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節婦お政、節婦お政、節婦お政! 書いている最中は、節婦お政になりきっていた。【後書き】宗像郡誌をまとめた伊東尾四郎先生が、ガリ版刷りで教職員に宣伝文を配布したであろう故事に習い、8月下旬に赤間小学校、城山中学校、宗像高等学校、嘉穂東高等学校の職員室、そして遠賀信用金庫の宗像市・福津市の店舗にて『出光系図と節婦お政』大全の予約取りの為の掲示を試みた。宗像市および福津市向けの新聞折り込み広告と、親戚、そして付き合っている人達にダイレクト・メールをした効果で、今70冊の予約が取れた。一般的に言って、自費出版というのは100万円ほど捨てるのが相場だ。大体、内容は面白くない。自己満足の作品が主だ。この『節婦お政』読解も、いわゆる自費出版本で、自己満足に過ぎないかもしれない。ただ、私はこれだけは書き残さないと100年後の子孫および学究の徒に申し訳ないと思い、家族の反対を押し切って、独断出版した。いわゆる奇書の類に入れられれば、本望である。そして真実を追い求めたことを100年後でも認めて頂けたら、望外の喜びである。 平成23年10月11日 出光 良治署名:『節婦お政』読解著者:出光 良治(宗像市赤間5-1-18)売価:1500円印刷所:寺島印刷(福岡県福津市)発行日:平成23年11月9日※著者の許可なくコピーならびにメディアに載せることを禁ず。
2011年10月14日
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タイトルを『出光先生奮闘記』に変更。11月中旬に日本中の書店にて販売!!! 出光先生、出光先生、出光先生、と呼ぶ声あり。主な項目『学校の日』(頁28)佐藤慶太郎の銅像が若松に建つ(頁30)出光佐三を”7人の侍”の木村功が好演(頁33)常勤と非常勤の違い(頁45)原子力の出光先生50歳(福高出身)(頁48)若き実業家・岩下28歳(頁52)完璧主義者・英語の尾崎先生(頁54)遠賀信用金庫の音楽会(ぶどうの樹)(頁57)アパートの痴漢騒動(頁62)、私の公開授業(頁63)中村哲医師のアフガニスタン報告、合唱コンクール(頁65)教育実習生23名(頁68)県の学校視察(頁71)公務員の仕事兼任の禁止(頁73)墓地の草刈(頁77)、70歳まで働こうなんて夢の夢。教員は『つぶし』が効かない!(頁80)吉野ヶ里公園(頁83)、トヨタ自動車工場(宮若市)(頁85)赤間祇園祭、英検(頁87)、パワハラ(頁89)成績と掃除に相関関係なし(頁90)、本校初の”ぶち切れ”(頁92)熱中症で倒れる(頁94)、中学生体験入学準備(頁96)ヨーロッパ家族旅行(頁102)、アパート王・古河金吉(頁104)ALTのフーリン先生(頁109)、体育祭(頁110)校歌(頁113)、筑紫丘高校と県教育委員会が反発(頁117)電子辞書(頁120)、中間考査の連絡(頁123)娘が長崎から帰省(頁127)、ハイポーで一家団欒(頁128)同期の出世頭の訃報(頁132)、武蔵二天一流第11代目(頁133)武山夫妻と太郎丸夫妻(頁136)、お宮座(頁137)小倉城での武蔵流派の練習(頁139)、喫煙事件措置(頁141)50歳で教員を辞めたとき(頁143)、妹のケチ根性を兄が批判(頁144)1年英語科のバトル(頁146)、本校2度目の”ぶち切れ”(頁147)司法書士と弁護士(頁148)、ショパン演奏会に平野啓一郎(頁155)中高一貫校へ発展(頁158)、百人一首大会(頁163)唐津街道を歩く(頁164)、ICU(集中治療室)(頁167)ベストセラー作家・喜多川泰(頁170)耐寒登山(頁171)178)44年ぶりの卒業式、人生に勝ち組、負け組なんて有る筈もない(頁178)同窓会会長・伊豆(頁181)、同窓会副会長・吉田(頁182)本校のアイドル、八幡先生と青田先生(頁185)3.11大震災ニュース(頁187)教育の天才たち(頁192)拍手と花束と寄せ書きを有難う(頁193)3月31日職員会(頁198)4月8日離任式(頁200)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・書き出し部分西暦2010年4月1日(木) 午前8時、私は母校・宗像高校の校長室横の応接室にいた。