率的だ。もしも,病気にかかって狭い病室にいなければならないとしても,心が落ち込むようなことは考えないでいたいものである。心配する方が体に悪いとは再三述べている通りだ。忘れようと努力することは大切な心の健康法である。「考えない」ことも同様である。にわとりは三歩歩くと忘れるというが,そのやり方を見習うべしと言おう。不幸は自分の中で作り出すものである。傍から見た情景に自分まで惑わされてはならない。幸せでいよう,と強く願おう。周りの環境や状況はあなたの心に手も触れることはできない。心の幸せや安定はいつだって自分のために作り出せる。忘れることや何かに没頭することで・・・無用な心の悩みには,今日で別れを告げよう。考えるのは目の前にあることだけ。人生それで十分ではないだろうか。-----------------------------心の悩みを抱えている友人や仲間は多いです。自分もそうです。悩みの原因はたいていは人間関係です。人間は人との関係の中でしか生きられないので,人との関係では誰もが少なからず悩むことがあると思います。自分はそれよりもお仕事のことで悩むことの方が多いですが,本書を読むとたいしたことはないなと思います。日々やりたいことができているから何も悩むことはないはずなんだけれど,まわりを見ると自分が恵まれない環境にいるような気がしてきます。しかしよく考えると,今したいことをして夢にチャレンジできること自体が幸せなことだと思えます。やるべきことはただ一つ。目の前の課題を一つずつとりあえずこなしていくということだけ。知らず知らず充実した生を送っていることに気づくものかもしれません。もう自分の内面について振り返ることはやめて,自分がすべきことの優先順位をつけて一瞬一瞬を大事に,大事に。
2008.10.10
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今日の日経夕刊より転載します。「こころの健康学」話しやすい環境づくり勉強会で「しばらく黙っていてください」と,下の人から言われた。勉強会に出席している仲間はとても活発で,発表内容に対して,我先にといった感じで発言をする。私も,雰囲気につられて,つい最初から発言することがある。しかし,他の出席者が私の意見に気を使って,自分の意見を言いにくくなるというのだ。他の出席者は,私よりも20歳以上も若い人たちばかり。病院での勤務を終えた後に,勉強のために集まってくる。私は,出来るだけ同じ立場で話をしたいと考えて,他の人たちと同じように発言しようとしている。しかし,いくら同じ立場で話をしたいと考えても,客観的にみれば随分年上の先輩だ。先に自分の意見を言ってしまうと,それとは違う意見を口にするのは難しい。企業の管理職にこうした話をすると,そのような状況の中でも「是は是,否は否」と,自分の意見を言えるようになることが大事なのだという人がいる。正論ではあるが,みんながそのように強く振る舞えるわけではない。自分の意見を主張すると,生意気だと言って不満に思う上司がいることもある。下の人間が,自分の意見を主張するのはかなり勇気がいるのだ。話しやすい環境を作ることも,上司にとっては大切な仕事だ。その意味では,耳の痛いことを下の人たちから率直に言ってもらえるのは,それなりに良い関係を築けているからだろうと考えて,心の中でそっと満足している。(慶応義塾大学保健管理センター教授 大野 裕)--------------------------正直に言って後輩から言われる指摘や批判はかなり耳が痛いです。自分の不甲斐なさが感じられて悔しくなります。それでも率直に意見してくれたことにはいつも感謝しています。自分が後輩に意見するときには,後輩がある程度意見するのを待ったうえで,それらの意見を踏まえていうように心がけています。それでも待ちきれずに思わず意見してしまうことが多いです。そのおかげで後輩がしゃべりにくい雰囲気をつくってしまったかもしれません。会議や勉強会などで自分が上の立場にあるときには,できるだけみなが発言できるように自分の意見を主張しすぎないように気をつけたいと思いました。
2008.10.07
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斎藤茂太(1995):「肯定的人生観のすすめ」KKベストセラーズ.本書の最後には,若々しく生きるために心がけたいことが列挙されています。世の中には幸福も不幸もない,幸福だと感じた人が幸福なのだ1.何事に対しても旺盛な好奇心をもつこと歳をとればとるほど,経験から結果が予想されて,なかなか好奇心を抱くことができなくなりがちだ。好奇心こそが,いつまでも何事に対しても挑戦して前進するためのエネルギーだ。2.できるだけ多くの人と積極的に付き合うことことに自分と異なる世代との付き合い,異性との付き合いを忘れないこと。これは孤独にならないことを心がけることでもある。3.新鮮な感動を得るような体験を得ることこれは好奇心とも関連するが,常に新たなことを体験しようという意欲とともに,感動できるみずみずしい感受性を持ち続けたいものだ。ただ感動をもつのではなく,積極的に自分の手で作り出し,自己暗示をかけることも大切である。4.遊びや趣味をもつこと仕事はしなければなrないことだが,遊びは好きでするものだ。好きでやることがたくさんあるほど,人生は豊かになる。5.いつもユーモアを心がけることユーモアは,人間関係をよくしてくれる。しかも,深刻になりがちな自分の気分もほぐしてくれる。さらに,その場に応じたジョークを言おうとすれば,脳細胞を活発に働かせなければならない。6.オシャレを心がけるベストドレッサーである条件は,勇気,積極性,判断力,適応性,バランス感覚,そしていい意味での自己顕示性である。自分の服装に関心がなくなったら要注意だ。適度な緊張があってはじめて,外向きの自分を演出することができる。それは当然外の世界に対する関心と通じるものだ。自分の服装に関心がなくなっているときというのは,外の世界に対しても無関心になっている時だ。7.色気をもつこといつまでも異性にもてたいという気持ちは持ち続けたいものだ。もちろん,その気持ちが過剰になっても困るが,もてたいという気持ちは,自分の気持ちに張りをもたせ,また時にやせ我慢であっても無理しても,自分のいい面を出そうとするものである。この色気がなくなったら,いわゆるオジン,オバンということになりかねない。8.思いついたら,とりあえず始めてみる思いつきをすぐに実行できるということは意欲的だということだ。何かをやりたいと思っても,すぐにマイナス面ばかりあげて実行に移さなければ,いつまでたっても何もできない。とにかく,こだわらずに始めてみることである。9.変化のある生活を心がけるマンネリに陥ると,気分的にも落ち込みやすい。好奇心をもつこと,感動を求めることとも関連するが,意図的に変化をつけて,メリハリのある生活を心がけることが大切である。10.適度なストレスを楽しむストレスから逃げるというよりも,ストレス自体を楽しむくらいの心の余裕をもつことである。適度なストレスは,活力のもとになる。----------------------表題の幸福に関する文章はシェークスピアの言葉です。人の一生はせいぜい100年です。どうせ生きるなら人生を否定的にとらえるより,肯定的に。不幸だと感じながら生きるより,つねに幸福を感じながら生きたいです。だれもが望んでいることかもしれないですが,自分だけが不幸だと感じてしまう人が多いです。現代社会には情報があふれて,ただでさえストレスの量が増えています。それらをすべて真正面から受け止めていては身がもたないかも。他人と競争する機会が多いと,他人に愚痴もこぼせなくなるかも。どうやってやり過ごしたり,自分なりに受け止めるかが重要なのかもしれません。仕事は仕事としてやりがい,生きがいをもたらしてくれます。そのほかに時間は限られているのだということを意識しつつ,興味があるものにとりえず手を出してみればそれだけで人生は豊かになる。幸福を感じる心のアンテナをみながもてますように。
2008.10.01
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斎藤茂太(1995):「肯定的人生観のすすめ」KKベストセラーズ.「人間関係は自分の人生の鏡」→「否定的な見方を捨てれば人生は楽しくなる」→「肯定的な人生観のすすめ」となった。自分に対する希望を失わないために自分が置かれている状況は,常に満足すべきものではないであろう。むしろ,満足できるというのはごくまれなことかもしれない。人生にはいろいろな要因がある。人間関係もあろうし,自分の調子もある。自然という侮れない相手もある。そういう意味では,自分自身の力はわずかなものである。運命というと大げさになるが,人生,ちょっとした運,不運で随分と変わってしまうことがある。だから,運が悪かったと腐ってしまうと,坂道を転げ落ちるように悪い方に行ってしまうことがある。また,幸運に恵まれたからと言って舞い上がってしまっては,大きなツケが回ってくることもある。常に平常心をもって全力を尽くすのが大切であろう。こういうと大変なことのように思うかもしれないが,言葉を換えれば自分に対する希望を失わないことである。つまり,自分を見失わないことである。だいたい,大失敗するときというのは自分を見失って我を忘れた状態の時が多い。焦っているのだ。頭を冷やすというが,冷静になることである。カッとしてしまってはろくなことはない。人間は感情をもつ生き物だが,感情にも豊かな心を満ち足りたものとしてくれる感情と,理性を失って激情にかられた感情では雲泥の差がある。激情はうまくいくものもぶち壊してしまう。それは,自分だけの勝手な思いにすぎないからだ。心を満ち足りたものとしてくれる感情は,いろいろなものとの調和が取れなければ生まれてこない。私たちは関係性の中で生きているのである。中国の賢者,老子の言葉に「自勝者強。知足者富」というものがある。「自ら勝つものは強し。足るを知る者は富む」と読むが,意味は言葉の通り,自分に勝つものは強者であり,己に足るを知る者は富んでいるという意味である。自分に勝つというのは,ともすると感情的になりがちな自分を抑えることができるということであろう。そのうえで,自分自身をよく知り自分の器量を了解すればおのずとやることが的を射て,結果に満足がいくということであろう。自分の能力というのは限られているから,それなりの結果しか生まない。それをこれしかできないと思うか,これだけできたと思うかでは大きな違いがある。自分の力を過信することなく,自信をもつことだ。自分でもこれだけできるのだと思えれば,それは大きな自信となっていくだろう。足るを知るとはそういうことであろう。そうして,この積み重ねが生きていく希望をも生み出してくれるものと信じている。------------------------------------自分の能力は限られている。自分が思ったとおりにできないと自信をなくしてしまうのは,自分の能力を過信している場合がほとんどです。他人と比べてこんなはずではないという最高のパフォーマンスができない自分を責めてしまいます。自信をつけるには,まず自分の身の丈を知る必要がありそうです。そのうえで,自分のできる範囲の中でできる範囲の目標を掲げればいいのではないか。目標に向かってとりあえずできる限り一生懸命にやると,結果は成功であれ失敗であれ出てきます。目標に向かって進もうとすること自体が自信につながってくるので,結果に一喜一憂することはないと思います。失敗すれば失敗したときに次の対策を考えれば次につながります。こうした考え方はすべて正論ではあるけれど,実行し続けるのはなかなか大変。どうしても背伸びをしてしまいます。常に自分を褒める努力をして,今ある自分を「これでいいのだ」と思うことから始めよう。
2008.09.19
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町沢静夫(1999):「なぜ「いい人」は心を病むのか」PHP研究所.親友だから悩みを打ち明けられない私は今子どもたちが一番ほしがっているのは,「親しさ」だと思っています。今の子どもたちの関係というのは実に浅い。だから,彼らの間では「親友」という言葉がすでに死語になっています。本当は,彼らはいやなこともすべて含めてさらけ出しあえる本音の親しさがほしいのですが,それは得るべくもなくなっています。彼らに言わせれば,親友とは自分の悩みや嫌なことは絶対に話さない仲なのだそうです。そんなことを話したら嫌われてしまう,親友に逃げられてしまうというのです。だから,みんなが人に嫌われない「いい子」になってしまいます。ではそういう本音の部分は誰に話すのかというと,お母さんだといいます。お母さんが親友の嫌な部分を全部引き受けているために,彼らの本当の親友にはいいこと,楽しいことしか話さない。だから彼らは真の親友を失っていると言えそうです。携帯電話がはやるのも,フェイス・トゥ・フェイスの対人関係が苦手だからという側面があると思います。電話なら直接顔が見えないから,安心して長電話ができるのです。今NTTを一番喜ばせているのは,女子中学生,高校生です。インターネットは特に対人恐怖のひとで「オタク」が多く,ひそかな犯罪もそれによって生じることもあります。直接会うと,表情が手に取るようにわかるから下手をすれば相手を傷つけてしまうかもしれない。また,自分も傷つけられたくない。彼らもやはり「いい人」でいたいのです。それならば,電話なら顔も見えず間接的ですから,割に気を使わないで自分をさらけ出せるというわけで空前の携帯電話ブームが起きているのです。なぜそんなことになってしまったのでしょう。一つには,子ども同士で遊ぶことがなくなってしまったということがあげられると思います。そのため,お互いの心や感情の結び付け方がわからなくなってしまった。一緒に遊んでいれば自然に覚えることなのですが,社会から遊びが奪われてしまったということではないでしょうか。現代は,受験,塾,習い事で時間が奪われ,遊ぶ場所もなくなってしまいました。ですから,今の子どもたちは遊ぶのにアポイントメントをとらなければならないといいます。「何曜日の何時から何時までならば空いているけれど,あとは時間がないなあ」と言ってゲームセンターなどで会う約束をします。そして何をやっているかというと,一人がゲームをやっていてもう一人は黙ってそれを見ているだけというような異様な光景を現出しているのです。時々家で遊んでいる子どもたちを見ていても,二人だけがファミコンをやっていて後の三人は黙ってコミックを読んでいるなどということが普通になっています。要するに,本当の親しさに触れるような機会は彼らから喪失してしまったといえるでしょう。----------------------------今は同じ境遇にいる人同士がオンライン上で集まって本音を語り合えます。逃げ場があることが一人でいることをより助長しているような気もします。子どもたちの遊び場が消えて,親が必死に受験戦争に駆り立てることも,一人でいることを助長しています。小さい頃に家の近くに草が伸び放題伸びた空き地が遊び場でした。近くの子どもと一緒になってよく遊んでいました。でも,あるとき駐車場に変わってしまいました。とても寂しかった記憶があります。ゲーム機は買ってもらえなくて友だちのゲームの話題に全然ついていけなくて寂しい思いをしました。今となってはこれでよかったのだと思えます。年間3万人の自殺者が出る時代。リアルには本音を誰にも語ることができずにみな必死になって生きています。今日は小6の女の子が自殺したニュースが出ていました。日常生活で幸せだと思う瞬間がいったいどれくらいあるんだろう。でも,自殺したい人だって本当は生きたいはず。100%死にたいと思ってる人はいないと信じています。なぜなら,死ぬことそれ自体は,彼らが望んだ生き方ではなかったはずだから。大人になれば生活のために苦しい思いをすることもあるかもしれないけれど,子どものときは何も考えずに笑っていられるようにしたい。しかし,大人が決めたルールがそれを許していないような気がします。夜の電車内で塾のカバンを背負った塾帰りの子どもたちがはしゃぎながら何度も行ったり来たり走り回っていたのを見たことがあります。乗客は少なかったけど乗り合わせた誰もが腹を立てていたと思います。僕もその一人でした。でも誰も注意はしませんでした。子どもたちにしたら,帰り道の車内にしか遊び場がないのかもしれないと思うと,かわいそうな気もしました。今週の「あいのり」では,ラオスでの子どもたちの生活が紹介されていました。みな親の手伝いをしながら,学校に通うので,忙しい家庭はある程度年齢を重ねてから学校に通わせることもあるそうです。だから小学5年生でも年齢にはバラつきがあるそうです。みなが同じように家事を手伝います。家族が同じ屋根の下で農業を営みながら自給自足の生活をしています。子どもたちはコマ回しや,パチンコ,チャンバラ,ゴムとび,縄跳びなどをして遊んでいました。まさに三丁目の夕日の世界。驚いたのは人数がとても多いことです。誰かが遊んでいると,ほかの子が自然と集まってきてみんなで遊び始めます。みなが人並みの生活をしているんだという平等の感覚をもっているからこそ,争ったり孤立したりすることなく助け合って生きていけるのだと思いました。ラオスでは自殺者は年間に1人いるかどうかだそうです。それに比べて日本はなんて生きにくいことか。苦しいことはたくさんあるけど,せめて自分だけは笑顔と希望は忘れずに次の世代に夢を与える仕事をしなければなぁ。
