うりぼうず

うりぼうず

現代史


 1945年に、近衛が早期和平を進言したときに動かなかった、昭和天皇。「米英に一泡吹かせねば、有利な講和に持っていけぬ」という理屈のために、結局、すべてが国体護持のために判断が遅れたことになる。中でも三種神器へのこだわり。あれはいったいなんだったのだろうか。
 太平洋戦の死者のうち、半数以上は、最後の半年で失われているわけだ。あの決断の遅れが、百万人単位の死者を生んでいるのだから。
 もちろん、対論を読んでも、この理由が明確になるわけではないが。
 大正天皇に対する、昭和天皇の想い、これは秩父宮や高松宮とは、かなり異なるものがあったようだが。とにかく、他の人間と、まっとうな会話をしたことがなかった、昭和天皇というキャラクターなしには、あの敗戦は語ることはできないだろう。
 それと同時に、現天皇について、もっと語られなければならないこともあるのでは。

 ★「南京事件」(笠原十九司、岩波新書)
 南京大虐殺はあったかどうか。どこから大虐殺というかはともかくとして、筆者は「あった」派。ワタシも、多分あった派。
 上海攻略作戦の苦戦によって、中国人に対する敵愾心が高まり、また、進撃する準備がほとんどないにもかかわらず、無理な進撃をすることによる軍紀の乱れ、また補給部隊をほとんど伴わないために、食料その他を現地調達(要するに、略奪)。虐殺がなどの状況が生まれるための条件はそろっていた。
 そもそも、日本軍に捕虜という観念は、ほとんどなかったのではないか。かろうじて、英米などにたいしては、捕虜という概念を当てはめた(それでも、泰緬鉄道やバターン死の行軍に見られるように、捕虜を養う能力もなければ、ノウハウもなし。さらに一般兵士らに国際法に関する知識も欠けていただろう。まして相手は中国軍。ほとんど対等の人間とはみていなかっただろう。
 そう、英米軍人を収容する捕虜収容所の話はよく聞く。では、中国兵を収容する所は?。聞いたことがない(まったくなかったわけではないだろうし、後に汪兆銘政権に引き取られたものもいるかもしれないが)。では、彼らがすぐに無罪放免になるのか。素直には考えられない。となれば、選択肢は非常に狭まってくる。
 二十万、三十万虐殺されたかどうかはわからないが、数万から十万人規模のものはあったのではないか。
 傍証として、戦勝の凱旋将軍であるはずの松井司令官が、事実上解任されたことも、日本側もこの事件処理を重視していたことを裏付けている。また、参謀の田中新一などが、軍紀の乱れについて、早くから警告していたのも、南京進軍の途中から、かなり目に余る行動が多かったことを裏付けているのではないだろうか。
 いくら70年近く前のこととは言え、サッカーの試合でブーイングを浴びた程度で日本側がいきり立つ程度のことではないはずだ。

 ★「日本が『神の国』だった時代~国民学校の教科書を読む」(入江曜子、岩波新書)
 「○○のオオサメニナル ワガ□□ハ世界中デ一番リッパナ国デス。○○ヲイタダイテイル □□国民ハ、ホントウニ シアワセデス」。
 こんな文章がそこら中に並んでいる教科書。今の人に聞けば、○○には将軍様、□□には朝鮮が入るとでも答えたくなるような文章。もちろん、○○は天皇陛下、□□は日本。
 考えてみると、北朝鮮の指導層には、この国民学校の教育を受けた連中がかなりの数を占めているのではないだろうか。もう、70歳ぐらいになっているだろうが。ここで、全体主義的な教育方法などを学んだのではないだろうか。そんなことを思わせる本だった。
 これらの教科書で教えた教師たちはが、そのまま戦後民主主義を教えたのだから。

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