祝祭男の恋人

祝祭男の恋人

May 22, 2005
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カテゴリ: 小説をめぐる冒険

10

「この街が好きか?」と犬瀬が聞いた。その前の週のことだ。
「わからないな」と僕は答えた。僕の住む街を取材する数日前、犬瀬は僕に電話を掛けてきた。一度会って話をしないか、と犬瀬は言った。――取材のことでいろいろ相談もあるし。けれども何かもっと重大な話があるような口振りだった。我々は大学の近くのバーに入って何年振りかで酒をのんだ。もちろん僕はコーヒー、彼はボロ雑巾のようになるまで酔い潰れた。
「名古屋に帰りたいとは思わないか?」と犬瀬が言った。
「わからない。いずれはそうなるかも知れないけれど、――今のところは帰る気はないね」
「じゃあどうして、ここにいる?」
「君こそどうしてここにいる?」と僕は聞き返した。
「都会暮らしはすべからく先延ばしの生活さ、街は変わっていく、お前はそれを見て、変わったな、と思う。それだけだ。どこへも行かない」
「我々はどこから来て、そしてどこへ行くのか」と僕は言った。

「いや、違う。ちゃんと仕事をして、そして街を歩く」
「そう、仕事はしている。誰にだってできる仕事をな。そして電車の中で考える。一日八時間働いて一万五千円だ、時給にすると千八百円か、塾の講師も悪くないやってな」
「おい、ちょっと飲み過ぎだぜ」
「何故街を歩くのか、それは、いつでもどこにでも誰かがいるからだ。いつでもどこにでもお前の座る場所があって、すっと飲み物がでてくるからだ。そしてお前は眺めている。眺めているだけだ。でもね、それじゃ生きているうちには入らないよ」
「君の言いたいことはわかるよ。でも、僕も君もそうやって街の中で生きている。一つの都市にすっぽり飲み込まれている。いろんな人間がいる。好きなやつもいれば嫌いなやつもいるし、いろんなことが起こる。喜びも悲しみも含めてね、何だって起こるよ。都会だから田舎だからって違いなんかないかも知れない。でも、いや、何だろうな、うまく言えないよ、とにかく、街は幻じゃないってことだよ」と僕は言った。犬瀬は僕の言葉に頷くでもなく首を横に振るでもなく、黙って僕の目を見ていた。そして言った。
「いいかい?俺はいなくなるよ」


 塩野健の告白に耳を澄ましている慶子と玉をよそに、僕はその夜の会話を一つ一つ思い出していった。そしていろんなことをうまく説明できなかったことを知った。いつだってそうだ。うまく説明できた試しがない。僕はいつも、自分が今吐いた言葉でさえも、自分が理解の一歩手前で立ち止まっているような感覚を覚える。犬瀬はいなくなると言った。そのとき、一体それがどういう意味なのか僕にはよく解らなかった。

         ★

 ――去年の秋に話を戻そう。

「僕ね、灰になりたいんです」
僕は塩野健のその言葉で不意に病院の待合室という現実に引き戻された。灰になりたい?僕はもう一度聞き返した。

「まあ、慶子さんは無理だとは言わないんスけどね」オーケー。慶子という名前の人間だって東京には数え切れないくらいいる。僕は何も答えなかった。
「僕、慶子さんと付き合ってます」と塩野健は言った。それでも、僕は何も答えなかった。
「あれ、驚かないんですね、もしかして知ってました?」僕は首を振った。そんなこと知るわけがなかった。むしろ、慶子――丸山慶子は、東京を離れたとばっかり考えていたのだ。といってもこれといった理由を知っているわけではなかった。とにかく、僕と慶子は一年以上音信不通だった。僕は自分が何か面倒な出来事に巻き込まれているような気がした。僕は、犬瀬と慶子が時々二人だけで会っていることを何となくだが知っていた。もちろん、僕だって玉と二人だけで会うことはある。犬瀬とだって二人だけで会う。けれども、犬瀬が玉と二人だけで会うことはなかったし、僕が慶子と二人だけで会うということはなかった。だからといって、何か一般的な法則が導き出せるわけではないけれど、それが長い時間を掛けて我々が作り上げてきた、互いの距離感というものだった。それは恐らく更に長い時間が経過しても変わることのない距離感のように思えたし、出来ればそっとしておいて、長い時間が過ぎ去ったあとで一つの達成のようにして振り返るべきものだとさえ考えていたのだった。
「腹減りませんか?どこかで食事しましょう、ね?ちょっと打ち明けたいことがあるんです。大丈夫、記者会見が始まる前には戻って来ることにしましょうよ。僕だって気になる、ね?そうしましょ」

 人気のない廊下を歩き、食堂という矢印に従って薄暗い階段を降りていくと、「本日休業」という立て札にぶつかった。日曜日の朝八時には病院の食堂なんて開いているわけがないのだ。我々は誰もいない廊下を引き返し、病院の向かい側にある二十四時間営業のファミリーレストランへ行った。僕は病院から離れたくなかった。しかし、日曜日の病院食堂は鬱病を抱えた真っ白な廃墟のように抜け殻だった。




「僕の家の近くにもこの系列のファミレスができたんスよ、たった一軒国道沿いにぽつんとね。他には何もありゃしません、駅前にはコンビニもないんです。駅の前後は一面枯れ草の生えた湿地帯でね、海が近いんスけどそのあたりまでずうっとセメント工場と大きな円筒形の発電所が並んでるんです。廃墟というにはあんまりあっけらかんとしてるというか、無人の荒廃地帯っていうか、小学校三年生の時に親父の仕事の関係でその地区に越して来たんスけどね。まあ八歳か九歳の頃からそんな風景を見て育ってきたんだから悪く言う気はないっスよ、でもねえ、僕はほんとびっくりしましたよ、僕がそれまで生まれ育ったのは長崎でしたからね、まだまだ、子どもでも潜れるような海が近所にあったもんスよ。(すごい、と僕は言った)でもその地区ときたら、確かに東京の周縁都市として幾らか首都が身近になった気はしましたけどね、どう考えても人間が暮らすような場所じゃなかった。転校してきた当時は毎晩布団の中で、それこそ文字通りぶるぶる震えてましたよ。戦没者の名前を刻んだ慰霊碑みたいに味気なくて馬鹿でっかい団地に住んでましてね、こうっと七階の窓からその地区が見渡せるんスよ、そりゃあもう酷いもんで。焼け焦げたような陸橋が多すぎるくらいにあって、夏は嫌な臭いのするタイヤのスクラップの山が湿地帯の中にぽつんぽつんとね。そして遠くの方にぼうっとセメントで固められた港が見えるんです。もの凄い皮膚病で瀕死状態に陥った灰色の犬って感じっスね、まともな樹なんて一本も生えちゃいませんよ。表面だけじゃない、地下の奥底がいかれちまってるんです。でも、それから小中高とその地区から出ることができなかった。カモメの死体と身元不明の浮浪者の死体がやたらに多い嫌なところからね。そういうところで少年時代を送った人間がそのあとどんな人間になるか、川本さん、あなた想像が付きますか?」
 その時僕は何も思いつかなかった。どうして見知らぬ人間にいきなりこんな話をされなければならないのか。僕は急に味のしなくなったサンドイッチを途中で皿に戻し、口の中にある分はコーヒーで流し込み、あとは味のない煙草を吸いながら、窓の外に見える病院の窓の数を数えていた。


                       つづく





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Last updated  May 22, 2005 12:33:22 AM コメントを書く
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