今ここが幸せ!
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アーシュラ・K・ル=グウィンの小説『ゲド戦記』(主に第3巻の「さいはての島へ」)を原作としたスタジオジブリ制作、宮崎吾朗監督・脚本のアニメ映画をテレビで観ました。『ゲド戦記 (通常版 DVD) ●ジブリグッズプレゼント●』 感想は、一アニメ映画としてみたら、まあ観られるけどそれだけという感じ。それも絵の美しさや音楽に助けられて。 でも、アーシュラ・K・ル=グウィンの小説『ゲド戦記』を原作として、『ゲド戦記』というタイトルの映画としてみたら、最低の映画というのが素直な感想です。 参考に:佐藤弘弥さんの『映画批評 アニメ「ゲド戦記」』 ル=グウィンが「私の本ではない。吾朗の映画だ」と不満をもらしたと言われるも納得できます。 『ゲド戦記』と銘打つ以上、ユングの心理学をはずしては問題にならないでしょう。マンガユング深層心理学入門ユングの心理学手にとるようにユング心理学がわかる本 映画では、『光と影』の扱いがめちゃくちゃ。アレンの分離した影を他人にも見える幽体かなにかのように扱っているのもいまいちですが、それ以上に、分離した影が良い部分のように扱われているのがまったく納得がいません。 アレンが不安にさいなまれて、闇が大きくなって、本来は心の“光”であったアレンの分身が“影”となってアレンの元を去ってしまう。という理屈らしい。 だが、これはユングの光と影の概念とまったく別物です。 おそらく、ル=グウィンには、『物語を通じてユングの心理学を知ってもらい、多くの人に光と影の融合を果たしてもらいたい』というような意図もあるように私は思っているのですが、そうだとしたら、こんな取り扱いは、ル=グウィンの意図、作品を冒涜する以外のなにものでもないということになります。 私は、ストーリーの改変や映画のでき云々よりも、その基本を無視した宮崎吾朗氏の考えをまったく理解できません。 ユングのいうシャドウ(影)とは、個人において生きてこなかったもうひとつの側面であり、意識にとって許容できない自分の暗黒面のこと。 ヒカリズム的にいうと、光とは、社会の要請によって強制させられている従うべき正しさのことです。影とは、その正しさに光を当てたことで、間違いや悪と判断された光の対極にあるもののことです。 正しさ(光)を絶対視すると、ものごとを別の面から見る(光の当て方を変える)ということができず、固定的に否定すべきことや状態が生まれます。 しかし、すべてにおいて完璧に正しい人などいませんから、その結果、様々な受入れがたい心の傷(良心の呵責等)や、弱い心(憎しみや傲慢等)りや不安、劣等感や恐怖、未熟さなど、結果的に自分を害するものが生まれます。 しかし、それはあるひとつの面から光を当てて生じた正しさを絶対視したがために、『こうあるべき』という完璧主義がその正しさに従うことを強迫するために、その人が心を責めることで生じる思いです。 しかしシャドウ(影)を否定することは自分自身を否定することであり、潜在的な可能性を捨て去ることになります。自分の中のシャドウ(影)と向き合い、融合することが、個性的な自己の確立に繋がるのです。 そして、影を融合するということは、愛をもってあるがままを受け容れるということですから、他者のあるがままを認めることができるようになるのです。 映画の中で、映画のテーマの象徴的としてテルーが言った言葉があります。「命を大切にしないやつなんて大嫌いだ」そして、「一番大切なものは命だ」「誰かに生かされた命」とも言っています。 この死生観は、悟っていない二極化思考のままの坊さんがよく言う間違った仏教的な死生観です。 本当に大切なのは、自分の思いを現実化するということです。そのための手段として生きることが必要なのです、 自分のしたいことをシャドウ(影)として闇に葬ってしまった人は、生きる意欲を失ってしまいます。一番大切なものを手放してしまったから、その一番大切なものを実現する手段としての生を粗末にしてしまうのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 13, 2008
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