その 8


には家族サービスはかかせない理想的な父でした。

子供3人を持つ、母は教育担当、父は経済担当って感じでしょうか。
だいたいの家庭はそうであるように、子供たちの事はお母さんが
面倒をみて、お父さんはそれにほぼ口はださない(よっぽどの事が
ない限り)というのが暗黙の了解のようでした。

大病気はした事はないものの、どちらかというと体の丈夫でない母
の支えになってやらなければならなかったのは父でした。 精神的
にもけして丈夫ではない母には、父の“口数の少ない性格” は
もしかしたら、不安材料の一つだったかもしれません。 “何を考え
ているかわからない、、、” という具合に。

よくこの図式を見てみると、父はまた“人のために生きる” という
生き方に戻ってしまった感があります。 人の為とは、子供3人と
自分の妻。 夫婦とはお互いが助け合って成り立つ関係だと思うの
ですが、私の両親の場合、母が頼りっぱなしの関係だったと思います。

父の趣味は登山です。 なぜ、登山を趣味にしたかというと、“金が
かからないから” です。 自分一人の収入で子供3人と妻を養わなけ
ればならない。 自分が金を無駄使いすることはできない(自分が
稼いだ金なのに)という心理だと思います。 これは本当に彼のやさしさ
から来ている現象だと思います。

母の少し前の趣味は日本画でした。 週一回公民館へいって絵を習って
いました。 公民館主催の講座なので月謝なんてたかが知れているはず
です。 でも、長い間に少しずつ買う、絵の具やキャンバスやその他の
必需品は結構な額になると思います。

父は、妻にも趣味くらい必要だ、体の弱さや精神的な弱さも日本画で
元気付けになればいいのではないか、くらいの気持ちで見守っていた
と思います。 でも、心の底ではどう思っていたかは告げずに、、、

母は健康面、精神面の支えを先に書いた Kさん夫婦、天風さん、クリイチ
さんなどに求めていました。 本当はそのベクトルの先は父に向けなけ
ればいけなかったのに。 それをもっと確固としたのが、一番下の弟
が腎臓で病んだ事でした。 “あなたと健康” という自然食や自然治療
を主として、それを元に精神的な健康も取り戻していこう、というような
所。 そこへ通って、自然食、自然食、と言って料理を習ったりしていま
した。

母の悪い所は、上に書いたような、“すばらしい考え方、生き方” を提唱
している人達の考えを鵜呑みにして、理解しきったかのような態度で
“これはいいんだよ” “あれはいいんだよ” と父にも子供たちにも押し
つけていたことです。 子供たちにはそれほどインパクトはないにしても
父から見たら、“俺がこれだけ、お前を精神的にも経済的にも支えてやって
るのに、自分が精神的に強くなったのはそういう人たちのおかげだ、とでも
いうのか?” とはっきり言って“おもしろくない” と思います。
もちろん、そんな感情は父は、母に伝える術を知りません。 母は父がどう
思っているかは知る由もありません。

母は専業主婦だったにもかかわらず、自分は3人の子育てをしたので、夫
とは対等と思っているようです。 自分は食わしてもらっていた、という
感謝の態度が全くないのです。 自分がそう思っていないので、子供たち
にも “父親を感謝しなさい” の教育は全くありませんでした。 母がまだ
若く、私達子供達もまだ幼い頃は、父が会社から帰ってくると、全員で玄関
に集まって “おかえりなさーい” と迎えたものです。 父の帰りが夜9時
10時になり、母の体調がすぐれない時は、父は “僕の事は待っていないで
休んでいなさい” と母の体の事を優先するように気づかっていました。
それ以来、母は体調が良くなっても、父の帰りを玄関で迎えるような事は
しなくなっていました。

母の父に対するそういう態度や、“あなたが不自由なく育ってこられたの
はお父さんのおかげなのよ” という母からの教育がなかった私達は
物が買えるのも当たり前、学校に行けるのも当たり前、大学に行けるのも
当たり前で育ってきました。

私は大学卒業後アメリカへ発ち、一番下の弟も大学卒業後就職して会社の
寮に入る事になり家を出ました。 家に残ったのは、真ん中の弟と父と母。

わりと、はつらつしている私と一番下の弟が家からいなくなると、家庭は
めっきり淋しくなったようでした。 そうこうしているうちに、父の定年
退職となり、この辺から、夫婦仲は最悪の状態になっていきます。


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