2008.09.11
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細川貂々(2007):「その後のツレがうつになりまして。」幻冬舎.「ツレがうつになりまして」の続編です。もう続編は書かない予定だったらしいですが,ツレの服用していた薬が飲まなくてもよくなったので,うつは治るのだというメッセージを伝えるために書かれたようです。うつがよくなっていくときのプロセスをツレを支える漫画家テンさんの目線から書かれています。なるほどと思った箇所を一つ。うつ病患者に治ろうとする意欲がなくてやる気がないと思ってイライラした時は・・・やる気を出そうとするともっと悪くなるのがこの病気なので「やる気がない感じ」に見えたら,「チャージしている」と思って安心する怠けてしまうことはこれまで,やる気がないのか,病気から来ることなのか判断がつかないことがありました。でも明らかに病気からくるものです。だから,チャージはいい言葉だと思いました。むしろお昼寝をしているのはいいことなんだと思えます。そして,コラムとしてマンガの途中にツレのつぶやきも載ってます。その中で「本当は誰もが恵まれている」ことに気づけることが大事だと書いてあったのが印象的でした。自分の内面を振り返る時はたいてい落ち込んでいるとき。だから,自分の過去の失敗や足りないところばかりを見て,余計に落ち込んでしまいます。常に自分は恵まれている,幸せだなと思うように意識していないといけないのかも。それとも,ふとしたきっかけで,恵まれていると感じられるようになるのかな。
2008.09.10
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加藤諦三(2008)「行動できない人」の心理学.PHP研究所人生は祭りだ何事も「くだらない」と思える人に捧げる言葉は,”人生は祭りだ”ということである。祭りなどはくだらないと言ってしまえばくだらない。しかし祭りに参加している人間にとっては面白くて仕方ないのである。祭りの面白さは理屈抜きの面白さである。この人生のひとつの岐路は,理屈抜きの面白さを味わえるか,どうかにある。ところが「くだらない」という考え方をしていると,この理屈抜きの喜びの体験を回避することになる。「くだらない」という無意味感を持つことによって,自分からこのような機会を拒絶してしまうのである。おいしいものを食べることなども大切なことであろう。「食べる」ことなどといって軽く見てはならない。そしてこれがまた大切なことなのだが,おいしいものを味わう能力があっておいしさを楽しめるのではない。おいしいものを食べているうちに,舌が肥えてくるのである。そして舌が肥えてくると「食べる」ということが楽しみになる。すると遠くにまであるものを食べに行くようになり,そこから人生が明るくなるということもある。食通になってから,という考え方をすると,人生は味気なく,むなしく,不安と心配に襲われてくる。まず,いろいろ食べることなのである。絵画だって同じである。とにかくデパートなどの展覧会に行くことであろう。絵がわかってから行くのではなく,デパートに絵を見に行くから絵がわかってくるのである。良い絵を見ることが絵の鑑賞眼を養う。それから絵を見る楽しさが出てくる。したがって自分は絵を見てもつまらないからと絵画の展覧会に行かないという人は,人生を暗い感情で過ごさなければなるまい。それは絵ばかりではない。陶器だろうが,書道だろうが同じことだである。自分の感情が低調になってしまうのは,基本的に元気になったら活動しようという考え方で生きているからである。活動するから元気になるので,その逆ではないということを忘れてはならない。スポーツをしながらよく”ファイト!ファイト!”と声を出すのは,元気だからではない。逆に声を出すことで元気になろうとしているのである。元気だから歌うのではなく,歌うから元気になることを忘れてはならない。歌うことも食べることも,決して「くだらない」ことではない。生きることがなんとなくつまらないという人,精神的活動の低調な人は,何事も決して「くだらない」という前提に立って行動してはならない。そのように生きることで,いよいよそのくだらないという前提は自分の中に強化されてくるのだから。灰色の人生をバラ色に変えるためには,まずその灰色の前提に立って生きることをやめることである。逆に人生は素晴らしいという前提に立って生きることである。今の学問なんて結局くだらねえ,などと決して言わないことである。金儲けなんてくだらねえ,結局死ぬんじゃねえか,などとも言わないことである。政治なんてくだらねえ,あんな汚れたもの,などともいってはならない。それらをやっている人は,ゲームに参加することの方が面白い,という前提でゲームをしているのである。その結果として明るい感情を持っていられるのである。踊る阿呆に見る阿呆,同じ阿呆なら踊らにゃそんそん,というのは踊っている人間の言葉であろう。まず踊る側に属するか,踊らぬ側に属するか,というのは,大問題である。---------------------------------自分は学部時代に大学祭の実行委員をしていました。学部2年まで広報活動をしていて,3年からはOBとして後輩をサポートしつつ,OB同士でお店を出したり,バンドを組んで野外ステージにも出ました。きっかけは,友人が広末涼子をコンサートに呼びたいから一緒に説明会についていったことです。最初,自分は全く興味がなかったです。新入生歓迎コンパやイベントに参加しているうちに,大学祭に居場所ができました。お祭りそのものよりも,先輩方の温かさや馬鹿騒ぎすることの楽しさに惹かれました。そして,他学部との友人もできました。大学祭では同じ目標に向かって縁の下で支えることの大切さを学びました。はっきりいってお金になりません。授業もさぼってやらないと準備が大変な時がありました。お祭りに参加しない一般の学生はしらけている人もたくさんいます。それでも,意味のないお祭りで盛り上がることで,お金には変えられないたくさんのことを学べました。たくさんの仲間,先輩と後輩との信頼関係,広報活動の大切さなどなど。今でも当時の友人とお付き合いがあります。やっていくうちに楽しさに気付いて,のめり込んでいくことはたくさんあります。ものを書くときにも筆が止まることがよくあります。最初から論理的な文章を書こうとするから一文字も書けないのであって,意味が通らない文章でもいいからとりあえず書いてみることが大切です。よく指導教官から「とりあえず書け」と言われました。このアドバイスはその真理を突いています。
2008.09.03
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町沢静夫(1999):「なぜ「いい人」は心を病むのか」PHP研究所.いじめの標的になりやすい子どもの性格日本の子どもたちの中には,いじめは悪いことだという意識がそんなに浸透していないようです。アメリカと日本で,同時に中学生とその母親に対して行われた意識調査があります。そのなかに「いじめに対してどう思うか」という質問項目があり,「絶対にしてはいけない」と答えたのはアメリカで94.4%,それに対して日本ではわずか64.2%でした。アメリカの社会や家庭がもっている正義感や倫理観が,日本では極めてあいまいであることを表している調査結果だと思います。また日本の別の調査では,いじめる側の61.1%が「学校はとても楽しい」と答えており,当然のことながらいじめられる側では21.1%しかありませんでした。このいじめる側の子どもたちは,勉強やスポーツが苦手という調査結果も出います。つまり,いじめっ子たちにとって学校の何が楽しいのかというと,唯一いじめであるということができるかもしれないのです。しかしいじめは子どもばかりではありません。大人,政治家,官僚,学校の先生方,PTA,医者の学閥制度,教師の学閥傾向,これらは皆おとなの立派ないじめなのです。その大人が子どものいじめをなくそうというのですから滑稽な状況になるのです。ところで,いじめられっ子というのはどういうタイプの子どもたちなのでしょう。彼らはひ弱で自己主張ができません。だから,自分が受け入れられないというようなところには極力行きたくないとして引っ込み思案になります。また,やはり自分を主張できずに人の後ばかり付いていこうとする「依存性人格障害」の子どもたちも,格好のいじめの標的になります。本来は,その子どもたちが強くなって対人関係能力を身に付け,学校でいじめっ子たちにいろんな形で負けないように工夫すべきなのです。しかし,そのためにはやはりお父さんとお母さんが家庭にいて,自分の家の秩序や倫理観というものを教えて身につけさせていかなければ,そのような力はなかなか発揮できません。繰り返しになりますが,その意味でも私は,過保護,いじめ,家庭内暴力,不登校といった一連の社会問題は,初期のしつけ方の低下と家庭からお父さんという核が消えて,母子密着になってしまっていることにその原因を求めることができると思っているのです。----------------------------日本ではアメリカと比べて子どもがいじめを悪いと思っていない理由を説明しています。大人の社会でいじめがあることは,アメリカでも一緒だと思います。日本では,しつけが十分ではないと感じます。日本で「いじめられる子にもいじめの原因がある」と答える子どもがなんと多いことか。水谷修氏が講演した内容が思い起こされます。お父さんは会社で上司にしかられる。たまったストレスは,お酒を飲んで愚痴をこぼせばいい。お母さんは育児で疲れる。たまったストレスは,お母さん同士で高級レストランに行って舌鼓を打てばいい。子どもは親のいう勉強しなさいの連呼に家庭でストレスがたまっていく。強い子どもは弱い者いじめをして学校でストレスを解消すればいい。いじめられた子は,不登校や登校拒否をしてひきこもりできればいい。一番悲惨なのは,いじめられているのに,がんばって学校に行き続ける真面目な子です。学校にも家庭にも居場所がなくなってストレスのはけ口がなくなります。その結果,自分を傷つけたり自殺したりするほど追い込まれてしまいます。社会でたまったストレスは一番弱いところへと向かっていくようです。親は子どものストレスを受け止めてともに解決してあげる必要があります。学校でのいじめがなくならないとしたら,家庭がその解決のための唯一の場所になりそうです。子どもは狭い世界しか知らないし,その中でしか生きることができません。家庭で居場所がない場合に,駆け込み寺のような逃げ場をつくる必要がありそうです。
2008.08.31
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こころのサプリメント部下を感情的に怒ってしまう勤労者の心のケアが叫ばれる一方で,心の病気が原因で仕事ができないのか,病気を理由に怠けているのかの見極めが難しいという現場の戸惑いも聞かれる。IT(情報技術)企業で管理職として働く40代のA氏もその一人である。部下の一人がうつ病を発症し,出社拒否に陥った。休職を経て復帰したものの,主治医の許可なく服薬を中断したり,遊び過ぎが原因で体調を崩して休んだり,ということが目につく。そのため周囲の不満が高まり職場全体の士気が低下。管理職としての対応に悩みカウンセリングに訪れた。まずA氏には,従来型の頑張りすぎて陥ったうつ病には受容的なかかわりが有効だが,最近増加している現代型(非定型)のうつ病は受容型なかかわりは逆効果だと説明した。その上でどのように部下と接しているか尋ねてみると「~しちゃだめじゃないか」などと感情的に起こることが多いとわかった。この対応法は人によって効果はあるが,相手が素直な気持ちで受け取りにくく,人間関係も悪化しやすいといわれる。そこで冷静に叱る方法を実践してもらった。部下の現状を事実に基づいて指摘し,それについて部下の考えや解決策を訪ね,実行してもらう方法である。結果,部下が自分の問題と向き合い解決策を責任持って実践せざるを得なくなり,問題行動が消えていった。現代型うつ病の例に限らず,A氏のように上司が部下をしからないでいると,部下の行動の改善は望めない。叱ってこそ部下は成長できる。問題はその叱り方であり感情的に「怒る」対応は,部下が従うか反発して抵抗するかのどちらかとなり,効果が期待できない。逆に冷静に相手の間違いや問題点を指摘し,相手に考えさせる「叱り方」は,相手が問題に気づいて解決策を実践するため成長できるといわれている。部下の対応にどちらで臨むかで結果は大きく変わるが,叱り上手は有能なリーダーの条件といえる。(ピースマインド臨床心理士 三上道代)------------------------------------上司もいろいろなら部下もいろいろ,同僚もいろいろ。部下を持つようになると,どれほど手をかけて指導するべきかで悩みそうです。問題解決へのプロセスを見据えて,ともに考え,本人が問題点に気づくようにサポートする姿勢を取らないと,冷静に叱るのは難しそうです。本人はやる気があるのに,アプローチが少しずれている場合に当てはまりそうです。そこで現状を頭ごなしに怒ったり,一方的に批判するだけではどうすればいいか路頭に迷ったうえに,自信をなくして燃え尽きてしまうと思います。自分が望む「部下」像を押し付けるのでは,その期待が裏切られた時に感情的な怒りとなります。それよりも部下の立場になって育てる意識をもつことが大切だと思います。
2008.08.28
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こころのサプリメント日経の夕刊から自分を知る3つの方法が書かれていたので紹介。塾講師のA子さん(48)が,大学4年(23)の長男の意欲のなさで相談に訪れた。A子さんの家庭は,53歳の国家公務員の夫と25歳の長女がいる。長女は子どもの時から活発で,国立大を卒業して,今,米国の大学院に留学中。一方,長男はスポーツも習い事も続かない。大学4年になっても就職活動もしないで,漫画とパソコンばかり。このままでは将来が心配ですと訴えた。翌週,A子さんは長男を伴ってカウンセリングにやってきた。彼は「できの良い姉とずっと比較され,『お姉さんに比べて弟さんはね…』と言われ続け,自分は何のとりえもない。こんな自分は自分でも嫌だけど,やることも見つからないし,やる気がわいてこない」と自分の心境を話してくれた。まずは長男に「あなたは自分の本当の姿,才能に気づいていない。親や周囲の人々が見せてくれた鏡に映った自分を自分だと信じさせられてきた」と伝えた。そして本当の自分を知るために以下の3つを試してもらった。1.自分の長所,好きなこと,子どもの時から今まで思いついた夢を毎日ノートに記す2.人生に関する3冊の本を読み,3本の映画を3回見る3.今まで読んだ漫画の中で最も好きだったものを3つ選んで,好きな理由を考える。これらを試しているうちに彼は自分自身のことを冷静にとらえなおすことができてきた。正義感が強く,社会のために働くことが好きな人間であることに気付き,大学を卒業してもすぐに就職せず,非政府組織(NGO)で国際ボランティアをすることにした。親はわが子をみる時もほかの子と比べてしまう。部活動や学校の成績などが優秀な周囲の子どもについ目が奪われがちだ。幼いころから他人と比べられ,自身を失った子供が立ち直るのは簡単ではない。子どもの個性はそれぞれ。親は一人一人の子供をそのまま受容し,わが子の優れた点に気づいてあげることが大切だ。(ファミリーカウンセリングサービス 荒木 次也)----------------------------幼いころから他人と比べられる環境にいて,自信をつけてもらえるような温かい言葉をかけてもらえなかったら本人は居場所がなくなると思います。「あなたはあなたのままでいい」とある程度悪いところ,不得手な部分には目をつぶって,いいところをとことん伸ばすような配慮があれば個性を生かして成長することができたんだと思います。僕は中学受験を経験しました。そのために自分から塾に行きたいといった手前,途中で投げ出したくなった時もあきらめずに頑張りました。塾では頭のいい子がたくさんいました。小学校4年生から放課後,違った環境で勉強を続けること自体が大変でした。夏休みも年末年始も宿題がたくさん出ました。小学校の中では成績が良くても,塾では悪い点数を取ることもしばしばでした。毎回最初に算数のテストをして帰る間際に採点されて返されます。先生は答案をそれぞれに返した後,点数と名前を控えるために,100点,90点・・・というように呼びかけます。自分の取った点数のところにきたら,自分の名前と点数を叫んで伝えなければいけません。自分が悪い点数を取って最下位になったときでも点数を最後に報告しなくてはいけません。ビリから2番目の子の点数とかなり離れて断トツの最下位でした。その時の情けなさといったらなかったでした。帰ってきて悔しくてベッドで泣いてしまいました。そこに父親がやってきて「大丈夫。よく頑張っている」と頭をなでてくれたのがとてもありがたかったのを覚えています。自分に自信を失くしかけた時にかけてくれる一言がどんなにありがたいかわかりません。
2008.08.22
