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南鍛冶町(みなみかじまち)は仙台から江戸に向かう奥州街道沿いに位置する町。この辺りは空襲の被害を逃れ、昔の道筋は今も残っている。住居表示の波にも抗い、今も住所は南鍛冶町◯番地のまま地番が使われている。南鍛冶町は旧奥州街道を挟んだ、いわゆる両側町になっている。沿道に鍛冶職衆がいたような名残りは見つけられなかったが、道の突き当りに火の神といわれる古い神社(三宝荒神社)があった。辻標73番「三百人町/南鍛冶町」は南鍛冶町を次のように説明している。・奥州街道沿いの荒町と穀町との間の町。・米沢以来の鍛冶職衆の町であるのが名の由来。・仙台開府当初、鍛冶職衆は元鍛冶町に配置されたが、寛永五〜十一年(1628−34)同地が侍屋敷とされたため、南と北の鍛冶町に移った。・町の守護神三宝荒神社は元和年間(1615−24)の創建といい、早くから鍛冶職衆が住んでいたとも考えられる。辻標73番「三百人町/南鍛冶町」そして、辻標に書かれている三宝荒神社の境内で、次のような説明を見つけた。・三宝荒神・今も民間で広く信仰されている日本特有の仏教における信仰の対象である。・三宝とは〔仏・法・僧〕の三宝を守護するといわれる。・その一つ「仏」はすなわち本尊である。・「法」は仏の教え、「僧」は仏の教えを広め奉じる僧である。三宝を守る守護神と言われている。・屋内の竈〔かまど〕や台所に祀られ、火の神、火伏の神として深く信仰されてまいりました。・中世「平安時代」以降に神仏習合によって発生し、修験者や陰陽師等の民間宗教家によって広められた神であると考えられております。(中略)・三宝荒神は近畿地方を中心に全国に300社あるといわれますが、東北には少なく貴重な壱社といわれております。(後略)・宗教法人 三宝荒神神社の説明文には直接的に鍛冶職衆との関わりは記されていないが、火の神、火伏の神であることをもって鍛冶職衆の信仰を集めていたということかな、と思った。
August 29, 2025
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物心ついた頃から大好きだった野球は、もう何年も観るだけのものになっている。だけど、グラウンドレベルで、とりわけフェアゾーンで感じる野球の迫力は、観客席からではどうしても感じられない。そこが野球をやらなくなってからの不満…。もう選手には戻れないけど、せめて頭の中だけはもう一度プレーヤー側に寄せてみたい。気持ちだけでもグラウンドに立っていたい。そう思いながら、副題に「指導者に明かす野球の本質」とある現場向けのこの本を読んだ。著者は往年の3冠王、落合博満さん。社会人野球の監督たちが抱える疑問に答える形で書かれている。読み終えて、史上最強のプロ野球選手のひとりである落合さんが、社会人野球そしてアマチュア野球の発展にも目配りをしていることが伝わってきた。落合さん自身が社会人野球経験者ということもあると思うが、野球界の裾野の広がりと、アマチュア野球のレベルの底上げの上にプロ野球の発展がある、と落合さんは考えているように感じた。この本からはもうひとつ、野球の指導者のレベルの激しいバラツキは、社会人野球ほどの高いレベルでも課題になっていることも推察できた。親ガチャ、ではなく監督ガチャ問題の解消に向けては、審判に講習会があるように、指導者にも資格のようなものがあれば一助になるのだろうか。余談になるが、落合選手がプロ入り当初、ショートを守っていたことは今まで知らなかった。余り想像ができない…。
August 24, 2025
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皇居のお堀と日本橋川の間、商社丸紅のビルの敷地内に、「一橋徳川家屋敷跡」が残されていた。日本橋川に架かる橋の名前は「一ツ橋」。この橋の近くに屋敷があったことが一橋徳川家の名前の由来とのこと。橋の近くには石垣「一橋門跡」もあった。一ツ橋も一橋門も、どちらも首都高の高架下にあって、まったく目立たない。それが少し寂しいところだった。それはそうと、この一橋門の内側の広大な敷地に、一橋徳川家屋敷があったそうだ。石柱が建っているこの場所は、お屋敷のほんの一部に過ぎない、と思われる。巨大なビルのふもとにあるこの場所、決して広くはないけど、しっかりと歴史を感じさせる空間になっていた。石柱の隣にはこんな説明があった。「一橋徳川家は、寛保元年(1741年)徳川八大将軍吉宗の第四子宗尹(むねただ)が江戸城一橋門内に屋敷を与えられたことがはじまりである。 一橋家・田安家・清水家は御三卿(ごさんきょう)と呼ばれ、御三卿は将軍家に世継ぎがなく、御三家(尾張・紀伊・水戸)にも将軍となりうる該当者がいない場合に将軍を送り込める家柄で、十万石の格式をもち、直属の家臣団を持たず、将軍家の身内として待遇された。 当家は、二世治済(はるさだ)の長男家斉(いえなり)が十一代将軍となり、水戸家より入った一橋九世が徳川最後の十五代将軍慶喜(よしのぶ)であり、御三卿の中でも幕政に深く関わった。(後略)」十万石の格式をもち、家臣団はいない…というと、一橋徳川家は普段はどんなお仕事をしていたのだろうか…??という疑問がフツフツと湧いてきた。そのうち調べてみようと思う。ちなみに、一ツ橋は徳川家が江戸城に入った頃には既に架けられていて、大きな丸木が一本だけの橋だったので「一ツ橋」の名になったと言われている。寛永六年(1629)に一橋門が築造され、その内側に一橋徳川家の屋敷ができたのは元文五年(1740)。現存するわずかの石垣を残して一橋門が撤去されたのは明治六年(1873)のこと。(以上、千代田区HP「千代田区の文化財」より)皇居の平川門。振り返ると屋敷跡のある丸紅のビルがあった。