今年度の転任、新任教師の職員朝礼での紹介のための待合室であった。東筑高校からの転任教諭の小石先生は50歳。英語ペラペラで、東筑高校26年間勤務の大ベテラン。その隣は中間高校からの転任の数学の棟田先生。後で分かったことだが48歳、教務部長である。この先生とやがて女子硬式テニス部の顧問、副顧問のコンビを組む事になる。そして私と同じ身分、同じ教科の英語の常勤講師の前園先生。女性50歳。だから、英語科は3人も新人を迎えたわけです。4人の新人のうち、最年長は当年4月1日現在61歳の私だ。応接室には歴代校長の写真が飾ってある。昔懐かし我らが世代の校長は第4代目。現校長の先代までが飾ってあった。私が卒業して早43年。まさか、県の教員採用試験も受けずに(受ける機会は年齢制限で全くなかったが)、卒業して43年ぶりに母校に教師として働こうとは夢想だにしなかった。人生、長生きしてみるもんだ。終わりの部分『アロハ、I was very happy to have a chance to work for Munakata High School, my alma mator. And I am very happy to be here to speak to you about myself. 実に、43年ぶりに母校に帰れて仕事ができて非常に嬉しかったです。人は、1冊は小説が書けると言います。何故なら、各人、各人、かけがえのない自分だけの人生を生きているからです。そこで、今日は私の人生について、ちょっぴりかいつまんで話したいと思います。大学を出て、とにかく海外に雄飛したかった、ビジネス界で社長になりたかった。社長には全く手が届きませんでしたが、海外には会社から行く事ができました。30歳で大学院に行って、34歳の時にここで教育実習をしました。そのとき、小倉の予備校で昼間教えて、夜は大学の夜間部の講師をして、日本大学の通信教育部学生として教育実習をしたのです。3枚の草鞋を履いていました。そういうわけで、私は全日制、定時制、通信制の3つを期せずして知ったわけです。全日制が教師と接する機会等を考えると一番恵まれています。是非、この恵まれた環境を大事に使って下さい。私は2回、ユーターンしました。1回はサラリーマンをしていた大阪から。そして2回目は教員をしていた佐賀から。50歳で教師を頓挫したとき、司法書士に挑戦しました。世間では先生、先生と呼ばれるのは、教師だけではないことを身を持って体験しました。教師ってのは、生徒がいて成り立つ、すなわち、学校では先生だけど、地域に帰れば先生って呼ばれる人は、議員だったり、弁護士であったり、医者であったりです。教師を先生と呼んでくれるのは、生徒諸君だけです。どこでも先生と呼ばれるかって言うと、意外に通用しないものです。妻と私と2人とも司法書士に挑戦、どちらも受験もせずに戦線離脱しました。1昨年、息子がその司法書士に合格して、飛びあがりました。私達夫婦と息子は同じ先生、プロ野球選手から司法書士になったという、元近鉄の投手・桧山泰浩から習った極めて珍しい例です。桧山投手は東筑高校から1985年にドラフト指名1位で近鉄に入団して結局、1軍では成績を残さないまま、6年でプロを辞めています。いかに世の中、狭いか、色んなところで色んな人と繋がっている。面白いものです。この10年はほぼ毎年、アパートを建ててきました。私は教師とアパート経営と、そして小説家を目指しています。直木賞を取るのが夢です。君たちと競争です。君たちは最年少にチャレンジ、私は最高齢にチャレンジ。今から、競争です。Thank you for listening. アロハ。』言いたか放題だ。こういう機会は2度とない。宗像高校で生徒960名、そして教員55名を前にして喋る機会はもうないだろう。これだけ、言いたい放題、自分の宣伝をした人はいないだろう。公言したからには、直木賞を取らねばならない。
2011年10月13日