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町沢静夫(1999):「なぜ「いい人」は心を病むのか」PHP研究所.この本のテーマは,他人との関係において傷つくことを恐れ,傷つけることを恐れて,「いい人」になってしまう結果,自分を見失い,自分の本音すらわからなくなるような状況を変革したいというところにあります。ぶつかり合いを避ける親子関係現代の家庭を見てみると,お父さんたちはますます会社に尽くさなければ自分の椅子がなくなってしまいます。いや,実はそのずっと以前から,バブルよりももっと前の高度経済成長期と呼ばれたころから,父親は会社人間にならざるを得ませんでした。その頑張りが日本の経済を支えたのです。したがって,家庭は母親に任せっきりという形になってしまいます。当然子育ても母親の役目となります。それでも子どもの数が多かった時代は,母親も必死で子どもを怒鳴り,ぶつかり合って育てていましたが,今や前代未聞の少子化時代,お母さんは母ひとり子ひとりのような関係の子どもを大事に大事に育てるようになってきました。いや,育てるというよりも,母親が子どもをペット化しているといった方が正確かもしれません。ほしいものは何でも買い与え,ぶつかり合いを避けつつ子どもの個性を無視して自分の理想を背負わせようとしています。本来なら,なかなか家に帰れない父親の代りを母親が果たし,大人社会の価値観や道徳を教えたり,子どもの間違いや悪癖を正したりして子供とぶつかり,子どもが乗り越えるべき対象にならなければならないのですが,ぶつかるどころか自分が子供に依存し,ペット化しているのです。これでは子どもの自我が育つ隙間がありません。自分という者が欠落した若者たちが厳しい競争社会に投げ出された時,彼らはそれに適応できず,ボーダーラインの症状を呈して多くの疾病を抱え込んでしまいます。ボーダーラインの対策には,本当の母親の愛情と,社会的な対応が必要なのです。子どもたちは,内心お母さんに愛されるにはどうしたらいいかと四苦八苦しているのです。そこに母子のぶつかり合いがあれば,疑心暗鬼の中でも自己形成はできていくわけです。「愛は地球を救う」という番組がありましたが,愛だけでは救えない。それなりの倫理というか,大人社会の規律を指し示してぶつかり合う中で自我は育っていくのです。-------------------------------自分の子供をペット化してしまう親は結構多いと思います。4年前に家庭教師をした子どもは,小5の男の子でした。彼は2人兄弟の弟で,母親から溺愛されていました。もともと体が弱かったからかもしれません。ブランド物の服を買い与えられていて,確かにファッションセンスはあるのですが,自分一人では何もできないといった感じです。高級外車が大好きな子でした。趣味嗜好がすべて親譲りのものでした。もともと塾に行っていて,その宿題を独りでできないからということで,家庭教師を依頼されました。その子を楽しませながら勉強させるのは大変でした。家庭教師を頼む親は子どもをペット化しているケースが多いのかなと思いました。結局,半年ほどで辞めさせられました。学校では女の子と遊ぶことが多いといっていました。周りとなじめないことも多いのかなと思いました。彼のその後が心配です。子どもをペットのように溺愛することと,本当の愛情とは違うと思います。友人のような親子関係も本当の愛情が伝わらないと思います。小さい頃は善悪の判断がつかないので,価値基準は親にしか頼らざるを得ません。親はダメなことはダメだと教え諭さなければ,打たれ弱いままになってしまいます。大きな愛情で子どもを無条件で受け入れつつ,いいことは褒め,悪いことはしかる。それが「しつけ」であると思います。
2008.08.19
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自分に気づく心理学愛蔵版本書の最後に自分を大切にすることがいかに重要かを説いています。自分にやさしく小さいころの満たされない愛情欲求を大人になっても引きずって,他人の目を気にして生きている,この苦しんでいるあなたに何かを期待する人など,決して,決して穴との心の底を満たしてなどくれない。すさんだあなたの心を,あなたへの期待でさらにすさんだものにするだけの話である。他人の期待にこたえられないのが恐くてあなたは勤勉に頑張っている。それが何よりもあなたが愛情欲求不満である証拠だ。愛情欲求不満でない人も,他人の期待にこたえようと勤勉に頑張る時がある。しかしそれは期待にこたえられないことが恐いからではない。それはあくまで他人への愛情である。愛されなかったものは恐れている。人間の心は不思議である。小さい頃愛された人は,大人になっても自分を愛する。しかし小さい頃愛されなかった人は,大人になっても自分を自分で愛さない。人間の意志はここでこそ働かせなければならないのではなかろうか。私は小さい頃我執の人たちに囲まれて育った。私は愛されなかった。しかし私は私を愛して見せるぞと決断することである。この決断が心の虚無を満たしていくスタートである。いやもう走り出している。なぜならそう決断する人は自分の愛情欲求不満のすさまじさに気づいているからである。気づくことがスタートである。Take care of yourself.この言葉は小さい頃愛されず,大人になってもその愛情欲求不満を引きずって生きている人には大切な言葉である。そして自分が自分をいつくしみ,やさしくすれば,自分の周囲で誰が自分に優しい人なのかもわかる。そして自分に優しくしてくれる人とも出会える。情緒的に成熟した人は,ある人が自分に優しくするという行動をとった時それを許す。愛情欲求不満を引きずって,心の底で自分に批判的になりながら,虚勢を張ったり,うぬぼれていたりすると,いつになっても心やさしい人と出会えない。---------------------------------人間はみな弱いと思います。そんな弱さを見せずに,虚勢を張った人と話しても,どこか本音が見えません。むしろがんばって虚勢を張っていることで,本当の自分を出せない姿が,かわいそうに感じることすらあります。でも,そういう人は虚勢を張ることでしか,自分を保てないと考えています。自分に自信がないから虚勢を張らざるを得ないのもわかる気がします。自分の弱さを正直に告白しながら,他人と本音で語り合える人の方がよっぽど人間的に魅力があると思います。虚勢を張っている人は,その性格がなかなか治りません。でも,その性格が小さい頃に愛されなかったと感じていたことに原因があるとすれば,納得できます。人は人との関係の中で自己実現していく生き物だと思います。だから,幸せになるためには,他人といい関係を築く必要があります。虚勢を張ってうぬぼれた自分で居続けると,その場では自分を取り繕うことができたとしても,ゆくゆくは自分の望んだ関係をつくっていけないように思います。
2008.07.31
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自分に気づく心理学愛蔵版他者に本当の自分を知られることを恐れるなあなたは自分の何を他人に隠そうとしているのか。あなたは自分の何が他人に知られることを恐れているのか。あなたは心の底で自分に自信がないことを知っている。心の底で自分に失望している。しかしそのことを他人に知られたくない。そのことを他人に知られたくないから,他人にはいかにも自信がある「ふり」をする。しかし,だからこそ他人に嫌われるのではなかろうか。他人に好かれるか嫌われるか,親しくなれるか,なれないかは案外単純なことなのである。実際の自分を他人に知られたくなくて,隠そうとする。そして心の底で感じている実際の自分と違った自分を,他人に印象付けようとする。そうすることで嫌われることが多い。心の底にある幼稚な自分の願望を他人に隠そうとする。なぜ隠そうとするかといえば,知られたら軽蔑されるのではないかと不安だからである。心の底にある自分の幼児的願望を相手に知られたら相手から拒絶されると思って必死に相手から実際の自分を隠す。実際にはそのことによって相手から好きになってもらえないのに,その人はそれによって好かれると錯覚している。実際の自分を隠す人は,隠すことで好かれようとしながら,逆に嫌われているのである。心の底で自分に自信がない人が,その自信のない自分を他人と自分に隠さなければ,他人と本当に親しくなれることが多い。親密になるということはそういうことであろう。(中略)他人は自分の欠点をも含めて自分を好きになってくれているのに,そのことがどうしても理解できない。欠点があったら見捨てられると不安になって,それを隠そうとしてしまう。それは,もともと神経症者には他人を理解しようという姿勢のないことからくる悲劇である。自分中心に世界が回っている者の悲劇である。他人の気持ちを理解しようということより,他人に自分をどう印象付けるかということにばかり気がいってしまう。---------------------------------確かに,自分に自信がないときほど,他人にどう思われているかが気になって,相手に好かれようとします。好かれようとすればするほど,自分の内面ばかりに目が向いてしまいます。しかし,相手の役に立つことで,相手から評価を得ることが,相手に好かれることではないと思います。自分が何もしなくても,相手が自分に好意を寄せている状態が本当に好かれているということでしょう。このとき,自分は本当の自分をさらけ出していて,そうした本当の自分に相手が好意を寄せています。自分の内面よりも,相手の気持ちに寄り添っていて,相手の気持ちを理解しようとする気持ちがあるのだと思います。このことは,相手から悪く思われないようにふるまうこととは違います。他人からこうしなければ嫌われると思うことは,まさに自分の心がさせていることだと思います。自分に自信がないときほど,自信のない自分をさらけ出せるようになれればいいのかな。
2008.07.18
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不安のしずめ方【内容情報】(「BOOK」データベースより)人生の最大の敵は、「不安」である。それを何とかしのいで、少しでも楽に生きてゆくための、「心の習慣」をやさしく教える。人に優れていると認められなければ生きていけない不安に立ち向かうとは,どういうことか。第一に,他人から優れていると思ってもらわなければ生きていけない自分を認めることである。自分で自分の存在を確認できない自分。自己同一性を他者に確認してもらわなければならない自分。他者から,「あなたは素晴らしい」と言われてはじめて,「私は素晴らしい」と思える自分。これらの自分を認めることである。そして,第二には,「自分はなぜこれほどまで他人が自分をどう思うかが気になるのか?」と自分に問うことである。「なぜ自分は他人によく思ってもらうことがこれほど絶対に必要なのか?」と自分に問うてみることである。原因は小さいころの「愛情の欠如」と気がつくであろう。そこで,最後に,その原因を自ら乗り越えようとすることである。それが自ら不安に立ち向かうことである。内面の不安に立ち向かうことは,時に百万の外敵に立ち向かうことよりも困難である。しかしそれに勝利したときには,百万の外敵に勝利したよりも喜びは大きい。--------------------------------------最後には自分で乗り越えることが大事だと説いています。自分に自信がないときほど他人の目が気になります。だから自分で自分の努力を認めることができずに,他人からの評価が唯一自分を認めてあげる基準になってしまいます。だからもっと認めてほしいと思うときには,そう思ってしまう自分を見つめなおすことでしか,不安を取り除いたり,自信を取り戻したりすることはできません。よく考えれば他人に認められたいと思うときほど,自分自身にしか関心がなくて,他人を評価するところまで気が回っていないかもしれません。他人に認められたいという気持ちが大きい割には,逆に他人を評価する気持ちを持つことができなくなってしまします。そもそも自分の頑張る姿を見せることだけが,他人の評価基準じゃないと思います。それより自分らしい自分を素直に出せる方が,よっぽど人間的に魅力があると思います。弱い自分を認めることが結局は不安を取り除き,自信をつけることにつながります。そして,最後には自分の人生を自分の責任で決めていければ,人が自分をどう思っているかが気にならなくなると思います。不安は数えればキリがないけど,自分の努力でなんとかなるものと,どうしようもない漠然としたものを区別して,やるだけやったらしょうがないと見切りをつけることが大事かもしれません。
2008.07.09
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不安のしずめ方【内容情報】(「BOOK」データベースより)人生の最大の敵は、「不安」である。それを何とかしのいで、少しでも楽に生きてゆくための、「心の習慣」をやさしく教える。人の期待に背くことが怖いストレスの最大の原因は,「こうしなければならない」と思い込むことである。そうなれば,「もし,こうでなければどうしよう」と不安になる。たとえば,講義を,「このように」しなければならないと思い込む。すると,「こうできなければ」大変だと思う。「こうできなければ」失敗であるとなれば,人は誰でも「失敗しはしないか?」と不安になるだろう。失敗すると何が起きるか。まず「人の期待にこたえられない」ということである。小さい頃から人の期待にこたえることで生きてきた従順な人は,ものすごくストレスが強い。自分自身の喜びの体験を味わわないで,人の期待にこたえることだけで生きてきた従順な人は,人の期待に背くことが怖い。それは,小さいころから自分自身の喜びの体験を大切に生きてきた人には,想像もできないほどのストレスである。愛されないで育った人は,「人の期待にこたえなければならない」という思い込みで苦しむ。ときには期待されていないのに,期待されていると感じてしまう。そして,「もしかして人の期待にこたえられないのではないか?」と思うと,それだけで血圧が上がる。小さいころから人の期待にこたえて生きてきた従順な教授は,「学生の期待にこたえられないかもしれない」と思っただけで血圧が上がる。不安とストレスで眠れなくなる。愛されないで育った人は,水を飲まないでいる人と同じである。のどが渇いた人は,戦争のときでも,平和のときでも,水,水,水と水のことしか考えられない。それと同じで,愛された体験のない人は,「どうしたら愛されるか,どうしたら気に入られるか」ということしか考えられない。北極にいても,熱帯地方にいても,それしかない。「今はどういう時代か?」など関係ない。今,自分がどこにいるかも関係ない。ある人から見れば,その言動は「笑うしかない」ような滑稽なことである。「人の期待にこたえなければならない」と思ってきた人は,自分で何も選択していない。だから,好きな人も,好きな食べ物も,自分で選択していない。だから自分がわからない。そのうえ,努力する割には報われない。憂鬱に苦しむ。消耗して働くことがつらい。人間関係にも悩んでいる。最後は燃え尽きる。-------------------------------------愛されないで育ったから人の期待に背くのが怖くなるのかどうか正直わかりません。でも,人の期待にこたえることを一番に考えると身がもたなくなるかもしれません。講義を例にした話は自分の状況に置き換えて共感できる部分があります。講義で書かれたクレームや要望にいちいちこたえようとしていたらどこまでいっても自分が満足する講義はできません。自分のしたい講義からも遠ざかっていくかもしれません。意見はある程度流して,自分のしたいことをもっと優先した方がいいと思いました。今の自分をこんなはずではないと思うということは,「こうあるべき」自分の目標が高すぎる場合がほとんどです。過去の最高の自分を「基準」にしてしまうと,少しのパフォーマンスの低下が許せなくなるのかも知れません。オリンピックはアスリートにとって,特別な大会です。国の期待を背負って戦います。でも,そのプレッシャーに押しつぶされてベストな成績を収められない選手が多いです。オリンピックに出るための試合では自分のための,オリンピックでは,国や国民のために頑張って,過度な期待が選手たちにかけられているような気がします。その中でも自分をしっかりもって,力を出せるアスリートがストレスに強いといえるかもしれません。
2008.07.05
