外国人参政権に関する最高裁判例でも,そうであるが,
法律家の間では,
一般的には,傍論だろうがなんだろうが,
最高裁が示した記載の影響は,極めて大きい。
最高裁は,その事件に関する判断のみをする場合ではなく,
例えば,
高裁で別れていた判例を統一したり,
高裁段階しかなかった判例を覆したりして,
将来にも通用するような統一的な基準を打ち立てる場合もある。
専門として設立されたはずの
知財高裁合議判決が新たに示した基準でさえ,
基準としては破棄した事案もある。
そのため,傍論だから意味がないとか,傍論で許容説を述べているから許容説をとっていないという主張は,外国人参政権反対論者としての立場では弱いのではないかと思う。
最高裁判例は,変更されることもあり得るが,
しかし,前に述べたように,最高裁は,不可能的許容説,実質禁止説を採っていると解されるから,維持されていくことも,かなり,あり得ると思う。
(結論については大差がなくなる)
民事事件でも刑事事件でも,とにかく,最高裁は偉い!
新司法試験では,最高裁の射程とは違うと安易に言われる場合があるが,
事実として,結構違うんでない?
という場合でも,最高裁の基準が適用され,最高裁通りの結論が出る
場合も多い。
確定した最高裁判例がなく,高裁判例もなく,地裁判例も事例的なものであれば,ともかく(この場合は,どちらが学説の多数説か,他の判例に整合するか等が勝負となる),とにかく民事では判例が探し出せるかが勝負となる場合も多い(刑事は,最高裁や高裁ぐらいは偉いという感覚であろうか)。
確定した最高裁判例がない場合は,事実で戦うことになる。
事実が違えば,最高裁判例が前提とする事実とは異なり,評価が異なることもあり得る。
これは実際上はよくあり,似た事実でも,事案が異なり適切ではないという形で,異なる結論を採る場合もあり,諦めないことが肝心である。
勿論,苦しい戦いになるが,
よほど古い最高裁判例や事例的な最高裁判例でなければ,
最高裁判例を真っ向から否定する戦いだけに終始するのは,
あまりよくない戦法だと思う。
最高裁判例が,それまでの下級審とは,かなり違う傾向をとる場合もある。
例えば,最三小平成20年6月10日判決(平成19年(受)第569号,最高裁判所民事判例集62巻6号1488号)は,高金利のヤミ金に元本分の利得さえ認めず,返済した金額全額を認めた判例である。
従来は,たとえヤミ金でも元本は返さないといけないのでは
という判例がかなり多かったが,ヤミ金に対して極めて厳しい態度をとったのである。
このような判例の後の下級審判例は,
最高裁判例に素直に従うのもあるし,
そもそも公序良俗無効ではない等,最高裁の事例が前提 と
した
しない(H22.2.22削除・修正)
事実認定をして最高裁の適用を免れようとしたり,
そもそも,果敢に最高裁の適用される事案ではないとして新たな基準を打ち立てたり
するなど,一応下級審でも動揺が起こる。
(この判例は,まだ事例を余り確認できていない)
この事実認定で逃げるのは,下級審の常套手段である。
事実が違えば,適用される判例も全く異なることになる。
一般的には,民事で最も争い の
と(H22.2.22削除・修正)
事実関係である。
最高裁判例が適用されるのが有利ならば,それに持ち込めるような事実を主張立証していくことになるし,そうでなければ,その反対をすることになる。
法的評価自体の戦いというよりは,
条文,判例,主張立証責任等を見据えて,どこまで事実を持って行けるかという(持って行くという言葉は悪いが,見出す)
事実の争いが
重要と言うことになる。
ちなみに,司法試験では,学説が重要な位置を占めていて,最高裁の結論とは逆の基準が,試験通説になっている場合もある。
しかし,実際の裁判では,
学説は,判例に極めて劣る。
民事では,
最高裁判例,大審院判例
→高裁判例
→地裁判例
→簡裁判例
→ 注釈民法,我妻等伝統的教科書
の順に偉く(極めて主観であるが体感として),
最新の論文等は,よほどのことがない限り,
それより下位の扱いである。
予備校?なにそれ?
て感じである。
まるで判例がない場合は,有利なものはとにかく使え!
という感じになるが,
例えば,高裁判例が別れている場合に,
我妻先生は,こっちだ!
みたいに使うことが多い。
判例の言い回しについても勝手に改変する準備書面は,意外とよくみるが,止めた方がいい。
私の場合は,判例の文言をそのまま
「 」
で書き,後に評価を書く,
判例の文言を,事実的なものとして書くことが多い。
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