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【筑前国・唐津街道赤間宿の研究者の必読書第2弾】『節婦お政』読解前書きこの『節婦お政』読解を書くきっかけは、宗像郡誌(一九三二年、一九四四年)と宗像市史(一九九九年)と節婦お政の佐屋峠の看板(二〇〇一年)、赤間須賀神社の案内板(二〇一一年)に誤りがある事だ。そして、宗像市や、関係者に問題点を指摘しても、改善の見通しが立たないから、ここに後世の為に誤りを書物にして残す事を決意した次第である。一番大きな誤りは、宗像市史の通史編第二巻の七四五頁と七四六頁の三点の誤りだ。近世の屋号に現れないものが列挙してある。鏝絵がいつ頃、赤間に伝播したのか、建築年数との絡みがない。昭和六十二年調査、旧宿場町・赤間(一)の二一頁の図「江戸末期の町並み復元図」が、故意にまたはミスで蛭子屋が恵比須屋に変えられている。平成の世の中になって、行政が出した出版物が故意もしくはミスで間違えましたで済まされる訳がない。市当局には、訂正と購入者への連絡をお願いしたが、そういうことをしない旨の正式回答を戴いた、平成十六年。平成二三年七月初めに再度お願いしたが、回答無し。よって、ここに書物として、万世に遺したく、その他諸処を記した。『節婦お政』読解の読み方としては、例えば福岡日日新聞の節婦お政を読んで、其の後は出光良治のコメントだけ読むという方法がある。神屋目鼻、青柳種麻呂、葛天民の話は重なる部分が相当あるので、サラサラと目を通すとか、上手に一読して頂きたい。宗像郡誌下編では、(4)葛天民と花房藤九郎の問答の後で一括して、コメントした。これ以外は各章ごとにコメントをした。宗像郡誌下編の初めに編者・伊東尾四郎が『節婦お政』傅として聞いたものを挙げている中で、吉田良春の『節婦阿政之傅』だけが、宗像郡誌には載っていない。故吉田良恭氏の子息に尋ねるも、遠戚ということで、全く不明であった。誰か、見つけ出して下さい。それ以外は、目に付く節婦お政関係の資料は、ここに収めたつもりである。新情報として、大庄屋永嶋半五郎の妻が恵比須屋出身だという事、悪党三人組の一人・蛭子屋卯助が結局蛭子屋の養子にはなっていないという事、大庄屋伊豆の後釜に蛭子屋出光卯右衛門、卯惣太親子が三年間勤め、次に石松伴蔵の時代になった事を出光系図その他で検証した。読者のご確認をお願いしたい。目次1、 福岡日日新聞(大正二年七月十一日~)の節婦お政 頁1 出光コメント 頁322、 宗像高等女学校編纂(昭和十三年)の節婦お政 頁37 出光コメント 頁423、 頼山陽の節女阿正傅(文政元年) 頁43 出光コメント 頁52 4、 昭和十九年宗像郡誌上編、編著者伊東尾四郎 頁五五〇~五五八 頁55 出光コメント 頁645、昭和七年宗像郡誌下編、編著者伊東尾四郎 節女政傅収録四〇九頁~ 頁78 1)青柳種麻呂の筑前国貞婦萬佐傅(享和元年) 頁79 2)葛天民の赤間節女傅(文化三年) 頁89 3)花房藤九郎の赤間節女傅下(文政元年) 頁97 4)葛天民と花房藤九郎の問答(文政元年) 頁102出光コメント 頁104 5)海妻甘蔵の己百齋筆語(明治時代)、出光コメント 頁107 6)渋沢栄一の諸々の回顧(昭和三年ごろ)、出光コメント 頁111 7)【山圍雜興】(年代不詳)、出光コメント 頁1156、赤間地区まちづくり協議会の『節婦政伝』(平成十三年)、出光コメント 頁1167、須賀神社前の「節婦阿政の碑」案内板(平成二十三年)、出光コメント 頁1218、永嶋源五郎「参宮日記」(文化十四年八月帰着)、出光コメント 頁1229、宗像郡誌について(平成三年『出光氏文』一三〇頁引用)、出光コメント 頁12610、出光系図と松尾系図に見る人間関係(今回書き下ろし) 頁12811、宗像市史について(今回書き下ろし) 頁136附録、 弘化五年作成の出光系図【推薦の言葉】 占部 玄海先生書き下ろし 最終頁\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\ima予約取りの真っ最中。10月17日まで予約受付中。10月末には印刷発行の運び。期待していてください。
2011年10月13日
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