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不安のしずめ方【内容情報】(「BOOK」データベースより)人生の最大の敵は、「不安」である。それを何とかしのいで、少しでも楽に生きてゆくための、「心の習慣」をやさしく教える。見捨てられる不安子どもは親から「見捨てられる不安」を持つ。そして,子どもはその不安ゆえに親への憎しみを抑えて「いい子」を演じる。その結果,子どもは生きることそのものが不安になる。つまり,周囲の世界を脅威に感じてくる。自分の人生に何か良くないことが起きるのではないかと恐れるようになる。そして,この恐れこそ,人をいつまでも依存的にしておく原因であろう。子どもの場合には,今,述べたような心理過程は理解できる。しかし,大人になったあなたが,同じように「見捨てられる不安」を持つことはない。無理をして相手に従順になることはない。あなた自身の好き嫌いを表現してもよい。子どもは見捨てられたら生きていけないが,あなたはその人に見捨てられても生きていける。あなたが嫌な相手にさえ無理をして従順になるのは,小さい頃の見捨てられる不安を,たんに再体験しているにすぎない。今,目の前にいるその人に気に入られないからといって,あなたに何か不都合なことが起こるだろうか。小さい頃のように,その人の保護をあなたは必要としているのだろうか。小さい頃は,気に入られれば必要な保護を得られた。しかし今,大人になったあなたが,その人に気に入られたからといって,何かあなたに必要なものが与えられるだろうか。子どもの不安の発生原因の一つは,「あなたがいい子でなければ愛さない」という親の脅しである。それは子どもにとって確かに脅しである。脅されれば,見捨てられないかと不安になり,従順になる。しかし今,大人になったあなたが,「俺にとって都合よくなければ愛さない」という相手の脅しに不安になる理由がどこにあるのだろうか。子どもは親の保護なしには生きられない。だから見捨てられる恐れがある状況で不安になる。子どもは常にだれかに全面的に依存し,その人から保護されていないと不安でたまらない。しかし,あなたは子供ではない。自分が大人であることを忘れて,小さいころの不安を再体験しているのはおかしくないだろうか。一般的に,特に不安な子どもは,心理的に親を必要とするために,親に気に入られようと自己主張を避け,自分の欲求を犠牲にする。例えば,子どもは一人でどこかに行きたいのだが,親の意に沿わないかと恐れてそこに行くことをやめることがある。親に気に入られないのではないかと,やりたいことを次々にあきらめていくことがある。-------------------------------------幸せになるためには,親との関係を見直さないといけないのでしょう。小さいころの不安を引きずったままだと常に不安から逃れられないのかも知れません。自分の場合は勉強しろと言われなかったので自分の意志で行動できたような気がします。だから自分のやったことを誰かのせいにすることもできなかったです。たとえば,小さい頃に塾に行くといったのは自分の意志でした。だから,どんなにテストが難しくて,宿題が多くて,遊ぶ時間が少なくなっても,自分が言ったことだから途中で投げ出せないという思いがありました。その結果として今の自分があると思えます。それは自分が選んだ道なので自分がいる境遇にある程度納得できています。といっても金銭的に自立できていないので,何を言ってもまだ半人前のような気がします。まずはそこをクリアすることが今の目標です。
2008.06.26
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不安のしずめ方【内容情報】(「BOOK」データベースより)人生の最大の敵は、「不安」である。それを何とかしのいで、少しでも楽に生きてゆくための、「心の習慣」をやさしく教える。心の支えがないからいつも不安だ自分の意見がなくて多数派にいる人と,自分の意見があるために孤立している人とでは,どちらが強いであろうか。おそらく,その時点でのその組織の中での力は,多数派にいる人であろう。しかし,長い人生で心理的挫折がなくて生き延びられるのは,孤立している人のほうである。個人としての強さは,その組織の中での力ではなく,自分の意見があるがゆえに孤立している人である。もちろん,ここで言っているのはいわゆる「うるさい少数派」と言われる人々のことではない。認められようと行動して,幸いにも認められている人と,それほど認められていない人だが,自己実現型の人出は,どちらが強いか?社会的にみると,強者に属するのは前者であり,弱者に属するのは後者である。しかし,個人としてみると強いのは後者である。迎合している人は,組織の中では時に優位な立場を占めるが,個人としては弱い。個人として強いというのは,長い人生で心理的挫折が少ないということである。別の言葉でいえば無気力にならないということであり,ノイローゼにならないということであり,憂鬱に苦しめられないということであり,物事に無関心にならないということである。なによりも変化に強い。復讐心で動いている人の弱さは,ここにある。認められるためにだけ動いている人と,復讐心で動いている人の行動の動機は同じである。迎合する人も,復讐する人も個人としては弱い。自己実現型の人は,心の中に支えがある。だから重苦しくふさぎ込むことはない。心の中に支えがあるから,変化に立ち向かえる。しかし,認められるためだけの行動をする人や,復讐心だけで行動する人は,自分の心の中に支えがない。いつも不安である。変化が怖い。迎合で不安は増幅していく。---------------------------------------程度の差こそあれ,認められたい思いは誰もが持ってる感情だと思います。しかし,それを第一の目標に掲げてしまうと,どこまでいっても見放される,評価を下げられる不安と戦う必要が出てくるかもしれません。自分は自分の信念に従って,正しいことをしているのだと思えれば,社会の評価が上がったり,下がったりすることに一喜一憂することもないかもしれません。そうはいってもやっぱり自分の目標が,本当に自分にとって正しいのか,不安になることはよくあります。自分に自信が持てなくなるときほどそういう状態になります。そんなときは他人と話して,自分を客観的にみてみる必要がありそうです。自分の内面ばかりに気を向けると,自分のことだけ,しかもマイナスの部分しか目に入らなくなりそうです。他人の評価が気になっても,本当は遊びも仕事も自分がしたいことを適当にしてただ時間つぶしをしながら生きられたら幸せなんだろうな。
2008.06.20
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加藤諦三(2005):「やさしい人」PHP研究所.プロローグより人はやさしくなれれば,生きることは楽になる。でも,なかなかやさしくなれない。それは,やさしくなるためには,心の葛藤を解決しなければならないし,やさしい人と接しなければならないからである。それにはどうすればいいかをこの本では考えた。「明日死ぬとしたら,今なにをしたいか」と考えて行動する難しいことだが,認められようとして無理をしないことである。無理をしている人は,相手が,期待したことをしてくれないと傷つく。自分としては,そこまで無理をして相手のためにしたのである。「それなのに自分の努力を認めてくれない」となれば,相手が憎くなる。無理をしたのに認めてくれないどころか,相手から,「無理しなくてもよかったのに」などと言われたら,深刻に傷つく。もし,相手が気を使わない人であり,憎しみを出しても平気な人ならまだしも,そうでないときには怒りが内にこもってしまう。だいたい無理をする人は,相手が気にならないということはほとんどない。気にならないなら,初めから無理をしない。だから,傷ついても相手を攻撃できない。自分の不満を直接表現できない。無理をしている人間は,自分で自分の首を絞めているのである。あなたは無理に無理を重ねて頑張った。そして,その無理が何の役にも立たなかった。かえって,その無理が悪いほうに転がって行った。周囲のずるい人は,あなたの無理に頼って生きるようになった。だから,無理をしそうになったら,「明日死んでしまうとしたら,私は今なにをするか?」を考えるそしたら,「この無理してしようとしているイヤなことなんか,どうでもいい」と思えてくるのではないか。人から認めてもらうことではなく,「やるべきこと」に気づいてくる。うつ病になるような人は,自分のためだけの一日を実行してみよう。今日一日が死への一歩。死は必ず来る。だからこそ,今日一日を精いっぱい生きる。今日一日が死への一歩であると思えば,「この人に好かれるために」という動機で無理をしなくなるだろう。悩んでいるよりも,今したいことをしなさい。今日一日が死への一歩であると思えば,その人はしたいことをする。したいことをした後は,人は悩まない。今という時間に悩んでいる人もいれば,その間に徳を積んでいる人もいる。--------------------------------認められないと,自分が社会の中で生きていけないという思いがあります。世の中の役に立ちたいという思いがあります。でも世の中に役に立つことと,身近な人に認められるために行動することとは一致しないことも多いかもしれません。自己犠牲のもと,すべてを投げ打って,ただ他人のために生きることはなかなか大変なことだと思います。他人のためを思ってしてあげることは,偽善でもよい行いかもしれません。しかし,見返りを求めないという条件付きだと思います。認められるための無理はきっと相手に見返りを求める行動なのでしょう。認められること自体が自分の目的だから,自分本位の行動ができなくなりそうです。世の中の役に立つための無理は,自分本位の行動です。しかし,他人を顧みず自分のことしか考えない利己主義とは違います。無理の動機がいつの間にかすり替わってしまうこともあるかもしれません。そのとき,よく高校で教わった一言を思い出します。「死ぬために生きろ」当時はなんとなくしか意味がわかりませんでした。今は明日死ぬつもりで今を大切にしなさいということだと思っています。そして,一瞬一瞬を一所懸命に生きた結果として,死ぬ時にいい人生だったと言えれば人は人生を全うしたといえるということでしょう。
2008.06.13
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昨日の日本経済新聞夕刊に載っていた記事を転載します。こころのサプリメントA子さんは国立大を首席で卒業し,大手メーカーに入社した。意気揚々と仕事に取り組んでいたが,数カ月後,当初の勢いがなくなっていた。学生時代は時間をかけて隅々まで学べば10点を取れたが,仕事ではそんなやり方は通用しない。上司から「君は完ぺきを求めすぎる」「無駄を省いて,ポイントを絞ってくれ」と何度も注意を受けた。しかし,どこを省けばよいのか,何が重要で何が重要でないか判断できない。残業や過重労働が続き,体調を崩してカウンセリングに訪れた。完ぺきにこだわる理由には仕事をできる自分は評価され受け入れてもらえるが,出来ない自分はだめなものと思われ見捨てられてしまう,という根深い不安があった。不仲な両親のもとで常に気を遣いながら,二人が気に入るような良い子として振る舞ってきたことを次第に語り始めた。日ごろ不機嫌な両親も,良い成績をとった時は笑顔でほめてくれたという。そんな暮らしの中で,良い子の自分は受け入れてもらえるが,そうじゃないと見捨てられるという不安を抱くようになった。そのことが現在の仕事にも影響していたのだ。カウンセリングで両親への怒りの感情や悲しみを吐き出してもらった。そして,両親から見捨てられていたとしても,Aさんには生きる力があり今日まで自分の力で生きてきたことを気付いてもらった。そのうえで,A子さんが自分らしく振る舞っても,絶対自分自身を見捨てないと宣言してもらった。その結果,人からの評価を恐れずに行動できるようになり,効率的に業務をこなせるようになった。他人の気に入る良い人でいる時,あるいは他人の目を恐れて完ぺきな自分でいようとするとき,根底に見捨てられる不安が隠れていることが多い。もし自分の中に見捨てられる不安の気持ちを見つけたら,あなたがあなた自身を絶対見捨てないと誓ってあげることだ。それがあなたらしい生き方を支えてくれる。(ピースマインド臨床心理士 三上道代)----------------------------------他人にどう思われようが最後には自分を信じてあげる。他人に批判されて,自信を失ったときにこれを実践するのは難しそうです。でもできない自分も含めて「それでもいい」と認めてあげないといずれつぶれてしまいそうです。自分を受け入れて初めて他人に依存しない自分,自分の意志に基づいて行動できる自分になれるのだと思います。自分もあらゆる人からほめられたいという気持ちがありました。しかし,それは決して本当の意味でのいい人ではないことがわかりました。人間は誰しもどこかに欠点があります。それを受け入れたときに,かえって自信のある自分,他人に依存しすぎない自分をもてるようになるのでしょう。
2008.06.05
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加藤諦三(2005):「やさしい人」PHP研究所.プロローグより人はやさしくなれれば,生きることは楽になる。でも,なかなかやさしくなれない。それは,やさしくなるためには,心の葛藤を解決しなければならないし,やさしい人と接しなければならないからである。それにはどうすればいいかをこの本では考えた。劣等感「自分に欠けているところを認めることでやさしさが生まれる」そのやさしさが周囲の人に安心感を与え,人々を寄せ付ける。だから,自分に欠けているところを認めること。「それはわかっている」と言うかもしれない。では,頭では分かっていても,欠けているところを認められないのはなぜか?その理由は2つある。1つは,いま述べたように,自分の好きなことがないから。もう1つは,周囲の人と張り合っているからである。もちろんこの2つは関係している。好きなことがないから人と張り合ってしまうのである。欠けているところを認められないのは,「あいつに負けて悔しい」とか,「私を軽蔑したあの人が許せない」とかいう,「あいつ」や「あの人」がいるからではないだろうか?小さい頃,あるいは大人になってから,誰かに傷つけられることを言われた。自分に欠けているところをバカにされた。その時の心の傷に,その後の人生を支配されてしまっているのである。自分を見下げた人を許せないのである。だからどうしても,自分に「それ」が欠けていることを認められないのである。頭の悪いことをバカにされた。そこで,「どうせオレは頭が悪い」と投げやりになった。あるいはことさらに,「オレは頭がいい」と周囲の人に見せる。「オレは頭がいい」と言い張る。そう見えるための努力をする。そして,頑張って燃え尽きる。燃え尽きる人は意味のない努力をしているのである。燃え尽きる時に,エリートコースに乗っていても意味がない。エリートコースに乗っている人が生命力があるわけではない。こうして,燃え尽きる人はいろいろと勘違いをしている。まず,あなたの欠けているところを指摘してあなたを見下げようとする人は,ひどい劣等感に苦しんでいる。やさしい人は心が満たされていると何度も書いてきた。心が満たされている人は相手を認める。これも何度も書いてきた。だから,あなたの欠けているところを指摘してあなたを見下げる人は,心が満たされていないのである。その人があなたを認めないのは,その人自身が自己蔑視に苦しんでいる。自己蔑視に苦しんでいる人の一言一言を,どうしてそんなにまで重要視するのか。あなたを見下げた人は,心理的に溺れかかっている。その人はあなたを軽蔑することで,自分の心を癒そうとしている。実は,その人と張り合っているあなたも,劣等感に苦しんでいる。あなたが劣等感に苦しんでいなければ,その人を問題にはしない。やさしい人は燃え尽きない。それは,自分の弱点を受け入れているから燃え尽きない。やさしい人の努力は報われる。---------------------------やさしい人もいろんな意味がありそうです。ここでいう「やさしい人」は,自己を犠牲にしてまで他人の期待にこたえて行動する人ではなくて,自分の意思をもちつつも,他人に思いやりを持って接する人のことを言うのでしょう。小さい頃に傷ついた経験をもって育つと,傷つかないように他人に過度に迎合してしまうのだろうと思います。傷つけられないようにがんばって迎合してきたにもかかわらず,他人に傷つけられた時のショックはとても大きいと思います。ずっと劣等感に苦しめられてきたのに,それを認めてやさしい人になれというのは並大抵のことではないと思います。劣等感があったとしても,自分の弱さをひとつずつ認めていくことから始めていくしかないのでしょうか。
2008.06.01