August 19, 2025
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強い日差しの中、盛岡駅前の木伏緑地を歩いていると、遊歩道に背を向けるように石川啄木の歌碑が建っていた。かの時に言ひそびれたる大切の言葉は今も胸に残れど 啄木この句は啄木の歌集「一握の砂」に収められていて、北海道で出会った女性に対する想いを込めた句らしい。そう言えば…札幌の大通公園にも啄木の歌碑が建っていた。そして、上野駅構内の線路の行き止まりに建つ「ふるさとの訛懐かし…」の歌碑も頭に浮かんだ。旅に出ると、ふとしたタイミングで石川啄木の歌碑を目にし、場所によってその頻度は松尾芭蕉にも匹敵するようにも感じる。啄木はいったいどんな人だったのだろう、と思い、彼について書かれた本を探した。見つけた本「石川啄木と宮沢賢治の人間学」は、二人に関する資料を丁寧に集め、啄木と賢治の人生をコンパクトに紹介していた。ぼんやりと知ってはいたことではあるものの、二人の人生の短さには、やはり衝撃を受ける。啄木の人生はわずか26年。賢治もたった37年。そして二人が今のような社会的名声を得たのは、どちらも死後のこと。歌人として、あるいは作家として、職業と言えるほどの収入を得ることはかなわず、とりわけ啄木は生活苦に喘ぎ、借金を重ねる暮らしぶりだったようだ。有名になりたい…と願う心は、子どもの頃にはきっと誰もが持っているものだと思う。けれど年齢を重ねるにつれ、満たされないその心はしばしば妬みへと変わり、妬みは周囲を不快にし、世の中を不快にし、自分の心も不快にしていく。ほとんどの場合は…。だけど啄木も賢治も、妬みに変わる暇もなく逝ってしまったのではないか。そもそも彼らの才能からすると誰も妬む必要はなかったと思うけど…。生きているうちに名声を得て欲しかったな、と思った。
August 14, 2025
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早朝、盛岡の街なかを歩いた。駅近くのホテルを出て開運橋を渡ると、北上川の向こうに朝日に照らされた岩手山が見えた。北上川と岩手山が産み出す盛岡の風景、いつ来ても美しいと思う。開運橋のたもとに橋の説明板があり、そこに宮沢賢治の句もあった。そら高く開うんばしのせともののらむぷゆかしき冬をもたらす 宮沢賢治開運橋
August 9, 2025
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アガサ・クリスティーを読むのはこれが3冊目。今回の「ビッグ4」は名探偵ポワロが登場するバージョンだった。本のコピーライトが1927年となっているこの小説の中に「日本をおそった大地震」という記述を見つけた(5.若い科学者の失踪)。これはきっと1923年の関東大震災のことだろうと思った。1923年は和暦にすると大正12年。ずいぶん昔だ…ほぼ100年前のイギリスを舞台にこの小説は書かれたことになる。なのに古さを感じないところはすごい、と思った。大正時代の日本の文壇では、与謝野晶子、永井荷風、志賀直哉、武者小路実篤、芥川龍之介といった作家たちが活躍していて、日本の文豪たちの作品からは今の時代とは明らかに違う古き良き日本の風景が浮かんでくる。その時代感を「ビッグ4」からはあまり感じることがなかった。むしろ、今も昔も、人が考えることや、やっていることはぜんぜん変わっていなくて、「物事がますます複雑化、高度化している現在…」みたいなことを訳知り顔に語る人は、今だけじゃなくて大正時代にも、そしておそらく平安時代にもいたはずだ、と改めて思った。この作品には「クリスティー文庫4」と番号が振ってある。4ということはアガサ・クリスティの初期の著作なのだろう。読んでみると、ハリウッド映画ばりに危機一髪の場面が散りばめられていて、一方で、いつもポアロと行動を伴にしているヘイスティングズとポアロのやり取りには、のび太とドラえもんの会話に通じる微笑ましさを感じた。この作品は、アガサ・クリスティの筆が成熟していく過程、そしてポアロとヘイスティングズの人となりが完成していく過程の一作なのかもしれない。次の一作を読む意欲がそそられた。
August 4, 2025
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