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斎藤茂太(2006):「『ゆっくり力』ですべてがうまくいく」集英社文庫.責任感責任感が強く,まじめな人・・・こういう人がストレスを溜めやすい理由は,開き直ることができないからである。「責任感が強い」ということも,「まじめに仕事に取り組む」ということも,もちろん悪いことではない。ただ「責任感」には,ふたつの種類がある。それは,仕事人間の責任感と,会社人間の責任感で,この二つは似通っているようで,同じではない。仕事人間は,仕事への責任感が強い。いい仕事をして,お客さんに喜んでもらい,社会へも貢献する・・・そういうことに強い使命感を持つタイプだ。会社人間も仕事への責任感は持っている。しかしそれは,お客さんに喜んでもらうため,社会へも貢献するためというよりも,「自分は課長なのだから,失敗は許されない。うまくやらなければならない」という責任感だ。早い話が,保身のための責任感で,立場やメンツといったものが,最も優先される関心事になっている。「まじめ」ということについても同じだ。仕事人間のまじめさ,会社人間のまじめさ・・・両者とも,まじめに仕事に取り組むが,会社人間の場合は「保身のため」「立場やメンツを守るため」なのである。開き直ることができず,精神的なストレスを溜め込んでしまうのは,この会社人間のほうである場合が多い。そもそも心のありようが違う。仕事人間のほうが仕事に対して,ずっと前向きで,積極的に取り組み,壁があれば自分の力で何とかしようと動き出す。しかし会社人間の「保身のため」「立場やメンツを守るため」というのは,いわば受け身の立場だ。「いい仕事をしよう」というより,「間違いのない仕事をしよう」「人から非難されないように仕事を進めよう」という意識が強く働いている。こういう受け身の人のほうが,ストレスを溜める度合いはずっと強くなる。いつも神経をピリピリさせ,人の目を気にしながら働いていかなければならないからだ。生きてゆく上で,一番恐れなければならないことは,「責任感」「まじめ」・・・という社会的な美徳を大切にするあまり,それに縛られ,自分の能力を自分の手によって「殺して」しまうことだ。社会的な美徳に忠実になりすぎて,「自分のよさ」を生かせないのである。このような人は,世の中に大勢いると推察する。「過ぎたるは及ばざるが如し」だ。開き直ってこそ,自分の本領が発揮できる。生きるのが楽しくなる。-------------------他人に振り回されずに、自分の思ったように生きろというアドバイスだと思います。日本では「まじめ」であることが美徳とされているような気がします。自分の意見を控えて相手を立てる、という謙譲の気持ちも評価される風潮があります。でもそれを優先しすぎると、自分の思いを心の底に封じ込めてしまって、気持ちがパンパンになってしまいそうです。いかに開き直れるか、多少駄目でも、そんな自分を受け入れてあげられるか。最近は常にこのことを言い聞かせています。
2008.05.29
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斎藤茂太(2006):「『ゆっくり力』ですべてがうまくいく」集英社文庫.自分らしさのびのびとした気持ちで,ゆうゆうと生きていきたい・・・おそらく,誰もが心の中で思っていることだろう。ところが実態はどうか。「自分にムチ打って,がんばっている」「あくせくしながら,先を急いでいる」・・・ふと気がつくと,心の中とは別のライフスタイルをやっている。いや,世間の価値観に合わせていたら,知らず知らずのうちに,「ホンネの自分」から外れていったということだろう。それでも,がんばればがんばった分,給料もどんどん上がり,いい生活も保障されるなら・・・先を急いで,人よりも先に立っていれば,それで出世もでき,自分の人生に満足感が得られるなら・・・。そうなればやりがいもあるが,世の中というのは必ずしもそういうものではない。いくら頑張っていても,給料は下げられてしまうこともあるだろうし,先を急ぐばかりに,身体にも心にも無理がたたり,病気になって立ち往生することもあるだろう。そんな人の姿を身近なところにみれば,気持ちも少しは変わってくる。おそらく,「人の身に起こることは,自分の身にも起こる」という,世の中の心理に思い至る・・・あるいは,教訓として身にしみるのだろう。そして,ホンネの自分に沿った「いい暮らし」に,目が向くようになり,「がんばっても,先を急いでも,しょうがない。こんなことなら,もっと,ゆっくりと生きていく方が幸せになれそうだ」という結論に達した人たちが増えてきたとしても,当然のことかもしれない。そして,もうひとつ,こちらの方が大切なことなのだが,実際頑張ることや,むやみに急ぐことをやめてみて,「やはり,ゆっくり生きることは,いいものだ」という実感をもっている人が多くなってきているのだろう。私なりに「ゆっくり生きる」ことのメリットを挙げれば,●自分らしさを取り戻せる●結果よりも,そこに至る過程を楽しめるようになる●生きることの深い味わいを感じ取れるようになる・・・などである。なんといっても「自分らしく生きる」ことが,自分にとって一番大切なのであり,「これが私の生き方なんだ,自分らしい生活の仕方なんだ」と感じられることが,日々の大きな喜びとなる。人を上回りたい,人よりも贅沢をしたい,人を出し抜きたい・・・と,いつも人のことを気にしていては,とても「自分らしく生きる」ことなどできない。そして,ふと気づいたら,「まるで他人のように生きている自分」「自分という実感をもてない自分」を発見して,取り返しのつかないような恐ろしさを感じる人もいる。とかく人と自分を比較したがる悪い癖がなくなったとき,初めて自分とゆっくりと向かい合うことができるし,自分にとっての一番大切なものを手に入れることもできるのではないだろうか。「自分らしく,ゆっくり」が,よい。-------------------生活できるだけのお金があればの条件付きのお話かもしれません。そのうえで、自分の生き方をしっかり見据えて過ごすことを大事だということなのでしょう。しかし、社会の中で揉まれているうちに組織の意思決定に振り回されて自分を犠牲にしていることも多くなるかもしれません。自分に自信がないおかげで他人の期待に沿って生きてしまうこともあるかもしれません。他人の目を気にせずに自分のゆっくりな生き方を自分で認めてあげられたらどんなに楽かわかりません。しかし、世間はなかなかそれを許してくれるような気がしないのは自分だけでしょうか。
2008.05.22
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斎藤茂太(2006):「『ゆっくり力』ですべてがうまくいく」集英社文庫.いつも挫折するのは,すぐに結果を求めるから「習い事を始めても長続きしない。これまでにいろいろなものに挑戦したが,ひとつもモノにならなかった。ことごとく途中で挫折してしまう」という人がいる。そういう人たちは,自分には根気がない,ものごとに飽きっぽい・・・というコンプレックスを抱えているケースも多い。しかし,それは違う。途中で挫折する原因は,おそらく,「すぐに,うまくなってやろう。上達してやろう」という考えが頭の中を占領しているからだ。「すぐに上達したい。そして,人から,誉められたい。上達した自分の腕を,誰かに自慢したい」・・・と,そんな下司な考えを持っている人は,なかなか長続きしないのである。すぐに結果を出すことに,こだわりすぎてはいけない。いうなれば,「仕事をするように」習い事を始めたのがいけなかったのだ。仕事と習い事は,いうまでもないが,次元の異なるものである。仕事では結果が求められる。しかし習い事は結果を求めるよりも,うまくなっていく,その過程を楽しむことができれば,それでもいいのだ。それを,まるで仕事をするかのように,結果を出すことに性急になってしまうから,習い事を続けていくのが嫌になってくるわけだ。いや,働くことにしても,実はそうかもしれない。もちろん結果を出すことは大切である。しかし,結果を出すことばかりに意識をとらわれてしまうと,心があわただしくなっていけない。何かにせかされるようにして働き,そのためにストレスにも苦しめられて,結局,働くことが苦痛になってくる。いやいやながら働いていたとしても,いい仕事,満足のいく仕事はできないだろう。「仕事を好きになれ」とは,よく言われることだ。しかし,その「しくみ」は,結果に執着するのではなく,働くこと自体,その過程を楽しめるようになれ,ということだろう。ゆっくりと楽しみながら働く。これが働くことを長続きさせるコツだ。-------------------仕事の場合は特に新しく取り掛かり始めたころは,手順を覚えて環境に慣れるだけでも大変です。その割にはなかなか上達せずに結果がついてこないことも多いです。企業勤めをしていると,結果だけが求められる傾向が多いかもしれません。しかし,結果を出すことだけが仕事の目的ではないと思います。仕事は仕事と割り切ることも必要かもしれません。また仕事を通して自分がどう成長したいかを考えていくことが大切なのかもしれません。
2008.05.14
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斎藤茂太(2006):「『ゆっくり力』ですべてがうまくいく」集英社文庫.部下のゆっくり力よく叱られる人は,「なぜ自分だけが」と思っているかもしれない。しかし,上司はその人を嫌っているわけではない。コントロールタワーの仕事を心得ている上司なら,特にそうだ。よく叱られる部下は,上司からは,明るく少々のことではへこたれないとみられている。しかも,小さなミスが多いので叱りやすい。といっても,本人は見かけと違って気に病んでいるかもしれないので,上司に代わってアドバイスしておこう。じつは,上司はよく叱る部下に対しては親しみを感じている。人と人とは,はじめ他人行儀で言い合いもしないが,親しくなるとけんかをしたり仲直りしたりを繰り返す。距離が近くなるのだ。コントロールタワーの上司が叱るのは,その部下との距離を近く感じているからであり,早く一人前になってほしいという親心からでもある。部下としては「ありがとう」と心の中でいっておけばよい。これが部下の「ゆっくり力」だ。蛇足だが,上司の言葉に言い過ぎがあっても,人格攻撃とは受け取らないこと。その度量も「ゆっくり力」だ。------------------------------この部下の気持ちはすごくよく分かります。とても細かいことをいちいち上司である担当教官に叱られていました。いまだに一人前とみられていないような気もします。お小言がどんなに不条理でも我慢して受け止めていました。後で愚痴にして発散したこともあります。でも今ではそれでよかったと思っています。叱られるのは,上司の期待の裏返しであると思えば,幸せなことだと思えます。そして指導する機会が多くなった今では,上司の気持ちがわからないではないと思うようになりました。しかし,今の学生は叱られなれていないタイプと叱られなれているタイプとの差が激しいので,タイプによって対応を変える必要がありそうです。
2008.05.04
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高田明和(2006):「晴れないうつはないのです」すばる社.よいことを思えばよいことが来る積極思想とは,「よいことを思えば,よいことが来る(悪いことを思えば,悪いことが来る)」という考え方です。わらにもすがる思いでいた私は,思い切って自分の考え方を変えてみようと考えました。さらに私は「人間というのは,自分の持っているごくわずかな能力があれば生きていける。だからこの能力以外のすべてで他人より劣っていてもよいのだ。自分のもつ少しの能力に感謝していきよう」と考えるようにしました。この考えは今でももちつづけています。「よいことを思えば,よいことが来る」という考えを実践する上で,実際に私が頭に思い描いた”よいこと”を3つ紹介したいと思います。「困ったことは起こらない」「すべてはよくなる」「過去は思わず」,この3つです。たとえば,何か嫌なことや自分を否定するような感情が浮かんだら,間髪をいれずに「困ったことは起こらない」と言い聞かせるのです。2つ目の「すべてはよくなる」は,「困ったことは起こらない」をさらに積極化させたものです。困ったことになりかけたと思えるようなときに言い聞かせるものです。3つ目の「過去は思わず」は,「今が大事」ということです。ここでいう過去には悪い思い出の過去だけでなく,いい思い出の過去も含みます。いい思い出ならいいじゃないかと思われるかもしれませんが,いい思い出を思い描いているうちにたいてい,悪い思いでも紛れ込んでくるものです。それよりも今を見ようという風に心の向きを変えるのです。こうやって考えを改めるようにすると,不思議なことに,気分がよくなるのです。そして気分が落ち着いていくと,次第に人間関係もよくなり,仕事もうまくいくようになりました。自分の心が変わると,それが態度とか顔つきに出てきて,自分の周囲(の見え方)も変わってくる。そう,すべてがよくなるのです。そして私は完全にうつ病を克服することができたのです。このようなやり方を専門用語では,「認知療法」といいます。----------------------自己暗示やプラスの言葉で言い聞かせることの効果が語られます。マイナスの感情にはまってしまうと,そこから抜け出すきっかけがなかなか見つかりません。無理やりにでも言葉でプラスのイメージをつくっていくことは効果があるのだと思います。「病は気から」というのはある意味であたっているようです。気が弱くなっていると,病が入り込んできてもそれに打ち勝つことができなくなってしまいます。心の状態が身体の状態を決めてしまうことも多いかもしれません。
2008.04.28
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加藤諦三(2003):「心の休ませ方」PHP研究所.幼児的願望は受け身の願望生きることに疲れた人が受け身なのはまだ幼児的願望が満たされていないということでもある。幼児的願望は受け身の願望である。何かをしてもらいたいという願望である。世話をしてもらいたい,守ってもらいたい,聞いてもらいたい,甘えたい,触れてもらいたいなど,相手に何かをしてもらいたいという願望が幼児的願望である。この受け身の願望が満たされて人は能動的になれる。うつ病になるような人は能動的にならなければと努めた。無理に前向きの姿勢を示した。しかし,挫折してしまったのである。また,幼児期に頑張ったけれども,「よくやった」と誉めてもらえなかった。そのうちに自分は何をやってもダメだと思ってしまった。また周囲からそういうメッセージを受けてしまった。(中略)あなたは幼児的願望が満たされないので,何とか満たそうとした。わがまま放題の人と違っていろいろと我慢をして生きてきた。まじめに頑張った。悔しさにも耐えた。生きることに疲れたあなたは,自分を殺して生きてきた。その姿が社会への過剰適応なのである。しかし,そのストレスが,あなたの生きるエネルギーを奪った。あなたの脳を変えた。だから,生きることに疲れたあなたは,今頑張ることで物事を解決しようとしてはいけない。休むことで解決しようとすることである。だから,もう何もできなくなって休んでいるあなたはそれでいい。あなたは普段から全速力で生きてきた。作家で言えば「今日は寝ずに50枚書いた」というような作家である。それが一年続けば気持ちもなえる。身体も疲れる。燃え尽きる。リラックスして原稿を書いているから続く。人は頑張ったり,疲れて休んだりしながら成長していくのである。頑張るだけで成長していくのではない。頑張ることも生きることだけれど,休むこともまた生きることなのである。生きることに疲れたあなたは,努力するとか,耐えるとかいうことを無条件に望ましいとしてきたことが間違っているのである。無理をしても「そのことをすることは望ましい」としてきた価値観が間違っているのである。「私はまじめに生きてきた,私は必死になって努力してきた,それなのにいい事は何もなかった,ただただ辛いだけだった」という人は基本的なことで間違っていたのである。頑張ることだけでは何も解決しない。生きることに疲れたあなたに今必要なのは,努力でも頑張りでもなく,休むことであり,この機会に生き方を変えることである。肯定的なことに目を向けることである。努力と意思だけでは物事は解決できない。上手に生きる知恵が必要である。そうすれば,自分には明るいすばらしい人生が必ず待っていると信じることである。肯定的なことに心を向ければ,暗い顔をしていたのが,明るい顔になり,何かが違ってくる。生きる姿勢を変えれば,周囲に集まる人も違ってくる。---------------------------日本では特に「まじめ」に働くことが肯定的に評価される傾向があります。そして,実際に高い社会的地位を得ることもできるかもしれません。しかし,その過程で失うものも多いと思います。人生の深みは一生懸命まじめに生きるということだけでは生まれてこないと思います。まじめもほどほどにして,心を大切にして,ズボラしながら妥協しながら無理せず生きられるようになれればいいなと思います。
2008.04.20
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加藤諦三(2003):「心の休ませ方」PHP研究所.「辛い気持ち」を受け止める「病気になって,大変なことになった」というのは,大変な病気になったという意味ではない。「大変なことになった」と騒ぐのは,「私にもっと優しくして」と周囲の人に言っているのである。「大変なことになった」という言葉は「私をもっと愛して」という意味である。「私の言うことをもっと『おおごと』に聞いて」という意味である。「私のことを,大変ね,大変ねと,もっともっと騒いでほしい」という意味である。うつ病者が怪我をしようが,大学に落ちようが,失恋しようが,そのこと自体の解決を求めているのではない。まず何よりも一緒に嘆いてくれることを求めているのである。それを周囲の人は,「人生って何でこんなに苦しいのだろう」と一緒に嘆くよりも先にうつ病者を励ましてしまう。うつ病者は励まされることを求めているのではない。辛い気持ちを受け止めてくれることを求めているのである。うつ病者はとにかく愛を求めている。自分に起こった事態の改善を求めているのではない。まず何よりも「この辛い気持ちを汲み取ってほしい」ということである。事態の改善はそのあとでよい。アメリカの進んだ病院では治療に心理的ケアの担当者がつくことがある。心理的ケアと医者が一緒になってチームを作って治療するのである。患者の抑うつ傾向を治療することが病気の治療に役に立つことが分かってきたからである。人間関係で第一に大切なことは,相手の気持ちを汲み取ることである。それは普通の人でもそうである。心理的に健康な人でもそうである。ただ,このことが極めて深刻な影響を及ぼすのが,生きることに疲れた人に対してである。生きることに疲れた人に事態を改善する具体的提案をするのは,相手をもっと追い込むことになる。--------------------------疲れた人はとにかく,分かってほしい,認めてほしい,そして愛を求めていることが分かりました。これまで人の期待に応えるために,びくびくしながら生きてきたと思います。他人の評価によって,自分の価値が決まってしまうから,他人の目がいつでも気になると思います。だから多少誉められただけでは安心できません。こんな辛い気持ちを堪えながら自分のキャパを超えるぐらいがんばってきても認められなかったとき,それは憎しみの感情に変わります。自分は今までこうした人の背後にある憎しみの感情を理解できませんでした。そのために一所懸命に励ますことだけを考えてしまいました。間違ったアドバイスばかりしてきました。でも,それは相手に届かないばかりかむしろ逆効果だと知りました。ただ黙って話を聞いてうなずく必要があったと思います。傍に寄り添って自分らしい生き方を陰から支えるってことがいかに大切かが分かりました。自分もこうして勉強することを通じて,相手の気持ちをよく理解できるようになりました。
2008.04.07
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高田明和(2004):「男と女のすれ違いはなぜ起こる?」廣済堂.恋愛運を高める言葉セロトニン神経は脳幹の縫線核から脳をいろいろなところに神経突起を送ります。とくに記憶の入り口である海馬,感情の場である扁桃に送ります。セロトニンは感情を安定化させる力をもちます。セロトニンが少なくなると,うつになるのです。もちろんセロトニン神経も「つもり細胞」につながっています。精神が安定し,不安や心配,恐怖などが少なくなれば,「つもり細胞」は自信を持ちます。これが相手に伝わるのです。セロトニンは食べ物の中のトリプトファンというアミノ酸から作られます。トリプトファンは私たちの体で作ることができず,「必須アミノ酸」と呼ばれます。このトリプトファンは肉に多く含まれています。したがって肉食をしない菜食主義の人にはうつ病が多いといわれます。しかしトリプトファンを摂取しても,それだけで脳内に取り込まれるわけではありません。これが血液から脳内に入るにはブドウ糖が必要なのです。ですから,食後のデザートに甘いものをとり,砂糖からブドウ糖を摂取しようとするのは,長い経験から生まれた理にかなった食生活の習慣といえます。ところがトリプトファンが脳内に取り込まれても,そのままでセロトニンになるわけではありません。トリプトファンに酵素が働いてはじめてセロトニンになるのです。この酵素の働きは心理面や生活の仕方の影響を受けます。たとえば,明るい考えをもつ場合にはセロトニンは増えます。また陽の光もセロトニンを増やしますし,運動もよい睡眠もセロトニンを増やします。反対に,暗いところにいたり,陽の光を浴びる量が少ないと,人はうつの症状を示します。北欧などでは,陽が短い時期にうつ病患者が増えますが,それはこうしたことが原因だと考えられています。そして,とくに大事なのは言葉です。言葉は「つもり細胞」を介してセロトニンを増やします。他人の言葉が自分の言葉や考えのように思える「つもり」になるわけです。ですからよい言葉,元気になる言葉を自分にかけることが重要です。これはドーパミン神経についてもいえます。元気な言葉は「つもり細胞」を介して,ドーパミン神経,セロトニン神経を活性化するのです。---------------------------神経の働き,酵素の働きは,気持ちのあり方に左右される部分も大きいことが分かりました。無理なダイエットで肉や甘いものを採りすぎないのもよくない。夜更かしして陽の光を浴びないのもよくない。今は誘惑がたくさんあるので,特にひとりで生活していると生活のスタイルが乱れていきそうです。結局,一番身体にいい生活は,食べたいものを中心によく食べて,よく寝て,よく運動するっていう昔ながらのスタイルだということだと思います。そうやって自分らしい生活を取り戻せると,自然と恋愛する意欲も湧いてくるし,自分の魅力が身体からにじみ出てくるのかも知れません。恋愛は「愛されたい」と願えば願うほど,他人に愛されなくなるみたいです。「愛したい」気持ちが起これば,自然に「愛される」人になるものなのかな。話は変わって,渋谷の桜です。街の雑踏の中に満開に近い桜が咲いてました。歩道橋から足を止めて写真を撮る人もちらほらいました。
2008.03.27
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高田明和(2004):「男と女のすれ違いはなぜ起こる?」廣済堂.男性の判断基準は「地位,力,影響力」相手の気持ちや表情を読むことが苦手な男性が頼る判断基準は,地位,力,影響力などです。自分より地位の高い人は自分より成功し,自分より優れているという気持ちからなかなか抜けられません。事実,男性が会社や組織などで地位が上がると,周囲の人に対する態度が変わります。これは驚くほどです。私などはフリーの立場で生活しているので,そうした判断はもっと自由にできますが,長い付き合いのある出版社の編集長が重役になったり,テレビ局のディレクターが総合プロデューサーになったりすると,その人の私に対する態度が微妙に変化するのです。「お前とは対等だ」という感じがにじみ出てくるのですが,この変化は本当に驚くほどです。つまり,男性の脳は縦社会型なのです。一方,女性は横社会で生きている人が多いので,相手の判断基準は,まず相手の性格,態度,目的とする仕事への能力などです。自分の基準に合わない人とは仲良くならないという生き方をします。社会がその人に与えた地位と,その人の人格とは異なることが多いと知っていて,自分の直感的な判断を大切にするのです。こうしたことは,高齢になったときの男女の生き方にも影響を与えます。男性は定年後に仲間を作るとき,現役時の地位の影響を受けないことを目指します。かつて相手が自分よりはるかに高い地位にいたということを意識すると,非常にやりにくくなるからです。このことは,高い地位にあった男性が,定年になると仲間はずれになるという結果も生みます。一方,女性の仲間は,人格そのものの結びつきといえます。現役時代の地位など関係ないことが多いですし,何よりも年をとってからの仲間作りで大事なのは「居心地のよさ」だと感じているからです。このように男女の脳の仕組みの差は,社会の組み立ての中で一生続くのです。--------------------------女性も縦社会の中で生きる機会が多くなっているので,男女の差は縮まっているかもしれません。それでも男性の悩みは仕事において,女性の悩みは家庭においてが圧倒的に多いみたいです。男女平等で家事も仕事も半々といいますが,やっぱり男性に男性の役割があり,女性には女性の役割があるように思います。今後社会の仕組みがもっと変わっていくと,脳の仕組みも変わっていくのでしょうか。それとも脳の仕組みにあわせた社会=人間関係をつくっていけるのでしょうか。
2008.03.21
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斎藤茂太(2000):「『茂太流』こうすれば気分転換は100%うまくいく」成美文庫.内的圧力を高めるものを学ぶときに,最初はぐんと力が伸びる。テニスでも英会話でも,何でもそうである。それでみんな興味をもって,本格的にやり始めるのである。ところが,である。そのあといくら練習を積んでも,思うように力が伸びない。そのうちに中だるみになって,ついには投げ出すことになる。こういう経験をしている人は多いものである。階段で一つ一つのステップが前後に長いのをイメージしてもらえばいいのだが,練習を積んでもなかなか実力が伸びないとき,あなたはそのステップの平たい部分にいるわけである。さらに練習を積む。視界は変わらないが,実は平面の先へ足は進んでいるのである。飽きずに,投げ出さずに続けていると,ガクンと上に上がる部分に達する。滑らかな坂を上がるように,力が伸びるわけではない。平面で横移動しているだけなのだが,内的な圧力は十分高まっていて,ある時点でガクンとレベルの違うところに出る,というのが習い事の鉄則のようである。ひらめきにも似たようなところがあって,蓄積がなければ,ひらめきもない。溜めて溜めて,ある瞬間にレベルの違ったところに出るのが,ひらめきや第六感の助けである。それらを外から来る偶然のようなものと考えがちだが,実は必然のようなものだと考えてもいいのである。いつも目覚しいアイデアを出せる人は,ひらめきや第六感を引き出す仕組みを自分で見つけているのである。そうじゃないと,続けてインスピレーションが得られるわけがない。------------------------------学部のときに同じようなことをある先生に言われました。専門分野の第一線が理解できるレベルに一気に近づくけれど,そこから先はあまり成長を感じることができなくて苦しい時期が続きます。スポーツ選手が陥るスランプも同じようなものかもしれません。「ひらめき」はこれまでの蓄積の結果であり,必然であるという言葉には納得しました。だから,収穫逓減で日々成長を感じられないとしても,腐らずに一歩一歩やるべきことをやるのが,目標に近づく一番の近道であると感じました。
2008.03.13
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斎藤茂太(2000):「『茂太流』こうすれば気分転換は100%うまくいく」成美文庫.無理をしない後ろ向きの気分のときには,それを心が欲しているのである。ご主人様は相変わらずいけいけドンドンで行きたがっているが,心はちょっとした休憩をほしがったり,全体のスピードを落としたがっている。そうしないとこの先,無理が来るのではないか,と予知しているのである。うつ状態や無気力に陥っている人がいたら,追い討ちをかけないで,温かく見守ってあげること。これはあなた自身にも当てはまること。ネアカ人間じゃないといけない,人に好印象を与えないといけないと,無理していると緊張の糸が切れてしまいかねない。よくいじめなどで自殺にいたる少年が,級友や学友の間では人気者だったということがある。あるいは重大犯罪を犯した少年が,かつてはクラスの人気者だったというケースもある。おそらく必要以上に彼らは無理をしていたのだろうと思う。もう少し早く「後ろ向きになる」訓練をしていれば,大事にいたらなかったかもしれないと思う。日本のような同質社会では,異端であることは非常なプレッシャーである。疎外感を味わいたくないがために,周りとつい同調しがちである。高度成長,バブルと一億全員が熱に浮かされていたような時代が過ぎてみれば,われわれがいかに同質の価値観だけで突っ走ってきたかが分かる。同じ過ちを数十年前に一度痛いほど経験したというのに。-----------------------------みんなと同じ行動をすれば,周りから目立つことはなくて安心できます。個性を出してグループとは違った自分の主張をすると「出る杭は打たれ」ます。KYという言葉もあるとおり,「空気を読まない」発言はみんなに嫌われます。でも「出すぎた杭は打たれない」これは誰かが言った好きな言葉です。みんなの個性に埋もれて生きるよりは,みんなとどれだけ違うことができるかを考えた方が自分らしく生きられそうです。周りの評価が自分の価値を決めるのではないから,他人から何を言われようと関係なくなりそうです。周りの意見に同調して世の中をうまく渡っていく人よりよっぽど自分らしい生き方をしていると思います。自分もそうありたいと思っています。だからやりたくない仕事はできるだけやらずに,自分のしたいことをするというスタンスでいきたいです。
2008.03.10
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斎藤茂太(2006):「なぜか人生がうまくいく『悟り』のススメ」講談社+α文庫自分を丸ごと信じる生まれたばかりのときはあんなに自由だったのに,自由という言葉がわかるようになると,どんどん不自由になっていく。その不自由さを埋めようとして,便利なもの,楽な生活を手に入れようと躍起になる。しかし何かの機会に私たちは気づくはずだ。そんなもので心の不自由さを埋めることはできない。せいぜいそれを忘れることぐらいの役にしか立たないのだと。そう感じることが「悟り」への第一歩である。そういう人たちに私は,もっと自由に生きるにはどうしたらいいのか,もっと自分らしく生きるためにはどうしたらいいのかを言いたかった。それはしごく簡単なことだ。今の自分を丸ごと信じるということ。これに尽きるのだ。人はよく,あちこちで自分を見失う。また都合の悪いことに今の時代は自分を見失ったままでも,何とか生活していける。自分を見失ったまま,何かにすがりついて生きている人をよく見かける。自分の考え方もなく,人が言っていることを鸚鵡返しに口にしながら,人の後ろからくっついていく。「悟り」とはほとんど無縁の生き方をしている。こういう人に,人の言ったことや世間の常識なんか鵜呑みにせず,もっと自分らしく生きてみたら,と言わずにいられない。もっと自分を信じてあげなさい。もう自分を信じるふりをしたり,世間を信じるふりをするのはやめにしよう。モノや,他人に振り回されっぱなしでは,「悟り」もへったくれもあったものではない。地位や名誉がほしい。それはお釈迦様がおっしゃる名誉欲だ。もっと異性にもてたい。あるいはそれは性欲かもしれない。もっとうまいものが食べたい,ただ金がほしい。それは食欲,財欲だし,反対にただぼんやりと寝っ転がっていたいというのは睡眠欲だろう。これを捨てるのは難しい。それは人間の本能だ。でも,もっともっとと追いかけているうちに,自分がどこにいるのかわからなくなってしまったら,それはやりすぎというものである。本能がにごって煩悩になってしまったと思って間違いない。本能と煩悩との境目あたりのところに,自分を見失っているか否かの線があるように思う。自分を見失ってしまうと,人はただの欲の塊になってしまう。あるいは世間体だけを気にした,面白みのない常識人になってしまう。世間の常識を鸚鵡返しに唱えているだけでは自由とはいえない。中心には自分がいなくてはならないということなのである。「悟り」とは,自分を隅々まで見つめなおし,中心にいる自分を見つけ出すことだろう。お金もほしいし,異性にももてたい,そういう自分がいることをもう一人の自分が見つめ,うまくコントロールしながら,こだわりのない自由を手に入れていくという作業なのだと思う。-------------------------------------中高時代に「いい父親になれ」とか「死ぬために生きろ」といわれてきました。何か具体的にしたい職業はなかったかもしれません。ただ,仕事に振り回されて自分の時間をもてなくなる生き方はしたくないと思ってきました。仕事は手段であって目的ではないと考えてきました。仕事と生きがいが一致していればいいですが,なかなか思い通りの仕事につけるものでもないと思います。生きがいが決して仕事に結び付いている必要もないと思います。旅行や料理や絵画など趣味を生きがいにしてもいいし,家族と過ごす時間を生きがいにしてもいいのではないか。生きてて辛いことは多いです。でも死ぬ間際に生きていてよかったと思えれば人生上がりで一生を全うしたといえるのではないかと思います。
2008.03.05
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斎藤茂太(2006):「なぜか人生がうまくいく『悟り』のススメ」講談社+α文庫最善の決断は「今の決断」あれこれと思い悩んで,なかなかものごとを決められない人がいる。これも性格だからそんなに気にすることはないのだが,自分を「グズ」だと気に病んでしまう人が多い。せっかちな人もいれば,のんびりとした人もいるから世の中のスピードがちょうどよく保たれているのだが,どうしたらいいか決められずに悩むというのは辛いものである。これも案外まじめな人に多い。最良のものを選択しようとしてあれこれと迷い,ついには思考の迷路にはまり込んでしまうのである。こんな人に,とっておきのオマジナイがある。それは,「今の決断が最善の決断」と唱えることである。実際,あれこれと悩んでいるとき,ある決断が,他の決断より優れているということはあまりない。どんぐりの背比べのようなもので,どれもたいして変わりはないのだ。私たちは神様ではないのだから,絶対に誤りのない決断などというものを求めるべきではない。そんなことを悩むより,今最善と思っていることを選んで,事態が変わったらまたそこで考えてみればいいくらいの気持ちでいいのではないかと思う。「自分がもっているのが一番好きなもの」と決めてしまう人もいる。これにしようと決めて選んだら,あとは目移りしないというのもひとつの手ではある。結婚生活などの場合はこういう方法でうまくいく。結婚する前は相手を両目で見て,結婚したら片目で見なさいということわざもある。これならうまくいくはずだが,「結婚すると目がよくなる」という言い方もあるから世の中難しい。しかしまあ,お互いにいいと思って選び合ったのだから,欠点は片目を閉じて見ないようにすれば,死ぬの別れるのという話はなくなるはずだ。結婚でもそうだが,何かを決断するときは完璧を求めないというのがポイントである。選んだものを完璧だと思うのはいい。完全主義者というのは,完璧なものを選ぼうとして,苦しむ。人間そのものが,不完全である以上,完璧な選択などというものはない。だから,今の自分の決断を信じられる人が決断力のある人ということができるのではないのだろうか。どんぐりの背比べの中からパッと選んで,これでよしと言える人だ。----------------------------------今の決断が一番自分にとって最善の決断かどうか不安になるのは,完璧な選択を望んでいることと,失敗を恐れていることが原因ではないでしょうか。慎重になることも必要だけど,ある程度考え抜いたら決断する力が必要になりそうです。そうはいっても取り返しのつかない失敗になりはしないかと慎重になりすぎて決断が遅れることは多々あります。もっと今の自分を信じていいと感じました。そして必要以上に背伸びしないで身の丈にあった選択ができればいいと思います。彼女のお庭に咲いた梅
2008.02.28
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斎藤茂太(2006):「なぜか人生がうまくいく『悟り』のススメ」講談社+α文庫みんな自分が好きなのだ,という悟り自己嫌悪に陥っている人というのは,人のいいところばかりが見え,自分のいいところをなかなか見ようとしない。人と比べた自分の悪い面ばかりを意識してしまうものだ。こんな時こそ心の中を大掃除して,いろいろなものを捨ててしまう。それでも最後には自分が残るものだ。誰でもみんな多少の悩みはある。悩みがないように見えるのは,装い方が上手な人だ。ある意味で言えば,自己嫌悪に陥っている人は,自分に正直すぎる人なのかもしれない。そんな自分を好きになってやればいい。自分を好きだと思われなければ,本当に他人を好きになれない。自分も嫌い,他人も嫌いでは,どうやっても世の中うまく生きられない。そればかりでなく,知らず知らずのうちに他人を傷つけることにもなり兼ねない。これでは状況はさらに悲惨になる。心の芯のところまでいけば,自分より愛しいものはない。これは万人共通なのだと信じていい。言わずもがなのことだから,みんな言わないだけのことなのだ。どうやっても自分より好きなものは見つからないということが分かれば,他人と比較して,あれこれと悩むことは少なくなる。人は人,自分は自分というあたりまえのことにも気づいていくはずだ。だからこそ,自分にないものを持っている他人が好きになるというものだ。これこそ「悟り」というものだ。----------------------------------「人は自分を好きになれなければ,他人を好きになれない。」今までこの言葉の真意がよく分からなかったです。上の文章を読んでみてなるほどと思いました。自分を嫌いなとき,自分のあらだけが見えて,他人のいいところだけが見えるから,本当の意味で他人を好きになることができないということでしょう。逆に,自分を好きなとき,いい部分も悪い部分もひっくるめて自分を受け入れているから,他人のいいところと悪いところを含めて,人間としてのよさを認めることができるのでしょう。もっとも愛する自分でも心の弱さや不完全な部分をもっています。そうしたものを含めて,それでいいのだと認めてあげられれば,他人にもそのような不完全なものとして認めてあげることもできると思います。自分の欠点や無知を正直に言える人は,人間として一番強くて他人への愛も深いのだと思います。自分の欠点や無知を虚勢や嘘で塗り固める人は,折れやすい心を必死に取り繕うことしかできない可愛そうな人だと思います。
2008.02.22
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「いい出会い」をつかむ人94のルール過ぎ去った過去は,それ以上でもそれ以下でもない神経質症を治療する方法として長年支持されてきているものに,大正8年に森田正馬教授が創始した森田療法がある。この森田療法の研究科であるアメリカのD・レイノルズ氏がこんなことをいっている。「過去にこだわっていてはどうにもならない。自分で新しい過去をつくらないといけない。今やっていることは,将来から見れば過去になる。目の前の行動をキチッとやって新しい過去をつくっていけば,自分のイメージも変わります。新しいカッコウより新しい過去。だから,一日中,何百回も自分にたずねてください。私は何をやっているか,何のために行動しているかと。繰り返し,繰り返し自分にたずねて,目的をちゃんと見つけてください」過ぎてしまった過去は,もう変えられない。変えられない過去にこだわって,「取り返しのつかないことをしてしまった」と悔やむこともあるだろう。たしかに,過去にことはもうどうしようもない。もしもあなたの今までの人生が暗く塗りつぶされたものだったら,これからの人生を生きていく気力が湧いてこない気持ちもわかる。しかし,ちょっと考え直してみてほしい。過ぎてしまった過去は変えられない。しかし,新しい過去はつくれるのである。今やっていることが,明日には過去になる。明日の行動があさってには過去になる。そうやって,新しい過去を積み重ねていけば,あなたの過去はだんだん変わっていくではないか。過去を捨てろというのではない。どんな過去でも,それはあなたが自分自身で作ってきた過去であり,大切なものである。しかし,どうもそれが気に入らないというのであれば,今日から気に入る過去づくりに励むのだ。するといつか,あなたが嫌いだった過去は,新しい過去の土台になっていく。そうして初めて,「あのころはいやだと思っていたけれど,あの土台があってこそ,新しい過去がつくっていけたのだ」と思えるときもくるだろう。今までに出会ってきた人は,あなたの大切な財産である。そして,これから出会う人は,また新たな財産である。新しい過去をつくるために,今日の出会いを大切にしたい。---------------------------------------------この間「オーラの泉」で柳原可奈子がゲストだったとき,大切に育ててくれた母親が死んでから思い出が消えていってしまって思い出せなくなったという訴えに対して,美輪明宏は,「いい思い出だけを思い出して,悪い思い出は捨てなさい。妄想もプラスに変えてあげることができる。」とアドバイスしてました。しかし,僕はいい思い出も含めて過去は捨てたほうがいいと思います。過去の失敗を踏まえて次のチャレンジに生かすということはあります。また成功体験を次の糧にすることもできます。しかし,それらは思い出に浸ることとは別の話だと思います。悪い思い出は,思い出すたびに,その当時の自分の行動を後悔することにつながりそうです。また,いい思い出も,思い出せば,その当時の活発な自分を思い返して,自分の今のふがいなさと比較してしまいそうです。思い出に浸る行為そのものが今の辛い状況を相対化するためにとってしまう行動に思えてきます。過去の思い出を振り返る必要のないくらい充実した今を過ごすことが一番望ましいような気がしました。
2008.02.18
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「いい出会い」をつかむ人94のルールいい出会いのコツが書いてあります。これを決めれば,出会う人は「必然的」に変わってくる世の中には,さまざまな悩みや心配がある。いくら悩んでも解決しない。どうしたらいいのか分からない。「いったい自分はこれからどうなるのだろう」と考え始めると夜も眠れない。ため息ばかりをつく。解決の糸口も見つからないままに不安な日々を過ごす。このまま年をとってしまうのかという焦りも生まれる。さて,どうすればいいのか。私の提案は,「どうなるのか」ではなく,「どうしたいのか」と考えてほしいということだ。「どうなるのか」と,いくら考えても結論は出ない。どんな賢い人でも,明日がどうなるのかは予測がつかない。雨が降るかもしれないし,風が吹くかもしれない。しかし,明日になって空を見てから行動しようと思っていたのでは,明日になるまで何もできない。問題は,今日をどう過ごすのか,であろう。さて,どうすればいいのか。まず,「どうしたいのか」を決めることだ。そうすれば,必然的に,今日は何をするかが決まってくる。雨であろうが風であろうが,今日すべきことは同じである。「子供は手を離れたし,夫は毎日忙しくて帰ってこないし,私はこれからいったいどうなるの?」。こんなことを考えていても,不安は募るばかりだ。しかし,「もうちょっと夫と過ごす時間を増やしたい」という願望があれば,話は違ってくる。夫と一緒にできる趣味をはじめてはどうか。休日にドライブに行く計画を立ててはどうか。いずれにしても,今日,何らかの手立てを考えることはできる。「私も仕事に出たい」というなら,自分にどんな仕事ができるかを考える。そのための情報を集めたり,職探しをすることもできる。「どうしたいのか」が決まってくると,案外,「どうなるか」も見えてくるものだ。もちろん明日のことは100%はわからない。けれども,アメダスに頼らなくても,天気くらいは少しは予想がつくだろう。西の空が夕焼けならば明日は晴れるのである。少しでも道が見えてくれば不安は確実に減る。さて,あなたは「どうしたい」のか。そこにあなたにぴったりの出会いもあるはずだ。---------------------------------------------いい出会いがないと嘆くのは自分がどうしたいかが定まってないからだといいます。出会いは向こうからやってくるのではなくて自分からつくっていくものなんだと感じました。これまで周りの「こうあってほしい」という期待に応えてきた場合には,自分の「こうありたい」がないかもしれません。それが結局は高望みや劣等感にもつながるのかもしれません。どんな人間関係にも当てはまるのかなと思いました。「こうしたい」という自分の願望がないのは,これまで辛く苦しいことも耐えて,無意識のうちに愛情を求め続けてきたからかもしれません。他人の期待に応えてもそれに見合う見返りや愛情がなければ,心が疲れそうです。期待に応えるための出会いではなくて,自己実現のための出会いを求めていきたいです。
2008.02.14
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斎藤茂太(2007):「心ひとつで幸せになれる本」ぶんか社.とにかく「立ち上がる」「歩いてみる」ため息ばかりついている時期からの脱却法なのだが,これは「とにかく行動する」ことに尽きるのではないか。人間はじーっとして動かないと脳の働きだけが活発になり,悩みを抱えている時期は,脳の考えることが「悪い方向」にばかりに向きやすい。「あ~あ,もう全然ダメだなー」「このままじゃ,オレもおしまいだな」とマイナス指向のことばかりが脳を支配することになる。これでは,ため息の毒ガス攻撃に耐えられなくなり脳は死滅してしまう。そんな状態を解消するには,たとえば久しぶりに友人に連絡をとったり,ボランティアに参加したり,新しい趣味の会に参加することだ。より具体的に言えば,とりあえず「立ち上がる」そして「歩いてみる」さらに「外出する」だけでも,ため息の量は格段に減る。ふだんは通らない通勤途中の道を曲がってみる,入ったことのない飲み屋に顔を出してみる,これまでの人生には縁のなかったような映画を見てみる,あるいは奥さんが参加している趣味の会に無理やり参加してみる,という方法もある。日常的な毎日から抜け出すような小さな一歩が,ため息を格段に減らし,新たな気持ちを作るきっかけになるのである。-------------------------------------マイナス指向のスパイラルにはまったときは,そのことばかりに目が向けられてしまいがちで,他のことには目をやる余裕がなくなります。そんながんじがらめの状態から抜け出すために,敢えて他のことをしてみる効用を説いています。でも,そんなときには他のことをやるのも億劫になっているかもしれません。視線を目の前の課題からそらす努力は,自分で意識してやるしか仕方がなさそうです。自分の場合は,深夜のバラエティを見て笑うことか,DVDをみて違った世界を感じてみることです。そして何よりもblogのネタを考えながら行動するのも気分転換になってます。
2008.02.06
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斎藤茂太(2007):「心ひとつで幸せになれる本」ぶんか社.生きることは「落ち込む」ことの連続だ世の中に落ち込んだことのない人間などいない。精神科医の私が少々、哲学的な言い方をすれば、生きることとは落ち込むことの連続である。問題を一つクリアすればまた次の問題、そしてまた次の問題と人生には何度も落ち込むことがやってくる。それは避けられないことであり、落ち込んだ状況を嘆き、そこから逃げていても問題は解決しない。要は落ち込んだ状況からいかにして立ち直るかが重要であり、それができるか否かはその人の“人間力”にかかっている、といえる。そういうことをきちんとできる人が、本当に強い人なのだ。落ち込んだとき、友人に相談することは双方にとって実に有益なことである。相談する側は、とにかく自分の今の状況を明らかにすることだけでも心の負担が軽くなる。もちろん、友人に相談したところで状況がパッと変わってしまうような回答が得られるはずもない。逆にかえって、そのような期待を求めすぎると、がっかりしてしまうので、話を聞いてもらえただけで十分だと思えばいい。勇気をもって困難な状況を打ち明け、周囲の人に現況を理解してもらうと、安心感が生まれるし、自分を客観視できる。普段悩みを打ち明けられない人の場合は、勇気をもって困難な状況を打ち明けられる自分の強さを、改めて自覚できるはずだ。その自信は計り知れないほど大きい。一方、打ち明けられる側にとっても実りの多い時間である。友人を立ち直らせるために、全ての知力を総動員させて考える回答は、自分自身に向けたメッセージにもなる。明日はわが身―。それは、「自分が友人のような状況で落ち込んだとき、どう対処するか」を教えてくれる。-------------------------------------------自分も大学の環境が変わって、それまで信じてやってきたことをもう一度リセットされたような気になりました。今後は今以上にがんばらなければと、強く思えば思うほど焦りばかりで実にならない。毎回のゼミでの発表は先生に認めてもらえずすっかり自信を無くしてしまいました。1年目が終わろうとして何も前進していないと振り返る日々が続いて不眠や食欲不振に悩まされました。こんなはずではないのにという思いばかりでした。結局は高望みをしていたのかもしれません。先生や先輩方に悩みをなかなか打ち明けられない環境だったこともあるかもしれません。一度将来の不安について悩みを聞いてもらったとき、「後先のことは考えないことだよ」というアドバイスをもらいました。今考えてみればかなり深い言葉です。希望をもつとか今を幸せに感じるとか、そういう意識をもつだけでも大変なときがあります。それよりも悪い思考に陥ってしまう前によくなるとか、悪くなるとかいう思考回路自体を止めてしまうのはいいアイデアだと思います。あとは波が過ぎるのをじっと耐えるしかないかもしれません。
2008.01.10
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斎藤茂太(2004):「うつ」がスーッと晴れる本.成美堂出版.ストレスをため込まないためにストレスはうつ病の原因になる。しかしそれは,ストレスが強すぎたときである,またストレスをため込むからだ。適度のストレスは健康に必要である。適度のストレスがあるから人間は進歩する,といってもいい。もしストレスから完全に解放されたら,私たちは病気になってしまうだろう。なんの進歩もない人間になってしまうかもしれない。ストレスは両刃の剣なのである。上手にコントロールすることが何より重要になってくる。もちろん,天災など強すぎるストレスを避ける方法はない。しかし,ストレスをため込まないことは,心がけや訓練によって可能である。私はストレスをため込まない方法を六つ考案し,覚えやすいようにSTRESSの一文字ずつを頭文字にした座右の銘として実践している。S・・・スポーツ(sport)=運動なるべく体を動かす。単に歩くこともスポーツである。T・・・トラベル(travel)=旅行私は旅行を好む。旅することは人間の本能だと思っている。旅は適宜の刺激,適宜の緊張,適宜のストレス,そしてくつろいだ気分を与えてくれる。R・・・レクリエーション(recreation)=休養,気晴らし本業以外に何か趣味や道楽をもとう。レクリエーションを通じて,仕事とは別な人間関係が生まれる。落ち込んだときの気分転換にもなる。E・・・イート(eat)=食べる食べることを楽しむ。また,なるべくいろいろなものを食べる。おいしいものを食べることは,人生最大の愉悦の一つだ。S・・・スリープ(sleep)=よく眠る睡眠はストレスからの解放である。眠っているときは,どんな重病患者にも苦しみはない。よい眠りはストレスのダメージをやわらかく癒す。S・・・スマイル(smile)=ほほえむ生まれたばかりの赤ちゃんが,泣くことの次に覚えるのは微笑だ。その微笑はお母さんにとって神の微笑みに等しい。そこから母子の絆が生まれる。微笑みは,よい人間関係を作る最大の秘訣である。よい人間関係があれば,たいていのストレスには負けない。このコントロール法によって,ストレスを,うつの誘因から,健康と進歩の源へと変えていただきたい。-----------------------------------年末は忙しい日々が続きます。ストレスがたまっていきます。休日もなかなか休んだ気になりません。せめてお正月は実家でのんびりしたいです。おいしいものを食べて,よく笑って英気を養いたいです。そして笑顔の絶えない一年にしたいです。ブログランキングに参加中。毎日1回クリックで応援よろしくお願いいたします。
2007.12.26
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斎藤茂太(2004):「安らぎの処方箋(カルテ)」三笠書房.「たった電話一本するのさえつらいときは」あるときわたしは,頼まれた原稿にまるで手がつけられずに悶々としていたことがあり,プロの作家はどうするんだろうと弟の北杜夫に尋ねた。「何でもいいから最初に三行書いてしまうといい。うまくかけなかったら,後から書き直せばいいんだから,とにかく,酒で勢いをつけてでも書いてみることだよ」といった。さればと,これを実行したらうまくいった。頭で分かっていることを実行に移す方法は,実際に行動してみることしかない。とにかく行動することが,たった一つの解決方法だ。電話をする必要があるなら,手を動かして受話器を取り上げ,番号をプッシュするのが解決方法である。その手にどれだけの重圧がかかろうとも,その重圧をはね退けるのはあなたしかいない。行動で活路を開くしかないのだ。---------------------------引用はここまで-----------------------------頭では分かっているのに気が重くて手につけられないことがあります。自分の首を締めているのも自分だし,それを振りほどくのも自分です。後先考えずにとりあえずやってみることは大事ですね。ミスしたときの不安が大きいときこそこれを実践したいです。毎日の仕事がこのとりあえずの一歩を進めることの連続のような気がします。ブログランキングに参加中。毎日1回クリックで応援よろしくお願いいたします。
2007.11.20
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斎藤茂太(2004):「安らぎの処方箋(カルテ)」三笠書房.【内容情報】(「BOOK」データベースより)こんなとき―「プラスの自分」がよみがえる1分間。たとえば、何となく気が滅入るとき、思いがけない挫折にあったとき、もうちょっとタフになりたいとき、気分一新、何かに挑戦したいとき―人間、みんなたいして変わらない。何かに悩んだり、心配したり、意気地がなかったり。しかし、人生をはつらつと生きるには、心を軽やかにする“技術”が必要だ。もっと気楽に前向きに―これこそ、たくましく生きるための秘訣である。 こんな「勝手な期待」,裏切っても大丈夫人は期待されれば,それに応えようと行動するし,その要求に応えようと努力する。また,人から期待されるような人は,最初からそれにふさわしい資質が備わっているとも考えられる。一方,期待され信頼される側としては,当然,自分のおかれている立場を敏感に感じ取り,それを励みともし,その期待,信頼を身に引き受けようとするだろう。しかし,ここに人を自縄自縛に陥らせるワナが生まれる。ふと,われにかえれば,自分が何かにがんじがらめに縛られ,身動き取れぬ状態になっていることに気が付く。その原因となるのが,この,人からの「期待」や「信頼」という,目に見えぬ縄であり,これが手かせ,足かせであったりするのだ。人から期待され,信頼されるのはいい。しかし,それに応えようとするばかりに,自分を殺してまで…ということになると,もっとも大切であるべき自分が失われかねないことになる。心の病の一つに,「過剰順応」というものがある。これは,あまりに周囲に自分を合わせようとするために,本来の自分を失い,ついには心のバランスを崩してしまうものだが,常に期待される立場の人は,この危険を抱えているといってよい。人は勝手に人を信頼し,期待し,求める。これにいつも完璧に応えようなどと思ったら,体がいくつあっても足りない。だから,期待される立場にある人ほど,自分自身の価値観をしっかり持っていなくてはならないことになる。時には人の期待をも平気で無視するくらいのタフな心が必要とされるのだ。----------------------------------------------思わず目からうろこでした。相手の意見を聞き入れずに自己主張するよりも,自分の意見を抑えて協調性を重視した方が,周りのウケがいいという日本独特の慣習があるからでしょうか。周囲の期待を敏感に感じ取りすぎても自分の身がもたない。でもこれまで周囲に合わせて,あえて自分を押し殺してきた人にとって,急に自分の価値観を,と言われても行動を変えるのは難しそうです。人はみな誰からも好かれる人になりたいと思っています。でもそのために自分を犠牲にするのは極端かもしれません。人の意見は聞きつつ,受け流しつつ,自分の主張もきちんとすることが,自分の心にとっても望ましいのではないかと思います。ブログランキングに参加中。毎日1回クリックで応援よろしくお願いいたします。
2007.11.08
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渡辺淳一(1998):「反常識講座」光文社.内容(「BOOK」データベースより)いま、常識の反対が常識。常識を捨ててスリムになろう!誰もが常識として信じている概念を、著者独自の理論でくつがえす。現代を生きるためのイレブン(11章)。 鈍感力につながる反常識(ものの見方を変えること)のススメです。非常識と反常識とは違います。非常識は,ただものを知らないだけのことだが,反常識とは,常識を知った上で,それにチャレンジすることである。ゴマスリも美徳実際,人間というものをよく見ると,清く正しく誠実なんていうのは嘘で,リアリティがないことに気が付く。それより本当の人間は,そんなたいそうなものでない。清く誠実なんてことからほど遠いところにあるからこそ,道徳や倫理などが大声で叫ばれる。いいかえると人間という存在自体が,もともと清く正しく誠実な存在ではないから,「清く正しく生きよ」と教えているのである。要するに,それは努力目標で,最初から目標値そのものの人間になってしまっては味も素っ気もない,ロボットみたいな人間になってしまう。--------------------------------------------人の気に入るようにふるまうことの効用を説いています。多少のお世辞めいたことでも人間関係をよくするための台詞ならどんどん使っていったほうがよさそうです。そもそも清く正しく生きるにといった考え方は努力目標としてふさわしいか。それはあるべき社会規範として常識となっている面がありそうです。しかし,社会は周りの人間との関係のなかで成り立っています。その関係を維持するためにつかなければいけない嘘やお世辞もあるかもしれません。そういったものもうまく使えば,逆に真っ正直な人間よりも人生が豊かになるのではないか。ブログランキングに参加中。毎日1回クリックで応援よろしくお願いいたします。
2007.10.28
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火曜日の夕刊連載「こころの健康学」より怒りの裏にあるもの怒りは非常に激しい感情で,直接すぐに抑えることが難しい。しかも,怒りを怒りのままに表現しても,本当に伝えたいことが伝わらないことが多い。怒りを感じているときの心の動きを丁寧に見てみると,いろいろな考えや気持ちが動いている。怒りは,相手に対して強い不満を感じることから生まれるが,その不満の裏にはいろいろな思いが隠れている。自分の気持ちが通じなかったという思いや,話したことをきちんと受け止めてもらえなかったという思い。期待や信頼が裏切られたという思いもある。こうしたいろいろな思いから,寂しさや悲しさ,辛さ,悔しさを感じ,それが怒りの波になる。感情の発散でもあるが,同時に自分の思いを分かって欲しいという強い気持ちも働いている。お互いの関係を何とかよい方向に持って行きたいという前向きのエネルギーが含まれているのだ。しかし,怒りを感じているときには,その感情がとても強いだけに,背後にある気持ちにまで目を向けることができない。本当に伝えたいことに気づけないまま,感情だけが表に出しまう。お互いの関係を何とかしたいというせっかくのエネルギーも無駄になる。怒りを感じたときには,一体自分が何に対して不満を感じているのか,その思いを伝えるにはどうすればいいのかを少し冷静に,具体的に考えるとよい。もちろんそのとき,相手の人に,怒りの裏にある思いを感じ取ろうとする気持ちがあると,怒りのエネルギーをよい方向に生かすことができる可能性は高くなる。(慶應義塾大学保健管理センター教授 大野 裕)-------------------------------------------------------分かって欲しいと思う気持ちがうまく伝わないと,どうしても怒りが強くなります。もしかしたら,知らず知らずのうちに自分の行為に対して,相手に見返りを求めているのではないかと思います。実は怒りの原因は自分がつくっていることもあるかもしれません。相手に自分の意図が伝わらなかったのは,本当に相手の理解力がなかっただけなのか?ある部分では,自分に伝える努力が足りなかった面もあるかもしれません。人間だから不満がたまったり,怒りが起こってくることはあります。そのときには,もう少し自分自身の対応がよかったかを冷静に見つめなおすことも必要かもしれません。ブログランキングに参加中。毎日1回クリックで応援よろしくお願いいたします。
2007.10.03
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斎藤茂太(2006)「これで人生がうまくいく」中経文庫.「批判を『帆』に受け前進するために」現代社会で自己を通し,正当な評価を得ようとするならば,他人の批判に強い人間になるように自分をトレーニングする必要がある。褒めているようで巧妙に的をはずしている批判,けなしていながら励ましているもの,第三者を批判しながら隣のものをあてこする言い方,敵意ある批判,ちゃかすだけのもの,事実をゆがめた毒のある批判,笑っている当人の恥になるだけの批判など。批判がどのタイプに分類できるものかを見極める。そして,どう対処すべきか,無視すべきか,受け入れるべきか,闘うべきかを決めるのが,世渡りというものである。批判から逃れられない社会に生きている以上,批判に強くならなければならない。それにはまずまっとうな批判を真正面から受け止め,そこに学ぶもののあることを信じなけばならない。まっとうな批判に慣れたならば,他の流れ弾のような批判や,横槍型の批判や,ためにする批判などの矢弾から身を守る知恵も備わってこよう。親,友人,兄弟のうちから自分を批判してくれる相手を選び,批判対処法をトレーニングしてみるのは有益である。それには,次のような原則がよい。1.批判する相手の正面に座り,まっすぐ目を見る2.冷静に,冷静にと自分に言い聞かせる3.相手の批判をちゃかしたり,笑ったりしない4.相手の批判の問題点をすりかえたり,相手の言葉尻を捕まえて逆襲してはいけない5.相手が自分をやっつけることだけを楽しみにしているなどと考えない6.「あなただって過ちはあるでしょ」などと逆批判の気持ちを抱いてはならない7.「あなたが私を責めるのは,誰かが告げ口をしたからでしょ」などと言ってはならない8.「あなたが怒っているのは,ほかに何かいやなことがあって,その八つ当たりでしょ」と考えない9.相手の批判の中心点を見つけ,自分の落ち度を理解する10.相手の批判の中心が分からなければ,率直に問い直す11.相手の批判を理解したら,合意か合図を示す12.反省すべき点を認めたら,口に出して言う13.反省すべき点に後日思い至ったら,遅れてもそのことを相手に申し伝えてみる14.批判した相手に批判で返そうとして,あら捜しをしない15.批判されることを恥としないこのような,まっとうな批判を真正面から受け止めるトレーニングを積めば,まっとうな批判と,ためにする批判の違いが分かるようになる。--------------------------引用はここまで---------------------------批判されるとついカッとなって冷静な対応ができなくなることがあります。あら捜しをされてるのではないかと思って腹が立つこともあります。どんなに信念を持って発言したコメントでも,批判されるべき点というのはあります。相手の批判の内容と意図を冷静かつ瞬時に理解できれば,まともな返答ができるのにといつも後になって思います。こういうことはすぐにはできることではなくて,何回も同じ場面を体験して慣れていくしかないのかもしれません。ブログランキングに参加中。毎日1回クリックで応援よろしくお願いいたします。
2007.09.28
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斎藤茂太(1995)「逆境がプラスに変わる考え方」PHP文庫.本書は人生の「マイナス」にいかに対処し,いかにして「プラス」に持ち込むかのノウハウを中心して書いています。「自分をプラスにするスケジュール管理」人間が挫折して「マイナス時間」に陥ったときに注意したいことがある。それまでの日常生活のリズムが崩れてしまうことだ。朝起きる気がしない。約束があっても自分にとってどうでもいいように思えてついつい遅刻してしまう。果ては約束を平気で破る。明朝大事なことがあるのに夜更かしをするなどなど,ズルズルと時間を引きずるように一日を過ごしてしまう。要するに時間にだらしなくなるのだ。そんなとき,意識的にやるべきことはスケジュールを立てるということである。スケジュールとは未来の自分である。「うつ」症状の人間にとって最もよくないことは,いつまでも過去の失敗を思い悩むことである。しかし,挫折した人間にすっぱり過去を忘れろといっても,そう簡単に忘れられるわけはない。なかなか忘れられないからこそ挫折なのである。そんなときには,できるだけ過去へのこだわりを違う方向に向けることだ。昨日のことより明日のことにこだわる。そのためには,あらかじめ「明日の自分」を決めてしまうことだ。未来の自分を思い描くことによって初めて過去が忘れられるといってもいい。こう考えればいかにスケジュールを立てることが大切か分かってくる。「うつ」状態で何も手に付かない時間が続くのは仕方がない。そんなときはじっと心に押し寄せてくる波が静まるまで耐えるしかない。しかし,実際,今実行する気力がなくとも「今年の夏は海外旅行に行く」であるとか「今月は小説を五冊読む」でもいい。何でもよいから,自分の目標を設定して,その中で未来の自分をイメージすることも,立ち直るきっかけになるものなのだ。もちろん,「六時起床」「午後六時から七時散歩」というような日常生活のスケジュールでもいい。とにかく,何か未来に対する「規律」を設けることによって,緩みがちな日常生活にメリハリをつけることが大切だ。--------------------------引用はここまで---------------------------日ごろからのスケジュール管理は大切だなと感じます。スケジュール管理のためのコツを教えるハウツー本もたくさん出ています。調子が悪くなったときほど,過去のことを振り返って「あのときこうしていればよかった」とか「今のまま進んでいいのか」など悩んでも仕方のないことに思いをめぐらしてしまいます。自分が今「マイナス」の状態なのかどうかも分からないこともあるかもしれません。できるだけ自分を客観的にみて,向かいたい目標のどの時点に自分がいるのかを知る必要がありそうです。それすらもできないほど混乱していれば,とにかく目の前の仕事を投げ出してまったく違うことをして気分転換した方がよさそうです。調子のいいときは,一つのことにこだわって執着するのがいいかもしれません。逆に調子の出ないときは,他の仕事や趣味に逃げてみてもいいかもしれません。将来の自分を思い描くことの大切さを最近感じます。スケジュール管理は,先の予定をあらかじめ決めることで,予定通り物事をこなすことよりも,自分の目標をつくること自体に意味がありそうです。だからスケジュールどおり物事が進まなかったときにも,予定よりも進んだところと思うように進まなかったところとが振り返って区別できることが大事だと思います。ブログランキングに参加中。毎日1回クリックで応援よろしくお願いいたします。
2007.09.19
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